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クラムボンの正体 〜「やまなし」読解〜  《シリーズ・新しい国語の教科書》






クラムボンとは、何なのでしょう。
と、毎年、全国の小学校の国語の時間で、必ず問われているわけである。(注)
そのたびに、
「はーい、仲間の蟹だと思います」
「はーい、タケダさんの意見は、違うと思います、泡だと思います」
「はーい、ナカノさんの意見も、違うと思います、光だと思います」
などと、十年一日のごときワンパターンな討論が繰り返されることになるのだが、いやはや、だから国語の教育はダメだというのだ。
泡とか光とか、エッ、そりゃ、何だよ。文中のどこにも書いてないことを想像たくましくでっち上げることばかりが、国語ではないのだ。妄想力を強化するのもいいが、もっと本文に即して、客観的に事実を検証する、そんな力を身に付けるのも、子供にとって大切なことなのではないのか。

たしかに、本文中には、
「そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。」
「つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつぽつぽつとつゞけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のやうに光つて斜めに上の方へのぼつて行きました。」
などと書いてある。そこから、クラムボンとは「泡である」「光である」と軽率にも判断してしまうことは、うなずけないわけではない。
だが、実際のところ、クラムボンとは何か、それを同定するための手がかりは、「二疋の蟹の子供ら」の会話の中にしかないのだ。彼らの会話に出てくるクラムボンと、地の文で描写されている泡や光が、相互に関連するものであるとは、どこにも書かれていないのである。

整理してみよう。クラムボンについての直接的な描写は、次に挙げるわずか5つのパターンのみ。すなわち、
『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
である。まとめると、クラムボンとは、
(1)かぷかぷ、また跳ねて笑った
(2)殺されて死んだ
という、そういうものであることがわかる。さらに、これらの事象の基礎となるメタ要素として、(1)かつ(2)であるところのクラムボンは、
(3)蟹の子供らによって観察されている
ということも付け加えるべきであろう。そして、忘れてはならない点は、これら(1)〜(3)以外に、クラムボンの正体を直接知りうる手がかりは示されていない、ということなのである。

さあ。どうであるか。冷静になって、考えてみたまえ。
これら(1)〜(3)のみが、諸君の前に提示されているとき、そこからどうしてクラムボンは泡であるだの光であるだのという結論が出てくるのだ。エッ、どうなのだ。
泡や光といわれて納得してしまうのは、すでにそれが泡や光だと決めつけてしまっているからではないのか。たとえていえば、神がいると信じていれば、雷や地震は神が存在する証拠となろう。だが雷や地震そのものが、それ自体として神の存在証明であるわけではない。それとまったく同じ論理ではないのか。
他の一切の記述を捨象して、単にここに「笑う」「跳ねる」「死ぬ」「殺される」というこれらの要件を満たしうる存在は何であるか、と問われた場合に、「光です」「泡です」などと答える者がいるとしたら、そいつはバカだ。「アホか」「頭おかしいんじゃないの」と知能を疑われて当然である。
そんなくだらない意見まかり通ってしまう国語の授業に、いったい何の意味があろうというのだ。

こういうと、
「しかしこれは文学作品なのであり、笑うやら死ぬやらというのはいかにも子供らしい無邪気で擬人的な比喩表現とみるべきであって、やはりクラムボンとは泡や光であるという意見を尊重するのが正しいのではないか」
などとうだうだぬかすやつがいるかもしれぬが、エエイ、黙れ。
擬人化や比喩を持ちだせばいいと思っているのだろうが、それこそ牽強付会というもの。もっと作品をよく読みたまえ。
大切なのは、提示されている事実から、論理的に推論を構築していくことである。冒頭のクラムボンについてのシーンの後、この子蟹たちの会話がいかなるものなのか、目を見開いてよく見るがいい。文学的な擬人化や比喩など介在する余地のないほどの、高度な客観性に満ちているではないか。

たとえば、どうやら魚がかわせみに捕獲されたらしい場面に遭遇した後、それについての描写は、このようなものである。
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。それが来たらお魚が上へのぼつて行つたよ。』
いかがであろうか。目にしたものを、そのまま、その通り、シンプルに表現している。勝手な粉飾、オリジナルのアレンジは、寸毫も加えていない。
『黒く尖つてる』ものがかわせみの嘴だとすれば、読者にはその嘴が魚を捕らえるなり突き刺すなりして水の外へと拉致していったと推定されうるわけだが、だからといって子蟹は、「青くて光るものが魚を連れ去っていった」などとはいわない。「青くて光るもの」と「魚が消えたこと」を勝手に結びつけることなく、
『それが来たらお魚が上へのぼつて行つたよ。』
と、あくまで見たままその通りに陳述しているのである。

そんな蟹たちが、こと泡や光に関してだけ、「かぷかぷ笑った」「殺された」などと意味不明な擬人化を施すだろうか。
むろん、「施す」という考えもあるだろうが、そうなっては、性格描写も何もあったものではない。めちゃくちゃである。この短い作品の中で子蟹たちは、一方ではファンタジックで夢想的な詩人でありながら、一方ではきわめてリアリスティックで冷静な観察者であるという、まったく支離滅裂なキャラクターということになってしまう。それでは、もう文学作品などとは呼べない。ただの落書きだ。それとも何かね、この宮沢賢治の代表作のひとつを、単なる落書きだとでもいうのかね。エッ、どうなのかね。

決定的なのは、子蟹たち自身が、直接、泡や光について言及していることだ。
ここの場面で『青くてね、光るんだよ。』と表現しており、また物語の後半で『やつぱり僕の泡は大きいね。』などと泡の大きさ比べをしているではないか。彼らが泡や光のことをクラムボンと呼んでいるとしたら、これらもまた「青くてクラムボンしている」「僕のクラムボンは大きいね」というはずであろう。

つまり、結論としては、こうだ。
ここはシンプルに、クラムボンとは、比喩ではなく言葉の意味そのままに、笑うことの、跳ねることのできる存在であり、死に、また殺されうる存在であると考えるべきなのである。泡や光だなどと決めつけるのは、子蟹たちの観察力、表現力、判断力に対する冒涜であるといってよい。
となると、ではいったい、クラムボンとは何なのか。
仲間の蟹でないことも、明らかだろう。このリアリスティックな兄弟たちが、既知の存在、しかも同類である蟹について、わざわざ「クラムボン」などという言葉に置き換えて表現することはあるまい。
同様の理由から、魚でもなかろう。
自らの生活世界の中でありふれているもの、ふだんから目にしているようなものではないはずだ。
名前はわからぬにせよ、ときどき彼らの身近に出現するもの。そして、笑い、跳ね、なおかつ死に、殺される存在‥‥。
となると、それは、水の外から来る動物、以外にはありえない。
猫か、犬か。狐か、狸か。カエルか、蛇か‥‥。だがしかし、これらの動物に対して、あの蟹兄弟が『わらつたよ。』などと描写するであろうか。客観的な表現者である彼らが『わらつたよ。』というからには、実際に、本当に、言葉のそのままの意味で『わらつた』のではないか。比喩や擬人化といった手続きは、まったく関与していないはずではないか‥‥。

結論をいおう。クラムボンとは、この世でたったひとつ、擬人化されえない存在なのである。擬人化できない、すなわち、すでにして人である、ということだ。
そう、クラムボンの正体は、人間なのである。
蟹の兄弟たちは、見たのだろう。頭上の青い水面を泳ぐ人間を。笑い、かぷかぷ笑い、跳ねて笑う人間の姿を。青く澄んだ水中世界の美しさに感動してか、あるいは純粋に水遊びのおもしろさに打ち興じてか、思わず笑みをこぼしながら跳ね回る人間の姿を。
それを眺めつつ兄弟は、その存在に対してとりあえず「クラムボン」と名付け、
『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
と、きわめてシンプルに描写したにすぎないのだ。
『クラムボンはわらつたよ。』
『どうして。』
『わからない。』
わからないのも当然である。自然を目の当たりにして笑顔になっている人間の気持ちなど、当の自然を構成している蟹に、わかるわけがない。

とすれば、ここで大きな問題が浮上してくる。
『わらつたよ。』『跳てわらつたよ。』が文字通りの意味であるということになれば、次に続く『クラムボンは死んだよ。』『クラムボンは殺されたよ。』も、文字通りである、ということになる。
すなわち、人間が死んだ、殺された、ということなってしまうのだ。
ああ、なんということだ。しかし、クラムボンが人間であると判明した以上、そう考えるしかあるまい。クラムボンが泡だ光だなどといった戯言を退けたからには、この帰結に達することは、避けて通れないのである。この事実を、われわれは厳粛に受け止めねばならぬ。
そう。あらためて言明しよう。
蟹の子供らは、殺人の現場を目撃したのである。

子蟹たちが目撃できたということは、当然、殺人は水中、あるいはそれに準ずる場所でなされたのだろう。
光を遮るようなことを示唆する記述がないこと、逆に「にはかにパツと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢のやうに水の中に降つて来ました。」といったような、水が澄んでいることを表す表現が多いことを考慮すると、殺人にあたって流血はなかったと考えられる。撲殺、刺殺されたのではあるまい。
シンプルに考えれば、「溺死させられた」ということになるだろう。さっきまで笑っていたクラムボンたる人間は、傍らの別の人間に、いきなり水中へと頭を押さえつけられ、もがき苦しみながら死に至ったのだ。
その一部始終を眺めていた子蟹の兄弟は、
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
と、素直に申し述べているのである。
『それならなぜ殺された。』
『わからない。』
これもまた、わかるわけがない。痴情のもつれか財産争いか、あるいは衝動的なものなのか、何にせよ殺人の動機などというものは、蟹の住む世界とはあまりにもかけ離れている。
その後につづく、
『クラムボンはわらつたよ。』
『わらつた。』
これは、殺人を達成した犯人がふと洩らした満足の笑みであろうか。

ところで、話がこうなってくると、先の「かわせみ」が、どうにも気になってくる。
「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなものが、いきなり飛込んで来」て、「魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがへり、上の方へのぼつたやうでしたが、それつきりもう青いものも魚のかたちも見え」なくなったという出来事は、クラムボンの死の後、さほど時間が経過してからのことではない。魚が「頭の上を過ぎて行き」「ツウと戻つて下流の方へ行き」「又上流(かみ)の方へのぼり」「また上流(かみ)から戻つて来」る程度の時間である。

となると、「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなもの」の正体が、本当にかわせみだったのかどうかについても、また再考の余地が出てくるのではないか。
その習性としてかわせみは、魚を捕獲するにあたって、水辺の岩の上や木の枝にとまって、じっと水中を注視するのである。そして魚影を見定めてから、急降下で水中に突入する。すなわち、捕獲以前に一定時間は水辺に滞在しなくてはならないのだ。
だとすると、殺人発生から「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなもの」の出現にいたるまでの、この時間の短さは、解せないではないか。おそらくばしゃばしゃと飛沫があがる陰惨なシーンとなったであろう殺人現場にかわせみがいたはずはなかろうし、人が立ち去るやいなやかわせみが飛来し、すぐに魚を見つけて襲撃した、というのも不自然だ。

この不自然さを解消するには、どうすればよいのか。むろん、当初の立論を問い直すほかはあるまい。この「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなもの」をかわせみであるとしたことが、そもそも誤りなのである。
考えてみれば、子蟹が観察しえたのは、わずかに『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの』という点のみ。『そいつの眼が赤かつたかい。』という父親の質問には『わからない。』と答えているのだ。
かわせみであると断定したのは、その場に居合わせず、自分では「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなもの」を観察していない父親なのである。

そして、これがかわせみでないとすると、正体は自ずと明らかであろう。
その場で殺人が行われたばかりなのだ。人間がいたのだ。魚を連れ去ったのも、人間の仕業とみて間違いはないはずだ。
そう。銛で突いたのである。
「さきがコンパスのやうに黒く尖つてゐる」その青いものとは、プラスチック製あるいは木製の青い柄の先端に黒い刃をつけた銛だったのだ。
さらに当然、そうやって銛で魚を突いたのは、クラムボンが死んだ後にもまだそこにいる人間、つまり犯人、ということになる。

そうなると、これら犯人と被害者の姿も、おぼろげながら浮かんでくるのではないだろうか。
犯人は、銛で魚を突いている。しかも一突きであざやかに。
すなわち、銛の扱いに手慣れている人間であることがわかる。都会から来た観光客などではない、地元の人間であることは明らかだ。
しかも、ここは海ではなく、川である。蟹が棲むような、さして広くない谷川である。
銛で魚を突くのも、生活のため、日々の食事のためというより、遊びとして、気晴らしとして、ということになるのではなかろうか。
となると、大の大人が川で銛突きして楽しんでいる、という設定は少々無理があるだろうから、いちばん自然に考えると、この殺人者は、若い男性、もしかしたら十代前半の少年、ということになってくる。

一方の被害者はどうか。
手がかりとなるのは、季節である。物語の前半であるこのシーンは、まだ五月なのである。
泳ぐのには、まだ早い。やや暑い日だったのかもしれないが、五月では、さすがにいい年をした大人は躊躇するのではあるまいか。
したがって、必然的に、こう結論できる。被害者は、子供である、と。
五月の暖かな日に、小川に行ってパンツいっちょで水遊びしてしまうような、子供なのである。
いくつであったかまでは不明であるが、顔を水中に押し付けて溺死させたのだとすると、犯人よりもかなり力が弱かったといえよう。おそらく十歳以下の小児、もしかしたら、まだ物心つくかつかないか程度のいたいけな幼児であったかもしれない。

そうなると、犯人と被害者の関係も、ある程度推測できる。
年の離れた弟か妹、あるいはいとこ、近所の子供。
いずれにせよ、犯人によくなついていたのだろう。何の疑いもなく、一緒に川に遊びに連れてきてもらって、そして、殺されたのだ。
動機までは、わからない。被害者は犯人にとって、親や大切な人の愛情を奪う存在だったのかもしれない。あるいは、ふとした過ちからできた、早すぎる実の子供だったのかもしれない。もっと即物的に、遺産相続にあたっての邪魔者だったのかもしれない。
こいつさえいなければ、こいつが消え去ってしまえば、俺は俺は‥‥。
読者たるわれわれにわかるのは、ただ、この場で、殺人がなされた、という冷厳な事実でしかない。
犯行後、彼は鮮やかな手さばきで魚を突き、何食わぬ顔で帰宅し、「ひとりで、近くの川に行って、魚を捕ってきた」とでも報告したのだろう。
犯行を知るものは、誰もいないはずだ。ただ、川の底で眺めていた蟹の兄弟をのぞいて‥‥。

『クラムボンはわらつたよ。』などというメルヘンな口調でありながら、この「やまなし」という作品には、そんな人間世界の隠微なドラマが見え隠れしているのだ。それを隠蔽して、クラムボンは泡だ光だなどという虚言を平気で垂れ流す国語の授業とは、いったい何なのだろう。
ここで凄惨な殺人がなされたことを知らないかぎり、この作品が持つ残酷な美しさを味わうことはできない。前半の最後のシーンの、何と妖しくも甘美なことか。
「泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべつて来ました。
『こはいよ、お父さん。』弟の蟹も云ひました。
光の網はゆらゆら、のびたりちゞんだり、花びらの影はしづかに砂をすべりました。」
燦々と照る日の下、輝ききらめく谷川の水面。
青く澄んだせせらぎに、うつぶせになった半裸の子供の死体。
水に揺らめく真っ黒な髪。白い首筋、白い背中、白い指先。
その周りを、つぶつぶとした泡と一緒に、次から次へと白い樺の花が流れていく‥‥。

さて、その後、犯人と被害者はどうなったのであろう。
犯罪は露見したのか。被害者の遺体はすみやかに発見されたのか。
それを知る鍵となるのは、またしても「クラムボン」だ。子蟹たちが、人間のことをクラムボンと呼んでいる、というその事実が、重要な手がかりとなる。
考えてもみたまえ。もし、この蟹たちが棲息している谷川が、人間がしばしば訪れる場所、子どもたちの遊び場になっているような人里近い小川であるとしたら、蟹たちは人間を「クラムボン」などと呼んだであろうか。否、である。「人間」と正しく呼んだであろう。なにしろ、『そいつは鳥だよ。かはせみと云ふんだ。』『そら、樺(かば)の花が流れて来た。』『あれはやまなしだ』などと、外界の事物をきちんと認識している彼らなのである。
したがって、ここはそれほど頻繁には人間が訪れる場所ではない、ということになる。
ただ、「クラムボン」に対する子蟹たちの対応(かわせみに対するような反応をしていない)が示すように、このときが初めてのクラムボンの来訪だったわけではないだろう。過去にも何度かクラムボンはここを訪れているのであり、その結果、蟹たちは、クラムボンが自身にとって危険な存在ではないことをわかっているのである。
とすると、こういうことがいえるのではないか。
蟹たちが棲息しているこの川は、犯人もしくは被害者であるところのクラムボンだけが知っている秘密の場所、隠れた場所だったのではないか、と。
そもそも冒頭に「谷川」と明記されているのである。山の陰の、本流に流れ込む前の小さな渓流なのであろう。
犯行後の犯人の笑みを見ると、この殺人がふと魔が差しただけの衝動的なものである可能性は低い、裏を返せば計画的犯行である可能性が高いことから、犯人にとっての秘密の場所、もしくは犯人と被害者双方のみが共有する秘密の場所であった、とみるべきだろう。

そんなわけであるから、被害者が行方不明になっていることがその村落なり町なりで明らかになり、人々による捜索がなされたとしても、遺体が発見されることはなかったのではあるまいか。
時節は五月であり、まだ梅雨には遠い、天気のよい日がつづく季節、そしてやまなしですらも「横になつて木の枝にひつかかつてとま」ってしまうような水量の小河川であるから、水に流された遺体が下流で発見される可能性も低い。
そして、遺体が見つからなければ殺人事件は存在しえない。行方不明、拉致、誘拐、といった判断がなされ、真相は闇へと葬られていったのではなかろうか。
「えっ、そんなそんな」
と、戸惑う諸君がいるかもしれない。
「それでいいのか。勧善懲悪、悪は滅びるのが世の習いではないのか。残忍な殺人者は、罰せられないのか。罪なくして殺された子どもは、そのままかよ、おい」
しかたがない。これは、そういう作品なのだ。ドストエフスキーとは違うのだ。この作品のテーマは、犯人の生にはない。むしろ殺された者の死、いや、さらに、その死すらも超越した何かに、焦点が当てられているのだ。

十二月。凶行から半年以上がたった初冬。
「底の景色も夏から秋の間にすつかり変りました。」
台風の大水で流されたか、獣や魚にむさぼられついばまれたか、遺体は影も形もない。蟹たちが棲む谷川は、今や、無残な殺人が行われた場所とは思えないような静謐と安らぎに包まれている。
「そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶(びん)の月光がいつぱいに透とほり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしてゐるやう、あたりはしんとして、たゞいかにも遠くからといふやうに、その波の音がひゞいて来るだけです。」
輝く光の中、明るさの中、躍動の中に、無残な死が黒い染みをつくっていた前半に対し、後半は物語自体が、闇の中、静けさの中、冷たさの中にある。
だが、そこに‥‥。
「そのとき、トブン。
 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうつとしづんで又上へのぼつて行きました。キラキラツと黄金(きん)のぶちがひかりました。」
やまなしである。
『どうだ、やつぱりやまなしだよ、よく熟してゐる、いい匂ひだらう。』
『おいしさうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰つて寝よう、おいで』
殺され、遺棄され、発見されることなく水へと土へと帰っていった被害者への、それは手向けの酒なのか。すべてが終わった後、それだけをひとつの区切りにして、蟹たちの棲む谷川は、またもとの世界へと戻っていく‥‥。

描かれているのは、谷底の蟹という卑小な生。だが、それゆえにこそ逆に明らかになる人の世のはかなさ。人の生をも、死をも呑み込む自然の営みの大きさをここに読み取ることは、不可能ではあるまい。





(注)宮沢賢治の「やまなし」、何となく覚えている人も多いでしょうが、「もう一度読んでみたい!」という人は、とりあえず「青空文庫」の「やまなし」をどうぞ。
ちなみに、ここを見ると、クラムボンの正体についての現在の公式見解は、「解釈してはいけない」説だそうです。なーんだ。こんな当たり障りのないことばかり言ってるから、国語がつまんなくなるんですよね。
ところで、文末をこういうふうに、いかにももっともらしいようなことでまとめると、どう考えても間違っていることを本文中で述べていたとしても、何となく納得してしまいませんか。読書感想文やレポートを書く際の、ひとつのテクニックとして覚えておいて損はないです。
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