大分の歴史 |
「正気か!?」 と耳を疑ったものであるが、事実なのだからしかたがない。 W杯の試合会場として、大分が名を連ねているという、あれである。 大分なのである。大分。九州の、あのちょっと出っ張った取っ手みたいなところにある大分。「大分」なのになんで「おおいた」なんだ、「おお」はわかるけど、「いた」って何だよ、エッ、なんで「分」が「いた」なんだよ、という、あの大分である。 その大分が、あのW杯、2002FIFAワールドカップの会場、というのである。いかさまではないのか。 大分市の横尾スポーツ公園にある総合競技場「ビッグアイ」にて、予選のチュニジア×ベルギー戦、メキシコ×イタリア戦、そして決勝トーナメント1回戦のF組1位(アルゼンチンか?)×A組2位(デンマークかウルグアイ?)戦が行われるという。 ということはすなわち、それらの国々の人々が、大分に乗り込んでくる、ということである。 たとえば、チュニジア人の選手20余名とスタッフ及び応援団若干名がやって来るわけである。こんなに多くのチュニジア人が大分を訪れたことが、かつてあっただろうか。いや、これが大分における初めてのチュニジア人訪問であってもおかしくはない。 試合を行う当のチュニジア人は、自分たちの試合会場となる場所のひとつが大分なんてところであることを知りもしないのではないか。日本といえばソニー、ゲイシャ、スシ、カローシと思っていたのに、いきなりあんな九州の取っ手みたいなところに飛ばされてしまっては、 「え、え、ここどこ?」 と、うろたえてしまうのではないか。 会場となる「ビッグアイ」は、このW杯に向けて造営されたそうだ。4万3千人を収容する最新式の競技場というが、W杯後はどうするつもりか。ピッチは水田に、観客席は段々畑にでもするつもりか。日当たりが悪そうだけど、いいのか。 と、そんなふうにいじわるを言ってみたくなるのも、大分だからこそである。 何度も言うが、大分なのだ、大分。 「大分ときいて、何を思い浮かべますか」 と、街角でいきなりマイクを向けられたとしたら、どうか。たいていの人は、 「えーと、大分ねえ、大分‥‥。‥‥。‥‥あ、ごめんなさい、ちょっと急いでますんで、さよなら」 と逃げ出すはずだ。多少教養がある人でも、 「大分といえば、魅惑の野仏。国東半島磨崖仏めぐり。‥‥あ、そういえば別府も大分県なんだっけ」 その程度であろう。 そんな大分に、ほかでもない、あのW杯なのだ。世界中のサッカーファンと、世界中のサッカーファンでない人の一部が注目するW杯なのだ。 まさに、大分開闢以来の一大事件なのではないか。 と思ってよく考えてみると、うーむ、たしかに大分の過去には、これに比肩すべき出来事なんて、ないような気がする。 パッと思いつくのは、 「廃藩置県により、大分県成立」 そのくらいだ。 そういえば、まだ豊後だったころに、 「オランダ船リーフデ号が漂着」 ということもあった気がする。 えーと。 ほかに。 ‥‥。 と、にわかに大分の歴史が気になってきてしまったので、さっそく図書館に行って「大分の歴史」のような本を借りてくることにした。 で、ありましたありました。 山川出版社の「県史」シリーズ、第44巻。 その名も、『大分県の歴史』。 「県史」と銘打ちながらも先史時代からの歴史を、各県ごとにつづった堂々47冊シリーズの1冊である。 図書館でこのシリーズを一瞥して、たいへん驚いた。びっくりした。 何がびっくりといって、このシリーズ、 「各巻がほとんど同じ厚さ」 なのだ。驚愕ではないか。 一見したところリーフデ号の漂着と大分県成立くらいしか事件がなさそうなわれらが『大分県の歴史』が、日本の歴史を体現する『京都府の歴史』や『東京都の歴史』と、同じ厚さなのだ。 大分県なんて、 『その他の県の歴史』 として、岩手や福井や鳥取などと一緒になっているのが当然ではないのか。それがまるまる1冊とは、いったいどうなっているのだ。装幀だけは立派だが、中を開くと、 「一文字が3cm角くらいある」 「ほとんどが地元企業の広告」 「韻文形式で書いてある」 「実は本の形をしたお弁当箱だった」 ということではないのか、と思って手に取ってみたが、そういうわけでもない。みっちりと活字が並んでいる。 目次を見れば、 「1章 豊国の形成と展開」 から、 「9章 出遅れた近代化」 まで、各時代各時期が遺漏なく、たとえば、 「大分に平安時代はありませんでした」 ということもなく、きっちり書かれているようである。 つまり、大分にも、あの大分にも、書くべき歴史、文字として記すべき歴史があったのだ。なんと驚くべきことであろう。 「えーっ、ホントに? 信じらんなーい」 という人のために、いくつか主だった事柄を紹介してみよう。 (1)キリシタン大名・大友宗麟の活躍(1560-70年代)。 そうである。忘れていた。大分=豊後といえば大友宗麟。小学校の歴史にも出てくるキリシタン大名の代名詞。戦国時代の国際人ではないか。 キリスト教徒であり、なおかつ九州で一大勢力を誇った大名とあって、フランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガル人宣教師やポルトガル商人が、宗麟のもとに、そして当時「府内」と呼ばれていた現在の大分市に陸続としてやって来た。この府内や臼杵は、《堺や博多とならぶ都市》として、《中国商人、ポルトガル商人の活動拠点》になっていたという。16世紀、大分は現在とは比べものにならないほどの国際都市だったのだ。 このほどW杯の会場に選ばれたのも、そうした歴史あればこそ、なのではないか。 「ほら、今回、ポルトガル強そうだし」 という配慮がなかったとはいえまい。 (2)キリシタン大名・大友宗麟死去(1587年)。 そんな大分の全盛時代を築き上げた宗麟が死んでしまったのだ。これが一大事件でなくして何であろう。 すでにして1578年、島津義久との決戦に大敗して以来、《坂をころがるようにして大友領国は崩壊の道をつき進んで》いたとはいえ、仮に宗麟がその後も現在まで生き続けていたとしたら、大分の歴史は大きく違っていたことだろう。 少なくとも、「世界一長寿の人が住んでいるところ」としてその名を轟かせていたに違いない。 (3)キリシタン大名・大友宗麟誕生(1530年)。 その宗麟が誕生したのだ。誕生しなければ活躍も死去もない。これも一大事件である。 大友宗麟誕生というこの事件の結果、大分はキリシタンの町として遠くポルトガルにもその存在を知られ、ついにW杯会場として選ばれるにいたったのだ。 (4)豊後の三賢人活躍(18世紀後半〜19世紀前半)。 むろん、宗麟亡き後の大分が、現在のような目も当てられない状態へと一気に転落したわけではない。江戸時代にも大分は、黄昏のような淡い光に輝いていた。その証左が「豊後の三賢人」である。すなわち、三浦梅園(1723-1789)、帆足万里(1778-1852)、広瀬淡窓(1782-1856)。いずれも近世を代表する学者だ。今や「文化果つる地」と思われている大分だが、江戸時代にはむしろ文化の発信地だったらしい。そういえば福沢諭吉も中津藩出身である。 しかし、どっちかというと、これは「歴史上の出来事」というようなものではないなあ。三浦梅園、なんていっても、ほとんどの人は知らないだろうし。 (5)松平忠直が豊後に配流(1623年)。 といってもピンとこないかもしれないが、菊池寛「忠直卿行状記」の忠直である。 越前福井藩主であった忠直が不行跡によって配流された先は、現在の大分市内、当時岡藩領内の大分郡萩原なのだそうだ。へー、知らなかった。とはいうものの、これ、菊池寛ファン以外には、いや菊池寛ファンにとっても、別にどうってことのない出来事だ。 しかし、こうした著名人の「配流先」になってしまうというのは、大分にとって喜ぶべきことなのか、あるいは悲しむべきなのか‥‥。 (6)それにしても、この『大分県の歴史』の中に、リーフデ号のリの字もないのは、どうしたわけか。 豊後に漂着したのも束の間、すぐに大阪に行ってしまったのが許せないとでもいうのか。そんな心の狭いことを言っているようでは、ダメなのではないか。 (7)元寇の際には大友頼泰の子息貞親が奮戦したとか、文化の大一揆が起こったとか、野上弥生子が生まれたとか、そういうことよりもよほどリーフデ号漂着のほうが大事件のように思えるのだが。 (8)そもそも、大分で行われる年中行事として最も知名度があるのは、「別府大分毎日マラソン(別大マラソン)」ではないのか。なのに、これについてもまったく記述がない。『大分県の歴史』と謳っておきながら、こんなことでいいのか。 と、以上、そんなわけで、さまざまな出来事があったのであるが、それらについて詳しく知りたいかたは、この『大分県の歴史』を読むといいだろう。ここでは、それ以上あまり詳しく知りたくないかたのために、「大分の歴史ベスト10」として手短にまとめてみたので、ご覧になっていただきたい。 「歴史をランキング形式でまとめるのはいかがなものか。それなら日本の歴史ベスト3は何なのだ、エッ、どうなんだ」 という意見があるやも知れぬが、見ての通り、大分程度ならこの形式が最もふさわしいであろう。以下が、そのベスト10である。 1位 W杯開催(2002年) 2位 大友宗麟活躍(16世紀半ば) 3位 リーフデ号漂着(1600年) 4位 大友宗麟死去(1587年) 5位 廃藩置県により大分県成立(1871年) 6位 大友宗麟誕生(1530年) 7位 第1回別府大分毎日マラソン開催(1952年) 8位 該当なし 9位 該当なし 10位 該当なし |