湘フィル通信
Vol. 14 No. 9(Total 180 外 12)
発行日:2002.1.26 編集: 寺部、青山
2002年1月号
![]() クリスマスコンサートでの 三宅島被災地支援基金への寄付金 215,000円 は 昨年12月21日付で茅ヶ崎教会を通じ、 日本赤十字社東京支部へ送られました。 皆さん、ご協力ありがとうございました。 |
![]() “ヴェルディ・レクイエム”CDについて 残念なことにクレームが数点届けられています。 印刷(版面)や録音に関することで何かお気づきの点が ありましたら、遠慮なくお申し出下さい。内容確認の上、 新しい製品とお取り替えしております。 まだお手元の品を確認されていない方は、ぜひこの機会に ご確認下さい。 問い合わせ 柏木(S) |
《投稿》 ブラームスと、その周辺の人々 = 第1回 = (B) 鈴 木 愼 吾 |
まず最初に、こんな文章を紹介しよう。 1853年9月30日の出来事を書いたものだ。 《シューマンはそそくさと出てきて、口をきけないほどのぼせあがっている青年を快く迎えて、やさしく手をさしだすのであった。若いヨハネスのふさふさした金髪は、肩のところまで豊かにたれさがり、明るい忘れ名草色のひとみは、ひたむきな情熱と烈々たる気迫に光かがやいていた。 (中略)シューマンはブラームスをピアノの前に導いて、彼の作品について親切にたずねた。ブラームスは彼の最初の“奏鳴曲ハ長調”の草稿をピアノの上においた。はにかみやのブラームスも、シューマンの前では安らかな気持ちに落ち着いてくるのを感じるのであった。彼は静かに第一楽章の薫り豊かな最初の和音を弾きはじめた。はじめてのページをまだ弾きおわらぬうちに、後ろに立っていたシューマンの手が柔らかく彼の肩にふれて、「クララにもきかせたいから」とささやくようにいった。 クララが部屋にはいってくるとロバートは、「まだきいたこともないような音楽がきかれるよ。さあもう一度あなたの奏鳴曲をはじめてください」といった。実にこの瞬間に、一九世紀の音楽文化の中心に立つ三人の芸術家の心に、彼らの生涯を通じて奇しくも燃えつづけた、美しい友情のともしびが点じられたのである。そしてこのともしびはロバート・シューマンの死後もたえることなく、1896年のクララの死にいたるまで、半世紀のあいだひそかに燃えつづけた。ブラームスとシューマン夫妻との清い友情は、シューマンとブラームスの作品を愛する後世のわれわれにとって興 味深いばかりでなく、人間性に対する一つの大きな信頼と感動を与えてくれる。》 これは原田光子著 『クララ・シューマン』 に描かれたブラームスとシューマン夫妻の出会いの場面である。勿論、これは事実そのままでは無いと思う。が、実際、夫妻はブラームスの音楽をすぐに理解し、彼の音楽を広く世に紹介するための重要な役割を果たした。この著 『クララ・シューマン』 は実に50年も昔に書かれたものだがクララの伝記中の名著と思う。作者は沢山の関係者の手紙や文書を読み、忠実にクララの生涯を追う。最初にご紹介した文章も、こんな情景が実際にあったと思わせる真実味を感じさせないだろうか。 ここに登場する、リスト、ショパン、メンデルスゾーン、ワーグナー等、音楽史の上で、それぞれが、単独で存在を主張しているロマン派の神々のような音楽家達が、まるで昨日までそこにいたかのように、親しい友人同士として語り合い、演奏し、または対立する音楽家として生き生きと描かれる。ブラームス関係の本を読むうちに出会った、感銘深い、この名著の一読をぜひ皆さんにもお勧めしたい。 いきなり横道にそれてしまったけれど、ブラームスの生涯に深く関わったクララを始めとする沢山の人々の中から、その数人を、例によって読んだ本の受け売りで紹介しようと思う。 ー 両 親 ー ヨハネス・ブラームス(1833−1897)は港町ハンブルクの貧しい家に生まれた。父親のヤーコブは、コントラバスを主に、ホルン等もこなす音楽家で、町の娯楽場で演奏していたが、努力と多少の才能で、徐々にその職場のランクを上げ、上流人士の集まる「アルスターパヴィリオン」の六重奏団のメンバーになる事が出来た。後に、彼は憧れであったハンブルクフィルハーモニーの楽員に採用されたが、これは有名になった息子の力によるものだ。といっても演奏家としての腕がおとっていたと言うわけでもなさそうで、職人気質の人だったように思われる。息子は父親から音楽家としての才能を、母親からは、その創造的才能を引き継いだのだろうか。母親、クリスティアーネは、ヤーコブより17歳も年上で、その風貌はあまり魅力的とは言えなかったようだが、美しい碧い目を持っていた。彼女の母親は貴族の出で、その家系は14世紀まで遡ることが出来るという。家は次第に零落したが、クリスティアーネは、その夫にくらべはるかに教養も高くドイツ文学にも通じていたといいます。(この説には異論もあるようだ。) 残された120通の手紙の文章は生き生きと、彼女自身を物語り、優しい心と信仰心の篤さは、次のような手紙に表されている。 《 結局、自分の力の及ぶ限り他の方の役に立ち、奉仕するということ程、自分に大きな喜びを与えるものはありません。自分のためにばかり生きて、人のために生きない人たちは、半分しか生きていないのです。 》 ヨハネスは終生、母を愛した。ドイツレクイエムは、母の死をきっかけとして作曲されたが、その第5楽章(Ihr habt nun Traurigkeit) には、母の優しい面影が色濃く感じられ、私には、彼がそこに、慈悲深い聖母マリアを重ねて見ていたのではないか、という気がする。 ー ヨーゼフ・ヨアヒム (1831-1907) ー 17歳の時、ヨハネスはピアニストとして知られるようになり、レメーニというハンガリー系のヴァイオリニストと一緒に演奏旅行に出た。レメーニはジプシーの音楽を得意としており、ヨハネスの後の作品、ハンガリアンダンス等に、この時の経験も生かされているのだろうか。間もなく二人は、リストの音楽をめぐって不仲となり、ヨハネスは異境の地に取り残され窮地に立たされるが、それを救ったのが、天才青年ヴァイオリニスト、ヨアヒムであった。ヨハネスと出会ったヨアヒムが、いかに早く、その天分を認めたかは、ヨハネスの両親に宛てた彼の手紙によって理解できる。 《 ご子息ヨハネス君は芸術家として私の夢想だにしなかったくらい、私の仕事によい刺激をお与え下さいました。彼とともにお互いの目標に向かって苦闘することは、われわれ音楽家が生涯を通じて辿らなければならない茨の道の途上にあって、私に新たな励ましとなります。 (中略) 彼のすべての力が、すべての人に受け容れられるような作品の中に再現されたらどんなに立派なものとなるでしょう。彼の完璧さに対する熱心な欲求を以てすれば、そうなる以外にはありえません。》 (後略) その後二人は無二の親友となった。 私が、ブラームスのヴァイオリン協奏曲のレコードをはじめて買った数十年前、そのLP(勿論モノラル。オイストラッフの演奏だった。)のジャケットの解説でヨアヒム外大なヴァイオリニストであり、この協奏曲をはじめ数々の作品にブラームスが助言を求めていた事を知った。名作が生まれる裏には必ず、その楽器の良き弾き手(歌い手)が居るもので、ヨアヒムは指揮者としてもブラームスの作品の良き理解者であったという。 ー シューマン夫妻 ー ロバート (1810-1856)、クララ (1819-1896) この二人のことは、あまりに有名で、今更何を?と思われる向きも有るだろう…。先に書いたように作曲家と演奏家という見方をするなら、これほど密接な関係を持っていた二人は他に無い。私はシューマンというと、すぐ、“ピアノ協奏曲イ短調”を思うのだが…。この曲を初演する喜びを、クララは次のように書いた。《 私は長らく、ロバートの作曲による華麗なピアノ曲を望んでいた。この曲をオーケストラと弾くことを思うと、私は王様のように幸福で ある。》 ロマン派音楽の花開いた時代。作曲家は美男、弾き手は当代の名手、しかも美女。こんな舞台装置が揃うことは滅多に無い。猛烈な反対を乗り越え、貫き通した愛。そしてシューマンの悲劇的な死。という結末まで添えて、このことは現代まで書き続けられ、そして、語り継がれた。 実際クララは美人だった。ポッと出のブラームスが、一目で恋してしまったのも無理はない。貧しい環境に育ったヨハネス。貧しい環境に育ったヨハネス。その母は、優しかったが美しいとは言えず。その楽才は貧しい故に子どもの頃から酒場でピアノを弾く事に利用された。クララは、母とも、ほかの、今まで出会ったどの女性とも全く違った、知性と教養を身につけ、そして何よりも音楽的に高い才能を持っていた。 (続く) |
※@ 学校防犯上、利用時間の厳守にご協力下さい。 早い時刻からの入室はできません。校内に駐車場はなし。 駅周辺の駐車場をご利用願います。 ※A 舞台づくりにご協力下さい。17:30より山台、 イス並べを行います。お時間のある方はぜひお手伝いを。 ♪ 1月よりいよいよ“運命の女神の歌”の練習が加わりますので、 “ドイツ・レクイエム”と合わせて楽譜をお持ち下さい。音取りテープも 出来次第お渡し致します。予習、復習にぜひともお役立て下さい。 テープ代等詳細はパートリーダーまで。 ♪♪ 個人別ヴォイストレーニング(ワンポイントレッスン)が始まります。 1月初回の練習より、ベースから順次行います。 パートリーダーからの指示で速やかに会場移動をして下さい。 (全体練習の妨げにならないよう各自が気をつけましょう!) |