1)こどものころ
控えめな目立ちたがり屋。恥ずかしがり屋でおしゃべり
は下手、運動神経は鈍いときているので、絵を描いたり
物をつくって人をびっくりさせることで存在を主張しようと
していました。その性格は今でも続いているようです。
2)小中高等学校のころ
父が土木の現場監督をつとめていたこともあり、小学校
の卒業文集で将来なりたいものとして書いたのは「(建
築の)設計士」。しかし高校生のときは建築と考古学で
将来の進路を迷いました。迷った末、建築の道を選びま
したが今の自分を見ると正解だったと思っています。ま
た、この二つの間で迷ったのには大きな理由があったこ
とに後日気がつくことになります。
3)大学、大学院のころ
高校卒業後大阪工業大学建築学科に入学。さらに4年
の勉強ではあき足らず卒業後、東京工業大学に研究
生、院生として在籍。研究と設計漬けの日々を送りまし
た。
同校在籍中に熊本市営団地の設計を手伝いました。団
地の建て替えという社会福祉的なプロジェクトを長期取
り組む中で、建築が実社会の中でどのように出来上が
っていくかを目の当たりに。研究室の中だけでは学べな
いことを体得できたことは大きな糧となりました。
4)設計事務所に勤務していたころ
同校卒業後長谷川逸子建築計画工房に就職。新潟市
民芸術会館などを手掛けました。文化施設を手がける
中で、使う人のことを考えて設計することの意味、そして
使う人に楽しい使い方を提案できる設計をすることの魅
力を学びました。
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5)30歳、体を壊したころ
30歳のとき、体を壊して同事務所を退社、帰阪。健康は
すべての基礎だということを実感。それまで全く関心が
なかった、シックハウス対策や自然建材に興味を持つよ
うになりました。
療養中に考古学者を主人公にした漫画「マスターキート
ン」を読んで建築と考古学は似ているということに気が
つきました。建築は「くらし」から「かたち」を考える、考
古学は「かたち」からどんな「くらし」をしていたかを考え
る仕事。つまり自分は「くらし」と「かたち」との橋渡しを
する仕事をしたかったのです。
6)吉永建築デザインスタジオ開設したころ
退社直後、仕事のあてはないけどとりあえずつくってお
け!と吉永建築デザインスタジオを事務所登録。ちょう
ど親戚や友人などが建て替えを考えている時期に重な
り、ありがたいことに順調な滑り出しとなりました。
最初は高槻のアパートの一室でSOHOとしてスタートし
たが、一日部屋にこもりっぱなしの生活に耐え切れなく
なり、家と事務所を分けることに。どうせならば環境がい
いところがいいと思い京都に事務所を構える。古今の建
築、京都の独特の雰囲気、建築家の友人たちとのふれ
あいで多くのものを得る。
7)現在
事務所5年目を過ぎたところで地元高槻に貢献したいと
思うようになり、高槻に事務所を移して今に至る。地元
の工務店や設計事務所や友人たちと協力しながら高槻
を面白くすることを考え中。
8)将来への展望
最近では設計でだけでは飽き足らず、京町家や団地の
再活用の提案を行ったり、建築の魅力を一般の方々に
伝えるイベントの企画や「築育」と題してセミナーも行っ
ています。設計、イベント企画、教育などさまざまなかた
ちで建築発想による社会貢献をしたいと思っています。 |