湘フィル通信2000年 8月号Vol. 13 No.3 (Total 163 外 12)
発行日:2000. 8. 18 編集: 寺部
残暑お見舞い申し上げます。人は寒さにはかなり耐えられるそうですが、暑さには弱いのだそうで、体調を崩されている方はどうぞご自愛下さい。でもやっぱり日本の夏は暑くなくっちゃ!これだけメリハリある季節を楽しめるって幸せだなぁと思います。私はクーラーが苦手。クーラーの効きすぎた建物の中にこもっていると、季節を見失ってしまったような気がして、外の暑さの中へ戻ると何かホッとします。
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<投稿> ヴェルディ!? 〜 レクィエムを歌うことになった困惑の中から 〜 B.鈴木 愼吾 本当は、この曲が嫌いでした。レコードやCDを一度として通して聴く事をせず、その上楽譜を勝手も歌おうとしなかった私は、次の曲がヴェルディ!と発表された時には困惑もしました。しかしこの曲が名曲と言われる所以を松村先生の指揮で歌えば、あるいは理解出来るかも知れないと望みを持ち、練習に参加したのですが、・・・。ところが、楽しいんですね、これが!日本人の感覚では「レクィエム」が楽しいというのは変なのでしょうけれど、今迄ドイツ・オーストリア系の音楽ばかり演奏してきた湘フィルにとっても、これは大きな経験になりそうです。第一、歌い易い。歌うことの楽しさ、声を出すことの快感を味わせてくれる。ベートーヴェンの苦しんで、苦しみ抜いて昇華してゆく音楽を直前に経験した私たちが、練習の過程でこの曲をより深く感じとってゆくことが出来るのかと少々心配ではありますけれど。実際歌っていて恥ずかしい音型がありますね。松村先生も度々言われるDies irae の336小節のバス ![]() ![]() もすごく恥ずかしい。 一方、旋律の美しさはさすがにオペラのヴェルディ。私が今気に入っているのは、383小節からの Recordare の二重唱。今からソリスト二人がどんな歌を聞かせてくれるかとても楽しみ。「その管弦楽がいかに劇的進行と不離のものになっているかを知ることが出来るし、またあらゆる場合、自然に歌手に音を認識させるように書かれている・・・」これはヴェルディのオペラについて書かれた文章の一部ですが、当然レクィエムにも当てはまって、転調を重ねても歌う側に音を見失わせる事がないのも、‘歌う’‘歌わせる’を知り尽くした人の作品だからでしょう。だからこの曲の全体がどのように創り上げられてゆくか、これからの練習の一回一回を期待しつつ、楽しんでゆこうと思っています。 ところで、この原稿はヴェルディのことを書いて下さいとの通信編集者の依頼で書き始めたものです。しかも、レクィエムの解説は楽譜に非常に良く書かれているので、それ以外の事を、という事でした。何となく引き受けてしまったものの、ヴェルディのことも、そのオペラのことも殆ど知らない私には本を読んでその受け売りを書くしかない。以下はそんな文章なので我慢して読んで下さい。 Giuseppe Fortunio Francesco Verdi は1813年北イタリアの寒村レロンコーレ村の小さな宿屋の長男として生まれました。両親に特に音楽の素養があった訳ではないらしいのですが、この家を定宿にしていた旅音楽師の一人が幼いヴェルディの素質を見抜いて父親に息子を音楽の道に進めるよう助言してくれました。実際この助言がヴェルディの一生を支配し、後の世の人々に彼の数々のオペラ作品を遺すことになったのですから、音楽を愛するあらゆる人にとって、これは貴重な出会いだった訳です。 7才の時から村の教会のオルガニストについて勉強をはじめ10才の時そのオルガニストが亡くなったので、父親は近郊の小都市ブッセートの名士バレッツィに頼み込み、ヴェルディはその地で働きながらハイスクールに通うことになりました。またバレッツィの主宰するブッセート楽友協会のメンバーとなり、バレッツィの娘マルガリータとのピアノ二重奏で人々のかっさいを博すこともありました。そうです、この二人はその後深い恋に陥るのですが、結婚に至るまでには、まだ数年かかるのです。楽友協会オーケストラの指揮者であったプロヴェジはヴェルディの才能に注目し、4年間その助手として働かせオーケストラの稽古を委せたりして居りますが、その間にもヴェルディは沢山の作品を残したようです。しかし残念なことにその楽譜は遺言により全部焼却されてしまったということです。 バレッツィはヴェルディの才能を高く評価し奨学金を受けてミラノの音楽院で学べるよう取り計らってくれましたが、その頃恋愛中であった娘、マルガリータとヴェルディを引き離したい気持ちもあったのかも知れません。ともあれヴェルディがミラノに出発したのは彼が19才になる1832年でした。ミラノでは音楽院の年令制限のため入学出来なかったものの個人的に指揮者で管弦楽法の大家であったラヴィナから、作曲と管弦楽法を学び、基礎を身につけました。恩師プロヴェジがなくなったあとヴェルディはブッセートに戻り楽友協会の指揮者となって1836年5月マルガリータと念願の結婚式を挙げ1837年には女の子が、翌年には男の子が産まれたのですが、幸せは長続きせず、わずか1才4ヶ月で長女を亡くしてしまいます。楽友協会の契約が満了した後、ヴェルディは新作オペラ「サン・ボニファッチョの伯爵オベルト」を持ち、妻と子供と共に永住の決心でミラノを訪れます。スカラ座の支配人メレリの援助によってオペラ上演に成功したヴェルディは直ちにオペラ作曲の委嘱を受けたのですが、その前後に子供と妻を相次いで亡くすという不幸に見舞われたのでした。そんな中での委嘱作品の出来が良い筈もなく、上演は不成功に終わり、彼は一層の失意の底に沈み一時は自殺を考えるほどでした。 そんな中で彼を励ましてくれたのが、メレリとプリマ・ドンナのジュゼッピーナだったのです。と、ここまで書いた所で私は、マルガリータとジュゼッピーナの肖像がどうしても見たくなりました。ヴェルディを愛し、そして支えた二人がどんな女性だったのか知りたいのです。早速明日、図書館にでも行ってみましょう。 では結果とその後のことは又、次号で。 (つづく) |