キリマンジャロ1997

アフリカ大陸・・・、一般的な日本人には遠い響きのある地名である。
日本からの直行便はない。
アフリカに向かう旅行者の多くは、ヨーロッパかインドを経由して飛ぶことになる。

私は、ヒースローからケニアの首都ナイロビに飛び、そこから、陸路、ナマンガの国境を越えてタンザニアに入った。
タンザニアでは、アフリカ大陸の最高峰-キリマンジャロ山に登り、下山後に、タンザニア第二の都市アルーシャの近くにある、アルーシャナショナルパークで半日だけ、サファリも楽しめた。
出発日(4月27日) 1.成田からロンドン ヒースロー空港へ
ナイロビへは、エアインディアに乗って、ボンベイ経由で飛ぶチケットを手に入れていた。
離陸予定時刻12時20分のAI301便。
少し早めに成田空港に到着したが、電光掲示板を見ると、このAI301の出発予定時刻が2時間以上遅れている。
「まぁ、ボンベイで一泊待つ予定だから良いか」などと思いながらカウンターの付近でウダウダしていると、ナイロビ往復チケット等の手配をしてくれた
世界ツーリストの社員が登場。
いわく、
「昨日もエアインディアはトラブルを起こして出発できなかった方がいるので、今日はJALでヒースローに、ケニア航空でナイロビに飛んでいただきます。」

この時初めて、ナイロビまでは同行者がいることを知ることになる。 同社企画のケニアサファリツアーに参加する、6名の力強い同志だ。
かくしてスーツケース6個とバックパック1個を持った一団は、ナイロビまでのチケットを持たないままに、ヒースローへと旅立つことになる。
彼らは、単独キリマンジャロに登りに行く私の行動力と、旅慣れた様子をたたえたが、なんのことはない、私が海外に出るのはこれが二度目である。

このJAL403便も出発が遅れた。
行くことも想定していず、当然、勝手を知らないヒースローでは、予約変更の連絡がスムースに伝わっているかの確認から始めなければならないと言うのに、
トランジット時間が3時間もないことになる。
(結局はさらに遅れ、ヒースロー空港の第3ターミナルから第4ターミナルまでを、1時間45分で駆け抜けることになる。)
この時は、6人の同志の存在がどんなに心強かったことか。
実際、ナイロビのジョモケニアッタ空港に到着したとき、成田で「自分もナイロビに行く」と言っていた人の荷物だけを発見した同志がいる。

2.ヒースロー脱出
ヒースローで同行の7名は、何とか20:10発のケニア航空に乗り込み、ドーバー海峡・ヨーロッパ半島を越えて、ケニアに向かうことが出来た。
乗客は、欧米人観光客風も目立っていたが、イスラム服が多く目に付いた。
飛行機はエアバス社製だったが、なぜかトイレにA型コンセントが設備されている。アメリカあたりで使用していたものの払い下げだろうか?
2日目(4月28日) 1.アフリカ大陸
機内では、運良く左窓際の席に座れたため、多くの景色を楽しむことが出来る。
上空から見下ろす夜のヨーロッパは、オレンジ色に統一された街路灯がトテモ美しく、ドーバー海峡や地中海が沿岸の光の帯に包まれてくっきりと確認できる。
上空から見たサハラは漆黒の闇に包まれ、海と同じように見えたが、所々に光があったのはオアシスの小都市であろうか?

夜明けが近づき、機外が明るくなってくると、遙か下方に草原が見える。
時刻から推測するに、スーダンかウガンダの上空だと思っていたのだが、そのうち太陽が真横から昇りだしたところを見ると、飛行ルートは少し大回りしており、
エチオピア上空からケニアに回り込んでいるのかも知れない。

2.ナイロビ到着
ともあれ定刻を少し過ぎて、我々はケニアの首都ナイロビの近郊にある「ジョモ・ケニアッタ空港」に降り立った。
この時、私の荷物が届いていなかったのだが、きっとヒースローで乗り遅れたのだろう。 間抜けなヤツだと今日は諦めることにした。

カウンターに紛失を申し出て、翌日のヒースローからの便が来る時刻に再度来ることにした。
カウンターのブアイソオヤジは「電話しろ」とぶっきらぼうに言ったが、見に来るのが一番早い。
結局、翌日に発見でき、私は予定より6時間遅れでタンザニアに向かうことになる。

3.ナイロビ
アフリカ大陸-とりわけ、サハラ以南は特に貧しいと言われる。
ある種の先入観を持って、ケニアの首都ーナイロビに降り立った私に降り注ぐ。 赤道直下の陽光は激烈だった。

ナイロビは、大都会の喧騒のすべてをその胎内に宿している。
街を歩けば、ひっきりなしに話しかけてくる男たち。
カモを狙っているたかり屋もいる。 ビジネスチャンスをうかがう野心家もいる。

4.カーニバル
ナイロビから車で30分程度のところに、「カーニバル」という、様々な肉を喰わせてくれる店がある。
MENU表には、「ポーク」「ビーフ」という、スタンダードな肉に混じって、「ゼブラ」や「ガゼル」などの名前が読みとれる。
店では、シェラスコ風に肉を皿に切り分けてくれ、あらかじめ準備された何通りかのソースを付けて食べる。
正直、「ヌー」以外の肉はどれも硬くて、マズイとまでは言わないまでも美味いものではなかったが、ソースの中には素晴らしく美味しいものがあった。

次に行った民俗館では、各地の民族の伝統ダンスを見せてくれる。
客は少ない。
最初は目新しく感じたが、どれも似かよったもので、すぐに飽きてしまった。
男女ペアのものはどれも、セックスをイメージっぽいものが多く、テレビコマーシャルであった、上下ジャンプのダンスもあった。

5.タスケテ
ホテルでの出来事
ナイロビの街を一人でうろついたあと、ホテルの部屋で一休みしていると-ノックの音が。 (星新一風)
「WHO?」と問いかけると、消え入りそうな日本語(明らかに日本人ではない発音)で、「タスケテ」と応える。 明らかに日本人ではない。

こういった話は聞いたことがある。
ヨーロッパあたりでよくあるらしいのだが、「どうしたのですか?」なんて、うっかりとドアを開けると短銃を突きつけられて「ホールドアップ」となる。
ここはナイロビだからナイフくらいか?
凶器が登場しなくても、部屋に押し入られ、居座られて「ギブミーマネー」はかたい線だ。

きっぱり、「NO!」と叫んでやったら、「オッケー」と答えてどこかに消えた。 あっさりしているし、どこかとぼけていてユーモラスだ。
しかし、この部屋に日本人がいるとどこでかぎつけたのだろう?
ホテルがグルか? このホテルは各フロアにガードマンがいる、外国人向けの少し高級なホテルなのだが。
成田から、この日の早朝まで行動を共にしたサファリツアーの6人組の部屋には現れなかったらしいので、必ず出現するというわけでもなさそうである。

一人でナイロビを歩いているとき、さかんに話しかけられたが、そのうち、一番長く話をしたお兄ちゃんに「ニュースタンレーに泊まる」と言ってしまったので、
それと関連があるかも知れない。 声は違ったように思えるが、よくは判らない。
一時間ほどたってから夕食で部屋を出たが、フロアに異変はなく、ガードマンが退屈そうに突っ立っていた。

翌日、空港に荷物を取りに行き、午後の国際バスを待つ間にホテル側の便宜で別の部屋を提供してもらったのだが、この時にもこいつは現れたのである。
相も変わらず、「HELP」ではなく「タスケテ」で、「NO!」に対しては「オッケー」である。

ここは、ナイロビ。 大都会の喧騒のすべて宿す街。
3日目(4月29日) 1.ナイロビからナマンガ国境へ
この日は朝からタンザニアに向かう計画であったが、空港に荷物を探しに行っていたため、午後発の国際バスでタンザニアに向かうことになる。
場所さえ知っていれば、バスに乗るのは難しくはないが、ケニアのエージェンシーのオウマは代理人をサポートに付けてくれ、
「タンザニアのマウントメルーの前で、エドワードが待っている」と、伝言を伝えてくれた。

今から向かうのは、ナマンガ国境を越えて、タンザニア第2の都市「アルーシャ」に入るという、内陸部では最もポピュラーな国境越えコースである。
14:03 ナイロビで泊まったホテルの近くで、オンボロバンに乗車。
 「こんなバスでサバンナの中を250kmも走るのかい?」と心配になる。
14:14 客を集めながら少し走ったあと、ナイロビ大学の近くで、割とこぎれいな中型の国際バスに乗り換えたので一安心。
さすがに、あのバスでアフリカ大陸の原野を疾走することはないらしい。 出発前にナマンガの国境通過は16時くらいだとのアナウンス。

ナイロビ市内は慢性的な渋滞だが、それを抜けた後は、バスはすぐに郊外へ。 マサイの集落を時々見ながらひたすら飛ばす。
舗装はしているが、さほど道幅はない原野の一本道を、体感100km以上で飛ばす、飛ばす。

バスは日本車で、日本語の注意シールが貼られている。
2時間くらい走り、標高がだいぶん上がってきたかなと思われた頃、運転手がバスを停車し、乗客全員に、窓を全て閉めるように指示。
国際バスのためかスワヒリ語ではなく英語で、乗客のいない席の窓も、近くの乗客に閉じるように命じる。
日本のバスの運転手の基準から見れば、かなり横柄だが、東アフリカでの国際バスの運転手というのは、かなり地位の高い職業なのかもしれない。
なぜ、窓を閉めることになったのかは今でも不明。
小雨は降っていたが窓を閉めるほどのものでもなかったし、時折通り過ぎる部落にたたずむマサイ族の数が増えてきたことと関係があったのかもしれない。

2.ナマンガ国境
ナイロビから2時間半でケニア-タンザニア国境のナマンガゲートに到着。
話には聞いていたが、マサイ族の土産売りがたくさんいる。
ひとつくらい買ってもいいと思ったが、登山前では邪魔になりそうだし、ひとつものを買うと、他のマサイ族が集中的に押し寄せてきそうでもあったので、
全てを無視することにした。

バスはここでガソリンを補給。 スタンドの表示を見ると、1リットルが28.75TSとなっていた。(1997年5月)
大体、1リットル60円なので、日本よりはそうとう安い。
ケニアの出国手続きを終えた後、もう一度バスで少しだけ移動して、再びバスを降り、タンザニアで入国手続きを行うことになる。
一度で済ませてくれれば効率的なのに、面倒な話である。
出入国とも、日本人パスポートを持つ私にとっては、審査はないに等しくいたってシンプル。
イスラム服のおばあさんはあれこれと質問をされていた様子。

3.ナマンガ国境からアルーシャ
ナマンガ国境を通過して、タンザニア側に入ると、ケニア側よりも草原が目立ってくるように感じる。
国境からアルーシャまでは1時間半ほど。
街中に入ったあたりで、次のエージェンシーのエドワードと待ち合わせている「ノボテル・マウント・メルー」で降ろしてもらうようにバスの運転手に告げる。
ノボテルマウントメルーは、それがアフリカ大陸にあるとは思えないくらいに立派なホテルで驚いた。(いや、そんなにスゴクはないか・・・。)
アルーシャの風景に、あまりにミスマッチングしているから、そう感じたのかも知れない。
18時半。 バスはホテルの正面玄関で停車し、私は無事にタンザニアの国土に降り立った。

降りたとたんに、何だか判らないがたかってくる人、人、人。
早口の英語がありとあらゆる方向から降り注いできて、荷物を奪おうとする手も1本や2本ではない。
「自分には友達が来ている!」「すべて手配している!」と、英語で叫んでも手がゆるまない。
ウソではなく、タンザニアのツアーエージェンシーのエドワードが来ているハズだ。

その時、一人の黒人女性が私の名を呼んだ。
私が答えると、とたんに周りの手がすべて消え去った。 次のターゲットに向かったようだ。
女性は、「オウマから連絡を受けている。」 「今から私の車で、ホテルに向かう」と、言う。
話に不審なところはない。(第一、私の名前と、ケニアのオウマの名前を知っている。)
しかし車に向かいながら、この女性と話していても、エドワードの名前が出ない。 この一点だけがどうも腑に落ちなかった。
車につくと、別の男性が待っていたので挨拶をしたが、この男もエドワードではなかった。

そこで、車に荷物を預けたが、「ちょっとホテルのトイレに行きたい。」と、言って、もう一度ホテルの周辺をうろついてみることにした。
建物の中に入ってロビーを一周し、ホテルの正面玄関から出たところで、私の名を呼び、「俺はエドワードだ。」と言って来た背の高い黒人男性がいる。
「遅れてスマナイ。」と言いながら、事前に聞いていたツアー会社の名刺を差し出してくる。
エドワードも、(当然の事ながら)オウマの名前を知っていた。

私は、事の成り行きを(英語力の問題もあって)簡単に説明し、エドワードと一緒に、荷物を預けた車に戻った。
エドワードと、女性・運転手の連合軍による猛烈な言い合いが始まった。 スワヒリ語なので、何を言っているか、まったく判らない。
結局、女性達が引き下がり、エドワードはトランクを開けさせて、私の荷物を手にした。
私が女性に、「これでいいのか?」と聞くと、なにやらぶつぶつと言っている。

4.キリマンジャロの麓 モシへ
エドワードの車に乗ってから、彼が言うには、彼女たちはンゴロンゴロツーリストの社員だという。
私が聞いていたツアー会社ではないが、怪しい連中でもなく、エドワードとも顔見知りだったということだ。
私がケニアを出発するのが6時間遅れてことを心配して、オウマが安全策を取ったのが行き違ったのか、それ以外の理由があるのか判らなかった。
エドワードも判らないと言う。

少し走ったところで、明日からの登山のガイドに紹介された。 名をミンジャという。
私と同年輩くらいだろうか。 落ち着きのある、なかなかいい男である。
明日、ここから80km離れた、モシホテル(我々が泊まる)に来ると言い、すぐに別れた。
このころには日はとっぷりと暮れ、黒人の顔は見えにくくなってきている。
これが白人だったら、もう少し顔立ちが判るのだろうと思うと、何だか愉快になる。

19時少し前、我々はモシに向かって出発した。 町を離れると、あたりは漆黒の闇である。
と、エドワードが車を止め、後部座席の私を振り返って、「夜のドライブはデンジャラスなので準備がある。」と言って、ゆっくりとピストルを出し、
私を不安にさせないように注意深く助手席に置いた。
なおも、「強盗に対する備えだ。」と説明しようとするので、気にしてないよと伝えるために「今日は疲れたから少し寝る。」と、寝たフリをすることにした。

夜の道を結構なスピードで飛ばす。 ナイロビ-アルーシャ間より道はいい。
この道は、モシを越えて、タンザニアの首都ダルエルサラームに続いているので、第二の都市アルーシャとの間を結ぶ幹線道路。
日本で言うなら東名高速に当たるのかも知れない。

1時間ほど走ったところでエドワードが車を止める。
見ると水温計の針があがっている。
ガススタンドを発見したが、店はすでに閉じられていた。 私がケニアからミネラルウオーターを持ってきていたので、それを渡して一件落着。
「もっと必要なら、日本からもってきた水もあるよ」と、言ったが、それは要らないようであった。
そこから30分くらいでモシの町に入り、通行人に道を聞きながらモシホテルに到着。
それほど立派なホテルではないが、小さな町なのでこんなものだろうと満足できたし、湯は出なかったが、部屋にはシャワーもついていた。

夕食はバイキング形式。
遠慮して(嫌がって?)別の席に座ろうとしたエドワードに声をかけ、私のプアな英語で話しながらの会食となる。
(もちろん、外人と接するタンザニア人は、英語を自由に使いこなす。)
エドワードは40代半ばから50歳くらいに見えるが、黒人の年齢はよく判らない。
話してみるとかなりのインテリで、タンザニアの高校を出たあと、イギリスとドイツで教育を受けたという。
今は、タンザニアから西インド洋一帯のツアーを手がけ、娘を日本に行かせたこともあるらしい。

彼は心から(の様に見えた)「日本の工業技術は素晴らしく、アメリカよりも凄い。」「日本の教育は優れていて、タンザニアは劣っている。」と強調した。
「教育が何よりも重要だ」と、何度も何度も繰り返す。。。
私は、「ニッポンの教育も問題が多くて、良いことばかりじゃないんだよ。」「人間の心の豊かさは、教育だけでは何ともならない部分もあるよ。」と、
答えたが、どこまで伝わったかはわからない。
「それでも日本は素晴らしい」「しかし来世紀にはタンザニアも成長するから見ていてくれ」と、力強く話す。
4日目(4月30日) 1.登山初日 マラングゲートからマンダラハット(2750m)へ
翌朝の早朝、雨期だけに小雨が振っていて、ホテルの窓からは何も見えなかった。
晴れていれば正面に、キリマンジャロの雄姿が見えるはず。 エドワードは、8時には雨は上がると言う。

7時半に昨日のミンジャが登場。
今朝、アルーシャを出てきたのなら、けっこう早起きだったのだろう。 朝食後に登山道具をまとめて、8時に出発とになる。
出発後すぐに、ランチと称してファーストフードっぽい何かを途中で仕入れ、1時間半ほど山道を走って、キリマンジャロ登山の正面玄関、
マラングゲートに到着する。

キリマンジャロ山への登山は、マラングゲートの受付でサインをすることから始まる。
左隅から、日付、登山者の国籍・住所氏名、ガイド(必ず雇う必要がある)の氏名の欄があり、右側は記入の必要がない。
下山してきた際に、「最終到達地」を記載する欄である。
すべての登山者の目標到達地は、最高地点である「ウフルピーク」であり、それが叶わないまでも、山頂火口原の一端である「ギルマンズポイント」に、
立つことを願いながら、キリマンジャロ登山への第一歩を踏み出す。
9:40 登山口のマラングゲートを出発。
登り初めてから30分程度登ったところに、最初の休憩所がある。
ここまでは林道で、ジープらしき車両の轍も残っている。
ガイドの「ミンジャ」が手配したポーターはコックを兼ねた「ジョン」と「エラステ」。

二人とも20代前半と若い。
陽気なジョンは24歳で英語が話せるが、それよりもう少し若いエラステは、
英語を得意としないためか無口な印象を受けた。
休憩所から登山道に入り、いよいよ山らしくなってくる。
途中では野生の猿が姿を現した。 ミンジャによると、ブルーマンキーとブラックマンキーがいるという話だが、私の目では区別がつかなかった。

11:00過ぎ ハーフポイントを過ぎたところで、なんとガイドがバテル。 今は、LOWシーズンなので、実は3ヶ月ぶりの登山になるらしい。
7~8月のHIGHシーズンには、月に3回登ることもあるという。
(キリマンジャロ登山は、ほとんどの場合、5日間コースなので、一か月の半分を山で過ごす計算になる。)
ガイドは「大丈夫だ」と笑ったが、少しペースを落とした。

2.マンダラハット
12:30 初日のサイト地のマンダラハット(2750m付近)に到着。 本日の一番乗り。
小さなバンガローが散らばっている様な形態で、レセプションでサインをして、一つの小屋のキーを受け取る。
ここでコーラ(1本1ドル)を2本買って、1本をミンジャに御馳走する。 少し疲れ気味。
4人ほどが眠れる小屋の中は落書きだらけで、英語とドイツ語らしいのが多い。
ちなみに「ハット」は、ここでは山小屋の意味で使われている。

サイト地のあたりにはカラスが多く、あとから登ってきた、イギリス人の二人組がエサをやっていた。
14時前に、この二人組に誘われて、彼らのガイドと共に、マウンジクレーターに向かう。
断るためにミンジャを探すと、ポーターを手伝って包丁を手にしていた。
ガイドとポーターは明らかな身分の差があり、そんなことはしないと思っていたのだが、けっこうくだけていて好感が持てる。
このガイドとならうまくやって行けそうだ。

3.マウンジクレーター
途中に倒木のある、ぬかるんだ道を進んでマウンジクレーターまで40分弱。
モシタウンやケニアとタンザニアの国境のジャングル地帯、LAKE CHARA等が見える。
天気は良好で、気持ちのいい風が吹いている。 クレーターを一周している途中で、キリマンジャロ山頂が少し姿を現す。
最高地点のウフルピークは反対側なので、ここからは見えないらしい。

マンダラハットに戻ってまもなく、日本人が下山してくる。 名前は忘れてしまったが、後にも登場するのでK氏としよう。
K氏は今朝、山頂アタックをして間もなく高山病で動けなくなり、なんとかここまで降りてきたとのことでかなり疲れ気味。
私より、ちょい若いくらいか? 「南米でもダウンしたし、高地には向かないようだ。」とぼやいていたのが印象的。
5日目(5月01日) 1.登山2日目 マンダラハットからホロンボハット(3800mへ)
マンダラハットを出発すると怪しげな植物が目立ち始める。
強くなったり、弱くなったりしながら雨が続いているので、休憩もろくにとらずに飛ばす。 今日はミンジャも調子が良さそうである。
11時ちょうどに、標高3485mの看板。 11時20分過ぎに、ミンジャに、「少し休もうよ」と、声をかけると、「あと20分で小屋に着く。」と答える。
本当に20分後の、11時40分にホロンボハットに到着。

2.ホロンボハット
赤道直下とはいえ、富士山頂と同じ高度で、雨でずぶぬれはやはり寒い。
「ポーターに預けている荷物を早く返してくれ!」と言ったら、ミンジャがオタオタしていた。
どうやら、飛ばしすぎてポーターが追いつけず、まだ到着していないらしい。 マンダラハットを我々よりも先に出発したと思っていたのだが、そうではなかった。

12時過ぎにポーター到着。
早速、濡れたオープンシャツの下にセーターを着て靴下を脱ぎ、一息つく。 行動食形式の昼食も小屋の中で食べた。
暖かいチャイをもらって一息ついているとミンジャがやってきて、靴とソックスを持っていった。
炊事用の暖炉で乾かして、1時間ほどで返しに来た。

少し彼らからスワヒリ語を教えてもらう。 その後、気がついたら少し眠っていた。
疲れたのかなとも思ったが、多分そうではなく、あまりにすることがないから寝てしまったのだろう。
ホロンボハットも、マンダラハットと同じように小さなバンガローが集まっている作りだが、数は2倍くらいある。

3.タンザニアの女子高生
夕食もマンダラハットと同じように、ポーターが作ったものを食事小屋で食べる。
昨日も、なんやら高校生らしい団体が目に付いていたが、今日も何人かいた。
そのうちの一人の女の子が近づいてきて、私の食べ残し(と言っても汚くしたものではない)を見て、「これをくれ」という。

「いいよ。」と、あげると、友達と何人かで分けて食べている。
多分、修学旅行(研修登山?)の様な高校生の団体で、食事が少なく腹が減ったのであろう。 英語は堪能で、流暢に話しかけてくる。
随分とフレンドリーで、ぺったりとくっついてくるのには閉口したが、悪気はない様子。
アジア人はそんなには多くないので、物珍しさもあるのかも知れない。

しばらく英語で会話をしたあとで、向こうに行きかけた彼女たちにいきなり、「HABARI YAKO?」(スワヒリ語で「元気か?」)と、話しかけたら、
いっせいに振り返って、スゴク嬉しそうに指を立て、「NZURI!」(同「元気!」)と、声を合わせて答えてくれた。
本当に嬉しかったらしい。
(NZURIは英語で言うと「ファイン」に近く、「元気」だけの意味ではない。)

「サラサラーム」と言っているので、どういう意味かを尋ねたら、英語で「アイムハッピー」に相当するらしい。
しかし、彼女たちの登山はここまでなのか、キボハットでは会わなかった。
やはり、学校行事として高山病の心配のない高さまでの行動なのであろうか。 暗くなると何もすることがなくなるので7時くらいに寝付いた。
6日目(5月02日) 1.登山3日目 ホロンボハットからキボハット(4800m)へ
目覚めると翌朝の午前4時半。 案外グッスリと眠った様子である。
6時半にトイレに行ったが、水が流れず、先客の存在証明(証拠物件)も残っていた。 体調はすこぶるいい。
相変わらず小雨が振っているが、下の方は明るい。 寒さもそうひどくはなく、体感で摂氏10度くらいか?

朝8時、いつものように出発しようとしたら、ミンジャが指に怪我をしていた。
朝食の支度をしていた時にナイフで切った様子で、深くはないが出血量は多い。
大急ぎで、自分でかついでいた救急箱から外傷セットを取り出し、応急手当。

雨で展望が利かない中、「ゼブラロック」や「マウエンジ峰との分岐」が判らないままに飛ばす。 途中の標識で、標高4000mを通過したことは判った。
このあたりからは、ポーター2名も含めて、4人で一団となって歩く。
サドル地帯(砂漠)を過ぎるあたりから、雨が雪に変わる。
標高4400m付近まで来たときに、少し空が晴れてきたので、みんなで写真を撮った。

エラステとジョンに囲まれて写真を撮って少し進んだあたりから、20cmくらいの積雪。
エラステが遅れ気味なのでミンジャに休もうと言ったら、昨日と同じで、「あと15分で小屋だ」と言う。
そこから20分ほどでキボハット。 3日続けて一番乗り。

2.高山病
キボハットは、下の2ヶ所とは違って、ゲスト用には大きな小屋が一つあるだけ。
レセプションで指定された部屋に入り、一番乗りの特権で好きなベットを確保。
相変わらず落書き(ナイフで彫っている)が多い。

私から1時間ほど遅れて、ドイツ人2人組が到着するが、挨拶したとたんに寝てしまう。疲れているらしい。
それから30分ほどで、単独行のイギリス人が到着。 彼もまた、挨拶直後に寝てしまう。
彼が寝た直後に、別の単独行のイギリス人が来たので、「Welcome!」と声をかけたら、「コンニチハ」と、日本語を返してくれた。
しかし、やっぱり寝てしまう。

退屈なので小屋の周りをうろちょろ。
カメラを持って走り回っていたら、ミンジャにばったりと会って、「高山病は平気なのか?」「おまえみたいなヤツは初めてだ。」と笑われた。

小便をしたら、けっこう出る。
高山病対策で、水を多めに飲んではいたが、それにしても多いような気がする。 まぁ、腎臓が正常に機能している証拠で、悪いことではないはずである。
小屋に近づいたあたりから、少し頭痛は感じているが、これくらいなら大丈夫だ。
マウンジ峰はけっこう見えてくるが、キリマンジャロ側はガスに包まれて何も見えない。
夕食を17時に摂り、翌朝? 午前0時出発に備えて、早々に眠ることにする。
7日目(5月03日) 登山4日目 キボハットからキリマンジャロアタック、ホロンボハットまで下る
午前0時にすべての準備を整え、体調が悪いので登頂を断念したというイギリス隊に握手で送られ、
約束の小屋の前で待っていたが、ミンジャが来ない。 ポーター小屋でチャイを御馳走になり、小屋で再び待機。

深夜0時半にミンジャと2人で登り始めたが、雪が降り続き、積雪もどんどんと深くなってくる。 先に出発していたドイツ人が諦めて引き返していった。
ミンジャも、危険な状態だという。
状況を見ながら少しずつ登ったが、結局、メイヤーズケーブ(5400mくらい?)付近で、ミンジャと相談して登頂を断念する。

引き返す途中、何組かとすれ違ったが、後の情報によると、結局この日は誰一人としてウフルピークはおろか、ギルマンズポイントにも行けなかったらしい。
ハイシーズン(8月頃)だと、雪による障害は少ないらしいが、5月のローシーズンだとままあるらしい

下りは随分と時間をかけて、ゆっくりと歩く。
さほど負担感は感じていないのだが、高山病なのか、バテたのか、心理的なものなのか、とにかく身体が自由に動かない。
4時半頃に小屋に戻りつき、ミンジャに、8時まで寝たいと告げてそのままシュラフに潜り込んだ。
8時半に再び4人で下り始める。
今度は意外と快調にとばせる。 昨日吹雪だったサドル地帯が真っ白に染まって、なかなかの壮観。
それでも少し足に来ていたのか、途中からポーター2人が先に行ってしまう。
ミンジャが、「おまえなら、ハイシーズンに来れば必ずウフルに立てる。」と言ったが、そうそう来られるものでもない。
「ニッポンは遠いのでね。」と言ったら、「そうだなぁ。」と笑っていた。

10時過ぎくらいに、ミンジャが腹痛薬を欲しがった。
日本を出る前に、友人が差し入れてくれた非常薬セットは、もっぱら彼のために活躍している。
処方を慎重にしたいので、「小屋に着いてからでもいいか?」と尋ねたら、大丈夫だという。
11時ちょうどにホロンボハットについて、辞書を持ち出し、腹痛に間違いがないことを確認した上でセイロガンを渡す。
2時間後に会ったときにはすっかり直っていた。

17時半、ジョンが夕食だよと迎えに来る。
最後の彼らの手作りの夕食だが、あまり食欲がわかず多くを残してしまって、あとでジョンに謝った。
疲れたと言うよりは、脂っこい食事が続いたので食傷気味になっていたのが実際の所かも知れない。
デザートのミカンは美味しかった。 「チュンガ」と言っていたように聞こえたが自信はない。
8日目(5月04日) 1.下山日 ホロンボハットの朝
午前6時半 気持ちよく目が覚める。
雲海の眺めはまずまずだが、下界は見えず、マウエンジ峰はよく見えるが、キリマンジャロ山頂は望めない。
最後の朝食を摂って、小屋でパッキングしていると、ミンジャがチップを求めに来る。
あまりにしょぼいと、ここで置き去りにするシステムなのであろうか?
チップはガイド・ポーター各々、一人一人に手渡すように聞いていたが、ミンジャは信頼できると思い、はっきりと区別して、ポーターの分も預ける。
ミンジャには50ドル。 ポーターには各々30ドル。
登頂できなかったにしてはかなり多い目だとは思ったが、それは彼らの落ち度ではないし、本当に気持ちよく登山をサポートしてくれたので、
儀礼的な形ではなく、チップ本来の役割・・・サンクスの意志を込めて金額を決め、それを渡した。
金額にはミンジャも十分に満足したようで、私の手を握りしめ、目を見つめて感謝をしていた。

そんな彼の目を見つめ返しながら、「黒人差別をしている馬鹿はどこのどいつだ?」と、あらためて強く感じた。
ツアーエージェンシーのエドワードにしても、このガイドのミンジャにしても、本当に誇り高く、そしてフェアーで礼儀正しく、愛国精神も強く持っている
素晴らしい人々である。

少なくとも私にとっては、どこかの国で、電車で漫画を読んでニタニタしたり、痴漢だかセクハラだか知らないが、誇りのない行為をしている人種よりは、
よほど尊敬に値する民族性である。 もちろん、少人数を見ただけで民族は語れない。
その、東洋の片隅にあるどこかの国にも、素晴らしい人たちはたくさんいて、そして情けない輩もたくさんいる。
ある側面では情けない輩も、社会の、あるいは特定の誰かのために素晴らしい働きをしていて、一言では割り切れない多くの面を持っている。
それが人間だ。

しかし、確実に言えることが一つ。
民族や国籍、肌の色で人をひとくくりにして、軽く扱うことは絶対に許されない。
私は、人権保護原理主義者ではない。
他者の人権を脅かした者は、自己の人権を主張する立場にないと思っている。
しかし、すべての責は個人から発して個人に帰するべきで、それを超える法はないと思っている。

多くの白人、黄色人種が人権を尊重され、敬意を持った扱いを受けるべきなのとまったく同様に、多くの黒人、少数民族、種族についてもそうである。
科学技術力や経済力と文化レベルはまったく別のものであり、文化と総体的なインテリジェンスはやはり別のものであり、それらを超えて、
人間には犯してはならない尊厳がある。
話が思いっきり単独行してしまったが、我々はマラングゲートへと下らなくてはならない。

2.ホロンボハットから、マラングゲートに戻り登山終了
8時過ぎにホロンボハットを出発し、2時間ノンストップでマンダラハットに下る。
2日目に丸一日をかけた行程が、長い目とはいえ一発である。
ここで彼らに感謝の意を示そうと思い、私が大学のワンダーフォーゲル部時代に身につけた特技、スプーンによる缶詰開けを披露することにした。

フルーツの缶詰とスプーンをジョンに差し出し、「俺はスプーンでこれが開けられるゾ」と言ってみたが、ジョンは事態が飲め込めないでいる。
離れてみていたミンジャが、僕が缶詰を食べたがっているのと勘違いして、慌てて缶切りを探し始めたので、
そうではないと制し、「これで缶詰を開けるのだ。 缶切りはノーニードだ。」と説明。

ようやく私が何を言っているのかが判って、彼らは興味津々、スプーンで缶詰をこづいたり、ひっかいたりしている。
それじゃぁ開かないよと、私は彼らからスプーンを取り返し、ものの数秒で缶詰を開けてみせた。
言葉での説明は難しいが、コツさえつかめば、缶詰の上部をスプーンでこするだけで、けっこう簡単に缶詰というものは開くように出来ている。
ジョンは、「あなたはグレートな力持ちだ!」と賞賛し、ボクシングで殴りかかってくるフリをしたので、「そうではない。」「テクニックだ。」「力は要らない。」
と、もう一つの缶詰を取り出してコツを説明した。

少し雰囲気が判ったのか、ジョンとミンジャが交代で挑戦し、少しずつ缶が開き始めた。
「怪我しないように気を付けろ。」と、言っておいたのだが、ジョンは缶の縁で手を切って血を流している。
ジョンは血まみれになりながら、「開いたゾ開いたぞ」と、その頃集まり始めた、他のグループのポーターに自慢。
なんだか、どこまでも嬉しくなってくる連中である。

そこからさらに、休憩一回を挟んで、懐かしの? マラングゲートにたどり着く。
ここでコカコーラ4本を買って、彼らと乾杯。
私の非常食の栄養剤を、ビタミンCは健康にいいとか、カルシウムは骨になるとか、いろんな事を言いながらみんなでむしゃむしゃ食べる。
このあたり、基礎的な教育は行き届いているじゃないかと、変に感心もしてしまった。

3.ニクソン
かなり早く下ったためか、まだエドワードは迎えに来ていない。
彼を待つ間に、10名くらいの欧米人登山客がやってくる。
ガイドとポーターを合わせると30人近い大部隊で、私が来たときと同様、土地の人が、「ストックはいらんか?」「スパッツは持っているか」
と、一人一人に聞いて回っている。

その中に、ミンジャのガイド仲間のニクソンがいた。
ミンジャが私に、「あいつはニクソンといって俺の友人だ」と言ったので、私は興奮してしまった。
ミンジャは、私が歴代アメリカ大統領と同じ名前をタンザニア人が持っていることに受けたのだと思ったようだがそうではない。

実は、「ニクソン」という名前のキリマンジャロ登山ガイドが、椎名誠氏の、「あやしい探検隊 アフリカ乱入」に登場してくるのだ。
たまたま同名だっただけかも知れないのだが、とにかくミンジャにそれを話した。
話したが、多分伝わらなかった様子で、あまり要領を得ない顔をしていた。
その後も、ミンジャの周りにいろいろな連中が集まってくる。
こう言ってはなんだが、みんなけっこう、いい服を着ている。 中にはナイキエアを履いているヤツもいた。
下手をすると、平均的なタンザニア人2ヶ月の収入分くらいの値段がすると思うのだが・・・。

下山してちょうど1時間経ったところで、エドワードの代理人のディクソンが、エドワードのプジョーで迎えに来る。
明るいところであらためて見ると、けっこうくたびれている。
ケニアとタンザニアの車は日本車かフランス車が多いのだが、どれもこれも速度計はぶっ壊れているし、エドワードの車は他にもいろいろと壊れていた。
下る途中で、再びオーバーヒートしたし・・・。

4.タンザニアポリスに包囲される!
キリマンジャロから下る途中、村人が多く歩いており、来る時には気付かなかった教会がたくさん見えてくる。
ディクソンも、この車に同乗したミンジャも敬虔なキリスト教徒だと言い、私の宗教について尋ねる。

「いやぁ、日本人のほとんどは無宗教ダベ。」と、答えても、なかなか要領が得ない様子。
彼らにとっては、イスラムでも仏教でも、何でもいいから、何か信仰があるはずだというのだ。
強いて日本人の信仰は何かと考えれば、正直なところ、それは経済かも知れない。
ケニアとタンザニアは、内陸部は概ねキリスト教圏で、海岸部はイスラム教である。
タンザニア首都のダルエスサラームで、この1年後にアメリカ大使館の爆破事件があったが、
このニュースに出ていた映像でも、イスラム風の屋根の建物が目立っていたのにお気付きの方も多いだろう。

そうこう話しているうちに、車はモシに近づき、来る途中にも通ったポリスゲートにさしかかる。
5日前は無人で、通過もフリーであったのだが、今日はものものしく数名のタンザニア警察が固めていた。
ディクソンが車を止め、窓の外に立った一人にスワヒリ語で何やら言われて、ダッシュボードやバイザーの上をあれこれ探る。
少しもたもたしたあとで、目的の書類らしいものを見つけたが、その頃には警察隊にすっかり包囲されていて、ディクソンは下りるように命じられたらしい。
警察隊の一人は、象でも一息に葬りそうなショットガンを持って、サングラスの隙間からこちらを威嚇している。

私は、暴走族も暴力団も恐いので、めったなことは書きたくないが、その警察官の目つきや表情と比べると、ニッポン国内で出会う彼らは、
頬ずりをしてキスしたいほどにフレンドリーである。
そんなに長い時間ではないが、ディクソンが必死で何かを説明し、ミンジャも出て、明らかな愛想笑いをしながら、
「俺達は怪しい者じゃない。」「あの日本人のダンナをアルーシャにお送りするところですダ。」と、こちらを見ながら説明している。

「こりゃ、賄賂が必要か?」と、ショットガンおじさんを刺激しないようにゆっくりとした動きで財布をとりだし、人数分のドル札を数え始めたところで、
唐突に彼らが解放された。 彼らは、「ノープロブレム」「良くあることだ」と笑っていたが、少し引きつっていたヨ、ミンジャさん。

そこからすぐにモシに出て、アルーシャからダルエスサラームに続く快適な舗装路に戻る。
キリマンジャロ国際空港を横目に見ながら、車は超高速でアルーシャへ。 途中、マジヤチャイという部落から、タンザニア第二の高峰のメルー山が見える。
15時前、例の、マウントメルーホテルに到着。

5日前に、「山から下りてきた時に、(時間的にも体力的にも)余裕があったら、少しだけでもサファリがしたい。」と、言っていたのをエドワードが
覚えていてくれて、「オールインクルーズで100ドルでどうだ?」と言うので、早速OKして、近郊のアルーシャ国立公園に向かうことになった。
運転は変わらずディクソンで、ミンジャもついてくることになった。

※4年後の2001年追記
あとから思えば、この半日サファリで100ドルというのは、恐らくは相場の三倍以上であり、法外な料金である。
彼らとしても、ここまでボルつもりはなかったが、交渉の第一声として吹っかけた金額を、私があっさりと承諾したので引っ込みがつかなくなったのだろう。
私としてはもったいなかったとは思っていないが、少しその後に悪影響を残したかもと、一応の反省をしている。

5.アルーシャナショナルパーク
ンゴロンゴロやセレンゲッティーほどメジャーではないし、ライオンや象は棲んでいないが、アルーシャ国立公園は、タンザニア第二の都市アルーシャから
車で1時間で行けるという便利さ。 (もっとも、とんでもないダートを猛スピードで飛ばすのだが・・・。)
公園のゲートまでは、タダの山奥。(それでも何かが出てきそうな雰囲気はあるが。)
少し物々しいゲートを過ぎ、すぐにバッファローの群を遠望できた。 さらに10分ほど走ると、唐突にキリンが出現。

キリンは観光客慣れしているのか、我々が乗った車の行く手を防ぎ、半開きの窓から首を突っ込んできたりとなれなれしい。
そこから、ウォーターバック、ブッシュバック、ホロホロ鳥、カバ、フラメンコ、ハイエナ等、短い時間だった割には多くの動物を観ることが出来た。
私が、「日本でホロホロ鳥を食ったことがあるゾ。」と言ったら、彼らは食べないのか、「どんな味だ?」「うまいか?」と、興味を持って聞いてくる。
(暗くなってきたので)写真は、あまり撮影できなかったが、下山したついでにしては随分と楽しめたサファリだった。

18時20分にゲートを抜けると、再びとんでもないダート道を猛烈に飛ばす。 だから車が壊れるんだよと思うが、何はともあれ19時ちょうどにホテル帰還。
5日間をともにしたミンジャと握手をして別れ、ディクソンには10ドルのチップ。
9日目(5月05日) 1.ノボテル・マウントメルー
ノボテル・マウントメルーは、アフリカで泊まったどのホテルよりも快適で、欧米先進国のホテルに泊まっているような錯覚さえ感じさせる。
アフリカでは、(その他の国でも)、日本のホテルに比べて特に水周りが悪く、トイレの水量、シャワーの湯の出方、特にどこでもひどいのが排水なのだが、
ここは快適な使用感だった。
おそらく、ちょっとした部品一つにしても、タンザニア国内では手に入らないどころか、アフリカ大陸の外から取り寄せるのだろう・・・。
これだけの状態を保つには大変な維持費と苦労がいるに違いない。
翌朝7時、バイキングの朝食のメロンが美味しい。
7時50分、小さなバスがやってきて、それで他の客を拾いながら10分ほど走ってバスターミナルに到着。

2.再び国境を越えてナイロビに戻り、
8時半に動き始めたかと思えば、すぐ近くで再び停車し、やはり大型バスに乗り換えて8時45分に出発する。
この、ナイロビに向かう国際バスは、ほとんど満席状態であった。

本格的に出発してから、1時間半でナマンガの国境に到着。
20分程度で乗客全員の出入国手続きを済ませ、休憩をひとつ挟みながら13時過ぎにナイロビ市内に入る。
途中で越えた線路は、日本の狭軌鉄道と同じくらいの線路幅だったように思える。

3.アフリカ大陸脱出
バスドライバーに言って、ホテル680前で降ろしてもらうと、約束通り、サミィ・ガスングが待っていた。
680に荷物を預けて、中華料理屋に連れていってもらう。
なんだか日本人客が多い。
ここでは、茶碗のような器にライスを盛って、上に料理をぶっかけ、箸で食べるシステムになっている。
肉料理は辛いが、マメ料理は日本で食べるそれと、まったく違和感がなかった。ただし、米はすべて細長いインディカ米である。

17時に空港に行き、荷物を成田直行となるように預けて出国手続きも早々に済ます。
ここで、マンダラハットで出会ったK氏や、ナイロビに到着したときに知り合ったY氏と再会する。
成田からナイロビまで同行した、心強い同志6人は、3日前の便で日本に向かっているハズだ。

4.エアインディアのディナー
20時ジャスト。 信じられないことに? 定刻通りにエアインディア機はムンバイに向けて出発する。
本当にエンジョイできたアフリカ大陸とも、しばらくのお別れである。 出発後まもなく、夕食タイムとなる。
メニューが配られ、ベジタブルカレーと、別のなんだかとの選択肢があった。
最後尾に座っていた私や、周りの人は皆、ベジタブルカレーを頼んだが、無愛想なスチュワーデスが「もうないよ。」と一言。

「そんなひどい仕打ちがあるか!」「カレーを食わせろ!」と、いろんな国の人が英語で斉唱すると、ムッとした表情で別メニューの料理を引き上げ、
しばらくして、温かいカレーを持ってきた。 きっと、カレーの人気が予想外に高く、準備する割合を見積もり損なったのだろう。

この時に食べたカレーは、本当に美味しかった。
(エコノミーにしか乗らない・乗れない私にとって)これほど美味しい機内食はなかなかお目にかかれないし、レストランで食べるカレーとしても、
相当に美味しい部類にはいると思われた。
10日目(5月06日) 1.衝撃のインド
ムンバイへは、ほぼ定刻の午前5時前に到着。
入国手続きの際に、私には問題なく許可が下りたが、ナイロビで会っていたY氏が、8日前にナイロビで黄熱病注射証明(イエローカード)を取っていたために、
審査官から入国を断られた。 この予防接種は、摂取後10日目から有効となり、その日付が最近過ぎることを指摘されたのである。
膨大な数の入国者がいるというのに、けっこう細かいところにまで目を通している。
Y氏に私が加勢して、「半日ホテルで休むだけだから入れてくれろ。」「悪さはしねーだ。」と、懇願すると渋々と入国許可印を押してくれる。

空港の外に出たのは午前6時。
午前6時だというのに、なんという暑さだ!
プレ・モンスーン期のこの時期はインドが最も暑い時期らしいが、それにしても、日本の真夏の午後二時よりも暑い。
Y氏にも私にも、同じエアインディアが休憩ホテルを準備してくれていたのだが、二人のホテルは別だった。

Y氏のホテルに向かうバスはすぐにやってきたが、私の方のバスは見あたらない。
一旦空港の建物内に戻り、20ドルを701ルピーに換金して、再び外に出た。 ホテル行きのバスを待っていると、TAXIドライバーがさかんに話しかけてくる。
「価格フリーのホテルのバスが来るからタクシーは必要ない。」と言っても、「そのバスは2時間は来ない。」「安くしてやるから乗れ。」となかなか食い下がる。
英語はよう判からんのだと何とかいなして少しウトウトとし、ふと、顔を上げるとバスが来ていた。
確認しても間違いない。 危うく、タクシー運ちゃんにだまされる所であった。

2.ジュフビーチホテル
休憩だけのためにエアインディアから提供されたジュフビーチホテルは、空港からまっすぐ海岸に出たところ。 20分程度で着いたので、そう遠くはない。
レセプションは、目を見張るほどの美男美女ばかり。(私の視線を釘づけるのはもっぱら美女の方だ。)
肌のこげ茶色(タンザニア人よりは色が浅い)の美しさに、大きな目が良く映えている。

航空券を提示すると、「適当な時間にお部屋に電話をしましょうか?」と、とびっきりの美人が言うので、眠るつもりはなかったが、断るのももったいなく、
そうしてもらうことにした。

サービス提供された部屋だがとても良く、100VのA型コンセントもあったが、冷房が効きすぎ、部屋の内外を問わず香の臭いがきつくて気になった。
部屋からはアラビア海が見えなかったので、ホテルの中をうろちょろする。
ムンバイ周辺をTAXIでまわればヨカッタのだが、それにしては飛行機の待ち時間が中途半端で、その気にはなれなかった。

歩いて回れる範囲はそんなに広くはなかったので、部屋に戻ってイスに座っていると先のインド美人からバス出発のお知らせ電話。
知らないうちにウトウトしていたらしく、コールを頼んでいなかったら、バスに乗り遅れるところだった。

3.ムンバイという街
バスに乗るとK氏も乗っていた。 同じホテルだったらしい。 乗客は私と彼の2人だけだったが、定刻通りにバスが出発する。
バスはまっすぐにムンバイ空港に向かうが、この空港はスラム街で囲まれている。
信号でバスが止まると、窓の下に手足のない物乞いがキャスター付きの板に乗ってやってきて、先がない手首を使って、私にさかんに投げキッスを送る。
随分と老人に見えたが、もしかしたら私とそれほどには変わらない年齢なのかも知れない。

その時私は、100ルピー札かコインしかもっておらず、コインを手のない人に渡すのは困難で、100ルピーという大金(私にとってはなんでもない金額だが)を
この人に渡すのはこの人にとっては良くない気がして、「アイ・ハブ・ノールピー」と、なんどもなんども繰り返したが、きっとこの人に英語は通じなかったろう。

インドを旅行するとき、大体は英語で不自由をしないが、旅行者に接する機会の少ない一般の人はヒンディー語を初めとする多種多様な言葉のどれか一つしか
解せない場合が多く、そのために、インドのお札には10以上の言葉で、そのお札がいくらであるかを書いている。

次の赤信号では、6歳くらいの双子?の、トンデモナク可愛い女の子が、バスの外で、私に向かって歌ったり踊ったりした。
日本にいれば、まず、芸能界でも引っ張りだこになるのじゃないかと思える可愛らしさの双子である。
先程、私はコインを持っていると書いたが、これは両替したときの端数の1ルピーで、なぜか両替官は私に、0.5ルピー貨を2コ渡していた。
これを彼女たちに一つずつ渡した。
0.5ルピーは、日本円で言うと2円弱である。 施しと言うにはあまりに少ない額だが、私はこれしかもっておらず(まさか100ルピーは上げられまい)、
当地の物価であれば、ちょっとした食べ物くらいは買えるのではないかと思う。

と、これを通りの向こうで見ていた12歳くらいの女の子が、猛烈な勢いでこちらに走ってきて私の席の窓枠にしがみついてぶら下がり、
信号が青になってもバスが発車できなくなった。
バスには運転手の他に車掌らしい助手が乗っており、その彼が、女の子の手を窓枠からはずしてバスが発車できた。
彼はこんな時のために乗っていたのだろうか?

こうした難所を通り抜けてバスは空港に到着。
すると今度は、あろうことか運転手と助手が振り返り、ほとんど話せない英語で我々にチップを要求してきた。
難なく英語を操るK氏は、「このバスはホテルのサービスだろう!?」と憤ったが、彼らが要求しているのは、料金ではなくチップである。

話はナイロビを振り返るが、ナイロビで日本人の男児を含む一行とバスに乗っていて、男児がバスの中でパンを食べていた事がある。
交差点でバスが止まったとき、男児と同年代と見えるケニアの少年がバスの窓に貼り付き、バスが動き出すまで男児のパンを凝視する一幕があった。
アフリカに旅立つ前にインターネットで知り合った広島在住のN嬢は、ナイロビのスラムでゴミ捨て場を漁る一家を目撃し、今までは先進国しか旅をした
ことがない彼女の同行者が、大変なショックを受けていたと話してくれた。

話はムンバイにもどるが、もう、どうでも良くなった私は、助手に100ルピー札を投げ渡し、納得できないK氏は何も渡さなかった。
これはきっと、K氏の方が正しい。
私の行為は、彼らの行為を繰り返させ、次の観光者が嫌な思いをするのに荷担したことは否めない。
K氏は、「なんという国だ!」「こんな話は聞いていなかった!」と、空港に入ってからも憤慨していたが、でも、日本で何を聞いていようとも、
予想外の何があろうとも、これがこの国のムンバイの現実であり、また、ケニアのナイロビの現実なのである。
それらの国の現実をしっかりと見つめてくるのも、旅をするものの役割(宿命)なのではないだろうかと思う。

話が重たくなったので、空港のトイレにはいることにした。
やはり、椎名誠氏の「あやしい探検隊」で報告されている話だが、ここにはトレペオヤジが出現する。
用を済ませて手を洗うと、待ちかねていたオヤジが、(空港設備の)トイレットペーパーを折りたたんで渡してくれ、その後のチップを期待するのだ。
この時には10ルピーを持っていたので、「ダンニャワード」と言って渡すと、いきなり日本人にヒンディー語で礼を言われて、随分と受けていた様子。

しかし、何かの本で読んだ話だが、カースト制が明確だったインドでは、目下の者が目上の者に傅くのは当然であり、また、目上の者が目下の者に
何かをしてやることはないので、「アリガトウ」に相当するヒンディー語はないとのこと。 さしづめ、「ご苦労」くらいに相当するのだろうか?
11日目(5月07日) 帰国
搭乗手続きを済ませると、私を含め、同じ便でアフリカから来て成田に向かう日本人一団に、荷物を確認してくれと係官が言ってきて、どう見ても
関係者外立ち入り禁止の通路を通って階下に行く。
そこには、私とともにキリマンジャロに登った、かの懐かしきザックを含め、確認に行った一同全員の荷物が、「まだ飛行機には乗れんのか?」と言いたげな
表情で鎮座していた。 定刻に出発した、エアインディア成田行きは、深夜のバンコクに一時駐機したあと、一路成田空港に向かう。

11日ぶりに戻ってきた成田は、ゴールデンウィークの残り香が漂い、日本の夏はこれから始まろうとしていた。

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