ショスタコーヴィチ:交響曲第5番(1973年東京ライブ盤)
レニングラード・フィル
★★★★★
この曲の演奏様式には大きく分けて2種類があるようだ。一つには、バーンスタインに代表される、テンポの激変を伴う突撃的な演奏。特に第四楽章のコーダは猛スピードで突進して終わる。もう一つは、この演奏に代表されるような、インテンポで冷酷な演奏。最後のコーダも、赤軍の示威行進のごとき重々しい威圧的な表現で終わる。個人的には、後者の表現の方が作曲者の意図を明確に形にし得ていると思う。
作曲者が表現しようとしている人民の悲劇とは、感情を表すことすら出来ない、悲痛の叫びを上げることも涙を流すことも許されない悲劇である。そうした抑圧を表現するには、やはり抑制されたザッハリッヒな表現が望ましい。バーンスタインの表現する悲劇は、資本主義的悲劇とでも言うか、悲しい苦しい助けてくれと身も世もなく悶えている悲劇である。それはそれで高い次元の表現だとは思うが、フルトヴェングラーのブルックナーに感じるのと同じ違和感を感じてしまう。
それにしても血も涙もない音楽である。特に弦の冷徹さは部屋の温度が下がったのではないかと思わせるほどである。完璧なアンサンブルは恐怖政治とそれにおののく人民の両面を描いて不足がない。第三楽章のクライマックスも、バーンスタインと比較すれば素っ気ないぐらいだが、顔見知り同士が密告し合うような蒼白い恐怖を彷彿とさせる。
フィナーレもとても歓喜の表現とは思えない。コーダも権力に圧殺される人民の姿しか浮かんでこない。しかし、それが本来作曲者が意図したものだと思う。
空恐ろしい音楽だが、聞き込んでいくうちにそれがクセになってしまう。それはザッハリッヒな表現なのにも関わらず、音楽の奥底に得も言われぬ熱が対流しているからなのだと思う。それはムラヴィンスキーの音楽全般に言えることだ。
(07/5/6記)