21.倫理の起源
本当に僕達は神を失えば倫理も失うだろうか
仏の覚りを想像できなければ倫理から離れてしまうだろうか
釈迦が生まれる前にも、イエスが生まれる前にも倫理はあった
石の板二枚に神自身が書いた文字があった
リグ・ヴェーダにも沢山の規則が記されている
倫理は神が与えたものか、僕達自身が持っていたものか
単なる自然発生的な規則が体系化されたものなのか
自然発生のアミノ酸や核酸が僕達の体にまで
組織化され構造を持ったように
僕達の体が単純なものから複雑なものへ
低機能なものから高機能なものへ進化している
それに伴って倫理も進化している
イエスと釈迦はその過程の中の大いなる革新と
考えることが許されるだろうか
僕達は倫理的に堕落しているのか、進歩しているのか
または倫理は組織や構造の変化に付随して規定し直される
社会的な運用規則に過ぎないものか
ワシントン公園の動物園の狼は倫理を持っていなかったのか
数千年前に隣人の家を貪ってはならないという戒めが与えられた
これは神が生き物の中で最高位にいるとされた人に定めたものなので
人より低位とみなされているその他の動物、植物、バクテリア等
すべての生命はこの戒めに従わなければならないと考えるか
人以外の生き物は貪欲でこの戒めを守ることができないので
人が神の命を受けた指導者として他の生命を戒めるのか
あるいは人とその他の生命の間に差はなく自己責任とするか
いずれにしてもこの戒めはすべての生命が守るべき倫理性を持っている
荒野で兎を追い駆ける狼にとって隣人とはテリトリーが隣り合った狼であり
そのテリトリーの中には家族を養う兎が草を食べて自分の家族と暮らしている
隣人の家を貪ってはならないとは隣のテリトリーの兎を食べないこと
また兎の家族もテリトリーの外の草を食べないこと
狼はこの戒めを守った、隣人との争いを避けたのか
あるいは自己責任として戒めに忠実だったのか
兎もどこの草でもいいのだが遠出をすると狼に食べられてしまう
草が多ければ戒めに従い平和に暮らせる
狼のテリトリーの中で兎を養う草の生育が悪くなると
兎より前に隣人を貪らない狼が滅んでしまう
一頭の狼を養うのに百羽の兎が必要だとして
いくら足が速い狼だとしても兎を捕まえる確率は百パーセント以下
もしそれがかなり高く九十パーセントだとしても
九十羽の兎を食べた後、一頭の狼が飢えて死に十羽の兎が残る
そして再び兎は増え始めるが狼はもういない
今度は狐が兎を追い駆けるかもしれない
僕達人類は知的になることにより、食用になるものの種類を増やし
隣人の家を貪らなくても済むように営々努力して来たが
もし狼や象や熊や猪を隣人と考えるとすると
隣人の住居を奪い、食料を収奪して来たのかもしれない
これは戒めを守らず見かけの繁栄をしているだけなのかもしれない
倫理の起源はテリトリーを守ることだとすると
それは生命が発生したときから変わらずに
森の意志として生命全体の意志として宗教より前に存在している