高橋和巳:さわやかな朝がゆの味 (河出文庫)
★★★

 短い評論とエッセーを集めた一冊である。ソフトなタイトルが付いているが、メインは「失明の階層」や「孤立無援の思想」といったハードな評論である。

 高橋は全共闘世代に絶大な人気を誇ったが、欺瞞に満ちた「戦後民主主義」の打破を目指した彼らが、高橋が指し示した、階級闘争の礎としてのイデオロギーに与せぬ文学の意義に共鳴したのは当然と言えよう。

 高橋は政治と文学をこう対比する。

 「うちに省みて恥ずるところなければ、百万人といえども我ゆかん」という有名な言葉が孟子にあるけれども、百万人が前に向かって歩きはじめているときにも、なおたった一人の者が顔を覆って泣くという状態もまた起りうる。最大多数の最大幸福を意志する政治は当然そうした脱落者を見すててゆく。(中略)文学者は百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである。
(「孤立無援の思想」より抜粋)

 大衆は政治の埒外におり、彼らを階級的に解放しうるのは文学的思惟であることを明らかにする。個々人の苦悩こそが情勢論に流されず、自らの位置を固定しうるものであり、そこから新たな世界を切り拓くための思想的可能性が生まれうるのである。

 大衆は日常性に埋没した存在であり、何らの一貫性をももたない。高橋はその点にある種の峻厳な自己否定性を見出し、そこにこそ革命へのエネルギーの源泉があることを示唆する。高橋はこの自己否定を余儀なくされている階層を「失明の階層」と名付けている。この失明状態は、現代においてますます深刻になっているものと思われる。それ故にこそ、高橋の提示した視座は今なお優れた現在性を保っている。

 少し長くなるが本文を引用してみる。

 中間階層が単に中間階層であること自体にはなんの意味もない。庶民自身、自分が庶民であるといわれることに何の意味もみとめていないように─。その現状を無条件に肯定することは、誤謬であるよりもむしろ侮辱である。それゆえに、緻密に考察することなく何ものかになろうとあせるのも、この階層のおちいりがちな欠点であるけれども、あせるあまりに思弁を放棄するのでないかぎり、いま中間層がおちいっている状態には、哲学的な意味がある。指導者をもたないゆえに、やみくもに英雄主義にあこがれるのでないかぎり、指導者をもっていないことはむしろ有利な条件である。無規定な憂愁とばか騒ぎに自己喪失してしまうのでなければ、たとえ迫られたものにもせよ、この階層がもっている自己否定性は思いがけない思想をうみだす一つの可能性たりうる。
(「失明の階層」より抜粋)

 ここで見過ごしてはならないのは高橋の条件付けであり、現代の大衆はこの条件にほぼぴたりと当てはまっているのである。しかし、何も見えておらぬことを自覚し、自らが否定されるべき存在であることを認めるには、相応の覚悟が必要である。70年代の敗北以降、我々はこの覚悟を放棄してしまった。

 高橋が宣言する覚悟は、熾烈である。同様の覚悟を持つことは我々大衆には少々しんどい。しかし、その意を汲むことは、一筋の光を見出すためには必要なことだと思われる。

 天国はなくていい。地獄もまた虚妄に過ぎない。地獄の門前にいて、その門より拒まれてあること、それは地獄でも天国でもない場所に人間の世界を作るための絶好の条件であろう。
(「失明の階層」)

 これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。
(「孤立無援の思想」)

 かつてマルクスは「人間は人間にとって解決可能なことのみを設問する」といった。しかし、われわれはむしろこう言いなおさなければならぬ。「およそ人間の為し、人間にとって解決されえないものはない」と。
(「葛藤的人間の哲学」)

 後半のエッセイは私的な思索が主であるが、戦前世代でも戦後世代でもない、昭和一桁のいわゆる戦中世代の依って立つ場所をよく知ることができる。彼我の差は如何ともしがたいわけだが、その差違を生じさせたものは何なのか、そこに我々が光を奪われた所以が潜んでいるに違いないのである。

(07/7/21記)

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