アンデス1999

南米大陸は遙かな憧れであった。 地球の裏側にある未知の世界。 インカ帝国の遺跡を自分の目で見てみたいという欲求に、ついにうち勝つことが出来ずに成田を飛び立ってしまった。
ペルーの首都リマまでは、シアトル・マイアミで乗り換えて25時間。 何年も焦がれ続けてきたアンデスの風は、異国を感じさせるそれではなく、なぜだか、故郷の安らぎの香りがあった。
出国日(8月04日)
1日目(8月05日)
1.成田空港からシアトルタコマを経てマイアミへ
今回は成田からリマ往復の全行程をアメリカンエアラインで通しで確保していた。
格安チケットで20万円強。 夏のハイシーズンだから、当時はこれでも、けっこう安いほうだったのだろう。
そのあとの旅程も長いためか、成田からシアトルまではビジネスクラスにアップされていた。
ありがたい。
隣のおじさんは商社マンなのか高級そうなスーツ姿で、いかにも世界を飛び回っている雰囲気を醸し出していた。

太平洋を越えるのは5年ぶり二度目だが、荷物を持って乗り継ぐのは初めてだったので、成田で預けた手荷物はリマで受け取るものだと思っていた。
ターンテーブルを無視してトランジットエリアに向かおうとすると、空港係員に呼び止められる。

「君は荷物はどうした」
「リマで受け取るんじゃないの?」
「ここで受け取って預けなおせ!」
確かに、ターンテーブルに私のザックが回ってきた。
ペルーでアンデス登山をするので、特徴的なアタックザックだからすぐにわかる。
そんなこんなで不審者認定され、テキトーにランダムチェックされる手荷物チェックに、ランダムではなく意図的に選ばれる。

怪しいものは持っていなかったので無事に解放され、気を取り直してマイアミ行きのチェックインカウンターに荷物を預けなおす。
目の前のアメリカ人がカウンターで、「細かい紙幣がない」と騒いでいたので、両替をしてあげる。
マイアミ行きは座席指定をしなかったが窓際だったので下界をクリアに見下ろすことができる。 アメリカの広大で茶色っぽい農地が印象的。

2.マイアミからリマへ
マイアミでも心配になってターンテーブルを眺めてしまったが、今度は私の登山ザックが排出されることはなく、一応係員に尋ねてみたが、
「リマで受け取れ」と言われて安心する。

マイアミからリマは夜行便。 日本時間では朝になったところだったが、当地の時間帯になじんで、そのままウトウト。
夜半に病人が出たらしく、さまざまな言語で「ドクターはいませんか?」と機内アナウンス。
何番目だったか、いかにもローマ字で書かれているものを棒読みしているような日本語で「オイシャサマ ハ イマセンカ?」。
マイアミからリマに飛ぶ飛行機に、日本人医師が乗っている確率って、どのくらいなのだろう?

リマには朝方に到着したが、依頼していたホテルスタッフの出迎えはまだ来ていない。
換金しつつ、椅子に座って待ったが、スペイン語のアナウンスはさっぱり分からず。 英語だって怪しいのだから、そりゃそうだ。
ペルーだと、なんとなくアジア人っぽく見える人が多い。 日系なのか、インディオなのか不明。

3.リマ到着
ようやくホテルの出迎えが来て、ホテルに移動。
もう一人、白人がいたので、「どこから来たの?」と互いに聞きあったが、相手の答えた国名が何処か分からず。
日本で一般的に言われている国名は、時々、その国では通用しない発音だったりもする。
イギリス人に「イギリス」は通じない(一般的にはUKと言っている)し、オランダにいたってはネザーランドなので、これを聞いても日本人には分からない。
同乗したお兄ちゃんは、ネザーランドでもなかったような気がするが、忘れてしまった。
4.ナスカへ
午後から、ナスカの地上絵を眺めてみるべく、再びホテルサービスでリマの空港に送ってもらう。
まずはリマからイカに飛ぶのだが、タラップですらなくボディが階段になって乗機する11人乗りプロペラ機だったので、ちょっとテンションが上がる。
外を眺めていると非常に遅く感じられたが、リマからイカまでの300kmを35分で飛んだので、そんなに遅いわけではなさそうだ。

イカはリマの南方にある砂漠の中のオアシスのような街。
空港の小屋には露店のドリンクバーみたいなのがあったが、(地方銘菓?の)日本語の説明書きも発見。

5.NAZCA-LINE
イカで4人乗りの単発機に乗り換え、さらに100kmほど南のナスカを目指す。
単発機の名前はCONDOR。
パイロットは陽気なラテン男で、写真撮影サービスもデフォルトであった。
単発機は砂漠(というか荒れ地)の上を淡々と南下するが、展望は良いのに何も見えてこない。
と、思っていたらパイロットが、「そこだ」と指をさす。
ナスカの地上絵は、予想していた以上にコントラストが低く、言われるまでは気づかなかった。
右の写真は有名な「ハチドリ」だが、写真のコントラストは少し加工した。

「サル」、マリア・ライヘ女史のミラドールと「ハンド」、山の斜面に描かれている「宇宙人」。
いったん見つけると、その他の地上絵も次々と自分で発見できるのだが、
よく見えるようにとラテンなパイロットは華麗なアクロバット飛行。
ナヴィシートの私が喜ぶものだから、ラテンなパイロットは図に乗って、ますますチャレンジングな飛行をする。
そんなこんなで、後部シートの白人夫婦は地上絵どころではなかったらしい。 飛行機酔いも併発していた様子。
私も、食後だったら、少しヤバかったかもしれない。
2日目(8月06日) 1.CUZCO
クスコはリマからおよそ500km東南東に位置する標高3400mの40万都市で、インカ帝国の首都として有名。
飛行機だと1時間で飛ぶが、1200kmの道のりを走る長距離バスだと、1日半ほどかかるらしい。
時間のない私は飛行機で一気に飛んだが、このようにすると、人によっては高山病にかかることもある。
さいわい私は,5000m程度までは耐久試験済みなので、この高さであれば気にすることもなかった。

飛行機では、窓際に席が取れたために、アンデスの展望を期待していたのだが、ナゼか窓が汚く(傷だらけ)、外は、ほとんど見えない。
この飛行機、EXITの下に「出口」とあり、どうやら日本か中国からの払い下げらしい。

2.クスコの空港で
空港では、ホテルまで車で送ってくれるエージェンシーが待っていてくれているはずであったが、出口のところで待てど暮らせど現れない。
人待ち顔で立っていると、タクシーの運転手やホテルの客引きが盛んに声をかけてくる。
「ホテルは予約していて、迎えを待っているのだ」と言うと、驚くくらいあっさりと引き下がる。
アフリカ(ナイロビやアルーシャ)では、ここから交渉がスタートしたのだが、南米はあっさりしているらしい。

結局、30分待ったところで諦めて、旅行会社の女性(ツアー客を待っているらしい)に町中までのタクシーの相場を聞くと、空港出口の前に車を付けている
タクシーは8ドルで、すぐ外のタクシーは2ドルと教えてくれた。

当然、外に出る。 タクシーに乗り込むときにもう一度確認すると、「2ドルでもいいし5ソーレスでもいい」と言う。
この時のレートはだいたい、1ドル=3.5ソーレスくらいだったので、「ホンじゃ5ソーレスで頼むわ」と、交渉成立し、一路クスコ市街へ。
と思いきや、空港駐車場出口のところで、駐車場使用料2ソーレスをトーゼンのごとくに請求された。

60円でごねるほど、スペイン語が話せるわけでも無く、「これで7ソーレスになったから、2ドルちょうどだな。」と、納得したのだけれど、
2ドルにしていたら、あの運ちゃんは2ソーレスを自分で出したのだろうか?
空港で受け取るはずだったバウチャーがないままに、
ホテルのレセプションでそれを告げてロビーで待つと、
ほどなくエージェンシーがやってきてさかんに詫びる。

「ペルーだしこんなものだろう」と、別段腹立ちもしなかったが、
この後、ペルー人は約束にも、時間にも忠実で誠実なことを知る。
彼も他の客の送迎が理由で、どうしようもなかったらしい。

クスコの街に繰り出すと、エスニックなインディオが佇んでいた。

3.クスコの街中
クスコの街は風評とは異なり、とても治安が良い。
物売りや両替屋こそ外国人(観光客)だと見ると、一言二言は声をかけてくるが、すくなくとも街中で身の危険を感じることはなかった。
暗くなってもこれは同じで、それなりに人通りがあるところでは、観光客やジモティーらしい女の子も、第一級警戒モードで歩いている人は見あたらず、
どちらかと言うと、ポケッーと、歩いている風である。
また、一般的な生活レベルも、格差はあるようだが、決して先進国に大きく劣るわけではなさそうだ。

街中には何件かのインターネットカフェがあり、私はそこの経営者の、英語ペラペラのお姉ちゃんのメールアドレスを借りて、日本で留守番をしている
カミサンにメールすることも出来た。
私は当時フリーアドレスを持っていなかったし、スペイン語OSのPCで取得するのはハードルが高かったので、アドレスを借りてしまったのだ。

東京感覚で歩け、治安面でまったく不安が無かったが、人けのないところでは不明。
地元でコントラバントと呼ばれる露店マーケットの写真を橋の上から撮っていると、とりあえず外国人(私)に英語で話しかけてみたかった風のおじさんが、
「ブラックマーケット」と指さし、「危険だぞ」という風に首をすくめた。

4.バスツアー
高度順応を兼ねて、クスコ近郊のバスツアーに参加。
ガイドのお姉ちゃんは、どこで覚えたのやら、「行きましょ。」という日本語だけ知っていた。
サクサイワマン遺跡からクスコを見下ろせる高台で写真を撮っていると、「シャッターを押してあげようか?」と言ってくれるので、
ひとつ予想外の反応をと思い、「あなたを撮ってあげましょう」と言ったら、意外にあっさり受けた。
同じツアーの白人が笑うので、「She is very bonita!」と、英語とスペイン語をごちゃ混ぜに応えたら、スゴク嬉しそうな顔をしていたのが印象的。
でもまぁ、veryと言う程じゃないけど、本当にまずまずbonita(可愛い)だったよ。

このツアーは10ドルでホテルまで迎えに来てくれ、サント・ドミンゴ教会、サクサイワマン、ケンコー、プカプカラ、タンボマチャイと、クスコ近郊の押さえ所は
すべてカバーしているすぐれもの!! 日本で言うと、ハトバスツアーみたいなものか???
もちろん、お約束の土産物屋に立ち寄る時間もあり、コカ茶のティーブレイクと言いながら、しっかりとはめられて、いっぱい買っていた中国人風観光客も
いたし、途中で撮られた私の写真を絵葉書に貼り付けた、世界中どこでもありそうな「押し売り葉書」は私もしっかりと買わされた。
サクサイワマンの大遺跡には感銘。
最大で360トンもある巨石をどうやって組み上げていったのか、不思議という以外に表す言葉がない。
3日目(8月07日) 1.プライベートカーツアー
クスコ三日目も、明日からのアンデストレッキングに備えて、日本から申し込んでいた近郊村ツアー。
昨日と同じように、集団ツアーだと思っていたのだが私とおしゃべりオバサンと運転手だけのプライベートドライブ。

このオバサン、早口のペルーなまりの英語で、私が理解出来ているかどうかを鑑みることもなく、次から次へと怒涛のようにしゃべる。
「私は英語が苦手だから、簡単な言葉で短く話してくれ」と伝えても、「ハーン」という感じで、何も変化がない。
「私は静かに風景を楽しむのが好きだから、ガイドトークは要らない」ときっぱり言ったら機嫌を悪くしたようだったが、それでもしゃべっている。

2.ピサック村
それでもアンデスの山間部に点在する村巡りは楽しい。
ピサック村では土曜マーケットが開かれていた。

右の写真の少女にスペイン語で値引き交渉して、
10ソーレスまで下げたTシャツは気に入っている。
それにしても、お母さんのお腹は立派だ。
この少女もいずれは、こうなるのかな?

3.チンチェーロ村
車はさらに標高を上げてチンチェーロ村へ。
富士山の山頂と同じくらいの高さにある小さな遺跡に行くと、
民族衣装を着た、土地の子供が次々と集まってくる。

何気に写真も撮らせてもらった。
この時は気が付かなかったが、もしかしたらチップ目当て
だったのかもしれない。
車はさらに先の、オリャンタイタンボの大遺跡まで行き、帰路ではクスコ40万市民の水源池となっているピウライ湖を眺めながらクスコに帰還。
4日目(8月08日) 1.Camino del Inca
インカ時代、帝国の人々は遠く点在する村から村に、海から山に、山から密林に、多くの道を築いた。
いや、この多くの道が、インカ帝国を築いたと言えるかも知れない。
この道をインカトレイルという。

例えばクスコからチンチェーロを越え、ウルバンバ川から再び山岳部に入ってマチュピチュを越える道がある。
マチュピチュから、さらに下ってジャングル地帯に分け入り、今なお、どこまで続いているか判らないという。
富士山頂の高みを遙かに越え、数百年の歳月を息づいているインカトレイル。

この道を越え、3泊4日でマチュピチュまで歩くトレッキングツアーがある。
もちろん個人で歩くことも可能であるが、スペイン語が堪能でない人はトラブルがあったときに大変だし、各所にインカ時代の遺跡が点在するので、
出来ればガイドを付けた方が楽しめるかも知れない。

クスコからバスに乗って、昨日も来たオリャンタイタンボの少し先、チルカ村からエントリーする。
私が参加したトレッキングツアーは、私を含めて客が15人、ガイドとアシスタントガイドが各一人の総勢17人に、同人数くらいのポーターとコックが
サポートしてくれる。 客は、私以外は全員が欧米人(アメリカ・カナダ・イギリス・オーストラリア)。
コース途中でも多くの登山者と行き交ったが、日本人はもとよりアジア人はほとんど見かけない。 非常に素晴らしい道なだけに、少しもったいない。

2.トレッキングまで
出発日の早朝、クスコの街中をトレッキングツアーの企画会社が準備したバスが奔走する。
様々なホテルに分散している、トレッキングへの参加者を集めるためである。
各々の自国で予約したり、クスコでツアーへの参加を申し込んだりして、今回、コースを共にするツアー客は、私を含めて15人。
単独行者は、私以外には、USAの美女スーザンと、同じくUSAのナイスガイ・デービットの2人だけ。
アメリカの他、カナダ・イギリス・オーストラリアからの参加者がいたが、他はなんと全員がカップルでの参加。

フランスに住む友人も言っていたが、欧米では何をするにしてもカップルが単位であり、それが逆に離婚率の増加に一役買っているような様相がある。
私のパートナーは毎年のように、私が働いている時期にイタリアに一人で行ってしまうし、逆に今回は日本で一人でお留守番である。
2人ともがどうしても行きたいところに行くのではない限り、この方が自然であるような気がする。
フランス人の多くにとっては、このようなやり方は、「アンビリーバボー」らしい。

ともあれ、15人+ガイドのホセ+アシスタントガイドのレーニェに、コックとポーターのチーフ級を乗せたバスは、クスコからチンチェーロ村を越え、
ウルバンバ川のほとりを軽やかに走り、私は先日にも行ったオリャンタイタンボで一息入れたあと、10時半にトレッキング起点のチルカ村に到着する。

チルカ村にバスが着くと、どこからともなく村人とポーターが集まり、静かな村が一気ににぎわう。
1日に数本、マチュピチュとクスコを結ぶ列車が走る鉄路の脇に荷物を積み上げ、チーフポーターがてきぱきと各ポーターに荷物を振り分けていく。

3.CILCA
トレッキング出発直前 チルカ村にてバスから荷物を下ろす。
線路の脇では、少女が一人無心に遊んでいた。

歩き始めたのは11時30分。
コースはきつくない。 なんと行っても自分で担ぐ荷物は、ディバックに入れたわずかな衣類と当座の行動食、それに貴重品とカメラくらいなものである。
同じパーティーに50代後半の夫婦(ヘレン&ジェフ)が居たが、彼らを含め、全員が軽やかに歩く。
1時間と少し歩いたところに、小屋とゲートがあり、ここで17ドルを支払う。 このコースの通行料と、マチュピチュの観光料を含んでいるらしい。
 
4.トレッキングスタート
そこから、5分ほど登った小川の脇の広場で昼食。
チキンと様々な付け合わせを皿に乗せて、コックがみんなに配ってくれる。 パンは別皿で欲しいだけ取って良いらしい。
近くの村で放し飼いにしているらしいニワトリが行き交う中で、チキンの足にかぶりついた。

16:00に、 HUAYLLABAMBAのサイト地に到着。 テントが既に張られており、広場の端で炊事が始まっていた。
何軒かの家もある。 

各参加者に一つのテントが割り当てられる。 19時に、中央の大テントでみんなで夕食。
みんな初対面だというのに、賑やかな食卓。 私以外は全員が英語圏の住人なので、みんな早口でまくし立てる。
私は無口な日本人。 意味不明のうすら笑いを浮かべ、聞き取れた言葉に慎重にうなずくだけ。
ガイドのホセと、アシスタントガイドのレーニェは共にペルー人(クスコ市民)だが、特にホセは、みんなの英語に十分についていっている。
彼はこのほかに、母国語のスペイン語、アンデス各所で使われるケチュア語、フランス語に堪能で、日本でも働いていたことがあると言い、
私との簡単な会話は日本語で交わしてくれた。
5日目(8月09日) 1.トレッキング2日目
この日の朝は、けたたましいロバの鳴き声と、犬の雄叫びと、ニワトリの応酬の喧騒の中で目覚めさせられる。
昨夕と同じ大テントで朝食を摂って8時に出発。 ホスト側も客側も、みんなきっちりと時間を守る。
一人でもだらしない人がいると、団体行動は結構な影響を受けるものだが、今回は余分な心配は必要なさそうである。

この日は、朝一番から登りが続く。
サイト地から一気に1200m登るのだ。
1200mの登りなんて、国内の低山でも珍しくはないが、ここはアンデス。 登りはじめの時点で既に標高3000mなのである。
このあたりは南緯13度であるが、私が行った8月は真冬であり、標高が高いことも相まって、日が陰ると寒い。
日が出ると、とたんに暑くなり、白人達は大急ぎで日焼け止めを塗りたくっていた。

最初はみんな元気が良かったが、高度をかせぐに連れてパーティーがばらける。
先頭集団にいるのは、一組の夫婦と私を含めた数名。 この夫婦はかなり歩きなれている様子で、足取りも軽やか。
他の女性はスーザンだけで、さすが、アンデスまで一人で来るだけあって、華奢な見た目と違いたくましい。
彼女は、スペイン語がペラペラである。 しかし、後にもらったメールの英語は、かなりオリジナルな言葉遣いで解読に苦労した。

2.アンデスな ひと時
この地方の山岳地図は、日本ではついぞ入手できなかったので、正確な位置が良くわからないが、推定で標高3600m付近の草原で先行のポーターが
昼食を準備して待っていてくれた。
11時前には全員がそろい、テーブルを広げて5000m峰を眺めながらのランチタイム。 近くではヒツジが放牧されている。

12時を過ぎた頃、ガイドを無視し、本日の難関である標高4200mの峠を目指して、それぞれが勝手に出発し始める。
「いいのかなぁ???」と、思うが、ガイドのホセも気にしていない様子で、ゆったりとみんなを眺めている。

私もスーザンと2人で出発。 きつい登り続くので、英語が不得意であろうが無かろうが、それとは関係なく、無口に歩き続けることになる。
標高4000mを越えたあたりで、「先に行って」と、スーザンがペースダウンしたので、薄情な私は先に行った。
13:15に、唐突に峠に到着。
まだまだ先だと思っていたのだが、先に到着していたデービットが、「ここが最高地点だよ」と、教えてくれた。
登ってきた側と反対側に、つづら折れの下り道が見え、下の方に、遺跡と今日のサイト地が霧に見え隠れしている。 20分ほどで全員が到着。
私が(途中までスーザンに合わせていたとは言え)75分かかった道を、ラストでも95分。 思っていた以上にみんな健脚である。
寒さに震えながら全員で記念写真を撮り、14時前くらいに、やはり勝手に下り始める。
私は預けたセーターを早く着たかったので、「ワンゲル下り」と称する駆け下りで30分でサイト地に到着。
夕食の時にスーザンがみんなの前で、「ヨシ(みんな私をヨシと呼ぶことになっていた)は何時に着いたの?」と聞いてきたので、「14時半」と、
たどたどしく答えると、時間がかかった人を中心にどよめいていた。
でも、もっと早かった人もいる。 特に年輩の人は、登りは苦にならなくても下りは苦手らしい。
6日目(8月10日) 1.トレッキング3日目
今日も元気に8時に出発。
サイト地から300m登って小さな遺跡。
さらに登って少し下るとサヤクマルカの遺跡。
ここでゆっくりと説明を聞いて、それから20分ほど下って昼食。

昨日と同じようにテーブルを広げてランチパーティーとあいなる訳だが、
今日は天気も良く、本当に豊かな時間。
「日本人ももっと、こんな時間を大切にしないとイカンよ」と、
一人で勝手にゴチて満足する。

2.SAYACMARCA
ここからは、また、各自が勝手に歩く。
私も、ホセやデービットと歩いたりもしたが、一人の時間も楽しんだ。
途中、やはり自分のグループとはぐれたのか、一人で歩いていた英語の通じない女の子と写真を取り合い、14時過ぎに、標高3700mの、
極めて眺めのいいサイト地に到着。
ここまでのインカトレイルは、400年の昔から存在しているのが信じられないくらいに快適な雲上のハイウエイ。
最近になっても手入れはされているのであろうが、とにかくベースがしっかりしている。
北東の眼下には、明日目指すマチュピチュ遺跡のワイナピチュ峰と、さらに下方にアグアス・カリエンテス村。

3.PUYUPATAMARCA
この日の夜が素晴らしかった!
暗くなる頃には一面にガスが立ちこめ、夕食までは10m先も見えないという有様だったのだが、食事を終えて外に出ると、なんと満天の星空。
南アルプスあたりから眺める星空を知る方は多いと思うが、ここの星空はその比ではない!
ミルキーウェイがくっきりと輝き、流れ星もひっきりなし。 寒いのにテントのジッパーを開けて、とても長い時間、空に見とれてしまった。
7日目(8月11日) 1.トレッキング4日目
標高3700mの朝は早い。 午前6時前にガイドのホセが、「御来光を見に行こう」と、みんなを起こして回る。
展望台は遠くない。
サイト上の裏手の、高さ20m程度の小高い丘がそれである。

少し寒い中を、簡単な防寒着を着込んでヨッサヨッサとみんなで登る。
360度の大展望!
南にサルカンタイ、西にアマゾン。 東は越えてきた道程。 北には、これから向かうマチュピチュが見える。
豪快な大展望に魅入っていると、レーニェとコックが温かいコカ茶を持ってきてくれた。
朝食後に、「セレモニー」と称し、ポーター達へのチップ贈与式が行われる。
トレッカー一人頭、10ドル。
トレッカー一人に対して、ポーターは1.2人ほどいるので、
ポーター一人にわたるチップは平均で8ドルほどか。

ここから彼らはまっすぐに下り、アグアスカリエンテスのサイト場に
テントを設営したら解散するそうだ。
ポーター達と記念写真。(15人の登山客に対してこれだけの人数)
ここからは、眺めのいいルートを通ってどんどん下る。
何通りかの道があるようだが、今回のメンバーは健脚揃いなので、一番遠いけれども一番眺めのいい道を通るというようなことをホセが言っていた。

アマゾン源流と、だんだんと近づくマチュピチュを見下ろしながら、ぐんぐんと高度を下げる。
高度を下げるにしたがって、ジャングルっぽくなり、蚊や蠅が出てくる。
彼らは、「ここは熱帯の国だったのだ。」と、思い出させてくれるのだが、嬉しい存在ではない。

HUINAY HUAYNAの遺跡近くで昼食。
ラテン音楽の流れる南米らしい休憩所が忽然と姿を見せる。
カウンターでドリンクを買うのだが、けだるい雰囲気のお姉ちゃんがドリンク券を売っていた。
まずは、この、ドリンク券を買って、奥の方で券とドリンクを交換するというシステムだったが、奧のお兄ちゃんはシャキシャキと働いていた。
ここに荷物を預けて、ウイニャワイニャ遺跡を見に行く。 途中で断崖の途中からランの一種が咲いているのを発見した。

昼食を摂った後にいよいよ、今回のトレッキングの終着地であるマチュピチュに向かう。
途中までは全員で歩いていたが、分岐で先頭が道を間違ったのをきっかけに集団がばらけた。
デビットが軽快に飛ばしているのでくっついていったら、なんだか意地になって飛ばしている。
「こんな小柄な日本人は振り切ってみせる。」とでも、思っているようである。

なんの、こちらとて普段はトライアスロンで鍛えている?のだ!
空身(荷物無し)で、後れをとったりはしない。
ピッタリとくっついていくとデビットは、だいぶバテテきた様子だが、彼も根性がある。
このアンデスの後で本国に戻らず、パタゴニアで旅を続けると言っているのも伊達ではなさそうだ。

デビットは長い急な石段を登ったところで立ち止まって水を飲み、「ヨシも飲むか?」と、水筒を差し出してくれたのだが、
実は私は少し前に、歩きながらコッソリと水を飲んでいたのでし、汗も拭った直後だったので、涼やかな顔で、「ありがとう。 でも平気だからイイヨ。」と、
息も軽やかに、にっこりと微笑んであげた。 彼にとってはちょっと衝撃的だったかも知れない。

2.Puerta de Ingreso a la Ciudad
元気を取り戻したデビットは再び飛ばし、他の15人を大幅に引き離して、マチュピチュ表玄関の太陽の門(=Puerta de Ingreso a la Ciudad)に到着。

我々を見て、インカ道の方を指さしながら白人の女の子2人と英語で、この道はどこに続くのかなぁと地図を広げているオジサン。
4日間をかけてチルカから歩いてきたことなど、互いにたどたどしい英語でしばらく話した後で、「オジサンはどこから来たの?」と聞いたら、
しっかりとした太い声で、「アイ カム フロム JAPAN!」
・・・がっくりときた。

お互いに帽子とサングラスで人相はわかりにくかったとは思うのだが・・・、大阪から来られたらしい。
2人の女の子は連れではなく、ココで会っただけとのこと。

しばらくすると、パラパラと後続隊が追いついてきて、ここでホセの説明を聞いた後で再び出発。
今度は、このオジサンとデビットとホセとの4人でゆっくりとマチュピチュの遺跡内を進んだが、日本語でホセと話している大阪オジサンと離れ、
再びデビットと二人行動。 彼と遺跡内で写真を取り合いながら、バスの発着場に向かう。
今日はアグアスカリエンテスのキャンプサイトでゆっくりし、明日は再びじっくりとマチュピチュを散策する。
8日目(8月12日) 1.世界遺産 MACHUPICHU
アフリカ大陸のピラミッド。 ユーラシア大陸の万里の長城。 ヨーロッパ半島のギリシャ/ローマ遺跡群。
世界には、謎と驚異に溢れた遺跡が存在している。
それらから遠く離れた南米に位置し、世界遺産に数えられる遺跡の中でも、もっとも雄大で美しく、謎に満ちているのが、この、マチュピチュかも知れない。
南米大陸は日本からは遠く、この遺跡はリマからも近いわけではない。 しかし、この遺跡を見るためだけでも、旅に出る価値はあるのではないだろうか?
マチュピチュの背後に聳えるのがワイナピチュ。
遺跡と一体化された有名な風景である。
とても独特で美しいバランスがある。

月の神殿に行く一行と別れ、デビット、最年長のジェフ、カナダ男性の4人でワイナピチュに登ってみる。
けっこうきつい登りが続くが、頑張れば、やがては山頂にたどり着く。
「ここから見たマチュピチュ遺跡は、うち捨てられた難破船のようだ」
と,グラハムハンコックは記しているが、確かに廃墟独特のもの悲しい雰囲気が漂っている。
ワイナピチュ山頂に到着すると日本人がかたまっていた。 昨日のオジサンもいる。 全員が一人旅。
私を入れて4名になったところにもう一人来た。

紅一点の大阪女性はアラスカのチュナ温泉に浸った話をアグアスカリエンテスに重ね、最後の一人は、キリマンジャロに登った経験があった。
アガラス岬にも行ったと言う。 旅する者は一様にロマンチストだ。

2.グッバイボーイ
マチュピチュ・ルイナス ホテルの入り口に、麓に下るバスが停まっている。
バスに定刻はなく、満席になったら出発しアグアス・カリエンテス駅まで連れて行ってくれる。

1999年8月は崖崩れのため、マチュピチュ直下のプエンテ・ルイナス駅は使われず、アグアス・カリエンテス駅がクスコからの列車の終着駅となっていた。
マチュピチュからアグアスカリエンテスに下る道には、世界的に有名な少年がいる。
その名を「グッバイボーイ」と称され、インカの衣装を身にまとって、バスに合わせて道を駆け下るのだ。

崖沿いに作られたバス道は、とても曲がりくねっており、その曲がり角を結ぶように石段の歩行者路が続いている。
マチュピチュを出発した幾つ目かのコーナーにさしかかった時、この少年がバスに向かって大声で「グーッバーーーイッーー」と、長く叫ぶ。
バスが次のコーナーにさしかかった時、再び同じ少年が現れ、同じようにバスに向かって叫ぶ。
バスが通り過ぎると少年は石段を飛ぶようにかけ下って、大回りしたバスがやってくるのを待ち、そして再び叫ぶのだ。
ウルバンバ川に架かる橋を渡ったところで、バスの運転手が少年を乗せ、
少年はバスの中をまわってチップをせがむ。
何人かがあげると、それにつられて、さらにチップを出す人が続くが、
きっかけがないと何ももらえないことがあるかもしれない。

プエンテ・ルイナス駅でバスが止まっていたときには、
少年はバスに乗ってこずに、ドアの外でチップをもらえるのを待っていたらしいが、
列車が止まって、バスがアグアス・カリエンテスに行くようになったので、
バスの運転手が協力しているようだ。

3.ペルーの子供達
ペルーの子供達は概してとても人なつこい。
カメラを向けると、ちょこちょこと近づいてきてとびっきりの笑顔を見せてくれる。
私が手に持っていたインカコーラを力づくで奪い取っていった3歳くらいの強者もいた。
たまたま近くでカナダ女性のモナが見ていて、「あげたの?」と聞いてくるので、
「そうじゃない。ホールドアップされたんだ!」と言ったら、結構受けた。

この子達が大人になる頃には、ペルーも日本も、そしてすべての国々が、
もっと平和で暮らしやすい社会になっているといいですね。
アグアス・カリエンテスにも小さな広場と教会があり、アグアスカリエンテス駅近くのマーケットでは様々なものが売られていた。
歩くとひっきりなしに声をかけてくるが、全体的にしつこくない。 やはりアフリカに比べると南米はあっさりしているのかもしれない。

4.アグアスカリエンテス
アグアス・カリエンテス村の一番奥に、5ソーレスで入れる温泉がある。
アグアスカリエンテスを日本語に訳せば「熱い水」。 早い話が温泉のことで、それがそのまま村の名前になっているというわけだ。

入り口の小屋ででチケットを買い、さらに奥に5分ほど歩いたところでまず、水着に着替え(裸は不可)、着ていたものや、荷物をレセプションに預ける。
この時自分の荷物が何番の棚に置かれたか見届ける。
返してもらうときのために30くらいまでは、スペイン語で数字を数えられる様になっておいた方がよい。
私はそれが出来たので英語を試すことはなかったが、受付のオバチャンは、英語が通じそうには見えなかった。

先ずは、入り口でシャワーを浴び、身体もきれいに洗ってから、底が砂地の、プールのような風呂に入る。
お湯はちょっとぬるい。(38度くらいか??)
この中では、すぐ脇にある店からビールやジュースをツケで買って、あとで着替えてから精算することが出来る。
いくらでもゴマカセそうだが、そういう形態で商売しているところを見ると、結構正直者が多いのだろう。
最後に少し暖かい(42度近く??)小さなプールに浸かって、身体を温めてからあがる。
8月は冬なので、ちょっと寒かったが、一年で一番寒い頃だったので、夏ならもっと快適かも知れない。

5.アウトバゴン
アグアスカリエンテスからクスコへは、今度は自らの足ではなく公共交通機関のお世話になった。
憧れのアウトバゴンである。
駅でガイドのホセが引率の先生よろしく一同を整列させ、一旦はプルマンクラスに乗り込んだが、なぜか再び外に出て、インカクラス?の車両に乗り換え、
車掌と話こんでいたかと思うと三度外に出て、もう一度プルマンクラスに戻った。
何だか判らないまま、しかし誰一人怒り出す者もなく、
なんじゃなんじゃと笑いながらポーターのいなくなった一同は、自らの大きな荷物を抱えてよっちらよっちらとホセの後を追う。
このあたり、5日間で信頼関係が確立したようだ。

この列車、実に楽しい。
何が楽しいって・・・、これがまた、実によくゆれる。 そんじょそこらのジェットコースターなんて目ではない。
アグアスカリエンテスを16時過ぎに出発した列車は、概ねウルバンバ川の良い眺めを楽しみながら、登りはノタクラと、下りはガタガタと、
ほほえましいのどかさで、アンデスの低地をひた走る。

何日か前に遺跡見物を楽しんだオリャンタイタンボには、まだ陽がある内に到着。
窓の下に食べ物や、その他色々なモノを担いだ物売りがやってきたので、手持ちが少なくなっていたミネラルウオーターを補充した。
オリャンタイタンボを出発する頃には少し薄暗くなり始め、程なくとっぷりと闇が列車を包み込む。
チンチェーロを過ぎた頃だったか誰かが南十字星を発見し、「ヨシ、見えるか? あれがサザンクロスだ」と、指差し教えてくれたのは嬉しかった。

幾度かスイッチバックを繰り返すとクスコは近い。
と、唐突に、車内にフォルクローレが流れ始めた。 一曲目は「コンドルは飛んでいく」。(・・・これは正しくはフォルクローレではないそうだが。)
あからさまにクサイ演出ではあるが、クサイながらにも胸に来るモノはある。
まして窓の外にクスコの夜景が広がり、高地の澄んだ空気の中で、意外なほどに美しいひとつひとつの光が目に突き刺さってくればなおさらのこと。
女性の中には、ホロリときた人もいる様子である。
私とて一人で地球の裏側までやってきて、5日前の早朝にクスコで出会ったばかりの異国の登山仲間とアンデスをマチュピチュまで歩いて、
そうして再びクスコに戻ってきたのだから、感慨はなかなかのモノである。
しかし、それらの演奏が終わった後に、「今流した音楽のテープで~す。」と登場した、商売っ気豊かな車掌の手にのる者は、一人もいなかった。

6.インカグリル
列車はドップリと日が暮れたクスコに帰り着き、15人の登山仲間は流れ解散。
オーストラリア人のピーターが、「この先に良い店があるから21時に再集合して打ち上げをやろうぜ」と声をかけてくれる。
私は時間厳守で、指定の店に到着したのだが誰も来ておらず、
30分くらいの遅刻が標準で、5名ほどが集まる。
店の名前は「インカグリル」。
「地球の歩き方」にも紹介されていないが、なかなか良かった。
ピーターお薦めのフレンチオニオンスープも旨かったし、
メインディッシュやデザートも充実。
右は、オーストラリア隊のピーターと、単独アメリカ女性のスーザン。
9日目(8月13日) ペルー脱出
クスコからリマの空港まで飛び、リマ空港から国際線に乗り継いで夜行便でマイアミへ。 後から考えると、結構タイトな計画だったのだと思う。
マイアミで荷物をピックアップしたところで、共にアンデスを歩いた50代後半夫婦のヘレン&ジェフとバッタリ。 同じ飛行機だったらしい。
10日目(8月14日)

12日目(8月16日)
ウエストインディー諸島
ナポレオンの妻、ジョセフィーヌが生まれた島であり、小泉八雲=ラフカディオ・ハーンが愛した島、マルティニクに住む友人を訪ねて2泊旅。
ここはフランスの海外県なので英語もスペイン語も通じにくい。
13日目(8月17日)
帰国日(8月18日)
 
1.マイアミ-シカゴ
昨夜はマルティニクからの国際線のマイアミ到着が嵐で遅れ、深夜に空港ホテルに投宿。
ひと風呂浴びてさっぱりしていると、突然ドアが開いて男が入ってきた。

「誰だ!」
と、怒鳴りつけると、人のよさそうな白人中年おじさんが、ホテルマンを後ろに従えて困惑している。
どうやら、ホテルの手違いで、同じ部屋のカードキーを重複発行したらしい。
チェックアウトする際に、ラテンな雰囲気のフロントウーマンにそれを告げたが、「あらそう」という感じで意にも介さない。
そこからシカゴに飛んだのだが、なんだかビジネスシートっぽい広さがある。
確かに前の方の席だったが、後方は見なかったので、本当にビジネスアップされていたのかは不明。
シカゴで成田行きの機に乗り込み、シートに身を沈めた時には相当の脱力感に襲われた。
自分の感覚としても確実に旅を楽しんではいたが、きっと自覚症状のない緊張感に、ずっと覆われていたのだろう。

2.日本
日付変更線をまたぎ、15日ぶりの日本に帰還。 明日からは社会復帰。サラリーマンは厳しい。

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