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百人一首リストラ計画(1)






いわゆる「終身雇用制」が伝統的な雇用慣行などではないことは、夙に指摘されている通りである。
真に注目すべきは人口転換(demographic transition)である。多産多死から少産少死へという人口転換の過渡期にあっては、親世代に比べて子世代の人口が爆発的に増加する。多産少死の状態である。人口学的要因がもたらす、この必然的な労働力過剰があってはじめて、終身雇用制は成立しえたのだ(注1)
若年労働力を低コストで獲得できる年功序列制を建前に、企業は労働力を粗放に使用することができる一方で、雇用者もまた、将来に渡る失業不安から解放される。労使双方がメリットを享受できるこの雇用制度は、朝鮮戦争後の特需、およびそれに続く高度成長期における人手不足の中で急速に標準化し、以来、暗黙のうちに日本企業の特性として内在化されるにいたった。
だが、これはあくまで、歴史の中の一時期に現れてきたにすぎない現象である。人口増や好況などといった不確定な諸要素を前提として、ようやく成り立っているものなのだ。それを古来からの日本文化に根差した伝統的慣習、あるいは日本独特の集団主義に基づく慣行などというのは、幻想であり、神話なのである。現在、未曾有の不況のただ中、かつグローバルなビジネスチェンジが求められる時代にあっては、ややもすれば組織の硬直化を招き、変革への足枷にもなりかねないこれらの雇用慣行が、いつまでも命脈を保ちうるはずがない。そんな幻想にしがみつき、神話を崇め奉っている輩には、もはや明日はないのだ。

話は、単に企業の経済活動ばかりにとどまるものではない。終身雇用制は、高度成長期を通じてそのシステムがうまく機能してきただけに、企業の枠組みを超えてきわめて広い範囲に渡って影響力を及ぼしてきた。神話に踊らされているのは、単に企業人だけではない。われわれが考える以上に、社会や文化の多くの局面、多くの事象が、大なり小なりこの終身雇用制神話を無邪気なまでに安易に受容してきたのである。
だが。繰り返して言おう。
終身雇用制が日本の組織につきものの文化的特性だ、などというのは神話である。右肩上がりの永遠の成長というありえない夢を万人が当たり前のように思い描いていた高度成長期とは、そんな神話に虚構の肉体を与え、幻想に偽りの力を付与した時代であった。現代は、高度成長期に端を発するそうしたひずみが、これ以上無視できぬほど、あらわに、また巨大になりつつある時代とでもいえるのではないだろうか。
そのよい例が、百人一首である。

わっ、なんだなんだ!と、今まで硬派な社会評論を読んでいるつもりだった読者は驚かれるかもしれないが、いや、待ちなさい。ちょっとそこに座りなさい。
文暦2年(1235年)、藤原定家が嵯峨小倉山荘で撰した百人一首は、その後江戸時代に至って、古来よりの貝合わせ、およびポルトガル由来のカルタと結びつき、格段にメジャー化していった。そうして、先行する双六やら投扇やらを押しのけ、室内遊戯の最高峰として、また古典教養の基礎中の基礎としての地位を独占するようになったことは、周知の通りである。
単なる和歌集の地位に安住することなく、娯楽事業にも手を広げ、一般大衆をターゲットにした営業展開を行なってきたがゆえの必然的な成果といえよう。その先見の明には、現在のわれわれは刮目せざるをえない。万葉集や古今和歌集などが、潜在的には百人一首よりはるかに優れた能力を持ちながらも、和歌集としての本質的な価値とプライドにこだわるあまりにかえってマイナー化を招いてしまったことを鑑みるといい。
明治時代にはさらに飛躍を遂げ、尾崎紅葉『金色夜叉』においては、
《三十人に余んぬる若き男女は二分(ふたわかれ)に輪作りて、今を盛と歌留多遊を為るなりけり。》
と、冒頭の一場を飾る栄誉を浴すにいたっている。これを機に、娯楽関連ばかりか恋愛・結婚相談方面にも手を伸ばすようになったことも、忘れてはなるまい。どれほど多くの男女が、百人一首に二人の仲をとりもってもらったことか。

「瀬をはやみ岩に‥‥」
「はい」「はいっ」
思わず重なる指と指‥‥。
(あっ、アオイさんの指が‥‥)
(まあ、ケンスケさんたら‥‥)
一瞬、見つめあう瞳と瞳‥‥。
(ぽっ)
(ぽっ)
(‥‥)
(‥‥)
「ちょっと、あんたたち、いつまでそうやってんの。離れなさい」
「あ、いや、どうも、すんません、えと、どうも‥‥」
「あ、あの、わたくしこそ‥‥」
「まったく、近頃の若い人ときたら、すぐこれなんだから‥‥」
(アオイさん‥‥)
(ケンスケさん‥‥)
(でも‥‥)
(でも‥‥)
「‥‥われても末に逢はむとぞ思ふ」(注2)

というように、
「そもそもの馴れ初めは、百人一首で‥‥」
というカップルが、なんと多かったことか。単に娯楽としての喜びをアピールするばかりでなく、こうして恋の仲立ちをしたカップルに恩義を売ることで、百人一首は自らの権威と需要を確固たるものへと押し上げたのだ。
かくのごとき、数百年にもわたる百人一首の絶えることのない経営努力、尽きることのない独創的なアイデアには、われわれとしても惜しみない賛辞を送るべきであろう。

が、しかし。
その百人一首の、昨今の凋落ぶりはどうしたものであるのか。
今、百人一首と聞いて、
「はいっ! 百人一首には、いつもお世話になっています!」
と胸を張れる者が、諸君の中に果たしているだろうか。
「淡路島。これはあたしのオハコなんだから。誰にも渡さないんだから」
そんな真摯な瞳で百人一首にすべてを捧げられる乙女が、いるだろうか。
「えーっとぉ、きっかけはぁ、百人一首でぇ、彼の指がぁ‥‥」
と出会いを百人一首にとりもってもらったカップルが、どこにいるのか。
一部の競技愛好者、および「百人一首を全部暗記する」といった宿題を課された中高生のほか、一体どこの誰が、お正月以外にも百人一首の箱を開けるというのか。
いや、お正月ですら、どうか。親戚中の子どもたちが群れ集ったおりに、いそいそと百人一首を持ち出してきた叔母さんあたりが、
「はーい、じゃあみんなで百人一首をやりましょうねえ」
「わーいわーい」
ということが、どれほどありうるのか。仮にそれに近いことがあったとしてもその場合開催される競技は百人一首のカルタとりではなく、「坊主めくり」ではないのか。
「ギャー、坊主だあ」
「うふふ、姫が出た」
などと、必要とされるのはもっぱら絵ばかり。声に出して読み上げられる歌は、一首としてないのではないか。そうして、
「百首もあるんだから、一首くらい読んでくれたっていいのに‥‥」
そんないじけた愚痴をつぶやきつつ、また次の正月がめぐり来るまで箪笥の奥深くにしまい込まれる。それが百人一首の現状ではないのか。
百人一首のない家庭も、年々増加していることであろう。生まれてこのかた百人一首の実物を見たことありません、という少年少女も多くなっていることであろう。
「なにー? ヒャクニンヒトクビ? ギャハハハ。何それ。チョーオカシー。バカじゃないの」
そんな暴言を耳にするのも、もはや珍しくはない。
嗚呼。哀れ。落日の百人一首。

思えば、昔の百人一首は、偉かった。輝いていた。
年輩のかたは、思い起こしてほしい。かつての百人一首を。どっしりとした存在感を誇示していた、あの百人一首の姿を。
当時は、
「一家に一箱、百人一首」
これが当たり前であった。百人一首は、家族のステイタスと教養のシンボルであった。なにしろ、嫁入り道具の必須アイテムのひとつでもあったのだ。金箔をあしらって、豪華絢爛、当時のお金で何万円もするものもざらではなかった。
家の中では、仏壇や神棚に次ぐ破格のもてなしを受けていた。百人一首を踏み台がわりにした子どもは、容赦なく折檻された。百人一首を漬物石がわりにした嫁は、躊躇なく離縁された。百人一首の管理補修は、一家の主婦の務めであった。正月を迎えるにあたって、箪笥の中から厳かに取り出された百人一首の前に、人々は思わず平伏したともいう。
それが、一体どこでどう間違って、現在のような状況になってしまったのか。(注3)

その解答は、高度成長期にある。終身雇用制という神話である。これまで営々たる企業活動を継続してきた百人一首は、高度成長期の激流の中、本来の自分を見失ってしまったのだ。
冒頭にも述べたように、高度成長期とは、見方をかえれば人口転換期でもあった。乳児死亡率の低下にともなって、日本人はかつてはないほど、成人した兄弟姉妹の多い家族を経験することになった。やがて多くの弟たち、妹たちが都会に流れ、そこで新たに所帯をもって新しい核家族を生み出した。当然、彼らの内面においては、
「一家に一箱、百人一首」
が規範化しているから、新しい家族の激増は、自動的に百人一首の需要拡大をもたらすことになった。

すなわち、ここにおいて百人一首は、何もしなくても成長できるようになったのだ。営業成績は鰻登りの急上昇。遊んでいても寝ていても、どんどん売れに売れまくって、もうウハウハ。
わずか二、三十年ばかりの間に、創業以来数百年分の売り上げを上回る収益を達成。女性メンバーはみな十二単を新調したし、男性陣も衣冠束帯を最新のモードに取り替えた。坊主ですら、袈裟をあらためて、頭を剃り直した。このままいけば、揃って栄達間違いない。そのうえ終身雇用制なんだから、以後何があっても馘首されることはないだろう。オレたちがナンバーワンなんだ。あたしたちがいなけりゃ、誰も教養を身につけられないわ。うふふ。がはは。ワハハ‥‥。
そんな状況の中、これまで彼らの持ち味であった柔軟な思考、豊かなチャレンジ精神が、急速に失われていくのは、時間の問題だった。ああ、終身雇用制の神話が、彼らを蝕んだのだ。高度成長期に、彼らは踊らされたのだ。
年齢の差、身分の差はあるとはいえ、いわば同期入社の同僚百人。今まではその百人が互いに研鑽し、競い合ってきた。そこには、下手をすれば脱落してしまうかも、といった緊張感が、つねに水面下で張りつめていたはずだ。そんな百人の切磋琢磨がうまくかみあって、組織は成功を収めてきたのではなかったか。
だが、成長と拡大が当たり前のように享受できるようになったこの時代、一般の企業がそうであったのと同様に、百人一首も組織本来の精神を見失うことになった。百人各々、一律一首ずつという、能力差を無視した平等主義に安んじ、より高みを目指そうという健全な向上心を喪失していったのだ。
冷静に考えてみれば、百人だけしかいない以上、いくら同期入社とはいえ、百人が百人とも課長になり、部長になれるわけがなかろう。フラットな組織がもてはやされる時代であっても、全員が管理職などという組織は、あまりに不健全だ。しかし、地道な外回りによる営業活動が必要でなくなった今、感覚は麻痺し、不健全を不健全と感じられなくなってしまったのだ。
加えて、百人一首、というそもそものネーミングも、この傾向に拍車をかけた。百人一首という以上、オレたちは百人だけど、首はひとつ。一蓮托生だ。全員が解雇されるか、もしくは誰も馘にならないか、ふたつにひとつ、どちらかしかない。そしてもちろん、全員を一斉に解雇するなんて、できやしないのだ。ガハハ‥‥。

要するに、組織が老いたのだ。
百名のメンバーが固定していて新陳代謝がない以上、当然迎えるべき結末ではある。高度成長期のように、それでもすべてがうまく回っていれば、何とかごまかしが効いただろうが、そんな時代はとうの昔に過ぎ去った。今は、不況なのだ。極度の不況期なのだ。老いた組織は、もう生き残れない。退役間近の老兵をいたわってあげられるほど、社会は優しくしていられないのだ。
「百人一首、一蓮托生」などと息巻いているばかりでは、遠からず百人全員が共倒れとならざるをえない。組織は、老いた。その現実を、直視するときが到来したのだ。
そう。
今や、改革すべきときなのだ。
百人一首にも、変革が、リノベーションが求められているのだ。
それは単に百人一首という組織のためだけではない。大切な日本の古典教養を、われわれの未来の子ら、子々孫々へと伝えるためにも、百人一首をここで失うわけにはいかぬのだ。われわれは総力を挙げて、百人一首の建て直しをバックアップしなくてはならない。そのためには、公的資金の注入も覚悟しようではないか。

では、いかにして改革すべきか。どのようにして再生をはかるのか。
真っ先に必要なのは、終身雇用制の解体である。神話を、断ち切るのだ。百人が百人とも永劫にその地位を保証されている、などという幻想が、組織の老化を早めたことは明らかだ。目標は、組織そのものを覆すような抜本的な改革である。「百人の歌人から一首ずつ集めて、百人一首」というその体制に、メスを入れるべきなのだ。
つまり、リストラである。余剰人員の解雇である。日産自動車の村山工場閉鎖の例を挙げるまでもなく、リストラの敢行は、組織の大幅な再編成を可能とする。旧弊にまみれた組織は、フレキシブルでアジルな新しい組織として、甦ることができるのだ。もはや「百人の歌人から一首ずつ集めて、百人一首」などといった数合わせにこだわっている場合ではない。組織の存続にとって不必要な人員は、躊躇なく切り捨てていかなくてはならない。
手始めに、三分の一、いや半分の人員を整理してはどうか。つまり、
「五十人一首」
である。13世紀に藤原定家が撰んだ百首は、この平成不況を経て、さらに五十人、五十首の精鋭へと選別されるのだ。生まれ変わった百人一首、もとい五十人一首は、かつての勢いを、活力を取り戻し、再び栄光の時代を築き上げることができるであろう。

ということで、考えてみれば、タイトルは「百人一首リストラ計画」なのだから、ああ、なんてこった。ここまでは前置きではないか。本題はこれからだ。百人のうち一体誰をどのような理由から解雇すればいいのだろうか。
しかし、人口転換やら終身雇用制やら何やら、今回は話が固いうえにもういいかげん十分長くなってしまった。読み疲れている読者も多いことであろう。私も疲れた。
そんなわけで、肝心の本題、いかにして百人一首をリストラするかについては、次回、
「百人一首リストラ計画(2)」
を待ってもらいたい。
私が改革案を発表する前に、
「百人一首、ついに倒産! 百首はチリヂリに」
などという記事が新聞の片隅を飾らないことを、祈るばかりである。





(注1)人口学的観点については、落合恵美子『21世紀家族へ』(ゆうひかく選書)、『近代家族の曲がり角』(角川書店)などが示唆的。どちらも語り口がソフトで読みやすいので、大学で社会科学系のことをやりたいと思っている高校生の人は、ぜひ読むといいと思う。
(注2)野暮を承知でこの歌を口語訳しておくと、「岩に妨げられて二つに分かれた川の水がまたひとつになって流れるように、今は逢うことのできない私とあなたも、いずれはまた一緒になりましょう」。怨霊で有名な崇徳院の歌である。
(注3)そもそも百人一首のメーカーでもある任天堂が、「一家に一箱、百人一首」のかわりとなる、「一家に一台、ゲーム機」といった風潮の先鞭をつけたのだから、事情は複雑である。

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