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Vol. 14 No. 13(Total 184 12)
  発行日:
2002.5.18  編集: 寺部、青山
2002年5
月号


 合宿お疲れ様でした。遠いところを通われた方、何とか都合をやりくりされて参加された方、休む間もなくフル回転で指導して下さった先生方、準備や後片づけに多くの労力を使って下さった係の方・・・、皆の思いが重なり合ってとてもいい合宿になりました。演奏会に向けての大切な土台作りができたように思います。

Tama 


  ※ 今月は役員会がありませんでしたので、各係からの連絡事項をお知らせします。
 
団員募集が延長になりました。
  ・当初、今期の団員募集は4月中で締め切る予定でしたが、男声の増強がもう一つであることから、募集期間をしばらく延期することとなりました。一人でも多くの仲間と‘ドイツレクイエム’を歌うことができるよう、勧誘へのご協力宜しくお願いします。

〈パートリーダー会  瀬畑(S)〉

 
“グロリア・バザー”出店、参加へのご協力ありがとうございました。
  ・まさに「五月晴れ」の一日。新緑の鎌倉を訪れる観光局を巻き込んで、賑やかに開かれた雪ノ下カトリック教会での“グロリア・バザー”。ソプラノ、堀さんの家庭菜園から届けられた沢山のラディッシュやキヌサヤも集客に一役かって、湘フィルの「ヤオヤさん」は昼すぎには見事完売> グロリア少年合唱団への寄附も12,000円になりました。仕事の合間には、松村先生、服部先生が汗をかきながら焼いた“いそべ焼き”をほおばり、少年達のコーラスに聞き惚れる。さわやかな風のなかのほんとうに楽しい一日となりました。次回はぜひアナタも・・・アナタも・・・ご一緒に>

〈総務 柏木(S)〉 

天城合宿お疲れ様でした。
  ・いろいろな問題をかかえながらも、無事終了した合宿。
   先生方のお陰でとても充実した練習ができ、ありがとうございました。合宿委員はじめ、パートマネージャー、リーダーさん達の協力のおかげで参加した団員からも、“今回はとても充実したいい合宿だった”との声をたくさんいただいています。これから更に積み重ねていい演奏会ができる様頑張りたいですね。
〈合宿チーフ 斎藤(A)〉

懇親会;沢山の差し入れありがとうございました。
  ・今回は思いがけず、お酒、手作りのお菓子等、皆様からの差し入れが多く、 残高19,670円となりました。事前に皆様のご了解を得ましたように、団費に入れさせて頂きます。ご協力ありがとうございました。(尚、残りました缶ビールはリメークして納会or 次回の懇親会に使わせて頂きます。)

〈合宿委員 内田 りえ (A)〉


  > もう、クリコンの話?・・・ という声が聞こえてきそうですが、
    『クリスマス・チャリティー・コンサート』 のお話です。

 まず、初めての方が沢山いらっしゃいますので、簡単にクリコンについてお話し します。今を遡ること11年前、「宗教音楽が本来歌われるべき場所、‘教会’ で歌いたい」という私たちの願いを当時の茅ヶ崎カトリック教会の神父様が受け 容れて下さり、クリスマス・チャリティー・コンサートとしてスタートしました。
 以来、教会の全面的なバックアップに支えられ、今年で12回目を迎えます。
 今年は12月14日(土)を予定し、現在教会と交渉中です。が、10月5日本番の後 の練習回数が9回しかありません。・・・それで・・・

    もうクリコンの話......ということになります。

 曲目が決定いたしました。
  * カンタータBWV 147 コラール(バッハ)
  * Have yourself Merry Little Christmas (ブレイン)
  * The Lord bless you and keep you (ラター)
  * キャロルは流れる(矢野義明編曲)
  * 聖なる都 (アダムス)
  他、先生方による演奏、神父様のお話も交渉中です。

 練習期間が短いということで過去に演奏したものの中から選びました。
 ご自分の楽譜の確認をお願いいたします。お手持ちでない楽譜がありましたら、 パートリーダーまでお知らせ下さい。6月上旬までにお願いいたします。
 今後の予定として、6月半ばまでに楽譜をそろえ、6月末ごろからパートリー ダーによる自主練を始めます。(5:00 〜 6:00 明治公民館の時のみ)特に初めての方は、ご参加ください。10月からの練習では音取りをしないで済むようにしたいと思いますので、皆様のご協力を願いいたします。
 
<パートリーダー会 瀬畑(S)>
 

 
《投稿》  ブラームスと、その周辺の人々    = 番 外 編 =
                              鈴 木 愼 吾 (B)
        アントニン・ドヴォルザーク (1841 〜 1909)
 
 ドヴォルザーク初体験と言えば、多分、ほとんどの人が、新世界交響曲の第二楽章、イングリッシュホルンが奏でる、あの旋律をあげるだろうか、私の場合もご多分に洩れず、音楽好きな小学校の担任の先生に教えて頂いたボーイスカウト?のキャンプソング「遠き山に日は落ちて」が、それだった。
〔遠き山に日は落ちて、星は空をちりばめぬ。今日の業をなしおえて、心かろく安らえば、風は涼しこの夕べ…。〕
いくつになっても忘れられない懐かしい調べである。これに限らず、ドヴォルザークの旋律のあの懐かしさはどこから来るのだろう。当時、興隆してきた国民楽派の、自分たちの国を、そして民族を、意識した作風のせいなのだろうか?いったい、民族の音って何だろう?たとえばこのドヴォルザークの音楽を聴いたときに感じられる、まぎれもなく同時代のドイツの音とは違う、これはチェコの音だ!と感じさせるものが有る、これはどこから来るのだろうか。旋律?音階?和声?その辺のところを、どなたかに、是非教えて頂きたいものだ。
 
 いきなり横道にそれてしまったけれど、湘フィルの次の曲目がドヴォルザーク
“スタバト・マーテル”と決まった。
そこで今回は予定を変更して、この人を紹介したい。
 ドヴォルザークをブラームス周辺の人というのは、多少無理かな?と言う気はする。片やドイツからオーストリア。片やチェコと少々距離があるし、だが、そ
 
の音楽において、二人がお互いに尊敬し合い、友情を持ち続けていたのは間違いない。
 
 ドヴォルザークはブラームスより8歳年下の1841年生まれ、スメタナの交響詩でお馴染みのモルダウ(ヴルタヴァ)川の畔ネラホゼヴェス村の肉屋と居酒屋を営む家で生まれた。当時のチェコはハプスブルグ家の統治下にありドイツ語との二カ国語が用いられていた。彼の名前もドイツ風にはアントンと読まれるらしい。
 貧しいが才能のある人達、たとえばヴェルディ、あるいはブラームスなどのように、彼もまた周囲の人々に、音楽の天分を認められ、近在の有能な先生について音楽家の道を歩き始めた。やがてプラハに出た彼は同地のオルガン学校を二番の成績で卒業し、独立するが、実家の商売も不振で、経済的な援助も得られず、
ヴィオラ奏者などをしながら作曲を続けていた。1873年ピアノの弟子であったアンナ・チェルマークと結婚。貧しいけれど幸せな結婚生活に入ったが、2年後に、はじめての子、長女ヨゼファを亡くすという不幸に見舞われる。それがきっかけとなって“スタバト・マーテル”の作曲を始めたドヴォルザークは、その後も娘のルジェナ、息子のオタカールを相次いで亡くしてしまう。
 敬虔なカトリック教徒であった彼は、「聖母の嘆き」を詠う中世のフランシスコ派修道士、ヤコポーネ・ダ・トディの古い韻文の中に、その信仰心と愛児を喪った悲しみを重ね、作曲を続けた。独唱、合唱に管弦楽を伴うドイツの大規模な宗教音楽にも傾倒していた作曲者がその様式を踏襲しながらも、真に個性的なチェコ音楽最初の宗教音楽の傑作を創りあげたのだった。
 私事で恐縮だが、およそ25年前、東京カテドラルの小沢征爾指揮による演奏会でのこの曲は、感動的であった。中でも3曲目 Eja Mater, fons amoris (さあ、母よ愛の泉よ)は忘れがたい。悲しみの極みを歌い始めた曲が4曲目から慰めへと変わる、その移ろう心が、その旋律が、胸を打ち、爾来25年、いつかこの曲を、この歌を心を込めて……、との思いが来年は叶う。  
 ドヴォルザークはオーストリア政府からの奨学金を受けるため、1875年から5年間、毎年作品を提出していた。その作品審査員の有力メンバーがブラームスと盟友ハンスリック(この人については次回取り上げる予定。)であった。二人はともにドヴォルザークの才能を認め、強力に推薦して奨学金を受けられるようにした。1877年、ドヴォルザークが丁重に書き送った礼状に応え、ブラームスはジムロック出版社からドヴォルザークの作品を出版するように取り計らい、チェコ国内ではスメタナの圧倒的な人気の陰にあったドヴォルザークが、世界的な名声を得るきっかけを作った。
 
 その後のドヴォルザークは“スラブ舞曲集”“ヴァイオリン協奏曲”(この作曲に当たってもブラームスの親友ヨアヒムが助言を与えた)など世界的に知られる作品を次々作曲し、経済的には豊かになったが、その質素な生活ぶりはあまり変わらなかったと言う。
 イギリスでの大成功。プラハ音楽院の作曲学校の校長就任などを経て、1892年にはニューヨークに新設されたナショナル音楽院の初代院長としてアメリカに渡った。“交響曲第8番”“同第9番”“チェロ協奏曲”などお馴染みの傑作群が生み出されるいきさつは、ぜひこの作曲家の伝記をお読みになって頂きたい。私も今度はじめて伝記を読んだのだけれど、その余りの多作ぶりに実はビックリし、殆どその作品を聴いたことが無いのを教えられて、この機会に少しでも多くの作品を聴いてみようと思う。
 ブラームスの葬儀の際、その模様を報じたウィーンの新聞 Neue Freie Presse の記事(これは恐らくハンスリックが書いた。)のなかに、墓地で故人の棺を囲み、最後の別れをした私的な友人達の一人としてドヴォルザークの名が見える。彼が生涯を通じてブラームスと親しい友人だった事の証だろうか。




 今年の合宿はいつもと何かが違った。音取りではなかったので、めいっぱい歌えた。しかも分奏の時間がたっぷりあって、ぐっと曲に近づけた思いがした。
 何といってもパートヴォイトレが充実していた。曲を使って、それもうまくいかない苦手なところを取り出しての集中クリニック。斎藤先生の体当たりの熱意に反応する空気も濃く、熱くなった。
ちなみに今回のAlt のkeyword は3つ。

   @ かぎ針  (低音部の出だし。ひっかけてすくい上げてくる。
            息のアタックと勢いのイメージ)
   A 泡の位置 (ひびきの位置を口より上にもってくる。
            響きを集めるイメージ)
   B Umlaut   (口のまわりをしつけ糸で縫って、ちょいと引っぱるイメージ)

“かぎ針アクション”(すみません。Alt にしかワカラナイ)をたくさんして頂いたおかげで、こうすればいいんだというのが少しわかるようになったと思う。(斎藤先生は筋肉痛になられたとか・・・)
「言われればできる」=「言われないとできない」のは切ないので、ぜひ自分のものにしたい。

 若葉の緑、きれいな空気、おいしい食事、そして歌三昧。
家事もせず、犬の散歩もせず、あんなに食べてばっかりいたのに家に帰ったら体重が1kg減っていた。なんと健康的 !!

 最終日の練習。松村先生は本番を控えていたにも拘わらず、出発ギリギリまで振って下さった。服部先生はこんなことをおっしゃっていた。
「松村先生はいつもいい練習をされるが、今回は5本の指に入るくらい、
いい練習だった。アイディアがいっぱいで、皆さんがどんどん変わっていく。
いい本番ができるんじゃないかと思いました。」
 何というか、とても温かいものを感じました。恵まれた器の中に私たちはいるのだと思います。本当にいい演奏ができるように、本番までの時間を過ごしたい。
 委員や係の皆さん、お世話になりました。
 


  2002年6・7月の練習日程                               
  5月 25日(土)

  6月   1日(土)

       8日(土)
      15日(土)




       22日(土)
       29日(土)
  7月   6日(土)
       14日(





       20日(土)
       27日(土)
   明治公民館        18:15 〜 21:00
                           
   玉縄公民館        18:15 〜 20:30
         ◆ 20:40 〜 21:30 臨時総会
   玉縄公民館        18:15 〜 21:00
   茅ヶ崎市総合体育館オーケストラ練習室
                   18:15 〜 20:45
 
通信4月号ではリリスホールと知らせしましたが、
   
変更になりました。ご注意下さい。

   明治公民館        18:15 〜 21:00
   明治公民館        18:15 〜 21:00
   明治公民館        18:15 〜 21:00
   栄公会堂         18:15 〜 21:30

 日曜日の練習です。   17:30 〜 舞台づくり。
   練習後の後片づけのお手伝いも
   宜しくお願いいたします。

   明治公民館        18:15 〜 21:00
   プラザホール       18:15 〜 21:30

 
    ◆ 臨時総会は全員参加で!!
     どうしても御都合のつかない方は、必ず委任状をお出し下さい。
     (各パートマネージャーまで)
  
    □ 茅ヶ崎市総合体育館オーケストラ練習場  (駐車場有り)
     ‘オーケストラ練習場’は体育館の地下1階にあります