北海道に生きたラストサムライ 
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■永倉新八 ■
三澤与八 / ■土方歳三
幕末・維新の基礎知識

ひいじいさんは幕末の志士    

 
剣を筆に持ち変え、
小樽に生きた
新選組隊士、永倉新八

■ご子孫/杉村悦郎さん
 


 北海道大学の正門(札幌市北区)の横に、『新選組隊士 永倉新八 来訪の地』と記された案内板がある。小樽に暮らしていた永倉新八(敬称略)が、剣撃部の学生に請われて剣術の指導のために北大演武場を訪れたことが紹介されている。

 「家族は年だからやめた方がいいと反対したようです。案の状、新八は剣を振りかざしたはずみで転んで動けなくなり、馬車に乗せられて小樽に運ばれてきた(笑)。親族の間では語りぐさになっています」

 そんなエピソードを明かしてくれたのは、『新選組 永倉新八外伝』の著者、杉村悦郎さん(54歳・札幌市在住)だ。永倉新八のひ孫さんである。

●北海道大学正門近くの歩道にある、新八来訪の地の案内板と埋め込み。

 
 新選組副長助勤・2番組組長の永倉新八といえば、1番組組長の沖田総司に並ぶ新選組大幹部の一人。剣術の腕は「沖田さんより進んでいた」と元隊士が証言しているほどの強者で、中でも新選組史上に残る池田屋事件での活躍はファンにはよく知られている。

 新八は、会津戦争では新選組を離れ別な隊を組織して新政府軍に挑むが、ほどなく会津藩は降伏。実家の松前藩(東京出張所)に帰藩して再び戦いの機をうかがうも、身に危険が迫り、明治4年、松前藩医・杉村家の養子(婿入り)の話を受けて北海道の松前町に渡る。

 その後、幾度か東京に戻るものの、長くを小樽に暮らし77歳で生涯を閉じた。樺戸(かば=現・月形町)の刑務所で看守の剣術指南役を勤めた時期もある。

 杉村さんのお父さんは、小樽で晩年の新八と寝食をともにした孫の一人だ。

 その孫たちが成人したら読ませるようにと、新八は数々の戦いで負った傷の由来を『七ケ所手負場所顕ス』に書き残している。
 「身体に残る傷こそが、自らの歩んできた歴史だったのでしょう」
 
 手負場所の一つ、「池田屋事件で斬られた左手の親指は晩年も少し不自由だった」と、親族には伝わっている。

 そんな武勇伝の似合う新八だが、杉村さんが「父から聞いた話で最も印象深い」のは、こんな静かな光景だ。

 「夜中に父が目を覚ますと、新八はよく文机に向かい、書き物をしていたそうです。コンコンと灰を落とすキセルの火は、蚊帳ごしにホタルの灯のように見えたといいます。筆の手を止めキセルをふかすとき、何を思っていたんでしょう・・・」

 新八は、新選組結成前からの仲である幹部13人のうち、ただひとり戊辰戦争を生きのびた。そして、余生は、隊士の墓や慰霊碑の建立に奔走するほか、新選組に関する数多くの回想録を書き記している。それらは後の新選組研究に大きな役割を果たすこととなった。今の新選組人気も新八なくしてなかっただろうと言われる。

 「『武』の人から『文』の人になったんですね。人や時代を詮索することを得意としない体育会系のタイプだったから、新選組の歩んだ忠義の道を理屈で主張したりはしなかったけど、その足跡や隊士たちの生きた証を書き留めておきたかったのでしょう」

 盟友・土方歳三にとって北海道は最期の戦いの舞台となったが、新八にとっては長らえてしまった生を生きる場となった。小樽の家では近藤勇と土方歳三の写真に、手を合せていたという。

 「松前藩は箱館戦争では新政府軍側。松前では生きずらい面もあっただろうけど、小樽は藩のしがらみの薄い漁師や商人の町。同士たちに思いをはせて静かに過ごすにはふさわしい場所だったのではないでしょうか」
 
 新八の遺骨は、小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組慰霊碑の立つ東京・板橋の墓に分骨されているそうだ。近藤勇の眠る板橋に埋めて欲しいといのは新八の遺言だった。新選組隊士・永倉新八は北海道では家族とともに、東京では同士とともに眠っている。 


●明治15年〜19年の4年間、新八が看守の剣術指南役として勤めた旧樺戸集治監(監獄。現・月形町)。現在は資料館になっている。
 

●杉村悦郎著、『新撰組永倉新八外伝』。「永倉新八とその家族の記録として読んでいただければと思います」(杉村さん)。

取材/2004年7月
掲載/2004年8月(朝日新聞『ブンブン』9月号)
加筆・update/ 2005年12月