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「わらぐつの中の神様」に学ぶ恋愛テク 《シリーズ・新しい国語の教科書》






「国語の教科書がつまらないのは、恋愛小説を避けているからだ」
ということが、しばしば指摘される。
近現代の文学作品(まあ近現代に限らないけど)の多くは、恋愛をテーマとしている。読めばかなりの高確率で、恋愛がらみの内容にぶち当たる。なのに、教育上かんばしからざるためなのか何なのか、恋愛を扱ったそうした作品群を避けて、わざわざマイナーな「友情」やら「命の尊さ」やらを謳いあげたものを寄せ集めてくるから、おのずと地味でどうでもいいような作品ばかりが並ぶことになり、結句、つまらない教科書ができあがる、というわけである。

恋愛ものの存否が教科書のおもしろさを左右するか否かはさておくとして(たぶん左右しない)、教科書に載っている作品を見渡してみると、なるほどたしかに、色気のある話はあまり見当たらない。森鴎外の「舞姫」なんかはそれっぽいが、しかしあれは恋愛というよりも、別の意味でいやらしいというか、もうちょっと生臭いもののほうが本筋だろう。鴎外で恋愛なら断然「雁」なのだし。
まあ、そうはいっても、実際にそんな艶めいた作品を掲載してしまったら、それはそれで面倒なのかもしれない。
たとえば太宰治なら、「冨嶽百景」や「走れメロス」のユーモアも捨てがたいとはいえ、爽やかな色気が香る「満願」をすすめたいのだが、しかし若奥さんがくるくると回すパラソルの意味を国語の授業で話題にするには、ちょっとはばかられるような気もする。あるいは漱石の作品の冒頭部分をとりあげるにしても、それが「坊っちゃん」ではなくて「三四郎」では、色気づいたバカ男子などが、
「三四郎は意気地がなさすぎだと思います。押し倒しちゃえばよかったと思います。ぎゃはぎゃは」
などと大騒ぎして、授業にならないだろう。(注1)

そんなわけで、こと恋愛に関しては、何とも人畜無害というか、無味無臭といった体の教科書作品なのであるが、しかしあらためて思い返してみると、ほかでもない、小学校の教科書に、正面切って恋愛をテーマとした作品が掲載されていたことに思い当たる。それも、「思春期の性の目覚めが‥‥」なんていうぼやぼやしたものではなく、ズバリ、大人の恋の駆け引き、恋愛のテクニックを扱った作品。
えーと、そんな話あったっけ、と思うかたがあるやもしれぬが、よく思い出してもらいたい。
小学校5年あるいは6年の国語の教科書。
新潟出身の作家、杉みき子による物語。
心をこめて、わらぐつを編んで、そうしたら大工さんが‥‥。
そう、それ。
「わらぐつの中の神様」
である。
というと、
「えーと、あの話って、そういわれてみれば、たしかに恋バナっぽい内容だった気もするけど、えーっ、でも、恋愛テクとか、そんな話じゃなかったと思うけど」
などと思う人が多かろうが、しかし、考えてもみたまえ。それは所詮、小学生だったときの感想でしかないはずだ。大人になった今、もう一度、読み返してみるといい。

自分が習った教科書にはそんなの載ってなかった、あるいは載ってた気がするけど忘れちゃった、という人のために、一応あらすじは、以下のような感じである。

*          *          *

雪がしんしんと降っています。マサエは、おばあちゃんといっしょにこたつに当たりながら、本を読んでいました。
と冒頭、舞台は現代の雪国。
明日、学校でスキーがあるのに、使ったばかりのスキー靴はびしょびしょ。明日までに乾かなかったら嫌だなあ、というマサエに、おばあちゃんが「かわかんかったら、わらぐつはいていきない」というのね。マサエは「やだあ、わらぐつなんて、みったぐない」とブーイング。それをきいたおばあちゃんが、「そういったもんでもないさ。わらぐつはいいもんだ。あったかいし、軽いし、すべらんし。それに、わらぐつの中には神様がいなさるでね」と、わらぐつの中に神様がいる話を始める‥‥、と、ここからが話の本筋。

昔、この近くの村におみつさんという働き者の娘さんが住んでいた。その彼女がある秋の日、朝市へ野菜を売りに行く途中、町のげた屋でかわいらしい雪げたを見かけ、一目惚れ。ほしくなっちゃう。もちろん高くてお小遣いでは買えないし、両親も買ってくれない。そこで、自分でわらぐつを編んで、それを売ってお金を貯めようと思い立つわけ。で、一生懸命、心をこめてわらぐつを編むんだけど、所詮シロウト、不細工なものしかつくれない。次の朝市のときに、野菜と一緒に市場に持っていったのだけど当然売れるわけもなく、がっかりしてるところへ、ひとりの若い大工さんが買ってくれるのね。また編んで市場にもっていくと、またその大工さんが買ってくれる。その次の市でも、またその次も‥‥。
いつしか大工さんの顔を見るのが楽しみになっていたおみつさんなのだけれど、こんなにも続けて買ってくれるのが不思議でもある。そこでとうとうある日、
「おらの作ったわらぐつ、もしかしたら、すぐいたんだりして、それで、しょっちゅう買ってくんなるんじゃないんですか」
とたずねてみる。すると、
「ああそりゃじょうぶで、いいわらぐつだから、仕事場の仲間や近所の人たちの分も買ってやったんだよ 」
との答え。そして、
「いい仕事ってのは、見かけで決まるもんじゃない。使う人の身になって、使いやすく、じょうぶで長持ちするように作るのが、ほんとのいい仕事ってもんだ」
と、ふだん無口な彼がとうとうと語った挙句、いきなりしゃがみこんで、おみつさんの顔をみつめながら、
「なあ、おれのうちへ来てくんないか。そしていつまでもうちにいて、おれにわらぐつを作ってくんないかな。」
しばらくして、それが、おみつさんにおよめに来てくれということなんだと気がつくと、白いほおが夕焼けのように赤くなりました。

‥‥という話が終わってからマサエは、そのおみつさんというのがおばあさんのことだと気付く(遅すぎ)。ということは、その大工さんって‥‥、おじいちゃんのこと!? おばあさんは、お嫁に来るとすぐおじいちゃんが買ってくれたんだよ、と大事にしまってある雪げたを取り出してくるわけね。マサエはそれを見て「おじいちゃんがおばあちゃんのために、せっせと働いて買ってくれたんだから、この雪げたの中にも神様がいるかもしれないね」というところで、おしまい。

*          *          *

そんなわけで、まあこんなあらすじでは、これが「恋愛のテクニック」を扱った話である、ということはよくわからぬかもしれぬが、ともあれ、これだけ見ても明らかなように、「わらぐつの中の神様」は国語の教科書としては珍しく、授業の中で「好き」とか「恋」とかいった言葉が出てくる作品なのだ。テストの中では次のような問いが、当たり前のように設けられるはずである。
「大工さんは、いつから・どうして、おみつさんのことが好きになったのでしょう」

この設問、小学校国語としての正しい解答は、「使う人のことを考えて心を込めてつくったわらぐつを見て、それをつくったおみつさんのことがだんだんと好きになっていった」というようなことなのだろう。
が、しかし。小学生ならそんなきれいごとでごまかされるかもしれないが、子どもは納得しても、大人には通じまい。

大人の立場から、あらためて検討してみよう。
使う人のことを考えて心をこめてモノづくりをする、ということはたしかに素晴らしいことであるとしても、それと恋愛感情とがまったく別物であることは、大人であるわれわれには明らかだ。そうでなくては、心をこめて編んだ手編みのマフラーや手作りのチョコレートが必ずしも喜ばれない理由が説明できない。
百歩譲って、そうしたことが人を好きになるきっかけとなる場合があるとしても、この年齢設定では、明らかに無理がある。これがたとえば、そろそろ還暦も近くなり、もうこのまま結婚することもなく独り身で過ごすのかなあ、老後が不安だなあ、という男女が、残りの人生のパートナーを選ぶ基準としては、そんな理由で相手を選んでも、まあいたしかたないかもしれない。心を込めてモノづくりをする人は、パートナーの介護も手抜きをせずにやってくれそうに思える。しかし、こんな分別くさいことが、若い盛りでの恋のきっかけになるわけがない。

また、そもそも、女子として自分がこんな理由から選ばれるのだとしたら、はなはだ不本意ではないか。女子としてはやっぱり、きれいだね、とか、かわいいね、とか、その手のことをいわれたい。それが何、「いい仕事をするから」って、ちょっとあんた、あたしはあんたんとこで使われる職人じゃないのよ、失礼しちゃう、こっちから願い下げよ!である。

そのうえ、時間的な問題もある。物語の始まりは、もう冬が近い「ある秋の朝」。新潟という土地柄を考えると、10月後半から11月前半といったところだろうか。その日、おみつさんが、町の朝市に出かける道すがら、げた屋さんで雪げたを見かけたときに始まって、以後、朝市のたびに大工さんにわらぐつを売り、そのままプロポーズへといたる。
朝市が立つのは、一の日とか三の日とかの10日ごとではちょっと間があきすぎるので、たとえば五・十日とか三と八のつく日とかいった5日ごと、というのが常識的なサイクルであろう。物語中で明記されているのは、「その次も、またその次も」と5回目の朝市まで。プロポーズまで最短で5日×5回の25日だが、「おみつさんが市へ出るたびに」「とうとうある日」といった記述からするに、あと2、3回の含みがあってもいい。
一方で、冬が近い秋の朝に始まった後はとくに季節についての記述はないとはいえ、何メートルも雪が積もるような冬のさなかまで繰り返されたとは思えないし、「仕事場の仲間や、近所の人たちの分も買ってやった」という言葉が不自然ではないのは、多く見積もっても10回くらいではないだろうか(10回でもじゅうぶんストーカーまがいの変質者っぽいのだが、昔の田舎の話として、甘く見積もってみる)。まあ、8回目として、5日×8回=40日程度。はじまりが11月半ばだったところで年内には決着、というのが妥当な筋だろう。
ともあれ、この40日の間に、はじめて出会った相手(しかも5日ごとの朝市で数十秒〜数分の接触しかない)を好きになって、いきなりプロポーズ、などというのは、『ロミオとジュリエット』じゃあるまいし、あまりに性急、かつ軽率過ぎるではないか。(注2)

つまり、大人の目であらためて読んでみると、これはどう考えても、わらぐつを買う前から、大工さんはおみつさんのことが好きだったに違いないのである。
後述するように「特別美しいというわけでもない」娘だったおみつさんであるから、どのようなきっかけで彼女を好きになったのかはわからない。しかし、まあ舞台は狭い田舎町である。名前まではわからずとも、ときどき姿を見かけ、うわさを聞くことはあっただろう。ちょっとしたやさしい仕草を目にして、それとなく気に留めている間に、次第に恋心が募っていったのかもしれないし、あるいはふとしたはずみにチラリとのぞいた彼女の白いふくらはぎが目に焼きついて離れなくなっていたのかもしれない。

ただ、そうやって気にはしつつも、実際にはなかなか話しかける機会がなかった相手である。ときどき市場で野菜を売っている姿を見かけても、その野菜を買って会話のきっかけに、というわけにもいかない。大工の棟梁のところで寝起きしているか、あるいは自分の家族のところにいるかわからないけど、現代の東京ではないのだから、若い独身の男が一人住まいをしているわけがなかろうから、そんな男が野菜を買うのは、いかにも不自然だ。どうやら生真面目で恋愛にはウブっぽい大工さんであるから、用もないのにざっくばらんに女の子に声をかけられるわけもない。

ところが、そんな、遠くから見ているだけであったあの娘が、ある日なんとわらぐつを売ってるのである。チャンスである。この機を逃すな!である。わらぐつなら、独身男の自分が買っても、不自然ではない。持てる勇気を振り絞り、エイヤッとばかりに購入である。緊張しすぎて、
「このわらぐつ、おまんが作んなったのかね」
とか何とか、気のきかないことしか口にできなかったけど、初めて彼女と話をすることもできた。大収穫である。その夜は、買ってきた不細工なわらぐつをかき抱いたり撫でまわしたりしながら、「あの娘の、あの手が、あの白い指が、このわらぐつを編んだのだなあ、ああ、ちょっと、彼女の匂いがする、ふがふが」などと、悶々としたに違いない。

この大工さんの不器用なところ、あるいは生真面目なところは、それから毎回、おみつさんのもとへわらぐつを買いに通いつめてしまったことにもよく表れている。はたから見れば、わらぐつではなく売り手の女の子目当てであることがバレバレなのであるが、恋に盲目となった若者には、そんなことに気を回す余裕などない。あるいはもしかしたら、ウブウブとはいえ、わずかな野生の本能でもって、
「これは、脈がある!」
と無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
そして、運命のあの日。いつになくモジモジしていた彼女が口にしたのは、
「あの、おらの作ったわらぐつ、もしかしたら、すぐいたんだりして、それで、しょっちゅう買ってくんなるんじゃないんですか。もし、そんなんだったら、おら、申しわけなくて‥‥」
というひと言で、ああっ、天よ、この娘の素直さ、純情さを見たか! 今どき、こんな慎み深いことを、彼女以外のほかの誰がいおうか! むはー、たまらん、萌えるーっ! すかさず、こういうときのために考えに考えておいた心のFAQの中から、
「ああそりゃじょうぶで、いいわらぐつだから、仕事場の仲間や近所の人たちの分も買ってやったんだよ 」
と、さらりと返答。おお、彼女も納得してくれたようだ。よっしゃー、いける! 今が好機だ、がんばれ俺! 男は度胸! 毎晩毎晩ひそかに練習してきたあのセリフを言うのだ、今こそ口にするのだ! えいやーっ!
と、相手の都合も考えず、いきなりプロポーズしてしまうのである。これが、若さ、ってことなのね。(注3)
で、見事玉砕、ということにもならず、唐突な告白に彼女は白い頬を夕焼けのように染めることで同意し、ああ、やったぜ、俺、よくやった、むひょー、この真っ白な肌の純朴娘のおみつちゃんは、ついに俺のものだーっ!!!

*          *          *

と、以上のように、男である大工さんの視点から見てみると、この話はきわめてストレートな、他愛のない、真っ正直な純愛ストーリー、のように思える‥‥のだが、もちろん、そんな単純な話ではないことを、大人の皆さんならおわかりであろう。これで終わってしまったら、「恋愛テクニック」などというものが顔を出す余地がない。しかし、男にとっては単純に見えても、女からすればきわめて複雑に込み入っているのが恋愛の常である。そしてこの物語は、大工さんであったおじいちゃんが語るものではなく、おみつさんだったおばあちゃんが語るものなのだ。

この「わらぐつの中の神様」の巧妙さ、そして作品としてのおもしろさは、おみつさんの恋愛物語が、おばあちゃんが語る劇中劇のかたちをとっている、ということにある。おみつさんの物語が、そのままここに書かれている通りであったとしたら、「昔あるところに‥‥」で始めればいいのである。それを、なにゆえわざわざ劇中劇に仕立て上げたのか。芥川龍之介の「藪の中」を持ち出すまでもなく、このことは当然、登場人物のひとり(すなわちおばあちゃん)がつむぐ物語は必ずしも字面どおりの事実ではない、ということを意味しているはずだ。

もちろん、おばあちゃんの語る物語のすべてがでっち上げということはなかろう。物語にオチをつける雪げたという物証が残っているのだし、何より、結婚した相手である大工さんが、おじいちゃんとしてまだ立派に存命しているわけで、彼の記憶に反するようなことをいうわけにもいかない。物語の筋や、登場人物のセリフとして語られていることは、まずおおかたこの通りであったと見て、間違いはない。
問題とすべきは、おみつさんの心の中である。今はおばあちゃんとなっているおみつさんが自分のことを語るわけだから、「おみつさんが思っていたこと」なんていくらでも改変できる。今はおじいちゃんとなっている大工さんに、その心の真実を打ち明けてないとすれば、なおさらだ。そしてこのおばあちゃんは、自分の物語のクライマックスの部分で、「白いほおが夕焼けのように赤くなりました」などとしゃあしゃあと描写するような女なのである。

*          *          *

では、そもそもの始まりから、検証してみよう。まずは、なぜいきなり雪げたが欲しくなったのか、である。
「いつもは、余計な物など、ほしいと思ったことのないおみつさん」なのである。それなのに、「白い、軽そうな台に、ぱっと明るいオレンジ色のはなお。上品な、くすんだ赤い色のつま皮は、黒いふっさりとした毛皮のふち取りでかざられて」いる雪げたを、ひと目見た瞬間から欲しくなり、「市で野菜を売っている間も、あの雪げたのことが、おみつさんの頭をはなれません」というほど。「どうしたことか、この雪げたばかりは、なんとしてもあきらめられないのです」。
こんなにも雪げたが欲しくなったその理由については、おばあちゃんは「どうしたことか」などと物語りめかしてごまかしてしまっている。とはいえ、その理由を推し量ることは、難しくない。ようするに、おみつさんも、そういうお年頃になった、ということだ。(注4)

ここで鍵となるのは、そんなおみつさんに対する世間の客観的な評価である。おばあちゃんの語りをそのまま受け入れるとすれば、おみつさんはこんな娘であった。
「おみつさんは、特別美しいむすめというわけでもありませんでしたが、体がじょうぶで、気立てがやさしくて、いつもほがらかにくるくると働いていたので、村じゅうの人たちから好かれていました」
ルックスに関しては謙遜と思われなくもないが、しかし「村じゅうの人たちから好かれて」いたことが真実だとすると、たしかに器量は十人並みであったのだろう。これがもし「美人で、体がじょうぶで、気立てがやさしくて、いつもほがらかにくるくると働いていた」としたら、たいていの男たちからは好かれるとしても、必ずしも女から好かれるとは限らない。まあ、端的にいえば、一般的な男から見た女として、恋愛の対象としては、いわゆる「いいひと」止まり、という感じであったわけだ。
周りのそうした評価は、恋愛にも男にもそれほど興味のない子ども時代までは、本人としても別に気にするものではなかっただろう。しかし、いったん恋愛や男について考える年頃になると、「いいひとだね」などといわれて気をよくしてばかりではいられない。体がじょうぶで、気立てがやさしくて、いつもほがらかにくるくると働くのもけっこうだが、しかしいつまでもそれだけで通していくわけにはいかないのだ。
意識的にせよ無意識的にせよ、おみつさんは、これまでの自分からの突破口、何らかのブレークスルーを求めていたに違いない。そんなおみつさんだったからこそ、げた屋さんで見かけた雪げたに、思わず目を奪われたのだ。実際に、物語中でもこう語られている。
「見ただけで、わかいむすめさんの、はなやかな冬のよそおいが、目の前にうかんでくるようです」
もちろん、わかいむすめさん=おみつさん、である。この雪げたがあればわたしも‥‥。若い娘なら誰もが思い描く夢を、おみつさんも見たはずである。

さて、その雪げたを購入するための手段としておみつさんが選んだのが、くだんのわらぐつづくりであったのだが、しかし、なぜわらぐつなのだろうか。小学生のときには深く考えなかったかもしれないが、大人になった今、あらためて考えてみてもらいたい。
わらぐつをつくろう、を思いついた理由のひとつは、お父さんがつくっていたからである。しかし、ということはつまり、わらぐつとは大人の男がつくるようなものなのである。年端も行かない娘であるおみつさんが挑戦しても、満足なものがつくれないことは初めから明白だったはずである。

もし、市場で売れる商品としての完全性を求めていたとすると、ここでわらぐつを選んだのは明らかに誤りである。これまでつくったことのないわらぐつなんかよりも、くるくるとよく働く彼女のこと、お裁縫などはお手の物だったであろうから、そうした自分のスキルを生かした商品を生産する、というのが真っ当な判断だったはずである。
しかし、おみつさんは、あえてわらぐつを選んだのだ。そこに巧妙な計算が働いていることを、もはや小学生ではないわれわれは見逃してはならない。

たとえば、得意の裁縫を生かした袋物などをつくれば、たしかによくできたものが仕上がっただろう。しかし、裁縫ができる女なんていくらでもいるわけで、それが商品として市場価値を持つかどうかは微妙なところである。しかも袋物のようなものでは、買い手は女ばかりである。
一方、わらぐつならどうか。女だけではなく、男も買うものである。そして男が買うとなれば、商品それ自体の価値以上に、売り手である自分という存在が生かせるではないか。これがもし、隣のオバチャンに委託して販売してもらう、というのであれば、出来損ないのわらぐつでは無価値であろう。だが、そうではないのだ。器量は十人並みとはいえ、若い娘である自分が売るのである。たとえ隣でオバチャンが完璧なわらぐつを売っていたとしても、自分がはにかんだ笑みを浮かべて売る不細工なわらぐつのほうを、男なら選ぶはずである。

いや、むしろおみつさんの本当の狙いは、その先にあったといっていい。孫のミツエ相手の小学生向け物語の中では明言していないが、その後の展開から明らかなように、おみつさんの本心は別なところにあったのだ。一足の雪げたをきっかけに、おみつさんは女の智謀を一気に開花させていた。本当の狙い、すなわち、わらぐつを売ることが男女の出会いを導く、ということである。

おみつさんは、計算したのだ。今までのように、家の手伝いをして、弟と妹の面倒を見て、畑仕事をして、野菜を売る、というライフサイクルの中では、若い男と接触することもままならない。市で野菜を売っても、買っていくのは女か子どもばかりだ。だが、売り物がわらぐつなら、男が、それも若い男が買ってくれるかもしれない。
いや、「かもしれない」なんていう不安定なものではいけない。若い男が買うべきものをつくればいい。わらぐつに男物・女物の区別があったかどうかわからぬし、おばあちゃんは語りの中で、
「少しくらい格好が悪くても、はく人がはきやすいように、あったかいように、少しでも長持ちするようにと、心をこめて、しっかりしっかり、わらぐつを編んでいきました」
としか述べていない。だが、おみつさんがつくりあげたわらぐつが、大柄なたくましい男が履いてもいいような、大きめのわらぐつだったことは間違いなかろう。少なくとも、小柄な女性が自分用に購入してしまうようなものではなかったはずである。

できあがったわらぐつは、「右と左と大きさもちがうし、なんだか首をかしげたみたいに、足首の上のところが曲がっています。底もでこぼこしていて、ちゃんと置いてもふらふらするようです」という不細工なものであったのだが、そうした真の狙いからすれば、このほうが好都合である。こんな不細工なわらぐつを買う男がいるとしたら、それはおおかた、わらぐつが欲しくて買ったというより、自分という若い女とのふれあいを求めたものだと判断できる。これがもし商品として完璧なわらぐつであったらとしたら、それを購入する男がいたとしても、自分が狙いなのか、あるいは本当にわらぐつが欲しかったのか、判断できかねるではないか。
小学生にはわからぬことであるのだが、おみつさんは、商品としてのわらぐつを生産しているわけではないのである。男と出会うためのきっかけをつくっているのだ。わらぐつは、品物というよりも、むしろ記号なのである。
そしてさらに付け加えるとすれば、不恰好なわらぐつを売ることで、ことさら美人でもない自分の真っ正直で純朴なキャラクターをアピールできる、ということも考慮に入れたはずだ。雪げたがまだ手に入らない今、はなやかな美人路線よりも、とりあえず身の丈にあった素朴路線でいこう、という堅実なイメージ戦略である。
小学生には思い及ばぬことであろうが、わらぐつをつくる、というただそれだけのことに、以上のようなおみつさんのしたたかな計算が働いていたのだ。

そして、結果的に好みの男性との出会いが実現しなかったとしても、少なくとも現金収入は得られるだろう。ちまちまとお金を貯めて、雪げたを買えばいい。恋愛については、その雪げたによって少し自分をグレードアップさせて、そこからまた次の勝負を考えればいい。
最上の策が破れても、それによって次善の策が生きる。二段構えのこの戦法。くるくるとよく働くおみつさんのすることには、何事にも無駄がないのだ。

さて、そんな「プロジェクトわらぐつ」とでもいうべき計画を胸に秘め、わらぐつをたずさえ市に出たおみつさんなのだが、現実は意外に厳しいものであった。
「へええ、それ、わらぐつかね。おらまた、わらまんじゅうかと思った」
などとからかわれるのがせいぜいのところ。実際に買ってくれる男(というか、売りたい男)はなかなか現れない。
「やっぱり、わたしが作ったんじゃ、だめなのかなあ」
などと孫相手の物語では語っているのだが、本心は「もしかして、わたしってホントに魅力がないのかなあ」ともっと切実なものであっただろう。さしものおみつさんの自信も尽きかけたそんなとき、しかし、ひとりの男が目の前に立ったのだ。例の大工さんである。女郎蜘蛛が巧妙にはりめぐらせた巣に、ようやくかかった獲物であった。

さて、先ほど明らかにしたように、この時点において、大工さんの方はすでにおみつさんに思慕の念を傾けているのだが、おみつさんは大工さんのことを別にどうとも思ってはいない。たとえおみつさんがすでに大工さんのことを知っていたとしても、彼女の「プロジェクトわらぐつ」は、不特定多数の若い男性を対象にしたものなのである。
とはいえ、この初日はともかく、2回目、3回目と続けて大工さんがわらぐつを買いにきたことで、当然おみつさんは、彼が自分に気がある、いや、恋しているのだ、ということを見抜いたであろう。そして、おみつさんもまた大工さんのことを、好ましく(というか、まあ「不可」ではない、と)思ったわけだ。もし彼がおみつさんの気に染まない男であったのなら、3回目あたりで、
「あんたがわたし目当てなのはバレバレなんだよ、このキモオタ。ストーカーか? これ以上わらぐつ買ったら警察呼ぶぞ」
などと啖呵を切っていたはずだ。「プロジェクトわらぐつ」の最初のステップは、見事クリアである。

さて、恋愛関係において、どちらがどれだけ相手のことを好きか、そうでないか、は両者の力関係にダイレクトにつながるものである。とくに恋愛の始まりにおいては、そうである。大工さんのことを、キモオタと思っていない程度のおみつさんは、その彼女を一途に恋している大工さんに対して、格段の余裕を持っていたことだろう。
当然、おみつさんは大工さんの身辺を、これが自分にとってふさわしい男かどうか、それとなく手を回して調べたに違いない。身持ちはどうか、借金は抱えてないか、親は寝たきりでないか、親類に犯罪者はいないか‥‥。あるいは、最初の獲物である彼は見送って、次の獲物に賭けてみるのもいい。その場合、彼以上に条件のいい男が現れる可能性はいかばかりか‥‥。
なに、あせることはない。気に入らないことがあれば、いつでも手を引けばいいのだ。嫌になったら、わらぐつを売るのをやめればいい。わらぐつという餌を引き上げてしまえば、大工さんには、もうなすすべがないのである(注5)。ただ、新潟の田舎町にあっては、出会いの機会は必ずしも多くはない。それを考慮したうえで、慎重に、しかし可及的速やかに判断はくだしたい‥‥。
結局のところ、おみつさんの立場は選別する側であり、大工さんは選別される側なのである。この関係にあって実質的に優位に立っているのがおみつさんであることは、大人であるわれわれには明らかであろう。

ところが、である。何度もいうように、おみつさんが売っているのは、不細工なわらぐつなのである。心はこもっているかもしれないが、不細工で商品価値はほとんどないわらぐつだ。それを購入している大工さん(おみつさんに比べるとずいぶん単純な思考の持ち主である大工さん)は、当然ながら、
「もし俺が買ってあげなかったら、誰も買う人がいないかもしれない」
といった多少の優越感を感じていたはずである。まあ実直で人のいい彼のことであるから、偉そうな顔をしてわらぐつを買うことなど一度としてなかっただろうが、しかし心の片隅に、そんな気持ちがなかったとはいいきれない。
不細工なわらぐつを媒介として、おみつさんが売り手、大工さんが買い手、という関係を維持している限り、はたから見れば、力関係で優位に立っているのは大工さんなのであり、実際に大工さん自身もそう思わせられているのだ。見かけ上は優位に立っている、というそんな関係性についての認識が、好きな娘に告白するという一大決心を後押ししなかったわけがなかろう。
相手には自分が優位だと思わせておきながら、実際には、すべてがこちらの掌の上‥‥。彼女は、そこまで計算に入れて、不細工なわらぐつを売っていたのである。この作品が「恋愛のテクニック」について語っている、という意味が、そろそろわかっていただけただろうか。

さて、周到に網をはりめぐらせて、計画通り獲物はかかった。いちばん最初の獲物ではあるが、どうやら次を待つまでもなく、満足できそうな上玉である。あとは相手が最後の一歩を踏み出すのを待つだけだ。「待つ」というと、いかにも受身のように聞こえるが、その「待つ」という行動によって、おみつさんは積極的に攻めているといっていい。釣りには待つことがつきものだが、そもそも最初に釣り糸を垂れなければ、魚がかかることもないのだ。「攻撃は最大の防御なり」などと兵法にはいうけれど、恋愛においてはしばしば、「防御は最大の攻撃なり」なのである。

そして、十中八、九、勝利を確信したところで、ちょっとした誘いの手を出してみる。巧みなテクニックだ。例の「あの、おらの作ったわらぐつ、もしかしたら、すぐいたんだりして、それで、しょっちゅう買ってくんなるんじゃないんですか」という、たどたどしい問いかけである。
おばあちゃんは語りの中で、「すぐいたんだりして」などといっているが、そんなわけはなかろう。頑丈なだけがとりえの丈夫なうえに丈夫なわらぐつなんである。どんなはき方をすれば5日で壊れるというのだ。
それに対する、大工さんの返事が、何度も引用するが、この言葉。
「ああそりゃじょうぶで、いいわらぐつだから、仕事場の仲間や近所の人たちの分も買ってやったんだよ 」
こんなもの、女子からしてみれば、言い訳になっていないどころか、赤裸々な告白にも等しいではないか。が、こんなバレバレなことをいってしまうあたり、かわいげも感じられる。おみつさんは、この人なら一緒になっても、自分の手のひらの上で転がせる、という確信を強めたことだろう。

そして、クライマックス。ついに大工さんの告白である。
ここだけは、もしかしたら、おみつさんの計算の範囲外だったのかもしれない。「ちょっとそこでお茶を一緒に」でもなく「つきあってください」でもなく、いきなりのプロポーズ。ひと足飛びの結婚申し込みである。大工さんにしてみれば、最後に男の意地を見せた、といったところだろうか。
まあしかし、それも時期が早いか遅いかの問題でしかないわけで、所詮はおみつさんの掌の上。思いがけず早まった収穫のときに、一瞬、虚を突かれながらも、乙女らしい最後の総仕上げにぬかりはない。垂らした釣り針に、若い大工という絶好の魚がかかり、そうして、ついに釣り上げる、緊張のその瞬間。最後まで気を抜くことは許されない。
白いほおを夕焼けのように‥‥、語るおばあちゃんも、さぞかし熱が入ったことだろう。

これにて「プロジェクトわらぐつ」は完遂である。当初想定していた中でも最上の策により、しかも計画以上のスピードでもって男がゲットできたのだ。
あの雪げたも、結婚後に大工さんが買ってくれた。自分でちまちまとお金を貯めて買うよりも、何倍も嬉しいではないか。ただし、すでに男をゲットしたおみつさんにとっては、このかわいらしい雪げたは、もはや無用のものであったということも事実である。雪げたは、あくまで「プロジェクトわらぐつ」において、わらぐつを介した出会いが実現しなかった場合の次善の策のためのものだったのだから。せっかく買ってもらった雪げたをついに履かず仕舞いだった、というのも、そんな理由があってのことだろう。

物語の最後の場面、この雪げたを目にしたマサエが、
「だけど、おじいちゃんがおばあちゃんのために、せっせと働いて買ってくれたんだから、この雪げたの中にも神様がいるかもしれないね」
と感想をもらすわけだが、国語の授業だと、ここで、
「この“神様”とはいったい何ですか。別の言葉に置きかえてみましょう」
という問題が出されるのが定番である。小学生としての正しい答えは、「使う人のことを考えて心を込めてつくること、さらにいえば他人のことを心から思いやる気持ち、それを神様という言葉で言い表した」というようなことなのだろうが、実際にはそんな甘っちょろいものであるわけがないことは、ここまで読んでいただいた皆様には明らかであろう。
ここでいう神様とは、おみつさんの、マイナスをプラスに転じる逆転の発想、そして強固な意志と実行力、そうしたものの象徴にほかならない。この雪げたにもし神様が宿っているとしたら、それは「勝利の女神」以外の何者でもないのだ。
ただ待ち望むだけの女には、白馬の王子様は現れない。神様も、王子様も、自分でつかまえなくては手に入らない‥‥。「他人を思いやること」も確かに大切かもしれないが、この物語にはそんな、人生を生きていくうえでもっと実践的なメッセージが秘められているのである。(注6)

*          *          *

さて、蛇足ながら最後にもう一点、指摘しておきたいことがある。この部屋にいるのは、おばあちゃんとマサエだけではない。「どれどれ、わたしも」と、お母さん、すなわちおみつさんの娘も同席している、という点である。
当然お母さんは過去に、このおばあちゃんの話を聞いたことがあるのだろう。いや、もっと深い部分、今回マサエに語った小学生向けバージョンでは触れられなかった、「プロジェクトわらぐつ」の真実に近い部分も、聞かされているに違いない。
母から娘へ、娘から孫へと、語り伝えられる恋愛の技法。いずれマサエが年頃になったら、おばあちゃんにはあらためて「プロジェクトわらぐつ」を語ってもらわなきゃ。あるいは、お母さん自身が、夫をゲットしたときのプロジェクトを語ってもいい‥‥。
そんな将来を思い描きながら、お母さんはマサエに愛情の眼差しを注いでいたのかもしれない。

そして、そのころ、この家の男たちはどうしていたか。お父さんは泊まり番で帰ってこないし、おじいちゃんはおふろ屋さんに行って留守。男どもは何も知らぬままに、いつまでも女たちの掌の上で転がされ続けるばかりなのだった。





(注1)太宰治「満願」は『走れメロス』(新潮文庫)所収。夫が肺を病んで、それが治るまでは夜のほうを禁じられてた若い奥さまに、ようやくおゆるしが出て、「ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした」。文庫でわずか2ページ余りの小品だけど、このすがすがしいお色気は絶品。
夏目漱石「三四郎」の冒頭部分は有名ですね。上京してくるときに汽車に乗り合わせた女と、名古屋で同宿することになってしまい、何もせぬまま一夜を過ごした挙げ句に、別れ際、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」とニヤリと笑われる、というエピソード。

(注2)ただし「ロミオとジュリエット」の場合は40日どころではない。出会ったその場で恋に落ち、その次の日にもう結婚である。

(注3)ちなみに、プロポーズのときのセリフについては、いささか検討の余地があると思われる。
「いい仕事ってのは、見かけで決まるもんじゃない。使う人の身になって、使いやすく、じょうぶで長持ちするように作るのが、ほんとのいい仕事ってもんだ」
なんていうのは子どもならだませるが、大人相手にはふつう通用するものではない。一般的には、「使う人の身になって、使いやすく、じょうぶで長持ちするように」つくられたものというのは、見かけもいいものなんである。しかも、この人は大工なのである。いかに住みやすかろうと、見た目が不細工な家に、人が住みたがるとは思えない(実際にはむしろ、いかに住みにくかろうと、見た目がスタイリッシュな家のほうが喜ばれる)。

(注4)「おみつさんは、なぜ雪げたがほしくなったのですか」という設問がテストに出てきたら、たいていの小学生男子は正答を書けないだろうなあ。

(注5)このあたり、もし大工さんが、おみつさんの意図をわきまえたうえでわらぐつを買っているとしたら、「恋という言葉をひと言も口に出さない、わらぐつという記号を介してのみ展開される、きわめて洗練された恋愛ゲーム」という様相を呈してくるのだが、おそらくそこまでは大人向けの作品ではない。

(注6)あるいは、小学校高学年の時点で、女子の本能によってこの正しいメッセージを読み解けるかどうかが、将来「勝ち犬」となるか「負け犬」となるかの分かれ目なのかもしれない。
[2005.12.18]
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