スペイン-フランス越年2009-2010

前夜(12月25日)
1日目(12月26日)
0.上野前泊
仕事納めの12月28日に休暇をゲットし、旅行期間の延長と飛行機代の値下げを両立。
25日に仕事を切り上げ、上野の隠れ家に移動して相棒と合流。
上野駅から徒歩二分のホテルで翌朝の出陣に備える。

1.日本脱出
出撃の日である。
朝食を買い出す為に相棒とコンビニを襲撃し、忍池も覗いてみた。
高層階のホテルの窓から見た池の表面が怪しげだったためである。 岸の方だけ茎だけの草(木)が水面から突き出し、少し異様な雰囲気。
池の周りはジョガーや太極拳をしている集団がいるが、概して中高年の方が元気だ。
8時40分の京成スカイライナーに乗車。 日暮里からも乗ってくるのであろうが、思いのほか空席が目立つ。
本日12月26日と三日後の29日が出国ピークになりそうなのだが…。
成田空港も予想よりはるかに閑散としており、我らがオーストリア航空のチェックインもスムース。 なぜか相棒と席を離されてしまった。

早めに出国手続きを取り、搭乗口前のコーヒースタンドで待機。 ボーディングも離陸も予定時刻より先行するくらいで、気分良くスタートを切ることができる。
去年、シャルルドゴールに向かった時は、秋田沖から真っすぐ北上し、シベリアを目指したが、ウィーンを目指す今回は新潟上空から日本海に抜けたようだ。
確かにウィーンの方がパリより1500kmくらい東にあるが、(地球の大円に沿うように)こまめに経路を定めているのか?
出発して1時間20分くらいで最初の昼食。
出発前の情報では、オーストリア航空のビジネス席の食事の評価は非常に高かったが、エコノミーだと普通かな?
離陸前に単独渡航のおじさんに、相棒の席と交換してもらったので、両メニューの写真を残すことが出来ました♪

2.シベリア上空でチキンラーメン
12時に成田を出て5時間半くらいで航路の最北端。 (現地時刻で15時前?だが窓の外は暗い)
乗客に提供されている情報の精度は不明だが、フライトマップを信じる限りでは、去年よりも明らかに南側を飛行している。
昔、航空機の航続距離が短かった時代は、アンカレジで給油してヨーロッパに向かったとか、南回りだとスゴク時間がかかったとか、
冷戦時代はソビエト上空を飛行できなかったとか、色々な話を聞くが、それに比べれば随分と便利になったのだろう。
シーズンを外せば10万円以下でヨーロッパを往復できるのが、(私はその恩恵を授かれそうにはないが)すごいことである。

第一昼食から5時間くらいで、なんとチキンラーメンが饗された!!
サンドイッチとおにぎりと、このカップめんとの選択肢だったが、周囲の反応を見る限りでは、もっとも人気があるのが、このカップめんのようだ。
少したってからクルーが熱湯を注いで回る。(こんな経験は初めて)
この手のカップめんを食べるのは久しぶりだが、まぁ美味かった♪
美味くはあったが、『これが第二昼食か??』との疑念が湧く。 結論からすると、これはオヤツで、第二昼食はキチンと有った。
国際線を乗り継ぐと、各々の事情で機内食時刻が決まっており、腹調整に苦労をするが、この様に少量ずつ提供されると調整しやすくて良い。
おにぎりが大量に余ったようで、その後に投げるように配っていた(笑)

3.オーストリアン航空は△なトレイが基本
ウィーン到着の2時間くらい前には、ちゃんと第二昼食も出た。 日本時刻で22時時少し前、ウィーン時刻で13時45分前後である。
こうやって乗客が、養鶏場のニワトリよろしく飲み食いに興じている間にも飛行機は順調に航行し、ウィーンには30分程度も早く到着。
飛行時間は12時間予定が11時間半程度に短縮されたことになる。
ここが目的地であれば大喜びなのだが、それでなくても次の飛行機への乗機まで4時間弱を待たされる我々にとっては待機時間が増えただけかも知れない。
まぁ、機外でノビノビする方が楽だし、到着が遅れて乗り継ぎにヒヤヒヤするよりは100倍マシではあるが。。。

ウィーンの空港は、さほど大きくは無い。 A系列のゲートに到着し、入域手続きをとってヨーロッパ(シェンゲン条約加盟国)の領域内に突入する。
A系列とB,C系列のゲートとの間にパスポートコントロールがあり、域内間だと、この空港ではB系列かC系列のゲートから発着するようである。
とりあえずバルセロナ行きの出発ゲート位置を確認した上で空港内を探索したが、4時間強の時間を埋めてくれるほど大きな空港では無い。
なぜか空港内にポルノショップ(と見まごうような、勝負下着などが外から見えるショップ)が片隅に店を構えていたのが印象的。

4.ウィーンの夜は更けて
出発ゲート近くの(店員からは客か否かの区別がつきづらい仕組みの)スターバックスのソファーで、何も買わずにリラックスしつつ、
時々ウロウロしながら待機。 ユーロも持っているし、いっその事、空港外に出ても良いのだが、近くには何もないし、寒いし、暗くなりかけているし・・・。
現地19時過ぎに、さほど厳しくは無い再度のセキュリティーチェックを受けて出発ゲートに侵入。
ここでは水くらいは買えトイレもあるが、長い時間を過ごす場所ではなさそうだ。
空港(国?)によってはセキュリティーチェック後に水も買えない場合も有り、有る程度の統一感が望まれる。

バルセロナに向かう飛行機も定刻通りにボーディングが開始され、順調に離陸した。 この飛行機は5席×21列=105人乗りで、ビジネスクラスは無い。
成田でチェックインをした時に19A,Bの座席指定を受けたので、前の方かと喜んでいたのだが、ほとんど最後尾だった(苦笑)
この機は2時間ちょっとの飛行時間なので、安定飛行に入ると慌ただしく軽食が饗された。 本日5度目の食事である。

ウィーンからバルセロナに直行する経路だと、アルプスの山々が見えるあたりを飛行すると思うのだが、窓の外は真っ暗で何も見えない。
空港を出てしばらくの間は、街の夜景が目を楽しませてくれたが、ほどなくポツリポツリと一軒家の明かりが見える程度となり、今や漆黒の闇だ。
いつか、この付近を冬の日中に飛行したいものである。

5.バルセロナ潜入
気がつくと、雨が窓を叩いていた。 バルセロナの本日の天気予報は雨であり、想定通りではある。
ほどなくバルセロナ空港の光が窓外に展開し、定刻の22時10分ちょうどに滑走路に滑り込む。
入域審査はウィーンで受けているので、何もチェックがないままに手荷物受け取りのターンテーブルに行き、トップバッターで出てきた自分たちの荷物を
ゲットしてタクシー乗り場に向かった。
表示通りに歩いたら、なんだか遠回りをさせられてしまったが、タクシーには待たずに乗れたので良しとしよう。

タクシーへの乗り方は、有る程度は順序立てられているが今一歩詰めが甘く、客がどの車に乗れば良いのかを戸惑うし、なかなか客に乗ってもらえない
車も発生する。 ヨーロッパなのに整然としていない辺りがラテン的で良いなぁ♪
我らがタクシー運ちゃんは、人が良さそうな中年ドライバーで、「!オラ!」と挨拶すると、ニコニコとスーツケースをトランクに入れてくれる。
ネットで発見・予約しておいたオアシスホテル名を告げると、ドライバーは知っていた。

「フランサ駅の近くだよ」というスペイン語を練習し、地図も準備していたというのに(笑)
高速道路を通り、20分程度で到着。
料金は空港使用料と荷物扱い料の5ユーロ10セントを加えて30ユーロ少々。 バルセロナ市内としては、比較的遠い位置なのでこんなものだろうか??
23時きっかりに投宿して、すぐに夜食の買い出しに♪
近くのスーパーマーケットは23時で閉まっていたが、23時半閉店のコンビニっぽい店に駆け込めた。 ここで日本よりも割安なチーズとハムをゲット♪♪
寒さは昨夜の上野と同じくらいだし、先ほどまで降っていた雨も上がっていた。
2日目(12月27日) 1.バルセロナ 朝散歩
バルセロナは東経2度に位置するが、ロンドンに一時間先行するヨーロッパ大陸標準時に合わせているため、フランス北部ほどではないが夜明けが遅い。
津軽海峡と同程度の緯度にあるので、冬至から一週間と経たないこの時期だと、午前8時を回るころに、ようやく朝日の恩恵に授かれるという感じである。
それを待って、まずは朝散歩。 昨夜チェックしておいたスーパーマーケットやコンビニ(っぽい店)は開店していない。
15分ほど散策して、朝食をやっているカフェを発見♪ 私はなんだか、朝っぱらからヘビーなものを注文してしまった。
食後も散歩を続行。 ホテルはフランサ駅近くでマリーナからも至近の距離にあったために、朝の海岸散歩は楽しかった。
椰子の木などの植え込みも多く、マリーナにはおびただしい数のヨットが停泊し、いたるところに怪しげなモニュメントが林立する。
そう遠くないところに、有森裕子や森下広一が駆け登ったモンジュイックの丘が聳えている。

2.Barcelona Bus Turistic 1
一旦ホテルに戻った後、間髪いれずに再出撃し、ホテル近くのメトロ駅で一人1.35ユーロの切符を買ってカタルーニャ広場へ。
このあたり、ストリートビューで予習をしておいたので困惑は無い。
地下のインフォメーションセンターで、お一人様21ユーロの、バスツアーチケットをゲット♪
ツアーと言ってもガイドがいたり、見学場所が定められているような代物ではなく、一定のルートを高頻度で巡回するバスに、いつでも自由に乗降できる
一日乗車券であり、それも赤ルートと青ルートの二路線があって利便性に優れている。
我々はまず、広場から赤ルートに乗ってカサ・ミラまで行き、そこから徒歩でサグラダ・ファミリアを目指した。

3.サグラダファミリア教会
午前11時にサグラダファミリア教会に到着すると、入場券を買い求める長蛇の列が完成していた。
雲ひとつない晴天だし、年末だし、日曜日だし、観光者が集結する条件が整っているので想定はしていたが、この列に並ぶ気にはなれなかった。
バルセロナに何日も滞在するとか、ここだけを重点的に見たいのなら別の判断もあったが、我々は明日にはフランスに向かうし、
今日は出来るだけ多くを見て回りたかったので、サグラダは外観だけで満足することに決定。

広く知られているように、この教会は19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した建築家、アントニ・ガウディーが起工2年目から建設を引き継ぎ、
128年近くの歳月をかけて工事が続けられている教会である。
その間に世界は第一次大戦(スペインは参戦していない)と第二次大戦を経験し、スペイン風邪(※スペインが情報発信源になっただけで、実はアメリカ起源)
が流行し、バルセロナでもオリンピックが開催されたが、そんな雑事とは関係なく工事が愚直に進められている。
と書くと、この教会が特別なように思われるが、実はヨーロッパには建設に500年以上も費やされた教会も複数あり、日本とは建築スパンに対するセンスが
異なるのかもしれない。
教会そのものはイメージ以上の重厚感が感じられ、
現代の直線的な建築物とはまったく異なる面白味があるが、
どこまでがガウディーの構想通りで、
どこからが後任(何人いるのだろう?)の
思想を取り入れているのか興味深い。
時計回りに教会を一回りしてみた。
裏側に小さな公園があり、
混雑を避けてじっくりと対峙することができる。
裏側からみた塔にはSOSなる垂れ幕が下がっている。 恐らくは建設費用の支援を呼び掛けているのであろう。
私も入場料(8ユーロ)という形で建設に参加したかったが残念である。
まぁ良い。 200年後には完成する予定だということなので、完成したら再び訪れて、喜捨することとしよう。

※一説では、観光客の増加や工法の進歩で、完成が大幅に早まるという見通しも有る。
 ガウディーは正面側を支えている柱の下に亀を配し、「ゆっくり建てよ」と言い残していたとされているのだから、
西暦2200年くらいの完成を目指しても良いと思う。

4.グエル公園
グエル公園は市街地の北部に位置する丘の中腹に住宅地を造成しようとした、
ガウディーのパトロンのグエルの不動産投資の失敗の跡地と言われているが、
サグラダ・ファミリアや市街地を見下ろす彼方に地中海が広がり、
私が当時の当地の金持ちだったら暮らしてみたくなるようなロケーションである。

ガウディーも晩年の実父と共にここで暮らしていたようだ。
60人程度の金持ちが食いつけば、この高級住宅街計画は成功するはずだったのだが、グエルとガウディーを除くと一軒しか購入者が現れなかったという。
やはり延々と坂道を登らないと帰宅できないという地理条件を金持ちたちが嫌ったのか??

入園料は無料である。
敷地内では大道芸人(少ないし洗練されているので許可制か?)が演じ、観光客があふれていたが、上にも横にも奥行きがあるためか息苦しくなく、
時間があればゆったりと楽しめる空間である。 本などを持ち込んで、丸一日を過ごすのも良いかもしれない。
内部にはガウディーらしい曲線に構成された構造物が溢れ、ここでの試みが後に、サグラダ・ファミリアに活かされたかなぁと思いが巡る。
そう、ガウディーは、この宅地工事の失敗後に、教会の建設に専念することになる。
この公園の建設が中断されたのが1914年。
ちょうど第一次世界大戦の火ぶたが切って落とされた頃だ。
先述したように、この大戦にはスペインは参加していないが、
経済的・思想的な影響が小さくは無かったのかも知れない。

現代なら成功しそうな宅地なのだが。
それにしても、その時点でガウディー61歳。
現在の日本でも、経済的な事情が許せば隠居をしたくなる年齢である。
教会建設の為に半生を捧げ、専念するために?独身を貫き、後に73歳で事故死(建設費捻出の金策に走るなかで市電に轢かれた)するまで、
戦い続けた人生。
どこからその情熱が湧き出たのかが興味深いが、建設の進行と共にキリスト教への信仰も深まり、教会の完成にまい進する人生は幸福だったと信じたい。
一切の信仰心がなく、61歳になったら絶対に隠居したいと考えてしまう私は、後世に名前を残せそうにないが。(大笑)

3.Comida(昼食)
グエル公園から出てすぐの店で、スペインっぽい昼食。
実は好き嫌い皆無なのに99%菜食主義の相棒はサラダをオーダーし、私はスペインらしくミニパエリア♪

4.Barcelona Bus Turistic 2
食後は再び乗り放題のバスに乗車して、ティビダボ、サリア地区、ペドラスベス修道院やFCバルセロナの拠点のスタジアムなどを車窓ごしにパトロール。
フランセスク・マシア広場で、青ルートに乗り換えるべく下車をして、交差点にあったスターバックスで一休み♪
ウィーンのスタバはベンチを借用しただけなので、今回の旅での初スタバ♪♪
コーヒーメニューは日本と同じ様だが、豆乳(ソイ)はなく、トールより大きいサイズのみの品ぞろえ。

コーヒーに限っては、ヨーロッパ風よりアメリカ風が良いなぁと思いながら、お次は青ルートに乗車。
少し待たされて乗ろうとしたバスは、満席で乗車できなかったのだが、すぐにやってきた後続車はガラガラで、気分の良い物見遊山を継続することができる。
このルートはフランセスク・マシア広場を概ね南下して、サンツ駅、カタルーニャ美術館を通りながらモンジュイックに向かうのだが、
地球の歩き方'08-'09のルート図は、番号の振り方におかしなところがあるので注意を要する。

丘から南側に下る際は、地中海の眺めが最高に良いので機会があれば乗車をお薦めします♪
丘を下るとバスは東進してコロンブスの塔などを眺めながら、我々のホテルに向かっていく。
15時半に歴史博物館で下車してバス旅終了♪ 21ユーロの価値はあったかも♪♪

5.ゴシック地区
ホテルの部屋に一眼デジタルなどを投げ込み、少し身軽になって夕刻の街歩きに再出発。 滞在一日は忙しいのだ。
コロン通りの北側を西進し、雰囲気のある小道を北上して、伝統菓子で有名なカエルンへ。
スペイン土産の菓子類は、ここで十分にそろえることができる。 と言うか、目移りして困る♪

店を出てすぐのノヴァ広場?では、テントを張った骨董市が開かれていたが、私はもっぱら、傍に聳える教会の撮影に没頭。
その先にあるサンタ・カタリーナ市場も覗いて見たかったのだが閉じていた。 16時半を回っていたためか? 年末の日曜日だからか??
途中で簡単な食事と夜食の入手などを済ませながら、路地を抜けて19時くらいにホテルに生還。
3日目(12月28日) 1.エスタシオン デ フランサ
本日もバルセロナ地方は雨予報。
明け方に強い雨音がしていたが8時過ぎには傘を差さなくても気にならないくらいの小止みになる。
到着した一昨日も雨で、出発する本日も雨だが、晴れていてほしかった昨日のみは抜けるような青空。
大学時代から発揮していた晴男の神通力は健在である♪♪

8時45分のフランス行き国際列車を目指すべくエスタシオン・デ・フランサへ!
ホテルからスーツケースを転がしても徒歩3分の至近距離である。
駅構内には店がなく、通りの反対側でドリンクとパンをゲットしてから改札へ。
改札では切符を見ず、荷物のみだがX線チェックを行っていた。

2.国際列車 タルゴ
構内は閑散としている。
列車は13番線に入線していたので、指定の車両を見つけてすぐに乗り込んだが、切符の指定席番号と実際の番号の打ち方が微妙に違うので、
大体この辺りということは分かっても席が特定できない。
他の乗客も困惑している。 おたおたしていると不利なので、およその場所の適当な席に座ってしまうことにする。
発車前に車掌が来たので訊ねてみると、やはり「この付近」のドコでも良い様なことを言う。 やっぱラテンだなぁ♪♪

座席は95%が進行方向に対して後ろ向き。 どこかで進行方向を切り替えるものと思っていたが、結局はそのまま走り続けることになる。
去年のTGVも車両中央を挟んで、前向き席と後ろ向き席が固定されていたし、進行方向向きにこだわるという発想は無い様子である。

発車してしばらくすると、車掌ではなさそうな男女がペアになって、調査票のようなものを配り始めた。
A4サイズのカラフルな紙。
「どこからどこに向かうのか?」「乗車の目的は何か?」「何歳か?」などが、紙の縁を切り取る形で回答する選択式になっている。

出発して一時間ほど経つと、左側の車窓に白い山が見えてくる。 スペインとフランスを分けるピレネー山脈だ。
今回は、バルセロナからバスに乗って、ピレネー山中の小国アンドラも襲撃する作戦も候補に挙げていたのだが、降雪期なので見逃してやることにしたのだ。
右側には地中海も見え隠れしてくる。

約2時間でスペイン側の国境の駅ポルトボウ。 そこを出発した後、トンネル内で国境を越えるのだが、何事かと思うほどのノロノロ運転。
しかし概ね、時刻表通りに進行しているので、予定通りのソロソロ運転なのだろう。
後ろ向きな国境通過を敢行した我々は、先のペルピニャンまでの切符を入手していたが、フランス最初のセルベールで残りの区間の権利を放棄し途中下車。

3.コリウール
ペルピニャンまでの切符を持っていながら40km手前のセルベールで下車をしたのは、南仏・ラングドック地方の風光明美なコリウールに向かうためである。
バルセロナから乗車した国際列車タルゴは、この駅を通過してしまうのだ。
最初からセルベールまでの切符にしておいても良かったのだが、天候が悪かった場合は、そのままペルピニャンまで行って、マジョルク王宮を物見するという
選択肢も残しておきたかったので、あえてこの様な作戦を立てたのである。

バルセロナからペルピニャンまでが一人36ユーロだったから、権利放棄をした分の差額は数ユーロ?
自由度を確保しておくためには、許容範囲内の投資である。
セルベールで11分の待ち時間で乗り継げるはずの各駅停車はなぜか「今日は運休!」と言われてしまったが、次の列車は予定通りの運行♪

付近に何もないセルベール駅で自動販売機のコーヒーなどをすすりながら、一時間ほど待機。
コリウールに停車する電車はセルベール始発で、車両は貸し切り状態♪ 右側の車窓には美しい海岸風景が続き、期待が膨らむ。

駅に着いたら次の列車の切符をゲットして、スーツケースをゴロゴロ引きずり、およそ5分の下り坂。
歩道には所々、ワンコの落し物が残されていたが、負担な道のりでは無い。
目に止まった手頃でよさげなレストランでランチタイム♪ 
想定以上に美味しいシーフードプレートを堪能した後、作戦通りに「30分だけ荷物を保護して」と店員にお願い。
快く承諾をもらい、身軽な身体になって海岸線へ♪♪
時間は限られていたが、街も小さく、気分良く地中海の風を楽しむことが出来た。

20世紀の初頭に、多くの画家たちに愛された理由が良く判る。
私だって絵心があれば、キャンバスに向かってみたいような景観である。
30分のプチバカンスを終えレストランで年配の店員に、「荷物をありがとう!」と言うと、とぼけた顔で「何の話?」と切り返してきて、お互いに大笑い。
これを日本でやったらトラブルになるかもしれないが、私好みのジョークである。
私のジョークも時々伝わらない場合があるが(ギャグがすべるという話ではない!)、ここのセンスでならうまくいきそうだ。

4.ペルピニャン
コリウールからペルピニャンまで20分。 ここでTGVの切符をゲットして、今日はニームまで歩を進めてしまうことにする。
そこで二泊すれば、荷物を部屋に置いたままでルション地方を駆け回れるという作戦だ!
この駅舎の時計台の上には、サルバドール・ダリの像が鎮座しているという話だったが、我々がペルピニャンを襲撃した時は、彼は留守にしていたようだ。
恐れをなして避難していたのかもしれない。
ペルピニャンからニームまでは210kmで2時間10分。 平均速度およそ100km/hで、TGVと言えど普通の特急列車に毛が生えた程度である。
しかし車窓は期待を裏切らない。 高台に城郭が見えたかと思うと湖に浮かぶ村があったりもする。
ナルボンヌやモンペリエなど、ちょっと降りてみたいなぁと思える街を惜しげもなく通過して17時40分に、電車はどっぷりと日が暮れたニームの駅に到着する。

5.ニーム
ニームで宿泊する可能性は想定していたので、宿の当たりはつけていた。
グーグルマップでホテル検索をして、目星をつけたホテルのHPを調べるという手法である。
ニームは判り易かった。 駅の表玄関である北口を出て、すぐのところにWで50ユーロから60ユーロ程度の中級ホテルが並んでいる。
少し離れると高級ホテルになるという枠組みは、旅をしやすい仕組みである。 我々は二軒のうちでも駅に近い、TERMINUSに投宿。
18時には荷物を部屋に持ち込んで、18時40分には旧市街に殴りこむというスピード記録を樹立した。
フランスと言えど、プロバンス地方はイタリアやギリシャと同じくローマ帝国の文明の影響を強く受けている。
ここニームにも、後に襲撃することになるアルルにも、ローマのコロッセオの様な円形闘技場が現存する。

ニームのそれは、紀元前一世紀頃と言うから2100年くらい前の建設だが保存状態がとても良いらしく、
夜にはライトアップされていて美しい。
デニムの起源でもあり、その名前にもこっそりと織り込まれているニームというのがプチトリビア。
ただ、広場でも付近の街区でも政治活動っぽい動きをしている集団が大人数いて、パトカーなどが遠巻きに見ていたことから、
観光客よろしく写真を撮りまくるのを差し控え、30分くらいで駅前に帰還した。
君子危うきに近寄らずと、虎穴に入らずんば虎児を得ずは、矛盾する格言ではない。 我々には明日の夜も明後日の朝も残されているのだ。

駅前の大通りをはさんで、宿の正面にレストラン併設のバーがあった。
実はその前に、投宿したホテルの真横のレストランに、19時半に入ったのだが、20時に閉店するのでドリンクしかないというようなことを言われ、
大通りを横断したという経緯がある。
メニューはイタリアン中心だったが適当にオーダー。
ところがところが、オーダーを間違われたのか、相棒のベジタブルサラダにベジタブルピザが追加されていた。私が頼んだシーフードピザと混同したのだろう。

本来なら間違いを指摘して下げさせた方が良いのだろうが、私も相棒も来るモノは拒まず主義である。
下げさせるという交渉が面倒臭いという本音もないではないが、来たモノに興味が湧いてしまうというのが本心でもある。
結果として、二人して玉砕した(大笑)
4日目(12月29日) 1.ニームから路線バスに乗って
昨夜から情報収集に努めていたが、ニーム駅の裏側のバスターミナルから、フランスで最も美しいと言われているユゼスへの路線バスがあるらしい。
この、○○○で最も△△△という表現は、100%真に受ける必要もないが、眉に唾をつけて侮るものでもない。
美の基準は様々だから最も美しい街と言うのは論理的に存在しないと思われるが、そう言われるのにはそれだけの理由があるはずだ。
それを確認するのは、写真集でも、褒め称えた文章の数々でも良いが、自分の目で見に行くというのが私好みの選択肢である。

昨夜は閉じていた観光案内所を訊ねると、気の良さそうなオバチャマが丁寧に、ユゼス行きと戻りのバスの時刻表をカラーコピーしてくれた。
直近では8時55分に出て9時40分に到着するのがあるらしい。 切符はバスの中で買えると言うので、教えてもらった停留所の番号で待機。
定刻の3分前に、思いのほか大きなバスが現れた。 E52系統でUZES行き。

2.フランスで最も美しい街 ユゼス
バスは街の西側を回り込んで北上。
どうしてこんな大きな車体にするの??
と、突っ込みを入れたくなるようなガラ空き状況と山道である。

シーズンには客が多く、季節によって車体を変更するのも
難しいのでこうなってしまうのだろうが、
45分の道のりで1.5ユーロというのがインド並みに安い!
絶対に採算が取れていない、、、と言うかガソリン代も回収できていないと思う。
とまれバスは街を抜け、山を越え、渓谷を眺めながら定刻より5分ほど早くユゼスの街に到着。
少し手前から美しい塔が遠望でき、ちょっと期待が膨らんだりもする。 到着する少し前に、アヴィニオンから来る道と合流したようだ。
ポン・デュ・ガールに行くには、この道を東南に進むのであろう。

バス停から直行したインフォメーションセンターは10時に開きそうなので、15分ほど街中をパトロールした。
確かに美しい、、、と言うか、街自体が愛らしい。
装飾が乙女チックというのとは違う。 景観に無駄がなく、ストレス感がまったくないのだ。 やはり、最も美しいと言われるのには、それだけの理由がある。

10時を過ぎたのでインフォメーションセンターを襲撃。
さほど広くないセンター内にはホテル情報ばかりがあふれていたが、フランス語で奮闘した相棒が、テキパキとした担当者からポン・デュ・ガールとの
間を結ぶバス路線の時刻表をゲットした♪
今度は白黒で両面コピー。 直近のバス(アヴィニオン行き)は13時7分らしいので、3時間ほどの自由な時間を得る。

街はずれは畑が広がっていた。 低地の草っぱらで馬?がノンビリと草を食んでいる。 つながれてはいない。
きっと街の人間たちも、何かにつながれたりすることなく生きているのだろう。(何にもつながれないということは、それはそれでシンドイことではある)

この街はニワトリをモチーフにしているのか、ところどころにニワトリを意匠化した図柄があった。
街をグーグルマップで眺めると、5つの通りで円形上に囲まれ、南側から西側にかけて大きく線路が迂回しているのが判る。
その昔、喧騒を嫌って鉄道敷設を回避したのか、近年になって建設された工業団地に線路を引く際、街を通過するルートが取れなかったのかは不明だが、
駅が近くに無かったために、不便がゆえの素朴で美しい街が残されることになったようだ。

3.ユゼスのマチナカ
「いったいぜんたい、どうしてくれるんだ?」 と言いたくなる可愛い雪ダルマとサンタクロースが佇んでいる。
私は、多くの日本人に不足しているのが、人生の遊び心だと思うのだが、この街の住人はそれを失っていないようである。

この街に限らず先に回ってきたバルセロナや以前に訪ねたイタリア各地など、ヨーロッパの街造りには遊び心が練り込まれている。
日本の街にそれがまったく欠如しているとは言わないが、公園など公共の場所は、おかたく真面目な印象がぬぐえない。

個人宅のクリスマスイルミ(私はあまり好みではないが)や、観光地のモニュメントは遊び心が感じられるものも少なからずあるが、
後者のそれは遊び心と言うよりは集客技術の一つであって、そこに暮らす住民が楽しむためかもしれない。
ポン・デュ・ガールに出発する前に街頭で軽くランチ。 店先で食べる我々の姿を見て、店に入って行った通行人が何人かいた♪

4.ポン・デュ・ガール
ユゼスからアヴィニオン行きの路線バスに乗って約20分。 やはり1.5ユーロであった。
およそ2000年前に建設されたローマ様式の水道橋である。
ローマ帝国が現在のフランスまで版図を広げた時代、政策的に人口を増強しようとした振興都市ニームに必要な飲料水を送るために、
ユゼスの近くの水源から50kmに渡る水路を造った時、ガルドン川を乗り越すために建造されたと言われている。
水が水の上を通過するために、大きな石を、全長275m×高さ48mも人力で積み上げたというのだから、そのエネルギーには恐れ入るばかりである。
しかも美しく、機能的。。。  日本だと弥生時代の中期あたりなのかな?

夏でも不便らしいのだが、冬の今はバスの便も少なく、橋をすみからすみまで眺めてみても、巨大なキノコにびっくりしてみても、観光センターでコーヒーを
味わってみても、ユゼスに戻るバス時刻の17時13分はナカナカやってこない。
我々が到着したのは13時24分頃だから4時間近くは持て余す。
アヴィニオンに出てSNCFでニームに戻るルートも成り立つが、それだとさらに20分ほど長く待つことになる。
センターからタクシーが呼べたり、タクシーが待機していたら観光も便利になるだろうし、きっとタクシーも儲かるのだが、それが可能な風でもない。

「バス停に戻ってみたら、何か答えが見つかるかもしれない」と言いながら、500mほど歩いてユゼスとアヴィニオンとを結ぶ幹線道路に戻ってみたが、
やはり次のユゼス行きは17時13分で、別のバス会社の16時台の時刻も出ていたが、来るのか不明確だし、来るにしてもまだ一時間くらいある。。。

そこで、我々はヒッチハイクを決行することにした。
バス停付近は車が少し速度を落とす道造りになっていたので、ユゼス方向に走る車に向かって右手の親指を突き出してみる。
大半が無視、、、「ダメだよ~」と、右手の人差し指を顔の前で振る人もいた。
それ以前に、後部座席が空いている車が少ない!! 年末だから家族で行動しているのかもしれないが、子供が乗っていたり、おバァちゃんが座っていたり、
空いてるかなぁと思ったら大型犬が鎮座していたり。。。

2~30分ほど試みて、無理かなぁ~と作戦を変更しようかとした矢先に、手をあげていないのに、向こうから停まってくれた車がある!!
去年のボルドー事件の再来である!!
乗せてくれたのは、ユゼスに住むという夫妻。 日本に行ったことは無いが、イスタンブールで三菱銀行に勤めていたことがあると言う。
おかげさまで、まだまだ明るいうちにユゼスに生還し、カフェでまったりとすることが叶いました♪

5.再びのユゼス
ポン・デュ・ガ-ルから生還した我々は、フランスで最も美しい街の最も美しい時間帯を迎えることになる。
広場や通りの木々に、派手過ぎず、しょぼ過ぎず、ほどよい電飾が施されていて、街の中心部の塔までが光り出す。
夕食にはまだ早かったので、カフェでクレープをつまみながら夜の帳が街全体を包み込むまでのわずかな時間を楽しむ。

ニームに戻るバスは17時45分発。 5分くらい前にバス停に戻るが、アレス行きとユゼス行き(ここじゃないか!)の表示のバスしか来ていない。
「きっとユゼス行き表示のバスがそれだから、運転手に確認しよう」と言った瞬間に、もう一台のバスが少し手前でつっかえているのを発見。
表示のE52が輝いていた♪
復路も、バスの巨体にはそぐわない山道を、ほぼ貸し切り状態で一人1.5ユーロ。。。
ニーム市街地に入った頃から運転手は、我々がどこで降りるつもりなのかを心配してくれたが、終点のSNCFニーム駅ですよと言ったら安心してくれた。
美しく温かい街だ♪♪
5日目(12月30日) 1.ニームの朝
雪の朝。 バルセロナと言い、ここニームと言い、我々が出発する日は、空は涙を流さずにはいられないらしい。
一昨日の夜、十分には市街地を制圧しなかったので、ホテルをチェックアウトしてアルルに向かうバスに乗る前に、もう一度旧市街をパトロールした。
客がいないカフェでは、コーヒーを前にサンタクロースが天を仰いでいる♪♪
クリスマスの大役を終えてホッとしているところなのだろうか?? ちょっと話かけてみたくなったりもする。

ローマ都市としてはフランス最古だと言うことだが銅像が多い。地中海文明は多様性に溢れているので、歩いていても変化が楽しいのだ。
見どころは円形闘技場がある街の北側に集中し、バスターミナルがある駅の南側はだだっ広くてどちらかと言うと近代的。
ニームやユゼスで多く発見した、ATM?の看板は、どう見てもフランス語に見えない。
私と相棒は愛情をこめて、それを「毛ガニ」と呼んでいた。
毛ガニには、赤毛ガニと灰色の毛ガニがあり、どちらかと言うと赤毛ガニの方が毛ガニらしくて好きである。

2.ニーム脱出
二泊したホテルをチェックアウトし、SNCFの駅を通り越して、ユゼスに向かったバス停の隣から、11時ちょうどの路線バスで今度はアルルに向かった。

3.アルル到着
ニームから路線バスで30分。 やはり1.5ユーロの極安でアルルのSNCF駅に到着する。
このバスも、一部区間にフランス人の老婦人が乗っただけで、ほぼ貸し切り状態。 大型バスが30km以上を走って、売り上げが4.5ユーロなり。
きっとこれらのバスはSNCFの直営(または支援を受けている)で、鉄道部門で利益が出れば良いことになっているのだろう。
バスは時々大通りをそれながら南西方向に向かい、途中で日本にも進出したカルフール(フランス語でで”交差点の意味”で発音は”キャフー”と聞こえる)の
駐車場にも立ち寄る。
運河を二つ越え、最後にローヌ川を渡ったら、市街地に入り込んで、ほどなくSNCFのアルル駅前バス停に到着。
アルル駅は可愛らしいが、トイレがなぜか閉鎖されていた。

ここではホテルを事前調査していなかったが、市街に入れば何とでもなるべぇと、スーツケースを転がして約3分。
ガヴァルリ門を抜けてすぐ右前に「BAR HOTEL」と看板が出ていたので飛び込んだ。 値段を訪ねてみると二人で42.3ユーロだと言うので即決。
部屋も広くて良かった。
落ち着いてからホテル名を確認すると、「HOTEL de PARIS」・・・明日の夜、ディジョンで確保しているホテルの名前と同じであったが関係はなさそうだ。
BARの名前は、「BAR AMERICAN」・・・いやいや、、、ユックリさせていただいたのだから、笑ってはいけないか。。。
ホテルに着いたのは11時40分くらいだったが、すぐに部屋に入れてくれた。 小さなホテルは融通が効くので重宝する。

4.アルルの街と遺跡
すぐに体制を立て直してアルルの街の成敗に出撃する。
アルルもニームと同様にローマ帝国の影響を色濃く受けた都市で、ローマ風の遺跡が数多く残存している。
フランス最大の円形闘技場といい、共同浴場といい、ローマ遺跡そのものではないか!?
下の写真は、円形闘技場の最上部から街と内部を見下ろしたもの。
中に入るにはお一人様6ユーロで、座席は微妙に仕切られ、希望の位置に行くには迷路を歩いているような感覚になる。

5.ヴァン・ゴッホ橋
タクシーを捕まえて、ヴァン・ゴッホ橋へ。
(この橋は「アルルの跳ね橋」と呼ばれている、ゴッホの有名な作品のモデル)
(ただし、別の場所に再現されたものであり、実際の絵のモデルとは言えない)

言い値の12ユーロは、ちょっとボラれたかも知れない。
帰りは歩いたが、今日のように天気が良い日なら、きっと気持ちの良い散歩になるだろう。

運河には廃船(動きそうにない船)が幾艘か停泊していて、どうやら人が暮らしているらしい。
電気やガスはともかく、上下水道はどうしているのだろう??
6日目(12月31日) 1.アルルを後にして
一泊しかしないアルルでは、昨日の到着時に広げられていたノミの市を今朝の楽しみに取っておいたのだが、明るくなってきても開かれない。
大晦日なので、お休みなのかもしれない。 目的を取り替えて、城壁の外を壁に沿って散策する。
今日はアルルの駅前を10時50分に出発するアヴィニオンTGV駅行きのバスに乗ることにしたので、2時間程度のアルルな時間だ。
ちなみに、アルルからアヴィニオンへは鉄道で行く方が圧倒的に早いが、本数が多くないし、アヴィニオンのセンター駅に着いてしまうので、
そこから再び車に乗ってTGV駅に向かうことになってしまう。

大晦日の朝のアルルは静かだった。 ちょっとした路地や公園にも人けが少ない。
薄暗がりでゴッホの首を発見した時はドキッとしたが、悪意は無いない証拠に花などが植わっている。
9時開店のカフェでお茶をしてからホテルに戻って10時過ぎにチェックアウト。
ホテルの一階は、夜はバーとして盛り上がり、朝からはカフェとして頑張っている。 名前を笑って、すまなかった♪♪

2.アヴィニオンTGV駅
アルル駅からアヴィニオンTGV駅に向かうバスは、「これも1.5ユーロか?」との期待を裏切って、お一人様6.6ユーロだった。
この落差は何なのだ??
トラスコン駅経由で到着したアヴィニオンTGV駅は、ダダっ広い駐車場に包囲された、超近代的な駅舎である。
内部の空間も写真の様に近未来風。 この旅で唯一のトイレチップも徴収された。 まぁ良いのだが、50セントは高いかも。
我らが目指すディジョン行きは4番線で、マルセイユ行きは3番線だが、1番線と2番線はドコに行ってしまったのだろう??

乗車するTGVは時刻通りにやってきたが、電光掲示板による案内と、実際にやってきた電車の車両編成の順番が違う!
ホームで待つ乗客がパニック状態に陥りながら民族大移動。
順番が反転していたのは全車両の半分で、Dijonを越えてMetzに行く8車両。 後方のDijon行き車両に混乱は無かったように見えた。
に、してもである。 この車両は3時間以上前にニースを出動しているのだ。 ここに着くまでに、その情報は無かったのだろうか??
我々だけがフランス語の構内放送を聞き落としたというのではない。 ホームの全員が混乱していたのだから。

列車到着前に我々に、「次に来る電車はMetz行きか?」とフランス語で訊いてきた松葉杖のお姉さんが、無事に所定の車両に乗れたのかが心配である。
しかし、なぜフランス語を操る(たぶん)フランス人が、明らかに東洋人の我々に尋ねるのかは不明だ。
ニームからアルルに向かう直前のバス停でも、相棒がお婆さんからトイレの場所を尋ねられていたが、周りにフランス人は沢山いたのである。
もっとも私なんぞは、アフリカや南米でも現地民族と思われる人に、何度か道を訊かれているが。

3.ブルゴーニュ公国の首都 ディジョン
そんな混乱でアヴィニオンを5分遅れで出発したTGVだが、ディジョンには、ほぼ定刻に到着した。
途中のリヨン駅では混乱は無かったので、そこまでに情報が届いたようである。 ネットで確保しておいたHOTEL de PARISに徒歩3分で投宿。

ちょうど日本が新年を迎えた頃に部屋に荷物を入れ、間髪入れずに街中へ。
このディジョンは、その昔この一帯がブルゴーニュ公国として繁栄していた頃の首都で、今も人口15万人を擁する中都市である。
この街もまた、美しい。 色・・・だろうか? 石造りの重厚感だろうか・・・。
石の壁は夕日が映えて日没時は特に良いのかもしれない。

大晦日なので早まっている閉店までに名物のマスタードとワインを買い求めた。
街の中心に有るノートルダム寺院は、遠くから見ても、正面から見ても、裏側から見ても絵になる。
細い通り側には、左手でなでると幸福になると言われているフクロウが壁に刻まれていて、皆が触るものだから、表面がツルツルになっている。
そうこうしている内に、日がどっぷりと暮れてきた。 2009年の最後に、何を食べるべきかを考えなくてはならない時間だ。

4.2009年 最後の晩餐
思っていたよりも、大晦日に営業しているレストランは多くは無い。
昨年の失敗体験?から、午前0時に食べ終わるニューイヴディナーもイメージしていたが、
早目に手軽な店で食べるのが賢明かもしれない。

そこで、インフォメーションセンター近くのブルゴーニュ料理店で、オーダーが楽なコース料理を注文。
最も目立つフライドポテトがブルゴーニュかどうかは知らないが、エスカルゴに牛の赤ワイン煮込みなどは、
きっと大きくは外していないことだろう。
2時間程度の間に、我々が入った入口は閉鎖され、予約のパーティー客が集まり始め、ただでさえ少ない店員が不足気味。
そのあおりか、我々の勘定と(恐らくは隣の夫婦の)勘定が取り違えられ、10ユーロほど多く支払ってしまうというオマケまで。
(途中で気の利く店員が帰宅したのも大きい)
しかも間抜けな私はそれに気づかず、ホテルに戻ってから相棒に指摘されて初めて気づくというノンビリぶりである。
2010年も、素敵な年になりそうだ♪♪
窓の外は深夜(明け方)まで、酒を飲んで騒ぐ声が聞こえていたが初詣には行かなくて良いのかな(笑)
6日目( 1月01日) 1.ブルゴーニュワインの故郷へ
昨夜の喧騒とは打って変わって、街は静かな朝を迎えている。
今年の元旦はSNCFストのうわさも無く、ディジョン駅から普通電車に乗ってニュイサンジョルジュ駅を目指した。
ブルゴーニュワインの生まれ故郷を表敬訪問するためである。
この電車、普通車両だが、座席配列がサロン風でおしゃれである。
さすがフランスと言いたいところであるが、この車両だと日本の通勤電車としては顰蹙ものであろうから、両国とも状況に合った車両が進化したということで
良いのかもしれない。

2.みぞれ降るブドウ畑
このコート・ド・ニュイ地区には、ロマネ・コンティーやクロ・ド・ヴォージョ、シャンベルタンなど、無粋な私でも名前を耳にしたことがある名だたるワインの、
しかも特急品のブドウ畑が集結している、世界でも有数の、単位面積当たり売上高が大きい農産物地帯なのだそうだ。
と、言っても、一平方メートルあたりでブドウの木が3~4本で、それから産出されるワインが一瓶程度だから、農家の方の御苦労はいずこも同じであろう。

ブドウ狩りに行った人ならイメージするように、高さが3~4mの棚に弦が絡まって、そこからブドウがぶら下がっているように思えるが、
ワイナリーのブドウの木は高さが50cm程度で、接木と言うのがポイントらしい。

関係ないが、プジョーとシェルがコラボっている店があった。
我々はこの付近を、8時間くらいはパトロールする作戦であったが、そうはさせじと、みぞれが降り、北風が吹きつけてきたので、
今回だけは見逃してやると言い捨てて、3時間後にVOUGEOT駅に勇気ある撤退を行った。
駅に着いた10分後に、ディジョンに戻る電車がやってきたのだが、その次に、この駅にディジョン行きが停車するのは5時間後であるという事実を、
その時の私は十分に認識していなかった。

3.ディジョンの正月
ディジョンの市庁舎前のリベラシオン広場が美しい。
白く演出された木々が(さして深くない)根元から倒れていたのは、今朝の風の悪戯なのか、大晦日を街で過ごしたアルコール愛好者の所業であるのかは
判明しなかった。 ノートルダム寺院の人や動物の彫刻は、下から見上げると、ちょっと怖い。
6日目( 1月02日) 1.ディジョンからTGVでパリ-リヨン駅へ
ディジョンからパリのリヨン駅までは300km弱、TGVで1時間40分の行程である。
10時前の列車に乗って移動。 途中からTGVの専用路線に入るのか、体感120km/hで走っていた列車が、途中から俄然やる気を見せ始めて、
新幹線並みの速度で雪原の中を疾走し始める。
ディジョン駅で乗車前から目立っていた中国人団体が同じ車両にいて、その一人が無遠慮にずっとビデオカメラを回していたのが気になったが、
そんな彼らもTGVは乗せて、5分遅れでリヨン駅に到着。 仲間を撮るのは判るが、彼はもっぱら他人を撮影している。
肖像権とか、難しいことをいう気はないが、無礼という言葉を彼は知らないのであろうか?

2.パリ歩き その1 オベルカンフからリヨン駅へ
リヨン駅からタクシーに乗り込み、相棒が確保していたホテルに直行。
まだ正午の為にチェックインは出来なかったが、スーツケースを預かってもらって一年ぶりのパリ探訪に出発。
方向感覚を間違えて、一旦はレピュブリック広場の像に挨拶し、そこから踵を返してバスティーユ交差点経由リヨン駅へ。
一昨年の年末に、モンパルナス行き空港バスが最初にこの駅で停車した時は、その荘厳さに感動したが、やはり何度見ても立派である。

3.パリ歩き その2 リヨン駅からクールサンテミリオンへ
リヨン駅で、明日の空港行きエールフランスバスへの合理的な経路を下見した後、まずはセーヌ川の右岸を遡る感じで南東に向かった。
少し肌寒いが、それが冬のパリらしくて心地よい。
川を隔てた左岸には、前回のパリ宿泊の拠点としたモンパルナスのタワービルが黒々と聳えているのが遠望できる。
川はさほど綺麗なものではなく、イメージするほどロマンチックな散歩道でもない。

ベルシー公園でセーヌを離れ、クールサンテミリオンで休憩(カフェに座ったが、オーダーを取りに来てくれなかった)
そこから地下鉄に乗って、今度はシテ島へ。 券売所の係員が行方をくらましていて、回数券が買えなかった。

4.パリ歩き その3 ノートルダム寺院からタワーエッフェルへ
CHATELETで下車して地上に出ると、目の前にサン・ジャック塔が聳えていた。
そこから感覚的にセーヌを目指し、シテ島内をノートルダム寺院の方向へ。

寺院の正面には巨大なモミの木が飾られ、多くの観光客が広場を埋め尽くしていた。
人込みを避けて裏側に回る。
こちらの方が立体的で絵になる感じだ。
そこから左岸に入って、景観としての世界遺産パリを眺めながら、タワーエッフェルまで延々と歩く。
セーヌ川沿い名物の古本屋と、そこに立ち止まる人が歩道をふさぐ感じで少し歩きにくいが、不満を感じるほどの立ち場でもないので、
適当に人を避けながら下流を目指した。
工事中のビルの安全幕にまでイラストを描いて、街の景観に配慮をしている。 真似る必要はないが、見習いたい精神である。

昨年の今日は、雪が積もっていたコンコルド広場とオベリスクが対岸に見える。
その時、回っているのかいないのかがはっきりしなかった観覧車も、今日は猛烈な勢いで回転している。 去年のあれは、きっと回っていなかったのだろう。
途中で写真を撮ったり、カフェで休憩しながらも1時間20分でエッフェル塔に到達。夕暮れ時に間に合い、ちょうど良い感じのタワーと向き合えた感じである。

5.ディナー in Le Train Bleu
明日は私がパリを離れるので、今回の旅行の締めくくりの晩餐を♪♪
(仕事の都合がついた相棒は、95時間の延長戦を繰り広げることになっている)
ホテルリッツのディナーを予約しようかと言う話も作戦会議で出たのだが、ここは出たとこ勝負の旅にふさわしくということで、予約なしでのディナーを敢行。
当日決議の修正作戦会議により目指すは、
リヨン駅構内の名門Le Train Bleu♪

ディナータイム19時の10分前に殴り込み。
「予約は無い」と言うと準備席で待たされ、
19時過ぎに割と落ち着かない席に通された。
他の客は皆、予約をしているようだ。
かと言って、けして冷遇されたわけではなく、接客態度はキチンとしていた。
日本語を使う努力も見せてくれ、コースに含まれていたワインも、二杯目までは店員が注いでくれた。 十分に満足して、二人でほぼ100ユーロ。
6日目( 1月03日)
帰国日( 1月04日)
1.地下鉄に乗って
宿泊したホテルのあるオベルカンフはヲタクな街だ。 ガイドブックにだって書かれているし、地下鉄のホームの看板を見ても推測できる。
昨夕、タワーエッフェルから戻ってきて、この界隈を歩いた時にも、なんだかそんな空気が流れていた。
しかし治安は良いらしく、それゆえに相棒は単独4泊する街をここに選んだ(のだそうだ)。

私のフライトは10時50分だが、時間的な余裕を見てと言う前に混雑を避ける意図で、6時半にここを出た。
バスチーユ駅で乗り換え、リヨン駅で相棒に見送られながら、7時20分のバスでシャルル・ド・ゴール空港経由、日本に向けて帰途に着いた。

2.シャルル・ド・ゴール空港 ターミナル1
去年はエールフランスからJALへの乗継だったためか、自動機によるチェックインが出来なかったが、今年はルフトハンザで通しの為か、スムースに二便とも
座席指定まで出来た。

出発ボードを見ると、フランクフルトに向かう我がLH4213便は定刻通りと表示されている。
少し時間に余裕があったので、初めてのターミナル1(昨年は発着共にターミナル2Fだった)を探検し、地下のスターバックスでバルセロナ以来の
スタバコーヒーに何だか不出来なサンドイッチを買い込んで朝食とした。

しかししかしである。 サンドイッチセット(コーヒーはラテのトールサイズ)で9.1ユーロ=1200円強である。 それはヒドイよね??
その後、土産物屋でユーロ処分を兼ねたチョコレートの買い込みを行ってから未知の空間への旅立ちのような様相のゲート60-68へのトンネルを抜けて、
既知の空間の日本へと舞い戻るべく歩を進めた。

行きついた先は普通のセキュリティーチェックと、変哲のない待合室である。
そこに着いたのがボーディング予定時刻の50分前くらいだったのだが、しばらく経って発着案内板が、「定刻通り」から「遅延」に変貌した。
しかも、変更後の予定時刻が示されないという不気味な事態に。

 3.フランクフルトは雪模様
そもそも今回の私の乗り継ぎ時間は1時間25分しかないのである。
同じルフトハンザを乗り継ぐのだし、すでに成田行きの便のチェックインまで済ませているから、理屈としては飛行機は待ってくれるはずだ。
しかしそれは必ずしも保証されている訳でもない。
過去に、奮戦むなしく北京空港で帰国便に置き去りにされたことや、ハノイからの帰りに香港のチェクラップコク空港で走りながらチェックインし、
30分で乗り継いだケースなどが頭をよぎる。
北京で乗れなかった時は、同じキャリアの乗継だったが、西安で帰国便のチェックインができなかった。
香港で乗れた場合は、ハノイ-香港間はキャセイとベトナム航空の共同運航便で、帰国便はANAだったが、やはりハノイでは帰国便のチェックインが
出来ていなかったのである。
その時に比べれば、今回の方が圧倒的に乗れる確率が高そうだが、いつまで経っても変更時刻が出ないし、さっきまでは定刻通りとされていたのが
イキナリだから、機体トラブルか事故でもあったのかと勘繰ってしまう。
他の乗客も同じ様な思いを巡らせているのか、あからさまにイライラしている人もいた。

変更時刻も理由も判らないままに出発時刻を少し回った頃、窓の外に小型のルフトハンザが出現した。 どうやらコイツがダダをこねていたらしい。
「30分後のボーディングが精一杯かなぁ?」と、その機から降りて行く乗客や飛行機への給油などを見ていたら、ゲートに11時55分ボーディングと表示される。
初めての具体的な情報だが、これだとちょうどフランクフルト到着時に、帰国便が離陸してしまう計算になる。
空港の上空で飛行機を飛び移るのは何だか大変そうでもある。

11時55分が近づくと、乗客もスタッフも含めてゲート前が慌ただしい動きになるが、ちょうど11時55分になった途端にボーディング時刻表示が12時05分に。
ヤレヤレである。
しかし、12時02分くらいにボーディングが開始され、12時30分に飛行機は無事にフランスを離れた。
予定の飛行時間は55分とか言っているから、13時35分出発の帰国便に乗るためには、滑走路を横切って飛び乗ればなんとかなるかもしれない。
早口のフランス語の後、もっと早口の英語で、
「この機はドイツ地方の雪の為に遅れた」「NARITA行きも雪の為にボーディング時刻が変更された」というようなことを言っている。

慌ただしく軽食サービスが行われ、再びシートベルトサインが出たところで、
「この機はA25ゲートに到着する」「ムンバイ行きはゲートが変更された」「イスタンブール行きも変更された」などとアナウンスが続く。
その時は成田行きには触れていなかったと思うが、取りあえず座席ポケットに有る冊子の空港案内図を見て、フランクフルト空港の構造と到着ゲートの位置、
チェックイン時にパスに刻印された予定ゲートの位置などを頭に叩き込む。
ちょうど13時30分に空港の建物内に入り、案内表示を見ると、成田行きの出発は14時10分に、ゲート番号も微妙に変更されていた。

4.帰国便に駆け込んで
この空港でソーセージを食らうべく、財布の中に残していた20ユーロの事は忘れて、とにかくB22番ゲートまで走り続けた。
恐らくはボーディング締め切りまで25分くらいあるから、そこまで頑張らなくても良かったかもしれないが、私のパスポートコントロールはこれからなのだ。
A系列の到着ロビーから、B系列の出発ロビーに写る時点で、エレベーターに乗らなければならない。
そこにたどり着いた時、ちょうど扉が閉じかけていたエレベーターが有ったのだが、走り込んできた私の姿を認めたのか、中から「AH!」という声がして、
再び扉が開けられた。 駆け込んで「ダンケシェー・・・」と言いかけ相手を見ると、機能的な服装が感じの良い30歳前後の日本人女性。

彼女も息を弾ませている。 「成田行きですか?」と聞くと「私は関空」と答える。
エレベーターから脱出し、再びパスポートコントロールに向かって走りながら話をしたが、ストックホルムからここを経由して大阪に帰るところらしい。
彼女も帰国便のチェックインは済ませていたが、やはり「確定的な保証ではない」という事を理解して走っていたようである。

パスポートコントロールのところで別れて、我が成田行きが出発するゲートに向かったが、13時50分くらいにたどり着くと、ちょうどボーディングが始まった
ばかりのようで、まだ列が長かったことから余裕を見せ、トイレに行ってから乗機した。
ここでの乗継では、セキュリティーチェックは無いようである。
ソーセージに変身できなかった20ユーロが、今も財布の中で恨めしそうにしているが仕方がない。

離陸して街を見下ろすと、マイン川を挟んで両岸が白く染まっている。
この機内で、今日は朝からフランクフルト空港では、翼への着雪のためにダイヤが乱れまくっていたことを知らされた。
 
1.高度11000mの夜明け
フランクフルト出発時の40分の遅れを引きずったまま到着する見込みだが、戻ってきたのは日本である。
スペインと比較してもフランスと比較しても、良い面もあれば不足な面も有り、好きな面もあれば嫌いな面もあるが、やはり戻ってくるのは日本である。
海外から帰還するのは、これで20回目になるが、これからも戻ってくるのは他ならぬ我が祖国日本である。
 
2.一日遅れのスーツケース
飛行機から空港ビル内に入ったところに、多くの乗客名を紙で貼り出し、「お名前を確認してくださ~い」と叫ばれている職員がいた。
私の名前もカタカナで書かれている。漢字が判明している人はツアー客で、カタカナは個人旅行者だろうか?
用件は聞かなくても判る。
フランクフルトであれほどバタバタしたのだから、シャルル・ド・ゴールで預けた荷物が、この便に乗せ換えられたとはトテモ思っていなかったからである。

指示に沿ってANAのカウンターに必要な申請を行い、ついでに、フランスでやりそびれてしまったマイル申請の事後用紙をもらって、身軽な身体で帰宅した。
翌日には無事に受け取れたし、不便だったのは、カメラや携帯電話の充電器とシェーバーがスグに使えなかったくらいで、あとは無料の荷物宅配サービスを
受けたという印象でもある。
それでも怒る人もいるのだろうなぁ・・・。客商売は大変だぁ・・・。

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