登場人物:

結城哲司…主人公

瑞希 愛…片思いの人妻 

瑞希 愛…アンドロイド

 

AI サイバーパンク・ストーリー

 
作:御茶屋 峠

 

  私は想像する

  ただ長い時を経て色褪せて

  汚れていく一軒の廃屋は

  そのまま崩れゆき

  やがては土になってゆくのかと

  そうしたら

  四方を壁に囲まれた空気は

  ゆるやかに空に昇ってゆき

  最期を告げるのろしになるのか

  と

         

 


 

   1

 

その日は、朝からよい天気だった。休日にいつになく早く起きた私は、椅子に座って机越しに窓から外を眺めていた。明るい日差しのなかで向かいのアパートの物干しの手摺りに山鳩が二羽とまっている。欄干の塗装が腐食によってところどころはがれていた。

 新しく建てられた私の部屋のある棟とは対照的に、隣はどこにでもありそうな古い所帯向けアパートだった。その外見は、独身者しか住まぬワンルームの部屋しかないこちらとは際立った対照をなしていた。新しさと古さ、自由と義務、孤独と愛情、……単純と複雑、あるいは、複雑と単純、といったように。

 郊外に位置するこのあたりは、まだ緑が多い。そのためか、それとも休日の午前中のせいか、空気は澄んで見える。部屋の窓は、外界の音をすべて遮断するため、なにも聞こえない。エアコンが低く唸っているだけだ。強い日差しのなか、鳥だけが音もなく小さく動く。

二羽の鳥が音なしで飛び立ったかと思うと、若い女性の姿が見えた。隣接するアパートに住む若妻だった。私は気取られぬように身を隠し、カーテンを閉めた。白木の机にカーテンのルネッサンス模様の影ができる。外界とは、視覚においても遮断された。ただ薄い生地をとおして暖色の影が部屋をぼんやりと照らすだけだった。

フローリングの施されたワンルーム、それが私の部屋だった。この部屋は、白い壁、壁に収納できる白いベット、薄茶色のワードローブ、黒を基調としたオーディオ、黒いVTRデッキとテレビ、アイボリーのパソコンが置かれた机、天井まで届く本棚、申し訳程度の小さなキッチンなどに、取り巻かれていた。畳敷きにして十一畳ほどの部屋は、雑然としながらも、なにもない印象がした。

 部屋の入り口近くに、キッチンテーブルと椅子が、部屋の奥には黒いソファーがTVと向かい合わせに、小さなテーブルを挟んで置かれている。音はなにも聞こえない。

 

私は荷が届くのを待っていた。

 

私は思った。何で生きているのだろう、と。

幾度となく繰り返されるこうした思いは、ある時はすでに忘れ去られた過去の決意を意識の表層に浮かび上がらせることによって、そしてまた別のときには、仕事やコンピュータ・ゲームに熱中することによって、どちらの場合も、常に何の解決もなく、忘れ去られていたものだった。

(生きている限り繰り返し問い続けること、これこそ生きている証拠なのかもしれない)私は、めずらしく結論めいたものを考えた自分に苦笑しながら、デッキにジャパニーズ・パンクのカセットを入れた。

 

玄関でチャイムが鳴った。レンズを覗くと、運送会社の青年が二人、ダンボールの荷を挟んで立っている。

「結城さーん、お届け物です」

ドアを開けると、青年たちは軽く会釈して荷を部屋に運び入れた。

「ここに判子をお願いします」

 一方の青年が義務的な口調で言った。重い荷を二階の部屋まで運んだ彼らは、少し汗ばんでいる。外からは、梅雨の晴れ間の蒸し暑い空気が、流れ込んでくる。彼らは捺印された受け取りをバッグに収めると、何も言わずに帰っていった。

 

あとには、小型冷蔵庫サイズのダンボール箱と大型のスーツケースほどのやや小さめの箱が残った。

私は、ダンボールの表面から封筒を剥がし、中の書類を確認する。一枚目の書類は荷の開封方法などが書かれたマニュアルだった。ほかには、契約に関する書類が入っていた。

私は大きな箱から、とりかかった。キッチンテーブルを後ろにずらして空間を作る。マニュアルにあるように箱を静かに寝かせると、蓋のガムテープを破り取り、ダンボールを引き抜くように慎重に取りはずした。

ダンボールの中は、発泡スチロールの巨大な白い箱だった。いまはやや平たい長方形に見える。白い箱には、スチール製の菓子箱のように、切れ目が一筋周囲を取り巻き、上半分をなす蓋がはずせるようになっている。

私はこの箱の上半分をはずした。

巨大なスチロール製の蓋を持ち上げる。そこには、塩化ビニールの半透明の袋があった。そして、半透明ビニールのなかには、全裸の女性が、ひざを折り両腕で抱えるような姿勢で、胎児のように横たわっていた。ぴったりと白いスチロールの刳り貫かれた型に左半身を埋め、等身大の人形のように収められている。完全なフォルムだった。

 塩ビの袋によってぼんやりと霞みながら、ショートカットの小さな頭、黒い髪、小柄で痩せた肢体、白い肌が透けて見える。

私は、マニュアルを読みながら、開封作業を続けた。女性の身体の背の部分に、塩ビ袋のビニール・ジッパーがあった。袋は、半透明であること、小ぶりであることをのぞけば、以前見た戦争映画の、死体収容袋に似ていた。「彼女」の背を押して隙間を作ると、ビニール袋の端を発泡スチロールの「型」から引き出した。現れたジッパーの端子をつまむと、後頭部から足の先まで、一気に引き下ろした。指に触れた「彼女」の身体は、やはり映画のように冷たかった。

もう一度、「開封および起動に関するマニュアル」を確認すると、私は首の後ろの皮膚を親指と人差し指でつまみ、力を入れた。するとマニュアルどおりに縦八センチ横五センチほどの皮膚の蓋がはずれ、開いた。はずれた皮膚のプレートは微細なケーブルで何重にも内部と結合されている。蓋の表面はゴムのように柔らかく白い。内側はメタルカラーに光っていた。外れた皮膚が、ケーブルによって首筋にぶら下がっる。

蓋の内部には、黒色の金属プレートがあった。そこには起動と下に書かれた赤いスイッチと停止と書かれた黒いスイッチがあった。私はもう一度マニュアルを確認すると、赤い起動ボタンに人差し指を添え、押し込んだ。

 

最初は何も起きなかった。しかし十秒ほどすると、かすかな起動音が「彼女」の身体の心臓のあたりから響きはじめ、十秒ほど続いて、消えた。その瞬間、右腕が痙攣するようにかすかに動いた。腕はビニールの死体袋の中をさ迷い、やがて、開けはなたれたジッパーの出口から差し出され、発砲スチロールの「型」の後部の縁を掴んだ。

 箱の中の女性は右腕を支えにして上半身を起こそうとした。上半身は細い背中から先に、ゆっくりと、ジッパーを抜け出る。次に頭が袋から現れた。黒い髪がかかり、表情は見えない。

 私は、以前見た自然科学番組のようだと思う。脱皮直後の蝉のように「彼女」の肌は透き通るほどに白かった。

上半身が完全にビニール袋から抜け出すと、これまで彼女を外界の衝撃と「傷」から守っていた半透明のビニールが、彼女のひねった腰にたわんで落ちた。彼女は静かに発泡スチロールの箱の縁に両腕をにつくと、支えにしながら立ち上がろうとした。半透明のビニール袋から右足を出し、白いスチロールの箱から彼女は私の部屋の木の床に右足を差し出した。暗褐色のフローリングに白い足が、そこだけ地を切り取ったかのように淡く光る。袋からはみ出した足は、小さな爪先と足、細いすね、形のよい膝と、順番にゆっくり差し出され、細い太股に続いて、黒い陰毛が見えた。

 彼女は右足で床を踏み、その足と両腕を支えにしながら、左足をまだ白い型の箱に踏み入れたまま、ブリッジの姿勢から、立ち上がった。半透明のビニール袋は、いまや完全に足元に落ちた。そして、彼女は、周囲をゆっくりと確認しながら、私の部屋に立った。足元には、まだ抜け出たばかりのビニールの「殻」がしぼんで落ちている。

 

 彼女は静かに私のほうを向いた。白い肌に陰部だけが黒い影を落とす。真っ直ぐにこちらを向いた彼女は、唇を二、三度、音もなくぱくぱくと開いた。そして、静かな、そして美しい声で、ぎこちなく話しはじめた。

「あなたが、ご、主人様ですね。私は、シリアルナンバー……」

しばらく意味のない数字の羅列を語ったあと、彼女は言った。

「正常に、認識されました」

その直後、淡く短い光が彼女の瞳に瞬いた。とたんに、彼女はにっこりと笑い、私に流暢に話しかけてきた。

 

「結城さん、なに、ぼんやり突っ立ってるの? 私の顔に何かついてる?」

足元に半透明な巨大ビニール、彼女が「運搬」されてきた女性の身体をかたどった白い箱、巨大なダンボールの空き箱。これだけが私たちのシュールな出会いの証拠を、この現実の空間に主張していた。しかし、人形のように美しい裸体のボディこそが、ほかのなによりも日常からかけ離れた光景を主張していた。

 しかし、この瞬間から、たしかに彼女は私だけの「愛」になった。

 




     2

 

「それは、あなたの好きな女性、そのものになるのです」

 暗灰色の男は、瞳を通して心の奥底まで見透かすような、狡猾で不思議な視線を投げかけながら話した。

 私が気まずく視線を逸らすと、カウンター越しにブラスの手摺りが室内灯を反射して金色に光っていた。

 

 愛が、私のアパートに「搬入」される2か月前のことである。会社から帰宅する途中の薄暗い路地で、私は声をかけられた。

「たしか、結城さんでしたよね」

「あなたは?」

「私は、こういう者です」ダークグレーのツーピースを着た男は、なれなれしく微笑みかけると、上着の内ポケットから名刺入れを出した。黒皮にSPMIと金色の文字がブロック体で刻印されている。

 名刺には<笹山精密機械工業株式会社 販売七課><黒田兵衛>とあった。なにやら、時代劇のような名前だ。

「先程の店で隣席だったのですよ。お気づきには、なりませんでしたか?」

 私は軽く酔った頭で思い返した。

 

 小出版社に勤める私は、月に数回、若い同僚と酒を飲むことがある。今日も、ついさっきまでいつのように彼らと飲んでいた。その店で一緒だったか?

「ええと、じつは、あなたのお話が耳に入りましてね。あの同僚の女性の話ですが……」

「それが何か?」私は警戒しながら答えた。

「私どもの会社は、人型の家事手伝いロボットを製作・レンタルしております。きっとあなたのお役に立つと思います。どうです、場所を変えて少し話を聞いていただけませんか?」

 都会に住んでいると、この手の話は多い。しかし、私は彼の話に興味を覚えた。ロボット……SFじみた話だ。

「この近くに静かなショットバーがあります。お代はお持ちしますので、どうです?」

 男の話した場所は、私のアパートに近い駅前商店街だった。そんなところに店があったかと私はいぶかったが、同時に強い興味に引かれ、結局我々は店に向かった。

 

 初めて訪れる店だった。黒いカウンターの向こうにバーテンダーが一人、立っている。細長く狭い店内は暗い。カップルが一組、離れたテーブルで話している。地元にもかかわらず、私はこの店を知らなかった。私たちはカウンター席に座り、男は私に尋ねもせずにスコッチの水割りを二つ注文した。

「単刀直入に申します。私どもは人間とまったく同じ外見のロボット、正確にはアンドロイドなんですが、それを製作しております」

 暗灰色のスーツの男はこう切り出した。

「しかし、そんな話は聞いたこともないですよ」

「まだ、マスコミには公開されてませんからね」

 男は国内の特許制度について、説明し始めた。

「現在、通常の発明に関する特許制度は知られていますが、特例があるんですよ。先端技術に関しては非公開の登録制度がありましてね。我が社の技術は、まあほとんどその手のものです。国際競争に関わるものとか防衛上の技術といったものですがね。

 しかし、まあこのへんの話は、あなたには直接関係ない。

 まず、お客さんに関係するのは、契約に関する事柄ですね。レンタル料は、一体月二十万円プラス税となっております」

「申し訳ないが、私は見てのとおりのサラリーマンだ。そんな大金は出せませんよ」

 私は早くも席を立とうとした。

「ご心配には及びません。彼女にパートさせればいいんですよ。違法行為ではありません。正確にいえば、まだ法律ができてませんし、判例もないのですからね。

 現行法制ではせいぜい、私文書偽造および詐欺くらいでしょう。ま、これも、告訴されればの話ですが」

「ちょっと待ってください。あなたは、ロボットといわれたが……」

「そこが正確にはアンドロイドたるゆえんです。外見は、まったく人と違わない。人間と同じように対話もできます。ですから、素人に見分けることは、ほぼ不可能でしょう」

「しかし、家事なら自分でもできるし」

 灰色の服の男はにやりと笑って答えた。

「そうおっしゃると思った。ここからが重要なのです」

 

 私は次の言葉を待った。なにか、さきの居酒屋での会話が関係するのか?

「我が社では、このアンドロイドの外見を、実在の人間からサンプリングして作成しております。音声認識および音声合成技術によって構成されるボイスインターフェイスも、同様にサンプリングです」

 男は水割りを気取った姿勢で持ち上げると、喉を潤して続けた。

「ただ、声を聞いて答えるだけでは不十分です。その応答の基となる人格が必要です。そこで我が社では、メモリーと演算処理に、実際の人間の記憶をサンプリングする技術を使っているのです」

「それは、その、人工知能とかいった……」

 灰色の男、黒田の雰囲気に気圧されながら、私は応えた。

「正確には人工知能ではないのです。むしろシミュレーターとでもいいますか、外界の刺激に各キャラクター独自の反応を示す疑似人工知能といったものです。

 しかも、それはサンプリングされた実際の人間の記憶を基にしていますから、ほぼ普通の人の反応と変わらない……」

「しかし、あんた、人の記憶といったって」

「あなたは、まだ現在の科学では解明されていない、とおっしゃりたいのでは?」

 ますます男の表情は魔術師めいてくる。

「そ、そういうことです」

「結城さんは、先のカルト教団事件を覚えておられますか?」

 私はすぐ思い出した。新興宗教団体が山奥にコミューンを作り、果ては教祖の予言を実現するために都心で大量殺人を犯した事件だ。結果、大部分の教団幹部が検挙され、たしか現在公判中だったはずだ。

「あのとき彼らは人の記憶を消す実験をしていた。人間の脳は電気刺激によって近いものから昔のものまで記憶を消すことができるのです」

 この話は聞いたことがあった。

「我が社では、この人間の記憶をデジタル信号に変換し、高速でメモリーチップに読み込み、再生する技術を確立しているのです。

 ですからこのようにサンプリングされたデジタルデータを、ある人間の認識の基にあるアルゴリズム、まあ反応法則ですが、に基づいて再生することができる」

 私は視線を男の眼からはずしスコッチの水割りを飲んだ。氷が溶けかけている。

 カウンターには、さっき店に入ったときに見たバーテンが、やはり先ほどと変わぬ姿勢で静かに立っている。何も変わっていない。これは現実の一部なのだ、と私は思った。

 

「あなたのおっしゃる、精密なアンドロイドの話はわかりました。しかし、やはり私は、自分の家事は自分でできるし……」

「そこですよ」男は言葉を強調して言った。

「さっきの店で、あなたがおっしゃっていた女性です」

 

 私は思い出した。

 私は、その店で同僚の二人と社内の女性の品定めをしていた。いつものように社長の悪口や労働条件、給与などをひとしきり批判したあと、社内の女性たちについて語り合っていたのだ。独身男性同士の、冗談とも深刻とも取れるような気楽な会話だったはずだ。

 瑞希愛−−彼女は同じ編集部の女性だった。小柄な体、小さく形の良い頭、ショートカットの髪、聡明な瞳。彼女は昨年の秋に入社して以来、社内の男性社員のあいだで才色兼備と評されてきた女性だった。

 彼女は、私と同じオフィスに配属された。席も隣だった。

 瑞希は、ウイットに富む会話と適切な事務処理能力で対外的にも評判が良く、それが社内での評価を押し上げるかたちになっていた。まさに、理想的な女性だった。そんな彼女に私は好意を寄せていた。いや、好意以上の劣情をも感じていた。

 しかし−−彼女は、結婚していた。

 もし、彼女が私に好意を持っていたら、私は不倫でも強奪でも、自分に似合わぬ勇気を奮っておこなっていたかもしれない。しかし実際の彼女は、いつもと変わらぬ爽やかさで、そうした方向への私の誘惑を逸らし続けているのだった。私を避ける彼女の本心が見る以上、私は、あえて深追いする気持をなくしつつあった。しかし、そうした情況にも関わらず、最近の私は、逆に彼女の貞淑な態度が好ましく思え、ますます彼女への思いが強まるというジレンマに陥っていたのであった。

 前の店で、独身同士の気軽さと酒の勢いで話していたのは、そうした私自身の気持ちだった。恋愛はタイミングだが、トレンディードラマのように常に神の采配が物語の主人公たる「自分自身」に良く働くわけではない。酔った私は、結構深刻に自分のアンビバレントな思いを職場の友人に告白した。普段は決して、思っても外には見せない自分だけの秘密だったのだが。

 黒田は、それを聞いていた。そして私に声をかけたのだ。

 

「つまり、私の説明したアンドロイド、それは、あなたの好きな女性、そのものになるのです。サンプリングは瑞樹さん自身から行います。

 そして、家事だけではない。彼女は愛玩用アンドロイドの機能も備わっているのです。普通の女性ができるサービスをすべてを行うことができる。あなたの思いのままの存在になるわけです。

 できないことといえば、そうですねえ妊娠くらいでしょうかね。でも、これもじつは不可能じゃなくなりつつあるんですがね、実験段階ですが。

 そして、普通の女性と最も違うのは、彼女はあなたの命令に絶対服従するという点です」

 ここまできて、黒田はにやりともう一度笑った。私の魂が、地の底に吸い込まれていくような笑顔だった。たぶん、暗い室内灯のせいだろう。

「サンプリングは、さっきも言ったように瑞樹さん自身から行います。同様にサンプリングのあいだの記憶は消去しますから、本人には気づかれる心配はいりません。このサンプリングには、あなたが同席することも可能です。どうです?」

 黒田は続けた。

「契約は、商品が届いてから考えていただければよろしいのです」

 私は、努めて冷静を保とうとしながら、応えた。

「しかし、それは、オーダーメイドのようだから、事後キャンセルの可能性などもあるでしょう?」私は、完全に灰色の男の雰囲気に飲まれていた。

「キャンセルは可能です。事前に料金は一切請求されないのですからね。

 しかしあなたは、絶対にキャンセルしないでしょう」

「世の中に、絶対というものはない、のではないですか?」

 

「いえ、絶対というものはあるのです。とくに、この契約に関してはね」

 黒田は、ブラックホールを背後に備たような、笑顔で答えた。

 

 私は、黒田と名乗る男と、契約した。

 

 



     3

 

 サンプリングの日、私は会社を休んだ。オフィスではいつものように業務が行われているはずだ。暦では季節はもう春になっていたが、曇り空でぐずついた天気は太陽を隠し肌寒かった。

 会社の出入り口の見える向かいのビルの喫茶店に座り、サングラスとカジュアルな服に変装した私は、ビルの出入り口を見ながら骨盤伝動式マイクの付いたイヤホンで黒田のチームと連絡を取っていた。傍目にはやや大きめのイヤホンにしか見えない。

 会社のビルのドアから、瑞希が出てきた。いつも通りの退社時刻だ。結婚している彼女は例外的に定時で退社できる。私は頭蓋骨の振動で伝わるマイクに小声で彼女の出現を告げた。周囲には聞き取れないほどの独り言にしか見えない。

 会社のビルの横にあった黒いバンから、ダークグレーのスーツ姿の男が二人現れ、彼女の後を追い始めた。私の役割は、ここでは単に瑞希本人を確認するだけのようだ。黒田チームの技術者であるスーツの二人は、すでに彼女を確認していた。私も彼らを追って店を出て、瑞樹に気づかれないように離れながら、彼女の使っている地下鉄駅に小走りで向かった。

 地下鉄の車両は帰宅時間で混んでいた。ダークスーツの技術者は彼女の真後ろから車両に乗り込むと、やはり彼女の真後ろに立った。私は二つ離れたドアから同じ車両に乗り込み、瑞樹と男たちの様子を横目でうかがった。男の片方が、右手を彼女から十センチほど離し、瑞樹の背骨の上部に掲げているのが、人並みの陰に見える。もう一方の男は、手に持った自分の鞄を見つめている。瑞樹の様子は変わらない。車両は地上へ出た。

 瑞樹は二つめの停車駅で降り、ローカルの路線に乗り換える。こんどの車両は先程より空いてた。男たちも目立つからだろうか、彼女からやや離れて週刊誌を読んでいる。

 やがて電車は郊外の駅に停まった。我々は彼女と一緒に降りた。

「結城さん、あまり近づかないでくださいよ。五十メートルは距離をとってください。あなたは顔を知られているんですからね」イヤホーンを通して黒田の楽しそうな声が聞こえる。明らかに仕事を楽しんでいる。あたりを見回すと先程の黒いバンが改札の向こうに止まっていた。彼女は改札を出ると足早に自宅に向かって歩き始めた。技術者の二人は何気ない風を装い、彼女から二十メートルほど離れて尾行している。その後を私が続く。

 

 この道に、かつて私は来たことがある。昨年末、アパートを捜していたころ、偶然不動産屋で見つけた物件を見にきたのだ。開発途中の空き地の多いこの地域は、歩道の整備されていない交通量の多い街道が一本、私鉄とクロスして走っているだけだ。その道をはずれると人通りはまったくない。彼女が通勤に使う路地もそうした道の一つで、途中には小さな公園があり、少し離れて彼女の家があった。

 知っていた住所から訪ねた瑞樹の家は、一個建ての二階屋だった。窓から明かりが漏れていた。温かい家庭。私の入る隙はどこにもなかった。

 

 暫く歩いた後、バンはするすると私たちと彼女を追い越すと、路地に入った。スーツ姿の技術者は、既に彼女の真後ろに近づいていた。片方の男が黒いボックスを瑞樹の首筋に当てる。とたんに彼女は崩れ落ちるように倒れかけた。すかさずもう一人の男が支える。バンは音もなく彼女たちの横に付けると、後ろの扉が救急車のように観音開きに開き、瑞樹と二人の男を吸い込んだ。

 周囲は何事もなかったように、暗く静かだった。街灯が青く光っている。

「結城さん、急いでバンに乗ってください。静かにですよ!」インターフェイス越しに黒田の声が聞こえる。私はあたふたと、走り、バンに乗り込んだ。

 

 私が乗り込みドアが閉められると、室内灯が燈った。まぶしい。運転席と隔離されている車の後部は広かった。室内には黒田、さきほどの二人の技術者、白衣のオペレーターがいた。瑞樹は、大病院にあるCTスキャナのようなブリッジが付いた、上部がガラス張りになった寝台に寝かされていた。ガラスが、彼女の青ざめた頬を映している。

 バンの後部は、窓が一つもなかった。内壁は戦闘機のコックピットのように、さまざまな機械で埋め尽くされている。白衣の男は椅子に座り、多数のディスプレイを見つめながら埋め込み式のキーボードに入力している。我々は寝台の瑞樹を取り囲むように立った。

「彼女の表層的な記憶は、先ほど電車の中でサンプリングしました。上出来です」

 黒田が、満面の笑みで説明する。

「これから外見と深層意識をサンプリングします。結城さん、よく見ていてくださいよ」黒田はポケットから黄色いストップウォッチを出すと、スタートと叫んだ。

 

 スーツ姿の技術者は手慣れた様子で素早く瑞樹の服を脱がし始めた。ピンクのスプリングコート、褐色のジャケット、同じ色のスカート、白いブラウス、黒いストッキング。信じられないスピードだった。男たちは、そのままベージュ色のブラと同色のパンティを脱がすと、彼女を、先程と同じようにガラスの寝台に寝かせた。服は横のボックスに投げ込まれる。

 全裸の瑞希が、ガラスの上に横たわっている。

 私はなぜか、ディズニーのアニメを思い出した。しかしその連想は、シンデレラのガラスの靴と眠れる森の美女のミクスチャーだったかもしれない。

 白い肌の痩せた上半身に小ぶりの乳房が二つ載っていた。下半身は、想像していたよりも腰が大きく、形の良い足が二本なげだされていた。陰部の薄い毛に汗が光っていた。

 スキャナブリッジが、瑞樹の頭部から上半身へと動き出す。その瞬間、周囲はフラッシュに似た光の洪水に包まれた。私は何も見えなくなった。黒田が偏光サングラスを差し出し、私はそれで目を覆った。

 奇怪な風景だった。緩やかに裸体の瑞樹の上を移動するスキャナのブリッジ。そして、同時に寝台の周囲からせり出してくる機械群。ブリッジが通過するにしたがって、彼女の頭から順番に機械が彼女を覆っていく。彼女を包んだ機械が変形してる形から、機会の中で瑞樹の身体がさまざまな方向にねじ曲げられているのがわかる。しかし、内部は見えない。

 ブリッジが彼女の爪先まできたとき、瑞樹の体は全身、銀色に輝くマシンによって覆われていた。フラッシュが止み、私は偏光サングラスをはずした。後には、メタルシルバーの機械が蠢く人型のさなぎがあるだけだった。

 スキャナブリッジが、同じ軌道を素早く逆に動き、元の位置に収まる。そのとき、彼女を覆っていた銀色のマシンは、中央から縦に二つに割れ寝台の下に収納された。

 その後には、瑞樹の白い肉体が、さきほどと同じく、虚脱したように横たわっていた。

「春崎君」黒田が叫んだ。

「完了です」白衣のオペレータが告げた。

 二人のスーツ姿の技術者は、先程の服をほうり込んだボックスの下から吐き出された服を、逆の順番で着せ始めた。服は、完璧に元通りに付けられていく。男たちが服を着せ終わると、室内灯が落ちた。

 二人の男は彼女を両脇で支えると、車から担ぎ出し、そのまま小公園のベンチに座らせた。片方の男がさっきと同じ黒いボックスを彼女の頭に軽く押し当てると、彼女をベンチに一人残したまま、車内に戻ってきた。

 黒崎は、黄色いストップウォッチを押した。

「三分十二秒。新記録ですね。ま、今回は、何も邪魔が入りませんでしたからね」

 

 私は、呆気に取られながら、車内で立ちすくんでいた。

「外部監視用のディスプレイを見てください」黒崎は機械を指差しながら、静かに言った。

 赤外線カメラのような映像が、黒埼の示すディスプレイに映っている。画像の中で瑞樹がベンチに座っている後ろ姿が見える。

 三十秒ほどして、彼女は立ち上がると、首をひねりながら自宅の方向に歩きだした。

「サンプリング作業は無事終了です。彼女の記憶は深層に至るまで、完璧にメモリーバンクに転送されました。そしてオリジナルの記憶は、この作業の間だけ消され、気分が悪くなって公園のベンチで休む、という人工記憶にすり替えられたはずです」

「あ、あなたたちは、いつもこんなことをしているんですか!?」

 私は、義憤と驚きの入り交じった声で、質問した。

「サンプリング作業はいつもこのように行われているんですよ。我々の必要なオリジナルが常に協力的は限りませんからね」

「しかし、これは犯罪ではないか」

「犯罪ですよ。しかし、立証されない犯罪です。なにしろ原告側の記憶がないのですからね」黒崎は、ショットバーで出会ったときと同じ微笑みで、私の質問に答えた。

 

 私は、彼らに自宅の駅まで送られ、帰宅した。

 翌日、瑞樹愛はいつもどおりに出社し、いつもと変わらず明朗な姿で業務をこなしていた。

                           (以下、次回に続く)