ひぐらしのなく頃に 推理メモ(全編ネタバレあり注意)

2005.2.2.wed  目明し編感想

 ……やるせなくて泣く、という感覚を久しぶりに味わいました。

 いやホント、プレイ中はちょっと入れ込みすぎてしまい(あるいは嫌悪感が高ぶりすぎて)大変でした。
 シナリオの開始当初から、もうちょっと詩音には他者への共感とか思いやりを持って欲しいなあ、と思わないでもなく、全編を通してしばしば見られる、魅音のことを心の内で馬鹿にするところや、沙都子に対しうっぷんをぶつけるところなどは、かなりの嫌悪があったことも確かなんですが、そのへんも、詩音の存在の根本的な悲しさを考えると、誰を責めるわけにもいかないだろうなあ、としか思えなくなりました。

 惨劇を繰り返した詩音(ここでいう詩音とは、基本的に刺青の無い方を指します)が最後に残した言葉……「うまれてきて ごめんなさい」というのは、単に自分の犯した殺人についての謝罪というだけでなく、そもそも自分の存在自体が、この世に生まれてくるべきではなかった――という部分から来るものなわけで。……あまりにも悲しい台詞でした。本当は、あのお魎にさえ、許されていたはずだったのに。愛されていたはずなのに。

 詩音について、俺が一番悲しいと思ったのは、沙都子という、直接会ったこともないどころか、そもそも知り合うことさえ出来なかった存在を憎んでしまったこと。こういうことって、現実にもよくありますよね。特にネットとかで。……自分にとって遠い存在の身の上話を知り、それに入れ込んでいるうち、その存在を苦しめている、自分とはまったく関係ないはずの人に対して、悪意を抱いてしまうこと。

 そういう類の憎悪って、非常に怖いです。怖いだけでなく、とても悲しい悪意。なぜならそれは、その人の事情をよく知らないままに抱いてしまう悪意だからです。その人なりの仕方ない事情とか全く考慮せずに、純粋な「敵」になってしまうのって、俺は非常に怖いことだと思います。
 たとえば、この悟史に依存する沙都子の場合ならば、この兄妹の側にいて、彼らの事情を良く知っている友達ならば、確かに沙都子の態度が悟史の負担になっていることは確かだけど、とてもそれを直に責めたりなじったりはできないと思うんですよ。詩音だって、沙都子の側に居ることが許されたなら、あんな一方的な悪意は抱かなかったはず。
 あの兄妹についての、実感のともなった現状の把握はもちろん、沙都子が本当はどれだけいい子なのかということも、詩音は知ることができなかった。知ることさえ許されなかった。

 だから、そこからドミノ倒しみたいに生じてしまった、綿流し編の裏側の悲劇も、全部仕方の無かったこと……とまでは言いません。いくら仕方なくとも、俺は詩音の凶行に割と本気で腹を立てましたし。ただ、これは推理の粋を出ないのですが、この詩音の凶行が、裏で何らかの存在によって背中を押されていたという可能性もありますし、やはり相当詩音の存在には入れ込みがあるので、結局は誰を憎むこともできず、ただひたすらやるせない気持ちになったわけです。

 このひたすら救いのない話で一番輝いていたのは、拷問されて殺されても、自分の「もう兄に頼らない」の信念を貫き通した沙都子なのだから、詩音にとっては皮肉という他ありません。
 そして、その後の圭一の、「これぞ主役!」と喝采したくなるようなかっこいい台詞で、ほんの少しでも詩音は救われたかな、と願わずにはいられません。綿流し編で、プレイヤー視点だったときにはここまでかっこよくは感じなかったのですが、詩音の立場になってみると、あの圭一の叫びって、本当にカッコいいものだったんだと痛感しました。

 この、どうしようもない状況の中で、もしかしたら幸せな未来をつかめたかもしれない選択肢――悟史の残した言葉に従って、沙都子の面倒を見てあげる――を詩音が選ぶことは、難しかったと思います。きっかけがないですから。沙都子という存在に対して、「悟史くんを苦しめる要因」という以上の認識がないわけですから。
 でももし、詩音がもう少し自由な身の上で、人間としての沙都子を知ることができていたなら……。もちろん、いきなり仲良くなんてなれるわけがない。きっと、ケンカどころか、半ばイジメみたいなことにもなったかも知れない。でも、たとえいがみ合ってばかりでも、直接会うこともないまま憎むよりは――もっと違う何かがあったのではないか……と思うんですよ。
 しかし、そういう他者への共感を育むには……詩音の世界には、拠り所が少なすぎた。自分に余裕が無い限り――もしくは、余裕がなくとも耐えられる強さが無い限り――人間は他人への共感を育めないですから。

 だから……詩音が最後に見たあの幻は、たまらないほど切なかったです。もしかしたら望めたかもしれない……けれど、やっぱり望むには遠すぎた、幸せな未来。

 そして、こういう悲しい気持ちを抱くたびに、この物語の真実を知りたいという思いが強くなるわけです。
 次には、感想だけでなく、推理などをアップしたいところ。問題は、あの「足音」モードが、ナチュラルなものなのか、それとも何者かの手によるものなのかなんですが……。

ひぐらし推理メモ その1

そもそも「祟り」って何なんだろう、とふと思う。

 ゲームを一通りプレイして、何度か再プレイしてみて思ったこととして、一つ。

 オヤシロ様の「祟り」とは、誰かが「死んでしまう」ことではなく、誰かが人を「殺してしまう」ことなのではないだろうか。
 つまり、「祟り」にあった人というのは、殺された側ではなく、むしろ殺した側の人のことを指しているのだ。たとえば、鬼隠し編・親祟り編における圭一のような――

 その「祟り」状態の明確な定義と、それが発生する原因についてはまだよく分からない。ただ、その「祟り」状態の人こそが、本作中において「鬼」と称される存在なのではないかと思われる。

 「祟り」にあった人が、「鬼」となり……人を殺すのか。
 あるいは――人が、人を殺すような「鬼」になってしまうことが、「祟り」なのか。

 過去の連続殺人事件では、いずれの事件でも、一人が死んで、一人が消えている。だが、それらのどの事件においても、「消えた人」が、殺人犯でもあるという可能性はありうる。少なくとも、それを否定する材料はない。彼らはもしかしたら、「祟り」にあって「鬼」となり……そして、「隠れて」しまった――「鬼隠し」にあってしまったのでは?。

 つまり、「鬼隠し」とは、「鬼」が人を隠すのではなく……むしろ、「鬼」になってしまった者が隠れてしまうことなのではないだろうか?

 「祟り」とはすなわち、人を殺す「鬼」が生まれるということを指す。だが、この説明ではあまりに抽象的すぎる。「鬼」になる――すなわち、何者かを殺したくなるのには、いくつかの原因・条件があると思われる。
 それは、ごく一般的な殺人動機(怨恨・自己防衛など)の他に、その背を後押しするための状況要因(「毎年人が死ぬ」綿流し祭りの夜・極度の疑心暗鬼など)と、更にもうひとつ……未だ謎に包まれている何らかの要素。それらが揃ってしまった人の元に、「祟り」は訪れるのだろう。

 御三家は、その「鬼」を制御する、何らかの方法を持っていると思われる。
 鬼隠し編で、レナと魅音が圭一に打とうとした注射器。綿流し編で、梨花の死体が持っていた(魅音に打つつもりだった?)注射器。……これらがその方法なのだろうか。
 そして、その注射器の中身には、医者である監督が深く関わっているのではないか? 監督は、鬼隠し編で圭一の家に呼ばれている。しかも、その身に「鬼」を宿しているであろう、園崎現当主・お魎の主治医的存在でもあったのだ。

 園崎を継ぐ者には、「鬼」が宿っている。「祟り」の一部をその身に有していると言い換えることもできる。鬼ヶ淵の人々は代々その力――「鬼」をもって「鬼」を制してきたのではないだろうか。それが具体的にどういうことなのか、詳細は不明だが。
 では、園崎の当主が宿す「鬼」は、いわゆる「祟り」による「鬼」とどう違うのか?
 園崎の「鬼」は、「鬼」を多重人格のようなものとして心の内に押し込めることで、普段は表に出ないように封じているのではないだろうか。その推測は、園崎家で双子が忌避されることの説明にもなる。双子同士では、互いの意識が共有してしまうことなどがあり、片方の内に秘めた「鬼」が不安定になるのでは?(綿流し編では、まさにその通りの悲劇が生じた)

 まあ、そのあたりはともかく。

  ・「祟り」とは、人が死ぬことではなく、人が人を殺してしまうこと。
  ・「鬼隠し」とは、鬼が人を隠すのではなく、鬼自身が隠れてしまうこと。

 自分は特に、この2点の推論を前提にして推理を進めている。