本田透:萌える男 (ちくま新書)

 何か本を読んでこれほど腹を立てた経験は他にない。あまりに腹を立てたので、「ネタにマジレスカコワルイ」を承知で反論を書いて、これをくれた当の友人に送り付けた。友人は「あたしよく読んでないから、そんなこと書いてあったんだって思った」というありがたい感想をくれたが。

 少々長いのだが、新たに簡潔なレビューを書く気にもならないので、そのままコピペさせてもらう。

 友人から、「痛すぎてとても読むに耐えないからあげる」という大変ありがたい頂戴のしかたをし、ここに取り上げる本書を読んだ。そして読みながら悶絶した。

 こんなに頭の悪い本は初めて読んだ、というのが正直な感想である。この本をくれた当の本人から、文中でさんざん叩かれている酒井順子がある対談で本書を指して「あれはネタだから」と一蹴しているという話を聞き、それならばむしろもっけの幸いだと思ったものだ。真面目に受け取られれば、「だからテメエらはダメなんだよ」と言われるだけの代物だからだ。

 とにかく本書の事実誤認や作者の不勉強ぶりは、ネタですまされる限度を超えている。何よりこんなばかげた本がちくま新書から出版されたことが信じられない。講談社現代新書なんかと違って、編集者にこういうジャンルに明るい人がいないせいなのだろうか。脱稿されたものを見て恐らく編集者氏は困ったのだろう、表紙カバーの折り返しにつけられた煽り文句がこの本自体を小馬鹿にしているように思えてならない。

 ともあれ悶絶させられて終わりでは癪なので、非生産的なのは百も承知の上で、本書のばかばかしい点について一つ一つケチをつけたいと思う。ネタにせよ何にせよ、こんな本が公刊されてしまうこと自体に腹が立つ。そういう精神状態なので、所々話が脱線してもしかしたら口汚い言葉が出てきてしまうかもしれないが、ご容赦願いたい。

 さて、本書の最大の誤りは、敵の所在を見誤っている点であろう。筆者は恋愛資本主義はいかんと言う(文中で語られる資本主義についての認識がまた稚拙で笑えてしまうのだが、それはここでは措いておこう)。その点については私もそう思う。しかし、筆者の怒りの矛先はいわゆる「負け犬」女性に向かってしまう。確かに、彼女たちの言っていることは完全に資本主義的、正確に言えば消費至上主義的な価値観に毒されているが、忘れてはいけないことは彼女たちは「負け」犬なのだ。何に負けているのかと言えば、他ならぬ消費至上主義そのものにである。なぜなら、消費されていないからだ。

 消費されるべき商品として陳列されているという状態において、オタクも負け犬もホストも皆同列であるにもかかわらず、筆者の関心は端的に自分を批判する相手にしか向かない。本来は彼女たちをも自分たちと同じ被害者であると認識しつつ、全てを相対化してしまう今の社会のシステム自体を批判すべきなのだ。オタクが負け犬に反論をするというネタとしてこの本が発想されたのであれば、こういった論旨もむべなるかなではあるが、オタクの底の浅さを露呈し、新たな批判を呼ぶ火種になるだけである。まあ、この筆者程度の認識では、資本主義社会をトータルに批判するなど望むべくもなかろうが。

 そこまで事を大きくしないまでも、己を進んで商品として陳列せざるを得ない女性の立場に対する無理解は、これではオタクが女性から侮蔑の対象として見なされるのもやむを得ないと思うほど甚だしい。文中で筆者は「ヤラはた」(処女のまま成人を迎えること)という言葉を取り上げて、「処女喪失=女という商品として消費されること」に駆り立てられる少女に対して、そういった発想は商売としては正しいなどという言葉を投げつける。肉体が商品でなどあるものか。健康な肉体を自ら陳列し、消費されるために愛してもいない男の前に足を開いて身体を傷つける少女のほうが、小汚い身なりのために女性に相手にされないオタクなどよりよほど深刻だ。もしそういった少女に相手にされないことを根に持っているならば、それこそ逆恨みというものだ。商品である以上、彼女たちだって少しでも高く自分を売りたいに決まっている。いずれにせよ、そういった女性を擁護せずして何が「萌える男は正しい」か。

 筆者が全てを了解した上で、ネタとしてあえてこの本を物したのであれば、それはそれでいい(その可能性は限りなくゼロに近いと思うが)。しかし、もし文中に書かれている通り消費至上主義社会の中で商品と「ならざるを得ない」女性たちを、進んで商品に身をやつしていると思っているのならばその誤謬は致命的だ。私は残念ながら後者だと思う。「ヤラはた」という言葉に対する筆者の反応は、何気ないからこそ本音の暴露と思えてならないのだ。

 もう一つ筆者の認識不足が露呈している記述がある。「負け犬」女性に比べて結婚して子育てをしている女性は寛容だと言って無邪気に感心している。当たり前だ。商品として消費され得た「勝ち組」女性にとっては、「負け犬」にすら相手にされないオタクなど、憐憫の対象でしかない。

 一つだけ感心した点もある。「電車男」の市場化に対する認識がそれで、私の友人たちはこの話が2チャンネルでリアルタイムに進行している頃から読んでおり、面白いからと薦められたのだが、話を聞くだに得も言われぬ嫌悪感を覚え、いかなる形でもこの作品に触れたことはないのだが、本書を読んでその違和感の正体がやっと分かった。オタクの姿が商品化のためにいびつに戯画化される、そのことが同じオタクとして耐えられなかったのだ。今ひとつ釈然としなかったことに溜飲を下げられ、そのことについては感謝せねばなるまい。



 ここまでが第一章の話だが、ここまでは私は筆者の差別的とも言っていい不認識ぶりに大いに腹を立てながら読んでいた。しかし、二章以降は話がどんどん頓珍漢な方向に滑っていき、失笑を禁じ得なくなっていった。

 のっけから可笑しい。恋愛や恋愛結婚は舶来の概念だと言うが、結婚はそうだとしても恋愛そのものは果たしてそうか。紫式部の立場はどうなるのであろう。百人一首に採られた恋の歌を見てみるといい。優れて現代的な恋愛感情が歌われていると思うのだが、いかがなものか。

 産業革命以降恋愛結婚が大衆に普及したというが、その論拠はいったいどこにあるのか。そもそも話が中世から一気に産業革命に飛んでしまうが、ルネサンスや宗教改革が及ぼした影響というのは皆無だったのだろうか。

 キリスト教によって自我同一性が与えられていたといい、ある意味それは正しいのだが、自我の支えになってきたのは神という「存在」ではなく、「信仰」という心的機制である。信仰は聖書や教会を拠り所にしたものであって、神はスタンドアローンではあり得ない。大体教科書的な知識を以てしても、信仰は「神」「キリスト」「聖霊」の三者に対するものであって、どこからそういう発想が生まれたのか不思議でならない(三位一体という言葉は小泉首相の発明ではない)。

 産業革命以降神の存在が疑わしくなるのは結構だが、「神の存在を形而上学的に証明するためのシステムであった哲学」とはどういうことか。どこの哲学者が神の存在を証明しようとしたのだろうか。筆者は神学という言葉をご存じないのだろうか。

 確かに近代的自我が信仰によって規定され得なかったのは事実だが、信仰の代替物が恋愛結婚だったとはどこから出てきた話なのだろう。結婚は聖書に厳しく規定された制度であり、それは近代以降も変わりはない。特にカトリック教国においてそれは顕著だ。例えば、イタリアで法的に離婚が認められたのは1970年の話である。そもそも、聖書に一度でも目を通し、キリスト教における結婚の意義を知れば、そういう発想は出てこないだろう。己の浅薄なイメージだけでキリスト教について語るのは不勉強を通り越して不真面目であり、己の愚昧さを露呈するばかりでなく真摯な信仰に対して失礼だ。

 大体恋愛というきわめてパーソナルな人間関係が、どうして社会全体を支えうるシステムとして敷衍されてしまうのかが分からない。百歩譲って独立した個体としての人間を見た場合、確かにお互いの価値を認め合うパートナーを得るという意味で、恋愛というのは重要な役割を持つかもしれない。しかし、人間は独立した個体ではあり得ず、社会の成員としての自己を成立させなければならない。そのために近代以降我々にとって必要になったのが「アイデンティティー」である。このことが筆者の論からはすっぱり抜け落ちている。

 恐らくそれはただ単に近代以降の思想についてよく分かっていないからなのだろう。だから、資本主義社会を金が絶対的な価値を持った社会と言ったりするのだ。資本主義社会とはあらゆる価値が相対化された社会のことであり、貨幣はその価値を計るための手段でしかない。資本主義において、絶対的な価値など存在しない。そして、マルクスは資本主義のそうした仕組みを初めて明らかにした思想家である。ここでも単なるイメージから来る拙い論説が跋扈する。

 現実世界では美男美女でなければ恋愛はできず、となれば大多数の人間は理想的な恋愛などできないという。それでは最初から恋愛は信仰に替わるシステムとして機能していないではないか。ここでは論理が完全に破綻している。神に替わって、男女がお互いにお互いを絶対化するシステムが採用されたと言っておきながら、一方でそんなことは出来る訳がないと言う。ほんの数ページの間で自己矛盾を起こしてどうするというのだろう。

 話が日本社会に戻っても、筆者はおかしな事ばかり言い続ける。女性が自立して男性と同じような消費能力を持ち、その結果恋愛が商品化されたと言うが、それは違う。そもそも恋愛の商品化という概念に固着してしまうから視野が狭窄するのだ。恋愛以前に男女のジェンダーの商品化について考えなければ、ジェンダーとジェンダーの結びつきである恋愛について正しく理解することは出来ない。ジェンダーの商品化は、敗戦後止めどなく流入したアメリカ文化に依るところが大きい。この点については中島梓の『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)などに詳しい。

 恋愛が70年代には「金も未来もない若者のカウンターカルチャーの終着駅」という言い方もおかしい。渋谷に109ができ、「アンアン」や「ノンノ」が創刊されたのは72年のことである。和製ポップス最初のヒット曲とも言えるチューリップの「心の旅」は73年の曲だ。70年代にはとっくに恋愛は商品化している。少なくともカジュアル化している。

 70年代初頭の学園紛争の瓦解についての認識も誤っている。学園紛争の敗北が共同幻想の崩壊をもたらしたという点はその通りだが、その結果日本人は絶対的な価値を抱き得ず、各々が相対化された価値を個別に消費する主体となったのである。恋愛は確かに個別化された関係だが、みんなが恋愛至上主義的価値観を共有したのであれば、それは新たな共同幻想に他ならない。

 そもそも、全き恋愛至上主義はあり得ないと言っておきながら、それが共同幻想として機能しうるという自己矛盾した論理はいかがなものか。不完全なまま共同幻想化したからいびつな社会現象として現出しているのだという論理なら話は分かるが、そうはなっていない。

 続いて出てくる恋愛の独占なるトピックになるともはや噴飯物である。風俗嬢が資本家よろしく男から金を搾取しているというのはどこから来た発想だろうか。私が知る限り、風俗嬢にしても生活の糧を得るためにそういう職業を選んでいる女性にすぎない。一般企業のOLと一緒で、至って真面目に働いている女性である。私はその点においていわゆる風俗産業に従事している女性を偏見を持って見るべきではないと思っている。その女性からモテる男がさらに搾取している構造に至ってはもはや憫笑を禁じ得ない。美少年をペットとして飼うなんて、そりゃマンガの読み過ぎってもんである。イケメンであれば確かにたくさんの女性とエッチする機会には恵まれるだろうが、イケメン総ホストなわけはなし、金までは集まりはしないだろう。それともイケメンはみんなヒモかホストだとでも本当に思ってるのだろうか。

 おかだシステムにも笑ってしまう。別に岡田に言われるまでもなく、私自身そういう人間関係の取り方を選択している。それは提言ではなくあくまで現状分析であり、あたかも自分が考え出したように言うのはおこがましいにもほどがある。

 純愛ブームについても一向に的を射ず、このブームの主な担い手が本来なら勝ち組であるはずの40代以降の主婦であるという事実を全く分析できておらず、素通りするばかりである。ここに至って、全ての女性を敵として認識してしまった感がある。

 さて、いよいよ萌えについて本格的な言及が始まるわけだが、これがまた多岐にわたる笑いを提供してくれる。萌え系オタクは少女趣味の持ち主というが、もし本気で言っているのだとしたら相当に危ない人だ。動物のぬいぐるみはともかく、女の子は少女マンガに出てくる女の子のイラストやフィギュアを集めたりしない。リカちゃん人形などのことを念頭に置いて、それとフィギュア集めを同列においているのなら、それは大いなる誤解だ。少女の人形遊びは、人形に自分を仮託しておしゃれや家族ごっこを楽しんでいるのである(最近で言えば、『ラブ&ベリー』なんかが同じような物か)。別に己の性欲のはけ口としてのキャラクターの姿をより強固に己の中に固着するためではない。

 そう、そもそもここから始まる筆者のくだくだしい論など、「じゃあコミケに氾濫しているおびただしいエロ同人誌についてはどう解釈するんだ」と言ってしまえば全て終わってしまうのである。コミケについて一言も言及していないと言うことは、つまり言及したが最後負け犬女性の言い分を認めなければならなくなることの証左に他ならないのである。

 萌えの理想型はロマンチックラブだという。それはそうだろう。相手は物言わぬ架空のキャラクターである。誰かを拒絶することはないが、誰かの価値を積極的に認めることもない。あるとすれば、受け手が自分はこのキャラクターに受け入れられたと信じることだけである。キャラクターから自分に向けられているように見える矢は、実は自分からキャラクターに向けた物の反射物でしかない。つまりその実態は形を変えた自己愛であり、自分で自分を絶対化しているにすぎないのだ。

 もし萌えを正当化したいのであれば、まず萌えが自己愛の産物であることを認めるところから始めなければならない。誰からも認められないから、架空のキャラクターに仮託して自分で自分を愛してやらなければならない現状を批判しなければならない。ナルシシズムに浸っていることを公言してどんなもんだいと言っているようでは、いつまで経ってもオタクは日陰者だ。

 批判に対する反論も空虚を極める。文中萌えるオタクは動物化されているわけではないという記述が出てくる。あえて動物化と言うあたり東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を念頭に置いていると思われるが、筆者はこの本の内容がよく理解できなかったらしく、全く有効な反論が出来ていない。それどころか、自ら東の理論を証明する結果となっている。萌えるオタクはキャラクターの選択が可能で、自ら設定やストーリーを補完する自由を持っていると言うが、それこそが東の言う動物化なのである。東の著書についてここで解説することはしないが、平明で大変示唆に富む本なので一読をお薦めしたい。



 第三章は萌えゲーを取り上げていろいろその効能について述べているが、要は萌え的恋愛が自己愛の産物であることを証明しているにすぎない。そもそも、最初の段落についたタイトルが「レゾンデートルの再発見から、レゾンデートルの自己生産へ」である。レゾンデートルの自己生産とはすなわち究極の自己愛である。恐らくこのタイトルは編集者が付けたものだろうが、彼は的確にこの論の本質を見抜いていることになる。

 一つ一つにケチをつけていると長くなるので、一つだけ大きな誤謬を正しておきたい。図表を用いてトラウマの意識化作用という解説をしているが、これが大きな間違いである。そもそもこれは岸田の説ではなくて岸田によるフロイトの説の解説であり、おそらくはフロイトが難しくて読めなかったのであろう筆者に憐憫の情を感じる。もっとも『精神分析入門』や『続精神分析入門』などは、一般聴衆に向けた講義録であり、大変読みやすくわかりやすいのだが。

 さて、この図表の中で筆者は「エス(潜在意識)」とし、その中に抑圧されたトラウマが包摂される形で図示しているが、それは違う。フロイトの立場では、人間の精神は「無意識」「自我」「超自我(エス)」から成り、超自我によって抑圧された記憶は無意識に押し込められる。フロイトの立場による精神分析とは、超自我による検閲の力を弱め、無意識から抑圧記憶を自我のレベルに引き上げることによって意識化し、症候を無力化するというものである。これは本書全体に言えることだが、筆者はいろいろな知識を不十分な理解のまま開陳しているが、それは恥ずべきことだという認識を持った方がよいと思われる。

 萌えゲーの効能については、筆者のくだくだしい解説を待つまでもなく、サカキバラ・ゴウが『〈美少女〉の現代史』(講談社現代新書)の中で端的に述べているので、それを引いてみたいと思う。

  (略)目の前のキャラクターに対して、私が態度を決定したという責任は、「わたし」 という主体的な存在を自覚させてくれます。「わたし」という主体がそこにおいて出現 し、そのような「わたし」のリアリティを成立させてくれるような「あなた」として、 そのキャラクターはそこで輝きはじめ、リアリティを持ち、私は「萌える」のです。気 がついたときには、目の前の画面のつまらない絵のキャラクターは、単なる薄っぺらい 「もの」ではなく、唯一無二の「誰か」に変貌しており、「顔」をこちらに向けて私を 見つめている、というわけです。
  ここにあるのは責任という娯楽です。責任を引き受けることで、空虚な私に「主体」 というリアリティを体験させてくれる「あなた」という装置が、美少女ゲームです。

本質をずばり突いた指摘であり、これ以上何も付け加えるべきことはない。



 第四章辺りまで来ると、よくぞここまでという涙ぐましい努力に変わり、感心の念を禁じ得なくなってくるが、その中身自体は相変わらずばかばかしい。

 メイド萌えを指して恋愛関係以外の男女関係の構築と言っているが、これは何のことはない。自分だけを愛してくれるという設定を本来なら自分に関わりのないキャラクターに合理化させるのが面倒くさくなったので、そもそも自分にご奉仕するための存在という設定をキャラクターに最初からくっつけてしまっただけの話だ。妹萌えやらロボット萌えとて同じことである。アニメやゲームのキャラに萌える場合は、そのキャラに愛されていると信じるにはある程度の知的操作が必要だろうが、メイドさんや妹が相手なら何もせずとも愛されて当然と言うことになる。ただ安直になっただけだ。

 こんな都合よく女の子に愛されたいという欲求が思考実験などであってたまるものか。このアイディアが現実化されたらオタクたちは、いや男たちはさぞ生きやすかろう。女性が自分に都合のいい存在であって欲しいという欲求は、筆者の言う鬼畜化した非萌え男と何ら変わりはない。

 「全ての人間がマルチのような優しいメイドロボを所持することができれば、世界から争いはなくなる」。これは思想か?現実から目を背け、ただ他者に都合よく自分を受け入れて欲しいと望む。それが思想か?

 あえて思想と呼ぶのなら、それは旧態依然とした男根主義に他ならない。女性は男を受け入れる、黙ってペニスを挿入されるのを待つべき存在であるという恐るべき固定観念。

 萌えコンテンツから男性性が慎重に排除されているのも、ご都合主義によるものである。自分以外の男性の存在は異物でしかない。萌えゲーのエッチ描写では、少女はただ身体を開いているだけであり、挿入されるペニスなどは描かれない。挿入されるべきは自分のペニスであり、他者のペニスではないからだ。萌えは男性性からの解脱だなどと適当なことを言っているが、シスプリやマリみてのエロ同人誌をどう解釈するのか。

 萌えコンテンツでは女性上位などと言っているが、これも体のいい詭弁だ。女性から告白される自分、魅力のある自分をナルシスティックに確認したいだけだ。

 萌えが現実逃避だとは思わない。現代社会における適応の一形態であるし、それによってオタクの自我が安定を得ているのは確かなわけで、その価値を否定するわけではない。しかし忘れてはならないのは、萌えているオタクたちもジェンダーの価値化に一役買っており、その即物性においては現実世界に適応している男たちにも勝るという点である。それは当たり前のことであって、現実の女性はそう簡単に男の言うことを聞いてはくれないが、二次元の女性はどんな欲求でも満たしてくれる。そのことをどんなに正当化しても、それこそ現実逃避にしか受け取られないだろう。



 第五章以降についても結局は同じことの繰り返しになってしまうのだが、重要と思われる点については言及していくことにしよう。

 金儲けのために参入してくる企業に、上っ面だけを模倣した製品で市場を埋め尽くされないようにするのが本書を執筆した目的だと言うが、では萌えの本質を汲み取った商品というのはどういうものか。筆者の主張によれば、萌えとは商品化とは縁のない思想なのだから、そもそもそれ自体があり得ない矛盾した存在ではなかろうか。つまるところ、ただ可愛いだけではない、自己愛の肥やしになるような素敵なキャラクターを供給し続けて欲しいという願望ではないか。

 筆者は家族だとかいろいろな概念を持ちだして、萌えには社会的機能があると、つまり方法は一風変わっていても世のイケメンと同じく現実世界にちゃんと適応していると力説する。しかし、萌えはあくまでも自己愛の産物であり、絶対に外へは向かっていかず、メビウスの輪のようにぐるぐると堂々巡りするだけである。外に出て行かない愛情は、自分と一緒にやがては滅んでしまうものである。ここにオタクのタナトス的存在としての特徴がある。筆者は自ら言っている。萌えは誰も傷つけない、と。誰も傷つけないと言うことは、等しく誰にも価値を認めないと言うことだ。

 もう少し後のところで、萌えが広く社会に敷衍したらどうなるかと言うことが述べられているが、どうもしない。ただゆっくりと社会が滅びるだけである。筆者の言う純愛、つまり無条件に自分が他者に受け入れられるような関係性を現実の他者と結ぶことなど不可能である。それが出来ないから萌えている男は脳内恋愛をしているわけで、筆者の論はここでも転倒している。

 そもそもあくまで閉じた世界である萌えをどうやって敷衍しようというのか。自己愛の世界なんだから、どんな手段を使ったって他者と共有されるはずもない。あるのは、ある共通の萌え要素を通じたコミュニケーションしかない。

 後半になると何を言っているのかすら分からなくなる。家族萌えとは何か。子が父に萌えるとはどういうことか。意味が分からない。「義兄妹システム」とは何か。要は妹は兄を慕うものだという身勝手な思いこみに基づいた人間関係ではないか。そんな都合よくゲームみたいに女性が男性に従属すれば世話はない。そんなことを言っているから、現実と虚構の区別がつかないとか言われるのである。

 最後に述べられる現実と萌えとを区別して上手く使い分けるという方法論についてだけは、きわめて真っ当な話だと思う。そもそも私だってそうやって生きているし、この点については女性のほうが巧みで、杉浦由美子の『オタク女子研究 腐女子思想体系』(原書房)に詳しい。世のオタク男性もこういう生き方を選ぶといいのにとつくづく思ってしまう。



 最終章については一つだけ述べておこう。確かにオタクに対して紋切り型の批判をしたところでそれはあまり意味のない行為だ。一元論、つまり「〜でなければならぬ」という価値観は排除の論理しか生まない。必要なのは複眼的な視点、すなわち「〜でもある」という価値観である。人間は、ホストでもある、負け犬でもある、萌えるオタクでもある、腐女子でもある。そうした価値観を認めなければ、消費至上主義を超克することはできない。

 筆者が最後まで固執する通り、萌えは正しいとか社会を刷新するだとかそういうことを言っている間は、泥仕合から抜け出せないのである。ネタとして意図されたものかは分からないが、とにかく萌えるオタクの正当性を訴えたい筆者の立場は理解できる。しかし、少数派が同じ土台から、己を取り込みあるいはなぎ倒そうとするメインストリームに対して反駁を加えても、無力化されてしまうだけである。正しい、という概念の軛から抜け出すことが新たな地平への第一歩である。

 コミケに氾濫している男性向け同人誌を見ても、やはりオタクの性癖を正常だと強弁することには無理があると言わざるを得ない。ここでオタクの存在意義を確かなものにするために必要なのは、異常に見えて実は正常の一形態なんですよという詭弁ではなく、なぜ異常ではいけないのかという問いである。

 私も職場ではオタクとは何ら関係のないふりをせねばならぬ身として、オタクが色眼鏡抜きで市民権を得られればと切に願っている。そうであればこそ、こうした間違った方向に傾いている書物を見ると悲しくなってしまう。

 東浩紀にせよ斎藤環にせよ、オタクに親和性を持っているが故に優れた論を物しているが、やんぬるかな彼らはオタクではないし、その論もあくまで学術的なものである。オタクによるオタクのための優れたオタク論が出てこないものか、切に願うばかりだ。

 ……くだらなさを嘲笑う文章を書くつもりだったのだが、図らずも至極真面目っぽい話になってしまった。こんな本は誰からも相手にされないのだろうが、また一つ男のオタクの価値が下がったなあと改めてしみじみと悲しい気分になる。

(06/7/18記)

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