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ドラえもん犯科帳 「温泉ロープ」









 その日。
 会社の慰安旅行から帰ってきたのび太のパパは、
「温泉につかりながら、一杯やったんだ。ひさしぶりにのんびりと生き返ったような気がしたよ」
 と、いったものである。
 膳の上には、蜆の味噌汁、葱をきざみ入れた炒り卵に焼海苔などが出ていて、
「この蜆汁。さすがはママ、粉山椒が程よくきいている」
 などとパパ、上きげんである。

 二階の勉強部屋にもどりながら、のび太がドラえもんに尋(き)いた。
「温泉てそんなにいいものなの?」
「入ってみる?」
「つれてってくれるの?」
「いや」
 いいながら、ドラえもんは、腹のポケットの中に手をさし入れた。
「この部屋に温泉が湧き出すんだ」
 常日頃、のび太のわがままな要求に応えているドラえもんにとって、のび太の勉強部屋に温泉をしつらえるなど、
(まるで、気が抜けてしまうほど‥‥)
 に、たやすいことなのである。
「〔温泉ロープ〕!」

 取り出したのは、一見何の変哲もない、ただの縄である。ただし、両端はつながり、輪になっている。
「ひろげて畳の上に置くだけでいい」
 すると‥‥。
 床にひろげられた輪の内側が、一瞬にして水面へと変わっていた。いや、水ではない。やがて、ほの温かな湯けむりが立ちこめてきた。温泉が湧き出したのである。
 どこであろうと〔温泉ロープ〕をひろげると、その内側が温泉へと早変わりする、という仕掛けだ。いつものことながら、
(あざやかな‥‥)
 ひみつ道具である。

「うん、いい湯かげんだ」
 ドラえもんに続いて、のび太も服を脱ぎ捨て、湯の中へと飛び込んだ。
「いいにおい‥‥」
「このお湯は、体にいいんだ」
 たまった疲れがとれて、
「まるで生き返ったような‥‥」
 気分である。
 のび太は、うっすらと眼を開けると、呟いた。
「なんだか頭がよくなった気がする」
「1+1は?」
「11!」
 あきれたドラえもんを後目に、のび太は、ざぶり、と湯から飛び出た。
「温泉につかりながら、一杯やろう」
 いったん、廊下へ去ったのび太は、まだ充分に成熟しきらぬ蚕豆を青々と茹であげた一鉢とつめたい麦茶のグラスを抱えてあらわれた。
 湯につかりながらの飲み食いは、格別である。
「はらわたへ、しみわたるとはこのことか‥‥」
「いい湯だな、いい湯だな」
 ほどよく体が温まってくると、
「ほんとにいい湯だった」
 片づけるのも、たやすい。ドラえもんは〔温泉ロープ〕の端をつまむと、
「パッとめくればおしまい」
 そこには元の畳があるばかりだ。すでに、温泉の影もかたちもなかった。
(さすが‥‥)
 未来のひみつ道具である。





 さて‥‥。
 こうなるとのび太、いつもの虫がさわぎだす。
「うちに温泉があるって、みんなに自慢してこよう」
 さっそく家を飛び出したものだ。
 と‥‥。
「や‥‥」
 のび太の両眼が、ぬらりと光った。
 通りを急ぐ人びとの中に、しずかの姿を見かけたからである。

 しずかは、ピンクのカーディガンにミニスカートをはき、ゆいあげたばかりの髪も颯爽として、白いハイソックスにスニーカーといういでたちである。
 ふつうの小学生ふうの地味なつくりであるが、その足のはこびに、女の精気がはずみきっていた。
「やあ、しずちゃん。どこ行くの」
「うちのお風呂がこわれたの」
 しずかは、手に抱えた湯桶を眼で示した。
「それでお風呂屋へ?」
「行ってみたら、お休みなの」
 ちらりとのび太の眼が輝き、瞼の底から針のような光がのぞいた。
「それはよかった」
「よくないわよ! 一日でもお風呂に入らないと気持ち悪いのに」
 背を向けるのへ、のび太は追いすがって、
「うちの温泉に入ればいいよ」
 しずかの眼の色が、わずかに動いた。
「温泉!?」
 つぶやくようにいい、あらためてのび太を見あげた。だが、女の勘ばたらきが、しずかに何かを教えた。
「‥‥やめとくわ。のび太さんのとこでお風呂に入るなんて」
 しかし、のび太はしずかの体を知り尽くしていた。勿体ぶって後ろに手を組むと、
「いいでしょ。垢と汗で体が‥‥」
 いいさして、しずかを上眼づかいに見やり、
「かゆくなるだけのことだから」
 それをきいては、しずかはのび太に付き従うしかなかった。
(ああ、もう‥‥たった一日、お風呂に入らないだけなのに、どうして、私は、このような‥‥)
 居ても立ってもいられぬ気もちになってくるのが、しずかは、わがことながら、
(あさましいこと‥‥)
 だとおもう。
 あきらめがついた後のしずかの面(おもて)には、一種の決意のようなものがあらわれているのを、のび太は見逃さなかった。
 新緑の木立が生ぐさいまでに匂い立っていた。

 しずかを連れて、洋々として部屋に戻ってくるや、のび太はドラえもんにいった。
「温泉を出してあげて」
「どうぞどうぞ」
 くだんの〔温泉ロープ〕をひろげると、またしても瞬時に温泉があらわれる。
「ごゆっくり」
 のび太とドラえもんは、眼を丸くしたままのしずかを置いて、部屋を出た。
 ひとり残されたしずかは、服を脱ごうと、ボタンに指をかけた。
 だが‥‥。
(ほんとうに、この温泉に入っても、いいのかしら?)
 不安がないわけでは、決してないのである。
 もとより、ドラえもんが、いかに端倪すべらからざる猫型ロボットであるか、ということは、しずかも充分にわきまえている。
(なればこそ‥‥)
 のび太についてきたのだ。
 足元に湧く温泉も、たしかに気持ちよさそうだ。
 だが、目に映るのはのび太の勉強部屋。見知った仲とはいえ、他人の、しかも男の部屋で、
(乙女が裸になるなんて‥‥)
 できることではない。

 やむをえず、しずかは屹と居ずまいをただし、ドラえもんとのび太を呼んだ。
「やっぱりやめるわ。勉強部屋じゃ、どうしてもお風呂に入る気になれないの」
「ムードが出ればいいんだね。それじゃ‥‥」
 ドラえもんはポケットから何やら道具を取り出すと、
「〔立体映画〕でジャングル風呂!」
 しずかは、瞠目した。何の変哲もないのび太の部屋が、瞬時にして木々の生い茂る密林へと変わっていたからである。
「それで入れるでしょ」
 ドラえもんは舌の先でちろりと唇を舐め、茫然とするしずかを尻目に、のび太をつれて勉強部屋を出て行った。
 さて‥‥。
 あらためて周囲を見まわすと、湯槽へとおおいかぶさるように椰子や羊歯が茂ってい、その間をいかにも熱帯らしい極彩色の鳥が飛び交っている。これが現実にはのび太の勉強部屋だとは、
(夢にも思えぬ‥‥)
 あんばいである。
 こらえきれなくなったしずかは、おもわず湯の中へと手を差し入れた。
「あったかくていいにおい!」
 はらりと衣服を脱ぎ捨てると、
「もう、がまんできないわ」
 湯へと飛び込んだものである。

 日に三度は風呂に入るというしずかにとって、まさに至福のときであった。
 うっとりと眼を閉じ、湯槽の縁にあたまをもたせかけているしずかの胸のふくらみあたりへ洗い髪が藻のようにゆらいでいる。
 ふだんは、すらりと細身に見えるしずかなのだが、裸体は意外に肉置(ししおき)がゆたかであって、こんもりとふくらんだ乳房の先の、紅い小さな蕾の愛らしさを見たら、のび太はいわんや出来杉君といえども、
「ふうむ‥‥」
 瞠目するにちがいない。
 せまい勉強部屋にたちこめる湯気が、その体臭を中和させてはいるけれども、一日の間、しずかの肌身についた凝脂(ぎょうし)の濃さは如何ともしがたい。
「ああ‥‥」
 濛々たる湯けむりの中で、しずかは両手にわが乳房をつかみ、熱い吐息を洩らした。
 両眼を閉じ、微かに紅唇を開いているその態(さま)は、いかにも、
「うれしくて、うれしくて堪(こら)えきれぬ‥‥」
 様子であった。





 そのころ‥‥。
 階下の居間で、ドラえもんとのび太はテレビを見ていた。
「満足してるかな」
 どこからか、くちなしの花のにおいがただよってきている。
 そのときであった。
「宿題もしないでブラブラして!」
 鬼のような形相のママが、小廊下へあらわれた。
「いま、ちょっと部屋に入れないから、あとで」
「いつもそんなこといって、しないんだから!!」
 すばらしい大喝であった。
「いや、しかし‥‥」
「いいえ、すぐにやりなさい」
 しずかな声だったが、のび太に二の句をつがせぬきびしさがこもっていた。
「弱ったなあ」
 のび太とドラえもんは、思わず眼を見合わせた。
 見合せた二人の眼と眼が、暗く沈んだ色をたたえて、しばらく、むっつりと黙りこんでしまった。
「うれしそうに弱ってる‥‥」
 ふくみ笑いをしたドラえもんの、その笑いが不気味であった。

 すっかり晴れあがった青空に、遠く富士山が浮きあがって見える。
 のび太はひたひたと二階へのぼると、勉強部屋のドアをいきおいよく開け放った。
「きゃっ‥‥」
 不意を突かれたしずかは、あわててその色白の躰を折り曲げるようにして、湯の中へ沈めた。
「ママがどうしてもっていうから」
 湯けむりを割って、のび太は机へと歩み寄りながら、
「ほほう‥‥」
 一瞬、足をとめ、女ざかりの凝脂がみなぎりわたっているしずかの肩から喉もとのあたりへ、じろりと視線を射つけた。
 平常は青みがかるほどに白い肌へ、あざやかな血の色が浮かび、肩のあたりに二つ三つ散っている黒子を見ていると、のび太は思わず欲情をそそられてくるのだ。
(どうにもたまらねえ躰をしていやがる‥‥)
 胸が、早鐘のように鳴った。
 そんなのび太の思いを知ってか知らずか、
「いやな、のび太さん」
 にらんだしずかの眼差しは、妙に色っぽく、いたずらっぽい。
「ごめんごめん、おじゃましました」
 宿題道具を抱えたのび太は、もう一度ちらりとしずかの裸身を見やると、部屋を出て一階の居間に戻った。
 しかし‥‥。

「あ、消しゴム忘れた」
「とってきてやる」
 こたえて、われ知らず相好がくずれるのをドラえもん、いかんともしがたいのである。
「きゃあっ‥‥」
 またしても勉強部屋に、玉ぎるようなしずかの悲鳴が響きわたった。
「ほんとにのび太ってやつは、しようのないやつで‥‥」
 小さく身を縮めながら部屋へと入ってきたドラえもんだったが、その眼は、しずかの凝脂ののった体に、ねっとりとからみつくような視線を投げかけていた。
「早く出てって!」
 思わず、しずかは立ち上がると、白い乳房があらわになるのもかまわず、ドラえもんへ湯を浴びせかけたものである。

 居間に戻ってからも、
「まだ何か忘れ物なかったかなあ」
 にやけた顔で、二人はさきほど眼にした裸身を思い返していたが、やがてしずかが階段を下りてくる気配が伝わってきた。
 湯からあがったしずかは、すっかり身じまいをととのえていた。
「もうあがったの」
 化粧の気もないのに、女体からたちのぼる汗のにおいが、茴香(ういきょう)のような芳香をはなった。
「いちおうさっぱりしたから。どうもありがとう」
「またいつでも入りにきてね」
 挨拶もそこそこに出ていくしずかを見送ると、そのまま二人は勉強部屋に戻った。
(ああ‥‥)
 せまい部屋には、しずかの体臭が、まだ濃くたちこめている。
 少々名残惜しさを感じながらも、
「片づけとこう」
 さっと〔温泉ロープ〕をめくり上げると、
「あっ」
「しぶきを立てたから、畳が濡れた」
「ふいとかないと叱られる」





 そこへ‥‥。
「しずちゃんにきいたぞ」
「俺たちも温泉に入れろ」
 野比宅へあらわれたのは、ジャイアンとスネ夫である。
(おや‥‥?)
 のび太は一瞬、得体の知れぬ何ものかを、二人に感じた。
 ジャイアンとスネ夫の何処に、何を感じたかというと、のび太自身にも、それは、よくわからなかった。
 強いていえば‥‥それも、のび太流の表現でいうなら、
「また、やっかいなことになった‥‥」
 とでもいうより、いいようがなかったろう。
 それは、この世に十年ほど生きて来て、いじめられっ子としては何度も生死の間を掻い潜り、小学生としても常人には量り知れぬ体験を経ている野比のび太の感能があってこそ、嗅ぎつけたものであろうか‥‥。
「片づけちゃったよ‥‥」
 のび太は、にらむように二人を見つめたまま、沈黙した。そこへとどめを刺すように、ジャイアンが怒鳴った。
「女の子しか入れないっていうのか!?」
 ふるえあがったのび太は、二人を導き入れるしかなかった。
 どこかで、草雲雀(くさひばり)が透き通った可憐な声で鳴いてい、庭の向うの葦の群れが微かにそよいでいる。

「わあい、温泉プールだ!」
 ジャイアンとスネ夫は、衣服を脱ぎ散らかすと、しぶきをはねあげて〔温泉ロープ〕の温泉へと飛び込んだ。
「泳げ、さわげ」
 のび太は、気が気でならぬ。
「困るんだよ、お湯を散らさないで、静かに入ってよ」
「うるせえ!」
 そのさわぎを聞きつけて、階下にいたママはかっとしたものだ。
「二階でさわいじゃいけません!」
 立ち上がるや、身をひるがえして階段を駆け上がった。

 そのころ‥‥。
 ジャイアンとスネ夫は、おもしろい遊びを思いついたところだった。
「どっちが長いか、もぐりっこしよう」
「しよう、しよう」
「せーの」
 プクン、と二人の頭は、湯へ沈んだ。
 ママが勉強部屋のドアを開け放ったのは、そのときである。
 眼の前に広がっていたのは、部屋一面の水たまりだ。
「こんなに、びしょぬれにして‥‥」
 いいざま、ママの体は野鹿のごとく跳躍した。
「ぎゃあっ‥‥」
 不意を突かれたのび太が、部屋の隅へのめりこむように倒れる。
「待て!」
 前へ走り出たのは、決死の形相のドラえもんであった。
「きさまか‥‥」
 ママは凄い笑いを笑った。
「たあっ!!」
 わめきざま捨て身に飛び込んだ丸い体が、むなしく空間を切り裂いたとき、その髭をつかんだママは、
「鋭(えい)!!」
 ほとばしる気合声と共に、腰をひねり、左手ひとつで、こやつを投げつけたものである。
「うわ‥‥」
 悲鳴を発して倒れ、ころげまわるのを見やると、
「こんなひも捨てちゃいます!」
 いうや、〔温泉ロープ〕を拾い上げ、
「あっ‥‥」
 という間もなく、勉強部屋の窓から投げ捨てた。
 目ざましい早業である。
(げえっ‥‥!)
 ドラえもんとのび太は、おもわず声ならぬ悲鳴をあげた。

 ママが投げた〔温泉ロープ〕は、ふわりと弧を描きながら落下すると、足繁く通行人が行き交う道路の真ん中にひろがった。
 そこへ‥‥。
「プハー」
「あいこだったね」
 何も知らぬジャイアンとスネ夫が、湯の中から顔を出したのだから、たまらない。
「きゃあっ‥‥」
「き、きみたち、こんな往来の真ん中で!」
 悲鳴と驚きの声があがる。
 二人の眼の前には、のび太の勉強部屋ならぬ往来の風景が広がってい、通りがかった女子高生とサラリーマンが茫然と立ち尽くしていた。
(これは一体‥‥)
(どうしたこと‥‥)
 そこへ、二階の勉強部屋から、のび太とドラえもんが声をかけた。
「知いらない、知いらない」
 家の軒に巣をつくっている燕が一羽、矢のように疾り出て、大川のあたりをめざして飛び去っていった。





(注)いうまでもありませんが、この文章は、
「あの『ドラえもん』を、あの池波正太郎が書いたらどうなるか」
をシミュレートしたものです。池波正太郎が好きで、なおかつドラえもんも好きである、という人の、さらにその一部の人を対象としたものなので、これを読んでもちっともおもしろくない人も多いかと思います。また、池波正太郎が好きで、なおかつドラえもんも好きである、という人の中には、これを読んで怒りだす人もいるかもしれませんが、悪気はないので勘弁してください。
ちなみに、「温泉ロープ」の話は、てんとう虫コミックス「ドラえもん」22巻(小学館)に所収。せりふを含めて、ストーリーにはほとんど手を加えていません。(ママがのび太の部屋に入ってきたシーンだけ、大げさにしています。)
池波正太郎は、鬼平犯科帳、剣客商売、藤枝梅安シリーズの一部を参考にしました。
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