シルクロード2005

シルクロードには遠い昔から興味を持っていたし、「いつかは行こう」とあたためていた。
しかし今回、満を持して決行したという訳でもない。 実は元々はデリーに行こうと思い立ってHISにアクセスしたのだが、「ムンバイの洪水でエアインディアのコンピューターシステムがダウンしており、
席の確保が出来るかどうかもわからない状況だ。」という。
そこで、ふと思い浮かんだ西安の空席状況と価格を聞いたところ、空いてもいたし価格も安かったのでイキナリ決めたと言うのが事の成り行きである。
お約束の「地球の歩き方」は、チケットを確保してから本屋に買いに走った。

さて、中国。
旅行者の間での悪評は遠く太古の時代より轟いてはいるが、昨今では随分とマシになったと聞く。
5月の問題も沈静化した様子でもある。

しかし中国は中国だった。
ウェルカムプロブレムは、西安で目撃した同時多発交通事故程度であったのだが・・・、
二日目には街の中心部にある鐘楼近くで身体につけていたデジカメが強奪され、・・・よって今回は携帯電話(ミュージックポーターによる10万画素程度)のへぼい写真しか残せなかった。
三日目に飛んだ敦煌では、年間降水量40mm程度のこの地で、なんと雨に出迎えていただいた。
四日目の敦煌では、50元(700円くらい)の偽札をつかまされた。
五日目の帰国では、北京地方の雷雨によって中国国内の航空ダイアが乱れに乱れ、次々と対応策を繰り出すも、ついに帰国便にタッチの差で乗り遅れた。

トラベルはトラブル。 中国は期待を裏切らない!!
中国語で「オモシロイ!」のことを「有意思=ヨウイース」と言うのだが、中国自体が有意思!
1日目(8月08日) 成田から北京経由西安
北京空港は一国の首都空港としてはこじんまりしており、乗り継ぎに何の苦労もなかった。出発カウンターが判らなければとにかく二階に行けばよい。
そこから一時間半のフライトの西安空港は、2003年(だったかな?)に立て替えられて小奇麗な建物。
空港から町の中心部へは一時間強かかる。 特に日中は、街が近づくと渋滞する。
街の中心は今も昔も鐘楼。 これを核として、周囲14kmの城壁に囲まれている。
東西南北には城門があって、ここから城壁の上に登れ、2005年の5月からは城壁上を一周出来る様になったらしい。

一周は山中湖の周囲と同じ長さである。 足に覚えのある方は、サブワンに挑戦されたい。
鐘楼から西に向かう西大街は現在、道に面した建物を古い造りに改装中である。観光都市として一念発起したらしい。
果たして、道に面したマクドナルドやケンタッキーはどういう運命をたどるのであろうか???

夜は、この地方で有名なヤンローパオモーを食した。
これは、最初に出てきたナン(パン)を自身で小さく小さく千切り店員に返すと、その上に羊肉等の具が入ったスープが盛られて供されるという代物である。
小さく千切るほど美味しいらしい。
私が食べた店での価格は13.8元(=200円くらい)。 写真が見たかったという人はカメラ強盗を恨んでおくれ♪♪
2日目(8月09日) デジカメ強奪
二日目は、お約束の秦の始皇帝稜と兵馬俑と華清池を一巡し、楊貴妃と周恩来に思いを馳せた上で、天皇陛下も昇ったという西門経由で西安に戻った。
夕食は中華料理のファストフード店で、原住民に混じって餃子をパクついたのは良いが、その三十分後に、鐘楼の近くでカメラを強奪された。
今まで第三世界を中心に、そこそこ危険な国を転戦してきたのだが、ここに来て初めて旅行携行物損保険を申請することになる。

写真頁の5ショットは携帯電話で撮ったものなのだが、我的携帯電話は音楽を聴く為に選んだミュージックポーターなので、カメラの仕様はヘボい!
3日目(8月10日) 1.西安から敦煌へ
西安空港に向う途中は視界10mの霧でどうなることかと思ったが、定刻前に離陸した飛行は快調で、眼下のバダインジャラン砂漠が目を楽しませてくれた。
西安から二時間半で到着した敦煌は、なんと雨が出迎えてくれる!
年間降雨量40mmのこの地方で、夏に雨が迎えてくれるというのはめったにない幸運!?
傘を差しての莫高窟の見物(3番目・4番目)なんて、そうそう出来ることじゃございません!!

世界遺産の莫高窟は、ガイドをする際の言語によって人を集め、専門ガイドが適当な10窟程度を案内して回る仕組み。
いつもは外人観光客の85%が日本人だと言うのに、今回はほとんどいなかった。

敦煌は日本人観光客で経済が回っている街なので、日本語を操る人は極めて多かったが、今年は、5月からの中国各所の反日運動が尾を引いて、
敦煌への日本人観光客が激減し、街は不景気に沈んでいる。 多くの敦煌人は親日的なのに皮肉なことである。
街の真ん中に敦煌市博物館。 ここでも研究員みたいな風貌の女性に、日本語で丁寧に案内をしていただいた。 入場料以外の料金は不要!

2.鳴沙山と月牙泉
夕方、気温が下がるのを待って鳴沙山と月牙泉。 これまた典型的な観光コースである。
駐車場から入口に向う道の左側は土産物屋で埋め尽くされている。 客引きの声はかかるが、それほど強引でもない。
80元を払って門をくぐると、ラクダ券売り場が出迎えてくれ、その向こうには、「月の~砂漠を~」の歌の世界が広がっている。
砂山には勝手に登っても良いそうだが、30元を払うと、特別にあしらえた木の階段が利用でき、下りはソリ遊びを楽しむ事ができる。

とりあえず、階段券を買って駆け登った。 秋のランニング合宿を一ヵ月後に控え、トレーニング不足を少しだけ解消。
鳴沙山は、特定の砂丘の名称ではなく、40km×20kmの広がりを持つ、この砂漠地帯の総称らしい。
とりあえず、階段が有る手近な山のてっぺんまで登ると、反対側には延々と砂漠の光景が広がっていた。 どうやら鳥取砂丘よりも大きそうだ(笑)
山頂からは月牙泉も見下ろせた。月牙とは三日月の意味で、名前の通り三日月形の湖である。
砂漠の只中にあって、太古より涸れることなく(魚まで居るらしい!)存在しているとのことだが、昨今は水量が低下しているらしい。
月牙泉の脇には、雰囲気の有る楼閣なんぞも建っているのだが、泉の周りは保護のために柵などが敷設され、視覚的価値が激減していた。
「地球の歩き方'05~'06」の写真は、古いものらしい。
4日目(8月11日) 1.玉門関
敦煌での二日目は、車をゴビ灘に乗り入れて、まずは玉門関を目指した。
敦煌市外から、ほどほどに整備された(が狭い)道を時速100kmでかっ飛んで小一時間。
比較的近年まで道らしい道がなく、行く場合には四輪駆動車でゴビ(小石の砂漠の意)の中を適当に走ったらしい。
20~30年位前は、実際にラクダや馬で移動をする事も多かったそうな・・・。

ここまで来る観光客は少ないのか、玉門関には誰も居なかった。
入場券確認兼、馬乗り20元の商売のオバちゃんがポツリとただ一人。 このオバちゃんまでもが片言の日本語を操った。(大笑)
玄宗三蔵法師も、仏典を求めて天竺(現在のインド)に旅立つときには、この関所を後にしたという。
荒涼とした原野に佇むと、2000年の時というものは一瞬にして過ぎ去るものなのだなぁ・・・と遠い目になる。

すぐ近くには、漢代の長城跡もある。
ただし、ここは正式な万里の長城には含まれて居ない。 万里の長城は、ここから400kmほど東に位置する「嘉峪関」が西端とされている。
保存が良い部分は柵で覆われているが、すぐ近くには触っても良い(様に扱われている)2000年前の長城がある。

2.陽関・白馬塔
玉門関から再び、ゴビ灘の真っ只中を爆走して、お次は陽関へ。
ここは敦煌から近いためか、観光客も多かった(と、言っても数十人だ)が、ここは観光地化していて興ざめする。
門の外に漢代の武器が鎮座しているのは良いとして、中に入ると古代のパスポート(木簡)に、有料で名前を書いて土産にくれる官吏がいる。
近くには日本人俳優も参加した映画(TVドラマ?)のロケ建築物もそのまま保全されており、近年立てられた建物が立ち並んでいた。

さらにそこから、馬車に乗って漢代の狼煙台跡へ。(これも、馬車に乗らないで歩いても構わないし、馬にも乗れるが狼煙台は少し遠い)
陽関はシルクロードの天山南路(西域南道)の入口である。(玉門関は天山南路(西域北道)の入口)
碑の後方は、漢の支配が及ばなかった本当の西域。
ここからタクラマカン砂漠南縁を経て、チャルクリク、ニヤ、ホータンを通り、カシュガルへと続く遥かな道のりを思うと、古人に敬意を表さずにはいられない。

仏教を天竺から中国に持ち込んだのは、クマラジ(鳩摩羅什)である。
彼は天竺人と西域人の混血であり、西域の貴族のボンボンであったが、安穏とした人生を選ばず、仏門にその身を投じた。
1700年ほど前、クマラジが敦煌に多くの経典を持ち込んだときに、その経典を担がせていた白馬が死んだので、ここに馬を埋葬して塔を建てたらしい。

写真撮影を拒まれた西千仏堂もこの近くに有るが、白馬塔には土産物屋が待ち構えている。
敦煌近郊は、日本人観光客の激減により、景気が悪化している。売るための値下げも激化しているという。
それでは今まではどれほどボッていたのだ?という疑問もなくはないが、気の毒な現状でも有る。
欧米観光客や中国人客は増えているらしいが、買い物をしていくのはダントツで日本人とのこと。要はカモなのかな??
5日目(8月12日) 1.公安
再び舞い戻った西安では、三日前に強奪されたカメラの損失被害証明を得るために公安へ。
西安空港との往復などを依頼していた現地ガイドの張さんに多くのサポートをしていただいて手続きは坦々と進んだが、日本人だけでは結構大変かも??
西安の街中は意外と英語を話せる人がいない。

無事に保険申請用の被害証明を手に入れ(現物が出てくることは、まず有るまい)、心は最後の観光モードへ。
敦煌前に行き損ねていたイスラム寺院(西安には回教徒が多い)の清真大寺と、鐘楼に対する鼓楼で観光を締めくくった。
その昔、朝の鐘楼の鐘の音で四方の門が開かれ、夕方の鼓楼の太鼓の音で、門が閉じられたという。
遥かな思いを秘めて、天平の甍たち・・・遣唐使がひたすらに目指した長安。 阿倍仲麻呂が果てた長安。
平城京も、平安京も、この長安を真似て都造りがなされている。

2.北京は大混乱
さて、中国は最後まで気を抜かせてくれない。
空港でチェックインを試みると、中国国際航空=エアチャイナのカウンターが、「この便は大幅に遅れるので、北京で東京行きに乗り継げない」と涼やかに言う。
今日の北京は雷雨で、予約した13時発の機体が、いつ北京から到着するかの目途すらも立っていないというのだ。
大慌てで、エアチャイナのカウンターに行き、1時間後の14時発の中国東方航空=チャイナイースタンにチケットを切り替えていただいた。
私のチケットは一切の変更が不可能な、超格安チケットなのだが・・・ここでも張さんが活躍してくれた。頼りになる女性である。

北京乗り継ぎ時間がぎりぎりになるフライトのこの機材も北京からの到着が遅れて、14時50分発になり、さらに遅延する可能性も有るという。
この時間では北京乗継が不可能に近い。 どうやら、北京空港の管制はガタガタになっているらしい・・・。
そこで再び、今度はチャイナイースタンの14時40分発に切り替えることに・・・。

3.チャイナイースタン
このフライトの機材は西安空港に待機しているので、少なくとも出発は遅れる事が無さそうである。
もくろみ通りこのMU2107便は、ほぼ定刻通りと言っても良い時間に離陸した。 乗っている感じとしても飛行は順調である。
北京到着予定は16時10分。 私が乗らなくてはならない、北京発日本行きのCA421便は16時50分発である。

果たして40分間でチェックインと出国手続き並びにボーディングが出来るものかどうか怪しいのだが、とにかくMU2107便ではエコノミーの通路側最前列に
席を確保し、乗機と同時に、CA421のエアチケットをチーフスチュワーデスに指し示した。
「この機からチェックインをしてくれ。」「空港ではセキュリティーエリア内を移動して時間を削減したい。」と、私はハイジャック犯としてのささやかな要求を
伝えたが、チーフスチュワーデスは、「それが可能かどうかを私は知らない。」と悩ましい目で見つめ返してきた。
しかしそれでも、「何とか乗りたいダ」という、J-BOYの切なる願いが通じたのか、チーフスチュワーデスのお姉さんは、「I try」と力強く言ってくれた。

4.北京延泊
さて、北京。
順調に思えたMU2107便の飛行だが、定刻になっても一向にエンジン音が変わらない。
果たして北京は近づいているのかい??
途中でアナウンスが流れ、聞き取れない中国語に続いて、中国訛の英語で16時20分に着く予定だとのたまう。
しかししかし、16時30分になっても、降下&減速はしているもののまだ着陸しない。(通路側でもあり、窓の外は見られない。)

これは若干の推測を含むが、北京空港が遅れに遅れた離着陸の大混乱で混雑しているため、管制塔からの指示で、順調なこのMU2107便もユックリ
(遠回り?)飛行を余儀なくされ、着陸もさせてもらえないのだろう・・・。
結局、機は16時33分に地表にたどり着き、出口の扉が開いたのは16時40分を回っていた。
チーフスチュワーデスの計らいで私は、ビジネスクラス客にも優先して先陣を切って機体から飛び出した。
ところが、チーフスチュワーデスが手を回したはずの、空港での私の案内人が扉の外にいない!

もう、時間的にあきらめていた私は焦りもしなかったが、チーフスチュワーデスは扉の外にいた顔見知りらしい若い男に、私のために準備していた紙を示して
「この人をCA421にお連れしろ!」と、中国語でモーレツにまくし立てた。 若い男は「なんで俺が?」のような感じで反駁する。
応酬が二分程度続く間に、我々の横を多くの乗客が通り過ぎていく。
西安空港のチェックインカウンターや、このチーフスチュワーデスの配慮が無駄になった。

なおも男が口ごたえをしているので、私も男に向って、「時間がねぇんだ!」と英語で怒鳴りつけたら、しぶしぶ先導しはじめる。
私はチーフスチュワーデスに「謝謝!!」と大声で叫んで男に続いた。
しかし時はすでに16時45分である。日本行きのCA421の運行が大きく遅れていたら可能性も有るが、まずは期待薄であろう。
事実、やる気の無い若い男は、すぐに近くの電話でどこかに電話をして、CA421のチェックインはクローズしたよと、事務的に私に伝えてきた。
私も無機的に、この男に「サンキュー」(誰がこの男に対して中国語なんて使ってやるものか!)とだけ言い放ち、男を後にした。

目指すは、出国ロビーにあるエアチャイナのチケットカウンターである。
そこは修羅場と化していた。
私と同じような状況の各国の人間が、英語もしくは中国語でカウンターの中の人間と戦っていた。 順番を待って私も参戦した。
本来なら私はエアチャイナの国内便からエアチャイナの国際便への乗継だったのだが、わずかな可能性を求めてチャイナイースタンを使ったことから
事態が複雑化していた。 エアチャイナのカウンターの人間はぬけぬけと「チャイナイースタンに行け」という。
私は吼えた! 平時なら英語はハローとサンキューしか使えない私だが、今や戦闘モードである。
窮すれば古代サンスクリット語でだって、戦ってしんぜよう!?

結果として私は、翌朝の日本行きの第一便の座席と今夜のホテルを無料で確保し、他の、同じ境遇の8名とともにホテルのシャトルバスを待つことになる。
ただし同じような境遇といっても人種も違えば行き先も違う。 私の横ではシンガポールに行きたいドイツのおねぇちゃんが半泣きになっていた。
エアチャイナが準備したホテルは、中国名で北京空港花園酒店。 英語名でエアポートガーデンホテルという。
このホテル、空港から車で7分と立地条件は良いのだが、従業員の半数が英語をまったく解さない。

「レストランはドコ?」と尋ねたら、エレベーターの場所を示され(レストランは別の階にあったからか?)、「朝食はここですか?」と聞けば困惑された。
ともに、諦めてフロントのお姉さんの所に行ったら、即座に問題は解決したのだが・・・。
簡単な中国語も、発音を少し誤ればまったく理解してくれない。(これは他の場所でもそうであったが・・・。)
6日目(8月13日) 1.日本生還
予定外の6日目。
一番客としてルームフィー・インクルーズの(まだ準備中であった)バイキングに食らいつき、7時少し前に空港に帰還した。
9時40分発の日本行きCA925を確保していたが、まだ、コンピュータから白い紙に打ち出された紙片しかもらっておらず、無事にチェックインが出来るのか、
もう一戦が必要なのか、気を抜けたものではない。
昨日戦った、二階のチケットカウンターに行くと、「税関検査の中の窓口に行け」という。 実は昨日も一旦はここに回されたのだ。
「今日もタライマワシかい?」と、二度目のスペシャルカスタマーカウンターに行くと意外な成り行きに・・・。

ここでまずはチケットが発券されるのかと思いきや、なんとチェックインまで済んでしまったのだ。
いくら中国といえど、シートナンバーを確保したら、もう事は起こるまい。
と、思ったら甘かった。
大したことではないが、このCA925便も、出発がほんの2時間10分ほど遅れたのだ。 今日の北京は晴れているというのに・・・。

備考
今回は、いつもの私らしくなく、西安と敦煌で現地ガイドを雇った。
良きガイドの手配をしていただいたサイペック・ソフトウェア有限公司の木村敏弘様と、
MU2107便で最善を尽くしてくれたチーフスチュワーデスには感謝を捧げます。
そして西安で、心強いアシストをして頂いた張培碩さんにはスペシャルサンクス。

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