OVER CENTURY in REPUBLIC of SOUTH AFRICA
「21世紀の初日の出(2001年1月1日の夜明け)は、ギアナ高地のロライマで迎えよう!」と、何年も前から決めていた。
しかし、土壇場に来て私をいざなったのは、南米大陸ではなくアフリカ大陸だった。
「アフリカ大陸の最南端がどんなところか眺めてみたい。」
「そこで21世紀を迎えてみたい。」
その想いは、南米の誘惑を断ち切ることに成功し、私は香港を経由して南西へと向かう飛行機に飛び乗った。
出国日(12月28日)
1日目(12月29日)
1.日本脱出
アフリカ大陸最南端に位置する南アフリカ共和国。
アパルトヘイトという歴史的な悪政に終止符を打ってもなお、人種間の経済格差は大きく、都市部の治安は悪化の一途をたどるという問題を内包している。
しかし、私が歩いた限りでは、北米や南米大陸よりも、白人と黒人が自然に解け合っている光景をよく見かけたような印象を持つ。

香港から13時間の飛行時間の後にたどり着く、ヨハネスブルグ国際空港。
そこからシャトルバスなら45分。 R75(75ランド=¥1200くらい)でプレトリアのホテルまで送ってくれる。
ヨハネスブルグの治安は世界で最も悪いとまで言われているが、首都プレトリアは比較的ノンビリとしている。 (※ただし後にプレトリアも治安が悪化した)
外務省の「注意喚起」指定を受けている地区もあるが、夜間に単独で出歩くようなことをしなければ、夜の渋谷と比較して特に危険な印象はなかった。
少なくともイキナリ、金属バットで殴りかかってくるようなヤツはいなさそうである。

午前中にホテルにチェックインできたので街に繰り出し、街の空気感を図る。
当然ながら明るい時間帯鹿で歩かなかったので、特に不安を感じることはなかった。
2日目(12月30日) プレトリア
本日は朝からプレトリア散策。
まずは、ガイドブックに、「南アフリカ芸術の殿堂」とまで書かれているプレトリア美術館-Pretoria Art Museumを目指して延々と歩いたのだが、
たどり着いてみると12月23日-1月2日までクローズとのことで入場出来なかった。

やむなくタクシーを拾って、国立動物園(プレトリア動物園)-National Zooを襲撃。
ここの動物園はとても広い。 手入れが行き届いている風でもなかったが、さほどひどい状態でもなく、白人・黒人入り交じって家族連れが楽しんでいた。
競歩ダイエットに励んでいるハイエナがいたが、やる気のなさそうなチーターや無気力なライオン。 サービス精神に富んだ動物は少なかった。
橋を渡り、一番高いところまで登ると、プレトリアの市街が一望できる眺めのいいところがある。
国立動物園前の路上には、様々な土産物屋が建ち並んでいる。
客引きも、アフリカにしてはあっさりしている(南米のよう)ので、ゆっくりと楽しむことも可能。
2日目(12月31日) 1.プレトリア-ケープタウンを28時間で結ぶ夜行特急 TRANS KAROO
南アフリカには、世界でも有数の豪華列車が走っている。
それは、北斗星のスゥイートなどは比較の対象にすらならず、オリエント急行をも凌駕する、世界に冠たるブルートレインである。
もっとも一般的なのが、プレトリア~ケープタウン間の1600kmを27時間で走り抜ける列車だが、その料金はR5000(=\80,000)を超える。
服装ももちろんフォーマルが標準であり、呑気なバックパッカーに使えるシロモノではない。

ところが、同じルートを庶民の?特急も走っている。
プレトリアからケープタウンまでを駆け抜けるその列車は、通過するKAROO地方にちなんで、「TRANS KAROO」と名付けられており、
午前10時10分にプレトリアを出発した列車は、翌日の14時15分にケープタウンに着く。
「21世紀は、この列車に乗り込んでアフリカ大陸の原野を疾走しながら迎え撃つのが最も自分らしい。」
そう感じた私は、そのためにアフリカ大陸まで飛んだのだと言っても過言ではないかも知れない。

この列車は、日本でも予約ができる。
12月31日にプレトリアを発って、1月1日にケープタウンに到着する。
アフリカ大陸を疾走する列車の中でオーバーセンチュリー!
こんなことを思いつくヤツは世界にはたくさんいるらしく、成田-ヨハネスブルグの航空券を厳しいキャンセル待ちを経てゲットした直後に申し込んだのだが・・・、
一等車のチケットは取れなかった。 12月30日の予約も取れない。

そこで二等車で妥協した。
「地球の歩き方」には「絶対に一等車を利用するように!」と、ハッキリと警告しているが、手に入らないモノは仕方ない。
同誌が次善の策として推奨している長距離バスにするという手もあるが、やはり列車移動の魅力の方が遥かに大きい。
そこで、「同じようにチケットが手に入らない海外旅行者が、セカンドクラスにも流れてくるからきっと安全」と、勝手に理屈をこねて納得したという訳である。

結論から言えば、同じコンパートメントは、私以外は全員が南アフリカ人であった。
しかし、「危険」どころか、みんなとてもフレンドリーでかつ、紳士であった。
黒人が二人(一人は地元出身、一人はソマリア出身)、白人が三人(イタリア系とドイツ系と地元出身)
荷物なんかほったらかしにして、食堂車でディナーを楽しんでも何の心配もない。
ただし、コンパートメントは同室者によって当たり外れが大きいから、いつもこうとは限らない。

とりあえず、一国の首都のメイン駅としては小振りな、プレトリアステーションから旅立つことにしよう。
出発前に、駅前をフラフラしている黒人にお金をせびられたりもしたが、普通の注意をしていれば、そんなに危険な駅ではない。

特急の乗客の座席案内は、当日、駅に貼り出される。 コンパートメントまでが指定で、座席指定は無い様子。

2.二等車のコンパートメント
発車20分前には列車に乗り込み、何の合図もなく静かに動き出すのを待つ。
6人用コンパートメントの同室者は2名。 早口赤ら顔のデブチン白人オヤジと、一転無口なヤセギス黒人のSWATZND。

プレトリアを出発した列車は、いきなりノタノタ運転。 車内放送はなかったが、どうやら先導車が不調の様子。
結局、53分で着くはずの隣駅まで3時間近くがかかり、この遅れは最後まで響いた。
(一旦は40分遅れまで挽回したのだが、列車数の多いケープタウンの近くで再び乱れ、到着は55分の遅れとなった。)

2時間遅れで着いたヨハネスブルグ駅は、やはり到着する少し手前から危険な雰囲気。
日本人は、この駅は利用しない方がイイというのが、列車の中からも感じ取れた。 地下にあるプラットホームですらも異様な空気。

停車直前に、「カメラ(使い捨ての安物)を隠せ。」と、早口オヤジが早口で私に注意してくれた。
確かに、窓の中をのぞき込むように通り過ぎる物売りが何人かいた。 高級品を見つけると、いかにも持ち逃げしそうな気配を漂わせている。

ここで、早口オヤジの知人らしい賑やかイタリア系オヤジと、ドイツ系のちょい渋オヤジに、ソマリア出身の真っ黒黒人が乗ってきた。(南アの黒人は茶色)
これで、6人用のコンパートメントは満席。
ヨハネスブルグを出てほどなく、ちょっとチャーミングな黒人車掌が検札に来た。
彼女はこの後、ノートパソコンみたいな端末を首から下げて、途中の無人駅でもチケットを販売しているのを見かけた。

3.車窓
車窓の眺めは、決して期待を裏切らない。
原野を疾走し、街を過ぎ、草原をぬけて山岳地帯を駆け抜け、砂漠を越える。
ワイン大国らしく、延々と続くブドウ畑も圧巻である。
ヨハネスブルグ国際空港からケープタウン空港までは、わずか2時間のフライトだが、その経路は、とても大きな宝物を捨ててしまっているのかも知れない。

列車は23両編成。(だったと思う) 先頭の気動車が2両。 続いて(無念の)ファーストクラスが5両。 食堂車が2両。(1両は料理専用車両)
そして我がセカンドクラスが4両。
(「どうして5両のチケットが取れずに、4両のチケットが取れたのだ?」という疑問も無いでは無いが、
      ファーストは一つのコンパートメントが4人用だから、定員数は、セカンドクラスの方が多い。)
その後ろに普通座席のサードクラスが7両と、貨車が3両従っている。

ちなみに、ファーストの値段はR360、セカンドはR240(=\3,840)くらいと、何かで見かけた記憶がある。
4000円足らずで28時間も列車に乗れるのだから、やはり安いのだろう。
ただし、夜は冷える。
寝具の申し込みも出来るそうなのだが、私は、やり方が判らないままに私は寒い夜を過ごした。

4.食堂車
ソマリア兄ちゃんは防寒具に毛布と、準備万端であったが、賑やかオヤジは夜通し、「寒い寒い」と賑やかだったので、言葉の問題で
寝具が申し込めなかったというわけではなさそうである。

日本人の多くは誤解しているが、アフリカ大陸の多くの土地は、さほど暑いわけではない。
ケニアなどの低緯度地域ですら、ナイロビなどの内陸部は標高が高いので、直射日光は強烈だが気温自体はそこそこでとどまり、
ここ南アフリカに至っては、日本よりも少し低緯度なだけで、全体的に標高が高いから、年末という初夏ですら夜は冷え込むのだ。

さて、万が一に備えて、プレトリアで食べ物と飲み物を、最低限だけ買いそろえていた私だが、その必要はなかった。
前述した様に、まったく安心して食堂車にも行けたし、こまめな車内販売もある。
車内販売は、私は選んで買うだけだったが、頼めばその時に持っていない物も、後から売りに来てくれる。
無口なヤセギス黒人のSWATZNDは、2時間おきにコーヒーを二杯ずつ買い、各々に砂糖を3袋ずつ入れて一気飲みしていた。
一杯、R2:50(2ランドと50セント=¥40)

腹が減ったらダイニングカーに行けばいい。
内装はカラフルで可愛い。
20世紀最後の晩餐(そのころ日本はすでに21世紀)は贅沢にステーキを食してみた。
けして物価は安くないこの国で、ステーキに生オレンジジュースと食後のコーヒーをつけてR44なので、これは驚きの良心価格。
朝食も、最高級バーガーにモーニングコーヒーをつけてR30。
JRもこれくらい頑張れば、新幹線の食堂車も存続できたかもしれない。。。
車窓に時折、黒人の居住区らしい、ボンベイのスラムよりちょっとましな程度のボロ小屋街が現れる事がある。
ソウェトに代表される、タウンシップの様なものかも知れない。 アパルトヘイトは撤廃されたとは言え、人種の隔たりはこの国に残っている。

すぐ隣に小さいながらも綺麗な(昔の建て売りのように同じ形の)家で構成される整然とした街が建設中である場面も時折見られ、
直感的には国の補助か政策で、経済弱者の黒人の生活が改善されているような趣も見受けられた。
ボロ小屋街の住民にも暗さはなく、屈託のない笑顔で、特急に向かって手を振っている人もいる。
通勤列車に石を投げ込むバカがいるどこかの国より国民のレベルは高い。
3日目( 1月01日) 1.列車の中でオーバーセンチュリー
日本時間で言っても、南アフリカ時間で言っても、列車の中で2001年1月1日を迎えた。
列車内では特にイベントがあるわけでもなく、ケープタウンに向けて淡々と走り続ける。

早口親父は私に、簡単な観光案内もしてくれた。
キンバリー金山の名前は私とて知っていたが、彼はその穴がいかに大きいかを熱弁し、ノーミシーンと強調する。
日本語では機械のことをマシンとカタカナ書きするが、英語だとミシンのほうが近い。
つまり、巨大な金山は元々は、手堀りで掘り進められたのだということらしい。
(彼は国民を誇るように強調したが、掘っていたのは早口親父の祖先ではなく、きっと黒人)

列車は前述のように、14時15分に着くところが15時過ぎにケープタウンに到着。
コンパートメントで仲良くなった早口親父が自ら申し出て、駅前の駐車場に停めていた自分の車で、私をホテルまで送ってくれた。

2.ケープタウン
世界のどこにでも住めるとしたら・・・、私は・・・、やっぱり日本がいいなぁ・・・・とは思う。
しかし、しかし、もし国外追放処分になったとしたら、
それでもって、日本国外ならどこでも自由に選ぶことが出来て、かつ、食うに困らないという、けっして無さそうなシチュエーションを前提とするのであれば、
私はケープタウンを最初に試してみたい。
アラスカのアンカレジも良かったが、冬はあまりに寒過ぎそうだし、ペルーのクスコも良かったが、一年と持たずに厭きそうだ。

ケープタウンは美しい街である。気候も良いし、住環境も良い。
食べ物は、好みに合わせて何とでもなるだろうし・・・。なんと言っても豊かな大自然に囲まれている。

近場ではケープ半島、ガーデンルート・・・、足を延ばせば、ナミブ砂漠にジンバブエ、オカバンコデルタ!
おぉ! なんだか、日本に居ても良くても、移住したくなってきた!!
4日目( 1月02日) 1.Capetownから、L'Agulhasへ
ケープタウンでレンタカーを借りた私は、今回の旅の第二の目的であるアフリカ大陸最南端のアガラス岬-L'Agulhasに向かった。
(第一の目的は列車の中での世紀越え)

アフリカ大陸の南端は喜望峰だと思っている人も多く、実際にその様に信じられていた時代もあるようだが、本当の最南端はアガラス岬である。
ここはケープタウンからも遠く、大きな見どころも少ないことから、ツアーなどではアフリカ大陸南西端である喜望峰を代用最南端として使っている。

確かにアガラスまでの道のりは遠い。
しかし、そこに至る道程は、目を見張るばかりの美しい風景の連続である。

StrandからR44を南に折れ、Botriverを越えてHermanusを通り過ぎる。
R326からR316に回り込むと、北海道を100倍にしたような広大な牧歌的風景が展開し、BredasdorpからR319に入って南下を続けると唐突にインド洋に出る。
ここの海の色は、何ものにも例えがたい美しさがあった。
やがて前方にアガラス岬灯台が現れ、その1km南西に、大西洋とインド洋を分かつ巨大なアフリカ大陸の果てが、日本の喧騒とは無関係に存在していた。

一旦内陸部にはいると、そこには牧歌的な風景が広がっている。
真っ青な空、まっすぐな道。
彼方に輝く山脈。
何の変哲もない風景だが、しかし感動するものがあった。 何度も車を止めて、しばし見入った。 いや魅入った。
一時は、「目的地に行きつけないかも知れない」と、我ながら心配になったほどだった。

アフリカの道を運転していると、日本で失ってきてしまった何かが、一つ一つ戻ってくるような気がした。
男は、一つオトナになっていくごとに、ひとつ何かを失っていく。
忘れてしまった多くのものが、また、心に戻ってきた。 少年の心を失う理由を、仕事のせいにしてはイケナイ。 家庭に原因を求めてもならない。
夢を失っていく責任は、自分自身の心にある。
守るものが増え、挑戦する心を失う責任は、自分自身の中にある。 傷つく事を恐れ、戦うことから逃げ、そうしてすべてを失っていった日本の男たち。
アフリカの大地に、失うモノは何もない。 だから、挑戦するエネルギーに満ちあふれている。

2.南インド洋の漁村
Struisbaai
南アフリカ共和国の道は運転しやすい。
それは日本を出発する前から聞いていたが、実際に走ってみて、その通りだった。

一つには、車が少なくて舗装が行き届いている。
一つには、一目で見やすい道しるべが充実している。
しかし、最も強く感じたのは、運転手一人一人のマナーの良さだった。

片道一車線の対向道路が、制限速度120km/hで混乱することなく運用されている。 遅い車と速い車が共存している。
少し広い目の路肩を上手く活用している運転手の広い心。 自分さえ良ければという世知辛さが、ここにはなかった。
インド洋の一端、Struisbaai(アフリカーンス語の地名)の漁村。
R319を南下していると、唐突に海に突き当たった。
Struis bay(これは英語)の豊かな漁村だった。

「時間が止まっている。」
そう感じた私は、夢中でシャッターを押し、
止まった時間を切り取り続けた。

3.アガラス岬
そこから少し走ると、ついに前方に姿を現したアガラス岬の灯台。 その向こうに存在するアフリカ大陸最南端-L’Agulhas。
世界の果て・・・、そこには何も有りはしない。 それは判っていた。 しかしそれでも、ここを目指してきた。

アガラス岬灯台。
ライトハウスまで登れるが、階段が細くて急なので、慎重な人が前にいるとなかなか進まない。
最上部で外に出られ、低い手すりが高度感を強調してとても恐い。 風がとても強く、空に吸い込まれそうになる。

一階にはミュージアムとレストランがある。
R5(80円くらい)で、灯台に登るチケットと共通のミュージアムには、世界中の国々の、主だった灯台の資料があった。
日本の主な灯台としては、なぜか房総半島の野島崎灯台がピックアップされていた。
左の写真は、アフリカ大陸最南端の碑。

銘板には、英語とアフリカーンスの併記で、
[YOU ARE NOW AT THE SOUTHERN
-MOST TIP OF THE CONTINENT OF AFRICA]
と、刻まれている。

最南端に立って海に向かうと、右は南大西洋。 左はインド洋。
遙か前方は南極大陸へと続く南氷洋。
予約なしの飛び込みで、一夜のお世話になったB&B(ベッド&朝食)は日本円で¥1,500くらい。
「日本人は初めて」と、気のいいエレナおばさんは歓迎してくれ、庭から見る夕陽が灯台に沈むのが自慢だとも言っていた。
5日目(1月03日) アガラス岬からR317・N2とケープ半島を経てケープタウンに戻る
ケープタウンからアガラス岬を目指した往路は、概ね海岸線に沿って車を走らせたので、ケープタウンへの復路は、途中までは内陸部を走ることにした。
途中で南アフリカで初の給油。
よく判らないままに高い方のガスを指定すると、
「この車にその必要は無いよ」と言って安い方を給油してくれたスタンドマン。(写真後方)
アフリカーンス訛の彼の英語がうまく理解できない私に、丁寧に説明してくれた。

車内のカメラを見つけると、「写真を撮って送ってくれ」とせがんだスタンドガールUNITA。
 (背の低い方の女の子)
この写真を絵葉書とシールにして送ったが、無事に彼女の手元に届いただろうか?
そして内陸部へ!
草原で羊が草を食んでいる。 ヒツジが一匹、ヒツジが二匹・・・。 おっとイケナイ、居眠り運転をしてしまうところだった!?
とてもアフリカらしい光景が続くR317
「ここが人類の故郷なんだー」って、何か納得できる懐かしさみたいなものが感じられる。
まっすぐな道。 制限速度は120km/h(街中にはいると同じ道が40km/hに変わる)
平原の向こうに山。 何か、「ほっ」と、する風景。
False Bayを一望する見晴らしのいい峠で、民芸品売りのお姉さんから、怪しい手彫りの物体を購入。
写真では伝えきれないのが口惜しい、Mnandi Beachの海の色。
ケープ半島に戻ってきて、M6をひた走る。
Cape Peninsulaは本当に多種多様な、豊かな自然を持っている。 南大西洋は美しく、山間部に入れば、また別の素晴らしい風景。
動植物も豊富で半島の半分がナショナルパークに指定されているのも納得できる。
ケープ半島は、大きさといい形といい、自然の豊かさといい、何か伊豆半島を思い出したりもする。 ちょうど沼津か御殿場に相当する位置にケープタウン。

こうして2日間で670kmを走破したのち、日本に戻るまでに残こされた2日間を、ケープ半島とケープタウン周辺の散策にあてることにする。
試しに、ケープタウンのインフォメーションセンターで、1日ケープ半島ツアーと半日シティーツアーに申し込んでみることにした。
経済的だし、楽しそうだし・・・。(ただしガイドは英語_orz...)
地球の歩き方(2000~2001年版)33ページの地図の、「ケープタウン中心部」のインフォメーションセンターの位置は間違っています。
 ・・・まぁ、すぐ近くだから行けば判りますが・・・、すぐ隣の「司」という文字(レストランの意?)の辺りにあります。
まぁ・・・、ロンプラより詳しいから、地球の歩き方編集部の努力は認めます(笑)
6日目(1月04日) 1.ケープ半島一周の旅
欧米人5名とともに、ミニバスでのケープ半島一日ツアーに参加。

まずはオットセイの群生するドイカー島:Duiker Point
ツアー料金とは別の、R25(400円)の観光船に乗り込んだ時、一週間ぶりの日本人と遭遇。どこかの団体さん。
ツアーコンダクターらしい人とヒトコトフタコト言葉を交わす。 一週間ぶりに使う日本語。 少し懐かしかった。

次に、Sunnydale付近からケープ半島南部を展望。
ナショナルパークの道路際には猿なんぞも出現し、豊かな大自然を体感する。。

2.喜望峰
そして、このツアーの一番目の目玉である喜望峰 Cape of Good Hope

けして希望峰ではない。
ヨーロッパの探検家が、次の時代の商船がアジアを目指す際に、延々と立ちはだかるアフリカ大陸の終焉が見えた時に、希望を見たのではなく喜んだのだ。
ここはとても風が強く、地の果ての様相。

下の写真で被っている、ケープタウンでゲットした、お気に入りの帽子は、この写真の直後に風で飛ばされてしまった。
模様が、アフリカ大陸に、五個の〇をつけて、足跡を模していて、とてもデザインが優れていた。 キャッチは、OPEN_AFRICAで、これも良かったのに。
気を取り直し、ケープポイント灯台の近くから喜望峰の岬部分を見下ろすと、波が白く砕け、南大西洋が碧い!

この先は南氷洋。
改めて世界地図を眺めてみると良く分かるが、南半球の中・高緯度地帯には、南極大陸に至るまでの途中に陸地がほとんどない。
唯一、南米大陸が、南極半島と手を差し伸べあうように伸びているが、それ以外は海洋である。
なので、地球周回気流は、自転に沿って一周する間、ほとんど遮られないので、荒れ狂い放題なのである。

吠える40度、狂う50度、絶叫する60度
南極に向かう航路の厳しさを表現する、有名な言葉である。

3.Boulders Beach
次にツアーは、アフリカペンギンが人里に生息するBoulders Beachに我々を案内してくれる。
この時は、文明社会との共存が絵になっていると感慨があったのだが、その数年後に、ペンギンの鳥害が付近住民の安寧を脅かし、また、人間活動が、
ペンギンの生態系を脅かしているという状況を耳にした。 人と動物が共存するのは、けして簡単ではないようだ。

4.Kirstenboschの植物園
最後に、アフリカ大陸各地の植物が栽培されているKirstenbosch植物園に連れていかれる。
ここは植物ファン垂涎ものの地で、日本では、アジアではお目に掛かれない珍しい草木が栽培されている。

私ですら喜んだのは、ここでナミブ砂漠のウェルウィッチアを目にすることができたことである。
これは葉っぱが一対の植物なのだが、単年草ではなく、なんと千年以上も生きると考えられている植物で、日本名は奇想天外。
7日目(1月05日)  1.ケープタウン近郊の半日ツアー
昨日はケープ半島を堪能したので、アフリカ最終日の本日はケープタウン近郊を探訪。
トラブルにでも巻き込まれて、明日の飛行機に乗れなくなると大変なことになるので、この順番にしてみた。

昨日は集団ツアーだったので、英語が苦手な私もリラックスして十分に楽しめたが、今日は英語ガイドと一対一。 そして予想通りに結果として疲れてしまった。
ペルーでも同じパターンがあった。
集団ツアーの時は英語の雑談にすら気軽に参加できたのに、ガイドと一対一で、ガイドの現地訛りが強く、かつ早口なおしゃべりで、なおかつこちらの理解度も
鑑みずに次から次へとまくしたて、かつ感想を求められると疲れてしまうのだ。

このパターンはその後にも、世界各地で経験することになる。
自分が理解できていれば、相手も理解できていると信じてやまない人種は、一定数いる。

2.テーブルマウンテン
それはともかくとして、展望そのものは十分に楽しめた。
まずはケーブルカーでテーブルマウンテンに登る。
ここは、ケーブルカーの往復チケットと、一時間の自由時間を与えられての単独行動なので、非常に気楽に楽しめた。
上の写真は、テーブルマウンテンの上部から見下ろしたケープタウン。
白人のカップルはタイタニックごっこ???

沖合の小さな島は、故マンデラ大統領が長年にわたって幽閉されていたロベン島。
白人カップルの左手にあるライオンズヘッドが印象的。

3.ウオーターフロント
このガイドは疲れるので、少し早めにケープタウン駅近くで開放してもらった。
義理程度にチップを渡そうとしたら、向こうも断ってきたので、互いのストレスがマックスだったのだろう。
しかし途中で事務所に電話して、
「私の説明を理解しない」
「そう、日本人」
なんてな会話を英語でしないでほしい。 それくらいはこちらだって聞き取れるよ。 せめてアフリカーンスで話してくれぃ。
おしゃべりオバサンから解放されたのち、時間は十分にあったので、ホテルに戻らずにウォーターフロントに向かってみた。
ウオーターフロントが熱いのはお台場だけじゃない! ケープタウンは今、湾岸開発が合い言葉。
下の写真のバックに見えるのが、ケープタウンを見守るテーブルマウンテン。
8日目(1月06日)
帰国日(1月07日)
 
1.ケープタウンからヨハネスブルグ経由香港
本日は7時発の国内線に搭乗すべく、5時過ぎにタクシーに乗車。
夜明け前の道は空いていて早めに空港に着いたのだが、ケープタウン空港は大勢の人であふれかえっていた。
チェックインカウンターは、予告と違うカウンターが開いて大混乱。
様々な言葉で罵声が飛び交う。
それでも、おおむね予定通りに飛行機は出発し、定刻くらいにヨハネスブルグ空港に帰還。

空港で国際線に乗り継ごうとすると、ガランと広い部屋でパスポートと香港行きの搭乗券をチェックされるが、これは予想して準備していたので、
スムースに提示して軽やかに歩を進めよう、と、すると、、、すぐ横で空港職員と中国人がもめている。

この中国人、Passportも、air ticketも通じず、なぜ自分が空港職員に止められているのかも理解していない様子。
空港職員が私に向かって、「同じアジア人だろ、言ってやってくれ!」と叫んできたが、それは無茶ぶりというもの。
「私は日本人で彼は中国人。言葉が違うよ。」と言い返して見捨てることにした。 この15年後だったら通訳してあげられたのだが、おあいにく様。

いったん、一般エリアに入ると、今回の旅の、南アフリカ国内での二個のホテル(プレトリア2泊とケープタウンの1泊目)ならびに鉄道の手配をしてくれた、
旅行会社道祖神の山口さんとバッタリ遭遇。 次の客の出迎えに来られたらしい。
簡単な情報交換をしてから、私は香港に飛ぶべく国際線エリアに移動。

2.香港・台湾・日本
ヨハネスブルグ発香港行きも、おおむね定刻通りのフライト。
13時にはアフリカの大地を離れ、13時間の飛行を経て19時間後の香港へ。
そこで飛行機を乗り継ぐべく空港内を移動したが、開港から2年半のアジアのハブ空港チェクラップコクは綺麗で巨大だった。

乗り継いだ飛行機は、往復とも台北に立ち寄る便。(たぶん飛行機代を抑えるための選択)
往路では、1時間程度のために外に出るのもかったるく、機内で待機したが、帰り道では空港の待合室に出てみる。
アフリカから香港、台北、と移動すると、周りの人たちや空港の装飾、土産物などが、グラデーションのように日本文化に近づいてきて面白い。

日曜日の夕方5時前に飛行機は成田に帰還。
かなりチャレンジングだった今回の冒険旅行は、トラブルもなく完了!

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