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芥川賞作家・樋口一葉







歴史にifはつきものである。
起こらなかったこと、存在しなかったことは、それが起こらなかった、存在しなかった、というただそれだけの理由で、われわれの想像力をくすぐり、ロマンをかき立てる。
もし日本が太平洋戦争を回避していたら。
もし織田信長が本能寺で殺されていなかったら。
もし関東大震災が起こらなかったら。
もし樋口一葉が24歳で夭折しなかったら‥‥。

むろん、所詮ifはifである。起こらなかったこと、存在しなかったことである。ifの帰結がどれほど魅力的であり、また光彩に満ちたものであったとしても、つまるところ絵空事でしかない。
しかし、だからといって、ifを考えることが無意味であるというわけではない。もしかしたらあったかもしれない歴史、実際の歴史が選び取らなかった出来事から逆照射することで、事実としての歴史が、より深みと陰影をもって立ち現れる、ということもありうるのだ。
そうしたことを念頭に置きつつ、今回はそんな「歴史のif」をひとつ、考えてみたい。
テーマは、これである。
「もし樋口一葉が、第130回芥川賞を受賞していたら」

えーと、ここで、なんというか、非難の声が聞こえてくるような気もする。
「あのー、それは、歴史のifとは、いわないんじゃないでしょうか」
と。
いや、でも、考えてもみなさい。歴史の中で事実として起こらなかったことを考えるのが「歴史のif」でしょう。そして事実として、樋口一葉は第130回芥川賞を受賞しなかったことに間違いはないですね(もちろん第何回であろうと芥川賞を受賞しなかったわけだが)。そうである以上、「もし樋口一葉が、第130回芥川賞を受賞していたら」という問題設定は、実際の歴史の中で存在しなかったことを「もしそうだったら、どうなるのかな?」と問うわけですから、立派な「歴史のif」ということになりませんか。
ということで、そのあたりについてはあまり深く立ち入らないことにして、早速本題に入ることにしよう。

さて、昨2003年、樋口一葉は第130回芥川賞を受賞してしまった、ということになりました。ホントは19歳で受賞できるとよかったのだけど、諸般の事情から23歳になってしまったのは、いたしかたない。19歳では一葉は、まだ半井桃水に出会ったばかりの頃なんである。(ちなみに桃水は一葉の師。後世の一葉研究の約87%は、「ふたりの間に肉体関係があったのかどうか」をテーマとしている。)
で、どんな作品で受賞したかというと、こんな作品である。

吉原のすぐ脇、大音寺前の信如と美登利は育英舎のクラスメート。やがて美登利は、龍華寺の信如の存在が気になってゆく‥‥。いびつな友情? それとも臆病な恋!? 不器用さゆえに孤独な二人の関係を描く。

おお、なんとも繊細そうではないか。
タイトルはずばり、
「たけくらべ」
選考委員のほぼ全員が、好意的、あるいは絶賛のコメントを寄せての受賞である。
《もどかしい気持、というのを言葉にするのは難しい。その難しいことに作品全体を使ってトライしているような健気さに心魅かれた。》
とは山田詠美。
池澤夏樹は、
《「たけくらべ」ではまず下町における異物排除のメカニズムを正確に書く伎倆に感心した。その先で、警戒しながらも他者とのつながりを求める心の動きが、主人公のふるまいによって語られる。人と人の仲を書く。すなわち小説の王道ではないか。》
高樹のぶ子は、
《いま若い人たちは単純でストレートな強さに反応し感動する。しかし人間はもっと複雑で割り切れない存在だということを文学は証明してみせる。この一作がまさにそうだ。》
と、いずれも手放しで大絶賛だ。
作品全文が掲載された「文藝春秋」と単行本は、あわせて250万部という、芥川賞受賞作にあるまじき空前の部数を達成。にわかに一葉ブームが巻き起こったことは、記憶に新しい。巷では、「たけくらべ、読んだ?」が挨拶がわりになったほど。図書館の予約は、いまだに10人待ち、20人待ちの状態だ。

とはいえ実のところ、世間の人々が関心を寄せたのは「たけくらべ」という作品の中身ではない。むしろ、雅俗折衷体でつづられたこの作品が、まともに理解されたかどうかすら、あやしいものである。なにしろ、冒頭の一文からして、
《廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、‥‥》
なのである。
「いと長けれど? 大音寺前? ハッ。このスタンスが、もうダメ。理解できない」
と、最初の1ページだけで本を投げ出してしまった人も、少なからずいると聞く。
では、樋口一葉のいったい何が話題を呼び起こしたのかといえば、まあ問うまでもなかろう。ずばり、彼女の容姿である。ルックスである。有り体にいうと、かわいいのだ。
と、ここで非難の声がまたもや聞こえてくるような気がする。
「あのー、樋口一葉って、そんなにかわいい顔でしたっけ‥‥」
いや、あなた、それはひねくれた見方というものでしょう。素直に彼女の顔を見てごらんなさい。凛とした眉、黒目がちの瞳、上品な薄い唇‥‥、清楚で知的で、こういう娘さんにちょっとキツイことをいわれたい!と、そんな気にさせるような雰囲気だ。
しかも23歳なんである。若いのだ。肌つるつるである。
今年40になる江國香織は、
「一葉さえいなければ、私の方が『美女作家、直木賞受賞!』と話題になったのに!」
と、地団駄踏んでくやしがったというではないか。(注1)

若くてかわいくて、芥川賞作家。当然、彼女に対するマスコミは食いつきぶりは、すさまじいものがあった。芥川賞発表の翌日は、東スポの一面を飾ったほどだ。純文学の作家がスポーツ紙のトップ記事になるなんて、三島由紀夫の自殺以来ではないか。
雑誌においても「文藝」から「プレイボーイ」まで続々と記事が組まれ、知識人も芸能人も、老若男女、誰もが言いたい放題。そのいい例が「週刊新潮」1月29日号の久世光彦で、森繁久彌についての連載「大遺言書」で、こんなことを書いている。
《「たけくらべ」を楽しく読んでいて、天啓のように閃いたことがある。この「大遺言書」を一度だけ、一葉ちゃんに書いてもらえないだろうか。あの残酷なくらい無邪気な目で森繁さんを見て、あの光る翼を持った文章で森繁さんを描いてくれたら、どんなに素敵なことだろう。‥‥。森繁さんは、若い女の子が大好きだから、一葉ちゃんに逢えばきっとご機嫌だろう。森繁さんは年はとっていても、 面白い人だから、一葉ちゃんは『シートン動物記』でも書くつもりで、自由で気楽に、そこにいてくれればいい。 》
68歳の作家ですら、その矜恃を忘れて、鼻の下をのばしているのである。

そして当然のことながら、ネット上は、もっと露骨である。2ちゃんねるでは、受賞直後から、樋口一葉、もとい「ひぐタン」萌えスレなどがどんどんのびて、すごいことになった。(注2)


20 :無名草子さん :04/02/08 20:28
ひぐの手を口に含みたい
ひぐの汗で塩分摂取したい

43 :無名草子さん :04/02/08 21:52
ひぐタンの足の指、一本一本しゃぶりたい!

75 :無名草子さん :04/02/08 23:17
ひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐひぐ

112 :萩の舎同級 :04/02/09 19:12
樋口さん、モテモテだけど、振りまくりだよ。
物凄い面食いなんだって。
私、ちょっとだけ話したことあるんだけど、そう言ってた。
文壇にはつまんないブ男しかいないってさ。
あすこまで理想が高い子は萩の舎女では珍しいよ。

114 :無名草子さん :04/02/09 19:15
>>112黙れ、消えろ、ブス! ひがむな!

261 :無名草子さん :04/02/10 23:05
ひぐタソのウンコなら喰える!

262 :無名草子さん :04/02/10 23:26
すまん、おれは無理

307 :無名草子さん :04/02/11 22:10
俺、ひぐタンと結婚してもHはしない。
一生処女のままでそばに置いておくよ。

308 :無名草子さん :04/02/11 22:13
>>307がいいこと言った!

381 :無名草子さん :04/02/12 00:18
樋口、絶対、処女じゃない!

382 :無名草子さん :04/02/12 00:22
絶対、処女です。
あの純粋極まる目を見ろ。
ひぐタンは100%間違いなく処女だ。

383 :無名草子さん :04/02/12 00:23
つうか、彼氏とかいたし。半井桃水とかいう、オッサン。
樋口って、ファザコンかも。
まあ知らないなら知らないでいいから無視してねw

384 :無名草子さん :04/02/12 00:26
↑ガセネタ来たーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

585 :無名草子さん :04/02/15 00:30
おい、2chに本物のひぐタンが降臨してるぞ!
創作の裏話とか、いろいろ書き込んでる!
とにかく見てみそ!
ttp://news2.2ch.net/test/read.cgi/news7/1024567/49-

586 :無名草子さん :04/02/15 00:31
>>585ブラクラ


一部の週刊誌をも騒がせたのは、「一葉アイコラ」である。おっぱいボヨヨンなヌード、あるいはきわどい水着姿の女性の、顔だけは一葉へと加工された写真が、ネット上に氾濫したのだ。
これに対して、彼女の友人たちは、(こっそりうちではアイコラを収集していたとしても、表面上は)こぶしを振り上げて憤慨した。馬場孤蝶などはその筆頭で、整った顔を真っ赤に染めて、
「これは一葉さんに対する冒涜だ! 僕は許さんぞ!」
と咆哮したという。
ちなみに、一葉にはあまり友人がいない。中島歌子が主宰する歌塾「萩の舎(はぎのや)」では、貧乏士族の娘である彼女は華族のお嬢様たちの間では浮いた存在だったうえに、
「歌会の晴れ着? 緞子の帯? ハッ。あなたたちは着物を見てはしゃいでいるみたいだけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく」
というスタンスを保っていたのだから、しかたがない。女友達と呼べるのは伊東夏子と田中みの子くらいだったという。
むしろ、文名が上がりはじめてからの男友達との交遊の方が有名だ。前述の馬場孤蝶をはじめ、照れ屋の平田禿木、ざっくばらんな戸川秋骨、どこか偏執的なところがある川上眉山、温厚で大人っぽい上田敏、仲間のうちではいちばん気の置けない毒舌家・斎藤緑雨‥‥。連れだって、またはひとりで、遠慮なく自宅まで押し掛けてくる彼らは、一葉にとって、なかば友達以上・恋人未満の存在というべきか。

そんな中でも、いちばん気になっているのは、やはり孤蝶であろう。孤蝶の、あの一途さ、潔癖さ、純情さが、脆さが、ときどきたまらなくなる。あるときなどは、半分泣きながら駆け込んできて、
「一葉さんっ、僕は、『文學界』を退社しようかと思うんです! 星野天知なんかと、どうしても一緒にやってられない。姉さんとも思ってる一葉さんにだけ、打ち明けますっ!」
なんて、大の男が健気なことをいう。
「孤蝶はあんまり潔癖すぎるんじゃないの」
と、あのときは、突き放すようなことをいっちゃったけど‥‥、と一葉は思ったりするわけである。でも、なぜか孤蝶に対しては、単純にやさしく接してあげることができないのだ。孤蝶がさびしい。彼を可哀想と思う気持ちと同じ速度で、反対側のもう一つの「激情」に引っ張られていく。孤蝶の傷ついた顔を見たい。もっとかわいそうになれ。

世間では、先生の半井桃水との関係が、けっこう噂になってるみたいだけど‥‥、と一方で考えたりもする。たしかに、小説を書きはじめたあのころ、桃水が輝いて見えたことは認める。憧れた。ぽーっとなった。押し倒されちゃってもいい、と思った。
でも実際は、彼、ちょっと堅物すぎた。男女二人が、ひとつの部屋にいたっていうのに。
そう、あの日も‥‥。「来てくれないか」とメールで呼び出されたから、勝負下着をつけて少し期待しながら訪ねていくと、
「こんど、若い書き手だけ集めた雑誌を出そうと思ってるんだ」
と、そんな話を持ち出された。
「名のある大家はひとりも入れず、芸術的な名誉と野心で、続く限りやってみようという計画なんだ」
と、火照った顔で、いわれて。
「でさ、」
口から唾が飛んできて、思わず目をつぶった。彼はごめんと言って慌てて私の目の下についた唾を親指でぬぐった。うぶ毛の擦れるしゃっという音が微かに耳に響き、指の腹の生あたたかい感触が肌の上に残った。と、彼は素早く私の背後にまわり、来た、ブラジャー外されるかも。手の中の菓子を握りしめ脇の下に力を入れたら、目の前に原稿用紙とボールペンが差し出された。
「15日までに、短編をひとつ書いてくれないかな」
って、何よ。

などと、大幅に話がそれてしまったが、一葉アイコラに戻ろう。本人である一葉自身は、どう思っていたのか。
興味本位で自分でもGoogleで検索してみて、最初に一枚目を見たときには、たしかに、
「酸っぱい。濃縮100%の汗をかがされたかのように、酸っぱい」
と、嫌悪と同時になんともいえない感覚におそわれたのだが、実際に口にしたのは、
「‥‥これは、無理がある」
のひと言。激高する孤蝶などに比べると、クールなものである。
孤蝶が、
「こんなことするなんて、陰湿にもほどがある。萩の舎の田辺龍子あたりが、一枚噛んでるんじゃないか。僕が行って問い質してこようか」
などというのをよそに、
「顔見知りの中に、アイコラをつくった人がいるとしたら、おそらく眉山ね」
と、透徹した作家の目で冷静に分析したりもしている。

「あるいは、むしろ‥‥」
と思う。こんな無理のあるアイコラが出回るよりは、私が自分で脱いでもいいかな、と。
「ひひひ、こんなアイコラのハダカよりも、本物のヒグッチの方が、よっぽどいいカラダしてんじゃねえの」
と、例によって口の悪い斎藤緑雨がそそのかしたから、というわけではないが、正直言って、身体には自信があるのだ。ふだんは着物を着ているから、傍目にはあまりわからないようだが。
すでに、男性週刊誌からはいろいろと誘いがあるわけだし。
これでまとまったお金が入ると、けっこう助かるし。ついこの前も伊東夏子ちゃんから8円を借りたばかりなのだ。

10年くらいして、30過ぎておなかもぽっこり出てきた頃に脱ぐと、みっともないとか何とかいわれそうだが、今ならできる。若い身体をきれいに撮ってもらって、永久保存版にしておくのもいいかとも思う。そういえば、
「若いんだから、今のうちにしかできないことをやれ」
と、4月号の「文藝春秋」で誰かも書いてくれていた。
「若いうちは、存分にうぬぼれるがいい。年を取るとそれができなくなる」
と、志賀直哉も小林秀雄に向かっていってる。私がこの身体を自慢にできるのは、今だけなのだ。
それに‥‥、とちょっと想像してみたりもする。
もし私が「脱ぐ!」といいだしたら、孤蝶はどう思うだろうか。私のことを「姉さん」なんて呼んで、清純なイメージを抱いてるらしい孤蝶は、どうするだろうか。
「い、い、一葉さんが、そそそそんな人だったなんて! 僕は、僕は‥‥」
と、背を向けるだろうか。背を向けて、丸まって、縮こまるだろうか。その、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がる孤蝶を見たい。川の浅瀬に重い石を落とすと、川底の砂が立ち上って水を濁すように、“あの気持ち”が底から立ち上ってきて心を濁す。いためつけたい。蹴りたい。愛しいよりも、もっと強い気持ちで。

‥‥とはいうものの、結局のところ樋口一葉は、脱いだりはしない。バラエティ番組のレギュラー出演者にもならないし、映画化された「たけくらべ」で主演を演じたりもしない。
なにしろ彼女は、24歳で死んでしまうのである。23歳でいきなり芥川賞をとったと思ったら、すぐ翌年には生を終えるのだ。のんびり次作の構想を練っているひますらない。書いて書いて、書きまくらない限り、
「芥川賞とっただけで終わった」
ということになってしまう。自らの最期のときを知らされているかのように、一葉は執筆に没頭する。「うつせみ」「にごりえ」「十三夜」「大つごもり」などと矢継ぎ早に作品を発表し、後世にいう「奇跡の14ヶ月」を駆け抜けた後、あっけなく世を去るのだ。



さて、話は彼女の死後へと飛ぶ。
文学史に燦然と輝く珠玉の作品群を遺しながら、国民栄誉賞はおろか何の褒章も得ずして夭折した国民的作家に対して、何をもって報いるべきか、という議論が当然起こってくる。そしてもちろん、
「お札の顔に」
という声があがるわけである。
「次の五千円札は、ぜひ樋口一葉にしましょう」
と。
だがしかし。これが仮に明治大正の作家、せめて戦前に没した作家だったら何の問題もなかったであろうが、樋口一葉は2003年に第130回芥川賞を受賞したばかりの現代女性である。しかも一般国民にとっては、作家というよりもアイドルに近い存在だ。
もし歴史にifがあり、
「樋口一葉が80歳まで生きたら」
ということであれば、短かったアイドル時代は作家としての長い経歴の前に影を潜め、大作家、文豪として一葉の評価は定まったであろう(もっとも、80歳まで生きたことで、結果的に記憶に残らないただの作家として埋もれてしまった可能性もあるわけだが)。だが幸か不幸か一葉は、アイドルとしてもてはやされたまま、若い盛りの、お肌の曲がり角を迎える前の24歳で死んでしまったのだ。

そんな彼女を、日本を代表するお札の顔にしてしまっていいのものなのか。と、良識を盾に一部の反対派が気炎を上げるわけである。しかも悪いことに、死後公開された日記には、
「若いうちに、脱いじゃうっていうのも、いいかもしれない」
などといったことが赤裸々に書きつづられていた。そんな人物をお札に採用していいのか。聖徳太子、福沢諭吉、夏目漱石、新渡戸稲造、これまでお札を飾った誰が「ヌード写真集、出してみようかな」などと考えたというのか。
第一、実際にヌードにならなかったとはいえ、一葉は卑猥なアイコラの素材にされているのだ。一部のマニアの間には、
「次の五千円札は、ひぐタンのヌードが絵柄になるって?」
「違うよ、透かしがヌードになってるんだよ」
「ぐふふ」
などというけしからぬ噂が広まっているという。
さらに、当然予想されることだが、一葉作品の文学的価値を知らぬ諸外国からは、
「日本はアイドルをお札にしたんだってよ、バカじゃないの」
という誤解を受けることにもなりかねない。
国内でも、
「それだったら、一葉よりも先に、夏目雅子をお札にしろ」
という、もう何やらよくわからぬ議論も起こったりして、ああめんどくさい。わかった。もういい。そんなことになるのだったら、白紙撤回。一葉をお札に採用するのは、やめましょう。与謝野晶子か林芙美子にしましょう、ということになる。

そんなわけで、もはやこのコラムのテーマが何だったか失念している読者も多かろうが、われわれはここでようやく結論に達した。
今回のテーマは、次のような問いであった。
「もし樋口一葉が、第130回芥川賞を受賞していたら」
それに対する答えが、今回の結論である。

もし樋口一葉が、第130回芥川賞を受賞していたら、新渡戸稲造に代わる五千円札の顔は、与謝野晶子か林芙美子になっていたことでしょう。



(注)当然のことながら、このコラムは、『蹴りたい背中』で第130回芥川賞を受賞した綿矢りさを題材にしています。『蹴りたい背中』を読んだことのない人には、意味不明な部分があるかもしれませんが、がまんしてください。ちなみに私は、まだ読んでません。
(注1)同時に直木賞を受賞した江國香織と京極夏彦は、ホントだったらもっと話題になってもよかったはずだが、綿谷りさ(および金原ひとみ)のおかげで、すっかり影が薄くなってかわいそうである。
(注2)以下、実際の綿矢りさ、もとい「りさタン」萌えスレッドを参考にしました。本物は、ここに引用できないくらいお下劣です。
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