吉野キリストの教会
Yoshino Church of Christ
〒892-0872
鹿児島市大明丘3-15-7
TEL 099-243-8012
                     
  
ホーム


教会のご紹介

私たちの教会の立場

教職者紹介
案内地図

           

集会のご案内

定期集会
諸活動
ゴスペルフラ



最近の礼拝説教

  
外部との交わり
他教会との交わ

最近の礼拝説

2025年12月7日  「神にほめられる人」   マクセイ師    ローマ人への手紙2章25~29節

ローマ人への手紙1章~2章24節を学んできました。この手紙のテーマは
キリストの福音による救いです。福音を必要としているのは創造者である神を否定し、
創造されたものを自分の神としている異邦人、そして、神の選民であり、神の律法を守っていると自負するユダヤ人です。
2章25節から、ユダヤ人のもう一つの問題点、割礼という儀式を取り上げています。彼らは割礼さえ受けておれば、神にほめられると考えています。神にほめ
られる人とはどういう人でしょうか。
1.形式的な儀式に重点を置かない人です。(25~29節)
  割礼は神とアブラハムの契約の印として、モーセを通して、神がユダヤ民族に律法を与える500年も前に与えた儀式です。男の子が生まれて8日目に、性器
  の包皮に切り込みを入れる儀式であり、この世から離れて、神の前に聖く生きるとの誓いを象徴する儀式です。しかし、彼らはこれを形骸化しました。神は
  警告し、是正を求めました。エレミヤ書4章4節「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」
  私たちキリストの教会の儀式は洗礼と主の晩餐の二つだけです。しかし、本当に悔い改めることがなければ、洗礼は無意味だし、キリストの身代わりの死、
  復活、昇天、再臨の約束、これら全てを思い起しながら、改めて、自分の救いを確信することがなければ、主の晩餐は無意味です。形式的にならないように
  注意しましょう。
2.造り変えられた心で神に聞き従う人です。(26~29節)
  26節「割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。」
  如何にすれば、神の言葉に沿って歩むことができるのでしょうか。心の割礼を受けることによってです。29節「文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼
  だからです。その人への賞賛は人からではなく、神から来ます。」
  心の割礼とは何でしょう。私たちの心が神の力によって造り変えられることです。コロサイ人への手紙2章11節「キリストにあって、あなたがたは人の手に
  よらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」
  ピリピ人への手紙3章3節「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」
  ガラテヤ人への手紙6章15節「割礼受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
  新しい創造とはキリストの救いに与ることです。コリント人への手紙第二5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」
神を愛しているから、キリストを信じているから、クリスチャンとして成長したいからという厚い思いで礼拝に参加し、主の晩餐に与りましょう。コロサイ人への
手紙2章11節「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」
この御言葉を何時も意識しながら、神を愛し、神を礼拝し、神を証しましょう。




2025年11月30日    「主の御手の中で」    大坪 篤史 師      伝道者の書3章1~11節

1.はじめに
  今年の大阪聖書学院のたねまき会は11月3日、「終わりまで主の御手の中で歩む」というテーマで行われました。
  午前は私が伝道者の書3章をテキストに、自分の半生を振り返りながら、全ての出来事には神の定められた時があり、私の人生は神の御手の中にあるという
  ことをお話しさせていただきました。
  そして、午後は水野健師が「キリスト教の就活」について話されました。以上の報告を兼ねて、「主の御手の中で」と題してお話をします。
2.神の御手の中にある人生
  私は普通の公務員の家庭で育ちました。父方の祖父が農業をしながら、地元の神社で宮司をしていたこともあり、葬儀などは神式でしたが、宗教色は濃くあり
  ませんでした。キリスト教に触れたのは、大学時代に女房に出会った時です。結婚前に西之表キリスト教会の牧師である義父にバプテスマを授けていただきま
  した。そして、54歳の時、大阪聖書学院の門を叩きました。県庁で色々な仕事を経験しましたが、行政では解決できないことがあります。それは「死」の
  問題です。私は60歳で定年退職した後は牧師として人々の魂を救う仕事がしたいと思うようになり、県庁での仕事を続けながら、大阪聖書学院の社会人向け
  の通信課程で学び、9年かけて卒業しました。そして、岸本学院長から按手礼を受け、牧師としての歩みをスタートしました。現在、3つの教会の協力牧師と
  して活動しています。
  県庁在職中も、定年退職後の職場においても、自分がクリスチャンであり、牧師であることを公表しています。私の日頃の言動を通して、周りの人々にクリス
  チャンとしての生き様を届けられたらと願っています。
  「伝道者の書」は、私にとって心に響く書です。「如何に生きるべきか」について、様々な示唆を与えてくれます。人生には「神様、何故ですか。」と問いた
  くなるような時がありますが、それは神のみぞ知ることであり、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と教えています。そして、「神のなさることは
  すべて時に適って美しい。」「神は人の心に永遠への思いを与えられた。」(ヨハネの福音書14章1~4節)と総括しています。イエス様を信じる私たちは
  死後、主の御許に迎えられ、永遠の命へと導かれるのです。
3.死を正しく理解し、豊かに人生を歩む
  後半は「どうやって豊かに人生を歩むのか」ということについてお話しました。伝道者の書はその答えを「与える人生」だと教えています。伝道者の書11章
  1節「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見い出す。」何歳になっても、寝たきりになっても、神はその時々に相応しい
  私のパンを備えてくださると教えています。
  午後から、水野先生はキリスト教の終活として次を挙げられました。
  1)人生を振り返り、神の恵みを思い起すこと。
  2)死をあるがままに受け止めること。
  3)自分の人生を記録に残し、お世話になった方々への感謝の文をしたためておくこと。
  「ありがとう」と心穏やかに言って、この世の人生を終わりたいと切に願います。




2025年11月16日    「最も危険な罪」   マクセイ 師     ローマ人への手紙2章17~24節

最も危険な罪とは教会を崩壊させる罪、クリスチャンを教会から引き離す罪、未信者の求道意欲を無にする罪です。それは偽善という罪です。キリストは強く警告
しています。マタイの福音書23章13節「わざわいだ、偽善者の律法学者たち、パリサイ人たち、おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち
自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」
二つのポイントで考えます。
1.偽善とは何か。
  偽善とは主張していることと現実が異なることです。パウロは、ユダヤ人の現状から偽善とは何かを教えています。
  ユダヤ人の主張を確認しましょう。
  1)自分たちは霊的に目の見えない人の案内人である。
  2)自分たちは闇の中にいる者の光となる。
  3)自分たちは愚者の導き手である。
  4)霊的幼子の教師である。
  パウロは17~18節で、ユダヤ人の主張の根拠を挙げています。
  1)自分たちは選民ユダヤ人である。
  2)律法を頼みとしている。
  3)自分たちだけが真の神を知っている。
  4)神の御心を知っている。
  5)律法を学んでいる。
  6)大切なことを弁えている。
  彼らはこれらを根拠に、自分たちは導き手であると自負しています。しかし、実際にはこれらを実践していないのです。
  これは彼らの偽善の一面です。偽善の結果は何でしょうか。
  24節「『あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている』と書いてあるとおりです。」
  ユダヤ民族の主張と実際の日常生活が噛み合ってないことを見ている異邦人たちはユダヤ人の神様を軽んじています。
  ユダヤ人は神の栄光を語るどころか、神の栄光を隠してしまっているのです。
2.偽善に対する防衛策
  1)私たちは日常生活において、偽善から自分を守るために、どうしたらよいのでしょうか。
    イ.偽善の動機付けを知ることです。
       動機付けは自分を良く見せたい、尊敬されたい、受け入れられたいというプライドです。
    ロ.神にどう見られているか、思われているからよりも、人にどう見られているか、思われているかを優先していることを自覚することです。
    ハ.偽善がもたらすダメージを自覚することです。
  2)私たちは自分が偽善に陥らないために何をすべきでしょうか。
     イ.毎日、意図的に、意識的に、神と共に歩むことを決意することです。
      イ)祈りを通して、御言葉を通して、神と交わることです。
      ロ)自分が気づいている偽善を神に告白することです。
      ハ)日々、神の栄光を表すことを目標に生きることです。
      ニ)神の言葉を具体的に、自分に当てはめることです。
      ホ)偽善の引き金となる特定の罪に関連する聖書箇所を暗記することです。
    ロ.自分が接する人たちに正直に、謙遜に接することです。
      兄弟姉妹、未信者に、自分は救われているけれど、未完成の作品であることを打ち明けることです。
日々、私たちは心の中で偽善を犯しています。神に心を見られていることを意識して、自分の罪を告白し、神の力、 助けを求めましょう。そうすることによって、
私たちは人々の導き手、教師になることができます。そのために、私たちは救われているのです。




2025年11月2日   「意味のある人生の秘訣(パートⅡ)」   マクセイ 師   
                                      マタイの福音書22章34~40節、ルカの福音書10章25~37節

意味のある人生の追求は人間の普遍的課題です。ソロモンは嘆いています。伝道者の書1章14節「すべては空しく、風を追うようなものだ。」キリストは
律法の専門家とのやり取りの中で、二つあると教えて下さっています。前回はその一つ(神を愛する)について考えました。今日はもう一つ(隣人を自分自身
のように愛する)について考えます。
1.隣人を愛するとはどういうことでしょうか?
  現代社会においては、隣人を愛することは忘れ去られています。自分中心の生活が蔓延しています。その結果、私たちは空しさから抜け出すことができま
  せん。
  何故、隣人を愛さなければならないのでしょうか。
  1)自分と同様に、隣人も神の形に創造されているからです。
    肉体的障害、知的障害、精神障害を抱えている人も健常者と同じ価値があります。
  2)キリストが全ての人を贖うために死んでくださったからです。全ての人が神の愛の対象です。
  3)神が隣人を愛することを命じているからです。
2.隣人を愛することには何が含まれるのでしょうか?
  一言で言うなら、隣人に対して善を行うことです。ガラテヤ人への手紙6章10節「私たちは機会があるうちに、すべての人に、・・・・善を行いま
  しょう。」
  隣人に善を行うとは隣人を助けることです。ルカの福音書10章25~37節の良きサマリヤ人のたとえ話は隣人を助けることに関する三つの疑問に応えて
  います。
  1)誰を助けるべきか?
    全ての人です。
  2)何時、助けるべきか?
     時を選ばずに助けるべきです。
  3)どの程度、助けるべきか?
    私たちはこのサマリヤ人を手本にしましょう。人を助ける場合、どの程度、助けるのか、前もって決めてはいけません。自分ができる範囲はある
    でしょうが、基本的には無条件に助けることです。人を助けることは善を行うことです。誰にでも、何時でも、前もって、レベルを決めつけずに、善を
    行いましょう。
  1世紀から始まった、困っている人に対する具体的な援助、例えば、病院建設、親のいない子供のための施設建設等はキリスト信仰者によってなされて
  います。隣人を愛するとは隣人を助けることです。隣人を助けるとは隣人に関心を示すことです。隣人を無視しないことです。隣人と会話することです。
  隣人を赦すことです。そして、信仰を分かち合うことです。キリストを紹介することです。
私たちは愛の源である神に繋がっているから、無条件に、全ての隣人を助ける、隣人を愛することができます。ヨハネの手紙第一4章10~11節「私たちが
神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神が
これほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」同19節「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくだ
さったからです。」




2025年10月26日     「意味のある人生の秘訣」    マクセイ 師     マタイの福音書22章34~40節

「人生の意味は何ですか。」と問われたら、あなたは何と答えますか。キリストは二つ挙げています。一つは神を愛することです。来週、もう一つを取り上げ
ます。
1.何故、私たちは神を愛さなければならないのでしょうか。
  私たちの天におられる父であるからです。どういう意味において、神は私たちの父なのでしょうか。
  1)私たちの創造者です。
  2)私たちは神が創造した最後の究極的な作品です。
  人を創造した父なる神は私たちのために何をしてくださるのでしょうか。
  1)私たちの命を支えてくださいます。
    日々、酸素、日光、雨等をいただいています。
  2)私たちを愛してくださいます。
    無条件、犠牲的、一方的な愛です。ヨハネの手紙第一4章10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださいました。」何故で
    しょうか。
    イ.神の最高の作品であるからです。
    ロ.神の人格的な形に創造されているからです。
    ハ.私たちと関わりたい神だからです。
    神は私たちを愛しているからこそ、私たちに色々な形で愛を表してくださいます。
    イ.私たちを気にかけておられます。
    ロ.私たちの救いを望んでおられます。
    ハ.私たちの救い実現のために具体的に動きます。
    ニ.私たちが意味のある人生を送るために、必要な死後の希望を与えてくださいます。
    以上のことがヨハネの福音書3章16節にまとめられています。「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
    キリストも同じ約束をしています。ヨハネの福音書6章51節「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に
    生きます。」
2.具体的に、どのように神を愛したらよいのでしょうか。
  1)神を無視しないことです。
  2)神の存在を確信することです。
    神は自然界を通して、聖書を通して、イエス・キリストを通して、ご自分の存在を表していることを確信することです。
  3)神と時間を過ごすことです。
  4)神に感謝することです。
  5)神を讃美することです。
  6)神に従順に聞き従うことです。
    ヨハネの福音書14章15節「わたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」
    箴言1章7節「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」如何なる知恵でしょうか。
  1)健全な自尊心です。
    伝道者の書12章13節「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ、神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
  2)私たちは世の光として、地の塩として、足の灯として、神の御言葉を日常生活に適用していかなければなりません。
エレミヤ書29章11~13節「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える
計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを探し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」




2025年10月19日   「神と共に歩む恵み」   マクセイ師    創世記5章21~24節、へブル人への手紙11章5~6節、詩篇18編2節

前回、エノクに目を向け、神と共に歩むとはどういうことかを考えました。今日は、その恵みについて考えます。
1.神の導きが与えられます。
  詩篇48編14節「この方こそまさしく神。世々限りなく、われらの神。神は、死を越えて私たちを導かれる。」
  御言葉、聖霊の導き、神の民との交わりを通していただく神の導きには終わりがありません。
2.神の慰めと力が与えられます。
  イザヤ書40章31節「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」
  信仰生活には心静かな神との会話、兄弟姉妹との交わり、励まし等、神の力をいただく充電が必要です。
3.神の守りがあります。
  詩篇46編1~2節「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり 山々が揺れ 海の
  ただ中に移るとも。」
  神の守りの一例がコリント人への手紙第一10章13節にあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方
  です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
  この御言葉に三つの守りが記されています。
  1)耐えられない試練にあわせません。
  2)耐えられるようにしてくださいます。
  3)脱出の道を備えてくださいます。
    脱出の道とは何でしょう。
     イ.祈りです。
    ロ.聖霊と共に歩むことです。
    ハ.神の言葉に生きることです。
    ニ.兄弟姉妹との交わり、兄弟姉妹の励まし、とりなしの祈りです。
    ホ.信仰によって生きることです。
    ヘ.聖書に基づく価値観、優先順位、ものの見方を身につけることです。
    ト.目を覚まし、身を慎み、心を整えて生きることです 。
    問題は私たちがこれらを利用するか、利用しないかです。
4.もっと深く神を知ることができます。
  ヤコブの手紙4章8節「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。」
5.神の平安に与ることができます。
  イザヤ書26章3節「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」
  詩篇29編11節「主は ご自分の民に力をお与えになる。主は ご自分の民を 平安をもって祝福される。」
6.神に用いられる者になります。
  私たちに与えられている大きな役割の一つは、罪、裁きの神の警告のメッセージと全ての人の救いを望む神の愛のメッセージを語り伝えていくことです。
7.神のうちに辿り着くことです。
  へブル人への手紙11章5節「エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。」
  エノクは肉体的な死を経ずに、神のもとに、神の住まいに移されました。
最後に、私たちに求められていることを確認しておきましょう。テサロニケ人への手紙第一2章11~12節「あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光に
あずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」




2025年10月12日     「パウロの伝道旅行」   大坪 篤史 師    使徒の働き9章10~22節

1.はじめに
  10月半ば、ようやく秋らしくなりました。旅行に良い季節です。パウロの伝道旅行を振り返ってみましょう。
2.パウロの回心
  パウロは西暦5年頃、タルソで生まれました。両親はユダヤ教の伝統に忠実で、パリサイ派に属し、親子でローマの市民権を持っていました。
  13歳の成人式の後、当時の高名な律法学者ガマリエル一世のもとで高等教育を受けます。そして、30歳の頃、反キリスト教のサンヘドリンに参加し、
  キリスト教迫害の先頭に立つようになりました。危険を感じて、エルサレムから逃げ出すイエスの弟子たちを捕えようとダマスコまで追いかけて行った
  パウロは途上、天からの光に打たれ、地に倒れ、「私はあなたが迫害しているイエスである。」という声を聞きます。そして、アナニアを介して、劇的な
  回心をします。
3.パウロの伝道旅行
  パウロはイエスを信じる人々からは警戒され、ユダヤ人からは裏切り者と命を狙われました。バルナバのとりなしで、何とか教会に受け入れられるように
  なりましたが、怒りに燃えるユダヤ人から身を守るためにタルソに引き揚げました。その後10年程、タルソ周辺で熱心に伝道したようです。転機が訪れた
  のは38歳の頃です。最初の異邦人教会であるアンテオケの教会に招かれたことがきっかけで、異邦人伝導旅行に出かけます。
  1回目は、バルナバ、マルコと共にトルコの中央部をめざして、船で西方のキプロス島に渡り、そこから北の陸地へと向かい、伝道に励み、群衆の厳しい
  反発を受けました。
  2回目の伝道旅行は45歳の頃、シラスと共にアンテオケを出発、トルコに向かい、テモテ、ルカも連れての旅となりました。ある晩、助けを求めるマケ
  ドニア人の幻を見たパウロはそれを神の導きと信じ、マケドニアに渡り、伝道しました。紀元50年、キリスト教が初めてヨーロッパに伝えられたのです。
  3回目の伝道旅行、50歳の頃、エぺソに行き、3年間、伝道し、キリスト教の主要な基地とし、各地で多くの人々を信仰に導きました。その後、パウロ
  はエルサレムで暴徒化したユダヤ人の集団に襲われますが、ローマ兵に保護されました。その後の裁判で、ローマの市民権を使って皇帝に上訴したため、
  ローマ軍に守られ、念願のローマに向けて旅立つことになります。
  4回目の伝道旅行です。途中で、船の難破などがありましたが、ローマに到着し、外出制限されたものの、福音を伝える生活が2年ほど続きました。
  使徒の働きの最後には「こうしてパウロは、大胆に少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエスキリストのことを教えた」とあります。この間、
  パウロは各地の信徒宛に多くの手紙を書きました。その根幹は「人は信仰によってのみ義とされて、正しい者と認められる。信仰によってのみ救われる。」
  です。
  パウロが熱心なユダヤ教信徒であったこと、ローマ市民権を持っていたこと、ギリシャ語に堪能だったこと等、全ては伝道を成功させるための備えだったの
  です。私たちもそれぞれに与えられた人生の旅を、尊い主の御手の中で、最後まで全うしましょう。
    



2025年10月5日    「信仰生活は神と共に歩む事です」    マクセイ 師    創世記5章21~24節、へブル人への手紙11章5~6節

聖書に神と共に歩んだ人として記されているのはノアとエノクだけです。更に、神に喜ばれたのはエノクだけです。
先週、私たちは吉村六郎兄と悲しいお別れをしました。今日は、兄を偲ぶメッセージとして、エノクの人生から神と共に歩むとは如何なることを意味するのか、
具体的に考えます。
1.神が向かっている方向に歩むことです。
  自分の日々の歩みを神が向かっている方向に転換することです。詩篇119編105節「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
2.信仰によって歩むことです。
  エノクの信仰の中身がへブル人への手紙11章6節に示されています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられる
  ことと神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
  エノクは信仰についての三つ(神は存在すること、私たちと関わる神であること、これらを信じること)に同意しました。
3.神との交わりの中に歩むことです。
  1)神と肩を並べて歩むことです。
    肩を並べて歩くとは、繋がり、理解があるということです。コロサイ人への手紙1章21~22節「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、
    悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを
    聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」
     私たちを神と共に歩めるように変えてくださいました。
  2)神の光の中に歩むことです。
    ヨハネの手紙第一1章5~7節「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。・・・。
    もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださ
    います。」
  3)神とコミュニケーションしながら祈ることです。
    テサロニケ人への手紙第一5章17節「絶えず、祈りなさい。」
  4)神の声を聞くことです。
    詩篇119編105節「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
4.神と共に歩んでいる兄弟姉妹との交わりを大事にすることです。
  へブル人への手紙10章25節「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分か
  っているのですから、ますます励もうではありませんか。」
5.継続的に、神と共に歩むことです。
  エノクは300年も神と共に歩み続けました。時が良くても悪くても、神との歩みを優先する者でなければなりません。
コロサイ人への手紙2章6節「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」
テサロニケ人への手紙第一2章12節「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」
次回、神との歩みの祝福を取り上げます。





2025年9月28日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅩⅣ)―神と天使たち―」     マクセイ 師    へブル人への手紙1章7、14節

私たちは神と共に歩む信仰生活の中で、色々な恵みをいただいています。気付いている恵みもありますし、気付いていない恵みもあります。気付いていない神から
の恵みの一つは天使たちによる奉仕です。天使たちについての幾つかの疑問に答えます。
1.天使たちは何処から来たのでしょうか。
  天使と訳されているヘブライ語、ギリシャ語は使者という意味です。神によって創造された者です。
2.天使たちは何時から存在しているのでしょうか。
  ヨブ記によると、天地が創造される前から存在していました。
3.天使たちは如何なる存在でしょうか。
  1)霊として存在しています。
    彼らは私たちのような肉体をもっていません。
  2)素晴らしい知恵、知識をもっています。
    サムエル記第二14章20節「あなた様には、神の使いの知恵のような知恵があり 地上のすべてのことをご存知です。」
  3)全てをご存知ではありません。
    マタイの福音書24章36節「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられま
    す。」
    ですから、神ではありません。
  4)大きな力をもっています。
    マタイの福音書28章2節「主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座った。」
    使徒の働き5章17~19節「サドカイ派の者たちは、・・・、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた。ところが、夜、主の使いが牢
    の戸を開け、彼らを連れ出した。」
  5)人間のように神の形に創造されていません。
    コリント人への手紙第一6章3節「あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでも
    ないではありませんか。」
4.天使たちは何のために存在しているのでしょうか。
  1)神に仕えるためです。
    詩篇103編20~21節「主をほめたたえよ 主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行う 力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ
     主のすべての軍勢よ。主のみこころを行い 主に仕える者たちよ。」
    へブル人への手紙2章2節「御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた。」
  2)私たちに益をもたらすためです。
    へブル人への手紙1章14節(現代訳)「御使いは、霊として実在しており、救いを受け継ぐべき人々に仕えるために、神から遣わされてきた者たちでは
    ないか。」
    これは過去だけではなく、現代、これからも、神は私たちのために御使いを用いるということです。
5.私たちが天使にしてはいけないことは何でしょうか。
  1)直接、天使と接触すること、繋がりを作ろうとすることを聖書は認めていません。
  2)私たちは天使たちを自分の信仰の対象にしてはいけません。
6.私たちは天使のために何をするべきでしょうか。
  1)神に感謝しましょう
  2)天使によって助けられた、守られたという兄弟姉妹の証を疑ってはいけません。
  3)愛をもって、困っている人たちを助けましょう。(へブル人への手紙13章1~2節)
  4)私たちは天使たちと一緒に神の御座の前で、神を讃美する時が来ます。




2025年9月21日   「私の福音」    マクセイ 師    ローマ人への手紙2章11~16節

ローマ人への手紙の2章10節まで、9回に渡って学んできました。この手紙のテーマは福音です。1章16節「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす
神の力です。」
パウロは1章1節に「神の福音」、2章16節に「私の福音」と書いて、神の福音を自分の福音にすることを勧めています。二つのポイントで考えます。
1.何故、神の福音を自分の福音とすべきでしょうか。
  裁きが来るからです。11節「神にはえこひいきがありません。」律法をもっていない人、もっている人、どちらにも裁きが下ります。律法をもっていない
  人も生れつきの善悪の基準をもっています。又、一般啓示、自然界を通して神を知ることができ、それによって裁かれます。
  律法をもっている人はどうでしょう。12節「律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によって裁かれます。」
  パウロはユダヤ人たちに、そして、私たちに「御言葉を聞くだけでなく、実践しなさい。」と呼び掛けています。
  16節「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」ここに裁きに
  ついて三つの大事なことが指摘されています。
  1)裁きの日は定められています。
  2)隠された事柄が裁かれます。
    神様は私たちの心をご覧になり、隠されていることを明らかにし、裁かれます。
  3)福音による裁きです。
    裁きは悪い知らせです。一方、福音は良き知らせです。誰しも悪い知らせには触れたくありませんが、悪い知らせがあるからこそ、良き知らせを教えて
    くださったのです。義の神であると共に、愛の神であるということです。ですから、私たちはクリスチャンとして福音による裁きに真摯に向かい合う
    べきです。
2.自分の福音とするということは何を意味することになるのでしょうか。
  1)私は福音を神からの福音として信じます。神から福音を預けられています。この福音を人々に伝えるのが私の任務です。
  2)絶対的な真理として信じます。根拠はキリストの復活です。
  3)信じる者に救いをもたらすと信じます。
  4)福音を恥と思いません。
    信じていることを隠さないということです。機会があるたびに、証するということです。
  5)分かち合います。
  6)偽教師から、否定する者から守ります。
  7)福音に生きます。
    救いの確信から来る希望と平安の中に生きるということです。福音は私たちに救いの確信を与えます。行いによっては救いの確信を得ることはできませ
    ん。イエス・キリストの身代わりの死と復活がそれを可能にしてくださいました。コロサイ人への手紙1章22節「今は、神が御子の肉のからだにおい
    て、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に
    立たせるためです。」
パウロに倣って、福音を私の福音にしましょう。福音の教えに従って歩みましょう。福音を分かち合いましょう。福音がもたらす希望と平安の中を歩みましょう。
日々、この福音は私の福音であると宣言しながら歩み続けましょう。




2025年9月14日     「カナでの婚礼」    大坪 篤史 師     ヨハネの福音書2章1~12節
   
1.はじめに
  新しい仕事に変わり、2ヶ月が過ぎました。私はどの職場でも自分がクリスチャンであること、牧師であることを公表しています。最初の理事会で、50数名
  の役員を前に、未信者の会長が『新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ』という聖書の教えを引用して、組織変革を呼び掛けてくださいました。そして、8月
  10日、会長と副会長が宮崎の教会での私の説教を聞いてくださり、賛辞をいただきました。喜びと責任を感じ、自分なりに新しい仕事に精一杯頑張りたいと
  思っています。
2.カナでの婚礼
  ヨハネの福音書はイエスが神であることを明らかにしようとしています。これはイエスの公生涯7日目の奇跡の物語です。聖書で7は神の創造の完成を示す
  非常に神聖な数字です。
  イエスが住むナザレ近くのカナでの婚礼の場に、イエスの母マリア、イエス、弟子たちも招かれていました。ところが、宴の途中で、ぶどう酒がなくなったの
  です。当時の結婚式は1週間程度続くのが一般的で、花婿は酒や料理を絶やしてはなりませんでした。マリアは心配して、イエスに「ぶどう酒がありませ
  ん。」と告げたのですが、4節「イエスは母に言われた。『あなたは、わたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」
  と一見冷淡な応答をします。それを聞いたマリアは手伝いの人たちに言います。5節「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と深い心の
  洞察を感じさせる応答をしています。その場にはユダヤ人が聖めに用いる石の水がめが6つありました。7節「イエスが『水がめに水を満たしなさい』と
  言われると、彼らは、水がめを縁までいっぱいにした。」すると、なんと水が芳醇なぶどう酒になったのです。イエスは奇跡を行い、婚礼の危機を救ったの
  です。
  11節「イエスは、このことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
3.社会性を持つということ
  奇跡は科学では説明できません。それをもって、聖書を夢物語だと捉える人がいます。しかし、この世には科学で説明できないことが何と多いことでしょう。
  私たちは謙虚にならなければなりません。全知全能の神の前にただただ従順でなければなりません。
  聖書では、キリストと人間との関係も、婚礼に例えて語られます。神の子であるイエスと救い主として信じる人間との崇高な信頼関係、それが神と人との婚礼
  であると説明されています。その時、父なる神は花婿の父親のように、万感の思いをもって、私たちを祝福してくださいます。
  私がクリスチャンであり、牧師であることを公表しているのは、自分の立場を利用して、伝道しようと考えているからではありません。私の言動や振る舞いを
  通して、自然に福音の喜びを感じていただければと願うからです。
  イエスは、カナでの婚礼において、奇跡を通して、人々にご自分が神であることを証ししました。そして、3年余りの公生涯のスタートを切られたのです。
  私たちもそれぞれに相応しい形で伝道に励みたいと思います。




2025年9月7日     「嵐と信仰の歩み」     マクセイ 師       マタイの福音書14章22~34節

8月の鹿児島は嵐で始まり、嵐で終わりました。信仰生活でも嵐があります。
1.信仰生活における嵐に如何に対処すべきか。
  1)忠実にキリストに従っていても、嵐に遭遇します。
    弟子たちはキリストの指示により、キリストを残し、舟で向こう岸に向かいましたが、嵐に遭遇しました。私たちが信仰生活で遭遇する嵐は二つあります。
    イ.反省と悔い改めを促す嵐
    ロ.霊的に成長させる嵐
    ヤコブの手紙1章2~3節「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれます。」
  2)嵐が来ることは神に忘れられているということではありません。
    弟子たちが向こう岸に向かう途上 嵐が起こりました。キリストは怯える弟子たちに目を向け、父なる神にとりなしの祈りをしておられました。
    歴代誌第二16章9節「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」
  3)嵐には忍耐と確信をもって対処すべきです。
    弟子たちが舟に乗ったのは夕方でした。彼らの所に、キリストが来たのは夜明けでした。何故、時間を置いたのでしょうか。
    イ.神の働きは私たちのスケジュールに沿ってなされるものではありません。神のスケジュールがあります。
      遅らせるのは、私たちに限界、弱さを気付かせるためです。
    ロ.本当に必要な時に、必要なサポートをしてくださることを教えるためです。忍耐を持って待つことを教えるためです。
    ハ.嵐の中における神の助けは思いがけない形でもたらされます。
  4)嵐に遭っても、恐れることはありません。
    26節「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは『あれは幽霊だ』と言っておびえ、おそろしさのあまり叫んだ。」
    キリストは弟子たちに言いました。27節「わたしだ。恐れることはない。」
    何故、イエス・キリストだと分からなかったのでしょうか。彼らは信仰をもって、キリストを待っていなかったからでしょう。彼らの恐れが彼らの信仰を
    押さえ付けてしまったのです。 恐れは信仰を弱めます。
    今日の聖書箇所を読む時、私たちはペテロのようになりたくないと思いますが、逆です。ペテロを模範にすべきです。彼の信仰は未熟でしたが、それでも
    行動したのです。これが大事です。私たちは完璧な信仰をもつ者になったら、行動しようと思いますが、それでは何も始まりません。ペテロはつまずきまし
    たが、キリストが引き上げてくださいました。後に、使徒たちのリーダーとして大活躍しました。不十分な信仰でも、行動するならば、用いられるのです。
2.キリストの奇跡に対する弟子たちの反応
  マタイの福音書8章に記されている最初の嵐を鎮めた奇跡の時と違って、キリストを人となった神と認識しました。
詩篇107編27~30節「彼らは酔った人のようによろめき 知恵はことごとく吞み込まれた。この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩
から導き出された。主が嵐を鎮められると 波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。」




2025年8月31日    「共に生きる喜び」     大坪 篤史 師     詩篇133編1~3節

1.はじめに
  7月21~23日、第74回キリストの教会全国大会が川越で行われました。私たちの群の源流である復帰運動から分かれたディサイプルス、キリストの教会
  (無楽器派)、キリストの教会(有楽器派)が一堂に集う大会でした。
2.大会の概要と語られたメッセージについて
  開会礼拝では、大会事務局長の狭山キリストの教会の会田武牧師が、大会テーマの聖書箇所、詩編133篇を解説され、復帰運動から生まれた群として、交わ
  りを深め、励まし合いましょうと呼び掛けました。
  説教1)日本基督教団聖学院教会の赤田直樹牧師(ディサイプルス)
      「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と題してお話をされました。
      使徒の働き2章42~47節から、初代教会の信者の生活に触れ、主が人々を一つにされたのに、その後の教会が分裂の歴史を歩んできたこと、
      1831年、アメリカで始まった「聖書に帰ろう」というスローガンのもと、一致を目指した復帰運動が3つに分裂してしまったことを説明されまし
      た。そして、詩編133篇を引用して、一致の喜びを共に味わうために、復帰運動200年の節目となる2031~32年に、合同で記念の大会開催
      を希望すると言われました。
  説教2)茨城キリスト教学園の宗教主任、野口良哉牧師(キリストの教会、無楽器派)
      「まず貴方が祝福の源に」と題して、ルカによる福音書から、マリアとマルタの姉妹の話と、ザアカイの話をされました。
      人間は「枯渇する存在」であり、マリアは自分の心が乾いていることを感じていました。だから、水を求めるように、イエスの話を聞くことを求めた
      のです。次の機会には、マリアは満足して、マルタに代わっておもてなしをしたのではないか、マルタをイエスの足元に連れて来たのではないかと話
      されました。そして、私たちもザアカイのように、イエスから恵みを受けている者として、感謝し、祝福の源になって、共に生きる喜びを味わって
      いこうと訴えられました。
  説教3)宝塚めぐみ教会の池田基宣牧師(キリストの教会、有楽器派)
      「でも、ほんまはひとつなんやで」と題して、3つの派に分裂したけれど、一つだと話されました。
      ご自身の奥様が東京の八幡山キリスト教会という無楽器派の出身であることを紹介した上で、全国大会は自分たちのアイデンティティーを求めるもの
      であり、74回も続いてきたことは奇跡に近いことであり、それは神の業であると感謝の言葉を述べられました。そして、家族で、教会でもめごとや
      意見の対立はあるだろうけれど、同じキリストを見つめているから一つなのだと力説されました。
  説教の前後に、交わりの時、讃美の時も持たれました。
3.これからに向けて~共に生きる喜び~
  来年は5月に沖縄で開催されます。再来年は北海道での開催が計画されているようです。「共に生きる喜び」を日々感じながら、次の大会に向けて、心を寄せ
  合いましょう。そして、復帰運動が始まって200年の節目を迎える2031年から2032年にかけて、拡大された記念大会が実現することを切望します。




2025年8月24日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅩⅢ)―神と奇跡―   マクセイ師   ルカの福音書1章37節、使徒の働き2章22節

神は特別な目的達成のために、神の真理を明らかにするために、奇跡を用います。奇跡は四つの時代に集中しています。
1)モーセの時代
2)エリヤ、エリシャ等の預言者の時代
3)イエス・キリストの地上における活動の時代
4)教会の誕生と福音の広がりの時代
神の奇跡について四つの角度から見ていきます。
1.奇跡の可能性
  聖書の奇跡を見て、躓く人がいます。これらの人の奇跡に対する反応は三つあります。
  1)科学的に不可能
    奇跡が実際に起こったか、否かは歴史的信憑性があるか否かです。目撃した証人の信憑性のある証言があるか否かです。四福音書は信頼できる文献です。
  2)神話、伝説
    聖書の記事の多くは目撃者の証言です。
  3)神不在、神矮小化
    ルカの福音書1章37節「神にとって不可能なことは何もありません。」
  聖書の奇跡は作り話、神話、伝説ではありません。何故なら、信頼できる証人の証言があるからです。
2.奇跡の本質
  使徒の働き2章22節「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証し
  されました。」
  1)力あるわざ
    奇跡は神の力によって起こりました。
  2)不思議
    奇跡を目撃した人の反応です。
  3)しるし
    奇跡はキリストが天から来られた神の子であるというメッセージを発信する手段です。キリストが神であり、救い主であることを究極的に明らかにする
    のは復活です。
  キリストの奇跡の特徴を挙げます。
  1)神話、伝説、作り話ではなく、多くの人の前で行われた歴史的な出来事でした。
  2)ご自分のためではなく、人の役に立つ奇跡でした。人のニーズに応える奇跡でした。
  3)公に行われました。多くの人の前で行われました。
  4)シンプルに執り行われました。
  5)瞬時に目的が果たされました。
  6)あらゆる状況の中で執り行われました。
  7)無償で行われました。
3.奇跡の目的
  1)一般の人をご自分に引き寄せるためです。
    山上の垂訓では大群衆が集まりました。それを可能にしたのはキリストの癒しです。
  2)ご自分は預言されているメシヤであることを証明するためです。
  3)人となった神の子であることを証明するためです。
4.奇跡の意味
  1)神の人間に対する憐み、思いやり、同情を意味します。
  2)キリストは私たちの心の病の偉大な医者であることを意味します。
コリント人への手紙第一15章51~57節「私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。・・・・。
ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。・・・・。そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべき
ものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に飲み込まれた。』『死よ、おまえの勝利は何処にあるのか。死よ、
おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに
勝利を与えてくださいました。」




2025年8月17日     「福音と死後の備え」   マクセイ師    ローマ人への手紙2章6~11節

日本の伝統行事であるお盆は亡き先祖の魂を供養し、感謝の気持ちを表す時ですが、私たちは死、死後を恐れています。何らかの神の裁きがあるのではないか
と恐れているからです。神の裁きについて考えます。
1.神の裁きの対象
  6節「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。」3章23節「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができません。」
  全ての人が裁きの対象です。
2.神の裁きの基準
  6節にあるように、人間の行いです。
  1)良い行いを守ってきたか。
    状況に関わらず、継続的に、神の前で、良い行いを続けられる人はいません。従って、神は別の救いの道を示してくださいました。3章28節「人は
    律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えています。」
    エペソ人への手紙2章8~9節「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物
    です。行いによるのではありません。」
    良い行いは信仰の証です。救われている証です。救いの条件ではありません。救われているから、隣人を助け、隣人に愛を提供することができます。
   2)悪い行いをしたか。
    8~9節「利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシャ人
    にも、苦難と苦悩が下ります。」
3.神の裁きの結果
  二つあります。
  1)永遠の命に与る。
    7節「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与えます。」10節「善を行うすべての者には、ユダヤ人を
    はじめギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」
    パウロは四つのキーワードを挙げています。
    イ.栄光
      キリストの復活の体に似た栄光のある体に与ります。
    ロ.誉れ
      キリスト者として、神に良しとされることです。神に喜ばれることです。
    ハ.朽ちないもの
      栄光の体は死ぬことはありません。衰えることはありません。病気に侵されることはありません。
    ニ.平和
      私たちから平和を奪う争い、戦争等がありません。
  2)永遠に神から切り離される。
    8~9節で、具体的な裁きを四つ挙げています。
    イ.怒り
    ロ.憤り
    ハ.苦難  
    ニ.苦悩 
4.神の裁きへの備え
  死後に対する恐れから解放されるために、死の備えをしなければなりません。
  1)信じること
    イ.死は終わりではないことを信じることです。
    ロ.死後には裁きがあると信じることです。
    ハ.神の裁きは二つの結果をもたらすと信じることです。
      永遠に神と共に生きます。若しくは、永遠に神から切り離されます。
  2)自分で自分を救うことはできないと理解すること
    何故なら、私たちは神の前に罪人であるからです。
  3)神の福音を受け入れること
  4)死の恐れからの解放を自覚すること
神の福音を理解しましょう。神の力を信じましょう。大胆に福音を分かち合いましょう。
ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」




2025年8月3日   「独善的偽善という罪」     マクセイ 師     ローマ人への手紙2章1~5節

八回目の学びです。独善的偽善という罪について、三つの角度から考えます。
1.傾向と本質
  1)傾向
    イ.他人の罪は敏感に反応するのに、自分の罪には鈍感である。
    ロ.自分の罪を無視する。
    ハ.自分の罪を正当化する。
    ニ.聖書に基づけば、罪だと分かるはずなのに、罪と意識しない。
    私たちは神の戒めを外見的には守っていても、心の中で犯しています。ロシアの文豪が言いました。「全ての人の心の中には悪と善を仕切る、薄い線が
    ある。」
  2)本質
    イ.自分の罪は無視して、他人の同じ罪を裁く。
      マタイの福音書7章4~5節「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目
      には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。」
    ロ.自分に都合の良い戒めしか守っていないのに、全部を守っていない他人を裁く。
    ハ.内面的な聖さ、正しさよりも外面的な行動に重点を置く。
      キリストはパリサイ人に指摘しました。マタイの福音書23章28節「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」
    二.他人と自分を比較して、自分の正しさを主張する。
      パリサイ人の自分を正当化する主張です。ルカの福音書18章11~12節「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者
      でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げており
      ます。」
2.結果
  2~3節「そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばき
  ながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。」
3.処方箋
  1)悔い改め
    4節「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」キーワードは
    「いつくしみ」「寛容」「忍耐」の三つです。
     イ.いつくしみ
       神は私たちがいただく資格はないのに必要を備えてくださいます。
     ロ.寛容
       私たちが受けるべき裁きを先送りしておられます。
     ハ.忍耐
       ペテロの手紙第二3章9節「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して
       忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
     悔い改めは継続的に、習慣的になされるべきです。プロセスを確認しておきましょう。
     イ.罪を自覚することです。罪に敏感になることです。
     ロ.罪を犯さないで欲しいという神の思いに応えることができない我が身の現状を悲しむことです。
     ハ.罪を断つことを決意することです。
     ニ.神に罪を告白することです。
     ホ.神の赦しに与ることです。
   2)御言葉を開き、御言葉を心の鏡にする。
   これらを繰り返すことによって、独善的な偽善の歩みに歯止めをかけることができるクリスチャンに変わっていきます。




2025年7月27日    「私達のルーツ」   マクセイ 師    使徒の働き11章19~26節、ローマ人への手紙16章16~19節

今年の全国大会はキリストの教会の三つの群、ディサイプル派、無楽器派、私達の有楽器派が集う歴史的大会となりました。私達のルーツを辿ります。
1.聖書(30~313年)
  私達のルーツは聖書に記されている初代教会にあります。
  1)キリストが建てた教会
    キリストは昇天後、聖霊の力により、弟子たちを通して教会を立てました。
  2)エルサレムに誕生した教会
    西暦30年、キリスト昇天の50日後、ペテロが最初の福音のメッセージをし、3000人がバプテスマを受け、教会が誕生しました。それが各地に広が
    っていきました。パウロはこれらの教会を「キリストの教会」と宣言しました。(ローマ人への手紙16章16節)
2.宗教改革(1517~1650年)
  これに至る流れを確認しておきましょう。
  1)初代教会の変化(西暦200~313年)
    イ.異端の現れ
      キリストの神性と人間性を否定する異端が現れ、初代教会を変質させていきます。
    ロ.聖職階級制度の始まり
      教会を異端から守るための教会会議、信条が問題を拡大しました。更に、強固な聖職階級制度を設け、教会を守ろうとしました。それによって、初代
      教会とは全く違う教会になりました。
  2)カトリック教会の登場(313~590年)
    イ.ローマ帝国が信仰の自由を認めました。(西暦313年)
    ロ.ローマ帝国がキリスト教を国教としました。(西暦395年)
    ハ.カトリック教会が完成しました。(西暦590年)
    これらは宗教改革に繋がります。
  3)宗教改革(1517~1650年)
    当時のカトリック信徒は直接聖書を読むことができませんでした。又、免罪符という悪習がまかり通っていました。ドイツのマルティン・ルターは
    1517年10月31日、地元の教会のドアに95ヶ条の提題を貼り付け、糾弾しました。彼の三つの宣言は私達のルーツです。
     イ.聖書の権威
     ロ.万人祭司
     ハ.信仰義認
3.復帰運動
  宗教改革は新たな流れを生み出しました。
  1)教会の分裂に対する不満
    宗教改革後、ヨーロッパにプロテスタントの教会が誕生しました。それが多くの枝葉に分かれていきました。ヨーロッパのクリスチャンたちのアメリカ
    移住により、プロテスタントの各宗派がアメリカに持ち込まれました。それに疑問をもった牧師たちが、教会の一致のために、復帰運動を始めました。
  2)復帰運動の主張
    イ.新約聖書の教会は現代の私たちの教会の模範です。
    ロ.キリストのみを権威とします。
    ハ.聖書の救いの計画を信じます。
    二.聖書の教えに基づく聖徒の一致を求めます。
  3)復帰運動の立場
    イ.聖書が語ることを語り、黙することは黙します。
    ロ.聖書のみが私達の唯一、絶対的基準です。
    ハ.私達はただのクリスチャンです。
    ニ.基準的なことでは一致、意見は自由、全てのことに愛を大事にします。
  4)他の教会との違い
    イ.人間が作った信条を用いません。
    ロ.礼典は浸礼と主の晩餐の二つだけです。
    ハ.人間が作った組織を認めません。
  5)復帰運動の失敗
     残念ながら、1906年、キリストの教会は三つに分裂しました。
三派の交わりが続き、深まることを祈ります。




2025年7月20日     「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅫ)―神と心の風邪―」    マクセイ師  
                                               列王記第一19章4~13、15~16、18~19節

心の風邪の最終回の学びです。神はこの病に悩むエリヤを立ち直らすために六つを備えました。
1.睡眠
  5節「彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると」
  神は人間には適切な睡眠が必要であることをご存知です。
2.御使い
  5節「一人の御使いが彼に触れた」
  御使いは神ご自身です。「神現」です。エリヤを見捨てないためです。
3.食物
  6節「焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。」
  健康維持には十分な睡眠とバランスのとれた食物が必要です。神がそれを備えてくださっているのに、エリヤは感謝していません。それでも、神はエリヤの
  必要を備え続けます。
4.神の言葉
  8節「彼は・・・四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。」
  ベールシェバからホレブは1週間で行ける距離です。神は洞穴で一夜を過ごしたエリヤに「ここで何をしているのか」と問いかけています。エリヤに行動の
  見直しを求めているのです。エリヤの答えには絶望感、怒りが見えますが、神はエリヤを諦めません。13節「エリヤはこれ(かすかな細い声)を聞くと、
  すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。」
  ここで、神は次の三つをエリヤに、私たちに教えています。
  1)神は超自然的な力をもって動くとは限りません。
  2)神の働きの主な手段は神の言葉です。
  3)神の言葉とご臨在を確信できれば十分です。
5.失った使命感
  エリヤの現実逃避の原因は預言者としての使命感喪失です。神はエリヤの使命を再認識させるために重い任務を与えました。15~16節「ハザエルに油を
  注いで、アラムの王とせよ。また、ニシムの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を
  注いで、あなたに代わる預言者とせよ。」
  私たちは神様の同労者です。任務は何でしょう。これを見失う時に落ち込みます。
  1)弟子を作ることです。(マタイの福音書28章19~20節)
  2)地の塩として、世の光として生き、神の栄光を現すことです。(マタイの福音書5章13~16節)
  3)隣人に仕えることです。(ガラテヤ人への手紙6章9~10節)
6.助け手
  エリヤの心の風邪の要因としてもう一つ挙げられるのは自力過信と思われます。神はエリヤを立ち直らすために適切な助け手エリシャを送りました。私たちは
  イエス・キリストの家族の一員です。周りには助け手が沢山います。自分で全てをやるという思いを捨て、助けを求めることが大事です。
心の風邪を病むエリヤを立ち直らすために神がなさったことから二つを学ぶことができます。
1)神は御言葉を通して、心の風邪を病んでいる私たちを支え、導いてくださいます。
2)神がエリヤのために備えたことを私たちのためにも備えてくださっています。
へブル人への手紙13章5~6節「主ご自身が、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』と言われたからです。ですから、私たちは確信を
もって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」




2025年7月13日   「あなたのパンを」   大坪 篤史 師    伝道者の書11章1節

1.はじめに
  猛暑、新燃岳の噴火、トカラ列島群発地震等が心配されます。自然災害への備えを怠らないようにしましょう。
  私は6月20日、県庁定年退職後、7年間勤めた前職を辞し、7月1日から公益法人で働いております。幸いに、元気ですので、仕事を続けながら、牧師と
  しての務めを果たしていきたいと願っています。
2.「伝道者の書」について
  古代イスラエルの全盛期を築いたソロモン王が人生を振り返って書いた書です。「神を知らない人生、信仰のない人生が如何に空虚なものか。」と問いかけ、
  3章から、神、人生について語っています。
3.あなたのパンを
  11章1節「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後(のち)の日になって、あなたはそれを見いだそう。」
  榎本保郎先生は、著書「旧約聖書一日一章」で、この御言葉について次のように述べておられます。「元来、慈善行為を勧めたものだとの説もあるが、伝道に
  関してもこの言葉が良く引用される。」そして、次のように証しされています。「私が同志社の神学生の時、牧師に連れられて路傍伝道に行った。葵祭りの宵
  であったと記憶する。大勢の人たちが行き来していた。牧師はこれらの人に向かって説教したが、足を止めて、聞く人は全くいなかった。牧師に勧められて、
  私も大声で話かけたが、同じであった。私は、恥ずかしさと、信仰に耳を貸さない人々に対する憤りとで、腹が煮えくり返っていた。そんな私を子供たちが、
  『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ってからかった。教会に帰ると、牧師の勧めで、感謝の祈祷会をし、讃美歌の536番を歌った。私は、この歌を
  歌いながら自分が恥ずかしくなり、今更のように自分の信仰のなさを恥じた。それから20年ほどした時、私のところに派遣されて来た同志社大学神学部の
  新卒生が言った。『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンと言ったのはこの僕です。』私は絶句した。まさに御言葉が現実になったのである。」
  私たちは小島のような地球で限られたパンをめぐって争い続けています。お互いがパンを投げ合うような生き方をするならば、平和な世界になるはずです。
  聖書はそのように生きることを教えています。12章1節「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」同13節「結局のところ、もうすべてが聞かされ
  ていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざを
  さばかれるからである。」
  「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」この言葉の意味について、皆さんそれぞれに考えてください。あな
  たにとってのパンとは何でしょうか、どのようにしてパンを投げるべきでしょうか。お互いに自分の大切なものを投げ出して、他の誰かのために役立てるよう
  な人生を送るならば、この世は大きく変わります。イエス様は仰いました。「あなたがしてほしいと思うことをあなたもしなさい。」「私があなたがたを愛し
  たように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい。」




2025年7月6日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅩ)―神と心の風邪―」   マクセイ師   列王記第一19章1~21節

前回、心の風邪について、詩篇42、43編から考えました。今日は典型的な、重い心の風邪に悩まされたエリヤに目を向けます。
1.エリヤの心の風邪の引き金
  心の風邪の原因となった出来事が列王記第一18、19章に記されています。
  1)大きな成功
    頑張り、目標を達成した時、精神的に疲れ果て、ダウンすることがあります。そうなると、私たちは無防備になります。
  2)絶望感
    19章2節「イゼベルは死者をエリヤのところに遣わして言った。『もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのよう
    にしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』」
    最終的な結果をもたらすのは神です。それを忘れる時、失望感に襲われます。
  3)働き過ぎ
    疲労が溜まり過ぎると、冷静に自分の心身の状態を把握できなくなり、とんでもない方に進むことになります。マルコの福音書2章27節「安息日は人の
    ために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」
2.エリヤの心の風邪の症状
  1)恐れ
    エリヤは命が狙われる恐れと戦っていましたが、都度、神はエリヤを助けました。エリヤはそれを忘れています。如何に対処すべきでしょうか。
    イ.恐れは神からではないことを確認しましょう。
    ロ.祈りをもって、全てを神に委ねましょう。
    ハ.神への感謝を忘れないようにしましょう。
  2)諦めの思い
    4節「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」
  3)孤立
    心の風邪にある時、孤立は逆効果です。繋がりを大切にしましょう。
  4)自分に対する悲観的な態度
    4節「私は祖父たちにまさっていません。」
    エリヤが嘆いているのは何の役にも立っていないという自分への絶望感と自分が置かれている状況への絶望感です。
    10節「イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは
    私のいのちを取ろうと狙っています。」
  エリヤは大事なことを忘れています。
  1)一人ではありません。
    絶望的に見える状況にあっても、神がエリヤと共にいてくださり、一人ではなかったのです。これを忘れる時、悲観的になりがちです。
  2)神はエリヤが知らない多くの人を用いています。
    18節「わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」
  3)神の言葉は私たちを元気づけ、励まします。
    コリント人への手紙第一15章58節「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって
    無駄ではないことを知っているのですから。」
    ガラテヤ人への手紙6章9節「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」
    へブル人への手紙13章5~6節「『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって
    言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」




2025年6月22日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅩ)―神と心の風邪―」   マクセイ師   詩篇42編1~11節、43編1~5節

多くの人が鬱、心の風邪を病んでいます。これは信仰者と無縁の病ではありません。聖書の信仰の先輩たち、モーセ、エリヤ、ヨブ、ダビデも悩まされました。
現代においても、多くのクリスチャン、牧師たち、指導者たちが悩まされています。霊的に弱っているからではありません。信仰がないからではありません。     今日は詩篇42編、43編を通して、次回はエリヤを通して、心の風邪について考えます。42、43編に心の風邪への対処法が三つ提示されています。
1.心の風邪を病んでいることを自覚することです。
  詩人はしっかり自覚しています。42編5節「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ 私のうちで思い乱れているのか。」
  同6節「私の神よ 私のたましいは 私のうちでうなだれています。」
  自覚するためにすべきことを挙げましょう。
  1)具体的な症状を捉えることです。
    イ.体に現れる症状です。
       イ)体の姿勢が悪くなります。
         42編5、6節「うなだれています」
       ロ)食欲がなくなります。
        42編3節「昼も夜も 私の涙が 私の食べ物でした。」
      ハ)頭痛、消化器系不調等です。
    ロ.感情的症状です。
      42編7節「あなたの波 あなたの大波はみな 私の上を越えて行きました。」
  2)原因を突き止めることです。
    箴言14章30節「穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。」同17章22節「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨
    を枯らす。」
    心の風邪の引き金は次の四つです。
    イ.極端なストレス
    ロ.失望
    ハ.停滞
    ニ.喪失
    心の風邪は不信仰の現れではありません。立派な信仰をもちながら、神に用いられながら、追い詰められた信仰の先輩たちもいました。
2.聖書の観点から、自分が置かれている状況を客観的に把握することです。
  心の風邪を通して、神は私たちに何かを教えようとしているのでないかと考えることが大事です。厳しい状況にあっても、神を信頼し続けましょう。
3.優先的に神を求め続けることです。
  これが42、43編から学ぶべき一番重要なポイントです。この詩人は以前から神と共に歩んでいました。心の風邪によって、再確信したのです。ここから
  大事なことを二つ学ぶことができます。
  1)神と共に歩んでいた人であっても、心の風邪を引くことがあります。
  2)昔から神と共に歩んできた人は心の風邪を引いても、備えができています。
  そのために具体的にすべきことを挙げます。
  1)神を讃美することです。
    讃美することによって、神の特性、神の愛、神の赦し、神の救い、これまで神は何をなさったのか、これから何をなさろうとしているのか等を思い起す
    ことです。
  2)神の光と真理を求めることです。
心の風邪は私たちがこの世で生活する限り、付きまとう困難の一つです。クリスチャンといえども、あらゆる艱難から守られているという保証はありません。
ヨハネの福音書16章33節「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝ちました。」
最終的に、イエス・キリストが私たちを勝利者にしてくださいます。主を待ち望みましょう。




2025年6月15日     「神を信じる全ての人の父、アブラハム」      マクセイ師    
                      ローマ人への手紙4章3、11節、ガラテヤ人への手紙3章6~9節、25~29節、創世記22章1~18節

今日は父の日です。神を信じる全ての人の父であるアブラハムに目を向けます。創世記22章2節「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子
イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼いけにえとして献げなさい。』」
ここから四つのポイントを学びます。
1.信仰者も試練に遭います。
  アブラハムはその実例です。神はアブラハムの信仰を試されました。それを通して、アブラハムは成長していったのです。
  私たちも何らかの形で信仰が試されます。ペテロの手紙第一4章12節「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か
  思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」
2.信仰における試練の本質について学びます。
  私たちも降りかかる試練に何故という疑問がわくことがあります。そのような時、私たちはどのように考えるべきでしょうか。
  1)神の思いは私たちの思いをはるかに超えています。
    イザヤ書55章8節「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる。」
  2)自分の知恵ではなく、神の知恵に頼りましょう。
    箴言3章5節「心を尽くして主に依り頼め。自分の知恵に頼るな。」
  3)私たちの最も大事にしていることが絡んでいます。
    神がアブラハムにイサクを献げることを求めたのは、アブラハムがひとり子、イサクを偶像化していないかと問うているのです。
3.信仰の試練にどのように対処すべきかを学びます。
  1)従順に神に従うことです。
    アブラハムのように神の指示、求めに従順に聞き従うならば、最終的に神からの祝福に与ることができます。
  2)正しい態度をもって行動することです。
    創世記22章5節「アブラハムは若い者たちに、『おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえ
    たちのところに戻って来る。』と言った。」
    厳しい試練もアブラハムにとっては礼拝でした。
  3)信仰をもって対処することです。
    へブル人への手紙11章17節「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を
    献げようとしたのです。」
    それまで死人が蘇ったという例は一つもありませんでした。アブラハムは神によるイサク復活を信じ切っていたのです。
    イ.神に不可能はないという確信です。
    ロ.約束を守る神であるという確信です。
      神はアブラハムに約束していました。創世記12章2節「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
      あなたは祝福となりなさい。」
4.信仰の試練には目的があります。
  1)今まで以上に、私たちを神に頼る者とするためです。
  2)私たちをより用いられる器にするためです。
  アブラハムは私たちに信仰者の模範を示されました。私たちもそれを見倣って、命がある限り、神に従順に従って行きましょう。




2025年6月8日       「教会が生まれた」      大坪 篤史 師      使徒の働き2章36~42節

1.はじめに
  先日、「世界で最も貧しい大統領」と言われた南米ウルグアイの元大統領「ホセ・ムヒカ」氏が89歳で亡くなりました。彼の国連での発言です。「貧乏な
  人とは、無限の欲望があり、幾らあっても満足しない人である。」
  彼の言葉や生き様はこれからも世界中の人々に末長く影響を与え続けていくことでしょう。
2.聖霊が降る
  2章は、イスラエルの重要な祭りである五旬節の日の出来事です。イエス様が約束していた通り、天から聖霊が12人の使徒たちに下りました。ペテロは
  群衆に向かって、その意味を熱く語ります。36節「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきり知らなければなりません。神が今や主ともキリス
  トともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々は心を刺され、37節「私たちはどうしたら良いのでしょうか」と問いました。
  ペテロは答えました。38節「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、
  賜物として聖霊を受けます。」すると、その日の内に3000人もの人々が、バプテスマを受け、使徒たちの仲間に加わったのです。42節「彼らはいつも、
  使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」
3.教会が生まれた
  ここに最初の教会が誕生したのです。そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を讃美しました。
  その姿は全ての民に好意を持たれ、47節「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
  何と美しい光景でしょう。神様の偉大な力に畏敬の念を抱き、それぞれが自らの意思で財産を持ち寄り、必要に応じて、富を分かち合いました。イエス様の
  最後の審判への備えという意味もあったのかも知れません。その後、初代教会の群れは様々な試練と戦っていくことになります。そして、40年後には彼ら
  の住むエルサレムが強大なローマ帝国によって滅ぼされ、信者たちも周辺国に散り散りになっていくのです。離散したクリスチャン達は、それぞれの場所で
  周囲の人々に、そして、子や孫たちに信仰を継承していきました。パウロも各地で伝道を行い、厳しい弾圧や戦いの中で、信仰の種を蒔き、育てていきまし
  た。 そして、各地の教会に宛てて多くの手紙を書き送りました。その教えはキリスト教の神髄を伝えるものとして聖書に収録され、後世の人々に受け継が
  れています。現代の私たちが聖書を読むことができるのも、初代教会から続く信仰の火が受け継がれてきたからに他なりません。父、子、聖霊の三位一体の
  神様が助け導いて下さったのです。43節以降の「信者の生活」を記した短い聖書箇所の中に、3回も「一つ」という言葉が使われています。多様性を認め
  ながらも、全ての人が同じ主を見つめ、心を寄せ合って、自分の役割を果たし、最良の実を結んだのです。本質的で大事なことについては一致して一つに
  なりましょう。非本質的なことについては、愛をもって多様性を認め合いましょう。





2025年6月1日    「神の怒りと人間の罪」     マクセイ師       ローマ人への手紙1章18、24~32節

神の怒りは正義の怒りです。私たちはその対象です。弁解の余地はありません。何故でしょうか。
1)私たちは自然界を通して、神が存在することを知っているからです。(19、20、21節)
2)不義によって真理を阻んできたからです。(18節)
3)神を神としてあがめず、感謝もしなかったからです。(21節)
4)創造主の代わりに創造したものを神としているからです。(23節)
今日は、もう一つの理由、人間の罪に目を向けます。二つのポイントで考えます。
1.神の怒り
  18節「あらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されています。」
  神の怒りの聖書箇所は神の愛の聖書箇所よりも多いのです。神の怒りは神の属性に密接に関係しています。神は人間の罪を憎み、怒られます。聖書には
  過去、現在、未来における神の怒りが預言されています。24節「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」26節「神は彼らを
  恥ずべき情欲に引渡されました。」28節「神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。」
  これらは現在の私たちの罪に対する怒りです。しかし、私たちがどんなに罪にまみれていても、神は私たちを諦めません。イエス・キリストを通して神に
  戻る道を備えてくださっています。
2.人間の罪(24~32節)
  罪は私たちの霊的な命を奪います。パウロは罪を三つのタイプに分けています。何れの罪も出発点は神否定です。それぞれ見ていきましょう。
  1)偶像礼拝(22~23節)
    イ.神の代わりに別なものを拝むことです。
     ロ.自分なりの神イメージを作ることです。
  2)性的罪(24~27節)
    24節「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」
    性的行為にふけることです。
    イ.神は私たちが結婚生活の枠以外で性行為を行うことを禁じています。
    ロ.同性愛を禁じています。
      聖書は同性愛を罪であるとしています。私たちクリスチャンは同性愛者に如何に対処すべきでしょうか。裁くのではなく、愛をもって、優しく、
      謙虚に接して、繋がりを造っていきましょう。機会があれば、キリストによる救いを分かち合いましょう。神の救いは全ての人が対象です。
  3)対人関係の罪(28~31節)
     この罪の出発点が28節にあります。「彼らは神を知ることに価値を認めなかった。」
    そのような立場に立つと、ブレーキが効かなくなります。何でもできます。その結果、「無価値な思いに引き渡されました。」
    29~31節に提示されている21の罪の根底に流れているのは自己中心、利己主義、神否定です。
  4)人がそれぞれ持つ善悪の基準を無視する罪(32節)
    人は何らかの善悪の基準をもっています。神否定はそれすら放棄することになります。
結論、まとめです。
1)神の怒りは当然であり、正義の怒りです。
2)神の怒りは過去、未来に対してだけでなく、現在も下されます。
3)人間の罪深さは絶望的ではありません。希望があります。
  イ.神は裁きを先送りしておられます。悔い改めの機会を与えておられます。
  ロ.私たちには神の救いの福音が与えられています。




2025年5月25日     「何故ですか?」   マクセイ師     ローマ人への手紙1章16~23節

五回に渡って、ローマ人への手紙1章1~15節を学んできました。六回目の学びです。
ローマ人への手紙全体のテーマは「救い」です。私たちは救いを必要としています。何故なら、18節「人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から
啓示されているからです。」20節「彼らには弁解の余地はありません。」
何故、弁解の余地はないのでしょうか。四つの答えを今日の御言葉に見出すことができます。
1.神を知っているからです。
  19節「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。」詩篇19編1節「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手の
  わざを告げ知らせる。」
  私たちは自然界から神についての次のような知恵を得ています。
  1)永遠の昔から存在します。
  2)無限の力を有します。
  3)神性、計り知れない英知等をもっておられます。
  神の全体像を見ることはできないけれど、偉大な神であることは見えます。
2.真理を阻んだからです。
  18節「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されています。」
  二つの真理があります。
  1)私たちは永遠の昔から存在している創造者の神に生かされています。
  2)私たちはその神に責任があります。
  私たちは二つの真理をどのように阻んでいるのでしょうか。
  1)進化論によってです。
  2)神を知ることはできない、神の属性を知ることができないという哲学によって、場合によっては、人間には罪はないという心理学によってです。
3.神を神としてあがめず、感謝もしなかったからです。
  21節「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もしなかった。」
  客観的な自然界観察は、神を拝み、感謝することに繋がるはずです。しかし、人間は感謝せず、自力で生きようとしています。
4.創造者の神を他のものに置き換えるからです。
  23節「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」
  全ての人間は何かを神としています。これは不敬虔に行きつきます。対処法は二つしかありません。造り主を拝むか、造られた物を拝むかです。クリスチャン
  だからと言って、安心しないください。誰でも心の中で、創造主以外の物を拝むことがあるのです。何でも神に成り得るのです。注意しましょう。
最後に、この聖書箇所から学ぶべきことを挙げます。
1)神は、私たちがどれくらいのことを知っているかではなく、知っていることにどのように応答するかに注目しています。
  福音を知らない人たちは一般啓示に基づいて裁かれます。私たちクリスチャンは一般啓示と特別啓示が与えられていますから、より大きな責任があります。
2)私たちは心の中で、思いの中で、神の代わりに、時間とお金をかける誘惑、偶像礼拝と闘っています。それを認めましょう。そして、神にしっかりと目を向け
  ましょう。神の言葉に戻りましょう。
3)一般啓示しか知らない人たちと真の神を分かち合いましょう。信仰から遠ざかっている人たちに、戻る道を伝えましょう。




2025年5月18日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅨ)―神と本当の喜び―」   マクセイ師      詩篇16編11節

私たちは日常生活の中で喜びを経験します。この喜びと本当の喜びの違いは何でしょうか。一般の喜びは条件付きです。一時的です。日常生活における喜びは
この喜びです。本当の喜びは状況に関わらずにあり、永遠に薄れること、消えることがありません。何故なら、本当の喜びは神から来るからです。
コリント人への手紙第二7章4節「私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。」
どうしたら、私たちは本当の喜びを得ることができるのでしょうか。
1.神がなさったことを思い起すことによってです。
  詩篇92編4節「主よ あなたは、あなたのなさったことで私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを私は喜び歌います。」
  具体的に、神は私たちのために何をなさったのでしょうか。
  1)神は万物を創造されました。神は創造者です。
    私たちを楽しませるために、素晴らしい環境、自然界を創造してくださいました。又、人間に与えた創造力を通して、素晴らしい美術、音楽、文学を
    与えてくださいました。
  2)神は救い主です。
    神は救いの御業によって、私たちの罪を赦してくださいました。
  3)神は私たちに約束してくださっています。
    私たちの必要を満たしてくださいます。日々、神は私たちのことを気にかけておられます。私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。最善のことをして
    くださいます。私たちを支え、導き、聖めてくださいます。全てを働かせて、益としてくださいます。何時も、私たちと共におられます。私たちの罪を
    赦してくださいます。永遠のいのちを約束してくださっています。 
2.永遠に変わらない神への信仰を深めることによってです。
  マラキ書3章6節「主であるわたしは変わることがない。」
  私たちに対する神の愛は変わりません。約束を守られます。神の力、神の赦しの約束、全てを益としてくださるという約束も変わることがありません。
  私たちはその喜びを確かなものにするために、深めるために、神にもっと近付かねばなりません。ヤコブの手紙4章8節「神に近づきなさい。そうすれば、
  神はあなたがたに近づいてくれます。」
  そのために何が必要でしょうか。
  1)時間
     神の言葉を読み、思いめぐらす時間をもつことです。
  2)対話、コミュニケーション
    祈りを通して、自分が背負っている重荷を神に委ねることです。
  3)信頼
    喜びの源である神に絶対的な信頼を置かねばなりません。私たちが信仰をもって神に思いを寄せる時、神は私たちに本当の喜び、平和、力、希望を与え
    てくださいます。
3.神を喜ぶことは私たちの力になります。
  ネヘミヤ記8章10節「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」
詩篇16編11節「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」
神が与えてくださる喜びは私たちに内なる平安、本当の満足感、力、忍耐強さを与えてくださいます。これは終わることのない、消えることのない喜びです。
これを大事にしていきましょう。そのために、毎日、神を見上げていきましょう。神の言葉に耳を傾けましょう。神に従い続けましょう。神を礼拝し続けま
しょう。神に仕え続けましょう。




2025年5月11日    「私たちのガリラヤへ」    大坪 篤史 師     マタイの福音書28章1~20節

1.はじめに
  4月21日、ローマ教皇が亡くなりました。貧しい人や苦しむ人々に寄り添い続けた亡き教皇に哀悼の意を表します。
2.ガリラヤで会おう
  今日は復活された主が約束の地、ガリラヤで弟子たちに現れた場面を中心に学びます。
  週の初めの日の朝、イエスの遺体に香油を塗るために、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に行きました。すると、地震が起こり、墓を塞いでいた大き
  な石が脇に転がされました。その上に座った御使いが言いました。「恐れることはありません。あの方はよみがえられたのです。」そして、弟子たちに次の
  ように告げるよう命じました。「イエスは・・・あなた方より先にガリラヤに行かれ、そこでお会いできます。」 更に、イエスご自身が現れて、命じました。
  「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
  弟子たちはガリラヤでイエスに再会しました17節「そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」
  ヨハネの福音書によると、信じなかったトマスに、イエスは仰いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹
  に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
  マタイの福音書は次のように結んでいます。18節「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が
  与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあな
  たがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。』」大宣教命令を発せられたのです。
  私たちはどのように宣教すればよいのでしょうか、ヨハネの福音書のガリラヤ湖でのペテロたちの漁の場面が大きなヒントを私たちに与えてくれます。
  ペテロと何名かの弟子たちは、故郷に戻って、ガリラヤ湖で漁をしていました。しかし、その夜は何にも獲れませんでした。
  夜明け頃、イエスが岸に立って言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れます。」ペテロたちは素直にその言葉に従いました。すると、
  おびただしい数の魚が獲れたのです。その時、一人の弟子が「主」と気づきました。
   「舟の右側に網を打ちなさい。」右側は神の領域を表します。私たちが教会活動、伝道活動を行う時、右側である神の領域で行わなければ、神の指し示す方法
  で行わなければ、人を導くことはできません。そして、大事なことは御意思に素直に従うことです。更に、漁の仕方についても注目する必要があります。彼ら
  が行ったのは、皆で協力して行う「網打ち」でした。大漁で、しかも網は破れませんでした。教会活動も皆で協力して行うことが大切です。
3.私たちのガリラヤへ
  復活された主は、天において父なる神の右に座しておられます。私たちのガリラヤは鹿児島であり、この教会です。天と地の一切の権威を授かった主に全幅の
  信頼を置き、全ての人に福音を伝えていきましょう。




2025年5月4日     「福音:神の救いの力」    マクセイ師     ローマ人への手紙1章16~17節

ローマ人への手紙の五回目の学びです。パウロがこの手紙で使っている三つのキーワード(救い、信仰、義)に沿って、今日の聖書箇所を学びます。
1.福音と救い
  16節「福音は、・・・・人の救いをもたらす神の力」
  福音の中心は救いです。全ての人が救いを必要としているからです。何故でしょうか。
  1)全ての人が神の前において罪深い者であるからです。
  2)私たちは神の裁きの対象だからです。
    福音の中心は全ての人の救いですが、それに付随する恵みがあります。罪の力からの救い、神との断絶からの救い、死の恐怖から救い等です。これらは
    全て神がなさることです。神のみができることです。それを裏付けるのはキリストの復活です。
2.福音と信仰
  信仰によって福音に与ることができます。信仰には三つの大事な要素があります。
  1)福音の中身を知ることです。
    キリストは誰で、何をなさったのかを知ることです。
  2)キリストの御業を歴史的事実として認めることです。
  3)キリストを全面的に信じることです。
  私たちはこの信仰を通して、神から救いをいただくのです。エペソ人への手紙2章8~9節「この恵みにゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
  それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」
  この救いは全ての人を対象としていますが、一人一人が信仰によってそれに与らなければなりません。では、如何にして、その信仰をもつことができるので
  しょうか。御言葉を通してです。神は御言葉を通して、私たちを信仰に導いてくださいます。ローマ人への手紙10章17節「信仰は聞くことから始まりま
  す。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」
  ですから、神の救いに与った私たちの使命は神の御言葉を宣べ伝えることです。
3.福音と義
  17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」
  神の義には二つの意味があります。
  1)神は私たちに正しいことをしてくださいます。
  2)神が必要な正しさを私たちに提供してくださいます。
    私たちはどんなに頑張っても神の聖さ、正しさを生み出すことはできません。
  私たちは如何にして、神の義に与るのでしょうか。答はキリストを信じることによってです。何故でしょうか。キリストが十字架の上での身代わりの死を
  通して、私たちの罪を贖ってくださったからです。その結果、神はキリストを信じる者を聖なる者、罪のない者、つまり、義なる者としてくださいました。
ここから、私たちが学ぶべきことを挙げましょう。
1)私たちは自分の救いを確信することができます。又、確信しなければなりません。それに何も付け加える必要はありません。
2)信仰によって、神の義に与ることができることを分かち合う者になりましょう。
3)信仰に踏みとどまらなければなりません。義人は信仰によって生きるからです。
私たちは信仰によって神の義に与っている者です。そのことを確信しましょう。キリストの復活が私たちの信仰の土台です。信仰にしっかりと踏み止まりましょう。




2025年4月27日     「健康な教会とは」    マクセイ師     使徒の働き2章42~47節

今年、吉野教会は創立50年です。完全な教会は存在しませんが、健康な教会は存在します。集うクリスチャンが不完全だからです。吉野教会が健康な教会で
あって欲しいと思います。今日の聖書箇所に、それを可能にするヒントを見ることができます。
1.神の言葉を第一にします。
42節「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り」
  彼らとは誕生したばかりのエルサレムの教会の兄弟姉妹たちです。彼らは不思議としるしを行う使徒たちが語る神の言葉を熱心に聞き、固く守りました。
  これは現代の私たちに次のことを教えます。
  1)神の言葉を教会の上に位置づけなければなりません。
  2)クリスチャンとして、証しするために、そして、偽教師、異端から守るために、一人一人が神の言葉を蓄えなければなりません。
  3)神の言葉に重点を置かなければなりません。
  健康な教会の働きのベースは神の御言葉です。私たちは神の御言葉を求め続ける者でなければなりません。
2.交わりを大事にします。
  42節「交わりを持ち」
  交わりと訳されている原語には二つの意味があります。
  1)共有する
    キリスト信仰を共有するということです。違いがあっても良いのです。違いを乗り越えて、私たちを繋ぐのはキリスト信仰です。
  2)共に分かち合う
     45~46節に、エルサレム教会の共に分かち合う様子を見ることができます。共に分かち合うということは必要に応じて、自分の財産を売って、
    必要としている人に分配したということであり、共同生活をしていたということではありません。兄弟愛を示すことは健康な教会の証しです。
3.礼拝を大事にします。
  42節「パンを裂き、祈りをしていた。」
  彼らは週の初めの日(日曜日)に礼拝を守りました。
  1)宮(神殿)と家々で礼拝しました。(42節)
  2)喜びながら礼拝しました。
    46節「喜びと真心をもって食事をともにし」
    礼拝は喜びを表す時です。
  3)真心をもって礼拝しました。
    46節「真心をもって」
    常に、神がご臨在くださっているという思いをもって礼拝したということです。
  祈りは教会だけで行うものではありません。神の導き、力を求めながら、月曜日から土曜日まで、祈り続けることが求められます。
4.伝道に励みます。
  1)伝道の背景にはキリストがいなくてはなりません。
    伝道する時、又、伝道を計画する時、常に、神の力を求めなければなりません。自分でできることではありません。当時も今も、同じです。そのために、
    祈りが不可欠です。
  2)毎日です。
    46節、47節「毎日」 時々ではなく、毎日です。
  大事なことは継続することです。そして、個人的にも忍耐強く行うことです。そのためには下準備が必要です。
教会は地上におけるキリストの体です。私たちはその体の器官です。ですから、吉野教会が健康な教会になるためには、私たち一人一人が神の言葉を第一にする
者、交わりを、礼拝を大事にする者でなければなりません。伝道に励む者でなければなりません。ローマ人への手紙12章5節「大勢いる私たちも、キリストに
あって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」




2025年4月20日   「キリストの復活後の言葉」     マクセイ師     ヨハネの福音書20章1~21、24~28節

今日、私たちはキリストが蘇られたという真理を祝うために集まりました。ヨハネは20章にキリストの復活の歴史的証拠を三つ挙げています。
1.キリストの墓が空になっていました。(1~9節)
  日曜日の早朝、マリアが墓に行くと、遺体がありませんでした。うろたえた彼女はペテロとヨハネに告げました。二人は墓に走って行き、目で確認しました。
2.亜麻布がありました。〈5~7節〉
  7節「イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」
  キリストの遺体が盗まれたとするならば、このように整理整頓した形で、亜麻布を残すでしょうか。
3.キリストの復活後の現れです。
  ヨハネの福音書20~21章にキリストの現れが四つ記されています。その内の三つを見ていきます。
  1)マリアに現れました。(20章11~16節)
    当時、女性は蔑視されていました。キリストは意図的に一人の女性をご自分の復活の証人にしたと思われます。
    イ.マリアに最初の言葉をかけました。(20章15節)
      「なぜ泣いているのですか。」
      深い悲しみの涙だったと思います。キリストは私たちを慰め、支えてくださいます。最終的には、完全に涙をぬぐい取ってくださることを約束して
      います。
    ロ.マリアを名前で呼びかけました。〈20章16節〉
      名前で呼ぶということはその人を知っているということです。
    ハ.兄弟たちに伝えなさいと言われました。〈20章17節〉
      「『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る。』と伝えなさい。」
      マリアにミッションを与えたのです。マリアはそれに応えました。同じことが私たちにも託されています。
  2)キリストの弟子たちに現れました。(20章19~23節)
    キリストは怯え、集まっている弟子たちに彼らが必要としている言葉をかけました。
    19節、21節「平安があなたがたにあるように。」、21節「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22節「聖霊を
    受けなさい。」
  3)トマスに現れました。(20章24~28節)
    キリストは疑い深いトマスに言いました。27節「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
    注目すべきは、キリストはトマスの不信仰を責めていないことです。最終的に、トマスはキリストのあわれみ深さ、忍耐深さを通して、信仰深い告白を
    します。28節「私の主、私の神よ。」29節はキリストから私たちへの言葉です。29節「見ないで信じる人は幸いです。」
    私たちは信じることによって恵まれます。神との平安、内なる平安という恵みです。希望という恵みです。死は終わりではありません。神との永遠の生活
    が待っています。特別な内在の力という恵みです。どんな試練にも耐えられる力が与えられます。クリスチャンとして、信仰に踏み止まり、証しし続ける
    ことができます。そして、生きる目的が与えられるという恵みがあります。キリストの復活後の言葉を思い起し、信仰者としての恵みを噛みしめて、感謝
    して歩んでいきたいと思います。





2025年4月13日    「受難の預言」    マクセイ師       イザヤ書53章1~12節

1.はじめに
  道中、田圃で風に揺れる水稲を見ると、昨年来の米価格の高騰を思い出します。私たちの主食である米の生産体制の再構築が待たれます。
2.イザヤ書から~受難の預言
  今年は3月5日から受難節、4月18日が十字架に架かられた日、20日がイースターです。
  イザヤ書はイエス様の十字架の700年以上も前に書かれた書ですが、イエス様が十字架にかかられた理由と結果が預言されています。三つのポイントで見て
  いきます。
  1)この預言を信じる人はいませんでした。   
    1節「だれが信じたか。」
    イザヤの預言、イエス様の説明を誰も信じませんでした。私たちもその時代に生きていたならば、同じ過ちを犯していたに違いありません。
  2)人々のイエス様像、対し方が明確に示されています。
    2~3節「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が
    顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」5節「彼は・・・刺され、・・・砕かれたのだ。」8節「彼は取り去られた。」
    しかし、そこには神様の御計画がありました。4節「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」5~6節「彼は私たちの背きの罪のために刺され、
    私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさま
    よい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。」8節「彼の時代の者で、だれが思ったことか。
    彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から断たれたのだと。」
  3)イエス様の十字架の死の意義や成果を明らかにしています。
    10~12節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることが
    でき、主のみこころは彼によって成し遂げられる。『彼は、自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識に
    よって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。それゆえ、わたしは多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを
    死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのためにとりなしをする。』」
3.新約の約束や預言も成就する
  イザヤ書は聖書の預言書の中でも最も偉大な書と言われています。又、旧約聖書の中で最も多く、新約聖書に引用され、そのメッセージは福音的であり、キリ
  ストの生涯が預言されていることから、5番目の福音書とも呼ばれています。更に、イザヤ書1~39章は旧約聖書39巻、40~66章は新約聖書27巻に
  対応しているとされています。イザヤ書の預言は新約の時代になってことごとく成就しています。この受難週の時、十字架と復活の預言が成就したことに感謝
  すると共に、新約聖書の再臨等の約束が順次実行されていくと信じ続けましょう。




2025年4月6日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅧ)―共におられる神―」   マクセイ師    イザヤ書41章10節

私たちは何かを恐れています。「あなたと共にいる」と約束して、恐れるなと励ましてくださる神について、三つの問いかけをして、神の実像に迫りたいと思います。
1.誰がこれを約束しているのでしょうか。
  10節「たじろぐな。わたしはあなたの神だから。」
  約束してくださるのは永遠の昔から存在する創造主、全知全能、遍在の神です。神に不可能はありません。
2.何をしてくださるのでしょうか。
  三つのことを約束しています。
  1)私たちを強めてくださいます。
    10節「わたしはあなたを強くする。」
    私たちは肉体的に、霊的に弱さを抱えています。神はその弱さを補ってくださいます。ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、
    私はどんなことでもできるのです。」
  2)私たちを助けてくださいます。
    10節「あなたを助ける。」
    助けるとは、私たちを見捨てない、目を離さないということです。そして、全てを益にしてくださいます。
  3)私たちを守ってくださいます。
    10節「わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
    私たちが何らかの戦いをしている時に、私たちの手を握って、危機を通過させてくださいます。
3.何時、してくださるのでしょうか。
  何時でもです。神は何時も私たちと共にいて、私たちを守り、助けてくださいます。具体的に掘り下げてみましょう。
  1)誘惑の時に、共にいてくださいます。
     神が私たちと共におられることは神を悲しませたくない、傷つけたくないというブレーキになります。
  2)必要がある時に、共にいてくださいます。
    へブル人への手紙13章5節「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを
    見捨てない』と言われたからです。」
  3)孤独の時に、共にいてくださいます。
    孤独に陥っても、神が見ておられ、共にいてくださることを忘れないようにしましょう。
  4)大きな責任を負っている時に、共にいてくださいます。
    神はモーセにエジプトにいるユダヤ民族を救い出しなさいと指示されました。モーセは辞退しましたが、神はモーセに言いました。「わたしが、あなたと
    ともにいる。」モーセは言い訳を止めて、ユダヤ民族を導き出しました。
  5)危険な時に、共にいてくださいます。
    コリントでの伝道に成果を上げたパウロはユダヤ教の教職者たちに命を狙われました。夜、神は幻で現れ、パウロに言いました。使徒の働き18章9~10
    節「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしはあなたと共にいるのだ。あなたに危害を加える者はいない。」
  6)死を迎える時に、共にいてくださいます。
    人が一番恐れるのは死です。私たちは神の家族ですから、死を恐れる必要はありません。神は共にいて、私たちを導いてくださいます。
    詩篇23編4節「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」
詩篇34編4節「私が主を求めると、主は答えすべての恐怖から 私を救い出してくださった。」
私たちを力づけ、守る神は私たちを恐れから救い出してくださいます。




2025年3月23日     「神に仕えている聖徒たち」    マクセイ師   ローマ人への手紙1章5~15節

ローマ人への手紙の4回目の学びです。パウロは使徒であり、私たちは聖徒です。使徒とはキリストの復活の証人であること、使徒としてのしるしをもっていること、キリストによって直接送り出された者であることです。聖徒とはどういう人でしょうか。今日の聖箇所に四つが提示されています。
1.証する人
  信仰が広がるために何が必要でしょうか。
  1)福音が語られなければなりません。
  2)生き方を通してキリストを証ししなければなりません。
  私たちはこれらを実践しているか、自問自答しましょう。
2.祈る人
  9~11節「私は絶えずあなたがたのことを思い、祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに
  行けるようにと願っています。」
  祈る人として、私たちが心得ておくべきことを挙げましょう。
  1)神の答えは直ぐ来るとは限りません。
    ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる
    ことを、私たちは知っています。」
    「神のみこころであれば」という祈りを大事にしましょう。
  2)神はパウロの期待通りに応えませんでした。
    ローマに行くまでの数年間、パウロはギリシャ、アジアで福音を伝えていました。そして、ローマ人への手紙を書きました。もし、彼が思い通りにローマ
    に行ったとしたら、福音書を書いていないかも知れません。神が祈り手に時ではないと応えるのは、他のことを求めている、又は、今いる所で頑張って
    欲しいと理解すべきです。
3.繋がりを大事にする人
  パウロは聖徒たちとの繋がりを大切にしていました。何故でしょうか。
  1)兄弟姉妹を霊的に強くしたいからです。
    パウロのローマの兄弟姉妹への最大の願いは福音を分かち合うことです。彼らに福音の核心である救いの確信を得て欲しいと願っています。
  2)彼らを励ましたいからです。
    パウロは伝道師として尊敬されながら、ローマの兄弟姉妹たちから励ましを受けたいと言っています。一方通行ではありません。励ますことにおいて大事
    なことは何でしょう。
    イ.動揺しないで、疑わないで、恐れないで、心配しないで、信仰に踏みとどまることです。
    ロ.愛と善行を促すことです。
    ハ.互いに注意を払いましょう。
      誰も無視しないということです。
    ニ.集まること止めないことです。
    ホ.実を結ぶことです。
4.自分の責任を自覚する人
  14~15節「私は、ギリシャ人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがた
  にも、是非福音を伝えたいのです。」
  全ての人が救いの対象です。何故でしょう。
  1)全ての人が罪人であるからです。
  2)神が全ての人の救いを望んでおられるからです。
  ピリピ人への手紙2章15~16節「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子ども
  となり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。」




2025年3月16日    「皆が行きたい所(パートⅡ)」   マクセイ師    ペテロの手紙第二3章10~12節、ヨハネの黙示録21章1~4節

前回、聖書の天には四つの意味があると申しました。
1.神の栄光と力と聖さに満ちた天
2.物理的な天
3.パラダイス
今日は残りの一つについて考えます。
4.第四の天
  未だ存在していません。四つの問いに答える形で実体に迫ります。
  1)何時、現れるのでしょうか。
    次の四つが時系列的に起こった後です。
    イ.キリストの再臨
    ロ.復活
      キリストに連れて来られた兄弟姉妹、生き残っている兄弟姉妹たちに新しい体が与えられます。
    ハ.携挙
      テサロニケ人への手紙第一4章17節「生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、      いつまでも主とともにいることになります。」
    二.最後の審判
      携挙によって、第三の天の神の御座の前に全ての者が集められます。そこで、最後の審判が行われます。これが第四の天の誕生の始まりです。
  2)如何にして、現れるのでしょうか。
    ペテロの手紙第二3章10節「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地に
    ある働きはなくなってしまいます。」
  3)如何にして、行くことができるのでしょうか。
    ヨハネの黙示録21章1~2節「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しい
    エルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天(第三の天)から降って来るのを見た。」
    天地のリフォームが完成した時、私たちは目に見えない第三の天から目に見える第四の天に神が用意したものに乗って降って来ます。
  4)如何なる所なのでしょうか。
    人間が罪を犯して呪われる以前の世界です。私たちはそこで次の祝福に与ります。
    イ.肉体的祝福
      イ)あらゆる危険が存在しません。
      ロ)不快感を与えるものもありません。
      ハ)暗闇がありません。
      二)死がありません。
      ホ)十分な食物、水があります。
    ロ.心理的祝福
      イ)ないものから来る心理的祝福
        ヨハネの黙示録21章4節「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、悲しみもない。
        以前のものが過ぎ去ったからである。」
       ロ)あるものから来る心理的祝福
        ㋑ 愛する者、兄弟姉妹との再会です。
        ㋺ 生きがいとなる仕事があリます。
      ハ)霊的な祝福
        ㋑ 罪、悪は全く存在しません。
          ヨハネの黙示録21章27節「すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、
          子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。」
        ㋺ 神がそこにおられます。
          同21章3節「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおら
          れる。」
        ㋩ 完全な義が存在します。
          ペテロの手紙第二3章13節「私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
確認しておきましょう。第四の天を受け継ぐ者は、イエス・キリストを通して、罪、裁き、神との断絶に対する勝利を得た者です(ローマ人への手紙8章37節)。
この勝利は自力で得ることはできません。キリストを通してのみ得ることができます。




2025年3月9日     「主は用いられる~国際女性デーに寄せて」     大坪 篤史 師     ルツ記14章11~22節

1.はじめに
  3月8日は「国際女性デー」です。1975年、国連総会で定められました。女性の地位向上や女性差別の撤廃をめざすべく、国際的に連帯し、統一行動を
  行う日です。

2.ルツの物語から
  紀元前12世紀頃のことです。ヨシュアが死に、イスラエルには全国民を統一する政治指導者不在で、国民を統治する機構もありませんでした。イスラエルの
  民は神に背いて、偶像礼拝や不道徳に陥っていました。神は士師を送り、政治的、軍事的な指導者として用いていました。ルツ記はそんな時代の記録です。

  12部族の中のユダ族に属するエフラテ人であるエリメレク、妻のナオミ、二人の息子マフロンとキルヨンは飢饉から逃れるために、ベツレヘムから約100
  ㎞離れたモアブの地に移住し、開拓生活を始めました。しかし、エリメレクは労苦が重なったのでしょう。間もなく亡くなり、結婚した息子たちも亡くなって
  しまいました。ナオミと二人の嫁オルパとルツの女性3人が残されたのです。失意の中、ナオミは故郷に帰ることを決断します。そして、道中、二人の嫁に、
  自分の里に帰って再婚するよう強く勧めます。オルパは従ったものの、ルツは拒否しました。二人は旅を続け、ベツレヘムに到着しました。ルツは食糧を得る
  ために、亡き夫エリメレク一族のボアズの畑で落穂拾いをしました。当時、貧しい人や寄留者などには、収穫後の畑で、残された穀物を拾うことが許されて
  いました。富豪のボアズは人望が厚く、信仰深い人でした。ボアズは言いました。「あなたの夫が亡くなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それに
  あなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いて
  くださるように。」そして、ルツが十分な食糧を確保できるように計らいました。それを聞いたナオミはルツの幸せを願い、ルツをボアズに嫁がせようと働き
  かけるのです。そして、「レビラート婚」制度に従って、ボアズはルツを妻にしました。やがて、男子が産まれ、近所の女性たちによって、「オベデ(仕える
  者)」という名前を付けられました。皆に祝福され、育てられたようです。又、孫を抱くことができたナオミは喜びに満ちあふれ、幸せな余生を歩んだと思わ
  れます。オベデはエッサイの父、エッサイはダビデの父となりました。ルツの子孫からダビデ王が生まれたのです。ダビデの子孫からは救い主イエスが生まれ
  ています。ルツとボアズはイエスの祖先となったのです。神は一人の異邦人女性を尊く用いられ、イエス・キリストの系図に名を残すという、大変名誉な計ら
  いをされたのです。

3.主は用いられる
  「ルツ記」は、真の信仰に根差し、誠実に生きることの大切さを私たちに教えています。吉野教会でも、多くの女性が尊く用いられ、それぞれに大切な役割を
  果たしてくださっています。感謝しながら、誠実に信仰生活を歩んでいきたいと思います。世界中の子供たちの未来が、平和、感謝、友愛に満ちあふれた世界
  になることを祈ります。





2025年3月2日    「皆が行きたい所(パートⅠ)」    マクセイ師    ヨハネの福音書14章1~3節、使徒の働き1章9~11節

聖書には四つの天国があります。今日はその内の三つを取り上げます。
1.神ご自身、神の栄光と力と聖さに満ちている天
  神がおられる所、神の力、聖さに満ちた所です。テモテへの手紙第一6章16節「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が
  だれ一人見たことがなく、見ることもできない方、この方に誉れと永遠の支配がありますように。」
2.物理的な天
  宇宙論的天です。地以外の全てです。キリストは再臨の時、この天から来られます。マタイの福音書26章64節「あなたがたは今から後に、人の子が力ある
  方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
  私たちが死んで、行くのはこの天ではありません。
3.パラダイス、アブラハムの懐
  実在しますが、私たちの目で見ることはできません。復活から40日後、キリストはこの天に行かれました。どういう所でしょうか。何があるのでしょうか。
  誰がいるのでしょうか。
  1)天使がおられます。
    神が創造した天使たちはここにおり、必要に応じて、降りて来ます。用が済むと、戻って行きます。キリストが復活した時、天使が降りて来て、墓石を
    転がしました。羊飼いたちにキリストの降誕を告げた天使たちは任務を終えて、天に帰っていきました。
  2)神の御座があります。
    ここで、神は天使たちに栄光を現します。天使たちは神の御座を囲み、神を讃美します。栄光の体をもって昇天されたキリストが父なる神の右におられ
    ます。
  3)主によって救われた者は、死後ここに来ます。
    死後の私たちの一時的住まいです。最終地は第四の天です。どのような環境、状況でしょうか。
    イ.私たちの魂は肉体のない状態でいます。死とは魂が肉体を離れることです。
      人の魂には形と本質があるので、誰であるか分かります。
    ロ.意識があります。
      死によって、私たちの肉体は滅びますが、魂は生き続けます。ですから、私たちがキリストの再臨前に死を迎えるならば、ここでキリストと交わる
      という恵みをいただくことができます。ピリピ人への手紙1章21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」同23節「世を去っ
      てキリストと共にいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」
      そして、キリストが再臨する時に、先ず、キリストにある死者がよみがえり、永遠に生きる体をもって、第四の天国に迎えられます。
私たちは死を恐れる必要はありません。一時的な天国ですが、平安、満足感等の多くの恵みをいただくことができます。そして、キリストの再臨の時、私たちは
新しい、永遠に生きる体が与えられ、第四の天国で生活することになります。コリント人への手紙第ニ5章6~9節「私たちはいつも心強いのです。ただし、
肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。私たちは心強
いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが
心から願うのは、主に喜ばれることです。」




2025年2月23日    「神の福音」   マクセイ師    ローマ人への手紙1章1~4節

ローマ人への手紙の学びの三回目です。この手紙の中心テーマは福音です。2~4節に神の福音についての大事な指摘が三つあります。
1.約束された福音
  2節「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたものです。」
  パウロは「私自身の福音ではなく、神が計画し、約束し、実現させた福音」であると宣言しています。
  1)神は約束を守ります。
    創世記3章15節以降、旧約聖書の全般に渡って、直接的に、間接的に、神はキリストによる福音を約束しています。例えば、自分が罪を受ける代わりに、
    いけにえを捧げることによって赦されるといういけにえの制度は、後の完全ないけにえとしてのキリストの身代わりの死の型です。
    旧約聖書にはキリストの救いの働きの預言が少なくとも300あります。神の約束は確実に実現します。キリストの再臨の約束は未成就ですが、神の時間
    の見方は私たちとは違います。ペテロの手紙第二3章8節「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
  2)あらかじめ約束された福音です。
    2節「聖書にあらかじめ約束されたもの」
    神はご自分の計画を預言者たちを通して語りました。彼らは自分たちの時代、そして、その後の時代の人たちのために、それを書き留めました。従って、
    私たちはローマ人への手紙を神の言葉として、読み、理解し、受け留めることができます。
2.御子に関する福音
  3節「(イエス・キリストは)肉によればダビデの子孫です。」
  1)人間の姿で現れました。
    神が人間の姿をとって現れました。私たちの良き理解者となるためです。私たちに同情するためです。私たちの身近にいることができるためです。そして、
    私たちが神をより深く知ることができるためです。
  2)ダビデの子孫として現れました。
    これは旧約聖書のキリストに関する預言が成就したことを意味します。エレミヤ書23章5節「見よ、その時代が来る。―主のことば―そのとき、わたし
    はダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」
  キリストは永遠の昔から神として存在していたということです。私たちの信仰の土台の中心はキリストご自身です。
3.よみがえられたキリストの福音
  4節「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」4節「公に示された方」
  復活という歴史的事実をもって、キリストは神である、神の子である、救い主であるということが多くの人たちに宣言されました。復活がなければ、私たちの
  信仰は無意味です。私たちの信仰は復活信仰です。キリストの復活は私たちの復活の保証であり、裏付けです。神の約束を信じましょう。
イエス・キリストの復活で、何が証明されたのでしょうか。
1)キリストは私たちの主です。
2)キリストがこの世に来られた唯一最大の目的は私たちを罪から救うことです。
3)キリストは神であり、私たちの主人です。
私たちが神の福音に希望と命と力があることを確信できるのはキリストがよみがえられた主であるからです。




2025年2月16日    「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅦ)―神と礼拝―」    マクセイ師     ヨハネの福音書4章19~24節

先週のメッセージで、礼拝は神への応答であること、何かを得るためではないことを確認しました。更に、礼拝について二つのポイントで考えましょう。
1.神は私たちにどのような礼拝を求めているのでしょうか。
  ヨハネの福音書4章24節「神は霊ですから、神を礼拝する者は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
  1)神を対象とした礼拝です。
    創造主、救い主である神を対象とした礼拝でなければなりません。
  2)真理に基づく礼拝です。
    神についての理解が深まるほど、礼拝はより豊かになります。より深く神に感謝することができます。
  3)霊による礼拝です。
    神は肉体をもたない存在です。私たちの目に見えない存在です。しかし、私たちも霊をもっているから、神と交わることができます。神に近づくことが
    できます。神を礼拝することができます。霊をもって礼拝するとは、心の中で、神が共にいてくださることを自覚し、神の力、栄光を思い起し、恐れ
    おののき、神の無限の愛を思い起しながら、礼拝を捧げることです。
  4)体を使った礼拝です。
    唇、舌、口、手、足等を使って礼拝することができます。又、弦楽器、管楽器、打楽器を使って、礼拝することができます。コリント人への手紙第一
    6章20節「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
2.神は私たちの礼拝に対して何をなさるのでしょうか。
  私たちを霊的に成長させてくださいます。恵みの一つです。如何なる方法で、私たちを成長させてくださるのでしょう。
  1)御言葉の解き明かし
    神は御言葉の解き明かしを通して、私たちを霊的に成長させてくださいます。霊的健康を保ってくださいます。テモテへの手紙第二3章16~17節
    「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者
    となるためです。」
  2)祈り
     私たちがもっと神を信頼する祈り、神に頼る祈りを教えてくださいます。
  3)主の晩餐
    私たちの救いはキリストの身代わりの死による神の恵みです。救われていること、非難させるところのない者として神の前に立つことができる確信を深めて
    くださいます。
  4)献金
    この世的なものに希望をもったり、頼り切ることはいけないことを教えてくださいます。頼りになるのは神です。
 5)兄弟姉妹との交わり
   イ.私たちに神の言葉、真理、導き等を提示してくださいます。
     私たちクリスチャンは互いに励まし合う、信仰を高め合う責任があります。日曜礼拝における兄弟姉妹との交わりがその責任を果たさせます。
   ロ.連帯感を深めます。
     私たちは自分一人で信仰生活を歩んでいるのではありません。共に信仰生活を歩む霊的家族の存在は私たちを力づけます。
ヘブル人への手紙10章23~25節「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
また、愛と善行を促すために、互いに注意し合おうではありませんか。自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」




2025年2月9日   「春の雨に向かって」    大坪 篤史 師    ヨブ記1章1~22節

1.はじめに
  1月17日は甚大な被害に見舞われた阪神・淡路大震災から30年という大きな節目の日でした。被災された方の思いを継いでいくことが、今を生きる私たち
  に託されています。
2.ヨブ記の概要
  パレスチナの南東のエドム地方の住人と思われるヨブは潔白で、正しく、神を恐れ、悪から遠ざかり、家族や財産に恵まれた大富豪でした。そのヨブの信仰を
  褒める主に、サタンはヨブの信仰を試すことを提案するのです。主はヨブの命を取らないことを条件にサタンの提案を受け入れました。サタンは家畜、使用人
  を殺しました。又、強風を吹かせ、子どもたちが宴会を開いていた家をなぎ倒し、皆を死なせてしまいました。しかし、ヨブは立ち上がり、上着を引き裂き、
  頭をそり、地にひれ伏して礼拝して、言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
  サタンは次の行動に出ます。「ヨブの肉体に不幸を与えれば、きっと神を呪うはずだ。」と再提案するのです。主はヨブの命を取らないことを条件に許しま
  した。サタンはヨブの全身をひどい皮膚病にしました。彼の妻は「神を呪って死になさい。」とまで言いました。それでもヨブの信仰は揺らぐことはありま
  せんでした。ヨブの災難を聞いた友人たちは、ヨブに対して、罪があるからこうなったのだと批判しますが、ヨブは強く反論し、神にも赤裸々に嘆き悲しみを
  訴えていきました。そんなヨブに対して神からの叱責があり、ヨブはついに神に白旗を上げることになります。
3.春の雨に向かって
  29章23節「彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨(春の雨)を待つように、彼らは口を大きく開けて待った」
  これは全盛期の彼に対して回りの人々が抱いた感情を表したものですが、ヨブが自らに降りかかった災難に苦しむ中で得た思いでもあったのではないでしょう
  か。榎本保郎牧師は書いています。「キリスト教には『なしたる罪』と『なさざる罪』があると言われる。確かに、私たちは『なしたる罪』については潔い
  かも知れない。しかし、『なさざる罪』を咎められるならば、誰一人『罪人でない』などと言い得る者はいない。ヨブは『なしたる罪』しか分かっていなかっ
  たようである。もし、『なさざる罪』に気付いていたなら、彼は自己の正当性を主張するようなことに尊い時間を費やすことはなかったであろう。彼は自分
  の義にしがみついていたのである。それ故に、彼には平安がなかった。彼が神の赦しに『より頼む』時、初めて真の平安と祝福を受けることができたのであ
  る。」「信仰は神の顕現に触れる時に起こってくるものである。42章5節でヨブが告白している通りである。『私はあなたのことを耳で聞いていましたが、
  今は私の目であなたを拝見します。』神の顕現に触れるためには、ヨブが執拗なまでに神にむしゃぶりついていったような、神への求めが大切なのではなか
  ろうか。」




2025年2月2日   「神と共に歩む信仰生活(パートⅩⅥ)―神と礼拝―」  マクセイ師   詩篇100編1~5節、ヨハネの福音書4章19~24節

信仰生活において日曜礼拝は重要ですが、世俗的価値観等によって、礼拝の目的を見失ってしまうことがあります。先ず、礼拝とは何かを確認しておきましょう。
1)神の前に謙虚になることです。
  詩篇95編6~7節「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう。私たちを造られた方 主の御前にひざまずこう。まことに 主は私たちの神。」

2)神の前に恐れおののくことです。
  詩篇95編3~5節「まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって 大いなる王である。地の深みは御手のうちにあり 山々の頂も主のものである。海は
  主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。」

3)神の前に仕える者として立つことです。
  詩篇100編2節「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」
私たちが捧げる礼拝は神にとって如何なる意味があるのでしょうか。
1)私たちの神への応答です。
  礼拝の起源は神です。ローマ人への手紙11章36節「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにあります
  ように。アーメン。」

  神は如何にして礼拝を求めて来たのでしょうか。
  イ.ご自分の存在を啓示しました。
    イエス・キリストの地上の現れによって、私たちに礼拝の対象を明示してくださいました。これが礼拝の出発点でした。
  ロ.私たちが神に近づくことを阻む罪の問題を解決しました。
    コロサイ人への手紙1章21~22節「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだに
    おいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前
    に立たせるためです。」

  ハ.聖書を通して、礼拝の仕方を教えてくださいました。
2)私たちの神への崇拝と感謝です。
  詩篇100編1~5節「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が 私たちを造ら
  れた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。主に感謝し 御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く
  その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。」

  神が私たちの賛美、礼拝を受けるに相応しい方である理由が5節にあります。
  イ.いつくしみ深いからです
  ロ.愛の神だからです。
    恵み=愛です。私たちを犠牲的に、無条件に愛してくださる神だからです。

  ハ.真実だからです。
3)神に供え物を捧げることです。
  供えることは立派な礼拝です。ローマ人への手紙12章1節「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、
  あなたがたにふさわしい礼拝です。」

  行動、言葉、態度を含めた日常生活が神への礼拝であるべきです。
4)私たちの宣言です。
  現代の私たちも神の働き、力を宣言する者として立たされています。日曜礼拝で教会に集まることは一つの宣言です。又、主の晩餐は救いの業の宣言です。
神を求める礼拝、神に喜ばれる礼拝を究め続けましょう。




2025年1月26日    「神の福音のメッセンジャー パウロ」   マクセイ師   ローマ人への手紙1章1節、テモテへの手紙第一1章12~17節

パウロは福音の力によって造り変えられました。如何にして、造り変えられたのでしょう。パウロの自己紹介の記事に三つの証拠が提示されています。
1.キリストを憎む者からキリストのしもべになりました。
  テモテへの手紙第一1章13節「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」
  何故、パウロはキリストを憎む者からキリストのしもべになることができたのでしょうか。神のあわれみと恵みがあったからです。何時、どういう状況で、
  パウロは神のあわれみ、恵みに与ったのでしょうか。経緯が使徒の働き9章と22章に記されています。パウロはクリスチャン捕獲のために、ダマスコの町に
  向かっていました。町に入る直前、天からの光がパウロを照らし、声が聞こえました。「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスです。どうして
  わたしを迫害するのですか。」パウロは驚き、問いました。「私はどうしたらよいでしょうか。」答えがありました。「町に入りなさい。そこでしなければ
  ならないことが告げられます。」パウロはダマスコの町に入り、ダマスコの教会のアナニアによってバプテスマを受けました。「私はキリストに買い取られ
  ました。キリストの者です。」とパウロは理解したと思われます。
2.迫害者から使徒になりました。
  テモテへの手紙第一1章13節「神を冒涜する者、迫害する者」として、パウロは優秀な迫害者でした。そのパウロがキリストの使徒になりました。
  使徒になる条件は二つです。
  1)自分の目で、蘇ったキリストを見た者であることです。
  2)キリストによって使徒と任命されることです。
  現代、二つの条件を満たす人はいないので、使徒はいませんが、聖霊の導きによって記された聖書が私たちの手元にあります。
3.パウロは神を冒涜する者から神の福音のメッセンジャーに造り変えられました。
  テモテへの手紙第一1章13節「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者」でしたが、神の福音のために選ばれた者となっていきます。
  ローマ人への手紙1章1節「神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」
  何故、神は好ましくない経歴をもつパウロを神の福音のメッセンジャーとして選んだのでしょうか。<テモテへの手紙第一1章16節「私はあわれみを受けました。
  それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私
  に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」
  神はパウロのような人を救うことができるのですから、救えない人はいないということです。
今日のまとめです。パウロの自己紹介を通して学ぶことを挙げましょう。
1)福音の起源は神です。
2)パウロを造り変えた福音は今でも有効です。
3)神の救いの対象外の人はいません。
4)パウロは行いによって救われたのではありません。
5)私たちもパウロと同じようにキリストの僕です。
ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」




2025年1月19日      「聖書全体に光を照らす御言葉」    マクセイ師     ローマ人への手紙1章1~17節

ローマ人への手紙(以下、本手紙)は聖書全体に光を照らす御言葉の書です。理由は次の通りです。
1)  本手紙は聖書全体のテーマである神の救いを体系的に、組織的に取り上げています。
2)クリスチャンの疑問に答えてくれます。
  例えば、神の福音とは何か、キリストは本当に神なのか、その証拠は何か、神はどういう存在なのか等の疑問です。
3)聖書に出てくるテーマを繋ぎます。

  罪、律法、裁き、信仰、行い、恵み、聖化、神の選び、神の救いの計画等の聖書のテーマを繋いでいます。
ローマの教会を開拓したのは、西暦30年、ペンテコステの日に世界各地からエルサレムに集まり、福音を聞き、キリストを救い主と受け入れて、バプテスマを
受けたユダヤ人たちの一部と思われます。何故、パウロは関係の薄いローマの教会の兄弟姉妹に本手紙を書き送ったのでしょうか。二つの理由が考えられます。
1)パウロは西方に行って、伝道したいと願っています。
  15章23~24節「あなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたい
  と願っています。」

2)ローマの教会の兄弟姉妹に体系的に福音を伝えたいのです。
  イ.偽教師、誤った福音からローマの教会を守るためです。

  ロ.ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを一つにまとめるためです。
パウロが本手紙で取り上げている二つのテーマ、福音と神に触れておきたいと思います。
1)福音
  本手紙の中心テーマは福音です。パウロは福音について大事なことを指摘しています。

  イ.福音の起源は神です。
  ロ.福音の土台はキリストの身代わりの死と復活です。
  ハ.福音の対象は全ての人です。
  ニ.福音を伝える動機付けは福音の力です。
  ホ.福音の本質
    1章17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
2)神
  神を理解するキーワードは義です。幾つかの意味で使われています。
  イ.神の正しさ、聖さ、正義
    1章18節「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されています。」
  ロ.神の恵み
    3章24節「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
  ハ.神の前に罪のない者として立たされる
    1章17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

何故、パウロは福音が中心テーマの本手紙をノンクリスチャンではなく、クリスチャンであるローマの兄弟姉妹に送ったのでしょうか。1章15節「私としては、
ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

1)福音を完全に理解することは困難だからです。
2)信仰を守るためです。
3)正しく福音を分かち合うためです。
1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」




2025年1月5日     「新年の指針」  マクセイ師     ペテロの手紙第一3章8~12節

2025年、どういう年になるのでしょうか。私たちの共通の願いは幸せに生活したいということでしょう。今日の聖書箇所にそのための三つ勧めが示されています。
1.態度をもって相手を祝福することです。(8節)
  1)一致を大事にすることです。
    相手の意見を理解する努力を惜しまないことです。そして、兄弟姉妹を繋ぐのは共有する信仰であることを忘れないことです。
  2)同情し合うことです。
    相手の立場に自分を置き、理解することです。
  3)兄弟愛を大事にすることです。
    私たちの日常生活に意味と喜びを与えるのは神が私たちに与えてくださっている霊的な家族意識です。もう一つの家族があります。人類という家族です。
    教会外の人ともアガペー愛をもって接していくことが求められます。
  4)心優しい人となることです。
    心優しい、憐れみ深いの基本的な意味は相手の厳しい立場を理解するだけでなく、助けてあげたいと思い、行動することです。
  5)謙虚でありなさい。
    健全な人間関係を保つためには謙虚さが不可欠です。人間関係を壊すのはプライドです。ピリピ人への手紙2章3節「へりくだって、互いに人を自分より
    すぐれた者と思いなさい。」
2.言葉を通して相手を祝福することです。(9~10節)
  1)10節「舌に悪口を言わせない。」
  2)10節「唇に欺きを語らせるな。」
    真実を語ることです。
3.行動を通して相手を祝福することです。(11節)
  11節「悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。」
  善を行うとはどういうことでしょう。
  1)悪から離れることです。
    ここでの悪は利己主義的な思いによる言葉や行動を指します。日々、利己主義的な思いを切り捨てなければなりません。
  2)良い行いをすることです。(エペソ人への手紙2章10節、ガラテヤ人への手紙6章9~10節)
    私たちはキリストによって救われ、造り変えられました。私たちが良い行いをすることができるためです。良い行いを通して、神を証しすることができま
    す。善を行う対象は全ての人です。善を行うことには自分が幸せになるという副産物があります。一番幸せな人は隣人のために何ができるかを考えながら
    生きている人です。もう一つの良い行いがあります。ペテロの手紙第一3章11節「平和を求め、それを追え。」私たちクリスチャンは率先して、平和を
    造ることに力を注ぎたいと思います。
これらのことによって、私たちは神からの祝福に与ることができます。それを確認しておきましょう。(12節)
1)いのちを愛し、幸せな日々を送るために力を与えてくださいます。
  2025年が厳しい状況に置かれても、一日一日を幸せに生きていくことができます。何故なら、神が必要な力を与えてくださるからです。
2)神に見守られています。
  歴代誌第二16章9節「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」
3)祈りに応えてくださいます。
私たちは常に、この三つの祝福を思い起し、確信するならば、状況に関わらず、毎日を幸せに生きていくことができます。神に守られ、神が最善のことをしてくださ
ることを確信できるからです。  

       Copyright(C)2011 Yoshino Church of Christ All Rights Reserved