吉野キリストの教会
Yoshino Church of Christ
〒892-0872
鹿児島市大明丘3-15-7
TEL 099-243-8012
                     
  
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2024年4月21日  「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅫ)―真実を語る者を求める神―」    マクセイ師
                                               出エジプト記20章16節、エペソ人への手紙4章25節

神は私たちの生活を守り、祝福するために十戒を与えました。1~4番目の戒めは神との関係を、5~10番目の戒めは隣人との関係を守り、祝福するためです。
今日と来週、9番目の戒めが禁じていることについて考えます。
1.偽りの証言をしてはならない。
  神は公正な裁判が行われるように、幾つかのことを定めました。
  1)9番目の戒め
    出エジプト記20章16節「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」
  2)二人、又は、三人の証人
    当時、一人の証言でも刑が確定しました。これを改めました。
  3)例えば、死刑の判決が出た場合、証言した証人が最初の石を投げなければならないとしました。
     申命記17章7節「死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。」
  ここから、教訓として学ぶべきことを挙げます。
  1)神は私たちに真実を語る証人になることを求めています。
  2)常に、事実を捻じ曲げようとする誘惑が潜んでいます。
    現代、インターネット等を通して、不真実が流されています。
  3)証人の証言は重要です。
2.嘘をついてはならない。
  詩篇116編11節「人はだれでも偽りを言う。」偽りの世界の背後にはサタンが存在します。
  嘘をつくと、相手に色々なダメージを与えます。そして、自分自身にダメージを与えます。私たちはクリスチャンとして、あらゆる偽りを自分の生活から、
  自分の口から切り捨てなければなりません。
3.陰口を言ってはならない。陰口を言うことに加わってはならない。
  箴言18章8節「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物。腹の奥に降って行く。」
  これを守るためには、陰口に耳を傾けないことです。そこから逃げるか、陰口を止めることです。陰口の対象となっている人との直接対話を勧めることです。
  陰口の対象となっている人を肯定する話をすることです。
4.中傷してはならない。
  偽りをもって、相手にダメージを与えることです。ある人は言いました。「中傷とは言葉による暗殺である。」
  これは神が最も嫌うことです。詩篇101編5節「陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。」
  イエス・キリストは宗教家たちからの中傷の的になりました。ペテロの手紙第一2章22~23節「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きも
  なかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」
  相手も自分と同じように神のかたちに創造されています。神に愛されています。神の救いの対象です。だから、中傷してはいけないのです。
私たちクリスチャンの使命は真実を語ることです。人を高める、人の益となることを語ることです。エペソ人への手紙4章25節「ですから、あなたがたは偽り
を捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」同29節「悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。
むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」




2024年4月7日    「父の愛」    ライアン・ザグス インターン宣教師   通訳 マクセイ師   ルカの福音書15章11~32節

私たちはこれまでの人生で色々な過ちを犯してきました。私の好きな詩「足跡」にはそんな私たちを愛して止まない神様の無条件、無限の愛が描かれています。
神の前において、私たちは全てが罪人です。神の守りと恵みを必要としています。ですから、クリスチャンである私たちは神を知らない人たちに神の守りと恵み
を分ち合うことが求められます。
今日の聖書箇所は、神の無条件の愛と教会が全ての人に開かれていることを教えています。当時、取税人や罪人は社会の最下層の人たちでした。取税人は裏切り
者として憎まれていました。ローマ帝国への納税金を余分に徴収して、私腹を肥やしていたからです。イエス様はその様な人たちと意図的に交わりました。救い
に導くためです。たとえ話に入る前に、当時の人たちの共通認識を確認しておきましょう。
1)父親が亡くなる前に遺産を分与するということはあり得ません。
2)父親が亡くなる前に、子が父親に遺産贈与を求めることもあり得ません。
3)父親は大金持ち、高貴な人です。そういう人には尊敬をもって接することが求められました。
ですから、聴衆は遺産の分与を求める息子が父親を愛していないと受け取ったと思われます。更に、聴衆を驚かせたのは、父親が息子のわがままな要求に応じた
ことです。財産を分与された息子は遠方に出かけて行って、父親が予測したように、金を使い果たし、大きな過ちを犯したことに気付きました。
ユダヤ人社会では豚は汚れているとして食べませんし、近付くこともよしとしません。息子は豚の世話をする、豚の餌を食べるほどまでに落ちぶれました。息子
はとんでもない過ちを犯したことに目覚め、実家に帰ること、自分を僕の一人として使ってもらうことを決断しました。父親は乞食同然で帰って来た息子を見て、
走り寄り、抱きしめました。当時、高貴な人が走るということはあり得ないことでした。走り寄ったということは神の無条件、無限の愛と喜びを表しています。
それだけでなく、父親は衣を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせました。そして、肥えた子牛を屠り、最高級の宴会を用意しました。私たちが神から離れていて
も、神のもとに帰るという決断をするなら、神は喜んで私たちを迎え入れてくださるのです。
畑仕事から帰って来た兄息子は宴会が行われていることに驚き、弟息子に嫉妬し、宴会に参加しようとしません。父親がそれに気づき、兄息子に叱ることなく、
語りかけています。父親は兄息子に言いました。「お前は何時も私と共にいる。私の物は全てお前のものだ。霊的に死んでいた弟息子が生き返ったのだから、
一緒に喜び、祝おうではないか。」
このたとえ話から貴重な教訓を読み取ることができます。
1)神の深い、広い愛は私たち一人一人に向けられています。
2)父親のようになりたいと思います。
  隣人への無条件の愛、赦し、息子の帰還を待ち続ける忍耐を見習いたいと思います。そして、この愛、赦し、受け入れる度量、忍耐を多くの人と分ち合いた
  いと思います。
3)いただいている神の愛をもって、私たちが何をするかです。




2024年3月31日    「キリストの復活の力」     マクセイ師      エペソ人への手紙1章15~23節

素晴らしい天候に恵まれたイースターの朝です。
私たちの信仰の土台はキリストの客観的な事実であるキリストの復活です。キリストの復活の力を通して、私たちはどのような力をいただいているのでしょうか。
1.信仰に導き入れられました。
  コリント人への手紙第一15章3~6節「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、・・・、
  私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、・・・、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子にあらわれた
  ことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」
  正しい情報によって、私たちはキリストを神と信じることができますし、救いに与ることができます。
2.私たちの新しい誕生を可能にします。
  霊的死からの第二の誕生です。ペテロの手紙第一1章3節「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに
  よって、私たちを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
3.キリストによる救いが完了したことを確信できます。
  へブル人への手紙9章26節で「キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」
4.罪に打ち勝ち、正しく生きる力に与ります。
  私たちはキリストによって造り替えられましたが、全く罪を犯さないということではありません。キリストにアクセスすることによって、罪を犯す回数、誘惑
  に負ける回数が減っていきます。そのために、何が必要でしょうか。
  1)祈ることです。
  2)信仰をもってアクセスすることです。
    へブル人への手紙11章6節「神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない
    のです。」
  3)キリストに留まることです。
    キリストは言いました。ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまって
    いるなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」信仰には二つの要素があります。同意と
    信頼です。そして、キリストとの日々のコミュニケーションを密にすることです。どんなに厳しい条件下にあっても、キリストに仕え続けることです。
5.未来における私たちの復活の保証です。
  キリストの再臨に伴って、私たちが与る復活の体の前例がイエス・キリストです。コリント人への手紙第一15章20節「今やキリストは、眠った者の初穂
  として死者の中からよみがえられました。」
コリント人への手紙第一15章55~58節「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえの棘はどこにあるのか。・・・。神に感謝します。神は、私たち
の主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに
励みなさい。」




2024年3月24日     「許しの恵み」    マクセイ師    詩篇32編1~11節

復活祭前の主日、キリストの復活と密接な関係がある神の許しについて考えます。
前回、CDで聞いてもらったメッセージ「許しの力」は人間関係の許しを中心としたメッセ―ジでした。今日は、私たちが神からいただく許しについて考えます。
ダビデは40年間に渡って、ユダヤ民族の王として、ユダヤを黄金の時代に導きました。神と共に歩み、神に用いられましたが、とんでもない罪を重ねました。
詩篇32編はダビデの罪の許しと許しに至るまでの歩みを取り上げています。
1.神の許しによって得られる恵み
    1)責められるところのない良心が与えられます。(1、2節)
    全ての人が罪を犯しています。そして、神様の許しの対象とならない罪はありません。神様は許した後、それを二度と持ち出しません。神の前において、
    裁きを受けるべき対象から外してくださいます。
  2)神の守りに与ります。(6、7節)
    私たちを裁く神様から私たちを守る神様になってくださいます。ローマ人への手紙8章1節「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは
    決してありません。」
  3)罪を犯さない、罪に支配されない歩みができるようになります。(8、9節)
    許された人は神の御言葉による導きによって変えられます。
  4)神にある喜びに与ります。(11~12節)
    11節「正しい者たち・・・喜びの声をあげよ。」
 2.神の許しの恵みに与るためにすべきこと
  1)罪を告白することです。
    告白しないで苦しんだダビデでしたが、変わったのです。
    イ.率直に、神に罪を自白しました。
    ロ.罪の責任をとりました。
  2)自分の過ちを罪と認めることです。
  3)罪の許しを確信することです。
    5節「あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。」ダビデは許しを確信しています。
  私たちも許しの恵みに与るために、ダビデのように罪を告白しましょう。
  1)漠然とした告白ではなく、具体的に告白しましょう。
  2)罪の責任をとりましょう。言い訳、責任転嫁、正当化をしないことです。
  3)告白した罪を再び犯さないと決意しましょう。
    もし、罪の被害者がいたら、被害者に自分の罪を告白して、許しを求めましょう。
  4)神の許しを求めましょう。
    ヨハネの手紙第一1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめて
    くださいます。」
  5)神の許しを受け入れましょう。確信しましょう。
    5節「私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。すると、あなたは私の罪の
    とがめを赦してくださいました。」
    ローマ人への手紙8章1節「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
  6)神の許しは完全です。自分を許しましょう。
許しの道はキリストの復活により完成されたのです。ローマ人への手紙4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められる
ために、よみがえられました。」
私たちの信仰は復活信仰です。来週、それを詳しく取り上げます。




2024年3月10日    「受難節を迎えて」    大坪 篤史 師      ルカの福音書10章25~27節

1.はじめに
  3月8日は女性の地位向上や女性差別の払拭を目指す日「国際女性デー」です。
2.善き隣人とは
  教会暦によると、今年は2月14日(水)から受難節に入りました。今日の聖書箇所に選んだのは「善きサマリア人」のたとえ話です。
  ユダヤ教の指導者たちは、何とかしてイエスを陥れたいと狙っていました。その一人がイエスに「何をしたら、永遠の命を自分のものとして受けることが
  できるでしょうか。」と質問しました。逆に、イエスは質問します。「律法には何と書いてありますか。」彼は答えました。「心を尽くし、思いを尽くし、
  力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよとあります。」イエスは言われました。
  「それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」彼は質問を続けます。「私の隣人とは誰のことですか。」そこで、イエスは「善きサマリア人」のたとえ
  を話されたのです。
  強盗に襲われて、半殺しに遭った人に対する三人の対応です。祭司とレビ人は気付かないふりをして、道の反対側を通り過ぎて行きました。三人目のサマリア
  人はかわいそうに思い、応急処置をして、宿屋に連れて行き、介抱しました。そして、翌日、デナリ銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、言いました。「介抱して
  あげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
  まさに至れり尽くせりの対応でした。イエスは尋ねます。「この三人の中で、誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」律法の専門家は応えまし
  た。「その人にあわれみをかけてやった人です。」イエスは言いました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
  律法の専門家のその後の対応について、聖書は何も語っていませんが、恐らく、イエスへの敵意を一層高めたと思われます。
  このたとえ話をどのように捉えるべきでしょうか。「善き隣人になるために、私達もサマリア人のようになりましょう。」と安易に読んではいけません。私は
  このサマリア人こそイエス様だと思うのです。私たちは半殺しに遭った人間です。傷ついた私たちを見つけ、わざわざそばに来て助けてくださるイエス様の
  「愛の物語」として受け止めるべきです。そうすることによって、聖書は単なる道徳の書ではなく、良き訪れの福音の書として読むことができます。
   更に、このサマリア人が、宿屋の主人にデナリ銀貨2枚を渡したことにも注目したいと思います。三日目に戻って来るということを意味しています。つまり、
  これはイエス様の復活の暗示でもあります。
3.受難節をどう過ごすか
  聖書にはたくさんの女性が登場します。イエスに高価な香油を注いだのも、イエスが息を引き取られた時、最後まで見守ったのも、そして、復活の朝、最初に
  イエスに再会したのも女性でした。
  イエス様は、復活して40日後に天に昇られて、今でも玉座に就いておられます。 そして、その愛の眼差しは、現代の私たちにも向けられています。聖書は
  福音の書です。そのことを覚え、受難節の日々を感謝しながら過ごしたいと思います。




2024年3月3日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅪ)―神のものを尊重する者を求める神―」    マクセイ師
                                                出エジプト記20章15節、マラキ書3章7~12節

先週は人から盗むことについて考えました。今日は神から盗むことについて考えます。大前提は「全ては神によって創造され、神のものである。」です。三つの
ポイントで考えます。
1.神から盗むこと
  私たちは神から盗むことができるのでしょうか。又、何を盗んでいるのでしょうか。マラキ書3章7~12節は三つの大事な原則を教えています。
  1)人間は神から盗んできました。今も盗んでいます。
  2)私たちは神のものを盗んでいます。
  3)私たちが神から離れている時、神のものを盗んでいます。
  では、現代の私たちは神から何を盗んでいるのでしょうか。
  1)時間を盗んでいます。
    神と交わる時間、兄弟姉妹と交わる時間、隣人に奉仕する時間を盗んでいます。
  2)賜物を用いていません。
  3)感謝を捧げていません。
  4)神から預けられているものを返していません。
    マラキ書は神がユダヤ民族に求めた十分の一献金に触れています。厳密に言うなら、現代の私たちには十分の一献金は義務付けられていません。新約時代の
    私たちは新しい契約のもとにあるからです。しかし、これを基準、スタートラインとすべきです。
2.神からの盗みを止める条件
  マラキ書3章7~12節はそれを教えています。
  1)神に帰りましょう。
    7節「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたに帰る。」
  2)神に捧げましょう。
    現代の私たちは如何に捧げるべきでしょうか。コリント人への手紙第一16章2節「いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに貯えて
    おきなさい。」
    イ.収入に応じて捧げましょう。
    ロ.計画的に捧げましょう。
  3)正しい態度で捧げましょう。
    コリント人への手紙第二9章7節「一人ひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は、喜んで与える人を
    愛してくださるのです。」
    イ.自分の判断で捧げましょう。
    ロ.自発的に捧げましょう。
    ハ.喜んで捧げましょう。
3.神から盗むことを止めた結果
  マラキ書3章10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。―万軍の主は言われる―わたし
  があなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」
  私たちが喜んで捧げる時にどのような祝福に与るのでしょうか。コリント人への手紙第二9章8~11節はそれを教えています。
  1)私たちの必要が満たされます。
  2)私たちの神のための働きが祝福されます。
  3)助けを必要としている隣人と更に分ち合うことができるように祝福されます。
  4)分ち合った隣人が神に感謝します。
  5)私たちのために祈る人が起されます。
コリント人への手紙第二9章10~11節「神は、ささげる物を備えてくださるばかりでなく、私たちがささげることができるように、私たちを祝福してくださる。
あなたがたは、あらゆる点で豊かになっているのだから、惜しみなくささげることができるわけであり、そうすれば、あなたがたがしようとしているこの献金は、  
神に対する感謝となるのである。(現代訳)」




2024年2月25日    「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅩ)―他人の財産を尊重する者を求める神―」   マクセイ師
                                              出エジプト記20章15節、エペソ人への手紙4節28節

十戒の8番目の戒めです。盗むなは無条件の禁止令です。今日は人から盗むこと、来週は神から盗むことを取り上げます。
1.盗みの手口
  現代、十戒が与えられた時代よりも巧妙な手口が用いられています。拾っていきましょう。
  1)住居侵入窃盗
  2)強盗
  3)自動車窃盗
  4)万引
  5)スリ
  6)詐欺
  7)横領
  8)着服
  9)恐喝
  10)会社や店の商品の従業員による窃盗
  11)時間窃盗 勤務時間中に仕事と関係ないことを行うことです。遅刻、早退等です。
  12)従業員に対する会社の窃盗 賃金未払い等です。
  13)個人情報窃盗
  14)盗作
  15)不法ダウンロード
  16)借金返済放棄
  17)脱税
  18)陰口による窃盗  中傷などにより人の評判を壊すことです。
  私たちクリスチャンは自分の身を守るために、窃盗のあらゆる手口を知らなければなりません。そして、そのような誘惑に注意しなければなりません。
2.盗みの背後にあること
  1)誤った価値基準
    ヨハネの手紙第一2章15~16節「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人の内に御父の愛は
    ありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」
  2)神への信頼がないこと
  3)怠惰
  4)身勝手な貪欲
3.盗みの誘惑に惑わされないための条件
  1)聖書に基づく優先順位を設定することです。
    詩篇24編1節「地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。」
  2)神に絶対的な信頼を置くことです。
    マタイの福音書6章26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養って
    くださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるのではありませんか。」
    ピリピ人への手紙4章19節「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくだ
    さいます。」
  3)働くことです。自分に与えられた責任をきちんと果たすことです。
    エペソ人への手紙4章28節「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、
    労苦して働きなさい。」
  4)人に仕える、人に与える機会を求め続けることです。
    GetからGiveを中心とした生活に転換することです。
  5)盗みの罪過を負わせないことです。
    箴言13章11節(現代訳)「不正に得たお金は無くなってしまうが、こつこつ働いて得たお金は、増えていく。」
  6)ちょっとした盗みが大きな罪に繋がっていく可能性があります。
    キリストの弟子ユダは会計係として不正を行っていました。挙句の果ては、キリストを祭司たちに引渡し、銀貨30枚を得ました。
ある牧師は取る人として生きるか、若しくは、与える人として生きるか、二通りの生き方しかなく、与える人として生きて欲しいと言っています。その手本はキリ
ストです。キリストは最終的にご自分の命まで与えました。私たちも与える人として生きたいと思います。




2024年2月18日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅨ)―聖別されたものを重んじる者を求める神ー」   マクセイ師
                                     出エジプト記20章14節、マタイの福音書5章27~28節、19章3~6節

十のことば、十戒は私たちと神との関係、そして、隣人との関係を守り、祝福するために神から与えられました、今日は、七番目の戒め「姦淫してはならない。」
に目を向けます。
1.この戒めの背後にある原則
  三つの原則があります。
  1)聖別
    聖書全般に渡って強調されている原則です。神は特定のものを価値あるものとして特別に聖く保っておられます。ペテロの手紙第一1章16節「あなたが
    たは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである。」
    私たちが聖なる者であるために、神に用いられるために、神は制限を設けています。
   2)結婚は聖別されたものである。
    神は結婚を聖別しました。創世記2章24節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
    結婚は特別なものです。大事にしなければなりません。何故なら、結婚には他の関係にはない次の四つの要素があるからです。
    イ.一体性があります。
      夫と妻の融合です。そして、二人の感情的な、精神的な一体性があります。姦淫はそれを壊し、神を嘲ることになります。
    ロ.親密な関係があります。
      肉体的な親密性と精神的、感情的親密性があります。
    ハ.生殖です。
      子供をもうけて、家族を作ることです。神はこれを結婚の目的とされました。神は人類の存続、発展のために結婚を定めました。
    二.交わり
      創世記2章18節「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
  3)性は聖別されたものである。
    神のご計画において、性は健全で、良いものです。現代社会が乱れていることの背景には、性を聖別されたものとして見ないで、遊びの手段と捉えている
    ことにあります。
2.この戒めが禁じていること
  1)姦淫
    自分の夫、妻以外の人と性的な関係をもつことです。
  2)婚前交渉
  3)心の中における姦淫
    マタイの福音書5章27~28節「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。
    情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのです。」
  4)同性愛、同性結婚
    神が定めた結婚生活は男と女の特別な繋がりです。神は同性の繋がりを認めていません。むしろ、それを堅く禁じており、裁くと宣言しておられます。
3.この戒めを如何に守るべきか
  1)神の警告と戒めを真剣に受け留めるべきです。
  2)霊的成長に努めるべきです。
  3)神の言葉を心に蓄えるべきです。
  4)自分の目を何処に向けるか注意すべきです。
    情欲を抱いて異性を見ないという契約を自分の目と結ぶことです。
  5)自分の弱さを自覚すべきです。
  6)あらゆる性的誘惑から逃げるべきです。
コリント人への手紙第一6章18~20節「淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。・・・・・。あなたがたのからだは、あなた
がたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」




2024年2月4日     「伝道にブレーキをかける事」   マクセイ師    ローマ人への手紙10章8~17節

先週のメッセージの終わりで、私たちは隣人の肉体的な命と共に、霊的命も守る責任があると申しました。そのために、私たちは伝道しなければなりません。
伝道へのブレーキは私たちの外側ではなく、内側にあります。そこで、今日は伝道のブレーキになる事、そして、それを打破する秘訣について考えます。
1.伝道のブレーキになる事
  1)自分にはできないという思い込み
    「自分は牧師、伝道者でもない」「聖書に詳しくない」このような言い訳をして、伝道を怠りがちです。二つのことを覚えましょう。
    イ.初代教会の時代、厳しい迫害の中で、福音が短期間で広がりました。その原動力になったのは弟子たち、使徒たちではなく、一般のクリスチャン
      でした。
    ロ.キリストのことを語るだけで十分です。
      ヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの女を思い出してください。彼女は町の人たちにキリストを紹介しただけです。多くの人がキリストを信じ
      ました。
  2)行動、生き方の証で十分だと思うこと
    口頭で、キリストについて、福音について、語らなくても、日常生活の行動で十分に伝わっているという思い込みです。行動は大事な証ですが、言葉に
    よる証も不可欠です。
  3)永遠の裁きに触れたくないという思い
    永遠の裁きは聖書に明記されている真理として受け留めなければなりません。神の永遠の裁きに触れることなく、救いについて語ることはできません。
  4)最終的に、全ての人は救われると思うこと
    これを万人救済説と言います。聖書の教えではありません。主の御名を呼び求める人だけが救われます。
  5)その内に取り掛かると思うこと
    伝道は緊急の課題であり、私たちに明日は約束されていません。ヤコブの手紙4章14節「あなたがたには、明日のことは分かりません。・・・・。
    あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」
2.伝道のブレーキになる事を打破する秘訣
  1)一人ではないということを覚えましょう。
    キリストは大宣教命令の最後に付け加えています。マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
    キリストが何時も私たちと共におられ、導いてくださいます。
  2)証抜きには福音は伝わりません。
    ローマ人への手紙10章14節「信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるので
    しょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」同17節「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについて
    のことばを通して実現するのです。」
  3)大胆に証できるように祈りましょう。
    初代教会のクリスチャンンたちは祈りました。使徒の働き4章29節「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆
    に語らせてください。」「私たちを助けてください。」ではありませんでした。祈りは聞き入れられました。同31節「彼らが祈り終えると、集まって
    いた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」




2024年1月28日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅦ)―人の命を重んじる者を求める神―」    マクセイ師
                                                 出エジプト記20章13節、創世記9章1~7節

先週に続き、十戒の六番目の戒め「殺してはならない。」に目を向け、三つのポイントで考えます。
1.この戒めが禁じていること
  1)殺人
    創世記9章6節(現代訳)「人の血を流す殺人者には、死刑が要求される。神に似せて、人は造られたのだから。」
  2)心の中における殺人
    キリストは言いました。心の中で人に怒りを抱く、軽蔑する、恨むことは神の前においては殺人罪に当たります。私たちは全員この戒めを犯しています。
  3)妊娠中絶
    生まれる前の子供も一人の人間です。但し、母親の健康が危険に晒される場合、胎児の成長が著しく損なわれている場合は例外です。
  4)自殺
    神から与えられた命だからです。命を奪うことは神のみができることです。私たちはクリスチャンとして自殺者が増えないように、周囲の苦しんでいる
    人たち、悩んでいる人たちを励ましましょう。
  5)安楽死
    死に近い人の延命治療を停止することは殺人ではありません。しかし、本人の求め、意思に従って死なせることは殺人です。
  6)集団虐殺
    第二次世界大戦で、ヒットラーは600万人のユダヤ人を虐殺しました。
2.この戒めが禁じていないこと
  1)動物を殺すこと
    創世記9章3節「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。」
    食物とするためであれば殺してもよいが、いたずらに、殺してはいけません。私たちは動物を大事にすべきです。
  2)死刑
    創世記9章6節(現代訳)「人の血を流す殺人者には、死刑が要求される。神に似せて、人は造られたのだから。」
  3)防衛戦争
    ローマ人への手紙13章から導き出されることです。政府やその機関は国民の平安を守ります。神が国に与えた権利です。
  4)自己防衛
    出エジプト記22章2節「もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、打った者に血の責任はない。」
    正当防衛です。
3.日常生活で、この戒めを守る人がすること
  1)隣人を愛します。
    殺してはならないという戒めの根底にあります。自分を愛するように隣人を愛する人は隣人の命を尊重します。
  2)弱者の擁護者になります。
    箴言31章8~9節(現代訳)「あなたは、自分で自分のことを主張できない気の毒な人たちのために口を開き、口を開いて、公正に裁き、貧しい人や
    困っている人たちの訴えを取り上げなさい。」
    弱者に寄り添うということです。
  3)できる限り、隣人と平和に暮らします。
    ローマ人への手紙12章16節には、隣人と平和に生きていくための三つのステップが挙げられています。
    イ.謙虚である。
    ロ.復讐しない。
    ハ.善をもって悪に打ち勝つ。
  4)福音を分ち合います。
    私たちは隣人の肉体的な命だけでなく、霊的な命も大事にしなければなりません。
    テサロニケ人への手紙第二1章8~9節「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、
    永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。」
    そうならないように、私たちは前もって、警告のメッセージを伝えなければなりません。何故なら、神は全ての人の救いを望んでおられるからです。
    キリストの大宣教命令を心に留め、熱心に証をしていきましょう。




2024年1月21日     「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅦ)―人の命を重んじる者を求める神―」    マクセイ師
                                                 出エジプト記20章13節、創世記4章1~12節

十戒は私たちと神との関係、私たちの人間関係を祝福するために与えられました。今日は、人間関係に関する二番目の戒め「殺してはならない」について三つの
ポイントで考えます。
1.この戒めの根拠
  創世記1章27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
  私たち人間はユニークな存在です。
  1)全ての人が神のかたちに創造されています。
  2)私たちの命は神から与えられています。
    創世記2章7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
    人の命の尊厳を尊重しなければなりません。
2.この戒めの重大さ
  何故、殺人は重大な罪なのでしょうか。
  1)神に対する脅迫、挑戦、攻撃だからです。
    神のかたちに造られた者を殺すことは、神に対する脅迫、挑戦、攻撃です。
  2)神に対する越権行為であるからです。
     命を与え、命を取り上げる権限は神のみにあります。これを自分がもっているかのように行使することになるからです。
    ヨブ記12章10節「すべての生き物のいのちと、すべての肉なる人の息は、その御手の内にある。」
  3)私たちは兄弟の番人であるからです。
    私たちは家族です。私たちは神のかたちに創造されているからです。神から命をいただいているからです。兄弟の命を自分の命と同じように大事にしな
    ければなりません。
  4)サタンの側に立つことになるからです。
  5)取り返しがつかないからです。
    盗みは損害賠償できますが、奪った命は取り戻せません。
  6)人の命には測り知れない価値があるからです。
    神のかたちに造られているからです。神からいただいた命だからです。
3.この戒めを犯す人
  怒りは私たちの心に起こる感情の一つです。キリストはすべての人がこの戒めを犯し続けていると指摘しています。マタイの福音書5章21節「旧訳聖書には、
  『人殺しをしてはいけない。人殺しをした者は、裁判によって罰せられる。』と記されているのをご存じでしょう。あなたがたは、これを間違って解釈して
  います。この本当の意味を教えて上げましょう。それはこうです。だれに対してでも腹を立てる者、また、人をばか呼ばわりする者、また、だれに対してでも、
  その人を見下す者は、皆人殺しをしたのと同じです。(現代訳)」
心の中でこの罪を犯し続けることがないようにするために、次のことを心掛けましょう。
1)兄弟の番人であることを自覚しましょう。
2)相手は神のかたちに創造された者であることを認めましょう。
3)相手を赦しましょう。和解しましょう。これを継続的に行いましょう。
4)聖霊の助けをいただいて、罪を告白し、悔い改め、神の赦しをいただきましょう。
ヨハネの手紙第一4章20~21節「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない
神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」




2024年1月7日     「新年において役に立つ、実を結ぶクリスチャン」     マクセイ師
                                   コリント人への手紙第一9章24~27節、ガラテヤ人への手紙5章22~25節

2024年が始まりました。私たちの共通の願いは与えられた一年という時間を有効に活かして、役に立つクリスチャンとして、多くの実を結ぶクリスチャンと
して成長することだと思います。そのためには、自制が不可欠です。
ガラテヤ人への手紙5章22~23節には、九つの聖霊の賜物が挙げられています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。自制が最後です。
自制がなければ、他の実を結ぶことはできないからだと思われます。三つの視点で自制について考えます。
1.自制の本質
  自制とは自分が目指す目標から引き離そうとするあらゆる力に対して、自己統制によって、自分を守る力です。その鍵は聖霊に頼ることです。具体的には次の
  通りです。
  1)自分に対してNOと言うことです。
    利己主義な思い、聖書に反する行動を採ろうとする時にNOと言うことです。
  2)すべきことを実践する力です。
    状況の良し悪し、自分に向いているか、いないかに関係なく、言い訳をせずに、先送りせずに、すべきことを実践することです。
2.自制の確保
   2024年、自制をもって、役に立つクリスチャンになるためにはどうあるべきでしょうか。
   1)目標意識をもつことです。
    クリスチャンが常にもつべき目標は神の栄光を現わすことです。コリント人への手紙第一10章31節「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしな
    さい。」
  2)自己管理が必要です。
    コリント人への手紙第一9章27節「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。・・・・。自分自身が失格者とならないようにするためです。」
  具体的には何が求められるのでしょうか。
  1)御言葉を開く時間を定め、守ることです。
  2)祈りの生活を忠実に守ることです。
  3)有益でないものにかける時間をできるだけ少なくして、有益なことに時間を投入することです。
  4)御霊に頼ることです。
    ガラテヤ人への手紙5章16節「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
    御霊の導きによって歩むとはどういうことでしょう。
    イ.御言葉によって養われることです。
    ロ.聖霊との交わりを阻むものを取り除くことです。
    ハ.聖霊に全面的に頼ることです。
3.自制の実践
  1)神との関係において自制は不可欠です。
    ヤコブの手紙4章8節「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」
  2)自分の体の健康を保つために自制が必要です。
  3)心と思いの自制が必要です。
  4)感情における自制が必要です。
  5)時間の使い方における自制が必要です。

   6)お金の使い方における自制が必要です。
   7)舌の使い方に自制が必要です。
   8)人間関係における自制が必要です。
コロサイ人への手紙1章10節はパウロの祈りの一部です。今日のメッセージが凝縮されています。「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに
実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」
自制は救いの条件ではありません。2024年、この御言葉を心に留めて、クリスチャンとして成長しましょう。




2023年12月31日      「平和の王を迎える」    大坪 篤史 師      イザヤ書11章1~10節

1.はじめに
  2023年も大晦日を迎えました。コロナ禍、ウクライナ、パレスチナでの地域戦争、国内政治不信など、憂うべきことが多々あった年でした。しかし、次に
  繋げるために、感謝と希望の心をもって、締めくくりたいと思います。
2.イザヤの預言
  イザヤは紀元前700年代に活躍した預言者で、当時の王の血筋に当たる人物であったようです。イザヤ書は旧約聖書・新約聖書全体を俯瞰して纏められた
  内容となっており、聖書の最大の預言書とされています。当時の人々に「神のもとへ帰れ」と訴えかけています。救い主メシアの誕生や受難についても具体的
  に記しています。
  新共同訳聖書で「平和の王」と題された11章は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という言葉で始まります。エッサイは
  イスラエルの王ダビデの父親です。彼から新しい命が芽生え、救い主になるのだと言うのです。彼は、「知識と悟りの霊」「はかりごとと能力の霊」「主を知る
  知識と主を恐れる霊」に満たされ、正しい生き方をするというのです。その後のイエスの言動は、まさしくその通りでした。そして、それは今も実現していな
  いと記されています。
  昨今の世界情勢を見ると、強者が幅をきかせ、独占的な権力による横暴な政治や、強大な軍事力による理不尽な戦争が後を絶ちません。残念ながら「平和の王」
  による真に平和な世界は2000年後の今も実現していません。
3.平和の王を迎える
  現代のクリスマスは、2000年前の出来事を覚えるだけでなく、その後の歴史の反省に立って、主の再臨を待ち望む時としたいと思うのです。しかし、聖書
  によれば、その時は非常に恐ろしい災難が起きると預言されていますし、それが何時かは 誰にも分からないとイエス様は仰っています。しっかりした準備が
  なされないまま、その時が来たら、それは悲劇であるとも仰っています。ですから、私たちは聖書の御言葉に耳を傾け、その時がどのようにして起こるのか
  理解すると共に、それが何時来てもよいように、できる限りの備えをしておかなければなりません。私たちの信仰と覚悟が問われます。
  ロシアの文豪トルストイは民話「靴屋のマルチン」で、イエス様の再臨をお迎えする心構えを説いています。イエス様はマルチンに仰いました。「お前たちは、
  私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢屋にいた時に訪ねてくれた。
  私の兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」
  私たちは、奪い合うのではなく、与え合う生き方に立ち返りたいと願います。平和の王である主を迎え、その主に繋がっていきたいと思います。その生き方
  こそ、再臨の主を待つことになると確信します。
  この吉野の地に住む人々に福音の喜びを伝え、私たちがいただいた多くの賜物を分かち合っていきましょう。来るべき2024年が、戦争や災害、貧困や飢餓
  等で苦しむ世界中の人々にとって、平安と希望の年になることを心から願います。




2023年12月24日     「ベツレヘムに現れたイエス」     マクセイ師     ヨハネの福音書1章14節

多くの人にとって、クリスマスは季節行事です。クリスマスの本来の意味を確認するために、ヨハネがベツレヘムに現れたイエスについて、私たちに教えている
四つの事実について考えたいと思います。
1.イエスは人となった神です。
  1章14節「ことばは人となった。」
  ベツレヘムで2000年以上前に超自然的なことが起こりました。永遠から存在している神が人間の肉体をとって、この地上に現れたのです。何故、その必要
  があったのでしょうか。
  1)預言を成就するためでした。
  2)私たちの良き理解者となるためでした。
  3)私たちの罪の贖いのために、十字架の上で、ご自分をいけにえとして捧げるためでした。
2.イエスは神として私たちの間に住まわれました。
  1章14節「私たちの間に住まわれた。」
  キリストは人として、この地上を三十数年間、歩まれましたが、それはまさに、神は人と共にあるという証しになりました。
3.イエスは神の栄光を現わしました。
  1章14節「私たちはこの方の栄光を見た。」
  「私たち」はキリストの使徒たちです。どのような形で、彼らは神の栄光を見たのでしょうか。
  1)キリストの力ある業を通してです。
  2)身代わりの死を通してです。
  3)キリストの三日後の復活、昇天を通してです。
  4)父のひとり子としてです。
4.人となったイエスは恵みとまことに満ちていました。
  1章14節「この方は恵みとまことに満ちていた。」
  「恵み」はいただく資格がない者が必要としている物を与えられることです。神は無条件の愛をもって、私たちが必要としている物を与えてくださいました。
  ヨハネの福音書1章12節「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
  エペソ人への手紙2章8節「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
  又、イエスはまことに満ちていました。1章14節「この方は恵みとまことに満ちていた。」
  神はどのような存在であるのか、私たちのために何をなさったのか、私たちに何を望んでいるのか、私たちが神の救いに与るために知っておかなければなら
  ない真理を明らかにしました。
私たちはイエスがベツレヘムに人間として現われたことをどのように受け取るべきでしょうか。
1)私たちの良き理解者であり、私たちに同情できる方です。
  ですから、私たちは安心して、全てをイエスに委ねることができます。
2)私たちの肉体は尊く、神にとっても良いものです。
  神が人間の体を用いたのですから、私たちも自分の体をもって、神に仕えなければなりません。コリント人への手紙第一6章19~20節「あなたがたの
  からだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、・・・・。自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」
3)私たちが生きるべき模範、手本を示してくださいました。
  ペテロの手紙第一2章21節「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」




2023年12月17日    「ベツレヘム以前のイエス」   マクセイ師     ヨハネの福音書1章1~3節、エペソ人への手紙5章1節

「あなたにとって、イエス・キリストとは誰ですか。」この問いに対する答え次第で、私たちの永遠の運命が決まります。
キリストの降誕を前にして、ベツレヘム以前のキリストについて考えたいと思います。
ヨハネの福音書1章1節「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ここで、ヨハネはキリストについて、三つの大事な真実を私たちに教えています。
1.永遠の神として存在していました。
  ヨハネの福音書1章1節の「初め」は創世記1章1節の「はじめ」です。「はじめに神が天と地を創造された。」
  同1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
  キリストは来臨の目的を証言しています。同18章37節「わたしは、真理について証するために生まれ、そのために世に来ました。」
  イエスは神の思い、考えを言葉で人々に伝えました。イエスと3年間、行動を共にしたヨハネはそれを直接聞いています。ですから、同1章1節の「ことば」
  は「人となったイエス」です。イエスは永遠から存在していたということです。ベツレヘムはイエスの始まりではなく、人としての現れです。
2.三位一体の一神格でした。
  1節「ことばは神とともにあった。」
  ここで、ヨハネはキリストの身分を明らかにするために、三位一体に触れています。神は一つですが、三つの神格、父なる神、子なる神、聖霊なる神として
  存在しており、力において、属性において同格です。唯一の違いは役割です。父なる神は計画し、子なる神であるキリストはそれを実践し、聖霊なる神は完成
  させます。
3.イエスは神でした。
  1節「ことばは神であった。」
  ベツレヘム以前のイエスは神そのものだと言うことです。3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずできたものは
  一つもなかった。」
  イエスは創世記1、2章に記されている神として存在し、創造の働きを進めていたということです。イエス自身の言葉を通してそれを確認することができます。
  例えば、ヨハネの福音書6章38節です。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためで
  す。」同8章23節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしは
  この世の者ではありません。』」
  ヨハネの福音書は一貫して、イエスが神であることを強調しています。これは旧約聖書のキリストに関する預言と一致しています。
最後に、キリストが神であることは私たちに何をもたらすのかを確認しておきましょう。
1)私たちの信仰の対象として相応しい方です。
2)私たちはキリストに全面的な信頼を置くことができます。
3)私たちの生活の全ての面においてキリストが一番でなければなりません。
4)私たちはキリストの証しをし続けなければなりません。
私たちの信仰の対象は教え、哲学、宗教ではなく、永遠の存在である神であり、歴史上に実在した人であるイエス・キリストです。




2023年12月3日   「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅥ)―敬う者を求める神―」    マクセイ師     出エジプト記20章12節

父なる神は私たちを祝福するために、守るために、十戒を与えました。
今日は、五番目の戒め「あなたの父と母を敬いなさい。」に目を向けます。「敬う」について、二つのポイントで考えます。
1.敬うとはどういうことでしょうか。
  1)人が人に対してすることです。
    物を敬うことはありません。自分を敬うこともできません。
  2)選択的にすることです。
    敬うべき存在であるか否かの選択がなされます。
  3)対象の地位や身分と関りがあります。
    聖書に登場する敬うべき存在は王様、支配者、主人、長老等です。その中に、親が含まれることは興味深いことです。
  4)実用的なことです。
    言葉だけで終わりません。具体的な行動が伴います。
  5)公にすることです。
2.誰を敬うべきでしょうか。
  三つの対象があります。
  1)家族
    「あなたの父と母を敬いなさい。」
    人それぞれの敬い方があって良いのです。子供は親に頼って生活をしている限り、親に聞き従い、敬わなければなりません。もちろん、「主にあって」
    という条件付きです。独立したら、親の助言、アドバイスには耳を傾けるべきですが、聞き従う責任はありません。では、大人として、父母を敬うこと
    にはどのようなことが含まれるのでしょうか。
    イ.親を受け入れることです。
      年齢を重ねるにつれて、親の欠点、失敗等が見えてきます。それても、親として認め、敬うということです。
    ロ.親に耳を傾けることです。
      大人になれば、聞き従う責任はありませんが、人生の先輩としての助言に耳を傾けるべきです。既に召された親であっても、生前に言ったこと、
      教えたことを思い返し、大事にするべきです。
    ハ.親に感謝することです。
      子育てにつぎ込む時間、エネルギー、費用等は大変なものです。それを忘れてはいけません。感謝の思いをもち続けることが大事です。
    ニ.親を肯定することです。
      加齢につれて、親はそれまでできたことができなくなります。それでも、親の価値、必要性を忘れてはいけません。
    ホ.親をケア、サポートすることです。
      テモテへの手紙第一5章8節「もし、親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも
      劣っているのです。」
      親が召されている場合は、心の中で感謝し続けましょう。自分の子供や孫に親の話をしましょう。創造主に聞き従うことが親を敬うことの最も大事な
      ポイントです。
  2)霊的な家族
    マタイの福音書12章50節「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
  3)一般社会
    ローマ人への手紙13章1節「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられて
    いるからです。」
    併せて、私たちは神の形に創造された者として、全ての人を敬うことが求められます。
最後に、五番目の戒めのみに約束が加えられていることを確認しておきましょう。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、
あなたの日々が長く続くようにするためである。」




2023年11月26日       「人生を変える無条件の愛」     マクセイ師      ルカの福音書19章1~10節

ザアカイを通して、神の無条件の愛によって人間が如何に変わるのかを確認したいと思います。
1.イエスを見ようとするザアカイ(1~4節)
  3節「彼はイエスがどんな方かを見ようとした。」
  ザアカイはイエスの御業を聞き、知っていましたが、未だ、自分の目でイエスを見たことがありませんでした。彼はパレスチナ地方を統治していたローマ帝国の
  ために同国民から必要以上の税金を取り立てて、私腹を肥やしていたので、人々に憎まれていました。会堂で礼拝することも禁じられていました。孤独でした。
  裕福ではありましたが、幸福ではありませんでした。3節「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなか
  った。」
  しかし、彼は諦めませんでした。4節「先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。」
2.イエスに出会うザアカイ(5~7節)
  5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで下りて来なさい。わたしは、今日、あなたの家に泊ることにしている
  から。』」
  ここで、私たちは救い主イエス・キリストについて大事なことを三つ学びます。
  1)私たちを注目しておられます。
     神は私たちを知っており、見ておられます。注目しています。嫌われ者のザアカイに対しても同じです。キリストは意図的に彼に声をかけました。これは
    神の愛の表現の一つです。ルカの福音書12章7節「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、
    多くの雀よりも価値があるのです。」
  2)私たち一人一人を大事な価値ある者として見ておられます。
    キリストは木に上っている人をザアカイと知って、名を呼んでおられます。ザアカイを評価し、認めているということです。私たちは神の形に創造されて
    います。私たちは神の最高の作品です。
  3)私たちを無条件に愛しておられます。
    キリストはザーカイに語りかけます。5節「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家にとまることにしているから。」
    これを聞いた人々は驚き、罪人の客となったと文句を言いました。しかし、キリストはそれを無視して、無条件でザアカイの家に行きました。
3.イエスを迎え入れたザアカイ(8~10節)
  ザアカイはキリストの言葉を信じて、喜んで、キリストを迎え入れました。そして、言いました。8節「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれか
  から脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
  イエス・キリストを自分の内に迎える時、視点、優先順位、価値観、人の見方、接し方が劇的に変わります。これは彼の行いによる救いではありません。
  キリストがなさる業です。
私たちは木から降りる決断をしなければ、何も始まりません。この決断は何を意味するのでしょうか。
1)キリストを信じることです。
2)神の前において自分の罪を素直に認めることです。
3)証人の前で信仰を告白することです。
4)バプテスマを通して、キリストの死と復活による救いの恵みに与ることです。




2023年11月19日      「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅤ)―神に倣うものを求める神―」     マクセイ師
                                             出エジプト記208~11節、エペソ人への手紙5章1節

全ての人が必要としています。しかし、買うことも、貯めることも、使い回すこともできません。それは時間です。私たちは時間を如何に使うべきでしょうか。
その答えが第四の戒めにあります。
1.バランスのとれた時間の使い方を求めています。
  六日間働いて、一日休むという時間の使い方は人間の肉体的、精神的、霊的な健康に資するバランスのとれた時間の使い方だと教えています。
2.働くために時間を使いなさい。
  出エジプト記20章9節「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」
  神様は仕事の重要性を認め、手本を示しています。神様は人間を創造すると、直ぐに仕事を与えました。創世記2章15節「神である主は人を連れて来て、
  エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」体を動かす仕事だけでなく、知的な仕事も与えました。同20節「人はすべての家畜、空の鳥、すべて
  の野の獣に名を付けた。」
  神様は私たちが自分の時間を神の国の為に有効に、建設的に使うこと求めておられます。福音を語る、証しする、とりなしの祈りをすることもそれに含まれ
  ます。
3.安息のために時間を使うことです。
  出エジプト記20章10節「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」
  体の健康、精神的健康、霊的健康を維持するために安息が必要です。更に、安息日を聖なるものとするために、礼拝の時間を確保しなければなりません。
  安息を守るためにはそれなりの準備が必要です。出エジプト記20章8節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」
  使徒の働き20章7節にあるように、初代教会のクリスチャンたちはユダヤ人が守っていた安息日―金曜日の日没から土曜日の日没まで―を週の始めの日に
  しました。キリストの復活と身代わりの死を記念するためです。
4.人の益のために時間を使うことです。
  出エジプト記20章10節「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたは如何なる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それに
  あなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。」
  これには、あなたが安息をとっている時に、他の人に仕事をさせてはいけないということが含まれています。他の人とも安息の恵みを分ち合いなさいという
  ことです。キリストはその手本を残しています。マルコの福音書3章3~5節にあるように、安息日にキリストは会堂に入り、片手が萎えた人を癒しました。
  私たちは奇跡を行うことはできませんが、安息日であっても、出会った人に何らかの良い行いをすることができるならば、躊躇すべきではありません。
  場合によっては金銭的サポートをすることであるかも知れません。又は、福音、証を語ること、とりなしの祈りをすることであるかも知れません。安息を
  守りながら、人の益となることを行いましょう。
私たちはクリスチャンとして、神が示した時間の使い方を実践していく中で、神に栄光を現すことができま
  す。神を証することができます。エペソ人への手紙5章1節「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」




2023年11月5日   「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅣ)―御名があがめられることを求める神―」    マクセイ師
                                                    出エジプト記20章7節、マラキ書1章11節

神は私たちを守り、祝福するために十戒を与えてくださいました。今日は、神との関係の四つの戒めの内の三番目の戒めに目を向けたいと思います。出エジプト記
20章7節「あなたは、あなたの神の名をみだりに口にしてはならない。」
神はご自分の御名があがめられることを求めておられます。如何にすれば、私たちは日常生活の中で神の御名をあがめることができるのでしょうか。
1.神が存在していることを確信することです。
  これは神をあがめるための出発点です。唯一の創造主の神が存在していることを確信できなければ、神の御名をあがめることなどできません。へブル人への
  手紙11章6節「神に近づく者は、神がおられることを信じなければなりません。」
2.神の属性を知ることです。
  そのためには神の四つの呼び名を知らなければなりません。
  1)ヤーウエイ
    神がモーセに啓示されたご自分の名前です。聖書で最も多用されている名です。何にも依存せずに存在する神です。永遠に存在し、始まりも終わりもあり
    ません。私たちを支え、励まし、癒し、導く神です。
  2)エロヒーム
    全能の創造者、不可能を知らない神です。私たちはこの神によって創造されました。
  3)アドナイ
    私たちの主人です。私たちは絶対的に従わなければなりません。
  4)アバ
     私たちを愛し、私たちを思い、私たちに最善のことをしてくださる神です。
  この四つを一つにまとめるなら、アバ父です。私たちの創造者、私たちを愛し、導いて、支えておられる神です。
3.神が何時も私たちと共にいてくださることを意識することです。
  詩篇16編8節(現代訳)「私の前には、いつも主がおられます。主がすぐそばにいてくださるので、私は、揺らぐことがありません。」
4.神に聞き従うことです。
  私たちが宣言している信仰と普段の歩みに一貫性がないと神の名が汚されてしまいます。キリストは山上の垂訓の中でこのことに触れています。マタイの福音書
  5章16節「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
  コリント人への手紙第一10章31節「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
5.神に見倣う者になることです。
  エペソ人への手紙5章1節「愛されている子どもらしく、神に見倣う者となりなさい。」
  1)神が聖であるように、私たちも聖く生きなければなりません。
  2)神の愛を実践しなければなりません。
  3)神が望んでおられることを私たちも求めなければなりません。
6.神を礼拝することです。
  礼拝の中で、讃美を通して、祈りを通して、主の晩餐を通して、御言葉の分かち合いを通して、私たちは救いの神、創造主の神に近づくことができます。神の
  声を聞くことができます。神をあがめることができます。
イザヤ書49章6節「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
今日は、神をあがめることを通して、第三の戒めを守ることを強調しました。





2023年10月29日      「一同はひたすら」    大坪 篤史 師      使徒の働き2章42~47節

1.はじめに
  この9月7~9日、神戸市で第72回キリストの教会全国大会が開催されました。その報告を兼ねて、大会で語られたメッセージ等の概要をお話しようと思い
  ます。
2.全国大会の概要
  冒頭の開会礼拝では、小野教会の澤浩士牧師が、大会テーマの「一同はひたすら」について、聖書の訳文を比較しながら、解説してくださいました。
  二日目、鹿児島教会の唐川尊議牧師が、朝の祈祷会でテーマに沿った奨励をしてくださいました。
  続いて、カトリックのシスターで、上智大学グリーフケア研究所の高木慶子名誉所長から、「わたしは世の終わりまで共にいる」と題して、講演がありました。
  グリーフケアとは、事故や災害などで愛する人を亡くした人に、悲しみを癒してあげる働きをすることで、高木先生はその第一人者としての長い御経験を踏ま
  えて、語ってくださいました。「人生は辛いものです。そこに思いを馳せない限り、キリストの教えは自分のものになりません。」「死を通してでも持ち続け
  られる希望があります。死とは大いなる方に自分を手渡すことです。」「キリスト者は毎日神様に愚痴を言ってよいのです。悲しみ、苦しみ、嘆きを神様に伝
  えることが信仰者の務めでもあります。」「神様の答えは、心の中で聞くことができます。答えが届くまで信仰の内に待っていなさい。必ず神様は答えを与え
  てくださいます。」
  最後に、質疑応答の時間がありました。「自殺をどう考えたら良いか?」「自ら命を絶った人の75%は鬱病等の病気によるものです。ですから、病死だと考
  えてください。残りの25%は、神様が辛いなら帰って来て良いと言われたものです。その人の寿命だったと考えてください。」
  会場を移して、昼食会と恵みの広場、夜には聖愛教会で、ゴスペルシンガーの森裕理さんのコンサートが開かれました。
  三日目の最終日には閉会礼拝の時が持たれました。東京の桜山教会の石井章牧師が「神の国の予行演習」と題して話されました。初代教会では、キリストの
  再臨が直ぐにでも実現すると信じられていたこと、そのため一同は使徒たちの教えを守り、苦楽を共にする交わりを行い、聖餐式に臨み、全ての人が神の臨在
  を確信して畏れていました。私たちの礼拝も神の臨在を信じ、恐れをもって臨む事が必要だと語ってくださいました。更に、人口減少社会にあって、私たちは、
  人と人が、教会と教会が互いに支え合い、変化に対応することが求められていると指摘されました。
3.私たちもひたすら
  初代教会の時代、人々は聖霊で満たされ、直ぐにでも再臨があると信じていました。更に、使徒たちが行う奇跡を見て、人々は神の臨在に恐れをなしていまし
  た。だから、ひたすらに教えを守り、交わり、聖餐と祈りを行っていたのです。そんな姿が民衆全体から好意を持って受け止められ、日々信仰者が増し加えら
  れていきました。まさに教会の理想的な姿です。長続きはしませんでしたが、私たちはこの姿を、「教会の理想」として追い求めていきたいと思います。
  そして、この吉野の地で、仲間を増やしていきたいと願います。




2023年10月22日      「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅢ)―独占的礼拝を求める神―」     マクセイ師
                           出エジプト記29章4~6節、ローマ人への手紙1章18~25節、ヨハネの福音書4章19~24節 

前回、一番目の戒めについて学びました。今日は、礼拝の中身についての二番目の戒めを学びます。
1.何故、神は私たちに独占的礼拝を求めるのでしょうか。
  1)神の代理になるものはないからです。
    使徒の働き17章29節「神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。」
  2)人間には神以外のものを礼拝する傾向があるからです。
    ローマ人への手紙1章18~25節から偶像礼拝の二つのルーツを学ぶことができます。
    イ.真理を阻むことから起こります。
      18節「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されるから
です。」
      神はご自分の足跡を自然界に残して来られました。そこにある調和、美しさ、素晴らしさは全て神の全能の力を表しています。偶像礼拝に走るのは
      真理を否定することにルーツがあります。

    ロ.感謝しないことから起こります。
      21節「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」
      神に感謝をするということは、神に生かされ、支えられていることを認めることです。それを認めないことは、自分で何とかなるという傲慢さが強い
      ということです。その
結果、自分に都合の良い神々に目を向けます。
2.独占的礼拝とは如何なる礼拝でしょうか。(ヨハネの福音書4章19~24節)
  1)真の神を対象とした礼拝でなければなりません。
    どんなに熱心に、忠実に礼拝を捧げても、真理を理解していなければ、神には認められない礼拝になります。23節「真の礼拝者を求めています。」
    神はご自分のことを啓示することによって、御言葉を与えることによって、そして、イエ
ス・キリストを通して御自分のことを明らかにすることによって、
    礼拝の対象として相応しい方であることを啓示して
います。独占的な礼拝の最大のポイントは神のみが礼拝を捧げるに相応しい方であるということです。
    対象が間違って
いたら、礼拝は全く無意味です。
  2)御霊による礼拝でなければなりません。
    24節「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」 
  3)真理に基づく礼拝でなければなりません。
    23節「真の礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する。」
    私たちの独占的な礼拝が神に受け入れられるためには、神が私たちに啓示した真理に基く礼拝でなければなりません。
最後に、確認しておきましょう。私たちの独占的な唯一の創造主の神礼拝が日常生活に反映されているかということです。ローマ人への手紙12章1~2節「あな
たがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あ
なたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。
むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただ
きなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを
見分けるようになり
ます。」
世の光として、地の塩として日々を歩み、真の神を証ししましょう。




2023年10月15日    「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅡ)―揺るがない忠誠心を求める神―   マクセイ師
                                           出エジプト記20章1~3節、マタイの福音書6章24節

十戒は私たちを束縛するためではなく、守り、祝福するためにあります。今日は、最初の戒めに目を向けます。出エジプト記20章3節「あなたはわたし以外に
神があってはならない。」 二つのポイントに絞って、考えます。
1.何故、私たちは揺るがない忠誠を神に誓うべきでしょうか?
  出エジプト記20章1~3節に三つの答を見ることができます。
  1)私たちに語りかける神、私たちと交わる神であるからです。
    1節「神は次のすべてのことばを告げられた。」
    何時の時代においても、神は私たちが必要としていることを口頭で語ってくださいます。
  2)私たちを救う神であるからです。
    2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」
  3)唯一の神であるからです。
    3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。」
    ヨハネの黙示路4章11節「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころの
    ゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
2.何故、神は私たちに揺るがない忠誠を求めるのでしょうか?
  三つの理由を挙げることができます。
  1)人間には真の神以外の神々を拝む傾向があるからです。
    ユダヤ民族は400年間のエジプトでの奴隷生活でエジプトの神々信仰に影響されて、それが根づいていました。私たちが注意しなければならないのは
    信仰+αです。例えば、お金を全てに優先することです。それに陥らないために、私たちが最終的に頼りにしているものは何かを確認しましょう。
    マルティン・ルターは言いました。「何でも、あなたの心が取っつき、信頼するものがあなたの神である。」
  2)同時に、真の神と神々を信じ、従うことはできないからです。
    私たちの真の神との関係は独占的な関係でなければなりません。
  3)他の神々を求めることは真の神に対する不信仰の証であるからです。
    当時の世界では、一つの神では間に合わないと考え、目的に沿った色々な神々を揃えようとしました。戦いの神、豊作の神等々です。現代の私たちも真の
    神を信じているけれど、交通安全のお守りをもっている、手相占いに行く、先祖たちに助けを求める等々はないでしょうか。迷信に満ちた言い伝え等に
    影響を受けて、真の神との関係を壊していないでしょうか。
ヨシュア記24章14~18節「『今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた
神々を取り除き、主に仕えなさい。・・・・・。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たち
の目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを
守ってくださった方だからです。主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方
が私たちの神だからです。』」




2023年10月1日   「神の戒めを喜び守るクリスチャン(パートⅠ)」   マクセイ師   出エジプト記20章1~17節、ヨハネの手紙5章3節

今日から10月です。十に因んで、何回かに分けて、十戒を取り上げます。先ず、何故、私たちにとって十戒が重要なのかを考えましょう。
1.イエス・キリストが廃棄しなかったからです。
  マタイの福音書5章17節「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するためです。」
  キリストは「成就する」と言葉を使って、私たちに外面的なコンプライアンス、そして、内面的なコンプライアンスを求めています。
2.私たちに救いの必要性を明らかにするためです。
  神はユダヤ民族を救った後に、律法を与えました。逆ではありません。二つの理由があります。
  1)私たちに罪の自覚を与えるためです。
    ローマ人への手紙3章20節「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」
  2)私たちの目を救い主に向けさせるためです。
     ガラテヤ人への手紙3章24節「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるため
     です。」
3.私たちを祝福し、守るためです。
   申命記10章12~13節「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべて
   の道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ること
   である。」
   神の命令と掟は私たちを束縛、裁くためではありません。私たちを祝福するため、恵みを与えるためです。更に、私たちの神との関係、人間との関係など、
   あらゆる関係を守るためです。
十戒のベースにあるのは愛です。出エジプト記20章には、私たちと神との関係を守るルール、隣人との関係を守るルールがあります。
1.神との関係を祝福するためのルール
  1)「わたしのほかに神々があってはならない。」(3節)
  2)「自分のために偶像を造ってはならない。」(4節)
  3)神の名をみだりに口にしてはならない。」(7節)
  4)安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(8節)
  守るならば、神の守りと祝福があります。
2.人間関係を祝福するためのルールです。
   1)12節「あなたの父と母を敬え。」(12節)
  2)「殺してはならない。」(13節)
  3)「姦淫してはならない。」(14節)
   4)「盗んではならない。」(15節)
   5)「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(16節)
  6)「あなたの隣人のものを欲してはならない。」(17節)
  神との関係と同じで、これらの六つのルールは私たちを祝福するためです。
これからの学びの出発点としたいのは、もう一つの聖書箇所であるヨハネの手紙第一5章3節です。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の
命令は重荷とはなりません。」
私たちは神を、隣人を愛しているから、律法を守るのです。救われるためではありません。律法を守ることは神の祝福の源です。神の守りをもたらします。






2023年9月24日    「聖書の預言と終末(パートⅩ)―キリストの再臨に伴なう携挙―」   マクセイ師
                           テサロニケ人への手紙第一4章14~18節、マタイの福音書13章24~30節、36~43節

今日は十回目の学びとして、キリストの再臨に伴う、もう一つの大事な出来事、携挙を取り上げます。携挙についても聖書に基づかない説を主張する人がいます。
幾つかの疑問を取り上げ、答えていくことにより、真実に迫りたいと思います。
疑問1.携挙とは何を意味するのか?
    聖書に携挙と言う言葉はありません。テサロニケ人への手紙第一4章16~17節に記録されている出来事を指しています。「まず、キリストにある死者
    がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」
    携挙とは私たちが復活の体で空中に引き上げられ、キリストに会うことです。
疑問2.携挙は何時起こるのか?
    キリストが再臨する時に、私たちの目で、耳で確認できる形で起こります。
疑問3.誰によって引き上げられるのか?
    天使によって引き上げられます。マタイの福音書24章31節「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、
    天の果から果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」
疑問4.誰が引き上げられるのか?
    復活は一回切りです。二つのグループに分かれて、復活します。キリストを受け入れた者と受け入れなかった者です。携挙はキリストの再臨に伴なって
    起こります。対象は全ての人です。先ず、キリストを受け入れなかった者が、次いで、キリストを受け入れた者が引き上げられます。(マタイの福音書
    13章24~30節、36~43節)
疑問5.携挙の目的は何か?
    答えは大きく分けて二つあります。
    1)キリストの許に集められるためです。
      テサロニケ人への手紙第一4章17節「私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまで
      も主とともにいることになります。」
      主とともにある生活を始めるために、私たちはキリストの許に引き上げられるのです。
    2)この世界を造り変えるためです。
      私たちを悲しませる、悩ませる、不安にさせるあらゆるものが全く存在しない世界に造り変えるためです。
最後に、携挙を知ることにどのような意味があるのか、確認しておきましょう。
1)私たちに希望を与えます。
  パウロはコリント人への手紙第一15章19~20節で私たちの希望はこの地上だけの希望ではないと言っています。「もし私たちが、この地上のいのちに
  おいてのみ、キリストに望みを抱いているなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中か
  らよみがえられました。」
  携挙のベースにあるのはキリストの復活です。キリストの復活がなければ、再臨はないし、携挙もありません。
2)私たちを励まします。
  復活、再臨、携挙は私たちを励ます真実です。今の世界が全てではありません。素晴らしい世界が待っています。
3)信仰に堅く踏みとどまることができます。
  キリストの復活、そして、キリストの許に引き下げられ、ともにいることのできる約束、希望である携挙は私たちを信仰に堅く立たせます。又、キリストに
  より近づきたいという動機付けになります。




2023年9月17日     「年老いても」    マクセイ師     コリント人への手紙第二4章16~18節、詩篇92編12~14節

明日は敬老の日です。年老いることについて二つのポイントで考えます。
1.年老いても変らないこと
  世間一般は歳を取ることをマイナスに捉え、若さを保つことに心を砕きます。しかし、聖書は高齢者を肯定的に見ます。コリント人への手紙第二4章16節
  「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされています。」同18節「私たちは見えるものにではなく、見えな
  いものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
  目に見えない目標が詩篇92編14節に記されています。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。」
  私たちには変わらない使命があります。実を結び続けることです。そのためには神に留まり、神と交わり続けなければなりません。
2.年老いてもできること
  四つの実を結ぶことです。
  1)良い行いという実
    コロサイ人への手紙1章10節「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しま
    すように。」
    確認しておきましょう。良いわざは救われるための行いではありません。救われているからできる行いです。良いわざを行なうことは年齢と関係ありま
    せん。良い行いという実を結び続けましょう。
  2)良き模範という実
    パウロは良き模範を示すことを兄弟姉妹たちに勧めています。ピリピ人への手紙3章17節「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたが
    たと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」
    これは年齢を重ねるほど、経験や知恵が豊かになり、生かすことができます。常に、自分は周囲の人の良き模範となっているか確認しましょう。
  3)御霊の実<
    ガラテヤ人への手紙5章22~23節「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
    私たちは年老いても、御霊の実を結び続けることができます。
  4)証の実
    詩篇71編17~18節「神よ あなたは私の若いころから 私を教えてくださいました。私は今なお あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。
    年老いて 白髪頭になったとしても 神よ 私を捨てないでください。私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを 後に
    来るすべての者に。」これを書いた時、ダビデは60歳代と思われます。高齢になっても、神を証し続けていくことは私たちに課せられた任務です。
アブラハムは75歳の時に、未知のカナンの地に導かれました。神は80歳のモーセをエジプトに送り、400年間の奴隷制活を強いられていたユダヤ民族を
エジプトから導き出しました。そして、120歳まで神が立てた指導者として用いられました。英国の伝道者、牧師ジョン・ウェスレーは88歳になっても、
毎日、説教を2回していました。
私たちが結ぶべき最重要な実は神を証することです。詩篇92編14~15節「彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります。こうして告げます。
『主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。』」




2023年9月3日     「聖書の預言と終末(パートⅨ)―キリストの再臨に伴う復活ー」     マクセイ師
                            テサロニケ人への手紙第一4章13~18節、ヨハネの福音書5章24~25節、28〜29節

キリストを救い主として受け入れ、バプテスマを受けた私たちは既に第一の復活を経験しています。これにより、私たちは神と和解し、神の家族に加えられて
います。国籍は天にあります。キリストの再臨に伴って起こる出来事の一つは私たちの第二の復活です。三つのポイントで考えます。
1.復活の必要性
  何故、私たちは新しいからだを必要としているのでしょうか。
  1)初めから、人間はからだを持つ者として創造されています。
    神は人間を肉体を持つ者として、神に従い、仕える者として創造されました。(コリント人への手紙第一6章19~20節)
    天使には肉体はありません。動物には魂がありません。人間は肉体と魂を合わせ持っています。死んだら、魂はからだから離れますが、それは一時的な
    状態であり、必要なからだが与えられます。
  2)サタンの死に対する勝利を実現させるためです。
    私たちの最後の敵は死です。初め、人間は永遠に生きる者として創造されました。罪を犯した結果、死が入って来ました。しかし、復活を通して、私たち
    は死に勝利することができます。(コリント人への手紙第一15章55、57節)
2.復活の実現
  どのようにして復活が実現するのでしょうか。
  キリストの再臨前、キリストにある者は二つのグループに分かれています。一つはキリストの再臨前に亡くなった兄弟姉妹たちです。(テサロニケ人への手紙
  第一4章14節)
  もう一つはその時点で生き残っている兄弟姉妹たちです。(テサロニケ人への手紙第一4章15節)
  先ず、イエスにあって亡くなった人たちがイエスとともに連れて来られ、新しいからだに与ります。続いて、生き残っている兄弟姉妹たちがよみがえります。
  彼らは肉体的な死を体験せずに、一瞬にして新しいからだに与ります。又、救われていない者も復活し、クリスチャンが与る復活のからだとは別のからだに
  与ります。(ヨハネの福音書5章28~29節)
3.復活のからだの本質
  コリント人への手紙第一15章は復活の章として知られています。復活のからだは今のからだとは違いますが、外観上は同じです。42~44節に復活のから
  だの四つの特質が記されています。
  1)朽ちないからだ
    52節「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
    今の私たちのからだは何れ朽ちます。しかし、私たちが与る復活のからだは朽ちることがありません。
  2)栄光のからだ
    43節「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされる。」
    栄光のからだとは加齢による能力低下、障害等がない完全なからだです。
  3)力あるからだ
    43節「弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされる」
    復活のからだは疲れません。休む必要がありません。
  4)霊のからだ
    44節「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」
    血肉のからだは地上の生活に合ったからだです。霊のからだは新しい天地、永遠の住まいに適応したからだです。
私たちの第二の復活に対する希望は明確な根拠(キリストの復活、コリント人への手紙第一15章12~23節)に基づくものです。私たちは未来に約束されて
いる復活のからだを確信し、期待しながら信仰生活を全うしたいと思います。




2023年8月27日         「聖書の預言と終末(パートⅧ)―故人とキリストの再臨―」      マクセイ師
                                  テサロニケ人への手紙第一4章13~18節、ルカの福音書16章19~31節

死に関する知識がある程度なければ、自分の死を正しく見つめることもできないし、既に亡くなった人々のことを考える時、落ち込むことになります。
キリストは十字架の死と復活によって、私たちを死の恐怖から解放してくださいました。テモテへの手紙第二1章10節「キリストは死を滅ぼし、福音によって
いのちと不滅を明らかに示されました。」
そして、ルカの福音書16章19~31節で、キリストは死に対する誤解、恐れ、悲しみから私たちを解放してくださる大事なメッセージを宣べておられます。
ここから、故人に関する大事な事実を学ぶことができます。
1.故人は具体的な場所に行きます。
  1)亡くなった人の魂は二つのどちらかに行きます。
    イ.アブラハムの懐
       パラダイス、慰め、平安の場所です。イエス・キリストがおられる所です。
    ロ.黄泉、ハデス
       キリストの救いを拒否した人たちが行く所です。
    生前の私たちと神との関係によって、私たちの死後に行く場所が決まります。
  2)私たちは自分の死後の永遠の運命を確認できます。
    自分が救われているのか、救われていないのか、死の瞬間に分るということです。キリストの再臨、最後の裁きまで待つ必要はありません。
2.故人の意識ははっきりしています。
  1)死は永眠ではありません。
    何が起こっているか全く分からないという状態ではありません。明確な意識があります。
  2)魂には形があります。自分のアイデンティティは残っています。
    肉体のない魂ですが、生前の私たちの肉体を反映しています。アブラハムの懐、キリストの前においては、自分が誰であり、相手が誰であるかが分かり
    ます。
  3)体を離れた魂は復活の体ではありません。
     テサロニケ人への手紙第一4章14節にあるように、キリストの再臨に当たって、先ず、キリストにある死者たち、キリストの再臨前に召された人たち
    が蘇り、新しい体、復活の体が与えられます。ということは、死後、私たちはパラダイスでは復活の体に与っていないということです。復活の体が与え
    られるキリストの再臨を待ち望みながら過ごします。
  4)魂は完全なものにされます。
    私たちの魂があらゆる悪い思い、誘惑から解放されます。
3.故人は残された者のために何もできません。
  神の御心ではないということです。従って、私たちクリスチャンは故人にああしてください、こうしてくださいと祈りません。
4.残された者たちも故人のために何もできません。
  残された私たちに求められるのは、生きている間、福音の証しをし続けることです。如何にすれば死の備えができるかを宣べ伝え続けることです。
5.故人が私たちに一番願っていることは、今、死の備えをすることです。既に、クリスチャンであるなら、信仰に踏み止まることです。信仰を深めることです。
これらのことを私たちが信じることができるのは、キリストが復活されたからです。
ペテロの手紙第一1章3節「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
死は終りではなく、始まりです。




2023年8月20日       「聖書の預言と終末(パートⅦ)―預言とキリストの再臨―     マクセイ師
                       ヨハネの福音書14章1~3節、使徒の働き1章3節、8~11節、ヨハネの黙示録1章4~7節

キリストの再臨の預言は聖書で最も良く知られている預言ですが、誤解されたり、多くの誤った解釈がなされている預言でもあります。キリストの再臨は確実
な約束です。何故なら、約束したイエス・キリストが蘇られたからです。
今日はキリストの再臨を三つのポイントで考えます。
1.キリストの再臨の用語
  聖書でキリストの再臨がどのような言葉で扱われているかを確認しておきましょう。
  1)「エティニア」
     「現れる」「見えるようになる」という意味です。テモテへの手紙第一6章14節「私たちの主イエス・キリストの現れの時」
    テトスの手紙2章13節「イエス・キリストの、栄光ある現れ」
  2)「アポカルット」
    これまで隠されていたもの、覆っていたものが取り除かれて見える様になるという意味です。
  3)「サルシア」
    「来られる」「到着して、私たちと共にいる」という意味です。ヤコブの手紙5章7節「主が来られる時まで耐え忍びなさい。」
    テサロニケ人への手紙第一3章13節「主イエスが御自分のすべての聖徒たちとともに来られるとき」
  4)「へメラ」
    少なくとも、25回出て来ます。「主の日」「主イエス・キリストの日」「神の日」「その日」「終りの日」「人の子の日」は再臨の日です。
    大事なことは、これが単数形で使われていることです。
2.キリストの再臨の実現
  1)キリストご自身が来られます。
    蘇って弟子たちの前に現れたキリストが来られるのです。
  2)私たちの目で見ることのできる形で来られます。
    ヨハネの黙示録1章7節「その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。」
  3)突然、予期しない時に起こります。
    テサロニケ人への手紙第一5章2節「主の日は、盗人が夜やって来るように来る。」
    キリストご自身も言っておられます。マタイの福音書24章27節「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現する
    のです。」
    何故でしょう。
    イ.私たちが毎日の生活の営みにとらわれているからです。
    ロ.何時、起こるか、私たちには分からないからです。
  4)栄光と力をもって来られます。
    最初の誕生とは対照的な登場です。最初は栄光と力を明らかにせずに、赤子の形で、ご自分を低くして、仕える者して来られました。再臨の時は、
    王の王として、主の主として、全てを明らかにして来られます。それには二つの目的があります。
    イ.それまでキリストを否定してきた人たちに対して厳しい裁きを下すためです。
    ロ.キリストの聖徒たちが喜んで、キリストを崇め、礼拝するためです。
3.キリストの再臨のタイミング
  これは父なる神にしか分かりません。問題は近い将来なのか、遠い将来なのかです。大事なことは、私たちクリスチャンは神のご計画を疑わないこと
  です。何故でしょうか。
  1)神にとって千年は一日に過ぎないからです。
  2)甦ったキリストが約束しているからです。
  3)今、神は忍耐をもって一人でも多くの人が悔い改めることを待っておられるからです。
私たちはキリストの再臨を確信しながら、待ち望みながら、神の救いの御業を多くの人に伝えて行きたいと思います。




2023年8月13日      「愛と平和に生きる」     大坪篤史 師      コロサイの信徒への手紙3章1~17節

1.はじめに
  四十余年前ですが、私は鹿児島大学で法律学を専攻していました。当時「六法に愛という字はなかりけり」という川柳があった のを思い出します。 
  しかし、それは間違いでした。日本国憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、
  平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上
  から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」
2.聖書の教え
  我が国は、戦後まもなく制定した憲法で、「平和主義」という理念を、「国民主権」「基本的人権の尊重」と並んで三つの重要な柱と位置づけ、紆余曲折は
  ありましたが、戦後70年余り、平和国家としての歩みを続けてきました。しかし、ロシアのウクライナ侵攻等は核戦争や第三次世界大戦に突入するので
  はないかという懸念すら抱かせます。このような国際情勢の中で、私たち はどうすれば良いのでしょうか。今日の聖書の御言葉は私たちに「神様の愛を
  身に着け、キリストによる平和で心の中を一杯にしよう。」と教えています。
3.私たちはどう生きるか
  私たちは、この御言葉をどのように実践したら良いのでしょうか。
  最近映画化された吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」に次の文があります。「人間は最初から互いに手をつないでこの世の中を造り、その協働の力
  によって、野獣同然の状態から抜け出してきた。初めはごく簡単な道具を使い、やがて色々な技術や機械を発明し、自然界をだんだん住みよいものに
  変えてきた。そして、学問や芸術をも生み出して、生活を次第に明るい美しいものに変えてきた。その大きな流れの中に私たちは いる。この流れと共に
  生き延びていかない限り、皆はかなく亡んでしまうのだ。」
  又、令和の元号を発案した国文学者の中西進著「令しく平和に生きるために」には次のような記事があります。「令和とは令しく平和に生きること。
  そして、令とは礼節や規律を自ら保有した気品ある美を表す文字である。昭和と名乗りながら戦争の大惨劇にわってしまった『和』を、平成の後に今度
  こそしっかり基盤として、令たる平和を築くことが令和の理想となるだろう。」
  日本国憲法前文は次のように締めくくっています。「われらは、いずれの国家も自国のことにのみ専念して他国を無視してはならないのであって、 政治
  道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民
  は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」
  私たちはクリスチャンとして、自らが愛と平和の人になると共に、「世の光、地の塩」となって、周囲を明るく照らし、時には警告を発しながら、世界
  の平和と発展に貢献していかなければなりません。先ずは、それぞれが遣わされた場所で、互いに手をつなぎながら、その使命を果たしていこうでは
  ありませんか。




2023年8月6日     「聖書の預言と終末(パートⅥ)―ハルマゲドンと終末の前兆―」      マクセイ師 
                                        ヨハネの黙示録16章13~16節、20章1~3節、7~10節

5月から5回に渡って、聖書の預言と終末について学んできました。終末を考える時に中心になるのはヨハネの黙示録です。
今日から終末の前兆とキリストの再臨について考えたいと思います。ところで、聖書全体の預言は字義的ではなく、比喩的な表現で記されていることを確認
しておきましょう。
キリストは弟子たちに再臨を約束されました。ヨハネの福音書14章3節「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわた
しのもとに迎えます。」
ハルマゲドンの戦いは霊的な戦いです。キリストの再臨の直前に起こります。その時、サタンはキリスト、キリスト者、教会、全てをハルマゲドンに招集し
て戦いを挑みます。
ヨハネの黙示録16章16節「こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。」
ハルマゲドン(メギドの谷)で起こったユダヤ民族とカナン人の戦いが士師記4~5章に記録されています。ユダユダヤ民族は戦力的に劣勢でしたが、祈り
に応えてくださった神の助けによりカナン人に勝利しました。ハルマゲドンは神様がユダヤ民族に与えた圧倒的な勝利を象徴しています。
ヨハネの黙示録20章にはキリストの再臨の直前に起こる悪魔たちと神との霊的な戦いに至るまでのプロセスが記されています。キリストの再臨を間近にし
て、サタンが解き放たれました。ヨハネの黙示録20章3節「竜はしばらくの間、解き放たれることになる。」の「しばらくの間」には、キリストの再臨の
時期を曖昧にする意図が込められています。
私たちに再臨への健全な緊張感を持たせるためです。
サタンはキリスト者、キリストの群れである教会、福音の真理をつぶそうとしましたが、キリストの側が勝利しました。この戦いには三つの要素があります。
1)偽りとの戦い
  サタンが広める偽りはキリストに関する偽りです。サタンは偽りをもって、福音の真理を受け入れないようにさせるのです。
2)邪悪との戦い
  サタンは偽りの名人であると共に、誘惑の名人です。邪悪を広げ、当たり前にして、善悪の基準を消失させ、平気で罪を犯すようにさせます。
3)迫害との戦い
  サタンの最終的狙いはキリストを信じる者をこの世から消し去ることです。その最も効果的な手段は迫害です。
この三つの戦いの対象は霊的なイスラエルであるクリスチャン、教会、キリストの福音です。このようなサタンの策略に対して、私たちが対応すべき三点を
挙げます。
1)偽りに対しては、真理を知り、愛することです。真理は私たちを自由にします。
2)邪悪に対しては、私たちに与えられている究極的な武器である聖霊の力に頼ることです。
3)迫害に対しては、神の力と約束を信じ続けることです。
最終的に、キリストは勝利します。テサロニケ人への手紙第二2章8節「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼の御口の息をもって殺し、
来臨の輝きをもって滅ぼされます。」
私たちは神から大きな力をいただいています。三つの前兆に弱気になる必要などありません。




2023年7月23日     「忠実な証人の手本」     マクセイ師      使徒の働き1章8節、28章16~31節

使徒の働きを73回に渡って、学んできました。今日は最後の学びです。忠実な証人の手本であるパウロから私たちが学ぶべき4点を拾ってみたいと思いま
す。
1.何故、証しをすべきでしょうか。
  パウロが幾多の試練にめげず、福音を伝え続けることができたのは二つの強い動機づけがあったからです。
  1)ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の 力
    です。」
  2)同15章20節「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」
2.誰に対して、証しをすべきでしょうか。
  ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」
  パウロは最初に同胞のユダヤ人に声をかけています。何らかの共通点のある人から始めるということです。その上で、その枠を超えた人たちに語りかけ
  ています。
3.何について証すべきでしょうか。
  パウロのメッセージの中心はイエス・キリストでした。私たちのメッセージも、今も生きておられ、永遠に変わらないイエス・キリストでなければなりません。
4.如何にして、証しをすべきでしょうか。
  パウロの証しには三つの大事なポイントがあります。
  1)失望せずに証しすることです。
    パウロは多くのユダヤ人にキリストの話をしましたが、期待する反応ではなかったと思います。証拠不十分、説得力に欠けていたからではないと思います。
    心を頑なにしていたからです。パウロはこれにめげずに、異邦人に目を向け続けました。結果はどうであろうと、私たちは福音を語り続けなければなりませ
    ん。
  2)忠実に証しすることです。
    30~31節(新共同訳)「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝
    え、主イエス・ キリストについて教え続けた。」
    その結果がピリピ人への手紙1章12~13節に記されています。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知って
    ほしいのです。私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになりました。」
    パウロの熱心さを見たローマの兄弟姉妹たちは感化され、パウロが手を及ぼし得ない所で福音を語りました。ピリピ人への手紙4章22節節「すべての聖徒
    たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。」    
    諦めずに福音を証しし続けていくと、思いがけない所に福音が広がっていきます。
  3)祈りを忘れずに証しすることです。(エペソ人への手紙6章19~20節)
    パウロは長年の伝道活動を通して、自分の力だけでは証しはできないこと、祈りによる神の力、支えがなければできないことを分っていました。
    「語るべき言葉を教えてください。」「大胆に語らせてください。」この二つを祈りましょう。そして、兄弟姉妹にもその祈りをしてもらいましょう。
福音を鎖で留め置くことはできません。





2023年7月16日      「忠実な僕の祝福と責任」       マクセイ師      使徒の働き28章1~15節、箴言28章20節

冤罪を着せられたパウロは皇帝カイザルの前で裁判を受けるために、カイザリヤから船でローマに向かいました。しかし、嵐に遭遇し、何とかマルタ島に
辿り着き、全員上陸することができました。1~15節はマルタ島での3ヶ月間の滞在記録です。ここから、忠実な僕であるパウロの祝福と責任について
考えます。
1.忠実な僕の祝福(1~15節)
  パウロは迫害、反対、試練にめげずに、忠実に神に従い、多くの人に福音を宣べ伝えてきました。神はそのパウロを色々な形で祝福しました。
  1)親切による祝福
    2節「島の人たちは私たちに非常に親切にしてくれた。」7節「島の長官・・・は私たちを歓迎して、三日間親切にもてなしてくれた。」
  2)守りの祝福(3~6節)
    冷たい雨が降っている中で、パウロが集めて来た枯れ枝を火にくべると、一匹のまむしがはい出してきて、パウロの手にかみつきました。しかし、
    命が守られたのです。神の守りの祝福です。そして、これはパウロがキリストの使徒であることのしるしになりました。
  3)特別な力の祝福(7~8節)
    パウロは発熱と下痢で苦しんいた島の長官プブリウスの父親、そして、島民を癒しました。記載はありませが、島の人たちに伝道したと思われます。
  4)励ましによる祝福(10~15節)
    これは四つの祝福の中で、パウロにとって一番大きな力となったと思います。
    イ.必要な物資が備えられました。
      10節「(島の)人々は私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた。」
    ロ.船が備えられました。
      11節「三か月後、私たちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船で出発した。」
      偶々ではなく、神の大きなご計画であったと思われます。
    ハ.兄弟姉妹との交わりです。
       14節「その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。」
       15節「ローマからは、私たちのことを聞いた兄弟たちが、アビイ・フォルムとトレス・ダビデまで、私たちを迎えに来てくれた。」
       ここで素朴な疑問が生じます。パウロはローマに行ったことがありません。ローマの教会を開拓したのはパウロではありません。
       どうして、兄弟姉妹たちはパウロを知っていたのでしょうか。
       イ)パウロは3年前、ローマに手紙を書いて、あなたがたの所に行きたいと伝えています。
       ロ)ローマの教会の何人かは既に、パウロと接触していました。
       ハ)パウロは各教会に自分の代表者を送り込んでいました。
  箴言28章20節「忠実な人は多くの祝福を得る。」はパウロにぴったり当てはまると思います。
2.忠実な僕の責任
  神の祝福の器となることです。
  祝福はいただくだけではいけません。恵みに与った者として、隣人と分ち合わなければなりません。キリストに身倣って、僕とならなければなりま
  せん。謙虚に仕える者とならなければなりません。パウロは何処に行っても、どのような状況にあっても、神の祝福の器でした。
  ガラテヤ人への手紙6章10節「私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」




2023年7月2日      「聖書の預言と終末(パートⅤ)―イスラエルと預言―」      マクセイ師
                               創世記32章24~30節、マタイの福音書1章1~2節、使徒の働き7章1~8節

イスラエルという言葉には五つの意味があります。近代の物理的イスラエル国、地理的場所、創世記32章に登場するヤコブ、12部族からなるイスラ
エル民族、そして、霊的イスラエルである教会です。
1.近代の物理的イスラエル国と終末には何の関係もありません。
  旧約聖書におけるヤコブの子孫であるイスラエルに対する預言は未成就で、近代の物理的イスラエル国によってそれが成就され、終末が来て、キリス
  トが再臨すると考えるクリスチャンがいます。これは間違いです。神がイスラエルに約束したことはほとんど成就しています。
  1)土地を与えるという約束
    創世記12章7節「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。』」
    この約束はヨシュア記21章43節にあるように紀元前1400年に成就しました。
  2)他の地に投げ捨てるという警告
    申命記29章の預言が列王記第二24章にあるように成就しました。偶像礼拝に走ると、住んでいる土地から捨てられるという神の預言が実現
    しました。紀元前586年のバビロン捕囚です。
  3)再び先祖の地に帰るという約束
    申命記30章1~5節「あなたの神、主はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、
    先祖たちよりもその数を増やされる。」
    近代のイスラエルと終末を結び付ける人たちはこの約束は西暦1947年頃に成就したと言っています。そうではありません。エルサレムに帰還
    した紀元前536年に成就しました。エズラ記1章1~5節、6章14~16節に記されている通りです。帰還、神殿建て直しは実現したのです。
    これから起こることではありません。
  4)アブラムを通して全ての人が神の祝福に与るという約束
    創世記12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行き
    なさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
    わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」
    ガラテヤ人への手紙3章6~8節には、キリストの身代りの死、復活、救いの働きによってアブラハムへの約束が成就したことが明記されていま
    す。神はユダヤ人と異邦人を区別しません。共に、キリストの救いの対象です。
2.霊的イスラエルと終末は関係あります。
  今、神は霊的イスラエルを特別な器として用いておられます。ペテロの手紙第一2章9節「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、
  神の者とされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるた
  めです。」
  霊的なイスラエルの役割は神の証人となることです。キリストの救いを語ることです。
神が近代の物理的イスラエルに求めていることは、イエス・キリストを信じて、霊的イスラエルに加えられることです。




2023年6月25日    「成長しているクリスチャンの証明」   マクセイ師   
                                      エペソ人への手紙5章20節、テサロニケ人への手紙第一5章18節

父なる神は、キリストを通して、神の家族に加えられた者に感謝することを求めています。しかし、苦しみの中で神に感謝し続けることは多くのクリス
チャンたちにとって霊的戦いです。感謝について三つのポイントで考えます。
1.私たちは何時、感謝すべきでしょうか。
  エペソ人への手紙5章20節「いつでも」
  感謝には三つのレベルがあります。
  1)全てが順調な時の感謝です。
  2)神が未来に約束していることに対する感謝です。
  3)条件に依存しない感謝です。
     神はこの感謝を私たちに求めています。
2.私たちは何のために感謝すべきでしょうか。
  エペソ人への手紙5章20節「すべてのことについて」テサロニケ人への手紙第一5章18節「すべてのことにおいて」
  これは誤解されやすい箇所です。
  1)この世で起こっている全てのことに感謝しなさいということではありません。
  2)状況に関係なく、感謝しなさいということです。
3.私たちは如何にすれば、状況に関係なく感謝できるのでしょうか。
  常に、父である神様にフォーカスを合わせることです。
  1)過去において、神様が自分になしてくださった救いを思い起こすことです。
  2)現在、神様が私たちの生活に手を差し伸べてくださっていることに目を向けることです。
    二つあります。
    イ.神は私たちを霊的に、人格的に大きくして、神に用いられるように成長させてくださいます。
    ロ.神はご自身の計画に従って救われた人々に全てのことを共に働かせて、益としてくださいます。
      ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに
      働いて益となることを私たちは知っています。」
       大事なキーワードが幾つかあります。
       イ)働く
         今、神はあなたの生活に働いています。
       ロ)ともに
         神はあなたの生活上のあらゆる出来事を組み合わせて働いてくださっています。
       ハ)益
        神が益と思うことと私たちが益と思うことが何時も一致するとは限りませんが、神は全てを組み合わせて益としてくださいます。
        ローマ人への手紙8章28節にあるように、私たちがこのような恵みに与れるのは神のご計画によって救われた者であるからです。
        私たちはあらゆる状況で神に目を向けることが大事です。
紀元前587年、バビロニアの王ネブカドネツァルはエルサレムを陥落させ、約5000人を捕囚としてバビロンに連行しました。その中に三人の
青年が含まれていました。ある時、ネブカドネツァル王は金の像を造り、捕囚たちに拝まないと、燃える炉に投げ込むと脅しました。それに対する
三人の青年の反応です。ダニエル書3章17~18節(現代訳)「もしそのような事態になれば、私どもの仕える神様は、燃える火の炉の中から私
どもを救うことがおできになります。神様は陛下の手からも私どもを救い出してくださいます。しかし、たといそうでなくても、・・・。私どもは
陛下の信じる神々には仕えず、陛下が建てられた金の像を拝みません。」
これは成長しているクリスチャンの証明です。私たちにこのような信仰があるでしょうか。




2023年6月18日     「人生という航海(パートⅡ)」        マクセイ師        使徒の働き27章27~44節

簡単に前回の復習をします。
パウロは冤罪を被り、裁判に付されますが、ローマ市民権を持っている者として、ローマの皇帝カイザルの前で裁かれたいと申し出て、認められま
した。そのローマへの船旅の途上、嵐に遭遇しました。人生の航海について三点を学びました。
1)仲間の助け、支えの必要。
2)常識の大切さ。
3)人生の嵐に如何に対応すべきか。
今日の聖書箇所から四つの教訓を学ぶことができます。
1.人生の嵐の時、本当の自分が見えてきます。(27~32節)
  二週間に渡って、嵐と戦う船員たちは船に積んでいた救命ボートを下ろして、逃げようとします。逃げるに任せると、航行不能になるのですから、
  乗船している人たちに死を宣告するようなことです。ここに、船員たちの自己中心的な姿が見えてきます。そして、船員たちの不信仰と神を信じ
  続け、何時も他の人のことを優先し、行動するパウロの信仰の対比を見ることができます。私たちはどうでしょうか。自問自答すべきです。
2.神に信頼を置きながら、自分にすべきことがあります。(33~35節)
  パウロは伝道者、信仰者、教会のリーダーでありながら、270人余の人々を助けるために実際的な行動をとっています。33節「夜が明けかけた
  ころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。」
  彼らは船酔いで、二週間も食べておらず、体力が弱っていたからです。ここで、パウロは霊的な救いよりも肉体的な救いに重点を置いています。
  信仰者がやるべきは伝道だけではありません。私たちは教会の外で、地域社会で、神に与えられている能力を使って、人々の役に立つことをしなけ
  ればなりません。肉体的なサポートをすれば、後に、霊的な糧を分ちあう機会が与えられます。
3.神から与えられた証の機会を生かすことです。
  パウロは二週間も食べていない人たちに食事を取って、力をつけてくださいと勧めました。その上で、自分の模範を通して、人々に証をしたと思い
  ます。彼は祈ったのです。この祈りは270人余の人々にパウロが信じている神は祈りに応える神であり、私たちのいのちを支える糧を与えてくだ
  さる神であるというメッセージを伝えることになったと思います。
  その結果、36節「それで皆も元気づけられ、食事をした。」霊的な力が与えられたのです。祈ることは証の一つです。問題を抱えている友人に
  「あなたのために祈ってよいですか。」と問いかけて、NOと応える人はほとんどいないと思います。そんな証もありです。
4.常に、神は約束を守ります。(39~44節)
  神は二回も皆が助かると約束してくださいました。その通りに全員がマルタ島に上陸することができました。神様の守り、導き、支えは如何なる
  状況にあっても、揺らぐことはありません。これはパウロが偉大な人物であったからではありません。唯一の神を信じていたから、神に大きく
  用いられたのです。
25節「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」このような信仰をもつ時に、私たちの人生の航海は祝され、神に
用いられます。




2023年6月11日       「花のように、子供のように」      大坪 篤史 師       マルコの福音書10章13〜16節

1.はじめに
  今日は、教会暦の「花の日、子どもの日」です。
  ここに、一個のアンパンがあります。これを二人で分けるとしたら皆さんはどうしますか。大抵、子どもたちは「仲良く、半分こする」と言いま
  す。率直に「子どもは偉い」と思います。何故なら、大人になると「半分こ」ができないからです。これが国と国との関係になると戦争になりま
  す。ですから、何時までも、一個のアンパンを仲良く半分こして、回りの人々と仲良く暮らせる人、回りの国々と仲良く暮らせる日本を作って欲
  しいと心から願います。イエス様は仰いました。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。
2.花の日、子どもの日
  1886年、アメリカで始まった行事です。アメリカのある教会が、6月の第2日曜日を「子供の日」としてお祝いすることを決めました。日本
  でも次第に広まり、多くの教会で毎年行われるようになりました。
  イエス様は仰いました。「野原に咲いている花をご覧なさい。花は自分で勉強も仕事もしないのに、神様はこんなにも美しく咲かせてくださいま
  す。だから、あなた方も心配しないようにしなさい。花よりずっとあなた方のことを大事に思っている神様に祈りなさい。そうすれば、神様が全
  てを与えてくださいます。」
  花を見た時には、「私もこの花のように守られているのだから、安心して私らしく咲いていこう。」と気付いて欲しいと思います。
3.子どものように
  イエス様に触れていただこうと、子供連れで集まって来た人々をイエス様の弟子たちが叱りました。これを見たイエス様は弟子たちに厳しく注意
  しました。「子どもたちを私のところに来させなさい。神様の国は、小さくて、>弱い子どものような人たちのものです。子どものように素直に
  神様を受け入れる人でなければ、決して神様の国には入れません。」と仰って、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。人々は驚き
  ました。強さ、偉さを求める世の中の通念をひっくり返すことをイエス様が言われたからです。
  私たちも子どものような心を持って、素直に神様を信じる人になりたいと思います。これは私たちにとって、とても有難く、嬉しいことです。
  人間は年をとると、体力が低下します。多くの人がそのことを嘆きますが、神の国に入るための「準備」であると受け取って、喜ぶべきではない
  でしょうか。弱い自分を認め、素直な気持ちでイエス様により頼むことこそ、人として本来あるべき姿ではないでしょうか。今は、この世で与え
  られた使命を全うし、その人なりの美しい花を咲かせ、故郷の天国に凱旋するための祝福された時を過ごしているのです。「老いることは子供の
  ようになること」でもあります。
  イエス様は一人一人をこよなく愛してくださり、、神の国に受け入れてくださいます。ですから、安心して全てをイエス様に委ね、残された日々
  を共に明るく過ごしていこうではありませんか。そして、これからの未来を生きる子どもたちには、イエス様が何時もあなた方を招いておられる
  ことを忘れずに生きて欲しいと思います。





2023年6月4日      「人生という航海(パートⅠ)」       マクセイ師      使徒の働き27章1〜26節

9年、70回に渡って、使徒の働き1~26章を学んできました。今日はその学びの続きです。
パウロは第三次伝道旅行を終えて、久し振りにエルサレムに戻り、教会の兄弟姉妹たちに活動報告をしました。ところが、パウロは一部のユダヤ人
から神殿の異邦人立ち入り禁止区域に異邦人を連れて行ったという全く事実無根の罪を着せられ、2年間、獄中生活を送ることになりました。
裁判の結果、無罪となりましたが、パウロはカイザルに上訴しました。そのために、パウロは船でローマに行くことになりました。27章はその航海
の出来事の記録です。ここから、私たちの人生の航海について三つのことを学ぶことができます。
1.仲間が必要です。(1~3節)
  パウロは囚人の一人として、乗船していますが、一人旅ではありません。良き医者、良き記録者として、パウロの伝道活動を支えたルカ、そして、
  パウロの同労者であるテサロニケのマケドニア人アリスタルコと一緒の旅です。又、ノンクリスチャンであり、この旅の責任者である百人隊長
  ユリウスはパウロを親切に扱ってくれました。シドンにはクリスチャンの仲間がいました。初代教会のキー・パーソンであるパウロでも兄弟姉妹
  の励ましを必要としたのです。人との繋がりは肉体的健康、精神的健康維持に必須です。
  霊的健康には尚更です。
2.常識は大切です。(4~14節)
  シドンを出港して、ミラという港に向かいますが、4節「向かい風」のために思い通りに進まなくなりました。やっと、リキアのミラという港に
  着き、アレキサンドリアから来た大型穀物輸送船に乗り換えました。それでも船の進みは遅く、やっとの思いで、ラサヤの町に近い「良い港」と
  呼ばれる場所に着くことができました。しかし、既に、嵐が多発する季節に入っており、パウロはこれまでの経験と常識に基づいて、航海中止を
  提案しました。しかし、百人隊長はパウロの提案を受け入れず、出港しました。神を信頼し、従うことと自分で常識的な判断をすることは両立可能
  であるし、神はそれを望んでおられます。
3.人生という航海で起こる嵐の対処法を学ぶことができます。(14~26節)
  14節「まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹き降ろして来た。」
  ユーラクロンは今の言葉で言うなら台風です。強烈な嵐です。航海どころではありません。良い港を出港した直後に、嵐が襲ってきました。船員
  たちは難破しないように打てる手を打ちましたが、厳しい情況は続いていました。このような状況にあって、パウロは冷静に対処しました。
  この冷静さは何処から来たのでしょうか。
  1)神が共にいてくださるという確信です。
  2)自分は神の僕であるという確信です。
  3)神は約束を守ってくださるという確信です。
  4)祈りに応えてくださる神であるという確信です。
  5)神を信じ続けたことです。
  6)普段から、神との交わりを大切にしました。
ペテロの手紙第一5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」




2023年5月28日    「聖書の預言と終末(パートⅣ)―千年王国と預言―」     マクセイ師      ヨハネの黙示録20章1~6節

終末とはキリストの再臨です。何時になるかは分かりませんが、確実に来ます。その時、何が起こるのかの一端が今日の聖書箇所に記されており、千年
という語が6回出て来ます。千年王国には四つの説があります。後千年王国説、前千年王国説、ユダヤ人を中心とした前千年王国節、そして、無千年
王国説です。聖書に忠実な私たちキリストの教会の立場は無千年王国説です。
20章1~6節には、キリストが十字架上での死と復活によって、私たちに与えてくださった三つの恵みが記されています。先週はその一つ(サタンは
縛られている)を取り上げました。今日は残りの二つ恵み(第一の復活、キリストとともに王国を治める)を取り上げます。第一の復活について明らか
にしておくべきは次の三点です。
1)全てのクリスチャンが体験しています。
2)地上において体験します。
3)その恵みは永遠に続きます。
4~6節には第一の復活に与る二つのグループが記されています。
1)殉教した人たちです。
2)悪の側に立たず、神の者として、キリストを信じる者として、信仰を守っている人たちです。
この二つのグループは復活しました。当然、これを体験しなかった人たちもいます。キリストを受け入れなかった人たちです。
第一の復活は霊的な復活でした。私たちはバプテスマの時に、キリストの身代りの死による赦しの恵みに与って、罪赦された者として、神の家族に加え
られた者として、霊的に生き返らせていただきました。コロサイ人への手紙2章12~13節「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬
られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。
キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリ
ストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、
それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」
その結果、私たちは多くの恵みに与っています。
1)聖なる者となりました。
2)死後の裁きを恐れる必要はありません。
3)キリストともに王国を治めます。
4)私たちは祭司として霊的な王国を治めます。
第二の復活は肉体的な復活です。キリストの再臨に伴なって、私たちは新しい体に与り、天に迎えられます。ローマ人への手紙8章11節「イエスを
死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに
住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」
大事なことは、私たちは祭司だということです。キリストは私たちを通して、霊的な王国を治めておられます。私たちは祭司として、キリストに謙虚に
仕える者、奉仕する者となることによって、キリストの救いの喜び、救いからくる平安を広めていくことができます。今、私たちはその役割を持って
いることを再確認しましょう。




2023年5月21日    「聖書の預言と終末(パートⅢ)―千年王国と予言―」    マクセイ師    ヨハネの黙示録20章1~6節

何時かは分かりませんが、終末は確実に来ます。私たちは終末のことについて、ある程度正しく理解しておかないと誤った終末の教えに惑わされる
危険性があります。今日は千年王国について考えます。四つの解釈があります。
1)後千年王国説
  今、千年に渡って、私たちの世界は霊的に、物理的にどんどん良くなっています。しかし、それが終ると、サタンが解き放たれ、事態が悪化します。
  それをきっかけにキリストが再臨して、最後の審判が下されます。
2)前千年王国説
  今は苦難の時代です。キリストが再臨して、民を救い、エルサレムに千年王国が設立され、楽園がもたらされます。
3)ユダヤ人を中心とした前千年王国説
  旧約聖書が預言した神の国はメシヤが地上に現れて、王国を建てることでした。これを達成するために、キリストがこの地上に現れました。
  しかし、ユダヤ民族はキリストをメシヤとして受け入れなかったために、神はこの地上における王国の設立を先送りし、代わりに一時的に教会を
  建てました。その後、大きな戦いがあり、キリストが再臨して、エルサレムをベースとしたユダヤ人を含む王国を建てました。千年後、 最後の
  戦いがあり、永遠の命の世界が始まります。
4)無千年王国説
  今、私たちは千年王国にあると捉えます。これが聖書に忠実な私たちキリストの教会の立場です。
無千年王国を正しく理解するためのポイントを確認しておきましょう。
1)預言を字義通りに解釈しません。
  千年をとてつもなく長い時間と解釈します。
2)ヨハネの黙示録の構成を見なければなりません。
  1~3章は前置きです。4~22章は時系列的な記録ではありません。時系列的記録であるとするならば、20章は最後に記される べき内容です。
  キリストの地上の現われから教会の誕生、再臨までを5回(4~7章、8~11章、12~14章、15~19章、20~22 章)繰り返して取り
  上げています。20章はキリストがこの世に来た時から起こったことの記述です。
20章1~6節には、キリストが十字架上での死と復活によって、私たちに与えてくださった三つの恵みが記されています。その一つは、サタンは縛ら
れているという恵みです。今日はこれを取り上げ、残りの二つの恵みは来週取り上げます。
ヨハネの福音書12章31節「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」
後に、キリストは勝利を宣言しています。ヨハネの黙示録1章17〜18節「わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死ん
だが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」
今、私たちは千年王国に置かれています。私たちはサタンを恐れる必要はありません。何故なら、私たちは聖霊の力、神の真理の言葉をいただいて、
サタンに立ち向かうことができるからです。キリストがこの地上に来られ、教会の誕生で始まったこの流れは、何時になるか分かりませんが、キリスト
の再臨まで続きます。今、キリストは天からそれを治めておられます。私たちは霊的に安心して人生を歩むことができるのです。恵みに感謝しましょう。




2023年5月7日   「幸せな人とは」   マクセイ師    詩篇1編1〜6節

ゴールデンウィークで、観光地は幸せを謳歌しているように見える人たちで賑わっています。国連が発表する世界幸福度ランキングによると、日本は
146ヶ国中、54位です。詩篇1編を通して、幸せな人とは如何なる人かを考えてみましょう。
1.神様を自分の人生から締め出さない人です。
  1節には、そのために意図的にしないことが三つ挙げられています。
   1)耳情報を鵜呑みにしません。
     幸せな人はこの世の思想、哲学、倫理、道徳等に惑わされません。神の言葉によって吟味し、自分のマインドを守ります。
   2)この世の基準で行動しません。
     未信者の人と接触してはいけないということではありません。自分はキリストによって救われた者であり、神の家族の一員であることを念頭に
     置いて接することが大事です。
   3)自分の国籍はこの世にあると思いません。
   以上から、大事なポイントが二つあります。
   1)自分のマインドを守ることです。神の言葉をベースに入ってくる情報を吟味することです。警戒することです。
   2)幸せな人はNOと言わなければならないことにはNOと言います。
2.自分の人生を神の言葉の上に構築する人です。
  神の言葉は真実であるからです。力があるからです。幸せな人は神の言葉を生活に適用します。それが自分の益となることを知っているからです。
  祝福があることを分かっているからです。
3.幸せな人は栄えます。
  1)神の言葉を喜びとする人の生活は御霊の実、良い行いという実を結びます。
  2)健康的に、経済的に苦しい状況に置かれても内面的に栄えます。
  神の守りがあるからです。
4.未来に希望をもっています。
  神を締め出した者、神の言葉を喜びとしない者を籾殻に例えています。そのような人たちの運命はどうなっているのでしょうか。
  1)裁きの日に立てません。
    最後の審判の時に、彼らの罪は白日の下にさらされるからです。それに対して、キリストによって救われている人はキリストの義の衣を着て、
    立つことができます。
  2)神の家族に入ることはできません。
  3)滅びます。
  幸せな人には希望があり、神の守り、節理があります。神の前に正しい者として立つことができます。永遠の命があります。これは未来への 希望で
  す。死は終わりではありません。
詩篇1編は私たちには二通りの生き方があり、どちらを取るかはあなたの選択次第だということを教えています。終点は両極端です。どちらに行くかは
私たちの選択次第です。神が望んでおられることは、御言葉を通して、神との交わりを通して、皆が幸せになることです。
エレミヤ書17章5〜8節「主はこう言われる。『人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。そのような
者は荒れ地の灌木。幸せが 訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。主に信頼する者に祝福があるように。その人は主
を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、
実を結ぶことをやめない。』」




2023年4月23日       「教会とは(パートⅡ)」      マクセイ師       テモテへの手紙第一3章14~16節

今日は教会とは何かという問いに対する残りの二つの答え「生ける神の教会」と「真理の柱、土台」を今日の聖書箇所から見ます。
1.生ける神の教会として、私たちは如何に行動すべきでしょうか。
  1)生ける神を意識して礼拝することです。
    私たちが集まる所に神がおられます。キリストはこれを約束しました。マタイの福音書18章20節「二人か三人がわたしの名において集まって
    いるところには、わたしもその中にいるのです。」
    生ける神は礼拝するに相応しい方です。何故なら、私たちの創造者、救い主であるからです。
  2)生ける神と私たちを仕切るものを取り除くことです。
    生ける神と私たちを仕切るのは私たちの罪です。ヨハネの手紙第一1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですか
    ら、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
  3)生ける神への礼拝を優先することです。
    礼拝は生ける神のためであることを再確認すべきです。
2.真理の柱、土台として、私たちは如何に行動すべきでしょうか。
  真理は教会の土台であり、教会は真理の土台です。真理は教会の命と霊的な健康に不可欠です。真理である神の言葉がなければ教会は存在し得ません。
  教会の使命は真理を守り、伝えることです。
  1)神の真理を信じなければなりません。
    信じなければ、守ることもできないし、それを伝えることもできません。神の言葉を真理として信じる根拠は十分にあります。
  2)神の言葉を学ばなければなりません。
    神の言葉を知らなければ、異端、異教から守ることはできないし、自信をもって伝えることはできません。神の言葉を学ぶことによって、私たち
    は神の前に充分に整えられた者になります。
  3)神の言葉を実践することです。
    神の言葉を信じていても、それを学んでいても、適用しなければ偽善者でしかありません。世間の人たちはこれを容易に見抜きます。ヤコブの
    手紙1章22節を念頭に置くべきです。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」
  4)神の真理の言葉を伝えることです。
    キリストは弟子たちに言いました。マタイの福音書28章19~20節「あらゆる国の人々を弟子と死なさい。父、子、聖霊の名によって彼ら
    にバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」
    私たちが伝えたいのはキリスト教ではありません。イエス・キリストです。
詩篇95編1~7節には生ける神に相応しい礼拝が示されています。「さあ 主に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。感謝
をもって 御前に進み、賛美をもって、主に喜び叫ぼう。まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって 大いなる王である。地の深みは御手のうち
にあり 山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう。私たちを造られ
た方 主の御前にひざまづこう。まことに 主は私たちの神。私たちはその牧場の民 その御手の羊。」




2023年4月16日      「教会とは(パートⅠ)」       マクセイ師       テモテへの手紙第一3章14~16節

来週の日曜日、教会総会が控えています。今日と来週の二回に分けて、教会について考えたいと思います。
今日の聖書箇所に教会とは何かが示されています。
1)神の家、家族である。
2)生ける神の教会である。
3)真理の柱、土台である。
今日は「教会とは神の家、家族である」について、来週は残りの二つについて考えます。神はご自分の家族である教会に何を求めておられるのでしょうか。
1.愛
  私たちは愛をもって兄弟姉妹と交わらなければなりません。 ローマ人への手紙12章10節「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれ
  た者として尊敬し合いなさい。」
  この兄弟愛はアガペー愛です。自分はその様な愛をもって兄弟姉妹と接しているか自問しましょう。
2.正しい優先順位
  ガラテヤ人への手紙6章10節「私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」
  全ての人に善を行うべきですが、優先すべきは兄弟姉妹のニーズに応えていくことです。
  ヨハネの手紙第一3章17~18節「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉すような者に、
  どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
  限界はあるでしょうが、自分ができる限りのことを行って、兄弟姉妹の必要を満たすことです。そして、交わり、礼拝、聖書の学び等、教会の諸行
  事に積極的に参加することも大事です。
3.神を中心とした交わり
  私たちはそれぞれ神との交わりを深めることによって成長します。それによって兄弟姉妹との繋がりが深まります。三角関係と考えることができます。
  頂点に神がおられます。私たちが神に近づけば近づくほど、兄弟姉妹とも近づきます。私たちと兄弟姉妹との関係がぎくしゃくしているなら、原因は
  自分にあり、自分と神との交わりに問題がある可能性が高いです。
  ヨハネの手紙第一4章19~21節「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいる
  なら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。
  私たちはこの命令を神から受けています。」
最後に、結論として申し上げたいことは、家族としての教会が神の喜ばれる形で行動しているならば、愛があるならば、優先的に自分に、兄弟姉妹に反映
されていくということです。
教会の責任の一つは神の愛、神の優しさ、神の思いやりを証しすることです。全ての教会でそれが実践されるならば、一般の人たちに対するクリスチャン
の大きな証しとなります。
ヨハネの福音書13章34~35節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた
がたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるようになります。」




2023年4月9日    「なぜイエス・キリストは蘇ったのか?]    マクセイ師   ペテロの手紙第一第一1章3節

クリスチャンとはキリストの復活を信じ、その出来事が意味することに沿って生きる人であると定義することができます。
何故、キリストは蘇ったのでしょうか。多くの答えがありますが、今日は四つに絞って考えたいと思います。
1.ご自分は神であり、ご自分の言葉は真実であることを証明するためです。
   キリストはご自分の蘇りを3年も前に預言し、その通りに成就しました。それをもって、弟子たちはキリストが神であり、キリストの言葉は真実で
   あることを確信しました。では、キリストは神であり、キリストの言葉は真実であるという事実はどういう意味において、私たちに希望を与えるの
   でしょうか。
   1)キリストは人間となった神であると確信することによって、私たちはキリストに絶対的な信頼を置くことできるという希望が与えられます。
   2)私たちが必要としている問題の答えを出してくれます。
     私たちは何者か、何処から来たのか、何故ここにいるのか、これから何所に行くのか等の問いに対する絶対的な真理を私たちに提供してくださ
     る救い主は何時までも希望を与えてくれます。
2.私たちの罪が完全に赦されたことを証明するためです。
  キリストの復活は十字架上で私たちの罪の代価が完全に支払われたことの具体的な証明です。それをもって、私たちは汚れのない者として神の前に
  立つことができます。これは私たちの大きな希望です。私たちはクリスチャンとして、救われているから良い行いをするのです。救われるために
  良い行いをするのではありません。
3.私たちを死の恐怖から解放するためです。
  へブル人への手紙2章14~15節「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、
  死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」
  キリストの死に対する勝利は私たちに死は終わりではないという希望、永遠のいのちの希望を与えます。私たちがキリストのために行っていることが
  無駄ではないという希望を与えます。
4.天において私たちのためにとりなしをするためです。
  キリストは復活から40日後、弟子たちが見ている前で、昇天なさいました。そして、今、私たちの代表者として、天において父なる神の前に立って、
  私たちのためにとりなしをなさっています。何故、イエス・キリストは私たちのためにとりなしをする資格があるのでしょうか。
  1)私たちの良き理解者であるからです。
  2)身代わりの死によって、私たちの罪の代価を払ったからです。
  とりなしの働きには三つの要素があります。
  1)私たちが罪を犯した時、弁護してくださいます。
  2)私たちのためにとりなしの祈りをしてくださいます。
  3)私たちの祈りを父なる神に取り次いでくださいます。
私たちは2000年前に起こった出来事だけでなく、今、キリストが何をなさっているかに注目すべきです。そのことによって、私たちは新しく生れ変わ
ることができます。生ける希望を持つことができます。




2023年3月26日      「聖書の預言と終末(パートⅡ)―神の国と預言―」      マクセイ師     イザヤ書9章6~7節

預言を正しく理解するための原則を確認しておきましょう。
原則1)旧約聖書は私たちを教えるために書かれました。
原則2)新約聖書をもって、旧約聖書の預言を解釈することです。
原則3)預言には比喩的な言葉が使われています。
原則4)預言には物理的な実態と霊的な実態の両方が含まれている場合があります。
旧約聖書には「メシアが現れる」「メシアによって王国、神の国が設立される」「この王国は永遠に続く」等、神の国に関する預言が沢山出てきます。
これらは何時起こったのでしょうか。又は、起るのでしょうか。本質は何なのでしょうか。これらを明らかにするには、次の二つの問いに対する答を出
さなければなりません。
1.神の国の預言とは
  旧約聖書によると、神は周辺国に侵略され、苦しんでいたユヤ民族に約束しました。「わたしはあなたがたにダビデのように強い、偉大な王を送り
  ます。そして、この王によって、永遠に続く王国を建てます。この王国は慈悲深く、あなたがたに喜びと平安を与える国です。」
  この預言のベースになっている預言の一つはイザヤ書9章6~7節です。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。・・・。主権はその肩に
  あり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就
  いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これ
  を支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
  しかし、キリストが最初に来た時、ユダヤ民族はこの預言を受け入れませんでした。
2.神の国の預言は如何にして成就したのか
  新約聖書によると、既に、この国は到来しました。預言は成就しました。この理解の根拠はキリストご自身の言葉です。マタイの福音書12章28
  節「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」ルカの福音書17章20~
  21節「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。
  ・・・・。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」
  神の国の預言の成就はペンテコステの日、ペテロによって明らかにされました。そして、神の国とは教会だと宣言しました。「神の国の鍵」は福音
  です。ペテロは福音を語った最初の人です。それを聞いた3000人が救いに与りました。神の国の民となった最初の市民です。ですから、私たち
  クリスチャンはイエス・キリストの救いによって、神の国の国民となっているのです。神の国が広がっていく鍵は福音が語られることです。今、キ
  リストは天において、霊的な王国を統治しています。
マタイの福音書7章24~25節「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」




2023年3月19日   「聖書の預言と終末(パートⅠ)―黙示録から学ぶこと―」    マクセイ師     ヨハネの黙示録1章1~20節

ヨハネの黙示録は新約聖書における唯一の預言の書です。キリストの使徒ヨハネによって、流刑地のパトモス島で1世紀の一般のクリスチャンのために
書かれました。中身は三つの部分に分けることができます。
1)見たこと(1章1節~19節)
  ヨハネがキリストの黙示を受けた時点で見たことです。
2)今あること(2~3章)
  七つのアジアの教会の状況についてです。
3)この後に起ころうとしていること(4~22章)
  終末、キリストの再臨等です。
難解な書ですが、完全に理解できなくても、学び取れることがあります。それを拾っていきましょう。
1.キリストについて学びます。
  福音書のキリストは人となった神です。それに対して、ヨハネの黙示録のキリストは神の栄光と力に輝くキリストです。福音書のキリストだけに目
  を向けると、キリストに馴れ馴れしくなる危険性があります。私たちはキリストの前で謙虚に膝まづく礼拝者でなければなりません。併せて、キリ
  ストは「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりである。」と私たちを励ましておられます。
2.キリストの再臨について学びます。
  1章7節「その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。」キリストの再臨は公に分る形で起こります。そして、私たちを悩ませる者を
  滅ぼします。死も夜もなくなります。全てが新しくなります。
3.教会について学びます。(2~3章)
  七つの教会はそれぞれ問題を抱えていました。しかし、キリストはこれらの教会を切り捨てません。私たちの教会、日本の教会、 世界の教会には
  問題が沢山あります。私たちも自分の教会を諦めてはいけないということです。キリストの体として成熟したものにする責務があります。
4.礼拝について学びます。(4~5章)
  4章10~11節から礼拝について二つのことを学びます。
  1)礼拝の中心は神でなければなりません。
  2)創造者であるからです。
    礼拝は自分の好みで行うものではありません。心より神を讃える、讃美する、神の言葉に耳を傾けることです。
5.耐える信仰について学びます。(6~9章)
  世間からの反対、反発の中でも信仰をもち続けていかなければならないと教えています。その理由が7章15~17節に記されています。
  新しい永遠の住まいが用意されているからです。
6.大胆に証をすることについて学びます。(10~11章)
  時と場合によっては、殉教者となるかも知れませんが、神からの報いの約束があります。
7.悪について学びます。(12~18章)
  12章にはサタンが登場します。12章9節「悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」
  サタンの最大の武器は偽りで惑わすことであり、告発者です。やりたい放題に行動する時が来ます。そこでは、私たちクリスチャンは次のことを
  求められます。
  1)神を礼拝することです。
  2)信仰に踏み止まることです。
    神は私たちの忍耐強い信仰に報いてくださいます。安らぎ与えてくださいます。
1章3節「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。」





2023年3月12日       「十字架への道」      大坪 篤史 師    マタイの福音書20章17~20節

1.はじめに
  2月25日、築後30年以上になる我家の建替え工事を始めるに当たり、施工業者立ち合いの下で、「起工式」を行いました。
  マタイによる福音書の7章24~28節   より「岩の上に家を建てよう」と題して、メッセージを語りました。牧師になって、求めるなら、
  色々な場面で伝道ができるのだと思わされています。
2.イエス様の予告
  教会暦によれば、先月22日から受難節に入りました。18節で、イエス様は十字架と復活を予告されています。
  更に、新共同訳聖書では、「イエス、3度死と復活を予告する」と見出しが付けられていますので、このことを弟子たちに話すのは3回目だった
  ということになります。聖書が3回という時には、「沢山」という意味もありますので、実際には、繰り返し話したということでしょう。これに
  対して、弟子ヤコブとヨハネの母が、イエス様に二人の息子の厚遇をお願いしています。聖書を読んで、その後の展開を知っている私たちは不可
  解な反応だと思ってしまいますが、十字架と復活は、当時の人々にとって想像だにできないことだったということでしょう。
  この予告の後、イエス様は日曜日にエルサレムに入り、過越祭を控えて、街中が賑わっている中で、最後の一週間を過ごされました。
  そして、木曜日の夜には、拘束され、翌金曜日には一方的な裁判によって死刑判決を受け、ついに、十字架の刑に処せられるのです。 
  弟子たちは動揺し、イエス様を知らないと言ったり、逃げ隠れたりします。しかし、三日目の日曜日の朝に、イエス様が復活されて、墓の中から
  出て来られたのです。そして、四十日の間、色々な場面に登場し、力強く御言葉を語り、食事を共にされました。その後、「わたしは世の終わり
  まで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われて、昇天されましたが、この四十日間で弟子たちは元気を取り戻しました。
  更に、十日後には、イエス様が約束されていた聖霊の降臨を受け、その力をいただきながら、復活の証人として、主の教えられたことを全ての民
  に伝えていく、真の伝道者としての歩みを始めていくことになるのです。
3.受難節をどう過ごすか
  「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返ることを明らかにする=回心」が必要だと思います。
  何故、イエス様は十字架に架かられたのか、その意味を改めて考えることです。全ての人類の罪を贖うために、神様が犠牲となってくだいました。
  ここに十字架の意味があります。そして、一度死んだイエス様が、死の世界の暗闇を打ち破って、復活されたのです。ここに新たな希望が生まれ
  ました。最早、死は絶対的なものではなく、一時的なもの、相対的なものになり、私たちも復活できるという希望が与えられました。イエス様の
  この一連の働きを理解し、イエス様を真の救い主として信じることで、私たちも死の世界から復活し、永遠の生の世界に生きる道が開かれたのです。
  イエス様の御元で、新たな復活の体をいただき、永遠に生きることが可能となったのです。感謝して、この時を心から回心する時、信仰を深める時
  としたいと思います。





2023年3月5日     「証の実践(パートⅢ)―証から省いていけないことー」        マクセイ師
                                  使徒の働き26章22~23節、コリント人への手紙第一15章1~8節

パウロはキリストの身代わりの死と復活を証し続けました。復活がなければ、身代わりの死も意味がないからです。キリストは宗教家の一人に過ぎない
からです。私たちを造り替える力ある存在でもないからです。私たちもキリストの復活を歴史的事実として語るべきです。四つの事実で証明されていま
す。
1.神の存在
  パウロはキリストの復活を神の存在から始めています。神は無限の力をもっており、不可能はありません。従って、死者を蘇らせることはできない
  はずがありません。
2.預言の成就(使徒の働き26章23~25節)
  パウロは預言された事実としてキリストの復活に触れています。恐らく、イザヤ書53章、詩篇16編、22編等が念頭にあったと思われます。
3.目撃者の証言
  キリストの十字架上の死、復活、昇天は一連の出来事です。それぞれに多くの目撃者がいます。
  1)パウロは復活後のキリストの証人であるだけでなく、昇天後のキリストの証人でもあります。
  2)ヨハネの福音書19章33節はキリストの十字架上の死が事実であることを記しています。「イエスのところに来ると、すでに死んでいるの
    が分ったので、その足を折らなかった。」同35節「これを目撃した者が証ししている。」
  3)ルカの福音書23章55節はキリストの埋葬を記しています。「イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、
    墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。」
  4)コリント人への手紙第一15章4節「葬られたこと、・・・・、三日目によみがえられたこと」同5節「ケファに現れ、それから十二弟子に
    現れました。」
    同6節「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き
    残っています。」
     生きている証人がいるから、確認が可能であると書いています。同7節「その後、キリストはヤコブ(キリストの異父兄弟)に現れ、それから
     すべての使徒たちに現れました。」
  5)使徒の働き1章9節「イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目に見えなくなった。」
4.人の変化
  この実例はパウロ自身です。使徒の働き9章19~22節「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で『この方こ
  そ神の子です。』とイエスのことを宣べ伝え始めた。」
  クリスチャンを迫害する者からキリストの証人へと急変貌したパウロにダマスコのユダヤ人たちはうろたえました。
パウロはキリストの復活が私たちの信仰、救いに欠かせないものであることを次のように書いています。コリント人への手紙第一15章14節「キリ
ストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(新共同訳)」同58節「わたしの愛する兄弟たち、
こういうわけですから、動かされないようにしっかりと立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄になら
ないことを、あなたがたは知っているはずです。(新共同訳)」




2023年2月26日       「証の実践(パートⅡ)―証の中身―」       マクセイ師        使徒の働き26章1~23節

福音の広がりと教会の成長に貢献したのがエルサレムから散らされた一般のクリスチャンの証でした。
私たちは何を語るべきか、どういう順番で話を進めるべきかで迷ってしまい、証できないことが多いのではないでしょうか。パウロの証を参考にしま
しょう。パウロの証の中身は三つのポイントに分けることができます。
1.キリストと出会う前(4~11節)
  パウロはキリストと出会う前の厳格なパリサイ人の一人としての暗い過去を正直に打ち明けています。その上で、パリサイ人たちのイエス・キリ
  ストの復活に関する一貫性のなさを指摘しています。
  私たちは何処から証を始めるべきでしょうか。パウロの証を参考にして、キリストに出会う前、自分はどういう存在であったか、何を信じていた
  か、何所に希望を置いていたのかから始めましょう。それによって、証の聞き手の共感を得ることができますし、証を聞いてくれると思います。
2.キリスト出会う私(12~19節)
  パウロはキリストを信じ、キリストに従う者になった経緯を証しています。パウロはダマスコへの途上、天からの光を見ました。自分に語りかけ
  る声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」パウロの「あなたはどなたですか」という問いかけに「あなたが迫害して
  いるイエスである」という応えが返って来ました。これによって、パウロは三つの事実に気付かされます。
  1)死んだと思っていたイエス・キリストが生きておられる。
  2)自分が展開してきた迫害はイエス・キリストに対するものであった。
  3)自分が神のためと思ってしてきたことは神の御心に反していた。神は悲しんでおられる。
  パウロの激的な変化の根柢にあるのはキリストの復活の事実です。私たちの証もクリスチャンになる前のことから如何にして、クリスチャンにな
  ったのかに話を進めていきましょう。
3.クリスチャンになってからの私(16~23節)
  パウロは証の終わりで、自分の人生がどれほど変わったかを強調しています。証人としての新しい使命が与えられました。ユダヤ人だけでなく、
  異邦人にも福音を語る使命です。パウロがこのような務めを果たし続けることができた理由が22節に記されています。「私は今日に至るまで神
  の助けを受けながら、・・・・証しをしています。」
  今、私たちもキリストを信じる者となり、キリストの証人として立てられています。神のために、人のために仕えていく者として立てられていま
  す。内なる平安が与えられています。   そして、希望があります。永遠の命の希望があります。私たちもクリスチャンになって、どのように
  自分の人生が変わったかを証しましょう。証の大事な要素はビフォー・アフターです。
  コロサイ人への手紙1章21~22節「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉の
  からだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところの
  ない者として御前に立たせるためです。」




2023年2月19日    「証の実践(パートⅠ)―証の原則―」    マクセイ師    徒の働き26章1~32節

22節「私は今日に至るまで神の助けを受けながら、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証をしています。」
このパウロの証は私たちクリスチャンの証の指針であり、ベースです。これに肉付けしながら、証の原則を確認したいと思います。
1.正しい態度をもって証をする。(1~2節)
  1)証する機会を求め続けることです。
    証をする時と場所を選ばないパウロの積極性を見ることができます。
  2)厳しい状況の中でも証することです。
    パウロは冤罪を被り、3回も裁判にかけられ、2回も命を狙われ、2年間監禁されています。とても証できる状況では
    ありません。しかし、それにめげていません。むしろ、状況を利用しています。
  3)明るい態度で証することです。
    神の助けによる証ですから、明るい態度で証できますし、そうしなければなりません。
2.証をする相手とのコネクションを作る。自分と相手を繋ぐ梯子を作る。
  効果的な梯子は相手を誉めることです。パウロはアグリッパ王との近しい関係を作るために、王を立てて、誉めています。
3.礼儀正しく証する。
  アグリッパ王は道徳的に腐敗した人物です。パウロはそのことを脇に置いて、王様として礼儀正しく接しています。私たち
  クリスチャンも神の目線で人を見るならば、全ての人をリスペクトできます。礼儀正しく接することができます。
  パウロの証がクライマックスに近づくと、総督フェストゥスが証を遮りました。何故でしょうか。フェストゥスはパウロの
  証を聞いて、自分の裁判が間違っていたという思いが生じたのだろうと思います。そのために、キリストに関する話題を避
  けたいという思いが生じたのでしょう。
  私たちも証をする時、このようなことが起こります。キリストの話をすると、相手が何の関係もない別の話題を持ち出すこと
  があります。そのような時、冷静に、落ち着いて、礼儀正しく、話を元に戻すことが大事です。
4.必要に応じて、問い掛けをする。(27節)
  パウロはアグリッパ王に問い掛けをします。27節「アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じてお
  られることと思います。」
  この問いかけをすることによって、アグリッパに考えさせたのだと思います。アグリッパが「信じている。」と応えたら、
  「キリストを信じる。」ということになります。
  私たちも証をする時、一方的に話すのではなく、相手に語らせることも大事です。
5.根気強く、忍耐強く話す。(28~29節)
  私たちクリスチャンが証をする時、失敗しやすいのはこの点です。諦めが早すぎます。そのような時、ガラテヤ人への手紙
 6章9節を思い起こしましょう。「あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」
6.結果を神に委ねる。
  パウロは証を続けようとしますが、それを止められました。王が立ち上がったのです。それは終了の信号でした。パウロは
証の結果を確認することはできませんでした。私たちも自分の証の結果をその場で見届けることができないことが多いです。
後は神に委ねましょう。22節を暗記して、証をする時の指針としましょう。




2023年2月5日      「約束を守る神」     マクセイ師      使徒の働き25章1~27節

25章から、神は約束したことを必ず守る神であるということを学ぶことができます。
第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに帰ってきたパウロはユダヤ教の指導者たちによって冤罪を着せられ、2年間も監禁されています。神との約束
であるローマでの伝道に行けそうもありません。焦燥感と戦っていたと思われます。そんなパウロのために、神は何をなさったのでしょうか。
1.福音の広がりを止めようとする者からパウロを守りました。(1~7節)
  ユダヤ教の指導者たちの手口とその結果です。
  1)暗殺計画を立てました。
    ユダヤ教の指導者たちはパウロの命を狙っていました。しかし、上手くいきませんでした。
  2)多くの重い罪状を申し立てました。
    しかし、ユダヤ教の指導者たちはそれを立証することはできませんでした。彼らが重点を置いたのはキリストの復活です。自分たちが殺した
    キリストが生きているとすれば、神を殺そうとしたということになります。又、初代教会の伝道の力はキリストの復活の事実です。これを放任
    すると、キリスト信仰が広がっていくという危機感がありました。神は総督フェストスを通して、ユダヤ教の指導者たちの思惑をつぶし、訴え
    を却下しました。更に、彼らの憎しみの対象はパウロの行動ではなく、信仰にあることを突き止めました。神はキリストの弟子でもなく、クリ
    スチャンでもないローマの総督フェストスを通して、パウロの命を守ったのです。
2.神は政府、行政を通して、ローマに行く道を確保しました。(8~12節)
  パウロはローマ市民権をもつ者として、自分の無罪を主張し、カエサルに上訴すると宣言しました。パウロはローマ帝国の法体系を利用したのです。
  元々、政府、行政は神が定めたものです。何故、パウロはカエサルに上訴したのでしょうか。ローマに行くことになるからです。併せて、法廷に立つ
  までローマ兵士たちが自分に付き添って、守ってくれます。パウロは神の大きな計らいによって、政府・行政を通して、ローマ行きが確保されました。
  私たちクリスチャンは必要に応じて、政府・行政を積極的に利用すべきです。
3.王の前で福音を伝える機会を与えました。(13~27節)
  使徒の働き9章15節で、神はパウロが福音を異邦人、王たち、イスラエルの子らに伝える器であると約束しています。そのチャンスが到来しました。
  パレスチナ、今のレバノン、ガリラヤ地方を治めるアグリッパ王の前で証しすることが実現したのです。
神は私たちの目に見えないところで動いて、最善をなさる神です。何故なら、神は私たち一人一人に関心を持っておられるからです。
ペテロの手紙第一5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。」
心配してくださるだけではありません。全てを働かせて、益としてくださいます。ローマ人への手紙8章28節「私たちが知っているよう
に、神を愛する人々、つまり神のご計画に従って救われた人々には、神がすべてのことを共に働かせて、益としてくださるのである。(現代訳)」




2023年1月22日      「どうして手元に聖書があるのですか(パートⅥ)―読める御言葉を与えた神―」    マクセイ師
                                                  ローマ人への手紙15章4節

先週、どこから御言葉を読み始めるべきかについて考え、旧約聖書から読むべきだと申しました。今日の聖書箇所にあるように、旧約聖書は
私たちを教え、私たちに忍耐、励まし、希望を与えてくれます。
2.どのように旧約聖書を読むべきか
  1)祈りをもって始めるべきです。
    神の言葉を深く、正しく理解するためには聖霊による神の助けが必要です。祈りをもって始めることは一番基本的なことです。
  2)自分の位置を確認しながら読むことです。
     読んでいる箇所が旧約聖書の流れの中で、どの位置にあるのかを確認することです。聖書の目次を見てください。旧約聖書が
    どのよう に組み立てられているかを確認しておきましょう。
     イ.律法の書(創世記から申命記までの5書)
    ロ.歴史の書(ヨシュア記からエステル記までの12巻)
    ハ.知恵の書(ヨブ記から哀歌までの6巻)
    ニ.預言の書(イザヤ書からマラキ書までの16巻)
    以上の39巻は三つのパートに分けることできます。
    イ.創世記1~11章、創造、堕落、審判
    ロ.創世記12章~申命記、救いと神の民の形成
    ハ.ヨシュア記から旧約聖書の終わりまで、神の民の歩み
    又、旧約聖書は九つの時代に分けることができます。自分が読んでいる箇所がどの時代、どのような状況かを確認しましょう。
    更に、新約聖書の使徒の働き7章2~50節にはエルサレムの教会の執事ステパノが最高法院で語ったメッセージがあります。
    旧約聖書の流れを概観する助けになります。
    そして、へブル人への手紙11章1~40節は族長時代から統一王国時代までの主な信仰者を取り上げています。
  3)神に注目しながら読むことです。
    旧約聖書のどの箇所を読んでも、直接的に、間接的に、神の諸相について学ぶことができます。例を挙げましょう。出エジプト記
    3章で、 神はモーセに現れて、神の実像と働きを明らかにしています。歴史書からは、義の神、聖い神、罪を厳しく裁く神、詩篇
    からは愛の神、憐れ みの神、箴言等からは知恵深い神、ヨブ記、ダニエル書、エステル書等からは神の主権を学ぶことができます。
  4)至る箇所にある宝を意識しながら読むことです。
     創世記3章15節には聖書全体を理解する鍵が示されています。創世記12章1~3節にはアブラハムに対する約束「あなたの子孫
    を通して世界中を祝福する」という神の救いの計画の全体像が見えてきます。出エジプト記12章に出てくる「過越し」はキリスト
    の救いの型です。
  5)正しい見方をもって読むことです。
    つまづき易い箇所を正しく捉えることです。例えば、厳しい裁きを命じる神を信じることはできないと思う人がいるかも知れませんが、
    特定の記述にとらわれずに聖書全体を見渡して、判断しましょう。
    イ.神は誰も滅ぼしたくないのが本音です。
    ロ.神は警告なしに誰も裁きません。
  6)イエス・キリストと福音のヒントを捜しながら読みましょう。
以上のことを参考にし、且つ、今日の聖書箇所を念頭に置いて、旧約聖書を深く、正しく読んでいただきたいと思います。




2023年1月15日      「どうして手元に聖書があるのですか(パートⅤ)―読める御言葉を与えた神―」     マクセイ師
                                                         ローマ人への手紙15章4節

4回に渡って、「どうして手元に聖書があるのですか」という問いの答えを取り上げてきました。
5番目の答えが今日の聖書箇所に示されています。「旧約聖書に記されていることは、すべて私たちのために書かれている。(現代訳)」
二回に分けて、旧約聖書を読むことについて考えたいと思います。
1.どうして旧約聖書から読み始めるべきか。
  多くのクリスチャンは様々な理由をつけて、旧約聖書を敬遠していないでしょうか。新約聖書を正しく理解するためには旧約聖書の読み込みが大事です。
  1)旧約聖書は聖書の70%を占めています。
     キリストは78回、使徒たちは209回、旧約聖書から引用しています。
  今日の聖書箇所に、旧約聖書を読み込むべき4つの理由が記されています。
  2)私たちを教えるからです。
  3)私たちに忍耐を与えるからです。
    厳しい状況に置かれても、忍耐強く神を信頼し続けた信仰の先輩たちの模範を沢山読むことができます。例えば、ノア、アブラハム、ヨセフ等です。
  4)私たちに励ましを与えるからです。
    ダビデの祈りです。詩篇51編1~3節「神よ。私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの
    豊かなあわれみによって。私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪
    はいつも私の目の前にあります。」
    この祈りの背景にあるのは、神はあわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおり、赦してくださる神であるという確信です。
    これは私たちに大きな励ましを与えます。
  5)私たちに希望を与えるからです。
    これは二つの根拠に基づく確かな希望です。
    イ.神は変わらないという事実です。
      マラキ書3章6節「主であるわたしは変わることがない。・・・。あなたがたは絶え果てることはない。」
    ロ.イエス・キリストがこの世に現れるという約束です。
       旧約聖書の主たる目的は来るべき救い主の証しです。旧約聖書にはキリストに関する預言が300以上あります。
      最も知られているのはイザヤ書53章5節です。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが
      私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」
       旧約聖書を通して、変わらぬ神が約束を守り、私たちに希望を与えてくださることを確信できます。
  ヨシュア記1章8~9節「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためで
  ある。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは榮えるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しく
  あれ。恐れてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
2023年、旧約聖書を読み込みましょう。そのために、旧約聖書の信仰の先輩たちの御言葉に対する姿勢に倣いましょう。来週は「どのようにして旧約聖書
を読むべきか」を取り上げます。




2023年1月1日       「より良い選択」        マクセイ師    ルカの福音書10章38~42節

明けましておめでとうございます。
皆が願うことは、2023年が2022年よりも良い年であることです。そのために、私たちは日常生活で、良いことよりも、より良いことを選択しなければ
なりません。三つのポイントで考えたいと思います。
1.良い選択
  キリストはエルサレムへ行く途中、マルタ、マリア姉妹の家に立ち寄りました。マルタはキリストをもてなすために、忙しく立ち働いていました。良いこと
  を選択しています。一方、マリアはキリストの足元に座り、キリストと顔を合わせ、声を聞くことを優先していました。マルタは怒りをキリストにぶつけま
  した。何故、マルタはマリアのようにキリストの足元に座らなかったのでしょうか。
  1)マルタはキリストに仕えること、奉仕することについて間違った認識をしていました。
    キリストの弟子はキリストに仕える人、奉仕する人ですが、先ず、自分の霊的な栄養を得るために、キリストに頼る人でなければなりません。マルタは
    それを見失っていたと思われます。
  2)仕えることに重点を置き過ぎて、忙し過ぎました。
    ある牧師は言いました。「神のためであっても、忙しくなり過ぎると、神を忘れてしまい、神から離れていきます。」
  2023年、日常生活で色々な良いことがあるでしょうが、クリスチャンとして優先すべきは、より良いことを選択することです。
2.より良い選択
  より良いことは何でしょうか。41~42節「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけ
  です。マリアはその良い方を選びました。」
  より良い選択をしたマリヤが優先したのは何でしょう。
  1)キリストの話を聞くこと、キリストと一緒にいることです。
  2)キリストから得られることは誰も自分から奪いとることできないということです。
  3)必要なことは一つしかないということです。
  より良いことを意図的に、意識的に選択することが求められます。
3.より良い選択とあなた
  何故、私たちはマリアのようにキリストの足元に座るべきでしょうか。
  1)イエス・キリストは蘇られた主であるからです。
  2)イエス・キリストは天においても、地においても、一切の権威をもっておられるからです。
  3)イエス・キリストは世の光であるからです。
  4)イエス・キリストは道であり、真理であり、命であるからです。
  5)イエス・キリストに留まっていなければ、何も出来ないからです。
  キリストの足元に座るとはどういうことでしょうか。
  1)キリストとの時間を設けることです。
  2)キリストの声にしっかり耳を傾けることです。
  3)キリストの模範に従うことです。
  4)キリストの体としっかりと繋がることです。
     ローマ人への手紙12章5節「私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官です。」
2023年、私たちは毎日の生活を良くするために、常に、良いことよりも、より良いことを選択する一年にしたいと思います。私たちがそれを心がけて行くなら、
キリストは仰ってくださると思います。「どうしても必要なことはわずかです。いや一つです。あなたはその良い方を選んだのです。」





2022年12月25日      「クリスマスの奇跡」       マクセイ師      マタイの福音書1章18~25節

クリスマスの奇跡とは如何なる奇跡でしょうか。それに対する答えを出す中で、クリスマスの奇跡について考えたいと思います。
1.イエス・キリストとは何者か。
  マリアは神の力によって超自然的な妊娠をしました。まさに、これは奇跡です。マタイは信頼できる証人を挙げて、それが事実であることを記しています。
  そして、この奇跡が事実であることの最終的決め手になるのは神の関りです。神は万物の創造者ですから、不可能はありません。
  後に、キリストは自分の存在について次のように主張しています。ヨハネの福音書8章58節「アブラハムが生れる前から、『わたしはある』なのです。」
  キリストは永遠から存在していたということです。よって、クリスマスはキリストの誕生日ではありません。キリストが人間として地上に現れた時です。
  30年後、キリストは活動を通して、クリスマスの奇跡が間違いないことを示しました。そして、神しか言うことができないことを宣言しました。
  ヨハネの福音書8章12節「わたしは世の光である。」
  同14章4節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
  同11章25節「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
  キリストは多くの奇跡を行いました。そして、神しかできない罪のない生活を送られました。キリストは人となられた神です。
2.何のために、人となり、この世に現れたのか。
  マタイの福音書1章21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
  イエスはヘブライ語で「神は救いである」です。
  聖書の罪は的を外れるということです。私たちは神の前に不完全です。キリストの救いを必要としています。キリストはご自分が地上に来られた目的を次の
  ように言われました。マルコの福音書10章45節「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
  罪を犯すことがなく、且つ、人間であるキリストが私たちの罪をあがなってくださり、私たちを無罪としてくださいます。そして、キリストは私たちを霊的
  貧しさから救ってくださいます。又、自分の過去から救ってくださいます。永遠のいのちを与えてくださいます。赦しの光、希望の光、平安の光、友情の光、
  真実の光を与えてくださいます。これがクリスマスの奇跡です。
  キリストは十字架の三日後によみがえられました。そして、40日間に渡って、500人以上の証人の前に現れました。従って、キリストは今も生きている
  のです。私たちの罪を赦すことができるのです。私たちと共に歩むことができるのです。今、キリストは私たちを招いておられます。ヨハネの黙示録3章
20節「見よ、わたしは戸の外に立って叩いている。だれでも、私の声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼も
わたしとともに食事をする。」
キリストを救い主として受け入れていないが方がおられたら、受け入れて、キリストの恵みに与っていただきたいと思います。




2022年12月18日     「どうして手元に聖書があるのですか(パートⅣ)ー全ての人の救いを望む神―」        マクセイ師
                                                         テモテへの手紙第一2章4節

「どうして手元に聖書があるのですか」の学びの4回目です。3回に渡って、この問いに対する答えを出してきました。今日は、もう一つの答え「全ての人
の救いを望む神であるから」 について、二つのポイントで考えてみたいと思います。
1.何故、神は全ての人の救いを望んでおられるのでしょうか。
  1)創造者であるからです。
    神は人間を最高の作品として創造され、人間に特別な関心を持っておられます。私たちの最善を望んでおられます。
  2)唯一の神であるからです。
    イザヤ書44章6節「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」
    神は唯一ですから、全ての人の神です。全ての人を福福したい神です。
  3)救いの神であるからです。
    テモテへの手紙第一2章3節「私たちの救い主である神」
    創世記において、神は罪を犯した人々を見捨てませんでした。罪を裁きましたが、救いを約束しています。
    究極的な救いの業はイエス・キリストの地上の現われです。つまり、創世記4章~ヨハネの黙示録までは救い主 をこの世に送る準備、実現の記録
    だということです。
  4)愛の神であるからです。
    ヨハネの手紙第一4章8~10節「神は愛(アガペー愛、無条件、犠牲的、一方的な愛)です。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、
    私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
    私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
  5)光であるからです。
     ヨハネの手紙第一1章5節「神は光であり、神には闇が全くないということです。」
    神は聖く、完全であり、義なるお方です。神は罪を憎みます。罪を裁きます。
  6)初めから計画していたからです。
     神はアブラムを通して、全ての人に救いの祝福を約束しています。この祝福はイエス・キリストの地上の現われによって成就しました。
    そして、マタイの福音書28章19~20節 の大宣教命令です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名
    において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終りまで、
    いつもあなたがたとともにいます。」
2.全ての人の救いを望んでおられる神は私たちに何を望んでおられるのでしょうか。
  答えがエペソ人への手紙5章1節にあります。「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」
  倣うとは自分にできる最大限ことをすることです。ペテロの手紙第一2章9節にあるように、私たちは神の救いの恵みの器として立てられています。
  私たちは一人で全ての人を救いに導くことはできないけれど、周囲にいる人たちと神の救いのメッセージを分かち合うことはできます。
  テモテへの手紙第一2章4節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」キリストの降誕を祝う時、神が
  私たちに何を望んでおられるのかを再確認したいと思います。




2022年12月11日       「マリヤの賛歌」      大坪 篤史 師      ルカの福音書1章46~56節

1.はじめに
  アドベントも3週目に入り、クリスマスを待つ気持ちも高まりつつあります。
2.マリヤの賛歌
  ルカの福音書の著者ルカはイエスの母マリヤにも直接会って聞き取ったようです。それらを基に、イエスの誕生前の出来事についても詳しく記しています。
  26節、親戚の高齢の女性エリザベトが、受胎告知を受けた6ヶ月後、ダビデの子孫ヨセフのいいなづけであった乙女マリヤのもとに御使いガブリエルが現れ、
  「マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたは身ごもって男の子を産みます。名をイエスと付けなさい。その子はすぐれた者となり、
  いと高き方の子と呼ばれます。」と告げました。驚いたマリヤはユダの町にいるエリザベツのもとを訪れました。マリヤはエリザベツの祝福の言葉を受けて、
  今日の聖書箇所「マリヤの賛歌」を詠います。「わが魂は主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めて
  くださったからです」。まず、神様への感謝の言葉で始まります。そして「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。力ある方
  が、私に大きなことをしてくださいました」
  自身に起こったことの重大さを自覚し、それが歴史的な偉大な出来事であると、告白しています。マリヤは続けます。「その御名は聖く、その憐れみは主を
  恐れかしこむ者に代々にわたって及びます。」
  神の御姿、神と人とのあるべき関係について述べています。続いて、「主は御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力
  ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」
  この世の富や権力に対する神様の厳しい姿勢と弱者へのあわれみを語り、そこに新たな希望があると述べています。そして、「主はそのあわれみをいつまでも
  忘れないで、その僕イスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
  これは旧約聖書に書かれてある約束であり、イスラエルの民に永遠に与えられた契約なのだと締めくくるのです。この時、マリヤは10代の半ばであったと
  言われています。ここまで完璧な賛歌を歌い上げたことは驚きです。解説書によりますと、マリヤが旧約聖書の御言葉を引用して、まとめ上げたとされてい
  ます。マリヤは3ヶ月ほどエリザベツの所に滞在し、自分の家に帰ったようです。この時代、女性の地位は大変低く、虐げられた存在でありました。そんな
  女性が神様によって特別に選ばれ、祝されることになった喜びと感謝の歌です。
3.今年のクリスマスは
  2022年は中々終息しないコロナとロシアの一方的なウクライナ侵攻等のために、神様の支配を実感できない状況の中で終わろうとしています。しかし、
  2000年前、マリヤがイエスを出産し、そこから神様の新たな救いが始まったことは紛れもない事実です。私たちはそのイエスに思いを馳せ、希望の光を
  見出していきたいと思います。




2022年12月4日       「どうして手元に聖書があるのですか(パートⅢ)―人を通してみことばを届けた神―」     マクセイ師                                                                       イザヤ書3章8節

2回に渡って、「どうして手元に聖書があるのですか」という問いに対する答えを考えてきました。今日は、同じ問いに対するもう一つの答え「人を通してみこと
ばを届けた神」について考えたいと思います。ところで、聖書は如何なる人の如何なる働きによって作られ、私たちの手元にあるのでしょうか。
1.イザヤの時代からキリストの時代まで
  1)執筆
    紀元前1450年頃から約1000年に渡って、ヘブライ語で書き留められました。記録媒体は石板、粘土板、羊皮紙等でした。
  2)写本作成
    古くなり、使えなくなった原本は土に埋められ、手書きの写本が造られました。それは1947年の死海写本の発見によって裏付けられました。
    それまで手元にあった旧約聖書は西暦1000年代の写本でした。比較すると、中味は95%同じでした。長い年月、聖書が忠実に写されてきたということ
    です。
  3)聖典としての認定作業
    聖典の認定基準は幾つかあります。
     イ.神によって選ばれた記者であるか否か。
    ロ.御言葉を読んだリ、聞いた人たちが神の言葉として受け取ったか否か。
    これらの基準によって、紀元前200年頃までには旧約聖書39巻がまとめられました。
  4)翻訳
    最初の旧約聖書はヘブライ語で書かれていましたが、ギリシャ語に翻訳されました。七十人訳です。これによって、多くの人たちが聖書を読み、学ぶこと
    ができるようになりました。
2.キリストの時代から現代まで
  1)執筆
    西暦50~100年頃にコイネーギリシャ語で書き留められました。旧約聖書は1000年、新約聖書は僅か50年で書き上げられてということです。
    記録媒体は葦で造られたパピルスでした。
  2)写本作成
    写本が4000~5000枚あります。その一つは西暦325年頃のシナイ写本です。
  3)聖典としての認定作業
    西暦125年の時点で、新約聖書27巻がまとめられました。
  4)翻訳
    最初の翻訳は西暦390年のギリシャ語からラテン語への翻訳でした。それから1000年の間、これがカトリック教会の聖書でした。一般の人が聖書を
    手にすることができるようになったきっかけが二つあります。一つは1455年のグーテンベルクの印刷機の発明です。もう一つは1517年に起こった
    マルティン・ルターによる宗教改革です。
    日本語訳はどうでしょう。1613年、カトリックの宣教師たちによって、新約聖書がラテン語から日本語に翻訳されました。そして、1861年、プロ
    テスタントの宣教師たちによって、中国語から日本語に翻訳されました。更に、1880年代に、 英米の聖書協会等によって、東京で文語体の明治元訳
    聖書が出版されました。1954年には日本聖書協会の口語訳聖書が、1965年にはいのちのことば社から新改訳聖書が、1970年にはりビング・
    バイブルが、1987年、カトリックとプロテスタントの共同作業で翻訳された新共同訳がそれぞれ出版されました。
多くの人の努力によって、手元に聖書が届けられたということです。これは神の節理です。神と尽力してくれた多くの人たちに感謝しましょう。そして、聖書を
大事にし、学び、霊的な糧としましょう。




2022年11月27日     「感謝していますか」    マクセイ師    詩篇100編1~5節

ユダヤ民族は神の大いなる御業によってエジプトから救い出されましたが、約束の地に向かって行く旅の中で、神に感謝することを忘れ、繰り返し、不満、愚痴
をこぼしました。これは私たちが最も犯しやすい罪であり、自己中心、プライド、慣れが原因です。神は私たちに感謝することを求めています。そこで、二つの
視点で考えたいと思います。
1.何故、感謝すべきか。
  1)神が望んでおられるからです。
    テサロニケ人への手紙第一5章18節「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること
    です。」
    神が私たちに感謝をすることを望んでおられるのはクリスチャンとしての成長の証であるからです。神は時が良くても、悪くても、感謝することを望ん
    でおられます。それは置かれた状況に対する感謝ではなく、神が共におられること、神が必要を満たしてくださること、神が全てを益としてくださること
    等の恵みに対する感謝です。
  2)神が私たちに命じておられるからです。
    詩篇100編から見えてくることは私たちクリスチャンの感謝の土台、出発点は神であるということです。詩篇100編のキーパーソンは神です。
    この詩篇で、神が命じておられることが四つあります。
    イ.讃美することです。
    ロ.仕えることです。奉仕することです。
      伝道でも、教会内の奉仕でも、動機付けは義務からではなく、感謝の気持ちから奉仕していかなければなりません。
    ハ.感謝することです。
      私たちを神の形に創造した方であるから、神と交わるために私たちを創造された方であるから、神に仕えるために私たちを創造された方であるから、
      感謝するのです。
2.如何にして感謝すべきか。
  1)感謝の心を養わなければなりません。
    イ.持っていないものよりも、持っているものに重点を置くことです。
      そのためにはどうすればよいのでしょうか。
      イ)必要としているものと欲しいものを区別することです。
      ロ)比較しないことです。
    ロ.得ることよりも与えることに重点を置くことです。
    ハ.一時的なものよりも永遠のものに重点を置くことです。
  2)感謝を具体的に表現することです。
    日曜礼拝は神に感謝する場です。献金はその具体的形です。月曜日から土曜日まで、自分の生活の中で、神との時間を確保することも感謝の具体的表現です。
  3)隣人を赦すことです。
  4)福音を語ることです。
  5)困っている隣人を助けることです。ニーズに応えることです。
  6)先ず、神に感謝することです。そして、隣人に感謝することです。自分の家族に感謝することです。自分の友人、仲間、同労者に言葉による感謝を忘れない
    ことです。
コロサイ人への手紙3章15~17節「感謝の心をもつ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互い
に教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって
父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」




2022年11月20日    「どうして手元に聖書があるのですか(パートⅡ)―人を通してコミュニケーションを取る神―      マクセイ師
                                                        へブル人への手紙1章1~3節

二回に分けて、「どうして手元に聖書があるのですか」をテーマについて考えています。今日は「人を通してコミュニケーションを取る神」と題して、三つの
ポイントで考えたいと思います。
1.如何にして、神は人を通してコミュニケーションを取るのか。
  二つの形があります。
  1)人の口を通して語りました。
    エレミヤ書1章7節「主は私に言われた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところに行き、私があなたに命じるすべてのこと
    を語れ。』」
    同9節「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。『見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。』」
    ガラテヤ人への手紙1章11~12節「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また、教えられ
    たのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」
  2)ご自分の言葉を書き留めるように人に指示し、書き留めさせました。
    エレミヤ書30章1~2節「主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしがあなたに語った
    ことばはみな、書物に書き記せ。』」
    ヨハネの黙示録1章17節「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりである。」同19節「あなたが見たこと、今あること、この後起ころうと
    していることを書き記せ。」
    そのために、聖霊による手助けを与えました。
    イ.人間の力だけでは知り得ないことが知らされ、書き留められました。
      例えば、創世記の天地創造です。
    ロ.記者たちが見たこと、聞いたことを正確に思い起こして、書き留める手助けをしてくださいました。
    ハ.入手できる資料を選び、参考にして、書き留める手助けをしてくださいました。
    記者の人格、執筆のスタイルを尊重しながら書き留められています。
    聖書は神の霊感によって書き留められた証拠を二つ挙げることができます。
    イ.預言の成就
       旧約聖書には300以上のキリストに関する預言があります。全て成就しています。
    ロ.聖書の統一性
      1600年に渡って、40人以上の記者によって書き留められましたが、内容は統一性、一貫性を保っています。
2.何故、神はご自分の言葉を人を通して書き留めたのか。
  1)神の言葉の信頼性、正確さを保つためです。
  2)誰でも、何時でも、何所でも、神の言葉に触れ、学ぶことができるためです。
  3)多くの人に神の言葉に触れる機会を与えるためです。
3.神が人とコミュニケーションを取ることは何を意味するのか。
  1)神の言葉ですから、信じなければなりません。従わなければなりません。
  2)これは真理です。
    私たちはこれを日々の行動基準、価値基準、優先基準にするだけでなく、世界観の土台にしなければなりません。聖書が手元にあるということは、私た
    ちの大きな強みであり、苦難にあっても、私たちに忍耐を教えてくれます。そして、神の言葉を私たちに語らせるチャンス、力、勇気を与えてくれます。




2022年11月6日     どうして手元に聖書があるのですか(パートⅠ)―人とコミュニケーションを取る神ー    マクセイ師
                                                     へブル人への手紙1章1~3節

私たちは熱心に、継続的に、聖書に目を向け続けることが求められますが、そのためにはどうして私たちの手元に聖書があるのかという問いに答えることが
必要です。真の創造主の神は私たちとコミュニケーションを取る神です。これを前提に、三つのポイントで考えたいと思います。
1.何故、神は人とコミュニケーションを取るのでしょうか。
  私たちとコミュニケーションしなければ、私たちはご自分を隠す神を知ることができないからです。しかし、私たちは神の全てを知ることができるという
  ことではありません。神が私たちに示されることに限定されます。
2.如何にして、神は人間とコミュニケーションを取るのでしょうか。
  ご自分のことを啓示することによってコミュニケーションを取ります。神の啓示には二つの要素があります。
  1)一般啓示
    自然界を通して、神が創造された自然界の大きさ、素晴らしさ、完璧さ、調和を通して、神は私たちにご意思を伝えます。これにより次のことが分か
    ります。
    イ.神は存在する。
    ロ.神は創造者である。
    ハ.神は測り知れない力を持っておられる。
    ニ.神は善である。雨を降らし、季節を与える。
    ホ.神は私たちの感謝と礼拝を受けるに相応しい方である。
    但し、一般啓示には限界があります。キリスト信仰の中心教理、三位一体、キリストの受肉、身代わりの死、復活、聖霊、バプテスマ、救い等を知る
    ことはできません。
  2)特別啓示
    神様は人間の言葉をもって、特定の人、グループに、特定の時、場所で語り、ご自分の思いを明らかにされ、場合によっては、力ある業も行われます。
    これに異議を唱える人がいますが、神には不可能はありませんし、神は人間をご自分の形に創造されたのですから、人間は神とコミュニケーションする
    ことができます。仮に、できないとしたら、手元にある聖書には何の力も権威もないということになります。
    特別啓示にもう一つの要素があります。神はご自分の御姿を現しました。これらは地上にキリストが現れる前触れです。最終的に、キリストご自身が
    神様の究極的な特別啓示です。
3.神のコミュニケーションの中身は何でしょうか。
  1)神に関する真実
    神は存在しており、創造主であり、無限、不変、全能、愛、善です。
  2)人間についての真理
    人間は神によって、神に仕えるために、神と交わるために創造されました。
  3)罪と贖いについての真理
   人間は生まれながらに罪を犯す傾向があり、贖いを必要としています。贖いは神のあわれみと忍耐と恵みによって提供されます。私たちがイエス・キリスト
   を信じる時に、特別啓示であるイエス・キリストの身代わりの死と復活によって救いに与ることができます。
神は私たちに特別啓示を通して、語りかけてきたのだから、今でも、そのようなコミュニケーションを待つべきだと主張する異端がいます。私たちの手元には十分
に整えられた聖書があります。他に神からの特別啓示を求める必要はありません。今まで以上に、手元にある聖書に目を向け、神の言葉を心に蓄え、思い巡らしな
がら、クリスチャンとして成長していきましょう。




2022年10月23日     「光の子としてあゆみましょう」      マクセイ 師       エペソ人への手紙5章8~11節

10月31日は宗教改革記念日であり、ハロウィンです。ハロウィンは古代ケルト族の死の神の祭に由来しています。ですから、悪霊崇拝的要素をもっています。
私たちは光の子として、暗闇の世界につながっているものは避けるべきです。そこで、光と暗闇について考えたいと思います。
聖書は光と暗闇を対比させています。暗闇=悪魔の世界、逆らう世界、霊的無知の世界、光=義なる、聖なる神の象徴です。14節にあるように、私たちには光の
子として、四つの光の実を結ぶ任務があります。
1)善意
2)正義
3)真実
4)主に喜ばれることは何であるかをわきまえることです。
神に喜ばれることとは何でしょう。
1.神の備えを覚えて、感謝することです。
  今、まさに収穫の時を迎えています。私たちはこんなに素晴らしい自然界を神から与えられています。これを再確認して、思い起こして、感謝しましょう。
  そして、自然の中に身を置いて楽しみましょう。
2.昇天された兄弟姉妹を覚えて、感謝することです。
  今も、彼らは私たちに語りかけています。応援しています。彼らの模範、私たちにかけた言葉、指摘したことを思い起こして、彼らの声を聴くことができます。
  へブル人への手紙11章4節「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」
  それを力に最後まで信仰のレースを完走しましょう。
3.キリストの悪に対する勝利に感謝することです。
  サタンはキリストによって敗北者となったこと、そのためにキリストはこの世に来られたことを再確認して、感謝したいと思います。ヨハネの手紙第一3章
  8節「悪魔のわざを打ち破るために、神の子が現れました。」
   「悪魔のわざ」とは私たちを騙すわざ、誘惑するわざ、恐怖心に陥れるわざ、私たちから希望を奪うわざ等です。その中で、特に、キリストが打ち壊した
  のはサタンがその時点までもっていた死という力です。キリストは復活によって、それをサタンから奪い取りました。そのことによって、私たちに未来へ
  の希望、永遠のいのちの希望を与えてくださいました。恐怖から希望へ、サタンの支配からキリストにある自由へ導いてくださいました。
4.神の守りを覚えて感謝することです。
  ヨハネの手紙第一5章18節「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができ
  ないことを、私たちは知っています。」
  私たちは神によって新しく生れた者として、特別な守りが与えられています。イエス・キリストを通して、特に、サタンの攻撃から私たちを守ってくださっ
  ています。何故、私たちを守ることできるでしょうか。キリストはまことの神であるからです。そして、信仰を守る武具として、真理の帯、正義の胸当て、
  平和の福音の備えの靴、信仰の盾、救いのかぶと、神の言葉である御霊の剣を私たちのために備えてくださいました。
  私たちには光の子として、光の子供らしく歩むために、善意、真理、正義を実践し、神に喜ばれることを追求しながら、光を放つ者として、暗闇の世界を
  歩んでいきたいと思います。




2022年10月16日     「今という時」   マクセイ師    使徒の働き24章22~27節

パウロは身に覚えのない罪で裁判に付され、総督フェリクスは判決を先延ばしにしました。そのために、二年間も監禁状態が続くことになりました。
その間に、ローマ伝道を熱望していたパウロが採った行動から、今という時に如何に対処すべきかを学びたいと思います。
1.今という時を精一杯活かすことでした。
  フェリクスと妻のドルシラはキリスト信仰についてパウロの話を聞こうとしました。それに応えて、パウロが語ったのは耳障りの良い、心温まるメッセージ
  ではなく、正義と節制ときたるべき裁きについてでした。これを聞いたフェリクスは恐ろしくなりました。パウロのメッセージを通して、聖霊がフェリクス
  の心を突き刺したのです。神の前において、自分は裁きを受けなければならない存在であり、何らかの対策を講じなければならないと実感したのです。
  しかし、彼はそれをも先送りしました。それでも、フェリスクはパウロの話を聞き続けたのですが、それは賄賂をせしめたいからでした。
2.潔白な良心を保つことでした。
  16節「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」
  私たちも良心を保つために、継続的に自分の罪を自覚すること、告白すること、悔い改めること、断ち切ることが求められます。フェリスクの要求に応じれ
  ば、懸案のローマ伝道が可能になります。しかし、応じませんでした。妥協して、不正な形で自由を獲得していたなら、その後の伝道者としての力は消えと
  思います。私たちは聖霊の力をいただいています。この世と妥協しないようにしましょう。
3.正しい優先順位によって行動することでした。
  パウロがこれらのことをできた大きな理由は、神の前において、正しい優先順位を立てていたからです。使徒の働き20章24節「主イエスから受けた、神
  の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」
  如何なる状況においても、福音を証することを最優先としました。自分の釈放ではありませんでした。私たちはクリスチャンとして、今という時を精一杯、
  神のために活かすために、良心を潔白に保つために、優先順位のトップに置かなければならないことは、神の栄光をあらわすことです。神を愛し、隣人を愛
  することです。命がけで福音を語ることです。
パウロはこの経験から色々なことを学んだと思います。そして、私達も彼を通して、学ぶことができます。
1)どういう状況の中においても、満足できることです。
2)時が良くても、悪くても、福音を語り続けることです。
3)機会を十分に活かすことです。
これらは戦争が続いている、コロナ禍が治まらない今の時代にも言えることです。私たちはクリスチャンとして、これらをしっかりと心に留めましょう。
明日は約束されていません。先送りしないで、今という時をキリストのために活かしましょう。箴言27章1節「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、
あなたは知らないのだから。」




2022年10月9日
        「全国大会のお福分け」         大坪 篤史 師         テモテへの手紙第二2章1~2節

1.はじめに
  9月16~17日、3年ぶりの全国大会を開催することができました。今回は新型コロナや台風の影響で、直前のキャンセル、予定変更などがありましたが、
  初めての試みとして、大会の様子をインターネット配信しました。何時でも、何度でも視聴することができます。有効に利用してください。今日は、大会で
  語られたメッセージ等を分かり易くお話しようと思います。  
2.パウロの願い
  ローマで牢獄につながれ、何時、処刑されるか分からない緊迫した状況の中で、パウロは弟子テモテに次のように記しています。「わたしの子よ、あなたは
  キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前で私から聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人た
  ちにゆだねなさい。(新共同訳)」
  今回の全国大会のテーマは、「明日へつなぐ~Pass It On~青の国で明日の教会を考える」でした。私たちの群れだけでなく、何処の教会も高齢化が進み、
  教会員の減少、牧師、伝道師の不足等の問題を抱えています。今日の聖書箇所をテキストにして、この問題について、皆で考えてみようということにしたの
  です。大会では三名の先生にテーマに沿って語っていただき、五つの教会からは取り組み事例の発表をしていただきました。そして、最後に記念礼拝をお献
  げしました。
3.全国大会のお福分け
  最初の講演では、日本ナザレン教団鹿児島教会の久保木牧師から、「この上ない喜び」と題して、感謝すること、嘆くこと、資源を活かすこと、サポート体制
  を作ることが大事であり、それぞれの頭文字を並べた「かなしさ」に向き合うことが必要と語ってくださいました。
  二日目の朝の集いでは、狭山キリストの教会の会田牧師から、「Good News!喜びのお福分け」と題して、福音を皆に分け与えていこうとのお話がありました。
  続いて、五教会から取り組み状況について発表をしていただきました。
  二番目の講演では、大阪聖書学院院長の岸本牧師から、「福音を受け継ぐ群れとして」と題して、我々の群れの伝道は正しかったのか、これまで何を大事にし、
  何を受け継いできたのかという深刻な問いかけがありました。
  最後に記念礼拝では、吉野キリストの教会のマクセイ牧師から、「沖へ漕ぎ出しなさい」という題でメッセージをいただきました。信仰の先輩や宣教師たちが
  未知の世界である「沖へ漕ぎ出した」からこそ、今の私達があるのであり、私達も次の世代へ信仰の継承を図っていこうとの話がありました。
  今回、大型台風にも見舞われましたが、私から台風には地球の自浄作用という恵みがあることをお話させていただき、逆境にたじろぐのではなく、恵みの側面
  に目を向けることが大事であることをお話させていただきました。私たちには聖書があります。福音があります。会堂があります。イエス様が付いておられま
  す。実はあるものだらけなのです。ないものを並べて、不平を言うのではなく、あるものを覚えて感謝しながら、これからも「Pass It On」、バトンを渡して
  いく、福音を広げていく営みを続けていきたいと思います。




2022年10月2日    「責められるところのない良心を保つ秘訣」   マクセイ師      使徒の働き24章1~22節

16節「私はいつも、神の前にも人の前にも責められるところのない良心を保つように、最善を尽くしています。」
私たちが定めた行動基準、価値基準を良しとするか否かを判断するのが良心の役割です。良心に責められないために、私たちは何をすべきでしょうか。
1.真実を語ること
  弁護士テルティロはパウロの疑惑三つを取り上げます。
  疑惑1)5節「パウロはまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者である。」
  疑惑2)5節「ナザレ人の一派の首謀者であります。」
       パウロはローマ帝国不認可の宗教のリーダーであると訴えているのです。
  疑惑3)6節「この男は宮さえも汚そうとしましたので、私たちは彼を捕らえました。」
  それぞれの疑惑に対するパウロの弁明に注目しましょう。
  弁明1)十二日の短期間で指摘のようなことができるはずがないと言っています。
  弁明2)ナザレ人の一派であることを認めています。そして、ユダヤ人の神を信じているし、ユダヤ人の聖書(旧約聖書)は自分の信仰の土台であると言って
      います。
  弁明3)正当な原告がいないし、訴えの内容が不明確であると言っています。
  パウロは弁明する中で真実を述べています。自分の良心から責められることのないように、如何なる状況であろうと、真実を語らなければなりません。
2.神の言葉に沿って生きること
  1)神の言葉に沿って歩むことです。
   詩篇119編105節「あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です。」
  2)神の言葉を私たちの良心の基準にすることです。
   詩篇119編11節「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」
3.神と人との関係を大事にすること
  マタイの福音書22章37節「あなたの心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
  同39節「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
  具体的に、神を愛するとはどのようなことでしょうか。
  1)神の存在を認めることです。
  2)神に生かされて、支えられていることを認めることです。
  3)神以外に神はいないということを認めることです。  
  4)神の救いの賜物をいただくことです。
  5)神のみを礼拝することです。
  6)神の言葉のみを自分の行動基準、価値基準、善悪の基準にすることです。
  7)自分と神の関係を邪魔する罪の問題を素早く解決することです。
  隣人を愛するとはどのように適用することでしょうか。
  1)自分と同じように隣人も価値ある存在であることを認めることです。
  2)損得を考えずに、隣人のために最善を望み、実践することです。
  3)善をもって悪に打ち勝つことです。
  4)隣人との関係に亀裂が入った場合は自ら進んで、詫び、赦し、和解を求めることです。
私たちが責められるところのない良心を保つために最善を尽くしても、厳しい状況に置かれることがあります。しかし、間違いなく言えることがあります。
責められるところのない良心を保つことを優先課題としている人は平安をもって睡眠することができます。何故なら、神の赦しがあるからです。




2022年9月25日       「一つしかない福音を守りましょう」        マクセイ師         ガラテヤ人への手紙1章6~9節

7月、安倍元首相が暗殺されました。容疑者の母親は統一教会に1億円以上の献金をして、家庭を崩壊させました。統一教会と関係が深いと考えた安部元首相を
狙った犯行でした。私たちクリスチャンは一般の人から統一教会のことを尋ねられたら、どう応えるべきでしょうか。
三つのポイントでお話したいと思います。
1.統一教会の歴史
  創立者文鮮明は、16歳の時、幻を通してキリストと出会い、キリストから「神の国を立ち上げなさい。そして、世界平和のために貢献しなさい。」と言う
  任務を直接与えられたと言っています。1954年に統一教会を立ち上げ、1957年に経典原理講論を出版しました。その中で強調されているのは家庭、
  家族です。結婚に重点を置きます。統一教会の特別な祝福に与る結婚をしている人は救われ、天国に行くことができると主張します。彼は2012年に亡く
  なり、統一教会は三つのグループに分裂しました。
2.布教の手口
  1)天のまやかし
    目標を達成するためには、布教の過程で、嘘を言うことも良しとします。
  2)不安をあおる
    不安を起こさせ、多額の献金、継続的な献金に導こうとしています。
  3)選択的布教
    彼らの布教の標的は金持ちです。お金のない若者は労働力を期待されます。
  4)まともな宗教団体であることを見せるために、知名人と接触して、利用します。
  5)統一教会という名前を出さない布教
    本来の姿を隠しながら、巧妙な天のまやかしを利用した布教を展開しています。
3.統一教会の教理、教え
  1)人間が存在していなければ神は存在しない。
    神は永遠から存在していないということです。これは聖書の神ではありません。創世記1章1節「はじめに神が天と地を創造された。」
  2)聖書は神の絶対的な権威をもつ言葉ではない。
    文氏によると「新約聖書は2000年前に書かれた。現代に沿った教えが必要である。それが原理講論である。」
    原理講論を聖書の上にもって来ることに関して、私たちは如何に応えるべきでしょうか。
    イ.ガラテヤ人への手紙1章6~9節「福音は一つしかない。それとは違う福音を伝える者、福音を曲げる者はのろわれるべきです。」
    ロ.テモテへの手紙第二3章16節「聖書はすべて神の霊感によるものです。」
  3)イエス・キリストについての統一教会の教えは何か。
   イエス・キリストは神ではなく、私たち人間と同じであり、違うことがあるとすれば、罪を犯していないだけだとします。これは聖書の教えではありません。
   キリストを否定すると、福音はなくなってしまいます。
 4)救いに関する教え
   キリストの十字架上の死は私たちの罪の贖うことはできない。自分の罪は自分で償わなければならないと考えます。行いによる救いです。これは異端の典型的
   な救いのメッセージです。救いは福音の基盤です。キリスト以外に救いはありません。救いはいただくものです。勝ち取るものではありません。
私たちはキリストによる唯一の救いを守るために何をすべきでしょうか。
1)御言葉から目を離さないことです。
2)聖書にしっかりと目を向けて、本当の福音を語ることです。




2022年9月4日      「すべてのことを働かせて益としてくださる神」      マクセイ師
                                             使徒の働き23章12~35節、ローマ人への手紙8章28節

4ヶ月ぶりの使徒の働きの学びです。
パウロは第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに戻り、教会の人たちに伝道旅行の報告をします。その間、神殿に足を運ぶ中で、冤罪を被り、命の危険に晒される
ことになりました。神はパウロに約束しました。使徒の働き23章11節「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマ
でもあかしをしなければならない。」
この約束が実現するためには、これから起こる色々なことを乗り越えていかなければなりません。
使徒の働き23章12~35節の出来事を通して、ローマ人への手紙8章28節「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」について三つのことを学ぶこと
ができます。
1.私たちは苦難から免除されているということではありません。(使徒の働き23章12~14節)
  パウロは最も神に用いられて、最も多くの教会を開拓し、最も多くの人をキリストに導きましたが、そのパウロが多くの試練、苦しみを通過してきたのです。
  私たちクリスチャンも例外ではありません。
2.自分が置かれている状況に甘んじて、何もしなくても良いということではありません。(使徒の働き23章16~22節)
  パウロは持っていた情報で自分を守ろうとしました。私たちは神から与えられている武具をもって、自分でできることをして、自分を守らなければなりません。
  神はそれを用いてくださいます。
3.誰も、何も、神のご計画の実現を止めることはできません。(使徒の働き23章23~35節)
  何故でしょうか。
  1)神は全てをコントロールなさるからです。
    神はこの地球上で起こっている全てをコントロールされます。私たちの生活の全ての出来事にも関わってくださり、用いてくださいます。
  2)神は全てを用いて、益をもたらすことができるからです。
    「すべて」は一つ一つの出来事が益となるということではありません。全てを用いて、その中から益となることをもたらすということです。
  3)神は痛み、苦しみを通して、益をもたらすことができるからです。
    「益」とは神との関係における益です。苦しみが私たちを神に近づかせるものであれば益です。逆に、平穏無事で何の問題もない生活が私たちを神から
    引き離すならば、益ではありません。ヤコブの手紙1章17節「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた
    父から下って来るのです。」
最後に、付け加えたいことがあります。益は今の生活、地上の生活に限定されるものではありません。未来においても益をくださいます。ローマ人への手紙8章
30節「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
キリストの再臨に伴なって、究極的な益、永遠の命、永遠の住まいを約束されています。パウロは私たちに勧めています。テサロニケ人への手紙第一5章18節
「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」




2022年8月28日      「戦うクリスチャン(パートⅧ)―祈りながら―」      マクセイ師       エペソ人への手紙6章13~20節

ユダヤ民族はエジプトを出て、約束の地に辿り着くまで、色々な敵と遭遇しました。その一つはアマレクとの戦いです。ヨシュアが先頭に立って、指揮をとり、
モーセは背後で手を揚げて、祈っていました。モーセが手を揚げている間は有利に戦いを進めることができました。しかし、モーセが疲れて、手が下がってくると、
アマレク軍が優勢になりました。モーセは岩の上に座り、その両側で二人がモーセの左右の手を支えました。それによって、勝利を収めることができました。
これは神の民として、戦いに勝利するためには祈りが不可欠であることを教えています。霊の戦いも同じです。
1.どんな祈りをすべきか。
  18節「あらゆる祈りと願いによって」「祈り」と訳された原語は祈り全般を含みます。「願い」は特定の祈りです。私たちは願いだけでなく、主の祈りに
  あるように、あらゆる祈りをしなければなりません。
  1)礼拝の祈り
    「御名があがめられますように」
  2)福音宣教の祈り
    「御国が来ますように」
  3)日常生活への祈り
    「我らの日用の糧が与えられますように」
  4)罪の告白、悔い改めの祈り
    「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦してください。」
  5)清く正しく生きることへの祈り
    「我らを試みにあわせず、悪より救い出してください」
2.どんな時に祈るべきか。
  18節「どんな時にも祈りなさい。」
  四六時中祈りなさいということではありません。常に、神を意識して、神との会話をしなさいということです。会話ですから、心の中で、何時でも、何所でも
  することができます。しかし、神頼みの祈り、最後の手段ではありません。形式的なものでもありません。
3.どんな祈り方で祈るべきか。
  18節で、パウロは祈り方について四点指摘しています。
   1)御霊によって祈りなさい。
    イ.祈りを妨害する罪があるなら、それを告白して、悔い改めて、神に赦していただくことです。
       詩篇66編18節「もしも不義を 私が心のうちに見出すなら 主は聞き入れてくださらない。」
    ロ.神の御言葉に沿った祈りをすることです。
    ハ.聖霊の導き、力に頼って祈ることです。
      特定の人への祈りをしなければならないという思いが生じるのは、多くの場合、聖霊の導きです。
    二.聖霊に助けを求めて祈ることです。
  2)目を覚まして祈りなさい。
    自分の生活、教会生活、兄弟姉妹の生活にサタンが侵入しそうな出来事や状況を察知して、守られますように祈ることです。
  3)すべての聖徒たちのために祈りなさい。
    この手紙を書いている時、ペテロはローマで監禁されています。厳しい状況に置かれています。しかし、彼は自分が釈放されるようにと祈っていません。
    自分の健康が守られるようにと祈っていません。私たちが祈りの課題としがちなことを祈っていません。大胆に福音を語ることができるようにと祈って
    います。
  4)忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
    祈りの結果が見えなくても、祈りを止めないということです。神の力が必要だからです。
私たちも信仰の先輩であるパウロに見習って、祈りながら、大胆に伝道に参画していきたいと思います。




2022年8月21日     「戦うクリスチャン(パートⅦ)―御霊の剣である神の言葉を取って―」       マクセイ師  
                                                       エペソ人への手紙6章13~17節

これまで、霊の戦いで、私たちが身に着けるべき武具、「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の履物」「信仰の盾」「救いのかぶと」について考えてきました。
これらの武具は防衛用でした。今日、取り上げる剣は短剣であり、攻撃、防衛両用の武器です。ローマ兵士はこれを何時も身に着けていました。三つのポイント
で考えたいと思います。
1.御霊の剣の凄さ
  17節「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」
  1)御霊によるものです。
    神の言葉は御霊の導き、監督によって書き留められました。ですから、私たちは聖霊の助けによって神の言葉を深く理解することができます。
  2)聖霊の剣は神の言葉です。
    「言葉」と訳されている原語は「ロゴス」ではなく、「レーマ」です。ロゴスは聖書全体を指しますが、レーマは特定の箇所を指す言葉です。
    聖書の言葉の一つ一つが神の言葉として特別な力があるということです。
2.御霊の剣の使い方
  1)防衛用武器
    神の言葉を的確に使うことによって、サタンの誘惑、策略をかわすことができます。キリストはその模範を残しています。サタンは40日間に渡って
    断食をしていたキリストを三つの誘惑で攻めました。キリストは申命記の言葉を引用して、サタンの誘惑をすべてかわしました。
    私たちもサタンの攻撃を想定して、それをかわす神の言葉を蓄えておくことが大事です。私は朝、起床時に何もしたくないという気持ちになることが
    あります。その時、詩篇118編24節を思い出し、力としています。「これは主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」
  2)攻撃用武器
   私たちが人をキリストに導こうとすること、つまり、福音の種を蒔くことはサタンの領土を侵すことを意味します。サタンが一番嫌うことです。
   ですから、サタンはそれを妨害しようとします。その時に念頭に置くべきことがあります。
   イ.無差別に蒔くことです。
   ロ.惜しみなく蒔くことです。
   ハ.神の言葉に力があることを確信することです。
   ニ.遅かれ早かれ、芽は出ます。良い地は確実にあります。
   ホ.的確に神の言葉を使うことです。
      聖書の言葉であれば、何でも良いということではありません。キリストに関する御言葉を使うことが大事です。
3.御霊の剣を手に取るということはどういうことでしょうか。
  1)神の言葉を良く知ることです。
    イ.聖書全体のテーマを把握することです。
      神はあなたを救うために何をなさったか。これが聖書全体のテーマです。
    ロ.適切に使うことです。
    聖書をより深く理解するために、具体的に何をすべきでしょうか。
    イ.聖書を通読することです。
    ロ.御言葉を暗記することです。
    ハ.思い巡らすことです。
    二.理解できる聖書の訳を手元に置くことです。
  2)神の言葉に力があります。
テモテへの手紙第二3章15~17節「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるため
です。」




2022年8月7日   「戦うクリスチャン(パートⅥ)―救いのかぶとかぶって―」     マクセイ師     エペソ人への手紙6章13~17節

霊の戦いにおいてもヘルメットをかぶることは不可欠です。私たちの敵であるサタンは私たちの頭を狙っているからです。
二つの視点で考えます。
1.救いのかぶとをかぶるとはどういうことでしょうか。
  1)自分の救いを確信することです。
    救いの確信は、自分の良い行いの積み重ねではありません。神の赦しが土台であり、根拠です。
  2)神の罪の赦しは永続的であることを確信することです。
    私たちはバプテスマを受ける時に、罪を赦していただきますが、バプテスマを受けた以降も、罪を犯すことがあります。それでも、犯した罪を悔い改める
    なら、罪が赦されるだけでなく、私たち自身も赦されます。
  3)神が私たちに罪に勝つ力を与えていることを確信することです。
   キリストの救いに与る時の救いは罪に対する刑罰からの救いと罪の力からの救いの二つです。
  4)未来における救いを確信することです。
   テサロニケ人への手紙第一5章8節「私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」
   この救いはキリストの再臨によって完成されるので、現在だけでなく、未来についても約束されています。ですから、パウロは死を恐れていません。
   ピリピ人への手紙1章21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」
2.何故、救いのかぶとをかぶることが重要なのでしょうか。
  1)救いのかぶとをかぶっていないクリスチャンは喜び、平安がありません。失望しやすいです。落ち込みやすいです。
  2)苦しい状況にある時にもめげません。
    何故なら、神が全てを益としてくださることを信じているからです(ローマ人への手紙8章28節)。
  3)力強く、説得力ある証をすることができます。
    ある人が言いました。「信仰をもっているクリスチャンは歩けるけれど、救いを確信しているクリスチャンは走ることができる。」
  4)絶望に陥ることはありません。
    私たちは罪を犯すことがあります。その時、前向きに立ち上がらせるのは神に告白すれば赦されるという恵みです。
  5)未完成ではあるけれど、成長できるということを確信できます。
    ですから、劣等感に陥りません。又、兄弟姉妹を批判することもしません。
  6)死を恐れません。
    ヨハネの手紙第一5章13節「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのこと書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに
    分らせるためです。」
    持っているかも知れないではありません。持っています。完了形です。
テサロニケ人への手紙第一5章8~11節(現代訳)「私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶり、心の準備をしていよう。
神は、私たちを裁きに遭わせようと定めておられるのではなく、私たちの主イエス・キリストによって、救いを得ることができるように定めておられるのである。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが生きる時も死ぬ時も、主と共にあるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、
互いに励まし合いなさい。」




2022年7月31日       「詩篇を味わう」       大坪 篤史 師      詩篇23編1~6節(聖書協会共同訳)

1.はじめに
  「今年こそは良い年になるように」と祈り、始った2022年ですが、災害、疫病、戦争等により、大変厳しい年になっています。
2.詩編について
  詩編はイスラエルの民の賛美、感謝、祈り等を歌にしたものであり、全部で150編が収められています。古いものは、紀元前1600年頃のモーセの時代、
  約半分の70編余りは紀元前1000年頃のダビデ王によるもの、そして、新しいものは紀元前500年頃のバビロン捕囚以降に作られ、紀元前400年代
  にエズラによって現在の形に編集されたようです。
  詩編23編は見出しにある様に、ダビデの作です。ダビデはイスラエルの富農エッサイの第8子として生まれ、小さい頃は羊飼いをしていました。ですから、
  寒暖差が大きいイスラエルの地で、夜通し、狼などの獣から羊の群れを守ることの大変さを熟知していました。四段落から構成されています。
  第一段落は「全ての創造主である絶対的な主が私の羊飼いなのだ。だから、私には不足はない。心配することもない。この世界は美しい緑の野原のような
  ものだ。そこに私は誘われて、ゆっくりと寝そべっている。水場も近くにあり、何時でもそこに行くことができ、魂が生き返るような気持ちになる。その
  絶対なるお方が私を正しい道へと導いてくださるのだ。」
  第二段落は「たとえ、死の危険を伴うような場面に遭っても、何も怖くはない。主が何時でも私と共におられ、私を守り、慰めてくださる。」
  第三段落は「人生には苦しいこともあるけれども、主は私に生きるための糧を備えてくださる。私を祝福し、必要なものを全て満たしてくださる。」
  第四段落は「生きている限り、主の恵みと慈しみが私に与えられている。そして、天に召されてからも主の家に招かれ、そこに永遠に住むことができるのだ。」
  この詩は晩年のダビデが生涯を振り返って、書いたと思われます。ですから、主への絶大なる信頼と感謝、そして、これから辿っていくであろう死への覚悟
  と天国への希望が美しい言葉で紡がれており、人々の共感を得るのだと思われます。又、この詩に音階を付けて、壮大な楽曲として演奏され、歌われたたと
  推察することもできます。
3.感性を大事にしよう
  教育では理性、知性が大事にされますが、「令和」を考案したと言われる国文学者の中西先生は、感性を養うことは人間形成にとって大事なことであり、尊ば
  なくてはならないと訴えておられます。
  詩編は理屈ではなく、感性です。難しい教理を語っているのではありません。神様への信頼や賛美、喜びや慈しみ等の感情が詩人の言葉で美しく語られていま
  す。又、詩編は聖書の中で大変重要な位置を占めています。新約聖書の中に、旧約聖書から引用された箇所は全部で283箇所あるそうですが、その中の4割
  超が詩編から引用されているそうです。それほどまでに、詩編の御言葉は新約の時代になっても重要な意味をもっているのです。イエス様も詩編を数多く引用
  されています。ですから、私たちももっと詩編に親しみ、歌詞を愛唱し、生活の諸場面で活かしていきたいと思います。




2022年7月24日     「戦うクリスチャン(パートⅤ)―信仰の盾をとって―」     マクセイ師     エペソ人への手紙6章10~16節

パウロは若い牧師テモテに勧めました。「信仰の戦いを立派に戦いなさい。」
キリスト信仰は戦いです。私たちクリスチャンは一人一人、キリストの兵士として戦いの中に置かれており、11節「悪魔の策略に対して堅く立つ」ことが求め
られています。これまで、エペソ人への手紙6章から、六つの戦いの武具の内、三つを取り上げてきました。今日は四番目の「信仰の盾」について、三つのポイ
ントで考えたいと思います。
1.信仰の盾の必要性
  1)キリストの兵士が装着することを義務付けられた武具であるからです。
    16節「これらのすべての上に、信仰の武具を取りなさい。」
    命令形です。盾は霊の戦いにおける必要不可欠の武具です。他の武具で置き換えることはできません。
  2)敵の攻撃に効果的な武具であるからです。
    16節「悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」
    成功率100%です。敵であるサタンが用いる火矢とは何でしょうか。
    イ.誘惑という火矢です。
    ロ.告発の矢です。
    これらの攻撃に信仰の盾は不可欠です。
2.信仰の盾の本質
  当時のローマ軍兵士が使っていた盾は高さ1.2m、幅76㎝の頑丈な造りでした。これをクリスチャンが取る盾と考えるならば、一つは信仰です。
  時に応じたサタンの攻撃に素早く信じていることを適用するということです。信仰の対象は生きている創造主の神でなければなりません。
  創世記15章1節では怯えているアブラハムに神は声をかけます。「アブラハムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。」
  又、神は我が盾であるとダビデ王は確信していました。詩篇18編2節「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神 わが盾 わが救い
  の角 わがやぐら」
  箴言30章5節「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」
  信仰とは盾である神を信じることです。信仰には二つの要素があります。
  1)あることを事実として認めることです。
  2)それを信頼するということです。
  神が信仰の盾であるということは、神は盾であるということを事実として認めることです。そして、盾である神に信頼を置くということです。この盾を更に
  大きくするためには、神の言葉をもっと知ることが求められます。
3.信仰の盾の活用
  16節「信仰の盾を取りなさい。」
  自動的に、盾が私たちの武具になっているのではありません。意識的にそれを活用しなければならないということです。具体的に盾を活用するとはどういう
  ことでしょう。
   1)自分が置かれている状況に関わらず、神に絶対的な信頼を置くということです。
    財産、家族、健康を奪われたヨブは言いました。ヨブ記13章15節「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張し
    よう。」
  2)自分の弱さを自覚して、神の力を確信することです。
  3)神の言葉に聞き従うことです。
  4)この戦いは自分一人の戦いではありません。
    兄弟姉妹と力を合わせて戦うことができます。
詩篇18編30節「神の道は完全で、主の御言葉は完ぺきだ。主は、避け所を求めてくる人の盾である。(現代訳)」




2022年7月17日     マクセイ師       「本当の自由」       ヨハネの福音書8章31~39節

自由と言えば、自分のやりたいことをやりたいだけできることだと考えている人が多いと思います。クリスチャンに与えられている自由を三つのポイントで考え
てみたいと思います。
1.本当の自由の源
  31節に本当の自由を手にするために必要なことが二つ記されています。
  1)キリストを信じることです。
  2)キリストの言葉にとどまることです。
    イ.絶対的、永遠の神のメッセージであると確信することです。
    ロ.キリストの言葉を生活の中心に置くことです。
    ハ.継続的に、意図的に、キリストに聞き従うことです。
    ニ.常に、聖書を開き、読み、考える時間を大事にすることです。
    多くの人が真理を求めていますが、たどり着くことができていません。それは間違ったところに真理を求めているからです。本当の自由の源はキリスト
    にあります。キリストの言葉にあります。
2.本当の自由の本質
  私たちはキリストの真理を通して、どのような自由を得るのでしょうか。
  1)霊的な無知からの自由
    私たちはイエス・キリストを通して、神について、罪について、救いについての真理を教えられ、霊的無知から解放されています。
  2)罪の束縛からの自由
    イ.罪を識別できることです。
    ロ.罪を犯すことに抵抗を覚えます。
    ハ. 神が備えて下さった罪からの逃れ道を選ぶことができます。
    ニ.神が与えてくださる罪を犯さない力に頼ることができます。
  3)愛をもって人に仕える自由
    ガラテヤ人への手紙5章13節「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を
    もって互いに仕え合いなさい。」
3.本当の自由の実践
  神はこの自由を神のために、人のために、正しく生かす線路を備えてくださっています。
  1)人につまずきを与えない線路です。
    コリント人への手紙第一8章9節「あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきにならないように気をつけなさい。」
  2)益となることをする線路です。
    聖書に禁じられていないことが沢山あります。これは自分にとって、兄弟姉妹にとって、教会の伝道にとって益になるのか、良き模範となるのか、自分
    に問いかけなければなりません。
  3)神以外の何にも支配されない線路です。
    私たちクリスチャンは神に支配されない線路を走らないようにしなければなりません。
  4)自分の体は聖霊の宮であることを自覚する線路です。
    コリント人への手紙第一6章19~20節「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたもはや
    自分自身のものではありません。」
  5)神の栄光となることを求める線路です。
  6)自制する線路です。
    私たちに与えられている自由はイエス・キリストのために生きる自由です。兄弟姉妹のために生きる自由です。そのためには自制が必要です。
毎週の主の晩餐で、今日の御言葉を思い起こして、感謝していただきたいと思います。32節「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
36節「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」




2022年7月3日    「夏が近づくと」   大坪 篤史 師     マルコの福音書13章28~29節

1.はじめに
  梅雨が明け、本格的な夏到来です。この季節になると、私は昭和24年にNHK「ラジオ歌謡」で放送され、夏を代表する歌「夏の思い出(江間章子
  作詞、中田喜直作曲)」を懐かしく思い出します。
2.夏が近づくと
  当時のイスラエルではいちじくは一般的な果物で、重要な食糧でした。比較的温暖で雨が少ない地中海性気候のこの地方では、植物は雨の降る冬に
  成長し、高温で雨が降らない夏はあらゆる栄養素を実に集め、大きくなります。
  ところで、13章にはイエス様の地上での最後の一週間の出来事が記されています。今日の聖書箇所の記事は十字架に架かる金曜日の三日前(火曜日)
  にエルサレム神殿を訪れた時のことです。イエス様が神殿の境内を出られる時に、「なんとすばらしい建物でしょう。」と発言した弟子の一人に
  「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」と建物の崩壊を預言しています。実際、40年ほど後に、ローマ軍による
  激しい攻撃で神殿は崩れ落ちました。イエス様の預言を聞いたペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子たちは前兆があるのかとイエス様に
  尋ねました。そこで、今日の聖書箇所の話をされたのです。28~29節「いくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、
  夏が近いことが分かります。 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」
  次いで、イエス様は「この世の終わり」について次のように説明しました。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人々を惑わします。また、
  いたる所で戦争、地震、飢饉が起こります。そして、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされます。」
  併せて、イエス様は世の終りは何時起こるか誰にも分からないこと、そのための備えを常にしておかなければならないことを教えられました。
  「まことにあなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。 
  しかし、わたしのことば決して消え去ることがありません。」
  しかし、イエス様の昇天後、時が経てば、弟子たちはイエス様と会った時の記憶、イエス様が語られた言葉を忘れてしまうと思われます。だから、
  毎年、夏が近づいたら、いちじくの木を見て、このことの記憶を新たにして欲しいと教えられたのです。
3.信仰を風化させない
  何事も時の経過とともに人々の記憶は薄れていきます。歴史を見ると、まさにその繰り返しです。鹿児島でも桜島の噴火や地震に備えなければなり
  ません。私たちの信仰も同じような問題を抱えているのではないでしょうか。
「信仰の慣れ」「信仰の風化」が起こることがあります。これらを
  防ぐためには、いちじくの葉ぶりを見て、夏が近いことを気付くように、信仰を見直すきっかけになるようなことを心に留める必要があるのでは
  ないでしょうか。イエス様と共に歩みながら、信仰を深化させていきたいと思います。




2022年6月26日     「私たちはどうしたらよいでしょうか」     大坪篤史師      使徒の働き2章14~37節

1.はじめに
  6月最後の日曜日ですが、間もなく梅雨が明けそうです。マスク着用による熱中症に注意しましょう。
2.聖霊が降る
  教会暦によると、6月第一日曜日は聖霊降臨を記念する「ペンテコステ(五旬祭)」でした。今日の聖書箇所はその時の出来事です。五旬祭は、ユダヤ教
  の三大祭りの一つ、過越祭から50日目、かつてモーセがシナイ山で十戒を受けたことを記念する祭です。又、この年はイエスの十字架と復活があり、
  復活から50日目に当たる日でもありました。その時、聖霊が降りて来られたのです。因みに、天使は私たち人間と同じ神の被造物。聖霊は神様そのもの
  です。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話しだした。」とあります。そこで、ペテロが聖霊に導かれ、
  話し始めました。要点を記します。
  1)聖霊は全ての人に注がれる。
  2)奴隷も例外ではない。
  3)イエスの再臨の時、多くの災いが起こる。しかし、主を救い主として信じる者は救われる。
  そして、イエスについて語りました。
  1)イエスこそ神が遣わされた方である。
  2)そのイエスをあなたがたは十字架につけて殺した。しかし、神はイエスを復活させられた。
  ダビデ王の預言にも触れています。
  1)私はいつも目の前に主を見ていた。だから何があっても動揺しないし、希望を持って生きている。
  2)私が死んでも神は私に命に至る道を示し、私を喜びで満たしてくださる。
  更に、イエスとダビデを対比しながら話を続けます。
  1)ダビデは死んで墓に葬られたが、神はダビデの子孫から生まれるお方を王座に着かせることを計画していた。だから、イエスの復活も計画されたこと
    である。
  2)神は計画どおりイエスを復活させた。私たちはその目撃証人である。
  3)イエスは神の右の座に上げられ、約束された聖霊を父なる神から受けて、注いでくださった。今、それを私たちは見聞きしているのだ。
  ペテロは締めくくります。36節「ですから、イスラエルの全ての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が今や主ともキリ
  ストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
3.私たちはどうしたらよいでしょうか
  これを聞いて人々は大いに心を打たれ、尋ねました。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」
  ペテロは明快に答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そう
  すれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
  その結果、3000人がバプテスマを受けて、信仰の仲間に加わり、「初代教会」と呼ばれる群れが誕生したのです。
  では、今を生きる私たちはどうすればよいのでしょうか。答えは同じです。既に、クリスチャンになっている方も改めてこの言葉をかみしめてください。
  未だ、バプテスマを受けておられない方は、この機会に決断をしてください。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」




2022年6月19日      「父の涙」       大坪 篤史 師      創世記22章1~19節

1.はじめに
  今日は「父の日」です。創世記22章の物語から「父の涙」と題してお話をします。
2.アブラハムへの命令
  今日の聖書箇所は、アブラハムが神様の命令を受け、息子イサクを生贄として献げようとする残酷な話です。そもそも、イサクは神様の特別の計らいにより、
  年老いたアブラハムと妻サラに与えられた奇跡の子供、祝福の子でした。そのイサクを殺害しなければならないアブラハムの苦しみは極限に達していたはず
  です。しかし、「いよいよ」という時、天の御使いの制止の声が聞こえました。何故、アブラハムはこんな厳しい神様の命令に素直に従おうとしたのでしょ
  うか。二つの理由を聖書に見ることができます。
  1)創世記17章19節「あなたの妻サラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫の ための永遠の
    契約とする。」アブラハムには、イサクは何時までも神に祝福されるという確信がありました。
  2)へブル人への手紙11章19節「アブラハムは、神が人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。」たとえ、イサクを殺されなければ
    ならないとしても、神が生き返らせてくださるという確信がありました。
3.父の涙
  何故、神様はアブラハムにこんな過酷な命令を下されたのでしょうか。このことについて、色々な解釈がなされてきました。代表的な解釈は、聖書にある通り、
  神がアブラハムの信仰を試そうとされたということです。私はもう一つの解釈を大阪聖書学院で学びました。この物語はイエスの十字架を暗示しているという
  解釈です。「愛する独り子、献げもの、3日目になって、薪を背負わせ」という言葉はイエスの十字架を連想させます。舞台のモリヤの山はその後ソロモンが
  神殿を建てた場所であり、イエスが十字架に付けられた丘ではないかとも言われています。そして、神ご自身が愛する独り子を殺さなければならないという
  深い悩み、苦しみ、「父の涙」を最も信頼するアブラハムに分からせようとしたのではないかというのです。理不尽で強権的とも思えるアブラハムへの神の
  命令が心情的にも十分に納得できますし、絶対的な神様にも深い悩み、苦しみがあるのだと分かり、神様への親愛の情も一層増します。「アバ父よ」とイエス
  が呼ばれた父なる神が、決して遠い存在ではなく、私の父、私たちの父でもあるのだと真に実感できると思うのです。
  クリスチャンであるフォーク歌手本田路津子さんのCDに納められた「父の涙」の歌詞です。
   「1.心にせまる 父の悲しみ 愛するひとり子を 十字架につけた  人の罪は 燃える火のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく
      十字架から あふれ流れる泉 それは父の涙  十字架から あふれ流れる泉 それはイエスの愛
   2.父が静かに 見つめていたのは 愛するひとり子の 傷ついた姿 人の罪を その身に背負い 父よ彼らを 赦してほしいと
     十字架から あふれ流れる泉 それは父の涙 十字架から あふれ流れる泉 それはイエスの愛」
父の日、それぞれの父親と共に、創造主である父なる神に心からの感謝を献げる一日を過ごしたいと思います。




2022年6月5日     「戦うクリスチャン(パートⅣ)―平和の福音を履物として―」   マクセイ師    エペソ人への手紙6章13~15節

今日の聖書箇所にリストアップされている霊の戦いに不可欠な武具を順次取り上げています。今日は、三番目の平和の福音の履物です。
ローマ帝国の兵士は、長期間の戦闘に対応するために、底外面に小さな鉄製のスパイクがはめ込まれた、頑丈な革製の半長靴を着用していました。私たちの強敵
であるサタンは私たちの足を狙って、攻撃してきます。15節「足には平和の福音の備えを履きなさい。」キーワードは「備え」です。準備しておきなさいと
いうことです。堅く立って、勝利するためには、丈夫な靴を履くことが不可欠です。二つのポイントに分けて考えたいと思います。
1.霊の戦いと平和
   霊の戦いにおいて、私たちクリスチャンは神の言葉と神を土台とした平和、平安をもっていなければ、戦いに集中できないし、勝利する ことはできません。
   自分の信仰の領土を守ることができません。
2.霊的な戦いと神の平和
  神との平和には二つの要素があります。
  1)神との平和
    ローマ人への手紙5章1節「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
    私たちはキリストの血によって、身代わりの死によって、神の怒りから救われています。そして、義とされています。義とされることには二つの意味が
    あります。
    イ.罪が完全に赦されて、神の前で罪のない者とされます。
    ロ.神の家族に迎え入れられます。
    これが神との平和の本質です。平和の靴を履くということはこれを確信することです。神との平和を確信できない人は狡猾なサタンとの戦いに立ち向か
    うことはできません。
  2)神の平和(コロサイ人への手紙3章15節)
    全てのクリスチャンが神との平和を持っていますが、神の平和を確信できないクリスチャンが多いように思います。神が和解したと仰っているのに、疑い、
    恐れ、不安等と戦い続けているのです。神との平和はもっているけれど、神の平和をもっていないのです。
    このようなクリスチャンはサタンに対抗できません。この平和が私たちを支配するためには何をしたらよいのでしょうか。その答えはピリピ人への手紙4
    章4~9節にあります。
    イ.何時も喜ぶことです。
    ロ.何時も祈ることです。
    ハ.心と思いを清く保つことです。
    ニ.何時も感謝することです。
    ホ.なすべきことを実践することです。 
    平和、平安は神と共に歩む結果です。完璧におこなうことはできないでしょうが、それに向けて努めることが大事です。
自分の霊的状態を確認するために自問自答していただきたいと思います。「今、私は霊の戦いのためにちゃんとした平和の靴を身に着けているか。」「平和の靴
を履くために、神と平和であることを確信しているか。」「その靴を履くために、私は神の平安に満たされているか。」「満たされるために祈っているか。」
「心を清く保とうとしているか。」「実践すべきことを実践しているか。」「満たされていることに感謝しているか。」
神の平和が私たちの心、思い、感情を支配する時、私たちはどんな時でも、どんな場合でも(テサロニケ人への手紙第二3章16節)、霊的戦いに果敢に挑むこと
ができますし、勝利することができます。




2022年5月22日     「戦うクリスチャン(パートⅢ)―正義の胸当てを着けて―     マクセイ師
                                        エペソ人への手紙6章10~14節、ピリピ人への手紙3章7~9節

戦いで身を守るためには、武具が必要です。前回のメッセージでは真理の帯について考えました。今日は正義の胸当てについて考えます。
1.何故、胸当てが必要なのでしょうか。
  胸当ては心臓、内臓を守ります。
  1)私たちの思い、考え方を守ります。
    当時のユダヤ人たちにとって、心臓は心であり、思い、考えでした。考え方、捉え方を守らなければ、霊の戦いに勝つことはできません。
    何故なら、サタンは私たちの思いの中に、偽りや捻じ曲げた真理等を流し込もうとするからです。
  2)私たちの感情を守るためです。
    当時のユダヤ人たちにとって、内臓は感情、喜怒哀楽を象徴しました。サタンは私たちを感情的に揺さぶり、信仰を疑わせます。神への信頼を疑わせ
    ます。ですから、正しい考え方が汚染されないように、感情が悪い刺激を受けて、悪い方にいかないように武具が必要です。
2.どんな胸当てが必要なのでしょうか。
  私たちを告発するサタンの攻撃から守るためには正義の胸当てが必要です。聖書には三つの義があります。
  1)自分の義
    多くの人は自分の正しさ、良い行いを正義だと思っていますが、そうではありませんし、正義の胸当てを着けていることにはなりません。
    ローマ人への手紙3章10節「義人はいない。一人もいない。」同12節「善を行う者はいない。だれ一人いない。」同20節「人はだれも、律法を
    行うことによっては神の前に義と認められない。」
  2)転嫁された義
    キリストの義が私たちに転嫁された義です。神様がキリストの義を私たちの義として認めてくださるということです。私たちは清さ、正しさはもって
    いないのですが、キリストを信じ、バプテスマに与った時に、正義の胸当てを着けた者、キリストの清さ、正しさをもった者として認めてくださるの
    です。従って、誰も私たちを訴えることができません。これがここで言う正義です。
    義とされることについて、もう一つ大事なことがあります。誰も私たちを告発できないのは、私たちをとりなしてくださるイエス・キリストがおられる
    からです。正義の胸当てを着ける、キリストの義を身に着けるとはキリストにある救いを確信するということです。残念ながら、キリストにある救い
    を確信していないクリスチャンが多すぎます。
  3)実際的義
    キリストの義を転嫁された者に求められるのは実際的義です。つまり、神の前に義とされている私たちはそれに相応しく生 きて行くことが求められて
    います。コリント人への手紙第一15章34節「目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」
    この肉体に宿っている限り、完璧な生活、絶対に過ちを犯さない生活は不可能ですが、常に、キリストらしく生活すること を目標にするのが実際的義
    です。
エペソ人への手紙5章8~9節「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子供として歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実
のうちに、光は実を結ぶのです。」
キリストから転嫁された義を正義の胸当てとして、力として、平安、希望をもって神の前に正しく歩んでいきましょう。




2022年5月15日      「戦うクリスチャン(パートⅡ)―真理をもって―」      マクセイ師
                                       エペソ人への手紙6章11~14節、テモテへの手紙第二4章1~5節

今、私たちはキリストの兵士として霊的戦いの只中に立たされています。
前回のメッセージで、私たちの任務はキリストにあって、堅く立ち、敵の存在を認め、備えることだと話しました。
今日から何回かに分けて、この戦いに必要な武具について考えたいと思います。今日は、真理という武具について考えます。14節「腰には真理の帯を締めなさ
い。」
三つのことが含まれると思います。
1.真理を知らなければなりません。
  真理について、私たちが知っておくべきことを挙げましょう。
  1)真理の源は神です。
    神は唯一の、真の神であり、偽ることはなさいません。
  2)真理はイエス・キリストによって私たちに具体的に、物理的に、客観的に示されました。
    キリストは言いました。ヨハネの福音書14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
    それを裏付ける証拠はキリストの生き方、言葉、奇跡、そして、何よりもキリストの復活です。キリストは自分の使命を次のように説明しています。
    ヨハネの福音書18章37節「わたしは、真理について証するために生まれ、そのために世に来ました。」
  3)真理は書き留められた形で私たちに与えられています。聖書です。
    聖書は神の真理が書き留められた書です。神が私たちに知って欲しい真理をまとめておきましょう。
    イ.神は存在しています。
    ロ.神は創造者です。
    ハ.私たちは神によって創造された神の最高の作品です。
    ニ.神は私たち一人一人を愛しておられます。
    ホ.神は私たちに最善を望んでおられます。
    ヘ.私たちは神によって生かされています。
    ト.イエス・キリストは身代わりの死と復活を通して、私たちが神の家族に加えられる道を備えて下さいました。
    チ.神は全ての人の救いを望んでおられます。
    リ.神は私たちが隣人を愛し、神を愛し、善をもって悪に打ち勝つことを望んでおられます。
  4)絶対的、普遍的な真理です。
2.真理を信じなければなりません。
  絶対的な真理であると信じることができる根拠はキリストの聖書に対する証言です。これに尽きます。何故、真理を信じることが大事なのでしょうか。
  1)私たちは救われるからです。
    ペテロの手紙第一1章23節「あなたがたが新しく生まれたのは、・・・・、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」
  2)サタンの攻撃に気付き、対抗することができるからです。
3.真理をもって戦わなければなりません。
  1)真理を実践することです。
    イ.生活から偽りを切り捨てることです。
    ロ.偽りに耳を傾けないことです。
    ハ.神に、人に、正直に生きることです。
    二.神の言葉を日常生活の指針、基準とすることです。
  2)真理を分かち合うことです。
    神が一番に望んでいることは全ての人が神の真理を知ることです。
  3)真理を守ることです。
    真理は歴史的事実であるキリストの復活の上に立っていますから、サタンのあらゆる策略を封じなければなりません。
テモテへの手紙第二3章15節「聖書(神の真理)はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」




2022年5月8日      「舟の右側に」       大坪篤史師        ヨハネの福音書21章1~14節
 
私たちは疫病、戦争、災害に厳しい備えを求められる時代になりました。
今日の舞台は多くの弟子たちの故郷であり、イエスが伝道活動を始められたガリラヤです。ペテロたちは漁をしていましたが、その夜は何にも獲れませんでした。
夜明け頃、イエスが岸に立って言われました。「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすればとれます。」彼らはそれがイエスだと分かりませんでしたが、素直に
従いました。すると、おびただしい数の魚が獲れたのです。その時、一人の弟子が「主」と気づきました。復活したイエスとの三度目の再会です。因みに、魚の
ギリシャ語は「イエス・キリスト・神の子・救い主」という言葉の頭文字で構成されています。
「舟の右側に網を下ろしなさい。」これは3年前、イエスが最初に彼らに発せられた言葉「私について来なさい。人間と獲る漁師にしよう。」に由来しています。
その命令が成就する方策を指し示されたのです。右側は神の領域を表しています。右側は天に昇ったイエスが座っている場所であり、最後の審判の時に救われる
者たちが集められる場所です。私たちが右側である神の領域で、神の指し示す方法で、教会活動、伝道活動を行わなければ、魚、つまり人間は獲れないのだという
ことです。神様の御心を思い、祈り、その応答の下で行わなければ、人間を獲ることはできないのです。
そして、大事なのはその御意思に素直に従うことです。ペテロたちは従順に従ったのです。そのことが大漁という大きな成果をもたらしました。「153匹もの
大きな魚でいっぱいであった」とヨハネは記していますが、153匹は当時の魚の全種類であったと解釈されています。全世界に行って全ての造られたものに
福音を宣べ伝えこと、イエスの弟子にすること、「こうすればその二つの命令は成就する。」と示しているのです。
更に、漁の仕方についても注目する必要があります。彼らが行ったのは皆で協力して行う「網打ち」でした。教会活動、伝道活動は皆で協力して行うのが大切だ
ということです。しかも、そうすればどんなに大漁でも網は破れることはありませんでした。ここにも教会活動の重要なポイントが示されています。
最後に、復活されたイエスについて、勘違いしてはならない大切なことがあります。それは、主は単に元の肉体で復活されたのではなく、変幻自在に場所、姿を
変えて何度も顕れられました。
マタイによる福音書25章31節「すべての民族を裁く」という御言葉の中に、弱い者、貧しい者の中に「ご自身が存在する」と教えておられます。「小さな者
の一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのである。」右側にいる者には永遠の命が与えられ、反対の態度を取った左側の者は永遠の罰を受けるのだと
はっきりと語っておられるのです。まさに「神の臨在」です。復活された主は、天において父なる神の右に座したもう中で、この地上にもさまざまな形でアプロ
ーチされているのです。ですから、どんなに悲しいこと、不条理なことがあっても、私たちは希望を持ち、祈り続けることができるのです。




2022年5月1日      「戦うクリスチャン(パートⅠ)―堅く立つことによって―」      マクセイ師
                                      エペソ人への手紙6章10~13節、テモテへの手紙第一6章12節

英国のJ.C.ライル牧師は言いました。「本当のキリスト信仰は戦いである。本当のクリスチャンは兵士として召され、それらしく死ぬまで行動すべきです。」
私たちはクリスチャンとして、キリストの兵士として、三つの戦いがあります。
1)肉との戦い
  罪を犯す傾向を持ち続けている自分の自己中心的な思い、欲望との戦いの中に置かれています。
2)この世との戦い
3)悪魔との戦い
そのために、心掛けなければならないのはキリスト信仰に堅く立つことです。「堅く立つこと」について、二つのポイントで考えたいと思います。
1.主にあって堅く立つこと(10~11節)
  私たちは戦うクリスチャンとして、主にあって堅く立たなければなりません。そのために、私たちは力の源であるキリストと結ばれることが必要です。
  キリストを着ることが必要です。キリストを着るとはキリストの力が私たちの力になるということです。キリストの命が私たちの命になるということ
  です。キリストの真理が私たちの真理になるということです。そのために、自分の弱さ、限界を認めることが大事です。ヨハネの福音書15章5節
  「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。・・・・・。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないのです。」
2.敵に対して堅く立つこと(11~13節)
  11節「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」
  敵に対して堅く立つとは敵の存在を認めることです。私たちはクリスチャンとして悪魔の存在を認めなければなりません。それなくして、サタンに対し
  て堅く立つことはできません。その上で、サタンに対して堅く立つためにはサタンの基本的なことを理解しておかなければなりません。
  1)力強い存在です。
  2)邪悪な存在です。
    サタンはあらゆる戦略を用いて、戦いを仕掛けてきます。
    イ)時を見計らいます。
    ロ)クリスチャン間の亀裂を見逃しません。
    ハ)色々な手段を駆使して攻撃します。
11節「神のすべての武具を身に着けなさい。」13節「神のすべての武具を取りなさい。」これは命令です。「武具」とは「真理の帯」「正義の胸当て」
「平和の福音」の靴、「信仰の盾」「救いのかぶと」「御霊の剣」です。この命令は次のことを意味します。
1)私たちはキリストの兵士として招集されました。
2)この武具によってのみ私たちは守られます。
この武具なしで、堅く立つことはできません。私たちはクリスチャンとして、キリストと結ばれています。キリストを身に着けています。ですから、私たちは
武具を身に着けています。それによって守られます。 私たちは意識していないかも知れませんが、霊の戦いの只中にいます。悪魔、その部下とキリスト、キ
リスト教会との戦いです。これは目に見えない戦いです。信仰による戦いです。この戦いは私たちの力では対応できません。イエス・キリストが後方支援を担
ってくださいます。イエス・キリストに繋がり続けることが戦いの勝利の秘訣です。ヤコブの手紙4章7節「神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪
魔はあなたがたから逃げ去ります。」




2022年4月24日     「励ますクリスチャン」     マクセイ師    へブル人への手紙3章12~13節

創造者である私たちの神は誰よりも私たちが励ましを必要としていることを分かっておられます。ですから、色々な形で、私たちを励ましてくださいますし、
私たちは神の子供として、励ますクリスチャンにならなければなりません。二つのポイントに分けて、励ますことについて考えてみたい
と思います。
1.励ますことの重要性
  私たちは個人として、そして、教会として励ましを必要としています。ですから、私たちは互いに励まし合うことによって教会の一致、健康を保って
  いくことができます。最終的には、励ましは神からいただくものであって、その祝福、恵みに与ることにおいて、私たちはクリスチャンとして教会の
  一致、教会の健康、教会の働きに大きく用いられていきます。神からの励ましは御言葉、祈り、礼拝、兄弟姉妹を通してきます。
   使徒パウロは励ます手段として自分の同労者を用いました。
2.励ましの実践
  「励ます」と訳されているギリシャ語は「なぐさめる」「助言する」「勧める」とも訳すことができ、相手に新たな希望、勇気、力を与えるという意味
  を含んでいます。言うまでもないことですが、クリスチャンの励ましの基にあるのは神の力、ご臨在、約束です。具体的な励まし方を見ていきましょう。
  1)共にいることによって励ますことができます。
    へブル人への手紙10章25節「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」
  2)良き模範を通して励ますことができます。
  3)言葉をもって励ますことができます。
    箴言10章20~21節「正しい人の舌は選り抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。正しい人の唇は多くの人を養い、愚か者は良識がないため
    に死ぬ。」
    具体的にどんな言葉でしょうか。
    イ.感謝の言葉
    ロ.誉め言葉
    ハ.肯定する言葉
    ニ.同情する言葉
    ホ.恐れと不安を緩和する言葉
  4)行動によって励ますことができます。
  5)相手の助けを求めることによって励ますことができます。
    助けを求めることによって、自尊心を高めることができるからです。自分にできることがあるのだという肯定感をもつことができるからです。
  6)自分の励みになった御言葉を分かち合うことによって励ますことができます。
  7)良き聞き手になることによって励ますことができます。
  8)相手のために祈ることによって励ますことができます。
  9)神から目を離さないように勧めることによって励ますことができます。
  10)次の二つの神の約束を忘れないようにさせることによって励ますことができます。
    イ.最終的に、神は全てを益としてくださいます。
    ロ.神は全ての約束を成就させる力をもっておられます。
  11)今、することです。先延ばしにしないことです。
私たちクリスチャンには励ます責任が与えられています。何故なら、私たちの神は励ます神であるからです。私たちはその神に倣って、励ます人にならなけれ
ばなりません。励ましの神は私たちに約束しています。イザヤ書40章31節「主を待ち望む者は新しく力を得、・・・・。走っても力衰えず、歩いても疲れ
ない。」




2022年4月17日   「不可欠であるキリストの復活」   マクセイ師    コリント人への手紙第一15章1~19節

キリスト信仰は歴史に基づく信仰です。そして、神の最大の働きはキリストの復活です。何故、キリスト信仰に復活は不可欠なのでしょうか。今日の聖書箇所
等から探ります。
1.キリストの復活は真実であるからです。(1~11節)
  真実である根拠は次の通りです。
  1)預言されていました。(4節)
     「聖書に書いてあるとおり三日目によみがえられました。」
    多くの預言者によって予告されていました。神話伝説ではありません。歴史的事実です。
  2)目撃者の証言があります。(5~8節)
    パウロはキリストの復活を目撃した人たちをリスト・アップしています。注目したいのは証人の数です。6節「キリストは五百人以上の兄弟たちに
    同時に現れました。」
  3)キリストの復活によって変えられた人たちがいました。(9~11節)
    パウロは自分を実例として挙げています。9~10節「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに
    値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべて
    の使徒たちよりも多く働きました。」
    パウロだけでなく、キリストの弟子たちにも変化が起こりました。
2.復活抜きのキリスト信仰は無意味であるからです。
   「私たちの罪のために死なれたこと」「三日目によみがえられたこと」「ケファに現れ、それから十二弟子に現われたこと」これらが福音の本質です。
   これらをカットすればどうなるのでしょうか。
  1)福音は無意味になります。
    14節「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」
    キリスト信仰と他の宗教を区別するのはキリストの復活です。私たちの信仰は復活信仰です。
  2)福音を信じることも無意味になります。
    14節「あなたがたの信仰もむなしいものになってしまうだろう。」17節「あなたがたの信仰は盲信になってしまう。」
    私たちと神の関係を妨げるのは私たちの罪です。それが解決されない限り、私たちと神との和解はありません。神の家族になることは
    できません。永遠の命もありません。キリストの復活の結果、私たちは悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、神の前に清い、罪
    のない者として立つことができます。
  3)死後の命の希望も無意味になります。
    17~18節「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。 そうだと
    したら。キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。」
55~58節「『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に
感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かさ
れることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですか
ら。」




2022年4月3日         「励ます神」         マクセイ師         使徒の働き23章11節

ローマ人への手紙15章5節「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいます
ように。」使徒の働き23章11節「主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマ
でも証しをしなければならない』と言われた。」
神がパウロに与えた励ましを通して、励ます神についての三つの大事なことを学ぶことができます。
1.励ます神は何時も私たちと共におられます。
  それは次のことを意味します。
  1)励ます神は私たちが何所にいるのか、何を必要としているのかをご存知です。
  2)私たちに寄り添ってくださいます。
    キリストは弟子たちへの最後の言葉で次のように約束しました。マタイの福音書28章20節「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと
    ともにいます。」
    寄り添うとは、具体的にどのように実現するのでしょうか。
    イ.御言葉を通してです。
      イザヤ書41章10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなた
      を助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
    ロ.兄弟姉妹の励ましの言葉、行動を通してです。
      へブル人への手紙3章13節「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさ
      い。」
  3)私たちの内面的な苦しみも理解しておられます。
    キリストは三十数年間の地上の生活で私たちのあらゆる苦しみを体験されて来られたからこそ、私たちの内面的な苦しみや不安を理解し、
    適切な励ましを与えることができるのです。
  4)私たちを優しく戒めてくださいます。
    11節「勇気を出しなさい。」は励ましの言葉であると共に戒めの言葉でもあります。
2.励ます神は私たちを忘れません。
  パウロのエルサレムでの街宣は思い通りにいきませんでした。しかし、神はそれを見てくださっていました。ということは、私たちの証人として
  の働きを世間の成功、不成功の基準で判断してはいけないということです。私たちに求められるのは忠実に、時が良くても悪くても、奉仕し続
  けていくことです。そして、その結果を神に委ねることです。神は大きなご計画の中でそれを用いてくださいます。私たちはこれを確信して、働
  き続けていかなければなりません。
3.励ます神は私たちを切り捨てません。
  11節「『ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」
  パウロは独房の中で、半殺しにされたことによる肉体の痛みと戦いながら、絶望の思いが頭をよぎったのではないでしょうか。しかし、神は言
  われました。「ローマでも証しをしなければならない」パウロの任務を明示されたのです。「しなければならない」は、私のための任務を果たす
  まで、あなたは死にませんという意味が込められています。
神は私たちクリスチャン一人一人を必要な証人、奉仕者として召しています。神のパウロへの言葉を私たちへの励ましの言葉として受け入れて、
神の働きに参画していきたいと思います。




2022年3月27日   「時が良くても悪くても」    マクセイ師    テモテへの手紙第二4章2節、使徒の働き22章17節~23章11節

テモテへの手第二4章2節「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
この言葉は若い牧者テモテへの単なる激励ではありません。パウロがキリストを証する者として20年間に渡って実践してきたことです。キリストの証人と
して求められることについて考えたいと思います。
1.私たちはクリスチャンとして何を語るべきか。(22章17節~22節)
  1)神について語らなければなりません。(22章17~18節)
    17節で、パウロは間接的ながら、神について触れています。
    イ.神は存在しており、神の言葉を通して、私たちは救われ、意味のある人生、目的のある人生が与えられます。
    ロ.語りかける神です。
  2)罪について語らなければなりません。(22章19~20節)
    エルサレムから離れることを勧められたパウロはクリスチャンになる前の自分の罪に触れています。あらゆる角度から罪について触れることが求め
    られます。
  3)神の恵みについて語らなければなりません。(22章19~21節)
    神は暗い過去をもっていたパウロを異邦人に遣わすと仰いました。パウロが受けるべき裁きの代わりに赦しを与えたのです。新しい人生を与えたの
    です。再出発の時を与えたのです。それはイエス・キリストに対するパウロの信仰がもたらした恵みです。神の恵みとはイエス・キリストの身代わ
    りの死と復活による罪の赦し、神との和解、永遠のいのちです。
2.私たちはクリスチャンとして如何に語るべきか。(22章21節~23章11節)
  1)あらゆる時を用いて証することです。
    チャンスを見逃さないころです。先送りしないことです。
  2)証を裏付ける生き方に努めることです。
    使徒の働き23章1節「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」
    パウロは清い良心を保つことに努めました。私たちの生き方と口から出る言葉が一致していなければ、聞く人にインパクトを与えることはできませ
    ん。偽善者と見られます。
  3)素早く過ちを認めることです。(23章2~3節)
    私たちが証することによって、相手を躓かせる、傷付けることがあった場合は、それを認めて、詫びる、赦しを求めなければなりません。それを怠
    ると、証はストップしてしまいます。次のチャンスもなくなってしまいます。
  4)諦めないことです。(23章6~11節)
    パウロは状況に応じて、切り込み方を変えて、証を続けました。場合によったら、作戦の変更も大事です。
時が良くても悪くても、私たちが実践していかなければならない大事な任務は神の恵みによる福音の証、救いの証です。それによって得られる恵みの実例を
23章11節に見ることができます。「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、
ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」
更に、大きな舞台で、多くの人たちの前で、神の証人としての任務を果たすことを求められました。私たちにも更に大きなチャンスが与えられるxと思います。




2022年3月20日   「明日のことを考える時」    マクセイ師     ヤコブの手紙4章13~17節

誰でも明日のことが気になります。「どのような姿勢、思いで向かうべきか。」今日の聖書箇所にその答えが見えてきます。
1.神を忘れないことです。
  13節「『今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう』と言っている者たち、よく聞きなさい。」計画を立てることに
  問題はありません。聖書は計画を立てることを勧めています。箴言21章5節「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべて慌てる者は損失を招くだけだ。」
  15節「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』というべきです。」計画を立てる
  においては、積極的に、意図的に、神の導きを求めるべきです。計画を成功に導くのは神がなさることだからです。そのために、祈ることが大事です。
  コリント人への手紙第一10章31節には神の御心の柱が示されています。「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
  箴言16章9節「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」
2.高ぶらないことです。
  16節(現代訳)「ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高ぶりはすべて悪である。」
  計画を立てている人たちには神しか分からない将来のことが分かっているかのような高ぶった態度が見えます。これは次の二つの理由であってはならない
  ことです。
  1)私たち人間には明日のことが分からないからです。
    箴言27章1節「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。」
  2)私たちの人生は短いからです。
    14節「あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」
3.今、すべきことを明日に延ばさないことです。
  17節「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」
  箴言3章27~28節「あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。あなたに物があるとき、隣人に向かって、『帰って、
  また来なさい。明日あげよう』とい言うな。」
  そもそも、人間が生きる目的は三つしかありません。
  1)自分のために物を集める。財産、地位、権力のために人生を使う。
  2)自分の欲望を満たすために人生を無駄にする。
  3)残るもののために人生を投資する。これがクリスチャンの人生の目的です。残るものとは神の言葉、人間の魂です。
  今という時に、私たちはもっと神の御言葉を学び、吸収し、人間の魂の永遠の救いのために福音のメッセージを伝えていかなければなりません。つまり、
  神から与えられた私たちの命、エネルギー、才能を神に喜ばれる、神に栄光を現すことに投資することが求められます。
明日のことを考えることは悪いことではありません。その計画の中に神を置くとことが大事です。御言葉によって、計画が神の御心に適っているか確認すること
ができます。今、すべき神のための投資を明日に延ばさないようにしましょう。
詩篇37編5節「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」




2022年3月6日    「創造者である神(パートⅣ)―礼拝と律法と創造者である神―      マクセイ師
                                             ヨハネの黙示録4章11節、ヤコブの手紙4章12節

三回に渡って、創造者である神について学んできました。前回のメッセージで、創造する神を正しく認識することによって、自然界、被造物を正確に捉える
ことができることを学びました。全ての人は平等であって、人種、国籍に関係なく、神の前において尊い、価値ある存在です。今日は、創造者である神と
礼拝と律法との関係について考えてみたいと思います。
1.礼拝と創造者

  ヨハネの黙示録4章11節「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころにゆえ
  に、それらは存在し、また創造されたのです。」
  創造者である神だから、私たちの礼拝を受けるに相応しい方です。その神が私たちに求めていることは神をあがめること、神に感謝することです(ローマ人
  への手紙1章21~23節)。これが礼拝の本質です。神以外のものを礼拝の対象とすること、偶像礼拝は神が最も嫌うことです。出エジプト記20章3
  ~5節「わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、
  地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたし
  は、ねたみの神。」
  私たちの日曜礼拝で最も神との関係で大事にしたいのは献金です。何故なら、神が創造したものは神の所有物であるからです(歴代誌第一29章14、
  16節)。これが献金の出発点です。献金は立派な礼拝行為です。これを認めないことは傲慢です。賽銭、お返し、神との取引ではないのです。私たちの
  信仰、信頼、感謝の具体的表現です。
2.律法と創造者
  ヤコブの手紙4章12節「律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。」
  ある神学者の指摘です。「罪が存在するためには律法が必要です。律法が存在するためには創造者の神が必要です。」
  又、文豪ドストエフスキーは言いました。「神がいなければ何でも許される。」
  律法は二種類に分けることができます。一つは神の道徳律です。不変、絶対的です。私たちは神の律法を順守しなければなりません。代表的なものが十戒
  の道徳律です。もう一つは実定法、人間が社会の秩序、安全を保つために定めた法律です。状況に応じて変化します。
  詩篇119編には神が与えた律法に対して、私たちが持つべき姿勢、態度が記されています。4~5節「あなたは戒めを仰せつけられました。それらを堅く
  守るように。どうか、私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。」同12節「主よ あなたはほむべき方、あなたのおきてを私に教えて
  ください。」同15~16節「私は あなたの戒めに思いを潜め あなたの道に私の目を留めます。私は あなたのおきてを喜びとし あなたのみことばを
  忘れません。」同104~106節「私にはあなたの戒めがあり 見極めができます。それゆえ 私は偽りの道をことごとく憎みます。あなたのみことばは
  私の足のともしび 私の道の光です。私は誓い、また それを果します。あなたの義の定めを守ることを。」




2022年2月27日   「創造者である神(パートⅢ)―創造する神の重要性―」       マクセイ師
                                             創世記1章1~2節、31節、ネヘミヤ書9章6節

ロシアの軍事侵攻に曝されているウクライナ国民のために祈りましょう。
二回に渡って、創造者である神について学んできました。最初のメッセージでは、神は始まりのない創造者であること、ご自分の自由意志によって、ご自分の
栄光のために、全てを創造したことを学びました。そして、前回は、無から順序正しく、言葉をもって、全てを創造したことを学びました。今日は神と自然界、
人間について、二つのポイントで考えたいと思います。
1.神が創造者であることは自然界について三つのことを教えています。
  1)良いものです。
    テモテへの手紙第一4章4節「神が造られたものはすべて良いものです。」
    もし、悪があるとすれば、それは間違ったことのために利用されていることになります。又、後に、神は人間の罪によって悪い目的のために用いられた
    この世界を新しく作り替えます。
  2)有限です。
    絶対的、超自然的なものではありません。そして、今も神によって保たれています。しかし、その中に神はいません。ですから、自然界を偶像化しては
    いけません。
  3)合理性、規則性、信頼性があります。
    神が順序正しく、計画的に、論理的に創造したからです。それは今も続いています。この正しい認識が近代科学を生み出しました。
2.創造する神であることは人間を正しく理解する、捉えることにおいて重要です。
  私たちにとって、創造者である神が意味することは次の四点です。
  1)私たちは全体として創造された者です。
    人間は天使と違って肉体をもっています。動物と違って魂をもっています。
  2)私たちは自然界と同じように、良いものとして創造されています。
    創世記1章31節「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」
  3)私たちは有限です。
    私たちは神によって創造され、支えられていますが、時間的に、場所的に限界があります。但し、後のキリストの再臨と共に、永遠に生きる、新しい体に
    造り替えられます。
  4)私たちの人生には意味、目的があります。
    私たちは神の究極的な作品ですから、次の資質が与えられています。
    イ.知的能力
    ロ.自由意志
    ハ.良心
    ニ.創造力
    ホ.感情
    へ.信仰心
   神のかたちに創造されたことは次のことを意味します。
   イ.神と関係をもつことができます。
   ロ.神が創造されたものを楽しむことができます。
     私たちが造られた目的は二つあります。
     イ)神の栄光を表すためです。
     ロ)神が創造された良いものに与って感謝するためです。
   ハ.私たち人間はユニークな存在です。よって、人の尊厳を大事にしなければなりません。
   ニ.神は全ての人を愛しておられます。
   ホ.健全な自尊心の土台です。
   ヘ.伝道の基本的な動機付けです。
   ト.神からのメッセージを受け留め、理解し、神に近づき、神と交わることができます。
創世記2章7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
最後に強調したいことは、私たちを形造るという神の働きは今も続いているということです。神に全てを委ねましょう。




2022年2月20日    「創造者である神(パートⅡ)―すべてを創造した神―    マクセイ師      創世記1章1~28、31節

「私たちは何処から来たのか。」「何故、ここにいるのか。」人間の普遍的な疑問に対する最も確かな答えが創世記1章にあります。
先月の23日、「創造者である神」という題で創世記1章1節に目を向けました。今日は1章から、全てを創造した神について三つの大事なことを学びたいと思い
ます。
1.全てを無から創造しました。
  何らかの存在があって、それをもって創造したということではなく、永遠から存在した神ご自身がご自分の意思、力をもって、全てを創造したということです。
  創造されていないのは神だけです。
  詩篇90編2節「山々が生まれる前から 地と世界を あなたが生み出す前から とこしえからとこしえまで あなたは神です。」
  創世記1章は神の力の無限性、神に不可能はないということを教えています。ですから、神は私たちの日々の必要を満たすことができます。この神に全面的な
  信頼を置くことができます。
2.全てを順序正しく創造されました。
  この創造の記録は科学的ではありませんが、科学的に順序正しいです。1章2~19節は生物が生存するための環境の整備記録です。これは偶然の結果ではあり
  ません。神は私たちの生活の中にも同じことをなしてくださいます。ですから、神は混乱した状況の中にあっても、落ち着いて、正しい優先順位をもって、行動
  することを私たちクリスチャンに求めています。
3.言葉をもって全てを創造されました。
  これが今日、最も強調したいことです。1章に「神は仰せられた」が繰り返し出てきます。神は言葉をもって全てを無から創造されました。何故、言葉だけで
  全てを創造できたのでしょうか。へブル人への手紙4章12節「神のことばは生きていて、力がある」からです。
  詩篇19編7~11節「主の教えは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せ
  は清らかで 人の目を明るくする。主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり ことごとく正しい。それらは 金よりも 多く
  の純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。あなたのしもべも それらにより戒めを受け それを守れば 大きな報いがあります。」
  ここに、創造者である神の言葉について大事なことが記されています。
  1)神の言葉には権威があります。
  2)神の言葉は十分です。
  3)神の言葉は正確です。
  4)神の言葉には戒めがあります。
私たちは神にどのように応答すべきでしょうか。良き手本となるのが詩篇19編7~11節のダビデの創造者である神への応答です。同14節「私のことばと私の心
の思いが御前に受け入れられますように」自分の弱さ、罪を正直に認め、自分を受け入れてくださいと祈っています。「主よ わが岩 わが贖い主よ」創造主への信仰
告白です。「岩」は安心、安全な場所です。「贖い主」神は創造主であると共に、私たちを罪から贖って
くださいます。絶望から贖ってくださいます。死の恐れから贖ってくださいます。私たちに平安と希望を与えてくださいます。神に従って歩んで行きましょう。




2022年1月23日     「創造者である神(パートⅠ)―始まりのない創造者―」    マクセイ師     創世記1章1節

「あなたのクリスチャンとしての信仰の出発点、原点は何ですか。」と聞かれたら、何と答えますか。その問いの答えは創世記1章1節にあります。
今日から何回かに分けて、創造主である神について考えたいと思います。
1.神を創造者であると信じる根拠は何でしょうか。
  創世記1章1節「はじめに神が天と地を創造された。」
  短い言葉ですが、神は創造者であることが宣言されています。
2.創世記1章1節の御言葉を確信できる根拠は何でしょうか。
  歴史的に信憑性のある記録があるからです。聖書には多くの証拠が記されています。二つ挙げます。ヨブ記38章4~5節「わたしが地の基を
  定めた時、あなたは何処にいたのか。分かっているなら、告げて見よ。あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に
  測り縄を張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。」使徒の働き17章24節「この
  世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にはお住みにはなりません。」
3.創世記1章1節から学び取るべきことを挙げましょう。
  1)神は存在しています。
    先ず、神が存在し、次いで、人間が神によって創造されたということです。創造されていない唯一の存在が神です。
  2)神は独立的存在です。
    神はモーセとのやりとりの中で、ご自分の名前を「わたしはある」と告げました。何にも依存しない存在であるということです。
  3)神は万物の創造者です。
    創世記1章1節の天と地=万物です。
  4)神は自由意志で万物を創造されました。
    詩篇115編3節「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。」
    神はご自分の栄光のために、ご自身の自由意志で万物を創造されました。そして、それを完璧に果たすために、神は人間を創造されました。
    コリント人への手紙第一10章31節「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
    これが私たち人間の基本的存在理由です。      
神が万物の創造者であることは私たちの信仰生活とどのような関係があるのでしょうか。
1)個人伝道に必要です。
  未信者に伝道をする時は、いきなりイエス・キリストではなく、私たちの神は創造主であることから始めるべきです。
2)神は楽しむために自然を造られました。だから、私たちも自然を楽しむべきです。
  自然を見る度に、神の凄さ、偉大さを実感することができます。
3)神に対する感謝と信頼を深めることができます。
4)永遠をお任せすることができます。
  私たちの肉体が死んでも、魂は永遠に生き続きます。そして、神の前で永遠に生きる体が与えられます。つまり、私たちの未来の生活を創造主
  の神に任せることができます。
最後に、覚えていただきたいことがあります。神の創造の働きは過去のことではなく、今も続いているということです。
コリント人への手紙第二5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべて
が新しくなりました。」




2022年1月16日     「新年に成長するクリスチャン(パートⅡ)―希望を持ち続けるクリスチャン―」     マクセイ師
                                                   ペテロの手紙第一5章10~11節

これまで2回に分けて、ペテロの手紙第一5章から「新年に成長するクリスチャン」という主題で考えてきました。謙遜を身に着け、神の力を求めること、
そして、目を覚ましておくことが大事であることを学びました。今日は、希望を持ち続けることについて考えたいと思います。
1.神は恵みに満ちているからです。(10節)

  神の恵みは私たちの生活全般に及び、如何なる艱難があっても、全てを益としてくださいます。そして、海のように広く、深く、計り知れません。
  私たちはこれを謙虚に求めることが大事です。
2.試練は一時的であるからです。(10節)
  あらゆる試練が直ぐに終わるということではありません。永遠には続かないということです。コリント人への手紙第二4章16~18節「私たちは
  落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い艱難は、それとは比べものにならな
  いほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、
  見えないものは永遠に続くからです。」
  最終的に、私たちにはあらゆる試練から解放される天地が約束されています。
3.神は試練を益としてくださるからです。(10節)
  神ご自身とあるように、神が次のようにして、私たちの人格的、信仰的成長に直接関わってくださいます。
  1)回復させます。
    「回復させる」の原語の意味は「治す」です。つまり、神様は試練を通して、私たちの愛、忍耐、同情心を正常に働くように治すということです。
    コリント人への手紙第二1章4節「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から
    受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にいる人たちを慰めることができます。」
  2)堅く立たせます。
    キリストへの信頼を固め、揺るがない信仰にしてくださるということです。ローマ人への手紙15章1~2節「私たち力ある者たちは、力の
    ない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人
    を喜ばせるべきです。」
  3)強くします。
    御言葉を通して、神に役立つ器にします。人を愛する、同情する、助ける、励ますことができるように、私たちに力を与えてくださいます。
    例えば、ヨブです。彼は家族、財産、健康等全てを失いました。しかし、彼は神に強くされ、最後まで希望を持ち続けました。
  4)不動の者とします。
    「不動の者」の原語の意味は土台を据えるということです。私たちがあらゆる試練に耐え、希望を持ち続けるために、私たちを支え続ける土台
    を据えてくださるということです。これは体験が人生の大きなサポートになるということでもあります。
ローマ人への手紙5章3~4節は今日のメッセージのまとめです。「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を
生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」




2022年1月2日   「新年に成長するクリスチャン(パートⅡ)—目を覚ましているクリスチャン—」     マクセイ師
                                                     ペテロの手紙第一5章5~9節

新年、直面するであろう試練の中で、クリスチャンとして成長し続けていくために何が必要かをペテロの手紙第一5章5~9節から学んでいます。
先週、謙遜を身に着けることが大事であることを学びました。今日は、目を覚ましていなさいということについて考えます。
1.目を覚ましているクリスチャンはどのようなクリスチャンでしょうか。
  1)強敵が存在することを自覚しています。
    私たちはサタンを過剰に意識したり、無視してはいけません。サタンは力をもっているけれど全能ではありません。遍在でもありません。
    サタンは私たちの強敵であり、私たちがクリスチャンとして信じていること、やろうとすること、考えることを妨害します。私たちの信仰を
    食い尽くそうとします。これがサタンの不変の狙いです。
    キリストはサタンの存在について次のように言及しています。ヨハネの福音書8章44節「彼(サタン)は偽り者、また偽りの父です。」
    サタンの武器は偽りです。
  2)悪魔に対して対抗します。
    どのように対抗すべきでしょうか。
    イ.自制心をもちましょう。
      ヨハネの手紙第一2章15節「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。」
    ロ.この世と調子を合わせないようにしましょう。
    ハ.信仰に堅く立ちましょう。
       9節「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」これが鍵です。
       エペソ人への手紙6章16節「信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」何故、信仰の
       盾が必要なのでしょうか。
       イ)サタンは神様の御業の逆を行うからです。
       ロ)苦しんでいるのは自分だけではないことを自覚できるからです。
         9節「世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」
2.信仰に堅く立つために継続すべきことは何でしょうか。
  1)神の言葉を通して信仰に堅く立つことです。
    これは信仰生活の基本の基本です。
  2)神の言葉を実行することです。
    実生活に適用していくことです。そうすることによって、サタンが入り込む隙間をなくすることができます。
  3)継続的に祈り続けることです。
    祈り続けることは神の力を求め続けることです。
  4)日曜礼拝を優先することです。
    礼拝に参加することによって、「私は神を信じています。」「神を愛しています。」「神に感謝しています。」と社会に宣言していることに
    なるからです。
  5)交わりを大事にすることです。
    互いに祈り合うこと、励まし合うこと、助け合うことが信仰の盾を広げていくこと、大きくすることになります。
最後に、サタンに向かっていく手順を確認しておきましょう。9節にあるように、先ず、堅く信仰に立ちましょう。その上で、サタンに対抗しましょ
う。この順番が大切です。ヤコブの手紙4章7節はこれを別の言葉で表現しています。「神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた
がたから逃げ去ります。」神の前にへりくだって、謙虚に神信仰を告白し、神に全面的な信頼を置き、神の力、助けを求め、神としっかり繋がって
いる者はサタンに対抗し、退けることができます。

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