朝比奈隆畢生の名演、ブルックナー8番

 ブルックナーの8番は大変な名曲だと思うが、ディスクを聴くことはあまりない。名盤と言われている、クナッパーツブッシュやヴァント、そして朝比奈のCDも持っているが、そのどれもが、実際に舞台で接した朝比奈が都響を振った実演を思い返すとすっかり霞んでしまうからだ。

 とにかく、朝比奈が都響に客演した際の演奏は、神懸かり的な名演だった。

 正確な年月は憶えていないのだが、その日の公演はクラシックにしては珍しい特別の追加公演で、チケットを手に入れるため始発で東京文化会館に出向き、並んで手に入れたものだった。始発で出かけたにもかかわらず、すでに行列ができていた。

 ブルックナーを実演で聴くのは確かそのときが初めてだったと思うが、充実した響きに第一音から魅了された。力こぶを作っているわけではないが、魂に響く力強い音がホールに満ちる。第一楽章終結部の、神の鉄槌のごとき金管の強奏とティンパニのトレモロには全身が粟立った。

 全曲の白眉は第3楽章だった。それまでブルックナーの緩徐楽章はダラダラと長いだけで感銘に欠けると思っていた。それが如何に浅はかな捉え方であったかをこの朝比奈の演奏で思い知らされた。

 どこまでも暖かく豊かな弦楽器を中心とした響きが、衒いのない信仰と人生への肯定を歌い上げる。曲はゆったりとした歩みで盛り上がっていき、その頂点、金管のフォルテッシモが輝かしいクライマックスは、本当に7人の大天使が吹き鳴らすラッパの音に聞こえた。その直後のハープの美しさも無類だった。

 涙があふれて止まらなかった。泣けた、というのとは違う。高まる感動が涙という形で昇華したという感じで、こんな体験は後にも先にもこれ一度である。暖かい感情で身体が一杯になるのを感じ、とても幸せな気持ちになれた。生まれて初めて、終わって欲しくない、いつまでもこの音楽を聴いていたいと思った。

 フィナーレも圧倒的だった。決然とした歩みの冒頭から頑として揺るがない。質実剛健そのもので、老いなど全く感じさせない、それでいて力ずくの強引さも全くない。終結部の迫力は無類で、まさしく天に向かって音が飛翔して行くがごとくであった。最後の音が消えていったあとも、しばらく虚脱して動けなかった。

 終演後の聴衆の熱狂も凄まじかった。いつまでも拍手が鳴りやまない。オケが袖に下がったあとも止むことはなく、何度も朝比奈は一人で客席の歓声に答えていた。

 これは僕が今まで聴いてきた中で最高の音楽である(ヴァントの来日公演よりも素晴らしかった)。これ以上の音楽に出逢える機会に恵まれるかどうかは疑わしい。恐らく生涯変わらないであろう、最高の耳の宝である。

(07/5/12記)

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