73.愛の交換

二人の男がいた
一人は米を二升、他の一人は魚を二匹持っていた
道で出会い、米一升と魚一匹を交換した
この交換により二人の幸福は増大した

僕達は持っているものを交換することによって、幸福量を最大にする
三人以上の人がいて、三つ以上の物が存在するとき
その物の交換が幸福量を最大にするまで行われる
その回数は、人の数、物の数の増加に伴って、非常に多くなる

最適解に達するまでの交換を効率良く行う為に、貨幣が発明された
そして貨幣は価値の象徴となった
交換によって、その集団の全体の幸福量が、閾値を越えていれば、集団は安定する
しかし、その閾値よりも小さくなると、集団は不安定になり、最後には崩壊する

細胞の集団である生命体も同じことで、物の交換が
幸福量の増大する方向に為されているときは安定し、成長するが
交換が為されない、あるいは幸福量の減少する方向に行われると死滅する

交換は愛とも言える
僕達は愛という貨幣を価値の象徴として交換し、存在を開始し、維持している
卵精子結合体の増殖も、宇宙の存在の開始も同じことで
愛の交換を開始したときから始まった

マルクスは残念なことに、商品価値の中に
交換による価値の増大を認めなかった
つまり愛の存在を認めなかった
弱い者に対する愛情を溢れる程に持っていたのだが

造った物が交換価値を持たないのに、交換を要求することになった
それは、世界に対して無償の愛を求めることと同じだった
愛は交換の結果、得られる幸福量の増大を示す指標だとしたら
無償の愛という言葉自体が、無償の憎しみよりも、存在が困難だ
座禅する達磨大師は 無償の憎しみの中に安定することができた

有償の愛が拒絶されたとき、僕達は無償の愛を要求せずに
無償の憎しみの中に逃れた方がいい
僕達は、二万年来、無償の愛を求めて、森林を消費した
蛇と亀は、無償の憎しみの中に逃れて、滅亡から救われたのかも知れない