■漢字と英語のニュアンス       2005/06/22

精緻な議論を展開していただき、ありがとうございます。

1項においては、権利としての戦争を放棄していて、2項においては交戦権を認めないとなっており、
義務としての戦争も認めていないように読み取れます。戦争放棄という熟語も交戦権という熟語も
字で表現されていて、これは日本語なのでしょうが、その熟語のイメージで思想として展開すると
の文章の意味からはずれることがあるようです。

例えば、2005年4月15日付毎日新聞 衆院憲法調査会 国民投票法、議論が本格化 最終報告書
に次のような記載があります。
「焦点の9条に関しては、1項に掲げられている戦争放棄の理念を堅持すべきだとの意見が多数だ
たとする一方、「自衛権の行使として必要最小限の武力行使を認める」ことや、9条改正を「否定し
ない」ことも多数意見とした。」

「1項に掲げられている戦争放棄の理念を堅持すべき」と言われていますが、これは9条と関連があ
るとは思えません。その理由は、9条1項のどこにも戦争放棄を理念とするとは記載されていないか
らです。「戦争放棄の理念」と表現することによって、放棄できればいいが、放棄できないので、自

隊が必要であると憲法調査会が示唆しているように感じます。憲法調査会が9条を理解していない

だろうかと不安になってしまいます。権利としての戦争を放棄することは理念ではなく、憲法の条
文で
あり、違反すれば、処罰されるものだと思います。戦争放棄の熟語を定義なく使用すると誤謬に
陥る
可能性があります。

2項において、「交戦権」を認めないとなっており、この交戦権については、どのように読んでも「
いくさ
をまじえるけんり」になり、どのような戦争も認めないと感じてしまいます。しかし、2項を
英語で読んだ
とき、本当に驚きました。一義的な直訳では「国の好戦性の権利は認可されないだろう
」ということに
なります。1項では国は「the nation」を使用していますが、2項では「the state」
です。日本政府の
好戦性の権利は将来に渡って、国際社会に認められないという意味だと思います。
1項で放棄した権利としての戦争は好戦性によってなされるので、その権利も認可されないと1項に
矛盾なく追記されていると思われます。日本国民は好戦的ではないが、日本政府は好戦的だったこと
を示しているようにも感じられます。

私自身、この英語の表現は衝撃的でした。中国から日本に漢字
がもたらされたのは1500年ほど前で、
英語はせいぜい150年前のペリーとの交渉のときでしょうから、
私たちの思想は漢字で考えるべきかも
しれませんが、いずれにしろ、日本以外のところから来た言葉
であり、漢字表現と英語表現が異なると
思えば、自分自身でその表現の真意を考えるべきだと思いま
した。

9条は、占領軍による要請に基づいたものと思われますが、「義務としての戦争」、「義務としての
防衛」、
「権利としての防衛」については何も規定されていません。
9条作成時に、当時の日本の人々のすべての戦争を放棄したいという気持ちが、2項の漢字表現に
ったように思いますが、元々日本にある恒久平和の思想と結びついたものとも思われます。

9条では真珠湾攻撃や満州攻撃を日本がしなければ、第二次世界大戦は起こらなかった、今後再び
本がそのような好戦的な攻撃をしなければ、世界は平和であることが想定されているように思います
世界平和のために、日本が義務としての戦争や、義務あるいは権利としての防衛を放棄することを
要請しているとは思えません。

次のような図式になります。

権利としての戦争 −(例)真珠湾攻撃、満州攻撃(9条で放棄)
義務としての戦争 −(例)国連平和維持軍に参加(結成された場合)
義務としての防衛 −(例)江戸時代の鎖国政策(攻撃的ではありません)
権利としての防衛 −(例)自然法(正当防衛です)

国の義務としての戦争という場合に、他国から侵略された場合に国民を守るのが、義務としての戦争
と考えられているようですが、それは義務としての戦争ではありません。権利としての防衛になります。
義務としての戦争は国以上の存在、国連あるいは人類のための戦争ということなります。

繰り返
しますが、戦争と防衛の定義が必要です。
戦争は「攻撃は最大の防御である」という命題に従い、防
衛は「防御は最小の攻撃である」という命題
に従うものです。