田中正明:パール判事の日本無罪論(小学館文庫)
★★☆

 この手の、東京裁判の誤謬性を詳説して、そこから日本国及びいわゆる戦犯は無罪であるという論理を引き出す論者は多いように見受けられる。それは一見説得力を持つように思われるし、僕自身も一面の真実を映し出していると思う。

 しかし、いわゆる15年戦争について、特にその戦争の執行部について我々が考えるときに、まず心に留めなければならないのは彼らが他国について責任を負わねばならないかではなく、日本国及び日本国民に対していかなる責任を負うべきかである。彼らが取った行動が我々に対していかなる影響を及ぼしたかが第一義であって、他国に対してどうであったかは、少なくとも我々日本人にとっては二次的な問題である。

 しかしながら、大半の言説は後者のほうに傾斜してしまっており、我々に対してどうであったかという、為政者に対して当然下されるべき価値判断がなおざりになってしまっているのは、どう考えても看過すべき状況ではない。

 そうした例に漏れず、本書も斜視的な論のみで終わってしまう。確かに、極東軍事裁判は勝者による欺瞞の儀式であった。それを唯一憚ることなく当事者として暴いたのがパール判事であることも事実であろう。しかし、判事の主張はあくまでも法学的な無罪でしかない。つまり、極東軍事裁判の法廷はいわゆるA級戦犯を裁くための法を持たず、法のないところに罪はない。そういう意味での「無罪」であって、「悪くない」という意味ではない。もっと踏み込めば、連合国に対しては「悪くない」かもしれないが、日本国民に対しても「悪くない」などという判断は一切していない。

 しかしながら、ここの部分で巧妙に論理のすり替えが行われる傾向にある。この「無罪」という響きを全体に対して敷衍して、いかにも誰に対しても罪がないというふうに吹聴する。それは明らかに誤りだ。本当に太平洋戦争はどうあがいてもこのような結果にしかなり得なかったのか。サイパン島も、インパール戦も、特攻隊も、沖縄戦も、本当に最善を尽くした結果なのか。その検証を真摯に検証せねば、良いも悪いも言えるわけがない。

 外面さえ糊塗しておけば、という風潮は、例えば本書ではインパール作戦についての評価の中に見られる。日本はインパール作戦をインドの英雄、チャンドラ・ボースと戦った。日本は彼の祖国解放の一助になったのであり、感謝されている、日本は悪くない、というわけだ。しかし、インドに対してどうであろうが、幾万もの兵士を犬死にに追いやった軍部の拙策が雪がれるわけではない。その責任の追及がなされなければ、戦争について考える意味がないといってもいい。

 為政者であれ私企業の経営者であれ、マネジメントをする立場の者は、周囲の状況はどうあれ結果責任からは逃れられない。その責任の所在を問わずして、戦争責任の有無の問題は語り得ない。この点について我が国はずっとなおざりにしてきたから、「戦争責任」の問題が曖昧なまま未だに片づかないのである。みんな早く片づけたいと思わないのだろうか。

 外面について気にするのは、身内の恥を認めてからだ。

(07/4/23記)

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