吉野キリストの教会
Yoshino Church of Christ
〒892-0872
鹿児島市大明丘3-15-7
TEL 099-243-8012
                     
  
ホーム


教会のご紹介

私たちの教会の立場

教職者紹介
案内地図

           

集会のご案内

定期集会
諸活動
ゴスペルフラ



最近の礼拝説教

  
外部との交わり
他教会との交わ

最近の礼拝説教

2025年4月27日     「健康な教会とは」    マクセイ師     使徒の働き2章42~47節

今年、吉野教会は創立50年です。完全な教会は存在しませんが、健康な教会は存在します。集うクリスチャンが不完全だからです。吉野教会が健康な教会で
あって欲しいと思います。今日の聖書箇所に、それを可能にするヒントを見ることができます。
1.神の言葉を第一にします。
42節「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り」
  彼らとは誕生したばかりのエルサレムの教会の兄弟姉妹たちです。彼らは不思議としるしを行う使徒たちが語る神の言葉を熱心に聞き、固く守りました。
  これは現代の私たちに次のことを教えます。
  1)神の言葉を教会の上に位置づけなければなりません。
  2)クリスチャンとして、証しするために、そして、偽教師、異端から守るために、一人一人が神の言葉を蓄えなければなりません。
  3)神の言葉に重点を置かなければなりません。
  健康な教会の働きのベースは神の御言葉です。私たちは神の御言葉を求め続ける者でなければなりません。
2.交わりを大事にします。
  42節「交わりを持ち」
  交わりと訳されている原語には二つの意味があります。
  1)共有する
    キリスト信仰を共有するということです。違いがあっても良いのです。違いを乗り越えて、私たちを繋ぐのはキリスト信仰です。
  2)共に分かち合う
     45~46節に、エルサレム教会の共に分かち合う様子を見ることができます。共に分かち合うということは必要に応じて、自分の財産を売って、
    必要としている人に分配したということであり、共同生活をしていたということではありません。兄弟愛を示すことは健康な教会の証しです。
3.礼拝を大事にします。
  42節「パンを裂き、祈りをしていた。」
  彼らは週の初めの日(日曜日)に礼拝を守りました。
  1)宮(神殿)と家々で礼拝しました。(42節)
  2)喜びながら礼拝しました。
    46節「喜びと真心をもって食事をともにし」
    礼拝は喜びを表す時です。
  3)真心をもって礼拝しました。
    46節「真心をもって」
    常に、神がご臨在くださっているという思いをもって礼拝したということです。
  祈りは教会だけで行うものではありません。神の導き、力を求めながら、月曜日から土曜日まで、祈り続けることが求められます。
4.伝道に励みます。
  1)伝道の背景にはキリストがいなくてはなりません。
    伝道する時、又、伝道を計画する時、常に、神の力を求めなければなりません。自分でできることではありません。当時も今も、同じです。そのために、
    祈りが不可欠です。
  2)毎日です。
    46節、47節「毎日」 時々ではなく、毎日です。
  大事なことは継続することです。そして、個人的にも忍耐強く行うことです。そのためには下準備が必要です。
教会は地上におけるキリストの体です。私たちはその体の器官です。ですから、吉野教会が健康な教会になるためには、私たち一人一人が神の言葉を第一にする
者、交わりを、礼拝を大事にする者でなければなりません。伝道に励む者でなければなりません。ローマ人への手紙12章5節「大勢いる私たちも、キリストに
あって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」




2025年4月20日   「キリストの復活後の言葉」     マクセイ師     ヨハネの福音書20章1~21、24~28節

今日、私たちはキリストが蘇られたという真理を祝うために集まりました。ヨハネは20章にキリストの復活の歴史的証拠を三つ挙げています。
1.キリストの墓が空になっていました。(1~9節)
  日曜日の早朝、マリアが墓に行くと、遺体がありませんでした。うろたえた彼女はペテロとヨハネに告げました。二人は墓に走って行き、目で確認しました。
2.亜麻布がありました。〈5~7節〉
  7節「イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」
  キリストの遺体が盗まれたとするならば、このように整理整頓した形で、亜麻布を残すでしょうか。
3.キリストの復活後の現れです。
  ヨハネの福音書20~21章にキリストの現れが四つ記されています。その内の三つを見ていきます。
  1)マリアに現れました。(20章11~16節)
    当時、女性は蔑視されていました。キリストは意図的に一人の女性をご自分の復活の証人にしたと思われます。
    イ.マリアに最初の言葉をかけました。(20章15節)
      「なぜ泣いているのですか。」
      深い悲しみの涙だったと思います。キリストは私たちを慰め、支えてくださいます。最終的には、完全に涙をぬぐい取ってくださることを約束して
      います。
    ロ.マリアを名前で呼びかけました。〈20章16節〉
      名前で呼ぶということはその人を知っているということです。
    ハ.兄弟たちに伝えなさいと言われました。〈20章17節〉
      「『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る。』と伝えなさい。」
      マリアにミッションを与えたのです。マリアはそれに応えました。同じことが私たちにも託されています。
  2)キリストの弟子たちに現れました。(20章19~23節)
    キリストは怯え、集まっている弟子たちに彼らが必要としている言葉をかけました。
    19節、21節「平安があなたがたにあるように。」、21節「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22節「聖霊を
    受けなさい。」
  3)トマスに現れました。(20章24~28節)
    キリストは疑い深いトマスに言いました。27節「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
    注目すべきは、キリストはトマスの不信仰を責めていないことです。最終的に、トマスはキリストのあわれみ深さ、忍耐深さを通して、信仰深い告白を
    します。28節「私の主、私の神よ。」29節はキリストから私たちへの言葉です。29節「見ないで信じる人は幸いです。」
    私たちは信じることによって恵まれます。神との平安、内なる平安という恵みです。希望という恵みです。死は終わりではありません。神との永遠の生活
    が待っています。特別な内在の力という恵みです。どんな試練にも耐えられる力が与えられます。クリスチャンとして、信仰に踏み止まり、証しし続ける
    ことができます。そして、生きる目的が与えられるという恵みがあります。キリストの復活後の言葉を思い起し、信仰者としての恵みを噛みしめて、感謝
    して歩んでいきたいと思います。





2025年4月13日    「受難の預言」    マクセイ師       イザヤ書53章1~12節

1.はじめに
  道中、田圃で風に揺れる水稲を見ると、昨年来の米価格の高騰を思い出します。私たちの主食である米の生産体制の再構築が待たれます。
2.イザヤ書から~受難の預言
  今年は3月5日から受難節、4月18日が十字架に架かられた日、20日がイースターです。
  イザヤ書はイエス様の十字架の700年以上も前に書かれた書ですが、イエス様が十字架にかかられた理由と結果が預言されています。三つのポイントで見て
  いきます。
  1)この預言を信じる人はいませんでした。   
    1節「だれが信じたか。」
    イザヤの預言、イエス様の説明を誰も信じませんでした。私たちもその時代に生きていたならば、同じ過ちを犯していたに違いありません。
  2)人々のイエス様像、対し方が明確に示されています。
    2~3節「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が
    顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」5節「彼は・・・刺され、・・・砕かれたのだ。」8節「彼は取り去られた。」
    しかし、そこには神様の御計画がありました。4節「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」5~6節「彼は私たちの背きの罪のために刺され、
    私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさま
    よい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。」8節「彼の時代の者で、だれが思ったことか。
    彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から断たれたのだと。」
  3)イエス様の十字架の死の意義や成果を明らかにしています。
    10~12節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることが
    でき、主のみこころは彼によって成し遂げられる。『彼は、自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識に
    よって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。それゆえ、わたしは多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを
    死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのためにとりなしをする。』」
3.新約の約束や預言も成就する
  イザヤ書は聖書の預言書の中でも最も偉大な書と言われています。又、旧約聖書の中で最も多く、新約聖書に引用され、そのメッセージは福音的であり、キリ
  ストの生涯が預言されていることから、5番目の福音書とも呼ばれています。更に、イザヤ書1~39章は旧約聖書39巻、40~66章は新約聖書27巻に
  対応しているとされています。イザヤ書の預言は新約の時代になってことごとく成就しています。この受難週の時、十字架と復活の預言が成就したことに感謝
  すると共に、新約聖書の再臨等の約束が順次実行されていくと信じ続けましょう。




2025年4月6日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅧ)―共におられる神―」   マクセイ師    イザヤ書41章10節

私たちは何かを恐れています。「あなたと共にいる」と約束して、恐れるなと励ましてくださる神について、三つの問いかけをして、神の実像に迫りたいと思います。
1.誰がこれを約束しているのでしょうか。
  10節「たじろぐな。わたしはあなたの神だから。」
  約束してくださるのは永遠の昔から存在する創造主、全知全能、遍在の神です。神に不可能はありません。
2.何をしてくださるのでしょうか。
  三つのことを約束しています。
  1)私たちを強めてくださいます。
    10節「わたしはあなたを強くする。」
    私たちは肉体的に、霊的に弱さを抱えています。神はその弱さを補ってくださいます。ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、
    私はどんなことでもできるのです。」
  2)私たちを助けてくださいます。
    10節「あなたを助ける。」
    助けるとは、私たちを見捨てない、目を離さないということです。そして、全てを益にしてくださいます。
  3)私たちを守ってくださいます。
    10節「わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
    私たちが何らかの戦いをしている時に、私たちの手を握って、危機を通過させてくださいます。
3.何時、してくださるのでしょうか。
  何時でもです。神は何時も私たちと共にいて、私たちを守り、助けてくださいます。具体的に掘り下げてみましょう。
  1)誘惑の時に、共にいてくださいます。
     神が私たちと共におられることは神を悲しませたくない、傷つけたくないというブレーキになります。
  2)必要がある時に、共にいてくださいます。
    へブル人への手紙13章5節「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを
    見捨てない』と言われたからです。」
  3)孤独の時に、共にいてくださいます。
    孤独に陥っても、神が見ておられ、共にいてくださることを忘れないようにしましょう。
  4)大きな責任を負っている時に、共にいてくださいます。
    神はモーセにエジプトにいるユダヤ民族を救い出しなさいと指示されました。モーセは辞退しましたが、神はモーセに言いました。「わたしが、あなたと
    ともにいる。」モーセは言い訳を止めて、ユダヤ民族を導き出しました。
  5)危険な時に、共にいてくださいます。
    コリントでの伝道に成果を上げたパウロはユダヤ教の教職者たちに命を狙われました。夜、神は幻で現れ、パウロに言いました。使徒の働き18章9~10
    節「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしはあなたと共にいるのだ。あなたに危害を加える者はいない。」
  6)死を迎える時に、共にいてくださいます。
    人が一番恐れるのは死です。私たちは神の家族ですから、死を恐れる必要はありません。神は共にいて、私たちを導いてくださいます。
    詩篇23編4節「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」
詩篇34編4節「私が主を求めると、主は答えすべての恐怖から 私を救い出してくださった。」
私たちを力づけ、守る神は私たちを恐れから救い出してくださいます。




2025年3月23日     「神に仕えている聖徒たち」    マクセイ師   ローマ人への手紙1章5~15節

ローマ人への手紙の4回目の学びです。パウロは使徒であり、私たちは聖徒です。使徒とはキリストの復活の証人であること、使徒としてのしるしをもっていること、キリストによって直接送り出された者であることです。聖徒とはどういう人でしょうか。今日の聖箇所に四つが提示されています。
1.証する人
  信仰が広がるために何が必要でしょうか。
  1)福音が語られなければなりません。
  2)生き方を通してキリストを証ししなければなりません。
  私たちはこれらを実践しているか、自問自答しましょう。
2.祈る人
  9~11節「私は絶えずあなたがたのことを思い、祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに
  行けるようにと願っています。」
  祈る人として、私たちが心得ておくべきことを挙げましょう。
  1)神の答えは直ぐ来るとは限りません。
    ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる
    ことを、私たちは知っています。」
    「神のみこころであれば」という祈りを大事にしましょう。
  2)神はパウロの期待通りに応えませんでした。
    ローマに行くまでの数年間、パウロはギリシャ、アジアで福音を伝えていました。そして、ローマ人への手紙を書きました。もし、彼が思い通りにローマ
    に行ったとしたら、福音書を書いていないかも知れません。神が祈り手に時ではないと応えるのは、他のことを求めている、又は、今いる所で頑張って
    欲しいと理解すべきです。
3.繋がりを大事にする人
  パウロは聖徒たちとの繋がりを大切にしていました。何故でしょうか。
  1)兄弟姉妹を霊的に強くしたいからです。
    パウロのローマの兄弟姉妹への最大の願いは福音を分かち合うことです。彼らに福音の核心である救いの確信を得て欲しいと願っています。
  2)彼らを励ましたいからです。
    パウロは伝道師として尊敬されながら、ローマの兄弟姉妹たちから励ましを受けたいと言っています。一方通行ではありません。励ますことにおいて大事
    なことは何でしょう。
    イ.動揺しないで、疑わないで、恐れないで、心配しないで、信仰に踏みとどまることです。
    ロ.愛と善行を促すことです。
    ハ.互いに注意を払いましょう。
      誰も無視しないということです。
    ニ.集まること止めないことです。
    ホ.実を結ぶことです。
4.自分の責任を自覚する人
  14~15節「私は、ギリシャ人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがた
  にも、是非福音を伝えたいのです。」
  全ての人が救いの対象です。何故でしょう。
  1)全ての人が罪人であるからです。
  2)神が全ての人の救いを望んでおられるからです。
  ピリピ人への手紙2章15~16節「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子ども
  となり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。」




2025年3月16日    「皆が行きたい所(パートⅡ)」   マクセイ師    ペテロの手紙第二3章10~12節、ヨハネの黙示録21章1~4節

前回、聖書の天には四つの意味があると申しました。
1.神の栄光と力と聖さに満ちた天
2.物理的な天
3.パラダイス
今日は残りの一つについて考えます。
4.第四の天
  未だ存在していません。四つの問いに答える形で実体に迫ります。
  1)何時、現れるのでしょうか。
    次の四つが時系列的に起こった後です。
    イ.キリストの再臨
    ロ.復活
      キリストに連れて来られた兄弟姉妹、生き残っている兄弟姉妹たちに新しい体が与えられます。
    ハ.携挙
      テサロニケ人への手紙第一4章17節「生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、      いつまでも主とともにいることになります。」
    二.最後の審判
      携挙によって、第三の天の神の御座の前に全ての者が集められます。そこで、最後の審判が行われます。これが第四の天の誕生の始まりです。
  2)如何にして、現れるのでしょうか。
    ペテロの手紙第二3章10節「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地に
    ある働きはなくなってしまいます。」
  3)如何にして、行くことができるのでしょうか。
    ヨハネの黙示録21章1~2節「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しい
    エルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天(第三の天)から降って来るのを見た。」
    天地のリフォームが完成した時、私たちは目に見えない第三の天から目に見える第四の天に神が用意したものに乗って降って来ます。
  4)如何なる所なのでしょうか。
    人間が罪を犯して呪われる以前の世界です。私たちはそこで次の祝福に与ります。
    イ.肉体的祝福
      イ)あらゆる危険が存在しません。
      ロ)不快感を与えるものもありません。
      ハ)暗闇がありません。
      二)死がありません。
      ホ)十分な食物、水があります。
    ロ.心理的祝福
      イ)ないものから来る心理的祝福
        ヨハネの黙示録21章4節「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、悲しみもない。
        以前のものが過ぎ去ったからである。」
       ロ)あるものから来る心理的祝福
        ㋑ 愛する者、兄弟姉妹との再会です。
        ㋺ 生きがいとなる仕事があリます。
      ハ)霊的な祝福
        ㋑ 罪、悪は全く存在しません。
          ヨハネの黙示録21章27節「すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、
          子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。」
        ㋺ 神がそこにおられます。
          同21章3節「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおら
          れる。」
        ㋩ 完全な義が存在します。
          ペテロの手紙第二3章13節「私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
確認しておきましょう。第四の天を受け継ぐ者は、イエス・キリストを通して、罪、裁き、神との断絶に対する勝利を得た者です(ローマ人への手紙8章37節)。
この勝利は自力で得ることはできません。キリストを通してのみ得ることができます。




2025年3月9日     「主は用いられる~国際女性デーに寄せて」     大坪 篤史 師     ルツ記14章11~22節

1.はじめに
  3月8日は「国際女性デー」です。1975年、国連総会で定められました。女性の地位向上や女性差別の撤廃をめざすべく、国際的に連帯し、統一行動を
  行う日です。

2.ルツの物語から
  紀元前12世紀頃のことです。ヨシュアが死に、イスラエルには全国民を統一する政治指導者不在で、国民を統治する機構もありませんでした。イスラエルの
  民は神に背いて、偶像礼拝や不道徳に陥っていました。神は士師を送り、政治的、軍
事的な指導者として用いていました。ルツ記はそんな時代の記録です。
  12部族の中のユダ族に属するエフラテ人であるエリメレク、妻のナオミ、二人の息子マフロンとキルヨンは飢饉から逃れるために、ベツレヘムから約100
  ㎞離れたモアブの地に移住し、開拓生活を始めました。しかし、エリメレクは労苦が重
なったのでしょう。間もなく亡くなり、結婚した息子たちも亡くなって
  しまいました。ナオミと二人の嫁オルパとルツの
女性3人が残されたのです。失意の中、ナオミは故郷に帰ることを決断します。そして、道中、二人の嫁に、
  自分の里に帰
って再婚するよう強く勧めます。オルパは従ったものの、ルツは拒否しました。二人は旅を続け、ベツレヘムに到着しました。ルツは食糧を得る
  ために、亡き夫エリメレク一族のボアズの畑で落穂拾いを
しました。当時、貧しい人や寄留者などには、収穫後の畑で、残された穀物を拾うことが許されて
  いました。富豪のボアズ
は人望が厚く、信仰深い人でした。ボアズは言いました。「あなたの夫が亡くなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それに
  あなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞い
ています。主があなたのしたことに報いて
  くださるように。」そして、ルツが十分な食糧を確保できるように計らいました。
それを聞いたナオミはルツの幸せを願い、ルツをボアズに嫁がせようと働き
  かけるのです。そして、「レビラート婚」制度
に従って、ボアズはルツを妻にしました。やがて、男子が産まれ、近所の女性たちによって、「オベデ(仕える
  者)」という
名前を付けられました。皆に祝福され、育てられたようです。又、孫を抱くことができたナオミは喜びに満ちあふれ、幸せな余生を歩んだと思わ
  れます。オベデはエッサイの父、エッサイはダビデの父となりました。ルツの子孫から
ダビデ王が生まれたのです。ダビデの子孫からは救い主イエスが生まれ
  ています。ルツとボアズはイエスの祖先となったの
です。神は一人の異邦人女性を尊く用いられ、イエス・キリストの系図に名を残すという、大変名誉な計ら
  いをされたので
す。
3.主は用いられる
  「ルツ記」は、真の信仰に根差し、誠実に生きることの大切さを私たちに教えています。吉野教会でも、多くの女性が尊く
用いられ、それぞれに大切な役割を
  果たしてくださっています。感謝しながら、誠実に信仰生活を歩んでいきたいと思いま
す。世界中の子供たちの未来が、平和、感謝、友愛に満ちあふれた世界
  になることを祈ります。





2025年3月2日    「皆が行きたい所(パートⅠ)」    マクセイ師    ヨハネの福音書14章1~3節、使徒の働き1章9~11節

聖書には四つの天国があります。今日はその内の三つを取り上げます。
1.神ご自身、神の栄光と力と聖さに満ちている天
  神がおられる所、神の力、聖さに満ちた所です。テモテへの手紙第一6章16節「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が
  だれ一人見たことがなく、見ることもできない方、この方に誉れと永遠の支配がありますように。」
2.物理的な天
  宇宙論的天です。地以外の全てです。キリストは再臨の時、この天から来られます。マタイの福音書26章64節「あなたがたは今から後に、人の子が力ある
  方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
  私たちが死んで、行くのはこの天ではありません。
3.パラダイス、アブラハムの懐
  実在しますが、私たちの目で見ることはできません。復活から40日後、キリストはこの天に行かれました。どういう所でしょうか。何があるのでしょうか。
  誰がいるのでしょうか。
  1)天使がおられます。
    神が創造した天使たちはここにおり、必要に応じて、降りて来ます。用が済むと、戻って行きます。キリストが復活した時、天使が降りて来て、墓石を
    転がしました。羊飼いたちにキリストの降誕を告げた天使たちは任務を終えて、天に帰っていきました。
  2)神の御座があります。
    ここで、神は天使たちに栄光を現します。天使たちは神の御座を囲み、神を讃美します。栄光の体をもって昇天されたキリストが父なる神の右におられ
    ます。
  3)主によって救われた者は、死後ここに来ます。
    死後の私たちの一時的住まいです。最終地は第四の天です。どのような環境、状況でしょうか。
    イ.私たちの魂は肉体のない状態でいます。死とは魂が肉体を離れることです。
      人の魂には形と本質があるので、誰であるか分かります。
    ロ.意識があります。
      死によって、私たちの肉体は滅びますが、魂は生き続けます。ですから、私たちがキリストの再臨前に死を迎えるならば、ここでキリストと交わる
      という恵みをいただくことができます。ピリピ人への手紙1章21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」同23節「世を去っ
      てキリストと共にいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」
      そして、キリストが再臨する時に、先ず、キリストにある死者がよみがえり、永遠に生きる体をもって、第四の天国に迎えられます。
私たちは死を恐れる必要はありません。一時的な天国ですが、平安、満足感等の多くの恵みをいただくことができます。そして、キリストの再臨の時、私たちは
新しい、永遠に生きる体が与えられ、第四の天国で生活することになります。コリント人への手紙第ニ5章6~9節「私たちはいつも心強いのです。ただし、
肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。私たちは心強
いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが
心から願うのは、主に喜ばれることです。」




2025年2月23日    「神の福音」   マクセイ師    ローマ人への手紙1章1~4節

ローマ人への手紙の学びの三回目です。この手紙の中心テーマは福音です。2~4節に神の福音についての大事な指摘が三つあります。
1.約束された福音
  2節「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたものです。」
  パウロは「私自身の福音ではなく、神が計画し、約束し、実現させた福音」であると宣言しています。
  1)神は約束を守ります。
    創世記3章15節以降、旧約聖書の全般に渡って、直接的に、間接的に、神はキリストによる福音を約束しています。例えば、自分が罪を受ける代わりに、
    いけにえを捧げることによって赦されるといういけにえの制度は、後の完全ないけにえとしてのキリストの身代わりの死の型です。
    旧約聖書にはキリストの救いの働きの預言が少なくとも300あります。神の約束は確実に実現します。キリストの再臨の約束は未成就ですが、神の時間
    の見方は私たちとは違います。ペテロの手紙第二3章8節「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
  2)あらかじめ約束された福音です。
    2節「聖書にあらかじめ約束されたもの」
    神はご自分の計画を預言者たちを通して語りました。彼らは自分たちの時代、そして、その後の時代の人たちのために、それを書き留めました。従って、
    私たちはローマ人への手紙を神の言葉として、読み、理解し、受け留めることができます。
2.御子に関する福音
  3節「(イエス・キリストは)肉によればダビデの子孫です。」
  1)人間の姿で現れました。
    神が人間の姿をとって現れました。私たちの良き理解者となるためです。私たちに同情するためです。私たちの身近にいることができるためです。そして、
    私たちが神をより深く知ることができるためです。
  2)ダビデの子孫として現れました。
    これは旧約聖書のキリストに関する預言が成就したことを意味します。エレミヤ書23章5節「見よ、その時代が来る。―主のことば―そのとき、わたし
    はダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」
  キリストは永遠の昔から神として存在していたということです。私たちの信仰の土台の中心はキリストご自身です。
3.よみがえられたキリストの福音
  4節「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」4節「公に示された方」
  復活という歴史的事実をもって、キリストは神である、神の子である、救い主であるということが多くの人たちに宣言されました。復活がなければ、私たちの
  信仰は無意味です。私たちの信仰は復活信仰です。キリストの復活は私たちの復活の保証であり、裏付けです。神の約束を信じましょう。
イエス・キリストの復活で、何が証明されたのでしょうか。
1)キリストは私たちの主です。
2)キリストがこの世に来られた唯一最大の目的は私たちを罪から救うことです。
3)キリストは神であり、私たちの主人です。
私たちが神の福音に希望と命と力があることを確信できるのはキリストがよみがえられた主であるからです。




2025年2月16日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅦ)―神と礼拝―」    マクセイ師     ヨハネの福音書4章19~24節

先週のメッセージで、礼拝は神への応答であること、何かを得るためではないことを確認しました。更に、礼拝について二つのポイントで考えましょう。
1.神は私たちにどのような礼拝を求めているのでしょうか。
  ヨハネの福音書4章24節「神は霊ですから、神を礼拝する者は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
  1)神を対象とした礼拝です。
    創造主、救い主である神を対象とした礼拝でなければなりません。
  2)真理に基づく礼拝です。
    神についての理解が深まるほど、礼拝はより豊かになります。より深く神に感謝することができます。
  3)霊による礼拝です。
    神は肉体をもたない存在です。私たちの目に見えない存在です。しかし、私たちも霊をもっているから、神と交わることができます。神に近づくことが
    できます。神を礼拝することができます。霊をもって礼拝するとは、心の中で、神が共にいてくださることを自覚し、神の力、栄光を思い起し、恐れ
    おののき、神の無限の愛を思い起しながら、礼拝を捧げることです。
  4)体を使った礼拝です。
    唇、舌、口、手、足等を使って礼拝することができます。又、弦楽器、管楽器、打楽器を使って、礼拝することができます。コリント人への手紙第一
    6章20節「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
2.神は私たちの礼拝に対して何をなさるのでしょうか。
  私たちを霊的に成長させてくださいます。恵みの一つです。如何なる方法で、私たちを成長させてくださるのでしょう。
  1)御言葉の解き明かし
    神は御言葉の解き明かしを通して、私たちを霊的に成長させてくださいます。霊的健康を保ってくださいます。テモテへの手紙第二3章16~17節
    「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者
    となるためです。」
  2)祈り
     私たちがもっと神を信頼する祈り、神に頼る祈りを教えてくださいます。
  3)主の晩餐
    私たちの救いはキリストの身代わりの死による神の恵みです。救われていること、非難させるところのない者として神の前に立つことができる確信を深めて
    くださいます。
  4)献金
    この世的なものに希望をもったり、頼り切ることはいけないことを教えてくださいます。頼りになるのは神です。
 5)兄弟姉妹との交わり
   イ.私たちに神の言葉、真理、導き等を提示してくださいます。
     私たちクリスチャンは互いに励まし合う、信仰を高め合う責任があります。日曜礼拝における兄弟姉妹との交わりがその責任を果たさせます。
   ロ.連帯感を深めます。
     私たちは自分一人で信仰生活を歩んでいるのではありません。共に信仰生活を歩む霊的家族の存在は私たちを力づけます。
ヘブル人への手紙10章23~25節「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
また、愛と善行を促すために、互いに注意し合おうではありませんか。自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」




2025年2月9日   「春の雨に向かって」    大坪 篤史 師    ヨブ記1章1~22節

1.はじめに
  1月17日は甚大な被害に見舞われた阪神・淡路大震災から30年という大きな節目の日でした。被災された方の思いを継いでいくことが、今を生きる私たち
  に託されています。
2.ヨブ記の概要
  パレスチナの南東のエドム地方の住人と思われるヨブは潔白で、正しく、神を恐れ、悪から遠ざかり、家族や財産に恵まれた大富豪でした。そのヨブの信仰を
  褒める主に、サタンはヨブの信仰を試すことを提案するのです。主はヨブの命を取らないことを条件にサタンの提案を受け入れました。サタンは家畜、使用人
  を殺しました。又、強風を吹かせ、子どもたちが宴会を開いていた家をなぎ倒し、皆を死なせてしまいました。しかし、ヨブは立ち上がり、上着を引き裂き、
  頭をそり、地にひれ伏して礼拝して、言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
  サタンは次の行動に出ます。「ヨブの肉体に不幸を与えれば、きっと神を呪うはずだ。」と再提案するのです。主はヨブの命を取らないことを条件に許しま
  した。サタンはヨブの全身をひどい皮膚病にしました。彼の妻は「神を呪って死になさい。」とまで言いました。それでもヨブの信仰は揺らぐことはありま
  せんでした。ヨブの災難を聞いた友人たちは、ヨブに対して、罪があるからこうなったのだと批判しますが、ヨブは強く反論し、神にも赤裸々に嘆き悲しみを
  訴えていきました。そんなヨブに対して神からの叱責があり、ヨブはついに神に白旗を上げることになります。
3.春の雨に向かって
  29章23節「彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨(春の雨)を待つように、彼らは口を大きく開けて待った」
  これは全盛期の彼に対して回りの人々が抱いた感情を表したものですが、ヨブが自らに降りかかった災難に苦しむ中で得た思いでもあったのではないでしょう
  か。榎本保郎牧師は書いています。「キリスト教には『なしたる罪』と『なさざる罪』があると言われる。確かに、私たちは『なしたる罪』については潔い
  かも知れない。しかし、『なさざる罪』を咎められるならば、誰一人『罪人でない』などと言い得る者はいない。ヨブは『なしたる罪』しか分かっていなかっ
  たようである。もし、『なさざる罪』に気付いていたなら、彼は自己の正当性を主張するようなことに尊い時間を費やすことはなかったであろう。彼は自分
  の義にしがみついていたのである。それ故に、彼には平安がなかった。彼が神の赦しに『より頼む』時、初めて真の平安と祝福を受けることができたのであ
  る。」「信仰は神の顕現に触れる時に起こってくるものである。42章5節でヨブが告白している通りである。『私はあなたのことを耳で聞いていましたが、
  今は私の目であなたを拝見します。』神の顕現に触れるためには、ヨブが執拗なまでに神にむしゃぶりついていったような、神への求めが大切なのではなか
  ろうか。」




2025年2月2日   「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅥ)―神と礼拝―」  マクセイ師   詩篇100編1~5節、ヨハネの福音書4章19~24節

信仰生活において日曜礼拝は重要ですが、世俗的価値観等によって、礼拝の目的を見失ってしまうことがあります。先ず、礼拝とは何かを確認しておきましょう。
1)神の前に謙虚になることです。
  詩篇95編6~7節「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう。私たちを造られた方 主の御前にひざまずこう。まことに 主は私たちの神。」

2)神の前に恐れおののくことです。
  詩篇95編3~5節「まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって 大いなる王である。地の深みは御手のうちにあり 山々の頂も主のものである。海は
  主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。」

3)神の前に仕える者として立つことです。
  詩篇100編2節「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」
私たちが捧げる礼拝は神にとって如何なる意味があるのでしょうか。
1)私たちの神への応答です。
  礼拝の起源は神です。ローマ人への手紙11章36節「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにあります
  ように。アーメン。」

  神は如何にして礼拝を求めて来たのでしょうか。
  イ.ご自分の存在を啓示しました。
    イエス・キリストの地上の現れによって、私たちに礼拝の対象を明示してくださいました。これが礼拝の出発点でした。
  ロ.私たちが神に近づくことを阻む罪の問題を解決しました。
    コロサイ人への手紙1章21~22節「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだに
    おいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あな
たがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前
    に立たせるためです。」

  ハ.聖書を通して、礼拝の仕方を教えてくださいました。
2)私たちの神への崇拝と感謝です。
  詩篇100編1~5節「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が 私たちを造ら
  れた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ そ
の大庭に入れ。主に感謝し 御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く
  その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。」

  神が私たちの賛美、礼拝を受けるに相応しい方である理由が5節にあります。
  イ.いつくしみ深いからです
  ロ.愛の神だからです。
    恵み=愛です。私たちを犠牲的に、無条件に愛してくださる神だからです。

  ハ.真実だからです。
3)神に供え物を捧げることです。
  供えることは立派な礼拝です。ローマ人への手紙12章1節「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、
  あなたがたにふさわしい礼拝です。」

  行動、言葉、態度を含めた日常生活が神への礼拝であるべきです。
4)私たちの宣言です。
  現代の私たちも神の働き、力を宣言する者として立たされています。日曜礼拝で教会に集まることは一つの宣言です。又、主の晩餐は救いの業の宣言です。
神を求める礼拝、神に喜ばれる礼拝を究め続けましょう。





2025年1月26日    「神の福音のメッセンジャー パウロ」   マクセイ師   ローマ人への手紙1章1節、テモテへの手紙第一1章12~17節

パウロは福音の力によって造り変えられました。如何にして、造り変えられたのでしょう。パウロの自己紹介の記事に三つの証拠が提示されています。
1.キリストを憎む者からキリストのしもべになりました。
  テモテへの手紙第一1章13節「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」
  何故、パウロはキリストを憎む者からキリストのしもべになることができたのでしょうか。神のあわれみと恵みがあったからです。何時、どういう状況で、
  パウロは神のあわれみ、恵みに与ったのでしょうか。経緯が使徒の働き9章と22章に記されています。パウロはクリスチャン捕獲のために、ダマスコの町に
  向かっていました。町に入る直前、天からの光がパウロを照らし、声が聞こえました。「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスです。どうして
  わたしを迫害するのですか。」パウロは驚き、問いました。「私はどうしたらよいでしょうか。」答えがありました。「町に入りなさい。そこでしなければ
  ならないことが告げられます。」パウロはダマスコの町に入り、ダマスコの教会のアナニアによってバプテスマを受けました。「私はキリストに買い取られ
  ました。キリストの者です。」とパウロは理解したと思われます。
2.迫害者から使徒になりました。
  テモテへの手紙第一1章13節「神を冒涜する者、迫害する者」として、パウロは優秀な迫害者でした。そのパウロがキリストの使徒になりました。
  使徒になる条件は二つです。
  1)自分の目で、蘇ったキリストを見た者であることです。
  2)キリストによって使徒と任命されることです。
  現代、二つの条件を満たす人はいないので、使徒はいませんが、聖霊の導きによって記された聖書が私たちの手元にあります。
3.パウロは神を冒涜する者から神の福音のメッセンジャーに造り変えられました。
  テモテへの手紙第一1章13節「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者」でしたが、神の福音のために選ばれた者となっていきます。
  ローマ人への手紙1章1節「神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」
  何故、神は好ましくない経歴をもつパウロを神の福音のメッセンジャーとして選んだのでしょうか。<テモテへの手紙第一1章16節「私はあわれみを受けました。
  それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私
  に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」
  神はパウロのような人を救うことができるのですから、救えない人はいないということです。
今日のまとめです。パウロの自己紹介を通して学ぶことを挙げましょう。
1)福音の起源は神です。
2)パウロを造り変えた福音は今でも有効です。
3)神の救いの対象外の人はいません。
4)パウロは行いによって救われたのではありません。
5)私たちもパウロと同じようにキリストの僕です。
ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」




2025年1月19日      「聖書全体に光を照らす御言葉」    マクセイ師     ローマ人への手紙1章1~17節

ローマ人への手紙(以下、本手紙)は聖書全体に光を照らす御言葉の書です。理由は次の通りです。
1)  本手紙は聖書全体のテーマである神の救いを体系的に、組織的に取り上げています。
2)クリスチャンの疑問に答えてくれます。
  例えば、神の福音とは何か、キリストは本当に神なのか、その証拠は何か、神はどういう存在なのか等の疑問です。
3)聖書に出てくるテーマを繋ぎます。

  罪、律法、裁き、信仰、行い、恵み、聖化、神の選び、神の救いの計画等の聖書のテーマを繋いでいます。
ローマの教会を開拓したのは、西暦30年、ペンテコステの日に世界各地からエルサレムに集まり、福音を聞き、キリストを救い主と受け入れて、バプテスマを
受けたユダヤ人たちの一部と思われます。
何故、パウロは関係の薄いローマの教会の兄弟姉妹に本手紙を書き送ったのでしょうか。二つの理由が考えられます。
1)パウロは西方に行って、伝道したいと願っています。
  15章23~24節「あなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがた
に送られてイスパニアに行きたい
  と願っています。」

2)ローマの教会の兄弟姉妹に体系的に福音を伝えたいのです。
  イ.偽教師、誤った福音からローマの教会を守るためです。

  ロ.ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを一つにまとめるためです。
パウロが本手紙で取り上げている二つのテーマ、福音と神に触れておきたいと思います。
1)福音
  本手紙の中心テーマは福音です。パウロは福音について大事なことを指摘しています。

  イ.福音の起源は神です。
  ロ.福音の土台はキリストの身代わりの死と復活です。
  ハ.福音の対象は全ての人です。
  ニ.福音を伝える動機付けは福音の力です。
  ホ.福音の本質
    1章17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
2)神
  神を理解するキーワードは義です。幾つかの意味で使われています。
  イ.神の正しさ、聖さ、正義
    1章18節「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されています。」
  ロ.神の恵み
    3章24節「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
  ハ.神の前に罪のない者として立たされる
    1章17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生き
る』と書いてあるとおりです。」
何故、パウロは福音が中心テーマの本手紙をノンクリスチャンではなく、クリスチャンであるローマの兄弟姉妹に送ったのでしょうか。1章15節「私としては、
ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

1)福音を完全に理解することは困難だからです。
2)信仰を守るためです。
3)正しく福音を分かち合うためです。
1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」




2025年1月5日     「新年の指針」  マクセイ師     ペテロの手紙第一3章8~12節

2025年、どういう年になるのでしょうか。私たちの共通の願いは幸せに生活したいということでしょう。今日の聖書箇所にそのための三つ勧めが示されています。
1.態度をもって相手を祝福することです。(8節)
  1)一致を大事にすることです。
    相手の意見を理解する努力を惜しまないことです。そして、兄弟姉妹を繋ぐのは共有する信仰であることを忘れないことです。
  2)同情し合うことです。
    相手の立場に自分を置き、理解することです。
  3)兄弟愛を大事にすることです。
    私たちの日常生活に意味と喜びを与えるのは神が私たちに与えてくださっている霊的な家族意識です。もう一つの家族があります。人類という家族です。
    教会外の人ともアガペー愛をもって接していくことが求められます。
  4)心優しい人となることです。
    心優しい、憐れみ深いの基本的な意味は相手の厳しい立場を理解するだけでなく、助けてあげたいと思い、行動することです。
  5)謙虚でありなさい。
    健全な人間関係を保つためには謙虚さが不可欠です。人間関係を壊すのはプライドです。ピリピ人への手紙2章3節「へりくだって、互いに人を自分より
    すぐれた者と思いなさい。」
2.言葉を通して相手を祝福することです。(9~10節)
  1)10節「舌に悪口を言わせない。」
  2)10節「唇に欺きを語らせるな。」
    真実を語ることです。
3.行動を通して相手を祝福することです。(11節)
  11節「悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。」
  善を行うとはどういうことでしょう。
  1)悪から離れることです。
    ここでの悪は利己主義的な思いによる言葉や行動を指します。日々、利己主義的な思いを切り捨てなければなりません。
  2)良い行いをすることです。(エペソ人への手紙2章10節、ガラテヤ人への手紙6章9~10節)
    私たちはキリストによって救われ、造り変えられました。私たちが良い行いをすることができるためです。良い行いを通して、神を証しすることができま
    す。善を行う対象は全ての人です。善を行うことには自分が幸せになるという副産物があります。一番幸せな人は隣人のために何ができるかを考えながら
    生きている人です。もう一つの良い行いがあります。ペテロの手紙第一3章11節「平和を求め、それを追え。」私たちクリスチャンは率先して、平和を
    造ることに力を注ぎたいと思います。
これらのことによって、私たちは神からの祝福に与ることができます。それを確認しておきましょう。(12節)
1)いのちを愛し、幸せな日々を送るために力を与えてくださいます。
  2025年が厳しい状況に置かれても、一日一日を幸せに生きていくことができます。何故なら、神が必要な力を与えてくださるからです。
2)神に見守られています。
  歴代誌第二16章9節「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」
3)祈りに応えてくださいます。
私たちは常に、この三つの祝福を思い起し、確信するならば、状況に関わらず、毎日を幸せに生きていくことができます。神に守られ、神が最善のことをしてくださ
ることを確信できるからです。




2024年12月29日    「福音に生き、福音を語る」   大坪 篤史 師     ローマ人への手紙1章16節

1.はじめに
  2024年最後の主日礼拝です。この一年を総括し、来年に向けて、気持ちを新たにする礼拝にしたいと思います。
  年初の能登半島地震、羽田空港での航空機同士衝突事故、異常とも言える猛暑や集中豪雨の日々が続きました。世界的に見ても、ウクライナ戦争は収束の
  見通しが立たず、ガザ地区の悲劇は国際社会が無力であることをイヤと言うほど見せつけました。まさに「混迷の一年」でした。来る2025年、私たちはどう   行動すれば良いのでしょうか。
2.たねまき会で語られたこと
  「福音に生き、福音を語る」は11月3日~4日に開催された大阪聖書学院の「たねまき会」のテーマでした。三名の牧師が語ってくださいました。
  1)沖縄キリストの教会の牧師、北中城若松病院のチャプレンである金知明先生の「沖縄の地で福音に生きる」
    金先生は大阪生まれの韓国人です。沖縄の言葉や文化を知ることによって、距離を縮める努力を大事にしていると報告してくださいました。又、病院では
    聖書の教えを大上段にふりかざすのではなく、相手の立場に立って語ること、相手が喜んで聞いてくれるように話をすることの大切さを説かれました。
  2)吉野キリストの教会のウォルター・マクセイ先生の「福音に生き、福音を語る条件」
    「神が望んでいることを、神の子として実践するにはどうしたら良いか」という流れでお話を展開されました。
    イエス様の大宣教命令に応えるため、牧師だけでなく、教会員がつながった上で、皆で祈ること、積極的に証しすること、そして、あきらめないことが大切
    だと教えてくださいました。
  3)めぐみキリスト教会の池田基宣牧師の「アイ・ドーンライク・マンデイズ(私は月曜日が嫌い)」
     人間心理として、休日明けの月曜日は憂鬱になることが多いけれど、日曜日にたっぷりと恵みを受けた私たちクリスチャンは月曜日、新しい気持ちで福音を
    語りたいという思いを込めた表題であるとの説明がありました。福音に生きるとはキリストにつながって生きるということであり、それ故に、福音を語る
    ことができるのだと説かれました。
3.新年を迎えるに当たって~福音に生き、福音を語る~
  クリスマスは神様から私たちへの「和解の提案」です。私たちは、神様から差し出された手を握り返すだけでよいのです。クリスマスに送っていただいたイエス
  様を私たちの救い主と信じ、自らの罪を正直に悔い改めれば良いのです。そうすれば、私たちの罪は赦され、新たに神の義という衣を着せていただき、永遠の命
  に与ることができるのです。有難いことです。ですから、何時も主に繋がって、福音を広く語っていかなければなりません。私たちには福音を語る特権が与えら
  れているのです。ローマ人への手紙第1章16節、「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人にとって、
  救いを得させる神の力です。」教会はクリスマスの意味をもっと力強く発信していくべきです。
2025年が世界中の人々にとって、良きおとずれ、福音に生きる「希望の時」となることを切に願います。




2024年12月22日   「本当の富の源」    マクセイ師     コリント人への手紙第二8章9節、ピリピ人への手紙2章6~7節

今日の御言葉であるコリント人への手紙第二8章9節に、クリスマスに関する三つの問いとその答えを見ることができます。
1.イエス・キリストとは誰でしょうか?
  「富んでおられた方」でした。これは次のことを意味します。
  1)地上に現れる前から神として存在していました。
    イ.永遠の昔からリッチでした。
      コロサイ人への手紙1章15~16節「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生れた方です。なぜなら、天と地にある
      すべてのものは、・・・、御子によって造られ、御子のために造られました。」
      創造者ですから、全てを所有しています。
    ロ.全ての権威と力をもっておられました。
      マタイの福音書28章18節「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。」
  2)神の属性をもって現われました。
    全知全能、永遠の神として現われました。全てに富んでおられまし
2.イエス・キリストは何をなさったのでしょうか?
  9節「あなたがたのために貧しくなられました。」
  1)神としての本質、力、栄光をご自分のために用いませんでした。
  2)完全に人間となられました。
    ピリピ人への手紙2章7節「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」
    これは究極的な貧しさです。
  3)赤ちゃんの姿をとって現れました。
    赤ちゃんはある年齢までは人の世話がなければ生きていくことができません。これも貧しさの一つです。
  4)身代わりの死です。
    私たちのために十字架の上で、命を投げ出し、100%貧しくなってくださいました。
3.何故、イエス・キリストは貧しくなったのでしょうか?
  コリント人への手紙第二8章9節「あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
  1)愛という富を与えてくださいました。
    イ.十字架上の身代わりの死を通して、無条件の、犠牲的な愛を与えてくださいました。
    ロ.私たちに愛する力を与えてくださいました。
    ハ.愛を体験できる家族を与えてくださいました。
      ガラテヤ人への手紙3章26節「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」
  2)喜びという富を与えてくださいました。
    何処から来る喜びでしょうか。
    イ.神が私たちのことを気にかけておられことの確信からくる喜びです。
    ロ.私たちの罪が完全に赦されているという確信からくる喜びです。
    ハ.与えることから来る喜びです。
      使徒の働き20章35節「受けるよりも与えるほうが幸いである。」
    二.死の恐怖から解放されている喜びです。
      ヨハネの福音書11章25節「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
    これらの喜びは状況に左右されません。キリストの言葉、約束、行動に基づく、変わることのない喜びです。
  3)平安という富を与えてくださいました。
    私たちは内なる平安をもつことができます。キリストを通して、神との平安をもっているからです。
ヨハネの福音書10章10節「わたしが来たのは、羊がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」




2024年12月15日   「素晴らしい喜びの知らせの中に見えるイエス・キリストのアイデンティティ」 マクセイ師    ルカの福音書2章1~20節

クリスマスが近くなりました。残念ながら、一般の人はイエス・キリストのアイデンティティ(ID)を知りません。今日の聖書箇所にキリストの四つのアイデン
ティティが記されています。
1.人間です。
  11節「生まれる」12節「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」4節「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であった。」旧約聖書の預言通り、
  キリストはダビデの子孫として生まれました。ピリピ人への手紙2章6~7節「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは
  考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」
2.救い主です。
  ルカの福音書2章11節「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」マタイの福音書1章21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと
  つけなさい。」「イエス」とは「神は救いである」と言う意味です。救い主として来られたのです。ということは、私たちは救いを必要としているということ
  です。ヨハネの福音書3章17~18節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者
  はさばかれない。」同16節「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
  私たちは自分を救うことができません。キリストのみが私たちを救うことができます。使徒の働き4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありま
  せん。」
3.キリストです。
  キリストはギリシャ語です。ヘブル語に訳すとメシアです。油注ぎを受けた者という意味です。キリストは神の国の王であり、私たちの大祭司として、ご自身
  を究極的ないけにえとして捧げました。旧約聖書のメシヤ預言は全て成就しました。
4.主です。
  主=神です。100%人間でありながら、100%神であるということです。ですから、地においても、天においても、全ての権威をもっています。全ての人
  の主です。私たちは全面的にキリストに服従しなければなりません。キリストを自分の日常生活の主人にしなければなりません。キリストの言葉、模範、戒め
  に沿って生きなければなりません。
キリストのアイデンティティを明らかにすることによって、キリストの誕生は全ての人にとって良き知らせ、素晴らしい知らせであることを確認できます。次のこと
はそれを象徴しています。
1)先ず、羊飼いたちに告げられました。
  当時の貴族、律法学者たちではなく、底辺で生活していた羊飼いに先ず、知らされました。全ての人の救い主であるということです。
2)キリストは私たちの羊飼いとしてこの世に来られました。
  ヨハネの福音書10章11節「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ペテロの手紙第一2章24~25節「キリストは自ら十字架
  の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」
キリストを知らない人たちとキリストのアイデンティティを分かち合いましょう。




2024年12月1日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅤ)―神の招き―」     マクセイ師
                      ローマ人への手紙8章29~31節、コリント人への手紙第一1章1~3節、9節、エペソ人への手紙1章3~5節

パウロは蘇ったイエス・キリストの招きに応えて、キリストを迫害する者からキリストの弟子となりました。四つのポイントで考えます。
1.神の招きの本質
  イエス・キリストによる救いへの招きがローマ人への手紙8章28~30節に記されています。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ
  姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちを
  さらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
  1)16世紀の神学者カルビンの予定説によると、神は前もって救われる人を選んでいます。
    この説には幾つかの問題点があります。
    イ.人間には神の招きに応える自由がないことになります。
    ロ.伝道不要ということになります。
  2)ローマ人への手紙8章、エペソ人への手紙1章などをどのように理解すべきでしょうか。
    イ.神の招きの対象は全ての人です。
      テモテへの手紙第一2章4節「神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
    ロ.神は誰が救いに与るかを前もって知っています。(ローマ人への手紙8章29節、ペテロの手紙第一1章2節)
      神は前もって、救われる人を決めたのではなく、救いに与る人をご存知だということです。キリストを受け入れるか、受け入れないか次第ですから、
      神の招きは条件付きです。招きにどのように応答するかは私たちの自由です。
    ハ.神が前もって決めたことがあります。
      救いに与る人にどんな恵みを与えるか前もって決めていました。ローマ人への手紙8章30節「神はあらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人
      たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」エペソ人への手紙1章5節「神は、みこころの良しとするところ
      にしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
2.神の招きの手段
  神は御言葉を通して招かれます。ローマ人への手紙10章17節「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する
  のです。」
  神の言葉は生きていて、力があります。クリスチャンはこれを信じて、神の言葉を分かち合いましょう。
3.神の招きの祝福(神が前もって決めた祝福)
  1)義とされます。
  2)聖められます。
  3)救いを確信できます。
  4)神の交わりに加えられます。
    コリント人への手紙第一1章9節「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたの
    です。」
    イ.イエス・キリストとの交わりです。
    ロ.キリストのからだである兄弟姉妹との交わりです。
4.神の招きに対する責任
  ペテロの手紙第一2章9節「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それはあなたがたを闇の中から、ご自分の
  驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
  周囲の人に神を証しましょう。御言葉を分かち合いましょう。





2024年11月24日    「神と共に歩む」信仰生活(パートⅩⅣ)―神の救いの恵み その3『救いの確信』―」     マクセイ師
                                        ペテロの手紙第一1章5節、ローマ人への手紙5章1~2節、6~11節

これまで二回に分けて、「神の救いの恵み」について、「義と認められること」「聖なる者とされること」という題で考えました。三回目の今日は、救いの確信に
ついて、三つのポイントで考えます。残念ながら、多くのクリスチャンはこの恵みに与っていません。
1.救いの確信の誤解
  1)神の選びによって救われたのだから救いは永遠に続く。
    予定説の考え方です。神はこの世界を創造する前に、救われる人と救われない人を予め決めていると主張します。これは聖書の教えではありません。人間
    の自由意志を否定しているからです。
  2)良い行いのみが救いを獲得できる条件である。
    エペソ人への手紙2章8~9節「恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それは神の賜物です。行いによるのではありません。」
2.救いの確信の真実
  ペテロの手紙1章5節「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。」
  1)神の力による守リ
    神の力に守られているから、救いの確信をもつことができます。如何なる神の力に守られているのでしょうか。
    テサロニケ人への手紙第二3章3節「主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者たちから守ってくださいます。」
    神の力を具体的に確認しましょう。
    イ.聖霊の内在
    ロ.御言葉
    ハ.祈り    
     ニ.兄弟姉妹との交わり
  2)神の愛による守り
    神の愛により、神の怒りから救われています。ローマ人への手紙5章5~8節「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられ
    た聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために
    死んでくださいました。・・・・・。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛
    を明らかにしておられます。」
  3)私たちの信仰による守り
    ペテロの手紙第一1章5節「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくの
    です。」
3.救いの確信の恵み
  1)救いの不安から自分はどれだけ赦されているかという喜びに変わることができます。
  2)誘惑に強くなることができます。
  3)積極的に証しすることができます。
    救いを確信していない人は伝道できません。
  4)積極的に、犠牲的に良い行いをします。
    エペソ人への手紙2章10節「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにイエス・キリストにあって造られたのです。」
救いの確信は私たちの信仰生活を恵み、平安、感謝に満ちたものに変えます。そのために、信仰に踏みとどまりましょう。祈り続けましょう。御言葉を蓄え続けま
しょう。礼拝を守りましょう。兄弟姉妹との交わりを大切にしましょう。証しを続けましょう。
ペテロの手紙1章5節「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。」




2024年11月17日   「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅢ)―神の救いの恵み その2『聖化:聖なる者とされる』」   マクセイ 師   
                                                       コリント人への手紙第一6章9~11節

前回、その1「義と認められる」について学びました。キリストの身代わりの死によって、私たちは罪を犯していない者として神の前に立つことができます。
しかし、未だ、罪を犯す傾向が残っています。その2はこの問題を対象とした恵みです。三つのポイントで考えます。
1.聖なる者とされることの意味
  聖なる者とされるのには二つのステップがあります。
  1)私たちを暗闇から神の光の中に移してくださいます。
    コリント人への手紙第一6章11節「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたの
    です。」
  2)私たちを継続的に、段階的に聖め続けてくださいます。
    ペテロの手紙第一1章15~16節「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたが
    たは聖なる者でなければならない。わたしは聖だからである』と書いてあるからです。」
    聖なる者とされるのは私たちが復活の体に与る時です。
2.聖なる者とされる可能性<
  神はそれを可能にしてくださいます。何をもって可能にしてくださるのでしょうか。
  1)私たちの心に新しい命を与えてくださることによってです。
    霊的的に死んでいた私たちを生き返らせてくださいました。エペソ人への手紙2章5節「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくだ
    さいました。」
    キリストはたとえました。マタイの福音書7章17節「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」
  2)聖霊の内在による力によってです。
    コリント人への手紙第一6章19節「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身
    のものではありません。」エゼキエル書36章26~27節「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがた
    のからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り
    行うようにする。」
  3)神との共同作業であることを理解することによってです。
    神は私たちにそれをもたらす力を与えてくださいます。私たちはその力に頼らなければなりません。ヨハネの手紙第一3章3節「キリストにこの望みを
    置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」
3.聖なる者とされる動機付け
  何故、私たちは神の前に聖く生きていくことを願わなければならないのでしょうか。
  1)義とされていることに対する神への感謝と愛を示すためです。
  2)責められることのない、聖い良心を保つためです。
    そのための最も効果的な方法は、常に、神の前に聖なる者として歩むことです。完全に行うことはできませんが、一歩一歩前進することが大事です。
  3)世の光、地の塩として歩むためです。
  4)内なる平安を保つためです。
私たちは聖霊の内在によって、聖なる者となり、光の国に移されています。新しい命が与えられています。それまでなかった力が与えられています。喜んで、聖く
歩もうとします。感謝して、祈りましょう。エペソ人への手紙3章16節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもって
あなたがたを強めてくださいますように。」




2024年11月3日   「神と共に歩む信仰生活(パートⅫ)—神の救いの恵み その1『義と認められる』」
                              マクセイ 師    ローマ人への手紙3章20~24節、28節、5章8~9節、8章33節

救いの恵みについて、三回に分けて考えます。救いの恵みは三つあります。
1)義とされること
2)聖なる者とされること
3)救いの確信が与えられること
今日は義とされることについて考えます。神の救いに与る前、私たちは神の律法を犯し続けてきたことを思い起してください。この恵みのすばらしさを理解できる
でしょう。
1.義とされることの意味
  パウロはローマ人への手紙を通して、義とされるのは神の恵みとキリストの身代わりの死によるのであって、私たちの行いとは一切関係なく無罪だと宣言して
  います。義とされることのもう一つの要素は赦しです。義とされる恵みは私たちの過去の罪だけでなく、地上で生活をする限り続きます。ローマ人への手紙
  4章6~8節「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
2.義とされる根拠
  二つあります。
  1)完全に神の律法を守ることです。
    人間には不可能です。十戒を表面的には守っていても、心の中では一つ一つを犯しています。
  2)キリストの身代わりの死です。
    ローマ人への手紙5章18節「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」
    コリント人への手紙第二5章21節「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
    罪を犯していないキリストが十字架の上で命を捧げて、私たちの罪の全てを引き受けたのです。神の一方的、無条件の愛です。
3.義とされるために私たちがなすべきこと
  イエス・キリストを信じることです。ローマ人への手紙3章22節「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。
  そこに差別はありません。」
  では、信仰があれば神の律法はどうでもよいのでしょうか。そうではありません。行いを伴う信仰でなければなりません。
4.何時、義とされるのか
  バプテスマの時です。バプテスマの時にキリストと結ばれます。キリストを我が身に着ます。キリストの聖さが私たちを覆います。言うまでもないことですが、
  バプテスマを受ける本人がキリストを信じていなければ、罪を悔い改めていなければ、水に入っても、何の意味もありません。そして、バプテスマは救いを
  獲得する行いではありません。バプテスマは行いではありません。神が無償で、愛をもって私たちに与える救いの恵みに与る時です。バプテスマは神の約束を
  信じる信仰の一表現です。使徒の働き2章38節「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさ
  い。」ローマ人への手紙6章4節「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが
  御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」
私たちがキリストを信じ続ける限り、キリストに留まる限り、この恵みは私たちを覆い続けます。ですから、信仰に留まらなければなりません。




2024年10月27日    「心の渇きを癒すキリスト」    マクセイ師     ルカの福音書19章1~10節

昨日、特別集会を無事に終わることができました。私はプログラムの終わりで、未信者の方々向けに、キリストは私たちの心の渇きを癒すことができるお方である
ことを強調させていただきました。ヨハネの福音書7章37節「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」同4章14節「わたしが与える水を
飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。」
取税人ザアカイに目を向けましょう。
1.心渇いていたザアカイ(1~4節)
  ザアカイの心は渇いていました。彼は敵国ローマのためにエリコの住民から税金を余分に取り立てて、私腹を肥やしていました。ですから、彼は住民に軽蔑さ
  れていました。彼の心には愛に対する、赦しに対する飢え渇きがあり、これらから解放されたいという思いがあったと思われます。しかし、3節「群衆のため
  に(イエスを)見ることができなかった。」
  そこで、彼は当時の成人男性が公の場所で絶対にしないことをしました。4節「先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。」
2.ザアカイの渇きを癒すキリスト(5~7節)
  5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているか
  ら。』」
  この個所からキリストが如何なる癒しをザアカイに与えたかを読み取ることができます。
  1)あなたはそのままで神に注目されています。
    この時点まで、キリストとザアカイは出会ったことがありません。しかし、キリストはザアカイがいる所を知っていました。マタイの福音書10章30~
    31節「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。・・・。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」
  2)あなたはわたしにとって大事な存在です。
    キリストは彼を名前で呼び、大事な存在であることを伝えています。イザヤ書43章4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛し
    ている。」
  3)わたしは無条件にあなたを愛しています。
    キリストはザアカイの諸々の悪行を知っていながら、無条件で「あなたの家に泊まる。」と言っています。これはアガペー愛、無条件の愛です。ザアカイ
    の心の渇きが癒されました。
3.心の渇きを癒されたザアカイ(8~10節)
  ザアカイは自分の罪を告白して、悔い改めています。価値観が一変しました。私たちがイエス・キリストを受け入れるなら、私たちのものの見方、世界観、
  人間関係が完全に変わります。注目したいのは、これはキリストの要求によってなされたことではないということです。救われた結果です。キリストを信じ
  る信仰によって救われたのです。ザアカイはキリストによって、心の渇きが癒され、自分が愛されている存在であること、自分が必要な者であることが分か
  り、それまでの人生観が変わりました。10節「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
私たちはキリストを知らない人たちを捜し出し、キリストはあなたの心の渇きを癒す方であることを伝え続けて行きたいと思います。




2024年10月20日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅪ)―神の教会と福音宣教―」    マクセイ師
                                       ペテロの手紙第一2章9~10節、マタイの福音書28章18~20節

10月26日、金先生をお迎えして、特別集会をもちます。何故、私たちは特別集会を開こうとしているのでしょうか。神が全ての人の救い望んでおられるからです。そして、私たちは神の子供として、神に見倣う者でなければならないからです。そのために、私たちは神の教会の使命を理解しておかねばなりません。
そこで、今日は「神と福音宣教」の三回目として、「神の教会と福音宣教」と題して、二つのポイントで考えます。

1.神の教会とは
  1)神の民です。
    教会は建物ではありません。教会とは神の民です。ペテロの手紙第一2章9~10節に教会とは何かが記されています。「あなたがたは選ばれた種族、王
    である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなた
    がたに告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今はあわれみを受けています。

  2)キリストのからだです。
    コロサイ人への手紙1章18節「御子はそのからだである教会のかしらです。」コリント人への手紙第一12章27節あなたがたはキリストのからだで
    あって、一人ひとりはその部分です。」

    からだという言葉から幾つかのことが見えてきます。
    イ.生きているからだでなければなりません。
    ロ.からだの各部分が正常に機能している時に、からだはより良く働くことができます。
    ハ.からだの各器官は頭であるキリストの指示、命令に従わなければなりません。
2.
神の教会の使命とは
  マタイの福音書28章18~20節「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても地においても、すべての権威を与えられています。
  ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、  すべてのことを守るように教えなさい。」

  ここで、キリストは教会に三つのことを命じています。
  1)福音を語りなさい。
  2)バプテスマを授けなさい。
  3)教えなさい。洗礼を受けたクリスチャンの霊的成長を助けなさいということです。
  何故、キリストは私たちにこれらを命じているのでしょうか。
  1)キリスト以外に救いはないからです。
  2)世界中の大多数の人が救われていないからです。
    世界の約70%の人はキリストを知りません。その内の半分位はキリストの福音を聞く機会がないのです。
  3)私たちを通して、人々を救いの恵みに与らせたいからです。
  4)伝える人がいなければ、福音を聞くことができないからです。
  神の子である私たちは神に従順に従うことが求められています。そのためには何が必要でしょうか。
  1)祈ることです。
  2)コミュニケーションできる良好な人間関係を作ることです。
  3)言葉をもって福音を語ることです。
  4)忍耐強く語ることです。
  キリストは私たちに一人で頑張れとは言ってはおられません。
   マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは世の終わりま
で、いつもあなたがたとともにいます。」




2024年10月13日   「塩の柱とならないように」   大坪 篤史 師     創世記19章15~26節

1.はじめに
  今夏は猛暑が続きました。8月8日には日向灘を震源とするM7.1の地震、29日には台風10号が襲来しました。自然災害への充分な備えが求められます。
2.ロトの物語から
  ロトは叔父のアブラハムと約束の地カナンで豊かな暮らしを営んでいました。しかし、使用人同士の争いが原因で、ロトはゴモラと共に道徳的に退廃した町
  ソドムに移ります。ある時、二人の旅人がやって来ます。町の入り口にいたロトは、彼らを見つけて、自分の家に泊まってもらうことにしました。ところが夜
  になると、ソドムの男たちが来て、二人を引き渡せと口論になります。ロトは男たちを撃退しました。二人の旅人はロトに言いました。「あなたは家族を連れ
  て、ここから逃げなさい。・・・。主はこの町を滅ぼすために私たちを遣わされたのです。」
  ロトは、嫁いで別の家に住んでいた娘たちに逃げようと話しますが、婿たちは取り合いません。夜が明けようとする頃、御使いたちはロトに言いました。
  「さあ立って、あなたの妻とここにいる二人の娘達を連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまう。」
  主は二人の御使いに、ロトと妻と一緒に住んでいた下の二人の娘の手をとらせて、強引に町の外に避難させて、言いました。「命がけで逃げなさい。後ろを
  振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」そして、明け方、ロトは逃げ場にたどり着くことができました。
  そこで、主はソドムとゴモラの町と全住民を滅ぼされたのです。しかし、ロトの後ろにいた妻は振り返ったので、塩の柱になってしまいました。「後ろを振り
  返ってはいけない」という主の命令に従わなかったからです。時に、神は大きな災害を用いて警告を発し、堕落した人間を滅ぼし、神の御心に叶う一部の人々
  を用いて、新たな歴史をスタートさせるのです。
3.イエスの説明から
  ルカによる福音書17章26~32節「人の子の日に起こることは、ちょうどノアの日に起こったことと同様です。・・・・・。また、ロトの時代にあったこと
  と同様です。・・・・、ロトがソドムから出て行くと、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、まったくその
  通りです。・・・・・。ロトの妻を思い出しなさい。」
  ここで、イエスは最後の審判のことを語っておられます。何時になるのかは分かりませんが、必ずやって来ます。その時に、ロトの妻のようになるなと警告を
  発しておられるのです。ですから、「塩の柱とならないように」とは災害時の早期避難と共に主の再臨に備えての心構えの勧めです。
  災害は生きている地球の自浄作用という面があります。ですから、災害を忌み嫌ったり、過度に恐れたりするのではなく、「私たちも地球の働きに適応して、
  共に生きなければならない。」と理解したいと思います。併せて、私たちは感謝と喜びをもって、主の再臨を迎えることができるよう備えたいと思います。
  そして、回りの人々にもそのことを伝えていきたいと思います。





2024年10月6日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅩ)―神の言葉と福音宣教ー」    マクセイ師
                                           テモテへの手紙第一2章4節、ルカの福音書24章44~49節

前回のメッセージで、全ての人の救いを望む神は、創造主の神、唯一の神、救う神、愛の神であることを学びました。
私たちが人を救いたいと願うなら、神の言葉を理解する者でなければなりません。創世記からヨハネの黙示録までの聖書のテーマは何であるかをしっかりと理解
しなければなりません。今日の聖書箇所の一つであるルカの福音書24章44~48節で、キリストは弟子たちに当時の聖書である旧約聖書のテーマは全ての人
の救いだと説いています。旧約聖書は律法の書、預言書、諸文書の三つに分けることができます。そこで、今日はそれぞれから福音宣教に関わる代表的な御言葉
を二つずつ拾っていきます。
1.律法の書
  1)創世記12章1~3節
    神はアブラムの子孫を通して、全ての人を祝福すると約束しています。ユダヤ民族の中から、全ての人の救い主が現れるということです。
  2)出エジプト記19章5~6節
    神はユダヤ民族に特別な祝福を与えています。ユダヤ民族を神の宝として立て、祭司としての特別な使命、役割を与えています。もう一つは聖なる国民
    とすることです。神はユダヤ民族を用いて、福音宣教をしようとされています。
2.預言の書
  1)イザヤ書45章22節
    「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」神の救いの対象は全ての人です。
  2)イザヤ書49章6節
    これは旧約聖書における大宣教命令と言えると思います。「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
3.諸文書
  1)詩篇67編2~3、5、7節
    神は詩人を通して、全ての人がご自分の救いを知り、ご自分をほめたたえることを望んでおられます。
  2)詩篇96編2~3節
    私たちに福音を伝える責任があることを強調しています。
キリストの昇天後に記された新約聖書にはこれらが明確に記されています。マタイの福音書28章19節「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としな
さい。」ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」使徒の働き17章30~31節「神は・・・、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。・・・・。神は
この方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」ローマ人への手紙10章12~13節「同じ主がすべての人の主であり、
ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」
最後の審判は未だ実現していません。神は一人でも滅びることを望んでいないからです。裁きを先送りしておられるのです。ペテロの手紙第二3章9節「主は、
・・・、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
ですから、福音宣教に励みましょう。そのために、神を知る者、神の御言葉を理解する者になりましょう。




2024年9月22日      「神と共に歩む信仰生活(パートⅨ)―神と福音宣教―」     マクセイ師
                                               ルカの福音書2章10節、テモテへの手紙第一2章4節

今日から三回に分けて、福音宣教について考えます。
何故、福音を分かち合わなければならないのでしょうか。テモテへの手紙第一2章4節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおら
れます。」
では、何故、神は全ての人の救いを望んでおられるのでしょうか。今日はそこに絞って、考えます。
1.創造者の神であるからです。
  創世記1章1節「はじめに神が天と地を創造された。」
  人間は神の最高の作品です。神は全ての人の救いを望んでおられます。
2.唯一の神であるからです。
  イザヤ書44章6節「わたしは始めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」
  全ての人の神であるから、全ての人を祝福したいのです。全ての人と交わりたいのです。全ての人の救いを望んでおられます。
3.救いの神であるからです。(創世記3章15節)
  神は人間をご自分の形に創造され、理想的な環境に置かれました。しかし、人間は神から与えられた自由意志を誤用して、神に逆らいました。唯一の戒めを
  犯しました。裁きを受けました。しかし、神は人間を見捨てませんでした。
  聖書全体のテーマは救われるために、あなたは何をすべきかではなく、神様があなたを救うために何をなさったかです。
  誰でも、キリストを通して、キリストの子となることができます。
4.愛の神であるからです。
  ヨハネの手紙第一4章8節「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」
  神は愛の対象として人間を創造されました。人間を理想的な環境に置かれました。罪を犯した人間を見捨てず、神の許に戻れる道を整えました。そして、
  最終的に全ての人の救い主としてイエス・キリストをこの地上に送られました。
  神は全ての人を平等に愛し、全ての人に最高の恵み、祝福、救い、神との和解、永遠の命を与えたいと望んでおられます。
福音宣教をするに当たり、次の二つを念頭に置きたいと思います。
1)私たちは神が望んでいることを望んでいるでしょうか。
2)思うだけでなく、願うだけでなく、行動に移しているでしょうか。
  初代教会時代の福音の広がりを思い起こしてください。原動力になったのは一般の信徒でした。彼らはエルサレムから散らされた時、行く先々で福音を語り
  ました。今もこれが必要です。
基本的に、福音の証は次の四つの問いかけを提示し、それに答えを出していくということです。
イ.神とは
  創造主の神、唯一の神、救いの神、愛の神です。
ロ.人とは
  神の形に創造され、神に愛されています。しかし、神に背き、神の前に罪人として立たされています。
ハ.キリストとは
  神であり、私たちの罪を贖うために十字架上で死んでくださいました。復活によって真の救い主であることを証明されました。私たちはキリストを通して、
  神の許に帰ることが許されています。
ニ.今、何をすべきか
  イエス・キリストを救い主として信じることです。自分の救い主として受け入れることです。バプテスマを通して、救いの恵みに与ることです。
証は優しく、謙虚に、愛をもって、説得することです。これは神の子供である私たちに課された使命です。




2024年9月15日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅧ)―神と祈り―」   マクセイ師
                        詩篇66編18~20節、イザヤ書59章1~3節、ヤコブの手紙5章16節、ヨハネの福音書9章31節

七回に渡って、神と共に歩む信仰生活について学びました。その内の四回は信仰の歩みにおいて重要な祈りについてでした。次の二点にまとめることができます。
1)神は私たちの祈りに耳を傾けることを約束しています。
2)全能全知、愛、善、遍在の神であるから約束を守ります。
そして、前回、私たちの祈りに対する神の答えについて三つ挙げました。
1.YESという答え
2.NOという答え
3.待ちなさいという答え
今日は四番目の答えについて考えます。
4.悔い改めなさいという答え
  私たちが神の御心に沿って歩んでいない時、神は祈りに答えてくださいません。詩篇66編18節「もしも不義を、私が心のうちに見出すなら、主は聞き入れ
  てくださらない。」イザヤ書59章1~2節「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、
  あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」
  これは私たちが罪一つのない生活を送らなければ、神は私たちの祈りを聞いてくださらないということではありません。神が私たちに求めているのは、私たち
  と神の仕切りとなる罪を認めて、告白して、悔い改めることです。
  ヨハネの手紙第一1章9~10節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめて
  くださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」
  ですから、神が祈りに答えてくださらないことに苦情を言ったり、疑ったりすることがあってはなりません。自分に目を向けるべきです。罪認識が薄れがちな
  罪の実例を二つ挙げます。
  1)未解決の人間の問題(マタイの福音書5章23~24節)
    ヨハネの手紙第一2章9節「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。」
    多くの場合、私たちはこれを罪と自覚しようとしません。相手に非があり、自分は悪くないと思っています。神はあなたの方から出向いて、和解しなさい
    と言っておられます。
  2)無関心な姿勢(イザヤ書58章3~10節)
    助け、サポートを必要としている人に目を向けないこと、耳を傾けないこと、助けの手を差し伸べようとしないことです。
    箴言21章13節「貧しい者の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼ぶときにも答えてもらえない。」
  ヨハネの福音書9章31節「神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。」
  罪を犯したら、直ぐに告白し、神の赦しに与ることを継続的に行っていきましょう。
  ヤコブの手紙5章16節「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」
  私たちは救われています。赦されています。聖められています。神の前に「正しい人」とは罪を犯さない人ではありません。完璧に罪を犯さない生活は不可能
  です。 継続的に、自分の罪を隠そうとしない人です。悔い改めて、神の赦しをいただく人です。そして、神の御心に沿って生きることを目標とする人です。




2024年9月8日      「喜び」      ポール・アクストーン 師 (通訳:マクセイ 師)     ペテロの手紙第一1章8~9節

喜びは神と共に歩む生活にあるとペテロは今日の聖書箇所で強調しています。詩篇16編11節「満ち足りた喜びが、あなたの御前にある。」
ネヘミヤ書8章10節「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」又、神と共に歩む喜びは兄弟姉妹との交わりの喜びに繋がります。これを可能にするのは聖霊
の内在です。その実例の一つは聖霊が降臨したペンテコステの出来事です。
何故、喜びは神と共に歩むことにあるのでしょうか。神は私たちのために犠牲的に尽くしてくださっているからです。この喜びはキリストによって完成されました。
キリストは言いました。ヨハネの福音書12章32節「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
聖書が教える喜びは周囲の人たちに犠牲的に仕えることによって生まれます。自己犠牲的な愛は三位一体の神の大事な要素です。私たちは創造者である神に目を
向ける時、神のために、隣人のために喜びをもたらす世界観、価値観を手に入れることができます。ガラテヤ人への手紙2章20節「もはや私が生きているのでは
なく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する
信仰によるのです。」
キリストは四回も同じ注意を私たちに呼び掛けています。マルコの福音書8章35節、ルカの福音書9章24節、17章33節、マタイの福音書16章25節
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」
もう一つの喜びの要素があります。それは私たちが神の子供とされることです。ローマ人への手紙8章15節「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を
受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と呼びます。」
今日のメッセージの結論として、ローマ人への手紙7章と8章を比較します。7章には神抜きの生活、喜びのない生活が記されています。一方、8章は喜びに満ちて
います。8章1~2節「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのち
の御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」
新約聖書の中心をローマ人への手紙とするなら、その中心は8章38~39節です。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、
今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスに
ある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
私たちはキリストによって、新しいいのちに与っています。これが私たちクリスチャンの喜びの本質です。ピリピ人への手紙4章4~5節「いつも主にあって喜び
なさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」




2024年8月25日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅦ)―神と祈り―」  マクセイ師
                                        ヨハネの手紙第一5章14~15節、マルコの福音書10章35~45節

これまで、「神と共に歩む信仰生活」と題して、6回学んできました。その内の3回は「神と祈り」という副題で学びました。神は私たちの祈りに耳を傾け、答え
てくださる神です。知恵に富んだ神、善の神、愛の神であるからです。私たちの祈りに対する神の答えは四つあると思います。
1.「YES」という答えです。
  神の御心にかなった祈りをする時に、YESと答えてくださいます。神の御心を三つ挙げます。
  1)全ての人の救いを望んでおられます。
  2)私たちが隣人を愛することを望んでおられます。
  3)私たちの体は聖霊の宮です。
    自分の、兄弟姉妹の、隣人の健康のために祈ることは神の御心にかなった祈りです。
  神の言葉を自分が置かれている状況に当てはめた祈りは神の御心にかなった祈りです。しかし、私たちがイメージするYESと違う場合があります。
2.「NO」という答えです。
  これはヨハネの手紙第一5章14~15節に隠されている答えだと思います。神の御心に沿った祈りを聞いてくださるということは、神の御心に沿っていない
  祈りは答えないということです。神の御心にそぐわない祈りの原因は何処にあるのでしょうか。
  1)誤った動機で祈っているからです。
    対人関係の問題ならば、先ず、相手を赦し、自分に目を向けるべきです。
  2)神の栄光のためではなく、自分の栄光のための祈りだからです。
    祈りの背景に人から褒められたい、認められたい、尊敬されたいという自己中心的な思いがあるならば、聞いていただけません。祈りが神の栄光のために
    なるのか、御国の発展のためになるのか、周りの人たちのための助けになるのか、確認した上で祈りましょう。自分に問題点があれば、示してくださいと
    祈りましょう。
  3)神の摂理に沿って起こることがあります。
    私たちの日常生活には自然法則によって起こること、人間の自由意志によって起こることがあります、これらは神の摂理によって起こることです。私たち
    が神の御心に沿って祈っていても、私たちの期待に反することが起こることがあります。
3.祈りのタイミングが神の御心に沿っていない時の「待て」という答えです。
  ヨハネの手紙第一5章15節「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていることが分か
  ります。」
  この御言葉は、神は答えを先送りする場合があると解釈することができます。何故、先送りするのでしょうか。
  1)私たちの信仰を試すためです。
  2)私たちの祈りを神の御心に沿ったものに修正させるためです。
  3)私たちを霊的に成長させるためです。
私たちは神の思いの全てを把握することはできません。それでも、祈りは神との交わりに不可欠であって、信仰生活の大きな柱です。大切にしていかなければなり
ません。イザヤ書55章8~9節「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。――主のことば――天が地より
も高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」




2024年8月18日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅥ)―神と祈り―」    マクセイ師    詩篇119編68節、ヨハネの手紙第一4章8節

前回に続き、神と祈りについて考えます。何故、神は私たちの祈りに応えたいのでしょうか。前回、その答えの一つとして、知恵に富んでいるからだと申しました。
今日は残りの二つに目を向けます。
2.神は善であるからです。
  神が善であることは何を意味するのでしょうか。
  1)善の究極的基準です。
  2)神が良しとすることは善です。
  神は善であることは私たちに何をもたらすのでしょうか。
  1)神は寛大、親切、愛をもって私たちに接してくださいます。
    マタイの福音書5章45節「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」
  2)全ての良いものの源です。
    ヤコブの手紙1章17節「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、・・・、光を造られた父から下って来るのです。」
  3)私たちの生活の中に起こるあらゆることを最終的に益としてくださいます。
    ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となること
    を、私たちは知っています。」
  神は善であるということは、私たちの信仰生活に何を意味するのでしょうか。
  1)私たちも善を行う者でなければなりません。
  2)どのような状況に置かれても、私たちは感謝できます。
  3)善悪の基準を神に置かなければなりません。
    世間の善は損得を考えた善です。神は相手の最善を求めます。
3.神は愛であるからです。
  ヨハネの手紙第一4章8節「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」
  ヨハネの手紙第一が書かれた当時、使われていた愛は異性愛(エロス)、家族愛(ストロゲー)、友情(フィレオ)の三つでした。この三つの愛は感情的な愛
  です。対象が限定されています。
  ヨハネの手紙第一の愛はアガペー愛です。感情的な愛ではありません。意志による愛です。全ての人を対象にした愛です。神ご自身が行動をもってアガペー愛
  を私たちに示してくださいました。そのような愛をもっておられる神は全ての人に関心をもっておられます。又、自己犠牲的に愛してくださいます。
  犠牲的な神の愛は私たちに神の子どもらしく、愛の内に歩むことを求めています。エペソ人への手紙5章1節「愛されている子どもらしく、神に倣う者となり
  なさい。また。愛のうちに歩みなさい。」
  キリストはそれを実践する助け手、聖霊を与えています。ガラテヤ人への手紙5章22~23節「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
  柔和、自制です。」
  御霊の実の最初が愛です。アガペー愛をもって生活する人には喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が自ずと生れます。ですから、アガペー愛が
  私たちの生活のベースにならなければなりません。それを通して、周囲の人たちは目に見えない神が見えてきます。
テサロニケ人への手紙第一5章16~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」




2024年8月4日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅤ)―神と祈り―     エレミヤ書29章12節、33章3節

先週に引き続き、祈りについて考えます。何故、神は私たちの祈りに答えたいのでしょうか。答えは三つあります。今日はその一つを取り上げます。
1.知恵に富む神であるからです。
  神は全能ですが、知恵に富んでいるので、力を悪用しません。ここの知恵とは次の二つです。ベストの目標を立てること、そして、目標達成のための最善の
  手段を選択することです。ダニエル書2章20節「神の御名はほむべきかな。とこしえからとこしえまで。知恵と力は神のもの。」
  1)神は力をどのように表しているのでしょうか。
    イ.創造の働きを通して表しています。
      自然界を観察すれば創造の働きの凄さを確認することができます。詩篇104編24節「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは
      知恵をもってそれらをみな造られました。地は あなたのもので満ちています。」
    ロ.摂理を通して表しています。
      神の摂理とは神の意図的御心で起こること、赦す御心によって起こることです。後者は自然法則によって起こることと人間の自由意思に起こることの
      二つがあります。ローマ人への手紙8章28節(現代訳)「私たちが知っているように、神を愛する人々、つまり神のご計画に従って救われた人々
      には、神がすべてのことを共に働かせて、益としてくださるのである。」
      神はそれだけの知恵をもっておられるということです。神はそのために全能の力を用いるのです。ですから、苦しい状況に置かれても、最終的には
      神が知恵をもって、それを私たちの益にしてくださいます。それだけの知恵をもっておられるということです。
    ハ.救いの働きを通して表しています。
      キリストが人間の姿をとってこの世に来られ、私たちの身代わりとなり、十字架の上で命を捧げたのは神の知恵によるご計画です。
  2)神が知恵ある方であることは、私たちにとって如何なる意味があるのでしょうか。
    イ.人間に自由意思を与えたのは間違いではありません。
      これがベストであったということです。私たちはこれを疑ったり、異議を申し立ててはいけません。
    ロ.私たちの祈りに対する神の答えにクレームを付けてはいけません。
      クレームを付けることができるのは、神以上の知恵をもった存在だけです。
    ハ.あらゆる状況を益としてくださいます。
      ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益と
      なることを、私たちは知っています。」
    二.私たちは神に知恵を求めなければなりません。
      ヤコブの手紙1章5節「あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる
      神に求めなさい。そうすれば与えられます。」
      神の知恵は聖書に見ることができます。テモテへの手紙第二3章15節「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを
      受けさせることができます。
テサロニケ人への手紙第一5章16~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」




2024年7月28日   「神と共に歩む信仰生活(パートⅣ)-神と祈り―    マクセイ師     エレミヤ書29章12節、33章3節

今日から数回に分けて、信仰生活において重要な祈りについて考えたいと思います。
信仰の対象である神は私たちにどのような神であるかを啓示してきました。その中で、私たちに二つの約束をしています。
1)私たちの祈りに耳を傾けます。
  エレミヤ書29章12節「あなたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。」
2)私たちの祈りに答えます。
  エレミヤ書33章3節「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう。」どうして、神はこの二つの約束を果たすことができるのでしょうか。三つの答えを提示しています。
1.全能の神だからです。
  神の力に限界はないということです。創世記17章1節「わたしは全能の神である。」
  神が全能であることは何を意味するのでしょうか。
  1)何者も神の働きを止めることはできません。
  2)今、神はその力をもって万物を支えておられます。
  3)愛の神、善の神ですから、悪用しません。私たちの益のために使います。
  では、全能の神に祈る時に、私たちは如何にあるべきでしょうか。
  1)謙虚であるべきです。
  2)神は私たちの感謝、誉れ、礼拝を受けるに相応しい方であることを確信することです。
2.全知の神だからです。
  ヨハネの手紙第一3章20節「神は・・・・・すべてをご存知です。」
  祈りに当たって、心すべきことを挙げましょう。
  1)私たちの祈りは神様への情報提供ではありません。自分が懸念していること、求めていること等を祈るべきです。
  2)自分の罪を隠さないことです。
   3)神様が全てをご存知であることを肯定的に捉えましょう。
3.遍在の神だからです。
  遍在するとは、同時に、至る所に存在するということです。
  遍在の神と私たちとの違いは空間的な制限があるか、ないかです。神には空間的な制限は一切ありません。全ての空間が神の前にあるということです。
  ですから、何所でも、何時でも、神は私たちと共にいるということです。
  詩篇145編18節「主を呼び求める者すべてまこと(神に関する正しい知識、理解)をもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられます。」
全能、全知、遍在の神であることを表す実例を見て終わります。出エジプト記3章7節「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに
見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その
地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもと
に遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
この神は今の私たちの神です。この神にしっかりと目を向け、謙虚に祈り続けていきましょう。




2024年7月21日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅢ)―神と癒し―」   マクセイ 師
                                              コリント人への手紙第二5章1~8節、イザヤ書53章5節

前回のパートⅡでは神と病いについて考えました。病いに侵されるのは神の御心ではなくて、神の摂理によって起こることであることを学びました。今日は、神と
癒しについて三つのポイントで考えます。
1.旧約聖書における神の癒し
  旧約聖書の初期2500年、癒しは出て来ません。出て來るのはモーセの時代です。モーセの妹、ミリアムがハンセン病に罹りました。モーセは祈り、彼女は
  癒やされました。
  神は約束の地に向かっているユダヤ人たちに約束しました。申命記7章15節「あなたがたが私に真実に従うなら、病気から守ります。」
  この約束は当時のユダヤ民族のみとの約束であり、現代の私たちには当てはまりません。私たちはキリストと信仰による救いの契約が結ばれています。
2.新約聖書における神の癒し
  新約聖書、特に、福音書には癒しの奇跡が沢山出てきます。キリストの地上における奇跡の大多数は癒しの奇跡です。その動機づけは憐みの心です。しかし、
  全ての人を癒していません。
  弟子たちはキリストから与えられた癒しの賜物によって多くの人々を癒やしました。マタイの福音書10章1節「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを
  制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」
  パウロにも癒しの力が与えられました。コリント人への手紙第二12章12節「私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるしを明らかにしました。  しるしと不思議と力あるわざによってです。」
  キリストと同じように、使徒たちは全ての人を癒すことはありませんでした。又、使徒たちがこの地上から去って以降、特定の人物に癒やしの賜物は与えられて
  いません。
3.現代における神の癒し
  六つのことを強調したいと思います。
  1)今も、神は癒やす神です。
    へブル人への手紙13章8節「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」ですから、超自然的神の癒しは今も健在です。
  2)神の御心は全ての人が霊的に癒されることです。
    テモテへの手紙第一2章4節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
  3)現代、神の節理によって癒される時があります。
    現代の神の癒しの手段は現代医療です。適切な医療がなされるように神に祈り続けましょう。
  4)神の節理によって、肉体的病いが癒されない時もあります。
    パウロは肉体的なとげを与えられました。三度も神に祈りましたが、癒されませんでした。
  5)肉体的癒しが与えられなくても、内面的な癒しが与えられます。
    諦めずに、癒しの祈りを続けましょう。
  6)神は私たちに永遠の癒しを約束しています。
    肉体的癒しはないかも知れませんが、内面的癒しは約束しています。永遠の癒しを約束しています。
現代においても、癒す神は健在です。必ず、超自然的に癒すとは限りませんが、確実に、私たちを癒す現代医療を用意しています。ですから、私たちが最も必要と
しているのは内面的癒しであることを再確認し、福音のメッセージを語り続けていきたいと思います。





2024年7月14日    「わたしは明けの明星である」   大坪 篤史 師   ヨハネの黙示録22章1~21節

1.はじめに
   先週の日曜日は七夕でした。「星」という言葉が旧約聖書には41回、新約聖書には28回使われおり、それぞれに大変重要な意味合いで用いられています。
   今日は、聖書が星を通して、何を伝えようとしているのか、御一緒に考えたいと思います。
2.聖書に出てくる「星」の数々
  星という言葉が最初に出てくるのは、創世記1章の天地創造の四日目です。神は仰いました。14~15節「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定め
  られた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」
  神は一連の創造の御業を見て、「それは非常に良かった」と満足されました。
  詩編8編では、ダビデが神の創造の御業と御心の深さに、畏敬の念と感謝の言葉を発しています。そこには救い主の来臨の預言の意味も込められていました。
  それから1000年後、ユダヤのベツレヘムという町で、ダビデの預言が実現しました。その知らせは東の国にいた占星術の学者たちにも届きました。彼らが、
  「メシアはユダヤのベツレヘムで生まれる」という預言に基づいて、その方向へ向かうと、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進み
  行き、留まりました。家に入ると、幼子が母マリアと共におられたので、彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献
  げたとあります。夜空に燦然と輝く特別な星が、まさに「星の讃歌」という形でイエス様の誕生を告げ知らせたのです。16世紀のドイツの天文学者ケプラー
  は火星、木星、土星の3つが重なって見える天体現象だったのではないかという説を発表しています。
3.ヨハネの黙示録~わたしは明けの明星である
  ヨハネの黙示録には「星」と言う言葉が13回使われています。そして、何時の世も神が支配されていること、最終的には神の裁きがなされ、悪者は地獄に
  投げ込まれ、神を信じる者たちには永遠の命が与えられることを教え、各地で迫害に遭っているクリスチャンたちを励まし、教会を正しく堅固なものに導こう
  としています。併せて、古今東西、邪悪な為政者や政治体制の下、多くの人が弾圧、殺害されるなど、理不尽な人生を強いられてきました。それに対して、
  神自らが正しい判断に基づいて、最後の審判を下す時が必ず来ると教えています。
  イエス様ご自身が新しい世界の幕開けを象徴する「明けの明星」になってくださり、神ご自身が完全に支配する理想的な世界に私たちを招いてくださいます。
  ですから、来るべき最後の審判、来るべき新しい世界に備えて、与えられたこの世の人生を感謝して、神と共に精一杯生きていきたいと思います。そして、
  どんなことがあろうとも「明けの明星」に希望を託しながら、天に召されるその時まで、信仰生活を続けていこうではありませんか。既に召された家族や先輩
  方と再び合いまみえる時には、何の思い煩いもなく、共に永遠の命に与らせていただきたいと思います。私たちの未来が、神の義によって支配され、真に幸い
  ならんことを心から願います。




2024年7月7日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅡ)―神と病-」   マクセイ 師
                                              コリント人への手紙第二4章16~18節、12章7~9節

パートⅠでは私たちの信仰の原点である創世記1章1節から、創造主の神について考えました。
今日から、何回かに分けて、私たちの日常生活において起こることを神はどのように思っておられるのか、何を望んでおられるのか、何をして来られたのか、これ
から何をなさろうとしているのか、これらのことを考えていきたいと思います。
第一回目として、病について考えます。神は絶対的力、無限の力をもっておられるのに、私たちを愛しておられるのに、何故、私たちが病に侵されることを許され
るのでしょうか。四つの疑問を取り上げて、神と病について考えます。
1.病は神の御心なのでしょうか。
  私たちが病に侵されることは神の御心ではありません。その根拠は創世記1~3章に見ることができます。神は人間を永遠に生きる者として創造されました。
  永遠に生きる環境を整えました。しかし、人間は神の戒めを犯しました。エデンの園から追い出されました。肉体的な死がもたらされました。そして、完璧な
  環境が呪われてしまいました。それまで存在しなかった自然災害、病気、苦難、戦争等が起こり得る環境ができたのです。神はキリストの再臨までの間、呪わ
  れた環境が続くことを許しておられます。神の節理です。人間に弱さ、限界に気付かせるためです。神に目を向けさせるためです。
2.病は罪の結果なのでしょうか。
  キリストは生まれつき目の見えない人についての弟子たちとのやりとりの中で、病は罪の結果であるという当時の一般的認識を否定しています。私たちの体は
  神から与えられた尊い器です。ですから、自分の健康を守る責務があります。それでも病に侵されることがあります。
3.病は不信仰の結果なのでしょうか。
  パウロ、テモテ、トロフィモの三人は素晴らしい信仰をもち、信仰者の鑑でしたが、病に侵されました。彼らの信仰が益々深まって欲しいという神の願いが込
  められています。
4.何故、神は病を許すのでしょうか。
  1)私たちをもっと神に近づけるためです。
    ヨブは道徳的に、倫理的に理想的な信仰生活をしていました。恵まれた生活を送っていました。しかし、一瞬にして最悪の状態に落とされました。それで
    も、彼は神を呪うことなく、信頼し続けました。その結果、神により近づくことができました。
  2)私たちをもっと神により頼む者とするためです。
    コリント人への手紙第二1章9節「私たちは死刑の判決を受けた思いでした。それは、私たちが自分に頼らず、死者の中からよみがえらせてくださる神に
    頼る者となるためだったのです。」
  3)神の慰めを体験させるためです。
    コリント人への手紙第二1章4節「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」
  4)神の慰めの器となるためです。
    コリント人への手紙第二1章4節「私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」
神と病の関係を正しく理解していくと、私たちが実際に病に侵された時に感謝できますし、感謝すべきだと思います。神は全てを益としてくださるからです。




2024年6月23日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅠ)―そこにおられる神―」      マクセイ 師
                                     ダニエル書11章32節、創世記1章1節、使徒の働き17章15~34節

今日から何回かに分けて、神と共に歩む信仰生活について考えます。出発点は神を正しく知ること、理解することです。ダニエル書11章32節「自分の神を
知る人たちは堅く立って事を行う。」第一回目として、信仰生活の三つの基本を考えます。
1.神が存在していることを確信しなければなりません。
  創世記1章1節「はじめに神が天と地を創造された。」
  神は何物にも依存せずに存在します。そして、全てのものの創造者です。イエス・キリストもそれを真実であると認めておられます。私たちの信仰生活の
  出発点はここでなければなりません。
2.その神はどのような神かを知らなければなりません。
  1)永遠から存在しています。
    創世記1章1節にある通りです。詩篇90編2節「山々が生れる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神で
    す。」
  2)霊の神です。
    何物にも拘束されない究極的な存在です。目には見えませんが、命、理性、自由意志があります。イエス・キリストは言いました。
    ヨハネの福音書4章24節「神は霊です。」
  3)創造者です。
    創世記1章1節にある通りです。神によって、無から全てが創造されました。時間と偶然が重なって、全てが始まったとする進化論は間違いです。
  使徒の働き17章15~34節で、パウロはアテネのインテリが知らずに拝んでいる神に関連して、神について幾つかの真実を指摘しました。
  1)神は創造主です。
    24節「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」
  2)私たちを養う神です。
    25節「何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。」
    私たちに依存する必要はありません。私たちが支える必要もありません。
    25節「神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられます。」
  3)近づくことのできる神です。
    27節「神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」
  4)生きている神です。
    29節「神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。」
    霊である神は命の源であり、私たちに命を与えてくださる永遠の存在です。
3.これらのことは私たちに何を意味するのでしょうか。
  これから何回かに分けて考えていきます。今日は、神からいただく恵みと私たちがなすべき責務を挙げましょう。
  1)私たちは住む自然界をフルに楽しむことができるし、守る責任があります。
    自然界は神の足跡です。偶像化してはいけません。
  2)私たちは神の作品です。
  3)私たちの存在には意味があります。
  4)私たちは神を礼拝しなければなりません。
    詩篇95編6節「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう。私たちを造られた方 主の前にひざまづこう。」
  5)私たちは霊的なものに重点を置かなければなりません。
  6)私たちは肉体的に衰えても、神に霊的に仕え続けていくことができます。霊的に実を結び続けることができます。
  7)恐れずに死を迎えることができます。
    約束通り、私たちに永遠の命を与えてくださいます。死は終りではありません。始まりです。




2024年6月16日    「父なる神に倣う者となりなさい」   マクセイ 師    エペソ人への手紙5章1~7節

今日は父の日です。医療宣教師のシュバイツァーは言いました。「子育てで、親が努めるべきは子に良き模範を与えることです。」
神に倣うことについて、二つのポイントで考えます。
1.何故、私たちは神に倣う者とならなければならないのでしょうか。
  1)神がそれを命じているからです。
    マタイの福音書5章48節「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
    ペテロの手紙第一1章15~16節でペテロはレビ記11章44節、19章2節、20章7節を引用しています。「あなたがたを召された聖なる方に倣い、
    あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるから
    です。」
  2)神のみが唯一で完全な存在であるからです。
    愛、平安、親切、善意、忠実さ、優しさ、自制心において神に不足は全くありません。ヤコブの手紙1章17節「父には、移り変わりはありません。」
    その神様が求めていることです
  3)私たちは神の子供であるからです。
    キリストの救いに与った私たちは神の家族、子供に加えられています。エペソ人への手紙5章1節「愛されている子供らしく、神に倣う者となりなさい。」
2.如何にしたら、神に倣う者となれるのでしょうか。
  1)神に愛されていることを確信する。
    神に愛されていると信じていたノブは幾多の苦難に遭遇しました。サタンに言われました。「神を呪って、死になささい。」しかし、ノブは神への信頼を
    失いませんでした。信仰を守り通しました。その結果、以前よりも祝福された生活が与えられました。
  2)神を良く知る。
    知らなければ、倣うことはできません。神を知るとは神の御言葉に目を向けることです。そして、神と時間を過ごすことです。ダビデは祈りました。
    詩編25編4~5節「主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の
    救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。」
  3)愛のうちに歩む。
    ヨハネの手紙第一4章8節「神は愛」です。神に倣うことの出発点はこれです。エペソ人への手紙5章2節「愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを
    愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださいました。」
    神の愛はアガペー愛です。全ての人に向けられた愛です。
  4)聖い者として生きる。
    ペテロの手紙第一1章15~16節「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがた
    は聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである。』と書いてあるからです。」
    聖く生きるということはどういうことでしょうか。エペソ人への手紙5章3~7節に四点挙げられています。
    イ.行動における聖さを保つことです。
    ロ.思いを聖く保つことです。
    ハ.言葉を聖く保つことです。
    二.人間関係を聖く保つことです。
日々、自分が何者であるかを忘れずに、神に倣う者であり続けたいと思います。




2024年6月9日    「花のように 子どものように」   大坪 篤史実 師   マルコの福音書10章13~16節、マタイの福音書6章28~34節

1.はじめに~花の日、子どもの日
  教会暦によると、今日は「花の日、子どもの日」です。
  マタイの福音書6章28~34節で、イエス様は「野の花は自分で勉強も仕事もしないのに、神様はこんなにも美しく咲かせてくださる。だから、この世の
  ことで悩む必要はない。神様を信じ、神様に依存して生きるならば、大切なことは全て守られる。だから、神の国とその義をまずに求めなさい。そうすれば
  全てが与えられる。」と救いのメッセージを語りました。
2.子どものように
  マルコの福音書10章でイエス様は「ここは子供の来るところじゃない。」と叱った弟子たちに「子どもたちを私のところに来させなさい。神様の国は小さ
  くて弱い子どものような人たちのものだ。子どものように素直になりなさい。」とたしなめました。世の中の考え方をひっくり返すような発言に弟子たちは
  驚きました。強くて立派な人になる必要はないのです。弱くても、貧しくてもよいのです。大事なのは、子どものような素直な心を持って、神様を信じる人
  になることです。私たちにとって、とてもありがたくて、うれしい教えです。
3.星野富弘さんのこと~おわりに
  今年4月、不自由な体でたくさんの花の絵や詩を発表し、クリスチャンとしての証をされた星野富弘さんが天に召されました。彼は教師になったばかりの
  1970年6月に、器械体操の部活動の指導中に、頭から落下して頚髄(けいずい)を損傷し、首から下の自由を失いました。しかし、2年後には、大学
  病院に入院している中で、口に筆をくわえて文章や絵を描き始めるようになり、更に2年後、病室でキリスト教の洗礼を受けています。
  厳しい境遇から生まれた彼の作品は決して悲観的なものではなく、むしろ、小さなものや弱いものへの愛情にあふれており、「人としてどう生きるべきか」
  という問いを私たちに投げかけているように思います。星野さんの生き方は、まさに花のようであり、子どものようであったと思います。それは、弱さを
  知っている人間だからこそ気づくことのできた視点であり、クリスチャンになったからこそたどり着けた境地であったと思うのです。
  人間は年を取ってくると身体機能が衰え、力も弱くなります。あるいは、大きな事故に遭ったり、重い病気にかかったりする人もいます。そして、そのこと
  を嘆きます。しかし、果たしてそうでしょうか。それは神の国に入るための準備であり、むしろ喜ぶべきことではないでしょうか。弱い自分を認め、素直な
  気持ちでイエス様により頼むことこそ、人として本来あるべき姿ではないでしょうか。故郷の天国に凱旋するための祝福された時を過ごしているのです。
  「老いることは子どものようになること」でもあります。イエス様はそんな一人一人をこよなく愛し、神の国に受け入れてくださいます。ですから、安心
  して全てをイエス様に委ね、残された日々を共に明るく過ごしていこうではありませんか。そして、これからの未来を生きる子どもたちには、どんなことが
  あっても、イエス様がいつも守ってくださることを伝えていきたいと思います。




2024年6月2日     「光る君へ」   大坪 篤史 師     ヨハネの福音書1章1~14節

1.はじめに
  6月に入りました。やがて、年間を通して、昼の時間が最も長く、光が強くなる「夏至」を迎えます。このように地球上の生命の営みにリズムが生まれ、季節
  の喜びを感じることができるのは、地軸が23.4度傾いているためです。創造主である神の粋な計らいではないでしょうか。
2.イエスこそ「光る君」
  1節「初めに、ことばがあった」ギリシャ語原文では「初めに、ロゴスがあった」とあり、「初めに、イエスがあった」と解釈することができます。
  更に、イエスは愛の神ですから、「初めに愛があった」とも理解することもできます。
  そこで、イエスの本質の一つである「光」に焦点を当てたいと思います。4節「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とあります。生涯
  を通して、イエスが人間を照らす光として存在しておられたことが示されています。しかし、人間はイエスを理解しなかったと断じています。更に、8節から
  は、バプテスマのヨハネの使命について語り、イエスの本質を「まことの光」と強調しています。
  「光」とは何でしょうか。ヨハネは旧約聖書の創世記の冒頭と連動する形で、この箇所を表現しています。創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」
  そして、「光よ。あれ。」と宣言し、混沌としていた闇の世界に光が差し、時が動き始めたのです。光が差したために生物が誕生しました。そして、食物連鎖
  の中で、様々な生物が繁栄していきました。ですから、光は全ての命の源と理解することができます。又、光は全てのものを明らかにされました。更に、光は
  熱を帯びています。エネルギーの源です。これが地球の大気や水を動かし、生物の営みを活性化させ、ダイナミックな世界を造り上げました。
  このように、光は全ての根源です。そして、ヨハネは「イエスこそまことの光である」と宣言したのです。まさに、イエスこそ「光る君」です。
  しかし、続けて次のように語っています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」イエスを真の光、
  神だと理解できていれば、決してこのようなことにはならなかったでしょう。だから、ヨハネは1世紀の終わりになって、福音書を著して、「イエスこそ真の
  神であった。」と宣言したのです。
  イエスは私たちに教えられました。「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」
  光は時であり、明るさであり、暖かさであります。私たちはイエスを信じるクリスチャンとして、イエスからいただいた光を反射させて、暗闇の世を照らして
  いかなければなりません。日々の生活の中で、イエスの愛を体現し、悔い改めと救いを求め、希望を語っていくことが求められています。それこそが、「世の
  光として、人々の前に輝く」ことです。
3.「光る君」を反射させる
  光る君であるイエスの光を喜んで反射させてこそ、その光は明るく輝き、周囲の人々に感動を与えます。福音を信じようとするきっかけを与えます。皆さんに
  とって、6月が素晴らしい光の時となりますに




2024年5月26日     「聖霊降臨のその後」     大坪 篤史 師     使徒の働き2章37~47節

1.はじめに
  梅雨入りが間近です。我家の庭の紫陽花が綺麗に咲き、癒やされています。
2.聖霊降臨~初代教会の誕生
  教会暦によれば、先週の日曜日は聖霊降臨日でした。
  「使徒の働き」は医者であり、パウロの同労者であるルカが捕らわれの身のパウロの潔白を訴えるために、ローマの高官に宛てて書いた福音書の続編です。
  2章にはイエス様が約束していた通り、五旬節の日に天から聖霊が降ってきたという不思議な出来事が記されています。そこで、ペテロは群衆に向かって、
  真理と救いのメッセージを熱く語り始めるのです。人々は心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言いました。ペテロは答えます。
  「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
  その日に3000人ほどの人々が仲間に加わりました。ここに最初の教会が誕生したのです。
  43節以降を見ますと、使徒たちによって、多くの不思議な業と証の奇跡が行われたため、「一同の心に恐れが生じた」とあります。創造主である神様への
  畏敬の気持ちが生れたのです。その結果、信者たちは一切の物を共有とし、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共に
  し、神を讃美しました。その姿は民衆からも好意を持たれることになり、2章の最後には、「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」と
  あります。「私があなた方を愛したように、あなた方もお互いに愛し合いなさい。」というイエス様の御言葉がまさに現実となったのです。しかし、残念な
  がら、これは長続きしませんでした。様々な試練と戦っていくことになります。40年後には、彼らの住むエルサレムがローマ帝国によって滅ぼされ、周辺
  国に散らされました。しかし、どんな困難に遭っても、信仰の火が消えてしまうことはありませんでした。
  今日、21世紀の私たちが聖書を読むことができるのも、初代教会から続く信仰の火が受け継がれてきたからに他なりません。聖霊降臨のその後は、今も
  続いているのです。
3.吉野教会の皆さんへ~シンフォニーを奏でる
  この聖書箇所で特徴的なのは、信者の心が一つになっていたということです。新共同訳聖書では「一つになる」という言葉が3回も使われています。
  義弟の池田基宣牧師は「一つになる」とは「シンフォニー(交響曲)を奏でる」と理解できると言いました。素晴らしいシンフォニーを奏でるために、指揮
  者であるイエス様に従って、それぞれが自分の楽器の演奏をすることだと言うのです。「一つになる」とは、皆が同じになるということではないのです。
  最近、日本でも「ダイバーシティ=多様性尊重」が正しい価値観として認められるようになってきました。教会でもそうあるべきだと思います。何時になるか
  は分かりませんが、イエス様が再臨し、最後の審判の日が来ます。互いの個性や生き方を尊重しつつ、同じ主を見上げて、神と人とに喜ばれるシンフォニー
  を奏でていきたいと思います。




2024年5月12日    「母はみな、心に留めておいた」   大坪 篤史実 師     ルカの福音書2章41~52節

1.はじめに
  この連休、私たちは久しぶりに東京に行き、長男家族に会ってきました。そして、栃木県の那須高原まで足を伸ばし、新緑を楽しみ、影絵作家として有名な
  藤城清治氏の美術館にも行くことができました。
2.少年イエスの物語~母はみな、心に留めておいた
  今日は5月の第2日曜日、母の日です。イエスを産み、育てた母マリヤの思いについて、御一緒に考えたいと思います。
  今日の聖書箇所は、聖書の中でイエスの子供時代の出来事が記されている唯一の箇所です。敬虔なユダヤ教徒であったヨセフとマリヤは、過越の祭の時、毎年
  ガリラヤの田舎町ナザレからエルサレム詣でをしていました。その年は12歳になったイエスも一緒に連れて行ったのです。当時、地域ぐるみで参加するのが
  通例でしたので、ヨセフとマリヤは、イエスの存在を確認することなく、皆と一緒にいるものと思って、帰路に就きました。ところが、一日の道のりを終えた
  時に、イエスがいないことに気付いたのです。そこで仕方なく、イエスを探しながらエルサレムまで引き返しました。そして、3日後に、イエスが神殿の中に
  いるのを見つけたのです。その時の様子をルカは次のように記しています。「イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられ
  るのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」マリヤは言いました。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。
  見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」イエスは平然として答えるのです。「どうして私をお捜しになったのですか。私が必ず
  自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
  両親にはこの言葉の意味が分からなかったようです。12歳のイエスが「自分は神の子であることを自覚していた」ということです。イエスはユダヤ教の教師
  たちを相手に、真ん中に座って、堂々と渡り合い、周囲の皆が驚くほど見事な受け答えをしていたのです。マリヤは感じるものがあったのでしょう。「それか
  らイエスは、一緒に下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた」とルカは記しています。「これらの
  こと」とは、天使から突然に受胎告知を受けた時に始まる、数々の不思議な体験のことです。それを静かに受け止めて心の中に大切にしまっておいたという
  ことでしょう。そして、イエスを立派に育てていったのです。
3.母の日に寄せて
  「母の日」は1870年、南北戦争終結後のアメリカで、「母の日宣言」が発せられたことに始まり、1914年、5月の第2日曜日が記念日と定められました。
  日本では、1949年、アメリカにならって、5月の第2日曜日に母の日の行事が行われるようになり、現在に至っています。
  母の愛は、神様の愛「アガペー愛」に一番近いと言われます。その愛によって、かけがえのない命が受け継がれ、人類の歴史も紡がれてきました。全ての母に
  感謝する日、そして、その母を贈ってくださった神様に感謝する日にしたいと思います。




2024年5月5日    「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートXIV)-満ち足りる心を養う者を求める神―     マクセイ 師
                                            出エジプト記20章17節、ピリピ人への手紙4章11~13節

十戒の最後のメッセージ、十番目の戒めを取り上げます。出エジプト記20章17節「隣人のものを欲しがってはならない。」原語に一番近い訳は「隣人のものを
貪ってはならない。」です。私たちは、行動において、一番目の戒めから九番目の戒めを全部守っているかも知れませんが、間違いなく、心の中ではこの一つ一つ
を犯し続けています。十番目の戒めはそれを私たちに教えています。又、一番目から九番目までの戒めは周りの人たちが目で確認できますが、十番目の戒めは見え
ません。しかし、神は私たちの心を見ておられます。今日は、十番目の戒めを三つのポイントに分けて、考えます。
1.貪る罪の本質
  1)行動ではなく、思い、感情の罪です。
  2)欲しいものを手に入れるために手段を選びません。
  3)持っていないものを無暗に欲しがります。
  4)禁じられている物をやたらに欲しがります。
  5)意図的、意識的な思いです。自然に生じるものではありません。
  6)特定のものを欲しがります。
   7)利己的な思い、願いです。
  8)破壊的な力を秘めています。人の寛大さを妨害します。
  9)他の色々な罪を生み出します。
  10)自己破壊的な行動に導きます。自滅に追い込みます。
  11)偶像礼拝に匹敵する罪です。
    エペソ人への手紙5章5節「貪る者は偶像礼拝者である。」
  最後に、付け加えておきたいことがあります。
  1)貪ること全てが罪ではありません。正しいことを熱心に求めることは推奨されるべきことです。
  2)「貪る」を通して、罪の本質の理解を深めることができます。善悪を区別できないから、罪を犯すのではありません。
    善よりも悪を求めているのです。知識の問題ではなく、心の問題です。
2.貪る罪の引き金
  不満です。不満は何処から生まれるのでしょうか。
  1)比較すること
    私たちは隣人と比較する時、二つの誤った思い込みをします。
    イ.隣人の置かれている状況がその人を幸せにしているという思い込みです。
    ロ.自分もその人と同じような状況に置かれるならば、幸せになれるという思い込みです。
    この二つの思い込みによって、比較することから不満が生れ、貪ることになリます。
  2)感謝の欠乏
  3)信仰の欠乏
    へブル人への手紙11章1節「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
3.貪る罪の処方箋
  貪らないためには、現状に満足することです。満ち足りる心を養うことです。そのために、私たちは何を心がけるべきでしょうか。
  1)感謝を忘れないことです。
  2)神に全面的な信頼を置くことです。
  3)この世に対する不満を抱くことです。
    私たちクリスチャンは、この世は一時的であること、通過中であることを知っています。
    ヨハネの手紙第一2章15~17節「あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを
    行う者は永遠に生き続けます。」
  4)神との関係を深めることです。
    これが満ち足りる心を養う最終的な鍵です。ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

    
    

2024年4月28日   「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートXIII)―真実を語る者を求める神―」    マクセイ 師
                                            出エジプト記20章16節、エペソ人への手紙4章25節

九番目の戒め「偽りの証言をしてはならない。」の背景にあるのは、神は真実な神であるということです。
先週、この戒めを守ることは、偽りの証言をしないこと、嘘をつかないこと、陰口をしないこと、中傷しないことだと学びました。今日は、更に、神が禁じる
四つのことに目を向けます。そして、私たちは如何にすれば、真実を語る人として歩むことができるのかを考えます。
1.へつらうこと
  下心をもって、人をおだてることです。しかし、落ち込んでいる、弱っている兄弟姉妹を二心なく、元気づける、励ます言葉をかけなければなりません。
2.騙すことです。
  偽りの言葉をもって、意図的に相手を惑わすことです。現代社会では、結婚詐欺、電話詐欺、投資詐欺等が横行しています。注意しましょう。
3.口を閉ざすことです。
  不正に対して、沈黙することは不正に同意することになります。レビ記5章1節「人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたり
  する証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。」
  箴言31章8~9節「口のきけない人のために、口を開きなさい。すべての不幸な人の訴えのために。口を開いて、正しくさばき、苦しむ人や貧しい人の
  ためにさばきを行いなさい。」
4.誤った教え
  神から啓示された真理、福音を捻じ曲げようとする、付け加えようとする、省こうとする動き、人たちから守らなければなりません。そのために何をすべき
  でしょうか。
  1)真理と偽りを区別しなければなりません。
    本当の福音と異端を見分ける簡単な方法は、キリストについて、救いについて、聖書について何を教えているか、この三つのポイントを確認することです。
  2)信仰について問われたら、答えられるように準備しておくことです。
    ペテロの手紙第一3章15節「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」
  3)積極的に、継続的に真実を語ることです。
    何故、異端は広がっていくのでしょうか。クリスチャンが証ししないからです。テモテへの手紙第二4章2節「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても
    悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
最後に確認しましょう。真実を語る人として歩んで行くために、私たちは何をしなければならないのでしょうか。
1)創造主である神のみが真実の源であることを確信することです。
2)偽りの父はサタンであることを忘れないことです。
3)前もって、あらゆる場合に真実を語ることを決意することです。
4)偽りの証言の結果を十分に想定することです。
5)語る前に考えることです。自問自答することです。
6)神の助けを求めることです。
7)イエス・キリストによって新しく作り替えられた者として、相応しい真実を語らなければならないと自覚することです。
あらゆる場面で、神に助けを求めながら、真実を語るクリスチャンとして成長していきましょう。




2024年4月21日  「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅫ)―真実を語る者を求める神―」    マクセイ 師
                                               出エジプト記20章16節、エペソ人への手紙4章25節

神は私たちの生活を守り、祝福するために十戒を与えました。1~4番目の戒めは神との関係を、5~10番目の戒めは隣人との関係を守り、祝福するためです。
今日と来週、9番目の戒めが禁じていることについて考えます。
1.偽りの証言をしてはならない。
  神は公正な裁判が行われるように、幾つかのことを定めました。
  1)9番目の戒め
    出エジプト記20章16節「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」
  2)二人、又は、三人の証人
    当時、一人の証言でも刑が確定しました。これを改めました。
  3)例えば、死刑の判決が出た場合、証言した証人が最初の石を投げなければならないとしました。
     申命記17章7節「死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。」
  ここから、教訓として学ぶべきことを挙げます。
  1)神は私たちに真実を語る証人になることを求めています。
  2)常に、事実を捻じ曲げようとする誘惑が潜んでいます。
    現代、インターネット等を通して、不真実が流されています。
  3)証人の証言は重要です。
2.嘘をついてはならない。
  詩篇116編11節「人はだれでも偽りを言う。」偽りの世界の背後にはサタンが存在します。
  嘘をつくと、相手に色々なダメージを与えます。そして、自分自身にダメージを与えます。私たちはクリスチャンとして、あらゆる偽りを自分の生活から、
  自分の口から切り捨てなければなりません。
3.陰口を言ってはならない。陰口を言うことに加わってはならない。
  箴言18章8節「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物。腹の奥に降って行く。」
  これを守るためには、陰口に耳を傾けないことです。そこから逃げるか、陰口を止めることです。陰口の対象となっている人との直接対話を勧めることです。
  陰口の対象となっている人を肯定する話をすることです。
4.中傷してはならない。
  偽りをもって、相手にダメージを与えることです。ある人は言いました。「中傷とは言葉による暗殺である。」
  これは神が最も嫌うことです。詩篇101編5節「陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。」
  イエス・キリストは宗教家たちからの中傷の的になりました。ペテロの手紙第一2章22~23節「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きも
  なかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」
  相手も自分と同じように神のかたちに創造されています。神に愛されています。神の救いの対象です。だから、中傷してはいけないのです。
私たちクリスチャンの使命は真実を語ることです。人を高める、人の益となることを語ることです。エペソ人への手紙4章25節「ですから、あなたがたは偽り
を捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」同29節「悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。
むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」




2024年4月7日    「父の愛」    ライアン・ザグス インターン宣教師   通訳 マクセイ 師   ルカの福音書15章11~32節

私たちはこれまでの人生で色々な過ちを犯してきました。私の好きな詩「足跡」にはそんな私たちを愛して止まない神様の無条件、無限の愛が描かれています。
神の前において、私たちは全てが罪人です。神の守りと恵みを必要としています。ですから、クリスチャンである私たちは神を知らない人たちに神の守りと恵み
を分ち合うことが求められます。
今日の聖書箇所は、神の無条件の愛と教会が全ての人に開かれていることを教えています。当時、取税人や罪人は社会の最下層の人たちでした。取税人は裏切り
者として憎まれていました。ローマ帝国への納税金を余分に徴収して、私腹を肥やしていたからです。イエス様はその様な人たちと意図的に交わりました。救い
に導くためです。たとえ話に入る前に、当時の人たちの共通認識を確認しておきましょう。
1)父親が亡くなる前に遺産を分与するということはあり得ません。
2)父親が亡くなる前に、子が父親に遺産贈与を求めることもあり得ません。
3)父親は大金持ち、高貴な人です。そういう人には尊敬をもって接することが求められました。
ですから、聴衆は遺産の分与を求める息子が父親を愛していないと受け取ったと思われます。更に、聴衆を驚かせたのは、父親が息子のわがままな要求に応じた
ことです。財産を分与された息子は遠方に出かけて行って、父親が予測したように、金を使い果たし、大きな過ちを犯したことに気付きました。
ユダヤ人社会では豚は汚れているとして食べませんし、近付くこともよしとしません。息子は豚の世話をする、豚の餌を食べるほどまでに落ちぶれました。息子
はとんでもない過ちを犯したことに目覚め、実家に帰ること、自分を僕の一人として使ってもらうことを決断しました。父親は乞食同然で帰って来た息子を見て、
走り寄り、抱きしめました。当時、高貴な人が走るということはあり得ないことでした。走り寄ったということは神の無条件、無限の愛と喜びを表しています。
それだけでなく、父親は衣を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせました。そして、肥えた子牛を屠り、最高級の宴会を用意しました。私たちが神から離れていて
も、神のもとに帰るという決断をするなら、神は喜んで私たちを迎え入れてくださるのです。
畑仕事から帰って来た兄息子は宴会が行われていることに驚き、弟息子に嫉妬し、宴会に参加しようとしません。父親がそれに気づき、兄息子に叱ることなく、
語りかけています。父親は兄息子に言いました。「お前は何時も私と共にいる。私の物は全てお前のものだ。霊的に死んでいた弟息子が生き返ったのだから、
一緒に喜び、祝おうではないか。」
このたとえ話から貴重な教訓を読み取ることができます。
1)神の深い、広い愛は私たち一人一人に向けられています。
2)父親のようになりたいと思います。
  隣人への無条件の愛、赦し、息子の帰還を待ち続ける忍耐を見習いたいと思います。そして、この愛、赦し、受け入れる度量、忍耐を多くの人と分ち合いた
  いと思います。
3)いただいている神の愛をもって、私たちが何をするかです。




2024年3月31日    「キリストの復活の力」     マクセイ 師      エペソ人への手紙1章15~23節

素晴らしい天候に恵まれたイースターの朝です。
私たちの信仰の土台はキリストの客観的な事実であるキリストの復活です。キリストの復活の力を通して、私たちはどのような力をいただいているのでしょうか。
1.信仰に導き入れられました。
  コリント人への手紙第一15章3~6節「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、・・・、
  私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、・・・、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子にあらわれた
  ことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」
  正しい情報によって、私たちはキリストを神と信じることができますし、救いに与ることができます。
2.私たちの新しい誕生を可能にします。
  霊的死からの第二の誕生です。ペテロの手紙第一1章3節「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに
  よって、私たちを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
3.キリストによる救いが完了したことを確信できます。
  へブル人への手紙9章26節で「キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」
4.罪に打ち勝ち、正しく生きる力に与ります。
  私たちはキリストによって造り替えられましたが、全く罪を犯さないということではありません。キリストにアクセスすることによって、罪を犯す回数、誘惑
  に負ける回数が減っていきます。そのために、何が必要でしょうか。
  1)祈ることです。
  2)信仰をもってアクセスすることです。
    へブル人への手紙11章6節「神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない
    のです。」
  3)キリストに留まることです。
    キリストは言いました。ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまって
    いるなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」信仰には二つの要素があります。同意と
    信頼です。そして、キリストとの日々のコミュニケーションを密にすることです。どんなに厳しい条件下にあっても、キリストに仕え続けることです。
5.未来における私たちの復活の保証です。
  キリストの再臨に伴って、私たちが与る復活の体の前例がイエス・キリストです。コリント人への手紙第一15章20節「今やキリストは、眠った者の初穂
  として死者の中からよみがえられました。」
コリント人への手紙第一15章55~58節「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえの棘はどこにあるのか。・・・。神に感謝します。神は、私たち
の主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに
励みなさい。」




2024年3月24日     「許しの恵み」    マクセイ 師    詩篇32編1~11節

復活祭前の主日、キリストの復活と密接な関係がある神の許しについて考えます。
前回、CDで聞いてもらったメッセージ「許しの力」は人間関係の許しを中心としたメッセ―ジでした。今日は、私たちが神からいただく許しについて考えます。
ダビデは40年間に渡って、ユダヤ民族の王として、ユダヤを黄金の時代に導きました。神と共に歩み、神に用いられましたが、とんでもない罪を重ねました。
詩篇32編はダビデの罪の許しと許しに至るまでの歩みを取り上げています。
1.神の許しによって得られる恵み
    1)責められるところのない良心が与えられます。(1、2節)
    全ての人が罪を犯しています。そして、神様の許しの対象とならない罪はありません。神様は許した後、それを二度と持ち出しません。神の前において、
    裁きを受けるべき対象から外してくださいます。
  2)神の守りに与ります。(6、7節)
    私たちを裁く神様から私たちを守る神様になってくださいます。ローマ人への手紙8章1節「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは
    決してありません。」
  3)罪を犯さない、罪に支配されない歩みができるようになります。(8、9節)
    許された人は神の御言葉による導きによって変えられます。
  4)神にある喜びに与ります。(11~12節)
    11節「正しい者たち・・・喜びの声をあげよ。」
 2.神の許しの恵みに与るためにすべきこと
  1)罪を告白することです。
    告白しないで苦しんだダビデでしたが、変わったのです。
    イ.率直に、神に罪を自白しました。
    ロ.罪の責任をとりました。
  2)自分の過ちを罪と認めることです。
  3)罪の許しを確信することです。
    5節「あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。」ダビデは許しを確信しています。
  私たちも許しの恵みに与るために、ダビデのように罪を告白しましょう。
  1)漠然とした告白ではなく、具体的に告白しましょう。
  2)罪の責任をとりましょう。言い訳、責任転嫁、正当化をしないことです。
  3)告白した罪を再び犯さないと決意しましょう。
    もし、罪の被害者がいたら、被害者に自分の罪を告白して、許しを求めましょう。
  4)神の許しを求めましょう。
    ヨハネの手紙第一1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめて
    くださいます。」
  5)神の許しを受け入れましょう。確信しましょう。
    5節「私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。すると、あなたは私の罪の
    とがめを赦してくださいました。」
    ローマ人への手紙8章1節「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
  6)神の許しは完全です。自分を許しましょう。
許しの道はキリストの復活により完成されたのです。ローマ人への手紙4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められる
ために、よみがえられました。」
私たちの信仰は復活信仰です。来週、それを詳しく取り上げます。




2024年3月10日    「受難節を迎えて」    大坪 篤史 師      ルカの福音書10章25~27節

1.はじめに
  3月8日は女性の地位向上や女性差別の払拭を目指す日「国際女性デー」です。
2.善き隣人とは
  教会暦によると、今年は2月14日(水)から受難節に入りました。今日の聖書箇所に選んだのは「善きサマリア人」のたとえ話です。
  ユダヤ教の指導者たちは、何とかしてイエスを陥れたいと狙っていました。その一人がイエスに「何をしたら、永遠の命を自分のものとして受けることが
  できるでしょうか。」と質問しました。逆に、イエスは質問します。「律法には何と書いてありますか。」彼は答えました。「心を尽くし、思いを尽くし、
  力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります。」イエスは言われました。
  「それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」彼は質問を続けます。「私の隣人とは誰のことですか。」そこで、イエスは「善きサマリア人」のたとえ
  を話されたのです。
  強盗に襲われて、半殺しに遭った人に対する三人の対応です。祭司とレビ人は気付かないふりをして、道の反対側を通り過ぎて行きました。三人目のサマリア
  人はかわいそうに思い、応急処置をして、宿屋に連れて行き、介抱しました。そして、翌日、デナリ銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、言いました。「介抱して
  あげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
  まさに至れり尽くせりの対応でした。イエスは尋ねます。「この三人の中で、誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」律法の専門家は応えまし
  た。「その人にあわれみをかけてやった人です。」イエスは言いました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
  律法の専門家のその後の対応について、聖書は何も語っていませんが、恐らく、イエスへの敵意を一層高めたと思われます。
  このたとえ話をどのように捉えるべきでしょうか。「善き隣人になるために、私達もサマリア人のようになりましょう。」と安易に読んではいけません。私は
  このサマリア人こそイエス様だと思うのです。私たちは半殺しに遭った人間です。傷ついた私たちを見つけ、わざわざそばに来て助けてくださるイエス様の
  「愛の物語」として受け止めるべきです。そうすることによって、聖書は単なる道徳の書ではなく、良き訪れの福音の書として読むことができます。
   更に、このサマリア人が、宿屋の主人にデナリ銀貨2枚を渡したことにも注目したいと思います。三日目に戻って来るということを意味しています。つまり、
  これはイエス様の復活の暗示でもあります。
3.受難節をどう過ごすか
  聖書にはたくさんの女性が登場します。イエスに高価な香油を注いだのも、イエスが息を引き取られた時、最後まで見守ったのも、そして、復活の朝、最初に
  イエスに再会したのも女性でした。
  イエス様は、復活して40日後に天に昇られて、今でも玉座に就いておられます。 そして、その愛の眼差しは、現代の私たちにも向けられています。聖書は
  福音の書です。そのことを覚え、受難節の日々を感謝しながら過ごしたいと思います。




2024年3月3日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅪ)―神のものを尊重する者を求める神―」    マクセイ 師
                                                出エジプト記20章15節、マラキ書3章7~12節

先週は人から盗むことについて考えました。今日は神から盗むことについて考えます。大前提は「全ては神によって創造され、神のものである。」です。三つの
ポイントで考えます。
1.神から盗むこと
  私たちは神から盗むことができるのでしょうか。又、何を盗んでいるのでしょうか。マラキ書3章7~12節は三つの大事な原則を教えています。
  1)人間は神から盗んできました。今も盗んでいます。
  2)私たちは神のものを盗んでいます。
  3)私たちが神から離れている時、神のものを盗んでいます。
  では、現代の私たちは神から何を盗んでいるのでしょうか。
  1)時間を盗んでいます。
    神と交わる時間、兄弟姉妹と交わる時間、隣人に奉仕する時間を盗んでいます。
  2)賜物を用いていません。
  3)感謝を捧げていません。
  4)神から預けられているものを返していません。
    マラキ書は神がユダヤ民族に求めた十分の一献金に触れています。厳密に言うなら、現代の私たちには十分の一献金は義務付けられていません。新約時代の
    私たちは新しい契約のもとにあるからです。しかし、これを基準、スタートラインとすべきです。
2.神からの盗みを止める条件
  マラキ書3章7~12節はそれを教えています。
  1)神に帰りましょう。
    7節「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたに帰る。」
  2)神に捧げましょう。
    現代の私たちは如何に捧げるべきでしょうか。コリント人への手紙第一16章2節「いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに貯えて
    おきなさい。」
    イ.収入に応じて捧げましょう。
    ロ.計画的に捧げましょう。
  3)正しい態度で捧げましょう。
    コリント人への手紙第二9章7節「一人ひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は、喜んで与える人を
    愛してくださるのです。」
    イ.自分の判断で捧げましょう。
    ロ.自発的に捧げましょう。
    ハ.喜んで捧げましょう。
3.神から盗むことを止めた結果
  マラキ書3章10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。―万軍の主は言われる―わたし
  があなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」
  私たちが喜んで捧げる時にどのような祝福に与るのでしょうか。コリント人への手紙第二9章8~11節はそれを教えています。
  1)私たちの必要が満たされます。
  2)私たちの神のための働きが祝福されます。
  3)助けを必要としている隣人と更に分ち合うことができるように祝福されます。
  4)分ち合った隣人が神に感謝します。
  5)私たちのために祈る人が起されます。
コリント人への手紙第二9章10~11節「神は、ささげる物を備えてくださるばかりでなく、私たちがささげることができるように、私たちを祝福してくださる。
あなたがたは、あらゆる点で豊かになっているのだから、惜しみなくささげることができるわけであり、そうすれば、あなたがたがしようとしているこの献金は、  
神に対する感謝となるのである。(現代訳)」




2024年2月25日    「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅩ)―他人の財産を尊重する者を求める神―」   マクセイ 師
                                              出エジプト記20章15節、エペソ人への手紙4節28節

十戒の8番目の戒めです。盗むなは無条件の禁止令です。今日は人から盗むこと、来週は神から盗むことを取り上げます。
1.盗みの手口
  現代、十戒が与えられた時代よりも巧妙な手口が用いられています。拾っていきましょう。
  1)住居侵入窃盗
  2)強盗
  3)自動車窃盗
  4)万引
  5)スリ
  6)詐欺
  7)横領
  8)着服
  9)恐喝
  10)会社や店の商品の従業員による窃盗
  11)時間窃盗 勤務時間中に仕事と関係ないことを行うことです。遅刻、早退等です。
  12)従業員に対する会社の窃盗 賃金未払い等です。
  13)個人情報窃盗
  14)盗作
  15)不法ダウンロード
  16)借金返済放棄
  17)脱税
  18)陰口による窃盗  中傷などにより人の評判を壊すことです。
  私たちクリスチャンは自分の身を守るために、窃盗のあらゆる手口を知らなければなりません。そして、そのような誘惑に注意しなければなりません。
2.盗みの背後にあること
  1)誤った価値基準
    ヨハネの手紙第一2章15~16節「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人の内に御父の愛は
    ありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」
  2)神への信頼がないこと
  3)怠惰
  4)身勝手な貪欲
3.盗みの誘惑に惑わされないための条件
  1)聖書に基づく優先順位を設定することです。
    詩篇24編1節「地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。」
  2)神に絶対的な信頼を置くことです。
    マタイの福音書6章26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養って
    くださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるのではありませんか。」
    ピリピ人への手紙4章19節「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくだ
    さいます。」
  3)働くことです。自分に与えられた責任をきちんと果たすことです。
    エペソ人への手紙4章28節「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、
    労苦して働きなさい。」
  4)人に仕える、人に与える機会を求め続けることです。
    GetからGiveを中心とした生活に転換することです。
  5)盗みの罪過を負わせないことです。
    箴言13章11節(現代訳)「不正に得たお金は無くなってしまうが、こつこつ働いて得たお金は、増えていく。」
  6)ちょっとした盗みが大きな罪に繋がっていく可能性があります。
    キリストの弟子ユダは会計係として不正を行っていました。挙句の果ては、キリストを祭司たちに引渡し、銀貨30枚を得ました。
ある牧師は取る人として生きるか、若しくは、与える人として生きるか、二通りの生き方しかなく、与える人として生きて欲しいと言っています。その手本はキリ
ストです。キリストは最終的にご自分の命まで与えました。私たちも与える人として生きたいと思います。




2024年2月18日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅨ)―聖別されたものを重んじる者を求める神ー」   マクセイ 師
                                     出エジプト記20章14節、マタイの福音書5章27~28節、19章3~6節

十のことば、十戒は私たちと神との関係、そして、隣人との関係を守り、祝福するために神から与えられました、今日は、七番目の戒め「姦淫してはならない。」
に目を向けます。
1.この戒めの背後にある原則
  三つの原則があります。
  1)聖別
    聖書全般に渡って強調されている原則です。神は特定のものを価値あるものとして特別に聖く保っておられます。ペテロの手紙第一1章16節「あなたが
    たは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである。」
    私たちが聖なる者であるために、神に用いられるために、神は制限を設けています。
   2)結婚は聖別されたものである。
    神は結婚を聖別しました。創世記2章24節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
    結婚は特別なものです。大事にしなければなりません。何故なら、結婚には他の関係にはない次の四つの要素があるからです。
    イ.一体性があります。
      夫と妻の融合です。そして、二人の感情的な、精神的な一体性があります。姦淫はそれを壊し、神を嘲ることになります。
    ロ.親密な関係があります。
      肉体的な親密性と精神的、感情的親密性があります。
    ハ.生殖です。
      子供をもうけて、家族を作ることです。神はこれを結婚の目的とされました。神は人類の存続、発展のために結婚を定めました。
    二.交わり
      創世記2章18節「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
  3)性は聖別されたものである。
    神のご計画において、性は健全で、良いものです。現代社会が乱れていることの背景には、性を聖別されたものとして見ないで、遊びの手段と捉えている
    ことにあります。
2.この戒めが禁じていること
  1)姦淫
    自分の夫、妻以外の人と性的な関係をもつことです。
  2)婚前交渉
  3)心の中における姦淫
    マタイの福音書5章27~28節「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。
    情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのです。」
  4)同性愛、同性結婚
    神が定めた結婚生活は男と女の特別な繋がりです。神は同性の繋がりを認めていません。むしろ、それを堅く禁じており、裁くと宣言しておられます。
3.この戒めを如何に守るべきか
  1)神の警告と戒めを真剣に受け留めるべきです。
  2)霊的成長に努めるべきです。
  3)神の言葉を心に蓄えるべきです。
  4)自分の目を何処に向けるか注意すべきです。
    情欲を抱いて異性を見ないという契約を自分の目と結ぶことです。
  5)自分の弱さを自覚すべきです。
  6)あらゆる性的誘惑から逃げるべきです。
コリント人への手紙第一6章18~20節「淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。・・・・・。あなたがたのからだは、あなた
がたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」




2024年2月4日     「伝道にブレーキをかける事」   マクセイ 師    ローマ人への手紙10章8~17節

先週のメッセージの終わりで、私たちは隣人の肉体的な命と共に、霊的命も守る責任があると申しました。そのために、私たちは伝道しなければなりません。
伝道へのブレーキは私たちの外側ではなく、内側にあります。そこで、今日は伝道のブレーキになる事、そして、それを打破する秘訣について考えます。
1.伝道のブレーキになる事
  1)自分にはできないという思い込み
    「自分は牧師、伝道者でもない」「聖書に詳しくない」このような言い訳をして、伝道を怠りがちです。二つのことを覚えましょう。
    イ.初代教会の時代、厳しい迫害の中で、福音が短期間で広がりました。その原動力になったのは弟子たち、使徒たちではなく、一般のクリスチャン
      でした。
    ロ.キリストのことを語るだけで十分です。
      ヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの女を思い出してください。彼女は町の人たちにキリストを紹介しただけです。多くの人がキリストを信じ
      ました。
  2)行動、生き方の証で十分だと思うこと
    口頭で、キリストについて、福音について、語らなくても、日常生活の行動で十分に伝わっているという思い込みです。行動は大事な証ですが、言葉に
    よる証も不可欠です。
  3)永遠の裁きに触れたくないという思い
    永遠の裁きは聖書に明記されている真理として受け留めなければなりません。神の永遠の裁きに触れることなく、救いについて語ることはできません。
  4)最終的に、全ての人は救われると思うこと
    これを万人救済説と言います。聖書の教えではありません。主の御名を呼び求める人だけが救われます。
  5)その内に取り掛かると思うこと
    伝道は緊急の課題であり、私たちに明日は約束されていません。ヤコブの手紙4章14節「あなたがたには、明日のことは分かりません。・・・・。
    あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」
2.伝道のブレーキになる事を打破する秘訣
  1)一人ではないということを覚えましょう。
    キリストは大宣教命令の最後に付け加えています。マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
    キリストが何時も私たちと共におられ、導いてくださいます。
  2)証抜きには福音は伝わりません。
    ローマ人への手紙10章14節「信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるので
    しょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」同17節「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについて
    のことばを通して実現するのです。」
  3)大胆に証できるように祈りましょう。
    初代教会のクリスチャンンたちは祈りました。使徒の働き4章29節「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆
    に語らせてください。」「私たちを助けてください。」ではありませんでした。祈りは聞き入れられました。同31節「彼らが祈り終えると、集まって
    いた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」




2024年1月28日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅦ)―人の命を重んじる者を求める神―」    マクセイ 師
                                                 出エジプト記20章13節、創世記9章1~7節

先週に続き、十戒の六番目の戒め「殺してはならない。」に目を向け、三つのポイントで考えます。
1.この戒めが禁じていること
  1)殺人
    創世記9章6節(現代訳)「人の血を流す殺人者には、死刑が要求される。神に似せて、人は造られたのだから。」
  2)心の中における殺人
    キリストは言いました。心の中で人に怒りを抱く、軽蔑する、恨むことは神の前においては殺人罪に当たります。私たちは全員この戒めを犯しています。
  3)妊娠中絶
    生まれる前の子供も一人の人間です。但し、母親の健康が危険に晒される場合、胎児の成長が著しく損なわれている場合は例外です。
  4)自殺
    神から与えられた命だからです。命を奪うことは神のみができることです。私たちはクリスチャンとして自殺者が増えないように、周囲の苦しんでいる
    人たち、悩んでいる人たちを励ましましょう。
  5)安楽死
    死に近い人の延命治療を停止することは殺人ではありません。しかし、本人の求め、意思に従って死なせることは殺人です。
  6)集団虐殺
    第二次世界大戦で、ヒットラーは600万人のユダヤ人を虐殺しました。
2.この戒めが禁じていないこと
  1)動物を殺すこと
    創世記9章3節「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。」
    食物とするためであれば殺してもよいが、いたずらに、殺してはいけません。私たちは動物を大事にすべきです。
  2)死刑
    創世記9章6節(現代訳)「人の血を流す殺人者には、死刑が要求される。神に似せて、人は造られたのだから。」
  3)防衛戦争
    ローマ人への手紙13章から導き出されることです。政府やその機関は国民の平安を守ります。神が国に与えた権利です。
  4)自己防衛
    出エジプト記22章2節「もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、打った者に血の責任はない。」
    正当防衛です。
3.日常生活で、この戒めを守る人がすること
  1)隣人を愛します。
    殺してはならないという戒めの根底にあります。自分を愛するように隣人を愛する人は隣人の命を尊重します。
  2)弱者の擁護者になります。
    箴言31章8~9節(現代訳)「あなたは、自分で自分のことを主張できない気の毒な人たちのために口を開き、口を開いて、公正に裁き、貧しい人や
    困っている人たちの訴えを取り上げなさい。」
    弱者に寄り添うということです。
  3)できる限り、隣人と平和に暮らします。
    ローマ人への手紙12章16節には、隣人と平和に生きていくための三つのステップが挙げられています。
    イ.謙虚である。
    ロ.復讐しない。
    ハ.善をもって悪に打ち勝つ。
  4)福音を分ち合います。
    私たちは隣人の肉体的な命だけでなく、霊的な命も大事にしなければなりません。
    テサロニケ人への手紙第二1章8~9節「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、
    永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。」
    そうならないように、私たちは前もって、警告のメッセージを伝えなければなりません。何故なら、神は全ての人の救いを望んでおられるからです。
    キリストの大宣教命令を心に留め、熱心に証をしていきましょう。




2024年1月21日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅦ)―人の命を重んじる者を求める神―」    マクセイ 師
                                                 出エジプト記20章13節、創世記4章1~12節

十戒は私たちと神との関係、私たちの人間関係を祝福するために与えられました。今日は、人間関係に関する二番目の戒め「殺してはならない」について三つの
ポイントで考えます。
1.この戒めの根拠
  創世記1章27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
  私たち人間はユニークな存在です。
  1)全ての人が神のかたちに創造されています。
  2)私たちの命は神から与えられています。
    創世記2章7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
    人の命の尊厳を尊重しなければなりません。
2.この戒めの重大さ
  何故、殺人は重大な罪なのでしょうか。
  1)神に対する脅迫、挑戦、攻撃だからです。
    神のかたちに造られた者を殺すことは、神に対する脅迫、挑戦、攻撃です。
  2)神に対する越権行為であるからです。
     命を与え、命を取り上げる権限は神のみにあります。これを自分がもっているかのように行使することになるからです。
    ヨブ記12章10節「すべての生き物のいのちと、すべての肉なる人の息は、その御手の内にある。」
  3)私たちは兄弟の番人であるからです。
    私たちは家族です。私たちは神のかたちに創造されているからです。神から命をいただいているからです。兄弟の命を自分の命と同じように大事にしな
    ければなりません。
  4)サタンの側に立つことになるからです。
  5)取り返しがつかないからです。
    盗みは損害賠償できますが、奪った命は取り戻せません。
  6)人の命には測り知れない価値があるからです。
    神のかたちに造られているからです。神からいただいた命だからです。
3.この戒めを犯す人
  怒りは私たちの心に起こる感情の一つです。キリストはすべての人がこの戒めを犯し続けていると指摘しています。マタイの福音書5章21節「旧訳聖書には、
  『人殺しをしてはいけない。人殺しをした者は、裁判によって罰せられる。』と記されているのをご存じでしょう。あなたがたは、これを間違って解釈して
  います。この本当の意味を教えて上げましょう。それはこうです。だれに対してでも腹を立てる者、また、人をばか呼ばわりする者、また、だれに対してでも、
  その人を見下す者は、皆人殺しをしたのと同じです。(現代訳)」
心の中でこの罪を犯し続けることがないようにするために、次のことを心掛けましょう。
1)兄弟の番人であることを自覚しましょう。
2)相手は神のかたちに創造された者であることを認めましょう。
3)相手を赦しましょう。和解しましょう。これを継続的に行いましょう。
4)聖霊の助けをいただいて、罪を告白し、悔い改め、神の赦しをいただきましょう。
ヨハネの手紙第一4章20~21節「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない
神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」




2024年1月7日     「新年において役に立つ、実を結ぶクリスチャン」     マクセイ 師
                                   コリント人への手紙第一9章24~27節、ガラテヤ人への手紙5章22~25節

2024年が始まりました。私たちの共通の願いは与えられた一年という時間を有効に活かして、役に立つクリスチャンとして、多くの実を結ぶクリスチャンと
して成長することだと思います。そのためには、自制が不可欠です。
ガラテヤ人への手紙5章22~23節には、九つの聖霊の賜物が挙げられています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。自制が最後です。
自制がなければ、他の実を結ぶことはできないからだと思われます。三つの視点で自制について考えます。
1.自制の本質
  自制とは自分が目指す目標から引き離そうとするあらゆる力に対して、自己統制によって、自分を守る力です。その鍵は聖霊に頼ることです。具体的には次の
  通りです。
  1)自分に対してNOと言うことです。
    利己主義な思い、聖書に反する行動を採ろうとする時にNOと言うことです。
  2)すべきことを実践する力です。
    状況の良し悪し、自分に向いているか、いないかに関係なく、言い訳をせずに、先送りせずに、すべきことを実践することです。
2.自制の確保
   2024年、自制をもって、役に立つクリスチャンになるためにはどうあるべきでしょうか。
   1)目標意識をもつことです。
    クリスチャンが常にもつべき目標は神の栄光を現わすことです。コリント人への手紙第一10章31節「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしな
    さい。」
  2)自己管理が必要です。
    コリント人への手紙第一9章27節「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。・・・・。自分自身が失格者とならないようにするためです。」
  具体的には何が求められるのでしょうか。
  1)御言葉を開く時間を定め、守ることです。
  2)祈りの生活を忠実に守ることです。
  3)有益でないものにかける時間をできるだけ少なくして、有益なことに時間を投入することです。
  4)御霊に頼ることです。
    ガラテヤ人への手紙5章16節「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
    御霊の導きによって歩むとはどういうことでしょう。
    イ.御言葉によって養われることです。
    ロ.聖霊との交わりを阻むものを取り除くことです。
    ハ.聖霊に全面的に頼ることです。
3.自制の実践
  1)神との関係において自制は不可欠です。
    ヤコブの手紙4章8節「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」
  2)自分の体の健康を保つために自制が必要です。
  3)心と思いの自制が必要です。
  4)感情における自制が必要です。
  5)時間の使い方における自制が必要です。

   6)お金の使い方における自制が必要です。
   7)舌の使い方に自制が必要です。
   8)人間関係における自制が必要です。
コロサイ人への手紙1章10節はパウロの祈りの一部です。今日のメッセージが凝縮されています。「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに
実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」
自制は救いの条件ではありません。2024年、この御言葉を心に留めて、クリスチャンとして成長しましょう。

       Copyright(C)2011 Yoshino Church of Christ All Rights Reserved