インド ジャンムーカシミール州 ラダック2010

1日目(8月08日) 1.日本脱出
前夜は上野駅前で宿泊し、ヨーロッパ旅行の相棒に見送られて新生スカイライナーで成田空港に向かう。
この列車は専用の新線を利用し、京成上野からJALのカウンターがある空港第二までを41分で走破!
今回はまったく必要がなかったが、興味深かったので、運賃込み2,400円をはたいて乗ってみた。

さして速度感はないが、確かに41分で到着。
これくらいなら、都心から異常に遠い空港と嘆かなくても良くなったかもしれない。
ただ、、、8月8日9時40分発という、利用者が多そうな列車だったのに、かなりガラガラだったのが気がかり。

空港もガラガラ。 本当に、長期連休の二日目の日曜日なのかいな?
チェックインを済ませた後、第一ターミナルに存在すると思われるジェット・エアウェイズの電話番号を求めて、インフォメーションセンターに尋ねてみたが、
成田空港ではコードシェア便のチェックインカウンターがあるのみとのことで、要領を得なかった。
実は明日、デリーからラダック地方のレーに飛ぶチケットを入手しているのだが、8月6日の洪水で、レーの空港が閉鎖されたという情報があり、
その仔細を求めたかったのだ。 結局、インドに入ってから戦うしかなさそうである。
 
2.JAL プレミアムエコノミー
今回は、JALが欧米線に加えインド線にも導入した、プレミアム・エコノミーシートでのフライトである♪
それもマイルを活用し、タダで手にした航空券!
特に贅沢をしたかった訳ではないが、マイル枠だとエコノミーがキャンセル待ちになる様だったので、少し多めにマイルを注ぎこむことによって、
早くフライトを確定させることにしたのだ。

プレミアム・エコノミーシートは、概ね「N700系のぞみ」のグリーン席と同程度のリラックス感かもしれない。
隣席との間隔やシートの倒れ具合は近く、フットレストの分だけ、プレエコ席に軍配が上がる感じか?
エコノミー席と比較しての大きな利点として、後ろの人に気兼ねすることなくシートを倒せることも挙げられる。
シートが二重構造になっていて、リクライニングをしても後ろに影響が出ないのだ。
ビジネスシートとは比較にならないが、私なら、このシートだったら12時間でも苦にならない。(実はエコノミー席でも平気だが)

プレエコは、あくまでもエコノミーの一種なので、食事はエコノミーと同じ内容である(ようだった)。
定刻通りに出発し、飛行は順調だったが、予想外に南側をフライトした。
昨今のルートは、概ね、地球の大円に沿うものだと思っていたので、成田/デリー直行便なら北陸から日本海に抜け、西安からラサ上空あたりを飛行して、
ヒマラヤ山脈を見下ろしながらデリーに潜入するものだと思っていたのだが、
瀬戸内海を経て九州北部から日本を脱出し、上海からダッカ近くの上空を抜けてデリーを目指すルートを飛んでいた。

昼の飛行なので、寝るのはやめて、映画を観賞。 今まで見そびれていた「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」と、何度見たか判らない「マトリックス(1)」。
2回の食事と2本の映画で、8時間30分のフライトは退屈せずに過ぎて行く。

定刻17時30分到着のところ途中まで16時50分到着予定となっていて喜んだのだが、途中から17時10分予定に修正され、17時12分に着陸したものの、
結局、機外に出れたのは、ほぼ17時30分だった。(予定通りやん!)

3.デリー突入
大した金額を換金しないので、早々にインドルピーを空港でゲット。税関検査手前の一番手っ取り早い所で、¥20,000→Re9,650だった。
この後は、USDからルピーへの換金しかしなかったので、他との比較はできず。
一枚の500ルピー札の縁が、3mmほど欠けていたので交換を申し入れる。ここインドでは、欠損のある札は誰も受け取ってくれないのだ!
10ルピー札くらいなら、セロテープで補修しているものでも通用するが、50ルピー札あたりから神経質になってきて、500ルピー札だと綺麗なものしか
受け取らないようにしておいた方が良い。

空港では、悪評高いプリペイドタクシーを利用した。空港内のカウンターで、「ニューデリー鉄道駅まで」と申し出てRe310を支払う。
この価格は、概ね良心的だと言えよう。指定された乗り場で、車に乗り込む。

タクシー運転手は、やはりウザかった。
聞き取りにくいイングリッシュならぬインドリッシュで早口にまくしたて、「インドは初めてか?」「ホテルはどこだ?」「明日からの予定は決まっているのか?」
などと矢継ぎ早に聞いてくる。 ここで迂闊な対応をすると、妙な旅行代理店に連れ込まれてヒドイ目に遭うというのが、お定まりの観光コースだ。
私は適当に、「時々来ている」(ウソではない)、「駅の近くのホテルを予約している」(これもホント)、
「明日はすぐに飛行機でデリーを離れる」(これまた事実だが、『レーに行く』と言えば『洪水で飛行機は飛ばない』と言われるのが目に見えている)とだけ、
きっぱりと伝えて、あとは英語が判らないふりをし、日本語で電話をかけるふりをした。

運ちゃんはそれでもしゃべりまくり、乱暴なデリーの中でも目立って危険・強引な運転をし、日本人をからかうような歌を歌い、途中からチップをねだり始めた。
チップを払わない事を明言して変なところで下ろされても、これまたかなわないので、やはり理解が出来ていないふりをしてやり過ごし、
ニューデリー駅の表示が見えたところで、「ここでいい」「チップは不要」と言い捨てて車を後にした。
交通量が激しい所なので車を置いて追いかけてくる心配はない。 (いや、デリー人なら、やりかねないか。。。)

4.ホテルボルボ
運ちゃんに話したように、駅から徒歩5分くらいのところに、旅行代理店を通して、3500円(代理店の手数料込み)くらいのホテルを予約していた。

非常に、、、ひどかった。
私はこれまで海外で100か所以上のホテルに泊っているが、最低レベルだったと言っても間違いはない。
レセプションは、概ねまとも。 フレンドリー(少し馴れ馴れしい?)なオヤジが対応したが、時間が随分とかかったほかに不満はない。
部屋が決まり、ボーイに付いて3階に上がると「鍵が空いていない」(あたりまえじゃないか!)と言って、部屋の鍵を取りに戻った。
その間に別のスタッフがくっついてくる。
鍵を持ったボーイが戻り、三人で部屋に入ると、前の客が使ったまま。 それも盛大に汚している。
シーツはしみだらけ。 毛布とバスタオルは湿ってグチャグチャのまま丸まっている。
ゴミ箱はあふれかえり、さほど多くはないが部屋にもゴミが散乱している。
石鹸はなく、シャワー室にもペットボトルが転がっている。
ボーイは悪びれた様子もなく、「この部屋だ」という。
ここで怒っても仕方がないので、先に挙げたダメな点をすべて指摘すると、別のところからバスタオルを持ってきて(これもさほど綺麗ではない)、
「50ルピーくれ」という。

私は、一つ大きく息を吸い込み、押し殺した声で、もう一度ダメなところを伝えた。
多分、殺気を含んだ怒気は万国共通語だと思うので、それを最大出力で発出した。
ボーイは部屋を片付け、ゴミを外に出し、別のスタッフを呼んで床を掃除させ、石鹸とシーツを運びこみ、毛布をたたみ直した(交換しないのかい?)。
これでも、今までの最低クラスからは脱け出さないが、眠るだけなら妥協できる状態になったのでスタッフを追い出した。 もちろん、チップは出ない。

ニューデリー駅周辺で(有るのか無いのか不明ではあるが)ジェット・エアウェイズのオフィスを探し、明日のフライト状況を確認しようと目論んでいたのだが、
遅いチェックイン作業と、この一件で一時間近くを不毛に費やし、そのチャンスを逃してしまったのだ。
明朝、とりあえず国内線空港に行くしか無かろう。
少し外出して駅前の混乱ぶりを探索した後フロントに、明日は4時半にチェックアウトをすることと、その時間にタクシーが必要な事を告げておいた。
2日目(8月09日) 1.インディラガンジー空港の朝
激しくひどいホテルだったが、昨夜依頼しておいたタクシーはキチンと手配してくれた。
4時半出発と言っておいたのだが、3時50分に最初の電話がかかってきて、「10分くらいで下りて行く」と告げたら、こんどは4時に再びの電話。
(私としては、この対応は、まったくの許容範囲内だ)

今回の運転手は無口で、私好み程度にそこそこ強引でスピーディーな運転ぶり。
駅前から約25分で国内線空港に到着した。 この運ちゃんにはRe50のチップを渡す。

問題のレー行きは、ON TIMEで何の異変もなく、まったく平常にチェックイン作業が行われていた。
ジェット・エアウェイズは、もう一便前にもレー行きが飛ぶが、それも5分程度の遅延の様である。
日本で目にした報道が過剰だったのか、とにもかくにも、案ずるより生むが易しである。

飛行機で朝食が出るとは思ったが、空港で軽く腹ごしらえ。
Re500札を細かくしておきいという事情もある。 サンドとコーヒーのみRe240は、インドでは高いと思う。
インドはどこでもそうだと思うが、ここのセキュリティーチェックも厳しかった。 セキュリティーエリアの内側は広々としていて快適に過ごせる空間だ。

2.ラダックに飛ぶ翼
チェックインは平常だったが機内は異常。

いや、特に何かがあったという訳ではない。
ただ、このシーズンのデリー/レー線は非常にチケットが入手しづらいというのに、機内は空席がちだった。
ざっと見たところ、乗機率30%程度であろうか? 後に聞いたところ、前日の別の人気便(キングフィッシャー)の乗客は5名だったそうだ。
きっと洪水報道で、キャンセルが相次いだのだろう。

そんな訳で、機内サービスも迅速で、乗って間もなく朝食が出てきた。
食前にウェルカムドリンク(100ccくらいの小さなボトル)も出てきたりと、二時間弱のフライトなのにサービスは良い。

さて、ラダックについて簡単な記述を。
ラダックとはインドのジャンムー・カシュミール州周辺の、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯を指し、チベット文化圏に属する地域を指す。
ラダックはインドに存在するため、文化破壊が進んだ中華人民共和国のチベット自治区よりも、チベットらしい古い文化が良く残っていると言われている。
今回向かうレーは、その中心都市なのだ。

雲が多く、十分には下界の様子は判らなかったが、それでも時折雲が晴れて、左の写真のように白い山が見下ろせた。
このあたりからすぐ東側は、アクサイ・チンと呼ばれる、中国との国境不確定地帯である。
レーが属するジャンムー・カシュミール州は北西部でも、パキスタンと国境不確定地帯で睨みあっており、なかなか大変な一帯なのだ。

ちなみにインドは、中国には弱く、パキスタンには強い。印パ戦争は、私の認識では、常にインドが勝っている。
その報復が、インドで単発的に発生するテロだと疑われ、そのせいでインドは、明らかな旅行者に対してすらもセキュリティチェックが異常に厳しい。
国内線でも飛行機に乗機する場合はもちろんのこと、デリーの地下鉄に乗る時ですら、金属探知機をくぐってボディーチェックを受ける。

3.レー潜入
飛行は順調だったようだが、着陸態勢に入ってから、随分ともたついているように感じられた。
我が9W1609便は、7時45分の到着予定だったのに、着陸したのは8時15分くらいだ。 デリー出発は定刻より早いくらいだったのに、30分も遅れている。
臨時便が増発されたと後に聞いたが、その発着が影響したのだろうか?

飛行機を降りてすぐにバスに誘導され、5mほどの坂を登るだけで空港の小屋に到着する。
建物に入るとすぐに、外国人には入域許可証?(入域届け)の記入票が手渡されるのだが、これが細かい。
パスポートNoはもとより、ヴィザの発給日から期限日、レーでの宿泊先まで書かされる。 出たとこ勝負なのに、そんなこと決めていないって!

建物から出ると、2~300人以上がチケットカウンターに並んでいる。
たぶん、一昨日までは飛行機が飛ばず、未だ陸路は遮断されているので、新規・変更の航空券を求めての列だろう。
タクシーが見当たらなかったので、徒歩で街に向かうことにした。
街まで5km程度なので、天気さえ良ければ元々そのつもりだったのだ。 タクシーは、キチンと探せばいたハズである。

少し埃っぽい道を3kmほど北東に向かうと、街のハズレっぽくなってくる。
一軒の店でミネラルウォーターを求めると、「売り切れた」と言われる。これも、被災地っぽい体験のひとつかもしれない。
代品としてSODA水を買い求めた。 少し強めのスパークリングウォータだと思えば、けして飲めなくはない。

Y字路にある大きなマニ車を左手に眺めながら、ここを左(北)に向かえば街への最短距離だということは判ったが、東側(標高が少し高い側)から、
街全体の様子を眺めようと、右の道を進んでみた。
やがて道は真北に向かい、その辺りから街の異変が明確になってくる。
洪水と言うよりは、土石流にやられた感じか? 谷あいの狭い部分が細長く破壊されている感じである。
全体がどっぷりと水に浸かるには、傾斜があり過ぎて無理がある。
後に聞いたところでは、ここよりも少し南にある、チョグラムサルでの被害が大きかったらしい。 インダス川の源流に近い方向である。

メインバザールを北上すると、街のシンボルとも言える、旧レー王宮が見えてくる。
築500年?
ラサのポタラ宮は、この王宮をモデルにしたというから、こちらの方が本家である。
しかし、その頃の、レーとラサの往来は、どれくらいの時間がかかっていたのだろう? 厳しい旅だったと推測される。

街の中心部は平静な感じを受けた。
イスラム寺院(ジャマー・マスジット)の前等に救援本部が設けられ、協力者を募っていたが、二日しか滞在せず、言葉も通じない私には出番がない様である。

4.王宮跡とツェモゴンパ
空港到着時の入域届けには、安宿で評判の良いオールド・ラダック・ゲストハウスの名前を書いたが、
短期間の滞在だったし、高所で水シャワーは勘弁なので、ヤク・テイルという綺麗なホテルに殴りこんだ。
とりあえず予約なしで大丈夫だった(洪水の影響か?)。
素泊まり一泊Re1200。 レーでは高級な部類だろうが、日本円で2500円弱である。二泊で5000円。 拠点は確保した。
さっそく荷物を置いて旧王宮へ。
ジャマー・マスジット前からオールドレー(旧市街)の小道を抜け、
途中から山道っぽくなる斜面を登って15分くらい。

天気もそれなりに上々。
旧王宮からはレーが良く見下ろすことが出来、吹き抜ける風も気持ちがいい。
王宮までは反対側から車道もついていた。
その途中からツェモ・ゴンパに登る道が延びている。
標高差200mくらいだろうか?
多分、上部で標高3600mくらいで、富士山頂より少し低いくらいか? 原則的には、到着直後に歩き回るという私の様な行動はとらない方が安全である。
デリーから標高3300mのレー空港にイキナリ飛んでくるので、高山病の症状が出る人も少なくないのだ。体調にもよるので、過信も禁物か?
私はアフリカでも南米でも、4500mくらいまでは全く平気だったので、無頓着に走り回っているが。。。

ツェモ・ゴンパのすぐ脇に、同程度の高さの小山があって、チベット風の旗タルチョが風になびいている。
ここは人も来ないので、ゆったりと遠望したり、下界の風景を楽しむことが出来た。

ツェモ・ゴンパからは西側のシャンティ・ストゥーパーが良く見渡せ、遠くの雪山やレー盆地全体の展望も素晴らしい。
ツェモ・ゴンパにはRe20を払って入域。 チケット売りの僧と、ツーショットで写真を撮らせてもらったりもした。

さらに上の方に朽ちた旧ゴンパがあるらしく、老人が歌いながらマニ車を回している。 再びRe20を出し、その老人に渡して中に入る。
見どころと言うものでもないが、奥の奥まで来たという感慨はある。
そこに日本人男性が一人立っていた。やはり独り旅で、昨日からレーに入っているHさん。
少し話した後、明日、二人でタクシーをシェアして、ゴンパ巡りをする計画を立てた。
洪水の影響でバス便がすべてSTOPしているらしく、タクシーなら迂回路も知っているだろうし、行ける所だけでも行こうということにした。
車の確保は、Hさんが宿にあたってみると言ってくれたので、明日の朝の待ち合わせ場所を決めて、ひとまずはお任せする事に。
それからしばらくの間、
爽やかなラダックの風に吹かれて静かな時間を楽しみ、
オールドレー(旧市街)を抜けて宿に帰還。

車の中で子供たちが遊んでいる。
カメラを向けると笑顔を作ってくれるが、
世界中どこでも、男の子はやんちゃで、女の子はおませだ。

5.シャーンティ・ストゥーパ
宿近くの、ハッピーワールドというレストランでフライドライスな昼食をオーダー。 先ほどのHさんとも偶然に再会。
やはり洪水の影響か肉類がないらしく、メニューはベジタリアンな選択肢しかなかった。
おそらく、普通の食材は陸路で仕入れており、四方の道が遮断された今、レーは軽い食糧不足に陥っているのだろう。
昼食後は、その足で、
旧王宮からも良く見えたシャーンティ・ストゥパーを目指した。
徒歩20分くらいで麓のゲートへ。そこから延々と階段が続いている。

いつもならトレーニングを兼ねて駆け登るところであるが、
ここは標高3000mの世界なので、それは自制し、一段一段踏みしめる。
午前中よりも天気が良くなってきているのが嬉しい。
山頂近くに東アジア風の寺院が建ち、てっぺんはチョルテンと、いうか、仏舎利塔が聳えていた。
なぜかその周囲に、チベット人のテント村が出来ている。
巡礼者かなぁ、とも思うが、洪水から逃れてきた人たちかもしれない。
子供たちが多く遊んでおり、楽しげな笑い声が絶えない。
やはり避難者ではなく巡礼者か??
いずれにせよ、水や食料の運搬が大変だろうに、
なぜにこんなに高い所まで??
いや、トイレはどうしているのだ??

遠くには雪を残した山なども望め、
一種独特の色合いの、不思議な世界が広がっていた。
一旦宿に戻り、暗くなってから、再びのハッピーワールドへ。 宿から近いし英語メニューも有るので利用しやすいのだ。
昼食が遅く、ボリュームもあったので、夜はチベット風ウドンと言われるトゥクパ。
やはりベジタリアンしか、オーダーは受け付けてもらえなかった。 スプライトをつけてRe90.
180円くらいで食べられるのだから、肉が入っていないなど贅沢は言えないなぁ。。。

先述したように、レーでは上級レベルのホテルに投宿したが、夜は頻繁に停電した。
瞬断は頻発、長い停電も発生し、ゴンパ探検用の懐中電灯が活躍した。 ここでは、デスクトップパソコンは使えないな。

日本との時差3時間30分は苦にならないが、昨夜は睡眠時間が確保できなかったうえに、3時50分から電話で起こされていたので、今夜は早めに就寝。
3日目(8月10日) 1.ラダックの朝
ラダックの夜が明けた。
まずは早朝パトロール。 メインバザールでは野菜売りのオバちゃんがすでに頑張っていた。
軽い朝食。
クッキーケーキにコーヒーをつけてRe40

ホテルに戻ったら、Hさんから伝言が届いていた。 今日は、それなりにゴンパが回れるらしい。 対価も二人でRe2500と、十分に想定内で大変にありがたい。
8時50分くらいに集合したいとの旨、承知つかまつった!!

2.ヘミス・ゴンパ
朝のメッセージ通り、8時50分に宿近くの交差点でHさんと合流。
車は、ホテルを通してではなく、旅行代理店に頼んだとのこと。
店に行くと、今すぐ出発という話が噛み合っていなかったかに見えたが、その割にドライバーが待機していた。
左の写真のオジサンがそうである。
一見無口で、英語が話せないのかと思ったが、私との会話レベルなら十分すぎるくらいで、ドライブ中に不自由はなかった。
街を出て西に向かい、空港手前で南下して南に向かった。 途中で車が大変な事になっているのを目撃。
危なかしい橋も越え、まずはヘミス・ゴンパを目指す。

ヘミス・ゴンパは、レーからインダス川を源流方向(南東方向)に40kmほど遡った山奥にある。
インダス川からも、少し内部に入る。 標高は富士山頂より少し低いくらい? チベット人は酸素がお嫌いらしい。

運ちゃんに「一時間ほどで戻るね」と言い残してチケット売り場へ。最新版の歩き方ではRe30となっているが、なんとRe100も徴収された!
入口のところで日本人男性三人組から英語で、「どこの国から?」と聞かれたので、笑いながら「ジャポーン」と答えてあげた。
我々は見るからに日本人なのだが。

ヘミスゴンパは、祭礼なども執り行われているラダック最大規模の僧院だが、この日は僧侶がほとんど出払っているとかで静かだった。
チケット売り場から門をくぐって最初の庭に立つ。 奥への広がりも有り、なかなか荘厳な寺院である。

中庭に面して博物館などもあった。 この博物館は他の堂と同様に、靴を脱いで入る。
一階は土産物売り場になっており、僧侶が英語で白人と話をしていた。
ここに無料のコインロッカーがあり、カメラや荷物を預けて階段を下ると展示場所になっている。
中庭に戻り、再び靴を脱いで一つの堂に入ると、僧侶が独り、経を唱えていた。
私に信仰心はないが、こういった厳かな雰囲気に対しての畏敬の念はある。手を合わせ、僧侶に一礼をしてから外に戻った。

僧房は谷あいに沿った山の奥まで続いている。 しかし途中の門が閉じられていたので、さらに奥へと侵入する事は差し控えた。
奥へと続く僧房(途中までしか行けなかった) 上へと延びる僧房(最上部まで行けた)
建設中と思われる、半円形の鉄筋コンクリートの僧房?を発見!
本堂の裏に回ると、チベット文化圏では良く見かける、マニ車の長い通路が続く。
カトマンドゥ(特にボダナート周辺)でも見かけたが、ここのマニ車は歴史を感じさせる。

今度は上へと延びる僧房を目指してみた。 僧侶がいないので遠慮無用である。(もちろん進入許可範囲内であり、節度は守った)
上部からはゴンパの全容が見下ろせ、彼方にはインダス川の流れが見晴らせる。
『こんな世界で、経を唱えながら送る人生も悪くはないな、、、』と、思う訳はないか!!
やはり私は、煩悩のかたまりである。

車に戻って、インダスの流れに下る。 山の色合いが独特である。
インダスに架かる橋までがチベットしている。  世界は多様性に満ち、見る者の心を捉えてやまない。
ここはインドの一画ではあるが、まぎれもなくチベット世界だ。
ユダヤの国イスラエルを人為的に作ったことに反対はしないが、中国・ネパール・インドに分断されているチベットの文化圏を尊重した国家を作った方が、
より世界平和の象徴的な存在になるような気がする。

3.ティクセ・ゴンパ
ヘミス・ゴンパから20kmほどレーの方向に戻ると、小山をそのまま僧院にしたようなティクセ・ゴンパが出現する。
ヘミスからは車で40分ほどかかった。
反時計回りに大きく回り込むようにして、道は僧院の麓に続く。
ここはヘミスほど巨大ではないので、運ちゃんに「今度は40分くらい」と言い残し、坂道と階段を駆け上って突撃した。

大きなマニ車を左手に見ながら階段を上ると、ゴンパに併設された売店(水などを売っている)とチケット売り場が現れる。
ま、チケット売り場といっても、テーブルと椅子を表に出して、僧侶が座っているだけなのだが。
私が通りかかった時は僧侶もおらず、私も気付かずに通り過ぎてしまった。
出るときに、それに気付き、律義にチケットを買い求めた私は、きっとチベット仏教の極楽に招待される事であろう。
もう一息、階段を上ると壁画がある中庭に到達する。

そこからは、いくつかに別れた堂を選ぶことになる。
特に順番はなさそうだ。 どこに行くにも階段を登る事になる。高山病の症状が出ている人には厳しい観光地になっていることだろう。
ティクセ・ゴンパがバリアフリーになる日は遠い。
中庭に突入した際に、振り返る方向にある、
吹き抜け構造になった堂には巨大な弥勒大仏の座像が鎮座する。
階段を上って二階部分に行くと、ちょうど御尊顔と向き合う位置だ。

中にいた僧侶に撮影の可否確認をし、
弥勒さんに一礼をして撮影させていただいたのが左の写真である。
僧侶によると、フラッシュを光らせなければ、
自由に撮影して良いとのことであった。
中庭を経て反対側には煌びやかな部屋(写真下中) 階段を上がるとシルバーストゥーパ。 他にも興味深い部屋が点在していた。
建物の屋上に上ると、いわくありげな建物が少々。 展望も良く、インダスの流れが遠くまで見渡せる。
ティクセゴンパは門をくぐり、坂道を上って再びゲートをくぐって、
そこから階段を右に回り込むように、朱色の建物まで登ると、中庭に到達する。

最初の門をくぐらずに、右側の階段を上ると、
沢山並んでいるチョルテン(ストゥーパ)を経て本館の裏側に入り込み、
ぐるっと建物を回り込んで朱色の建物の向こう側で最初の道と合流する。
すぐ近くに小山があり、眺めは最高。 なのだが、やはり高山病の心配がある方は無防備に歩き回らない方が良いかもしれない。
小山には、やはりタルチョがかかっている。 風でタルチョがなびく度に、経文を詠んだことになるとされているらしく、下に紹介するマニコロと同じだ。
遠くには雪を頂いた5~6000m峰。 チベット世界である。

4.シェイ・パレス
ティクセを出て、少しだけ車で移動して、少し遅い目の昼食を確保。 食後に知ることになったが、シェイ・ゴンパの真正面であった。
運転手さんにも同席を勧めたのだが、やはり客との会食は気が乗らないのか建物の中に入ってしまい、庭のテラスで日本人だけの昼食会。
私はチベット風のスパゲティらしきものを食した。 昨夜から麺づいている。

足元をアヒルや鶏が、うっとおしいほどに行き気する。 そのくせに、店の兄ちゃんは、今日はベジタリアンメニューしかないと言う。
ニワトリを指差しながら、「鳥はいるが鶏肉はない」と。。。
ここのアップルジュースは美味しかった。王冠はついていたが、ラベルもない素朴な瓶に入っていたので、自家製かもしれない。

小一時間で車に戻り、ここから再びドライブをしてシェイに行くのかと思いきや、運転手は「ここから徒歩で行く」と言う。
上の方に有るので気付かなかったが、急な坂道を登った上方に、ゴンパらしき建物が見える。
シェイだけはなぜか、「MONASTERY」ではなく、「PALACE」と表現している。 かつては王宮だったのだろうか?

ヘミスよりはティクセに似た構造だったが、こちらの方がこじんまりとして静寂な印象。
やはり大小様々なマニ車が配されている。 これを時計回りに一回転させれると、経を一度唱えたのと同じ功徳があるというから便利なものである。
ちなみにチベット語では「マニコロ」と言うらしい。 少し日本語に似たセンスである。
内部に、チベット製おしんがいた。
赤ん坊をおんぶし、年下の手を握って遊んでいる。日本でも良く見かけるゴムスリッパを履いているあたりが、21世紀のチベットである。

マニ車を回しながら巡回するような仕組みの通路。
ここも、すぐ裏手に小山が聳えていた。 100mほど登ると眼下にシェイが見下ろせ、展望も良い。
ただ、そこそこに岩山なので、山慣れしていない人が迂闊に登ると怪我をすることになるかもしれないので要注意!
インダス源流方向を振り返るとティクセ・ゴンパ その手前を見下ろすと、荒野に百近いチョルテンが点在している。

5.レーに生還
16時過ぎにレーに生還。 旅行代理店に2名合わせてRe2500を支払い、運転手には各々からRe100ずつのチップを手渡した。
Hさんと茶店のソフトドリンクでワンディーツアーの慰労会をし、そこから再び一人で旧市街に切り込んでみる。
左端の写真は、先にふれたオールドラダックGH。
写真頁の車の中の子供たちは、車中で遊んで?いた、ラダッキーチルドレンである。

再び新市街。
街中に何か所かあったが、もっとも大きな露天のチベット物産市に潜入。
それなりに交渉して、怪しげな物品を数点獲得したが、正直なところ、けっこうボラれたと思う。
私自身としてはチベット文化を擁護してあげたいので、ここで私は支払ったRe1200の内のボラれ分が、回りまわってチベット文化の維持につながれば、
それで良いとも思っている。

いったん、ホテルに帰還。なぜか断水していたので、軽くシャワーを浴びるのは中止にして再び街中に繰り出す。
夜を待って夕食を漁りに街中に繰り出すと、昨夜も食事を行ったHAPPY WORLDのテラス席から、私を呼ぶ声が。
ヘミス・ゴンパの入り口ですれ違った三人組の男性のうちの二人だ。
聞けば、三人とも独り旅で、我々と同様に、車をシェアしてゴンパ巡りをしていたとのこと。
そこにもう一名、20代後半くらいの日本人男性Fさんが通りかかったので、最年長のMさんがハント。

夜が更けるまで、もう一人のOさんと4人で旅談議にふけった。
Fさんは、今年の一月に日本を出て、あてのない旅を続けているとのこと。
Oさんも学生時代に一年休学し、世界を回ったそうだし、やはり旅をする者はロマンチストが多い。
4日目(8月11日) 1.レーの朝
多くの人が憧れるラダック地方のレーに飛んでおきながら、わずか二泊で、あのデリーに戻るなんて、誰もがもったいない話だと思うに違いない。
事実、私もそう思う。
とは言え、予定の朝が来た。
昨日、ホテルスタッフに予告しておいた通り、午前6時にチェックアウトを済ませ、ホテルの写真を撮影して、徒歩二分のタクシースタンドへ。
基本的に、ここでボラれる心配は、あまりない。 協定価格Re150で、しっかりと空港まで運んでもらえるだろう。

空港前は今日も混乱していた。
カトマンドゥの空港と同じで、建物に入るところにもセキュリティーチェックがあり、そこが開いたのが6時15分(私が到着して10分くらい)なので、
5時頃から待機していた人から流れ込んでいった。
外の、航空券販売カウンター前にも、やはり50人くらいの人が並んでいた。
少し待たされたが、チェックインは心配していたよりもスムース。
しかし、(キャビンの荷物入れに4個くらいは入りそうな)小さなバックを機内に持ち込ませてくれず、チェックインカウンターで預けさせられてしまった。
(自分自身の)セキュリティーチェックの後で、もう一度確認する様に言われたので、その時に機内持ち込みを再交渉しようと思ったが、
結局はデリーで受け取ることになる。
待合室で、やはり独り旅の日本人男性と知り合う。
彼は一人でタクシーを雇ったので、ヘミスは断念してティクセとシェイのみを回ったとのこと。
私より一時間早い9W610便の航空券を所持していたが、私の出発時刻が過ぎた頃に、ようやくボーディングが行われたような状況だった。
私の9W1610便も、定刻より30分くらい遅れてボーディングが始まり、出発したのは一時間くらい遅れることになった。

2.レー脱出
天気は、到着日よりもわずかに展望が良い程度か? 眼下の白い山が、前回よりは多く望めた。
今日は満席だったので、機内サービスは少しバタバタしていたかもしれない。

3.サライ・カレ・カーン バススタンドからアグラへはバス旅6時間
予定通りに事が運べば、11時にはデリー南東部にある、サライ・カレ・カーンのバススタンドからアグラーに向かうはずだったが、飛行機の遅延と、
空港からの道路の大渋滞で、13時に出発するバスにギリギリで飛び乗れた感じである。 このバスはボロいが、エアコンバスだった。

4.イードガー・バススタンドからHOTEL SAKURAは徒歩2分
「歩き方」によると、デリーからアグラのイードガーバススタンドまでは4時間程度と書いていたが、昨夜、レーで夜まで話し込んだMさんによると、
「6時間はかかる」ということだった。
とすると、13時のバスが到着するのは19時頃になり、知らない街の一人歩きが危険な状態になる時間帯。
バスの終着地のイードガーバススタンドから徒歩3分くらいのところに、ホテルSAKURAがあることが判っていたので、「歩き方」が正しく、
明るい時間帯に到着出来たら、タージ・マハール近くのホテルまで歩き、Mさんが正しくて、暗い時間の到着になったら、このSAKURAに逃げ込むことに。
バスチケットは車内で購入してRe221。 片道200km以上あるのに、やはりインドのバスは安い!!

出発直後に大渋滞があったことと、休憩所で30分の休憩タイムがあったことも影響し、Mさんに軍配が上がって、19時15分のイードガー到着となる。
途中からバスは頻繁に方向を変え、どこをどう走っているのかも判らなくなってしまった。
暗闇の中で車掌が「終点だ」というので、仕方なくバスを降りると、リクシャーワーラーが押し寄せてくる。
良くないパターンだなぁと思いながら大声で、「自分のホテルはすぐ近くだからリクシャーは要らない」と叫ぶと、中の一人が、「どこだ?」と聞いてきたので、
「SAKURAだ」と答えたら、私が思っていたのと逆方向を指し示して「それならアチラだ」と言う。

取りあえず彼を信じてその方向に歩くと、徒歩2分でSAKURAが現れる。
悪評高いアグラのリクシャーワーラーでも、こういった事は信じて良さそうだ♪
SAKURAは一泊Re600。 水シャワーだったが、気温が高いので問題はなかった。
ホテルのレストランで夕食を漁った後、猛烈な音がする割に、たいして涼しくならないクーラー?の風に吹かれながら、一気に爆睡!!
5日目(8月12日) 1.タージ・マハール
昨夜は一気に睡魔の餌食になったので、今朝は5時40分に爽やかに目覚めることが出来た。
しかーし、早起きしたからといってゆっくりとしてはいられない!  タージ・マハールは6時から店開きをしているので急がねばならないのだ!!
タージ・マハールは17世紀半ば(江戸時代初期の頃)に、時のムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に先立った愛妃ムムターズ・マハルのために、
22年の歳月を費やして建立させた墓である。

それを見んと世界中から観光客が押し寄せるのだ。 取りあえず私は、ホテルの前で固唾をのんで待機していた、いかにも強欲そうなリクシャーワーラーを、
あの手この手で手なずけ、ちょっと多めのRe400を約束し、ホテル→タージ→アグラー城→ホテルを私のペース&寄り道なしの条件で回らせることとした。
実際のところ、結果として3時間程度の拘束時間だったので、彼にコミッションを払いそうなレストランや土産物屋に立ち寄るスキを与えずとも、
彼にとっては美味しい仕事だったに違いない。

まずはホテルから10分くらいでタージ西門。(メインの南門は、この時間はまだ開いていない)
ここで運賃を小出しに要求するようだったら、その場で解約してやろうと思っていたがそれはなく、私の安全を促すような助言とともに西門に送り出してくれた。
チケット売り場は30人程の列で、インド人用と外国人用に別れていたが、インド人用は独りも並んでいない。
ADA込みRe750(リクシャー代より高い)を払ってチケットを入手し、押し売りガイドをやり過ごして手荷物検査&ボディーチェックを乗り越え、
繰り返し押し寄せるガイド攻勢をしのいで、まずは正門に到達した。
リクシャーを降りてからここまで30分かかっているが、
まだ7時前なので、建物は低い角度からの陽光に照らされ、
柔らかな輝きを放っている。

正門の通路をくぐると、真正面にタージ・マハール本体の美しい姿が現れる。

インドは本当に不思議な国だ。
究極の美しさと、極限的とも言える混沌が、これほどまでに同居している場所は、
世界のどこを探しても他には無いだろう。
タージ・マハールはヤムナー河のほとりに建っているが、河の上流方向にはアグラー城が遠望できる。
英語ではAGRA FORTと言うので、城と言うよりは砦くらいのイメージか?

この河岸を歩いていたら、前にいた白人の女の子が私に向かって、「Your back!!」と叫ぶので、何かと思って振り返ったら、サルが向かって来ていた。
正面付近に登り口があり、上に登るとタージ本体に触れたり、墓所に殴り込みをかけたりすることもできる。

2.アグラー城
タージ・マハールからオートリクシャーで3分くらいでアグラー城である。
日本のガイドブックでは、ここの地名ともども、「アーグラー」と表記しているが、当地では皆「アグラ」と表現していて、アーグラーと言うとちょっと通じにくく、
伸ばさずに言うと確実に伝わります。
ここでもチケットを求め、
正門で(タージほどではない)ボディーチェックを受け、中庭へと進軍する。
まだ時間が早いためか、観光客がとても少なくて、ゆったりと観覧できる。

この砦は日本の戦国時代ぐらいに建立されているはずだが、
なかなかに立派なものである。
恐るべし、ムガル帝国!!
砦内には、リスが多数出没。 タージと同様に、サルも非常に多い。
アグラー城は先述のように、16世紀半ばに築かれているが、ぶっ建てたのはムガル帝国のアクバル帝という恐いオジサンだそうだ。
ムガルは、イスラム系の王朝なので、私はてっきり西の方からやってきたと思っていたのだが、実はそうではなくモンゴル系の遊牧民族を祖として、
中央アジア・アフガニスタンからインドに切り込み、時のスルタン朝を押し破って建国したものらしい。
確かに、ムガールという発音はモンゴル人(ペルシャ語でムグール)に通ずるものがある。

ちなみにムガル帝国が成立するまでのインド中央部は、ジンギスカン時代以降、モンゴル人によって北部から度々の侵入を受けたが、
時のインド諸政権は領土的な支配を許していなかったそうである。
この地が異民族によって支配されたのは、この時が初めての経験になるというわけだ。

そう言えば、歴史を2000年ほど遡ることになるが、ペルシャ帝国を征服したアレクサンダー大王は、次にインドへの遠征を目指し、ハイバル峠を越え、
インダス川を渡り、パンジャブ地方に侵入してインド中央部に向かおうとしたことがある。
しかしこの時は郷愁にかられた兵士たちがこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにしたらしいので、この地は支配される事を免れた
ということらしい。
いやはや、いまさら言うのもなんだが、大陸部の国々は攻防が大変だ。

話を17世紀にもどすと、タージ・マハールの仕掛け人シャー・ジャハーンは、さらに対岸に黒大理石の廟の建造(黒いタージ?)を目論んでいたが、
自分の息子の第三皇子アウラングゼーブによって、このアグラー城に幽閉され、ここで最期を迎えている。
このアグラー城からもタージ・マハールが遠望できるので、シャー・ジャハーンはきっと、それを眺めながら晩年を過ごしたのだろう。

シャー・ジャハーンが7年間の幽閉生活を余儀なくされていた350年前から、手前の道路以外は景色も変わっていないと思われる。
春と秋には、まさにタージ・マハールから朝日が昇り、季節の移ろいにあわせて北へ南へと旅をする太陽を眺めながら、
永遠に自由を失ったシャー・ジャハーンは、何を思っただろう。
今は、タージ・マハールの霊廟で、愛妃ムムターズ・マハルと並んで眠っている。
このアグラー城も、タージ・マハールと共に、1983年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている。

3.周辺事情
世界的に有名なタージ・マハールや、アグラー城ともなると、その周辺はキチンと整備されていると考えがちだが、特にタージ・マハールの周辺は、
普通のインドの街角となんら変わらず、安い飲食店が点在する路地などが延びている。
宿泊したHOTEL SAKURAのオジサンは私に、「タージ・マハールの周辺で飯を食うと腹を壊すぞ」と忠告した。。。

アグラー城の正門前は広い道路だが、客待ちのオートリクシャーで列が出来ている事がある。
そう言えば、正門前の交差点の向かいに勇ましい騎士?の像が建っていた。
何気なく写真だけ撮って、説明書きなどは見なかったのだが、考えてみるとアグラー城はイスラムだから、人の像は無いはずだ。 これは誰なのかな??

4.ホテルSAKURAの朝食と、イードガー・バススタンド
午前9時過ぎにHOTEL SAKURAに帰還し、リクシャーワーラー待望の、お支払いの時間である。
我がリクシャーワーラは、最初に私が直感したように、やはり強欲タイプで、Re400と約束したにもかかわらず、400USDだと言う。
事と次第によっては、ここでオオモメになるところかもしれないが、私は大笑いで済ました。

私が宿でもらった地図には、このワーラーと一緒にルート図を書き込んでおり、その脇に明確に[Re400]と記している。
さらに御丁寧な事に、そのすぐ下に、このリクシャーワーラーが署名までしているのだ。

なぜ、署名までしたのかと言うと、タージ・マハールに着いた時に、戻ってきてうまく合流できなかったらいけないから名前を教えてくれと言い、
地図を差し出して彼の名前を書かせたのである。 彼は念入りに携帯電話番号まで書き込んだ。
リクシャーワーラーが携帯電話を持っているのは驚きだった。
彼としてはここまでのリクシャー代を取りっぱぐれないように名前を書いたつもりだろうが、私にとってはRe400の確約書となったのである。
ワハハABBAS君(と言っても40代のオジサンだが)、私の勝ちだよ。

先にも書いたが、合計で10km程度の走行と3時間程度の拘束時間でRe400を獲得したのだから、彼にとっても美味しい仕事だったと思う。
HOTELでブランチを摂り、10時には徒歩2分のイードガーバススタンドでデリー行きのバスに乗車。

5.アグラからデリーに生還し、HOTEL ALKAで、ちょっといい晩餐
イードガーバススタンドで、人に聞きまくってデリー行きのバスに無事に乗車をしたのだが、このバスは正時出発にもかかわらず、エアコンバスではなかった。
デリーのサライ・カレ・カーンバススタンドまでは、往路よりもちょっぴり早い5時間半。 公共バスなのに、たぶんボラれた。
Re230を払ったらRe300寄こせと言われ、視線で釣りを催促するも、「いいからいいから」というようなジェスチャーで、結局最後までお茶を濁された。

このバスは、スタンドを出たらまっすぐ北上するのかと思いきや、アグラー城壁まで東進してからヤムナー河沿いに北上する。
昨夜もバススタンドの手前で車掌が、「タージ○△□」と言っていたが、この付近を通過したのだろうか?
デリー行きのバスも、やはり途中で30分くらいの休憩タイム。 アグラーから凡そ3時間。
車内に残っている乗客もいるので荷物が心配になり、私はペットボトルを二本だけ仕入れて早々に戻る。 何人かは、ここで降りたようだ。

まだ陽の高い15時半にサライ・カレ・カーンに帰還。 すぐに若い兄ちゃんのオートリクシャーをゲットし、コンノート・プレイス近くのHOTEL ALKAを指示。
コンノートのPブロックと言えば判ると思っていたのに、地図を見ながら曲がり角まで誘導しないと辿りつけなかった。
交渉した料金のほかにチップの代わりとして、バスの休憩場所でゲットしたオレンジジュースを渡すと、スゴク嬉しそうにしていた。

ホテルは、大枚Re3,450をはたいて、バスタブつきの部屋。 カードで支払い、帰国後に精算金額を確認したところ、¥6,478。
初日に空港で両替した時のレートよりも遥かに率が良い。
夜は、ちょっと豪華な晩餐。 食前ドリンクやパンがついてRe260は激安!
6日目(8月13日) 1.ニューデリーの朝
今回のインド旅の最終日も6時半から行動開始。 コンノート・プレイス中心の公園で朝日を迎えた後、徒歩でニューデリー鉄道駅を襲撃。
話に聞く通り、ウザいほどに声が掛る。
私がどこに向かおうとしているかを知らないくせに、「そっちじゃない!」と怒鳴ってくる男。 「おーフレンド」とすり寄ってくる変なのもいた。
彼らに礼を尽くす必要はまったくないので、日本語でいなしながら陸橋を渡る。

ニューデリー駅周辺は、一国の首都のメイン駅とは思えない雑然ぶり。
ハノイ駅の北側も雑多だが、ハノイは東正面前が整然としているので体裁は保っている。 インドのこの混沌も嫌いではないが。

2.ラール・キラーはクローズ!
コンノート・プレイスに戻り、今度は地下鉄の一日乗車券を獲得してオールドデリー駅へ。
そこから東にノンビリと朝散歩。
駅周辺では、果実ジュースや揚げ物が売られていたが、なんだか体調を崩しそうなか雰囲気が濃厚に漂っていて、食指が動かない。
近くに並んで建っているのは、ジャイナ寺院とスィク寺院、、、だと思う。。。

オールドデリーの目玉の一つだったラール・キラー(Red fort)は厳重にクローズされており、掲示が掲げられていた。
この観光シーズンに一週間もお休みですかい??
インドは、あと2日で独立63周年を迎えるので、毎度のことだが警備が一段と強化されている感がある。
さきほど乗車した地下鉄も、飛行機並みに金属探知機のゲートをくぐった後にボディーチェックを受け、荷物のX線検査まで行われているのだ。
今年中と言われている、IGI空港からの乗り入れがオープンしたら確実に激増する客を、はたして捌き切れるのだろうか?

3.インド門までクローズ!!
ラール・キラーでなんとなく肩透しを食ったので、再び地下鉄に乗り、今度はCentral secretariat駅からインド門を目指す。
炎天下の中を、 1.5kmも歩いたと言うのに、なんとなく悪い予感がしていた通り、インド門もクローズ!! デリーポリスが固めていた。
かわりに、国立博物館に立ち寄って、インダス文明の歴史を学習したが、この博物館には土産物屋や喫茶室が併設されていない。
ちょっと期待していたのに。

最後にもう一度、地下鉄でニューデリー駅へ。
プリペイドタクシーをゲットして空港に向かうつもりが、運ちゃんと交渉する事になってしまったが、国内線に向かったのと同じRe350なので了承。
もしかしてプリペイドチケットだと、も少し安かったのかな??

4.インド脱出
IGI空港は新しくオープンしたので綺麗だが、特に変哲のない普通の国際空港である。
しかし、ニューデリー駅から直行すると、その綺麗さと無臭にカルチャーショックを感じるくらいのギャップがある。
多分、ニューデリー駅前にたむろする大半は、車で30分のところに、こんな世界がある事を知らないだろう。。。

この空港、土産物屋がつまらない。 インドらしいものが、ほとんど売られていないのだ。
こんなことなら、コンノートの怪しげな店にを襲撃しておくべきだった。
帰国日(8月14日) 日本生還
デリー離陸は管制官の許可が下りないとかで激しく遅れたが、成田到着は、ほぼ定刻。
プレエコシートは熟睡できる。 しかし8時間の飛行の前後2時間ずつが食事で妨害される。
朝ご飯は夜のうちに、水とサンドイッチを配ってくれるだけでいいよ、JALさん。

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