■戦争の所有 2005/05/26
憲法9条をいくら読んでも、戦争放棄という熟語でイメージされるような義務としての防衛あるいは
権利としての防衛を放棄しているとは感じられません。
戦争放棄という熟語と「権利としての戦争の放棄」という文言は異なるように思います。戦争放棄は
戦争そのものを放棄しているように感じられます。戦争そのものを放棄すれば、残るものは平和です
ので平和主義と思われます。
しかし、9条はそのように読めません。戦争を放棄するとは戦争が所有できるものであることが前提
になります。有史以来、人類は沢山の戦争をしてきましたが、戦争を所有あるいは保持していたとは
考えられていません。古代ギリシャでは戦争は人々の意志ではなく神々の意図で発生すると考えら
れました。人々あるいはその集団である国も戦争を所有しているとは感じられたことはありません。
日本の歴史を見ても、
真珠湾攻撃の理由は
7ヶ月後に石油備蓄が消滅し
全艦隊が碇泊港で錆付くまでの制限時間だった。
満州攻撃の理由は
東洋と西洋の最終戦争を予見し
その戦争が各国民総動員の凄惨なものになることを歴史の必然性として予感し、科学技術の発達がも
たらす恐怖の決戦戦争の中で、自国が生き延びるための必要最低限の資源確保だった。
これらの攻撃の立案者にとっては
生き延びるために必要な最低限の攻撃であった。
これらは戦争を所有しているのではなく、安全を確保しようとしたことになります。
従って、戦争は所有できるものではなく、放棄できればいいが放棄できるものではないと感じられて
いるのでしょう。9条は注意深く権利としての戦争を放棄すると規定しています。日本の人々が権利
としての戦争を放棄すれば、満州攻撃や真珠湾攻撃のようなことは起こらず、世界は平和になると
想定されているように思います。
9条は権利としての戦争を放棄していますが、「義務としての戦争」、「義務としての防衛」、「権利として
の防衛」については規定がありません。それらは放棄することも保持することもできるものです。
自分たちの安全を優先する平和主義は場合に応じて戦争遂行の思想に変わってしまうのではないかと
いうご意見には賛同しますが、それだからと言って、人々に絶対平和主義を要求することも困難です。
戦争は「攻撃は最大の防御である」という命題に従うものであり、防衛は「防御は最小の攻撃である」
という命題に従うものです。
9条に規定されていない「義務としての戦争」、「義務としての防衛」、「権利としての防衛」を
どのようにするかという考察が必要と思います。
これらについては9条とは関連性がなく、別条にすべきだと思います。