手袋を買いに走れ 《シリーズ・ハイブリッド文学(1)》 |
《はじめに》 「21世紀はバイオの時代」 といわれている。 「そうそう、やっぱソニーだよね」 って、いえ、違います。それはVAIO。そうじゃなくて、バイオテクノロジー、生物工学のバイオである。 ヒトゲノムやらクローンやらES細胞やら遺伝子組み換え作物やら遺伝子治療やら、新聞を開いてバイオ関連の記事を見かけない日は、一日としてない。メンデルが「ころころ豆としわしわ豆とをかけあわせると、おっ、ころころ豆:しわしわ豆は3:1の割合か」などと気づいたのは、19世紀の半ば。それから150年もたっていないというのに、今やトウモロコシからプラスチックの原料をつくり出す乳酸菌が開発されちゃったりとか、もうすごいことになってるのだ。 引き比べて、われらが文学の世界はどうか。メンデルがエンドウ豆を研究していたころに比べて、文学は進歩したか。 否、と答えざるをえない。 この21世紀においてなお、いまだに、文学の遺伝子は発見されていない。 したがって当然ながら、 「池波正太郎作品のゲノム解明、それを利用して剣客商売シリーズの新作を創造!」 「『偸盗』と『きりしとほろ上人伝』の遺伝子を利用して、あの未完作品『邪宗門』が完成! 衝撃の結末!」 「遺伝子操作により、小学生にもわかる『失われたときを求めて』が誕生! 読書感想文に最適!」 などといったニュースは絶無。それどころか、たとえば、夏目漱石と司馬遼太郎をかけあわせたらどうなるか、夏目漱石と司馬遼太郎はどのくらいの割合で発現するのか、あるいは、 「『清(きよ)』 について書こうとしている。 清が私どもに物をくれる時には、必ずおやじも兄も居ない時に限っていた。 ついでながら清は、吉田松陰と同年のうまれである。」 なんてことになってしまうのか、そんな基本的なことすら、わかっていないありさまだ。まさにメンデル以前の暗黒時代。文学は生物学より150年以上の後れを取っているといっていい。 このままでは、いけない。 今こそ、立ち上がるべきときなのではないか。 立ち上がって、これからの文学の姿を、バイオ時代にふさわしい文学のありかたを、探求せねばならぬのではないか。 それ以外に、文学の生き残る道はないのではないか。今のままでは、遠からず文学はバイオテクノロジーに併呑され、 「長編小説を分解して俳句にするバクテリアを開発」 「メタンガスとアンモニアから短編小説を合成する大腸菌を実用化」 「大腸菌が生産した小説、ついに芥川賞受賞!」 ということになってしまうに違いない。エッ、どうなのか、諸君は、それでいいのか。大腸菌が合成した小説を読まされることになっても、いいというのか。どうなのだ。 そうした喫緊なる問題意識を背景として、これから立ち上げるのが、「ハイブリッド文学」シリーズである。(注1)ハイブリッド=交配、とメンデル以前の未熟な試みではあるが、しかし千里の道も一歩から。現今の安閑とした文学状況に、わずかな小波であっても立てることができれば幸甚である。 以下が、その最初の試作。 太宰治と新美南吉の名作をかけあわせてみたところ、母と子の愛憎と相克、そして和解の物語、愛する母の過去のあやまちを知った息子が、いかにそれを克服し、受容するにいたるのか、といった深遠なテーマの小説が生まれることがわかった。 シリーズ・ハイブリッド文学(1) 「手袋を買いに走れ」 太宰南吉(注2) 子狐は激怒した。必ず、除かなければならぬと決意した。「母ちゃん、眼に何か刺さった、ぬいて頂戴早く早く」と言いました。 母さん狐がびっくりして、あわてふためきながら、眼を抑えている子供の手を恐る恐るとりのけて見ましたが、何も刺さってはいませんでした。母さん狐は洞穴の入口から外へ出て始めてわけが解りました。昨夜のうちに、真白な雪がどっさり降ったのです。その雪の上からお陽さまがキラキラと照していたので、雪は眩しいほど反射していたのです。雪を知らなかった子供の狐は、あまり強い反射をうけたので、眼に何か刺さったと思ったのでした。子狐は、人一倍に敏感であった。 子供の狐は遊びに行きました。村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた市にやって来た。衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。真綿のように柔かい雪の上を駈け廻ると、雪の粉が、しぶきのように飛び散って小さい虹がすっと映るのでした。 間もなく洞穴へ帰って来た子狐は、 「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」と言って、濡れて牡丹色になった両手を母さん狐の前にさしだしました。母さん狐は、その手に、は――っと息をふっかけて、ぬくとい母さんの手でやんわり包んでやりながら、かあいい坊やの手に霜焼ができてはかわいそうだから、夜になったら、町まで行って、坊やのお手々にあうような毛糸の手袋を買ってやろうと思いました。 暗い暗い夜が風呂敷のような影をひろげて野原や森を包みにやって来ましたが、雪はあまり白いので、包んでも包んでも白く浮びあがっていました。 親子の銀狐は洞穴から出ました。子供の方はお母さんのお腹の下へはいりこんで、そこからまんまるな眼をぱちぱちさせながら、あっちやこっちを見ながら歩いて行きました。歩いているうちに子狐は、怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、やけに寂しい。のんきな子狐も、だんだん不安になって来た。 やがて、行手にぽっつりあかりが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、 「母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちてるのねえ」とききました。 「あれはお星さまじゃないのよ」と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。 「あれは町の灯なんだよ」 その町の灯を見た時、母さん狐は、ある時町へお友達と出かけて行って、たくさんの人を殺したことを思出しました。はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。お百姓に見つかって、さんざ追いまくられて、命からがら逃げたことでした。 「おどろいた。母ちゃん何してんの、乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。」そこで、しかたがないので、坊やだけを一人で町まで行かせることになりました。 「坊やお手々を片方お出し」とお母さん狐がいいました。 「だまれ、下賤の者。」子狐は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。おまえだって、いまに、磔(はりつけ)になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」 「ああ、自惚れているがよい。私は、命乞いなど決してしない。」とお母さん狐がいいました。その手を、母さん狐はしばらく握っている間に、可愛いい人間の子供の手にしてしまいました。 「ばかな。」 坊やの狐はその手をひろげたり握ったり、抓(つね)って見たり、嗅いで見たりしました。 「何だか変だな母ちゃん、これなあに?」と言って、雪あかりに、またその、人間の手に変えられてしまった自分の手をしげしげと見つめました。 「それは人間の手よ。いいかい坊や、町へ行ったらね、たくさん人間の家があるからね、まず表に円いシャッポの看板のかかっている家を探すんだよ。それが見つかったらね、トントンと戸を叩いて、今晩はって言うんだよ。そうするとね、中から人間が、すこうし戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うんだよ、わかったね、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」と母さん狐は言いきかせました。 「私は約束を守ります。」 「決して、こっちの手を出しちゃいけないよ、こっちの方、ほら人間の手の方をさしだすんだよ」 「そんなに私を信じられないならば、よろしい、セリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい。」 それを聞いてお母さん狐は、残虐な気持で、そっと北叟笑(ほくそえ)んだ。生意気なことを言うわい。この嘘つきに騙された振りしてやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。わしは悲しい顔して、磔刑に処してやるのだ。母さんの狐は、持って来た二つの白銅貨を、人間の手の方へ握らせてやりました。 「三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。」 さて、子狐は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。えい、えいと大声挙げて走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、日は高く昇って、そろそろ暑くなって、全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、子狐の足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵(こっぱみじん)に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。子狐は、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。子狐は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「さては、母ちゃんの命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。子狐はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駆け降りたが、流石(さすが)に疲労し、幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た子狐よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。まさしく、母ちゃんの思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、不貞腐(ふてくさ)れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。ああ、何もかも、ばかばかしい。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉(かな)。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。 ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるように子狐は身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。私は、信じられている。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!。 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、子狐は黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、走った。 子供の狐は、町の灯を目あてに、雪あかりの野原をよちよちやって行きました。始めのうちは一つきりだった灯が二つになり三つになり、はては十にもふえました。 急げ、子狐。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。子狐は、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、きらきら光っている。狐の子供はそれを見て、灯には、星と同じように、赤いのや黄いのや青いのがあるんだなと思いました。やがて町にはいりましたが通りの家々はもうみんな戸を閉めてしまって、高い窓から暖かそうな光が、道の雪の上に落ちているばかりでした。 けれど表の看板の上には大てい小さな電燈がともっていましたので、狐の子は、それを見ながら、帽子屋を探して行きました。最後の死力を尽して、子狐は走った。自転車の看板や、眼鏡の看板やその他いろんな看板が、あるものは、新しいペンキで画(か)かれ、或るものは、古い壁のようにはげていましたが、子狐の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。町に始めて出て来た子狐にはそれらのものがいったい何であるか分らないのでした。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。 とうとう帽子屋がみつかりました。お母さんが道々よく教えてくれた、黒い大きなシルクハットの帽子の看板が、青い電燈に照されてかかっていました。 子狐は疾風の如く突入した。間に合った。子狐は教えられた通り、トントンと戸を叩きました。 「今晩は」 と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄(しわが)れた声が幽(かす)かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、何かことこと音がしていましたがやがて、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。子狐はそれを目撃して、めんくらって、まちがった方の手を、――お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手をすきまからさしこんでしまいました。 「このお手々にちょうどいい手袋下さい」 群衆は、どよめいた。あっぱれ。と口々にわめいた。狐の手です。狐の手が手袋をくれと言うのです。帽子屋さんは、 「先にお金を下さい」と言いました。子狐はすなおに、握って来た白銅貨を二つ帽子屋さんに渡しました。帽子屋さんはそれを人差指のさきにのっけて、カチ合せて見ると、チンチンとよい音がしましたので、これは木の葉じゃない、ほんとのお金だと思いましたので、棚から子供用の毛糸の手袋をとり出して来て子狐の手に持たせてやりました。子狐は、お礼を言ってまた、もと来た道を帰り始めました。 ある窓の下を通りかかると、人間の声がしていました。何というやさしい、何という美しい、何と言うおっとりした声なんでしょう。 「ねむれ ねむれ 母の胸に、 ねむれ ねむれ 母の手に――」 子狐はその唄声は、きっと人間のお母さんの声にちがいないと思いました。 するとこんどは、子供の声がしました。 「母ちゃん、こんな寒い夜は、森の子狐は寒い寒いって啼いてるでしょうね」 すると母さんの声が、 「森の子狐もお母さん狐のお唄をきいて、洞穴の中で眠ろうとしているでしょうね。さあ坊やも早くねんねしなさい。森の子狐と坊やとどっちが早くねんねするか、きっと坊やの方が早くねんねしますよ」 それをきくと子狐は急にお母さんが恋しくなって、お母さん狐の待っている方へ跳んで行きました。 お母さん狐は、坊やの狐の帰って来るのを、今か今かとふるえながら待っていました。 「お母ちゃん。」子狐は眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」 お母さん狐は、すべてを察した様子で首肯(うなず)き、一ぱいに鳴り響くほど音高く子狐の右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「坊や、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」 子狐は腕に唸りをつけてお母さん狐の頬を殴った。 「ありがとう。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。お母さん狐は、やがて静かに、顔をあからめて、こう言った。 「おまえは、わしの心に勝ったのだ。」 二匹の狐は森の方へ帰って行きました。月が出たので、狐の毛なみが銀色に光り、その足あとには、コバルトの影がたまりました。お母さん狐は、「まあ!」とあきれました。 「坊や、君は、まっぱだかじゃないか。」 子狐は、ひどく赤面した。 (古伝説と、シルレルの詩から。) |
(注1)シリーズ、とかいって、これだけでおしまいかもしれません。 (注2)新美南吉「手袋を買いに」と太宰治「走れメロス」の正しいテキストをチェックしたいかたは、それぞれ青空文庫にあるものをご覧になってください。(注3) (注3)この文章の、どこが「手袋を買いに」で、どれが「走れメロス」なのか、どうしても気になるかたは、こちらをご覧ください。色別で示してあります。 |