「レクイエム」は、カトリック教会において、葬儀や追悼のために捧げられる「死者のためのミサ曲」のことです。そのラテン語のテキストの一番始めの言葉が「レクイエム」
(Requiem=安息を)という単語なので、死者の
ためのミサ曲を、通常「レクイエム」
と呼び慣わしています。
しかし、ブラームスの“ドイツ・レ
クイエム”は、レクイエムと名付けられながら、「死者のためのミサ」に用いるために作曲されたのではありません。
“ドイツ・レクイエム”とは、ドイツ語のレクイエムの意味ですが、ラテン語の「死者のためのミサ」をドイツ語に翻訳したものをテキストとしているのではなく、ブラームス自身がドイツ語聖書の中から自分の意思で選んだ箇所を組み合わせて、独自のテキストを編み上げているのです。
とは言え、葬儀や追悼のミサの中で演奏されることを目的としないのにもかかわらず、“ドイツ・レクイエム”は親しい者への哀悼の心情が溢れ出ており、演奏会そのものが追悼の場となることを切に願っている曲である事は、曲を聴けばすぐに納得出来ることと思います。ヴェルディやベルリオーズなどのレクイエムが、ミサで用いられるラテン語の歌詞に作曲されながら、故人に対する哀悼の意を表すことより、どちらかと言うと劇的効果を追求するほうにエネルギーを費やしているのと好対照と言えるかも知れません。
第一曲と第七曲
二つの「幸い」 “ドイツ・レクイエム”の全体を見渡して、まず目につくのは第一曲と最後の第七曲のそれぞれ冒頭に置かれた「幸いです
(Seilig sind )」という印象的な言葉です。
第一曲は「幸いです、悲しんでいる人々は」というマタイ福音書の有名なキリストの言葉をテキストとしています。それに対し、第七曲は「幸いです、(主にあって亡くなった)死者は」というヨハネの黙示録の言葉が使われています。
何で幸いなのか、悲しんでいる人は不幸なんじゃないか、人が死ぬことも
不幸じゃないか、という疑問があると思います。
どうして悲しんでいる人々が幸せなのかというと、慰めて下さる方がとても素晴らしい方だから。どうして死者が幸せなのかというと、永遠の命に受け入れて下さる方が限りなく偉大だから。これはキリスト教信仰の真髄で、このことを理解しないと“ドイツ・レクイエム”を歌うことも聴くことも、とても空しいことになってしまいます。
さて、この二つの「幸い」を歌った曲ですが、まず、第一曲の楽器編成に大きな特徴があります。この楽器の使い方、というより、普通どんな曲にも使う楽器を使っていないことは、作曲者自身のこの曲への思い入れの強さを感じさせるものだと思います。黙っている楽器たちは、死者の沈黙を表しているのでしょうか。何も語らなくなってしまった私の大切な人、親しかった者・・・。
どの楽器を使っていないのかは、自分の目で見、耳で確かめてください。それが、コンサートのおもしろさですから。解説者がそこまででしゃばって教えてしまっては、聴く者の喜びを奪ってしまうでしょう?
その楽器編成の特徴によって、第一 曲にどんな雰囲気が生まれているのか、また、親しい者を失った人の悲しみと、その人に与えられる慰めの「幸い」がどのように表現されているのかを聴き取ってみてはいかがでしょうか。
曲は、途中に詩篇の言葉を挟み、その部分では悲しみが喜びに変えられる事を表現して、涙から喜びへの転換が 鮮やかに歌われています。
第七曲は、亡くなった者が、死を通り越してその先で味わう至福が歌われ ます。それで、第一曲と同じ拍子、同じ調性でありながら、もはや翳りの無い、伸びやかな明るさ、そして、落ち着きに満ちた幸いが歌われます。第一曲では沈黙していたあの楽器たちも一緒に歌います。そして、逆にあのティンパニが叩かれることはありません。第二曲等でしつこく叩かれていた、あの死神の足音のようなティンパニが。
ところで、終曲としての盛り上がりのようなものを期待して聴く人にとっては、この曲は盛り上がりに欠けるフィナーレと思われるかも知れません。第六曲でせっかく盛り上がったのに、と言う人もいるでしょう。それでも、ブラームスは何の不安もない解放された自由な喜びをこんな曲想で表現したかったのです。
第一曲では、「慰めを受ける幸い」が表現されていますが、この終曲ではもはや慰めを必要としない幸い」が歌われていると言っても良いのではないかと思います。
確かに、死、特に親しい者との別離 は、互いに愛し合う者を引き離す不幸な現実ですが、ブラームスは、親しい者の死を悲しむ者(ブラームス自身と言っても良いでしょう)と、先に神のもとに旅立った者との間に「祈りの架け橋」を掛けました。第二曲から第六曲までは、死別した者の間を結ぶ祈りと音楽の架け橋だと思います。この架け橋によって、不幸な現実から希望が生まれ、新しい「幸い」が確認されて行きます。
続く二曲で目立つ楽器は何といってもティンパニです。それぞれの曲の後半ではトランペットも。
どんなに美しく素晴らしい人生にもいつかは必ず死が訪れます。「行進曲風に」という指示のある第二曲は、すべての生命を飲み込もうとする死の足音がティンパニによって表されているかのように始まります。この世の命のはかなさと、誰にでも経験のある死の不安。然し、死の暗闇を通り越した向こう側にあるものが、絶望と虚無の淵ではないことをもブラームスは表現しています。死の不安を告げる太鼓の音が、キリストの贖いによって、喜びと安らぎの予感に変えられて行きます。
第三曲も同じような構成ですが、バリトンの独唱で始まる前半は、死によって親しい者から引き離されて孤独になってしまった魂の不安を訴えているかのようです。悲しみと慰め、不安と希望が交互に歌われながら曲は進みますが、最後に旧約聖書続編の知恵の書の「正しい者の魂は神の手の中にあり、いかなる苦しみも彼を揺さ振ることがない」という言葉が一つの答えのように歌われることになります。この時に曲はニ短調からニ長調へと転調し、前述の歌詞がフーガによって合唱の各パートに受け継がれながら、永遠の喜びへの期待として高らかに歌われます。このフーガには大きな特徴があります。はじめから終わりまで、同じD(レ)の低音で支えられていることです。初演のときにはこの音楽的な特徴が聴衆に理解されずに大失敗に終わったそうです。しかし、この「永遠のD」とも呼ばれる低音の持続音(オルゲンプンクト)が、「神により頼んでいる者の希望が決して揺るがない」ことを表しているものと受け取るならば、歌う者にも聴く者にもこのフーガは大きな感動を与えるものと確信します。
詩篇の言葉に作曲された第四曲は、歌詞を見ればすぐ分かる通り平和な喜びと爽やかな憩いに満ちた曲で、解説の必要がないと言っても良い程です。ブラームスはこの曲を七曲の丁度真ん中において、「ドイツ・レクイエム」を全体としてシンメトリックな形に仕上げています。第一曲・第七曲の‘Selig’という言葉ではなく、‘Wohl’という言葉ですが、「(神よ)あなたの家を住まいとする者は幸い」が選ばれていることが注目すべきことだと思います。
全体の構成からすると、第五曲は第三曲と対を成すことになる部分ですが、曲の雰囲気は第三曲の盛り上がりとは正反対で、ゆったりと落ち着いたものです。
ソプラノの独唱と弱音器をつけた弦、そして独唱を受け継ぐように歌う合唱は母に慰められる子供が取り戻した心の平和を表現するかのようです。歌詞のテーマは相変わらず「不安から慰め」なのですが、音楽的な表現は、すでに「不安」ではなく、「慰め」の方に重点を移し、母の温かさを感じさせる曲想となっています。
尚、第三曲のフーガの最も盛り上がった部分で各パートが高らかに歌った旋律が、ほんの一瞬ですが、穏やかに現れることでも作曲者がこの二曲を対照的に作ったことがうかがえます。
第六曲は、第二曲と同様大きな構成の曲になっています。神の計画の奥義を告げる言葉につけられた曲は音楽的にも迫力あるものとなっています。
地上の営みのはかなさを不安げに合唱が歌い出し、続いてバリトン独唱が神の計画を決然と告知します。コリント書の言葉によって、死者の復活が告げられると、それに答えて合唱が命の勝利を壮大に歌い、更に、黙示録の言葉によって神の創造の業に栄光が帰されて曲はクライマックスをむかえます。この曲が全体のフィナーレであるかのようですが、その喜びと壮大さは、あの第七曲の深い落ち着きに満ちた「幸い」へと引き継がれて完結するのです。
(※この文章は湘フィル第6回演奏会のプログラムに掲載されたものです。)
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