歴史的な見所、名前の由来、歴史の場面(築城から落城・廃城まで)を「高天神城跡」平成21年9月掛川市観光協会大東支部発行のパンフレットによる記事から作成しています。

<<高天神城趾歴史的見所>>

■井桜曲輪(せいろうくるわ)

西の丸から北へ突き出た半島状の先端に位置する曲輪で、ここに物見のために望楼(塔)が建っていたと言われることから、井桜曲輪と言われる。三方が断崖絶壁の高天神城内でここの西側斜面が緩いため、土塁、堀切、横堀などの防御施設が二重三重に施されている。

■堂尾の曲輪

二の丸から北へ突き出た半島状のの付け根に位置する曲輪で、その半島先端には、見張りとしての塔が建っていたとも言われ、塔の尾に位置する曲輪が転化して堂の尾と呼ばれるようになったと言う。

■堀切

尾根上を進攻してくる敵軍をV字状に切り開いて通行を不可能にする防御施設、平時は丸太等の簡単な橋を掛けて通行し、いざ戦時となると丸太を落として通行を遮断する。

■横堀

尾根筋に沿って横方向に続く堀で、横斜面からの敵の侵入を遮断する。

■西の丸(丹波曲輪)

高天神城西峰の主郭である。武田氏時代には、岡部丹波守長教が大将として守護していたことから、別名丹波曲輪とも言う。

■馬場平

一説には、ここで馬を管理していたため付いた名称を言われるが、疑問である。三方が断崖絶壁で一方が尾根続きの高天神城の、ここが一方の尾根続きであり、ここより先は城外であることから、近年では、ここは番所が置かれていたのではないかと考える説もある。馬場ではなく番場が転化して馬場になったのではないかと言われている。

■犬戻り猿戻りの険(甚五郎抜け道)

馬場平から続く尾根道で犬でも猿でも険しくて戻ってきてしまうことから名付けられた名である。天正9年の落城の際には横田甚五郎がここから抜け出し甲府の勝頼のもとへ落城の報告をしたことから、別名甚五郎の抜け道と呼ばれている。

■かな井戸

井戸曲輪にあり高天神城内にある二つの井戸のうちの一つ、名の由来は不明だが、湧き出る水が鉄分を多く含んでいるためとも言われる。武田軍が高天神城攻めの際井戸の水脈を切ったためとも言われ、そのためか今は水は出ない。一説には篭城方のお姫様が落城時に身を投げて自害したとも言われる。

■井戸曲輪

かな井戸が要となるためこの名前で呼ばれている。高天神城の構造的特徴である一城別郭式の東峰と西峰を結ぶ鞍部(尾根)にあたるのが、この曲輪である。

■三日月井戸

城内に存在する二つの井戸のうちの一つ、礫層を浸み通って出た雨水がポタポタと滴り落ちて三日月形に溜まったことから付いた名称で、井戸として使った。

■搦手門(裏門)

高天神城の搦め手側の登城口にあった門である。詳細な門趾の場所は不明。

■本丸

高天神城の本丸と言われるところである。近年の発掘で倉庫跡と思われる遺構も発見されている。

■的場曲輪

本丸の道下に位置し西側を守護する曲輪で、弓矢の練習をしたところからこの名がついたと言われる。但し、実際に弓矢の練習場にしては短く疑問である。

■石窟

本丸東北側、的場曲輪から本丸居を通る帯曲輪の途中に位置し、山腹に洞窟状に掘った横穴で、ここを牢屋として使用していた。徳川家家臣大河内正局が落城後も勝頼に屈しなかったため、ここに幽閉された。

■元宮

元々ここに高天神社が鎮座していたが、八代将軍徳川吉宗の時に現在の地に遷宮されたため、ここを元宮と呼ぶ。

■御前曲輪

本丸の南東を守護する曲輪で、本丸の前に位置することから付いた名称か、神様の前に位置することから付いた名称か不明である。現在、近代に建てられた模擬天守閣の基礎が残存している。

■三の丸(与左衛門平)

高天神城南端へ突き出した曲輪で眺望はすばらしく遠州灘まで見通せる。小笠原与左衛門清有が大将を務めたことから別名与左衛門平と呼ばれている。

■追手門

高天神城の正面玄関にあたる。現在門の礎石と伝えられいる石が登城道の左右に存在するが、位置的にも形状大きさからみても疑問であり礎石とは考えにくい。

<<高天神城 (名前の由来)>>

たかてんじんじょう
高天神城は標高約130mの鶴翁山(かくおうざん)にあって、山上には高天神社が鎮座し、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、天菩比命(あめのはひのみこと)、天神(てんじん)さまでおなじみの菅原道真公が祀られています。「高天神」という名前の由来については、一説には、高いところにある天神様で”高天神”、別の説では、高皇産霊尊の”高”と天神さまで”高天神”などと言われていますが、定かではありません。

<<高天神城の歴史 (築城から廃城まで)>>

■築城

高天神城は、いつ、誰が築城したのか具体的なことは良くわかっていません。「鎌倉時代の初めに土方次郎義政(ひじかたじろうよしまさ)が築いた」とか、「応永(おうえい)23年(1416年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)が築いた」などと言われてきましたが、近年ではこれらの説は否定されています。現在、「高天神」の名が確認できるもっとも古い史料はは永正(えいしょう)10年(1513年)以前のものであり、この頃には今川氏家臣の福島左衛門尉助春(ふくしまさえもんのじょうすけはる)が高天神城にいたことがわかります

■今川氏時代

今川氏は駿河の守護職でありましたが、戦国時代には、高天神城が存在する遠江にも勢力を伸ばしており、領主の各地に支城を造りました。高天神城もその一つとして機能していたと考えられます。
その後、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれると、今川氏は衰退していき、家臣たちは今川氏を見限っていきます。逆に、三河の徳川家康が東へ勢力を拡げており、その時の城主で今川氏の家来であった小笠原与八郎長忠(氏助)(おがさわらよはちろうながただ)は、家康の誘いに乗り徳川方になってしまいました。

■徳川氏時代

高天神城が、徳川氏の城となったころ、甲斐の武田信玄も勢力を増強し、領土を拡大していき、家康と領土争いをするようになりました。
元亀(げんき)2年(1571年)に信玄は総勢2万の兵を率いて遠江へ進軍してきました。この時、城主 小笠原長忠は、高天神城に籠城して城を死守したため、信玄は城に近づくことが出来ずに通りすぎました。この戦いで、「あの有名な武田信玄でも攻め落とすことができなかった高天神城、難攻不落の城」として、全国に名を広めました。
その後、武田信玄は天下統一を果たせず天正(てんしょう)元年(1573年)に死んでしまいましたが、信玄の子 勝頼が武田家を継ぎ、天正2年(1574年)5月に2万の兵で高天神城を攻略に来ました。勝頼は自ら遠江へ出陣し高天神城をぐるりと囲みました。小笠原長忠は、2千の兵で城に立て籠もりましたが、武田軍の攻撃に兵糧弾薬も尽き、家康の援軍もなかったため、約2ヶ月の籠城戦の後開城しました。
こうして高天神城は武田氏のものになりました。

■武田氏時代

小笠原長忠はその後も高天神城の城主となっていましたが、天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に大敗し、遠江の徳川勢力が拡大するとともに、城主を交替させられと思われます。
家康は高天神城奪還のために、横須賀に砦を作り、さらに高天神城の周囲をぐるりと囲む攻撃用の砦を六つ造りました。これらの砦は、北から小笠山・能ヶ坂(のがさか)・火ヶ峰(ひがみね)・獅子ヶ鼻(ししがはな)・中村城山・三井山で「高天神六砦」と呼ばれています。こうした包囲網により、高天神城は徐々に孤立していきました。
高天神城の城番となった岡部丹波守長教(真幸・元信)(おかべたんばのかみながのり)は甲斐の勝頼へ援軍を頼みましたが、後詰の兵はなかなか来ません。兵糧弾薬もなくなり、甲斐からの応援の期待もなく、兵士たちも疲れてしまったため、城内では軍議が開かれ、「これ以上耐え切れないから打って出よう」との結論に達しました。

■落城・廃城

天正9年(1581年)3月22日夜、約8百の城兵は覚悟を決め、すべての兵が城から打って出て、激しい戦いのあと全員討死しました。 これにより、高天神城を巡る武田氏・徳川氏の激しい戦いは終わりを告げることとなります。
家康は高天神城に入り、確かに落としたことを確認した後、火を放って城を焼き払ったと言われています。
高天神城は廃城となり、高天神攻めの砦であった横須賀城が、この地域の政治的中心として明治まで続きました。

その後

その後城跡は、昭和50年(1975年)10月16日に、「主要郭が遺存し、中世名城としての遺構に秀でたものがある」として、国指定の史跡となり、平成17年(2005年)3月には上土方嶺向かい地域が、平成19年(2007年)2月下土方地域が史跡として追加指定されました。

総指定面積は132,035m2(平方メートル)です。
(上記のものは主には「高天神城跡」平成21年9月掛川市観光協会大東支部発行のパンフレットによっています。)
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