95.長老

人生は辛いものだ
他の生命を奪ってしか、生きられない
仙人のように霞を食べて生きることを願っても、難しい

長老は白い鬚を引張りながら呟く
わしはもう永く生きた、気高く生きた
情け深く、優しく生きた

一族のものが栄えるように、その振舞もより高きものに近づくように
倦まず絶ゆまず努力して、益ある正しいものを作った
そしてより高きものに似るように願った

エントロピーが増大する世界の中で、人間だけが秩序への意志を持ち
生存の環を結び付けるように選ばれたものだと思った
人間だけが悪を退け、善に向かうことができると思った

しかし、沢山の戦争があった
友を失い、一族のものを失うなかで、なんとか生き延びた
それから、善を為し、益のあるものを作り、子や孫もでき、幸福な年月が続いた
人生の成功と言われるものへも到達した

だが、幸福の日々の中にも辛さがあった
日々の糧の為に他の生命を、より効果的に育て、刈り取らなければならない
生存の環を効率良く運営して、収穫を最大にしなければならない

砂漠の生物や熱帯雨林の沢山の鳥類、哺乳類、爬虫類、昆虫類の
もの悲しい程の食欲による自己保存と性欲による種の保存
生きることは辛いものだ

人間だけが意識によって選択し、価値体系を形成することができ
他の生物はすべて無方向の盲目の進化によって、生存の環を結んでいる
これが現代の生物学の到達地点だとしても、この意識の辛いところは
それによって生存の環を切り離しているように思えることだ

人間の進化は意識をもたらし
芸術や喜びや希望や精神の力への信頼を脳の中に
刻みこんでいる
と言うが、わしには理解できない
庭に咲いている牡丹の花より人間の芸術が優れているとは思えない

昔、意識を消せと教えてくれた女がいた
牡丹の花の後に立って、白いドレスを着て
手招きしているように見える

夏近く、プラタナスが一回り大きくなった
頼りなげだった新芽が大きな葉になり、重なり合い
木全体が重々しく、
風にゆったりと会釈する

パリでも同じだろう
乳房のような葉をつけたマロニエを見ても
若い女の手のような欅の枝を見ても
恋焦がれる若者のようにふらふらすることはない

このプラタナスの信頼できる重量感
重なり合った葉が小山のように落着いている
本当にプラタナスには意識による自覚がないのだろうか

意識は不要なので消しているように思える
わしもプラタナスの老木のように意識を消したい