■最後の特攻隊           2005/07/27

終戦の日の夕刻、沖縄の米軍基地を攻撃しようとした特攻隊の指揮官 中津留大尉は、搭乗機の彗星が対空砲火を受
けず、明るい基地でパーティが開かれている様子に、戦争が終わったことを知り、上官の命令に抗して、操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突、自爆した。あとに続いた部下の特攻機も、基地を越えて、水田に突っ込み自爆した。(城山三郎著 指揮官達の特攻より)

このことは、特攻隊の攻撃目標は空母などの艦船および基地の軍事施設であり、人命の殺傷ではなく、戦争が終結すれ
ば攻撃しなかったことを示しています。そして、中津留大尉は間違った上官の命令よりも人命を尊重したことになり、残された私たちと戦後の日本をを平和へ導いてくれたと思います。また、中津留大尉の人道的な心情は太平洋戦争を侵略戦争とのみ審判することはできず、植民地解放を求めた自衛のための戦争でもあったことを示しています。

極東軍事裁判は11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」によって起
訴され、判決は多数決で有罪となりましたが、インドのパール判事は、判決に際して日本無罪論を発表しました。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものであり、日本の正当性を認めるものではありませんが、17世紀以来西洋諸国がアジアやアフリカを植民地にして行く中で、日本は植民地にならずに西洋諸国と同様に侵略して植民地をつくる国になったことを示しています。そして東京裁判以後、アジアやアフリカから植民地がなくなったことは、パール判事の主張どおり東京裁判は植民地主義を断罪したことになります。

靖国神社に展示されている零戦や回天魚雷を見ると、これに乗って敵の空母や艦船に激突、自爆することがどれほどの
苦痛と逡巡と絶望感に襲われるものか測り知れないほどの恐怖があります。特攻隊の若者達と同世代だった三島由紀夫はそのことを最もよく知っていて、平和の中に生きながらえている自身のうしろめたさとその凛々しい思い出のために「盾の会」をつくったのかもしれません。そして憲法改正して、自衛隊を国軍とすることに命をかけたのだと思います。しかし「盾の会」という名称は権利としての戦争をしないような名称です。何故なら、権利としての戦争は矛(ほこ)によってなされるからであり、盾は守るだけなので矛盾という熟語があります。「盾の会」は太平洋戦争を特攻隊が盾となった自衛のための戦争と思っているのでしょう。

19世紀半ばに日本が近代化し始めたとき、アジアはほとんど植民地になっていました。日本は強い国軍をつくり植民地に
ならないようにするしかなかったと思います。外敵に対して常に「矛を交える」必要があり、勝てば領土を得て、負ければ領土を失う。

「9条2項を改正し、自衛のための武力組織を「自衛軍」と名付け、軍隊であることを明確に位置づけた。」という自民党新
憲法起草委員会が、「太平洋戦争は侵略戦争であった。」あるいは「太平洋戦争は自衛のための戦争であり、植民地解放戦争でもあった。」といずれの主張をするにしても、今地球上に植民地がない状態で、自衛のためにどのような戦争をしようと考えているのだろう。