町でいちばんの秘書 |
古文などで、なぜ「あわれ」が、 「あはれ」 と書いてあるかというと、 《当然ですけど、昔は《あはれ》っていったからでしょう》 というのがその答えで、北村薫『スキップ』(注1)にそうあるから、古典に疎くともご存知のかたは多いだろう。 同様に、 「すすめ」 「はか」 などが、それぞれ「すずめ」「ばか」と書かれないのも、そのころの人々が「すすめ」「はか」と発音していたからである。(注2) というと、 「しかし、それでは困るではないか」 とおっしゃるかたがいるかもしれない。 たとえば、 「秘書」 と、 「美女」 が同じ「ひしょ」であったら、どういうことになるのであるか。 町でいちばんの美女というから、もうウキウキワクワクしながら恋文を出して、まあそのころであるから本人の姿は御簾の向こうで見えないわけで、どんないい女であろうかと想像しつつ歌のやりとりなんぞを経た後、ようやく念願かなって御簾のうちに入り込んでみると、そこにはピシリと糊のきいたスーツに身を包んだ、見るからに有能そうな男がひとり端座しており、 「これからは、先生の手足となって働きますので。事務はすべて私に任せてください。万一の際には、すべて私のせいにしちゃってかまいませんから」 などとテキパキと申し述べ、ああ実は町でいちばんの美女ではなくて、 「町でいちばんの秘書」 だったのか、と今さらながら気づいたとしたら、 「困るではないか」 と、そうおっしゃるかもしれない。 だが、大丈夫なのだ。そんなことには、ぜったいにならない。 なぜなら、その当時、秘書はすべて美女だったからである。秘書たるもの美女でなければならず、美女と呼ばれるには秘書たる資格がなければならなかった。すなわち、秘書と美女は互換可能な存在だったわけだ。だからこそ、双方を同じ「ひしょ」と呼んで差し支えなかったのである。 御簾の内にいたのが、たとえ、 「これからは、先生の手足となって働きますので」 とテキパキ申し述べる有能な秘書だったとしても、その人が美女であることには変わりはなかった。 「町でいちばんの美女」 ときたら、それはすなわち、 「町でいちばんの秘書」 でもあったのだ。 同様に、 「武士」 「無事」 「不死」 「富士」 が同じ「ふし」では困るではないか、とおっしゃるかたも、心配は無用だ。 かつて武士と呼ばれたのは、もののふの中のもののふ、真の武士であった。 武士たるもの、戦いに参じては百戦百勝、かすり傷ひとつ負うことなく、すなわち、 「無事」 であり、数々の激戦をくぐり抜けて常に生還し、絶体絶命のピンチも平気で乗り越える、まさに、 「不死」 と呼ぶべき勇者だった。 その偉大な姿は、山にたとえればさしずめ、 「富士」 とでもいうべき存在であったわけであるから、「武士」が「無事」でも「不死」でも「富士」でも、別に何ら問題はなかったのだ。 はじめに例示した「すすめ」「はか」にしても、雀は進むから「すすめ」だったのだし、バカは墓にでも入っちまえ、ということで「はか」だったのである。濁点があろうとなかろうと、言葉の混乱はまったく起こらなかったのだ。 かつて人の世が清らかだったころ、言葉もまたすべて清音であったのだろう。世の中が濁るにしたがって、言葉にも濁音が生まれ、濁点が必要になってきたのである。 無論、今は違う。この濁世にあって、仮に今いきなり濁点が失われてしまったとしたら、人々は甚だ困惑し、社会は大いに混乱するであろう。 たとえば、「カフカ」と「株価」が同じだったら、証券取引市場が不条理になりかねない。 あるいはまた、「ブリンの小説」と「不倫の小説」、「ベアの小説」と「ヘアの小説」の区別がつかなければ、80年代SFの金字塔(注3)が、子どもが読んではいけないいかがわしい小説になってしまうに相違ない。 今や、濁点は、世界を分節し、社会を形づくる原動力である、といっても過言ではないだろう。 ところで、こうした濁点の持つ威力を、言葉に敏感な作家たちが見過ごすわけがない。多くの作家が濁点を巧妙に利用して作品をつくっているのだが、中でも別格は太宰治である。 太宰の作品によく見られる、 「畳みかけるような、リズム感のある躍動的な文体」 としばしば形容される文章、あれは濁点あってのものだといってもいい。 たとえば、「走れメロス」。 有名な冒頭部分を見てみよう。 《メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。》 これに、もし濁点がなかったら、どうなるか。 「メロスはけきとした。かならす、かのしゃちほうきゃくのおうをのそかねはならぬとけついした」 こうなってしまう。 メロスは、 「けきと」 しちゃうのである。いきなり腰砕けである。 そのうえ、王は、 「しゃちほうきゃく」 である。阿呆のようである。そんな王なら放っておいても害はない。 作品冒頭の緊張感とスピード感に満ちた文章が、たんに濁点がない、というただそれだけのことで、かようなまでに間の抜けたものになってしまうのだ。逆に言えば、濁点あったればこそ、あの作品が生まれ得たのだ、といってもよい。 もう一作品、「駆込み訴え」を見てみよう。こちらもやはり簡潔で流れるような文章が特徴だ。 その冒頭、 《申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。》 ここから濁点を抜くと、こうなる。 「もうしあけます。もうしあけます。たんなさま。あのひとは、ひとい。ひとい。はい。いやなやつてす。」 どうであろう。 最初の「もうしあけます」は、まあ許そう。舌足らずのガイジンみたいであるが、拍子抜けするほどではない。 が、次がいただけない。 「たんなさま」 これはダメだ。「旦那さま」と、濁音「だ」で始まる単語がポンと入ることでアクセントがついていた文章の流れが、すっかりおじゃんである。切迫感も焦燥感も、ありゃしない。 そのうえ次が、 「ひとい。ひとい。」 ふざけてるのか、と言いたくなる(いや、実際、ふざけているのだが)。 こうして見ると、濁点こそが、これらの作品の急所であることがわかる。濁点がなければ、いかに構想がすばらしいものであったとしても、画竜点睛を欠くことになっていただろう。その意味で太宰は、濁点の効力を最大限に引き出した作家だといえるのではなかろうか。 考えてみると太宰治は、そのペンネームからして、濁点が不可欠な作家である。これが仮に、 「たさい・おさむ」 だったとしたらどうか。風に吹かれて飛んでいってしまいそうな軽薄さではなかろうか。 「だざい」だからこその「ダス・ゲマイネ」であり、「グッド・バイ」なのだ。これが「たさい」で「タス・ケマイネ」で「クット・ハイ」だったら、文学史にその名をとどめることは到底不可能だったに違いない。 とはいうものの、このペンネームという観点から見ると、濁点は意外なほど文学上の影響力を持っていないことをご存知だろうか。 夏目漱石、正岡子規、田山花袋、伊藤整など、濁点を使わない作家が多いばかりでなく、幸田露伴、尾崎紅葉、森鴎外、島崎藤村など、今にその名を残す文人たちのほとんどは、名前から濁点が失われたところで、さしたるイメージの変化がない。 太宰以外で濁点に負うところの大きい作家といえば、わずかに、山田美妙と川上眉山くらいでしかないのではないか。濁点がなくなれば、それぞれ、「ひ」の字がいかにも脆弱な、 「やまた・ひみょう」 「かわかみ・ひさん」 となってしまって、作家としての面目も失墜だ。ただし、考えてみると、美妙は言文一致を思いついておきながら二葉亭四迷にその創始者としての栄光をさらわれてしまったわけだし、眉山も今となっては太宰の短編にその名を残す程度。名前から濁点が失われたところで、後世のわれわれには、何の感慨も浮かばない。今さら失墜すべき面目も名望も残ってないような気もしないではない。 それはさておき、このように作家たちが意識的に濁点を避けたことは、おそらく明治という激動の時代がもたらした歴史的事由と不可分であろう。 官主導の上からの改革とともに、「国語」という新たな国民の言葉が形成されつつあるただ中にあっては、いつ何時、 「濁音なんて、けしからぬ。言葉が濁っていては、欧米諸国からバカにされかねない。今後は濁点廃止。清音のみとする」 ということにならないとも限らない。 万が一のその時に備えて、作家たちは、あえてペンネームにおける濁点の利用を最小限にとどめたのではなかろうか。その伝統が、大正、昭和へと引き継がれていったのだ。 と、そんなことを言うと、 「じゃあ国木田独歩はどうなんだ」 とおっしゃるかたがいるかもしれない。 「独歩から濁点がなくなったら、文豪らしい重みがなくなってしまうぞ」 と。 だが、心配はいらない。そのあたり、さすが独歩は計算しつくしている。 試みに、 「クニキタ・トッポ」 とカタカナ書きしてみるといい。 なにやらいかにも現代っぽい、クールな若々しさが漂ってきはしないか。 いずれ世が移り濁点が廃止されるようなことが現実となったあかつきには、太宰は忘れ去られ、かわって独歩が、 「トッポ」 として、 「キュウニクとハレイショ」 などを引っさげて、華々しく返り咲くに違いない。 |
(注1)新潮文庫、¥743。こんな女の子いないよ、といった批判も多いし確かにそう思うけど、でも私は大好きである。 (注2)このあたり、うかつに信じないでもらいたい。 (注3)デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』『知性化戦争』、グレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』『永劫』など(いずれもハヤカワSF)は、「サイバーパンク」の流れの中でもウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングらとはまた異なるSFの新たな地平を開いた。その功績以上に、「本格SFは上下2巻以上の長大なものでなければならない」という暗黙の了解をうち立てた点も評価(あるいは批判)されてしかるべきである。 |