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親譲りの鉄砲






これを書いているのは、8月もそろそろ終わろうかという週末である。中学生、高校生の皆さんにとっては夏休みも残すところあと1週間! 私としても思い出すだけでも胸がキュッとしめつけられるような、そんな時期である(皆さんの中には「夏休み、まだ1週間も残ってるの? わーはは、まだそんなにあるのか。楽勝じゃん。さ、昼寝でもしよ」という磊落な子ども時代を過ごした人も多かろうが、そのあたり私は将来に対して悲観的な児童であった)。そのせいなのか、最近、「悩める青少年に朗報!読書感想文は1行読めば書ける!」のコーナーに関する問い合わせが相次いでいる。

と、こう書くと、1日1通とまではいわないが、まあ2、3日に1通くらいは継続的に問い合わせのメールが届いていそうな雰囲気がするので、
「エッ、このサイト、そんなにメールが届くわけ!?」
と一瞬目を見張った人をがいるやも知れぬが、えーと、いや、あの、その、ごめんなさい。この表現、使ってみたかっただけです。
正直に申告いたしますと、お問い合わせは、2通だけでした。
ほら、一応、1通だけじゃないから、相次いではいるでしょ。ウソではない。ね。

という告白はさておき、それがどういう種類のお問い合わせかというと、もちろん、
「あの感想文、参考にしてもいいですか」
「写しちゃっていいですか」
というものである。わはは、よいに決まっているではないか、若者よ!
読書感想文なんていうつまらぬものに、十代の夏を一瞬たりとも無駄にしてはならぬのだ。こんな不真面目なものを流用してそれで済むのであればどんどん流用してくれたまえ!
と、このところ私は大いにご機嫌なのであるが、なぜか各方面から、
「中学生女子の人からメールをもらってそんなにうかれていては心配だ」
とばかり言われるので、そのあたりは大いに不服とするところである。

まあそんな前置きはともかく、そんなわけで、まれにしか更新されないこの「読書感想文は1行読めば書ける!」のコーナーにもそれなりに需要があって、なおかつ実用にも役立っていることが明らかになった。したがって、私のやる気も正比例、ということにあいなるわけで、2学期が始まる前に、世間の中学生女子の人およびそうじゃない中高生のために、もう少しだけ拡充をはかろう、ひと肌脱いでやろうじゃないか、という気分になり、こうしてパソコンに向き合うこととなった次第である。
あらためて言うまでもなく、当然そのまま原稿用紙に引き写して提出してしまって構わないが、もしあなたが中学生女子の人であれば、「感想文、写しちゃいますー」とメールをくださるとありがたい。ポスペ可である。






『墓地やん』を読んで




『墓地やん』夏目漱石(注1)
松山の教員時代の体験をもとに、天真爛漫な殺人鬼の活躍を描いて、数ある漱石作品の中でももっとも広く親しまれている鬼畜青春小説。墓場で生まれために「墓地やん」とあだ名される主人公は、裏も表もない、単純で鬼畜な青年。若い読者の中の「墓地やん」的なものに対する憧れ、または愛好が、この作品が時をこえて若者たちに読み継がれている理由であろう。
(新潮文庫、¥666)
字間を読む

よく「行間を読む」ということがいわれます。文字として書かれていることの奥に秘められた、作者の思い、作品の本当の意味を感じ取る、ということです。最初の1行だけを読む場合、1行しかないので、物理的に「行間を読む」ことができません。ですから、「字間を読む」ことになります。行間でも字間でも、それを「読む」と聞くと、なんだか難しいような気がしますが、そんなことはまったくありません。なぜなら、文字として書かれていないことについて書くわけですから、詰まるところ、何を書いても大丈夫、ということになるからです。




(注1)
近代日本ホラー文学史上に燦然と輝くこの作品の名を知らぬ人はいないであろう。国語の教科書で習った、という人も多いはずだ。
明治39年に雑誌「ホトゝギス」誌上に発表されたこの作品が、後世に与えた影響ははかりしれない。少なくともこの作品なくしては、水木しげる「墓場の鬼太郎」は生まれなかったに違いない。
凄まじい暴力表現や残酷な描写が青少年の教育にはふさわしくないという観点から、最近は教科書から消えつつあるというが、くだらない、そんなに影響を受けるほど最近の青少年が漱石を熱心に読むわけないではないか。




この作品、冒頭の1行に、度肝を抜かれる。思わず、驚愕してしまう。
なにしろ、いきなり、

「親譲りの鉄砲で小供の時から産婆狩りして居る。」

なのだ。
「鉄砲」
で、
「産婆狩り」
なのだ。しかも、
「親譲り」
で、
「小供の時から」
わーっ、何なのだ、この話は!? この語り手は何者なのだ!?(注2)

(注2)
このように、改行を多用すると、行数が稼げるので便利です。しかしあまりに多く使いすぎると悪印象をもたらすので、ほどほどにしておきましょう。

読者は、いきなり作品の世界へと、引き込まれる。いや、引きずり込まれる、と言ったほうがいいかもしれない。たかだか20字ほどの文章が持つ圧倒的なイメージの奔流に、あっという間に押し流されてしまうのだ。そうして、ううう、産婆狩りってことは、10才くらいの子どもが鉄砲を抱えて、
「ひえー、おたすけえ、わしゃあ何もしとらんとですよー。げえー」
「げへへ、さあ、さあ、どこに隠れた? ‥‥ひひひ、そこにいたか、ほら、どうした、怖いか、死ぬのが、怖いか。げひひ、ほら、叫べ、泣き叫ぶがいい。げひひ」
‥‥ひー、怖い。と、頭の中にはすでにしてまだ見ぬ『墓地やん』の世界が構築され、物語が始まらぬうちから鳥肌を立ててしまうのだ。

古来、悪漢小説、ピカレスクロマン、犯罪小説などと呼ばれる作品は数多いが、冒頭からいきなりこれほどの鬼畜ぶりを発揮する小説は、ほかに見あたらないのではないか。人間じゃありません、人非人です、と宣言している『人間失格』ですら、冒頭は所詮、
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」
なのだ。拍子抜けするようなつまらなさだ。

さて、かくしてわれわれ読者は、この『墓地やん』の残虐さばかりに注目してしまいがちなのであるが、しかし、それだけで終わってしまってはならないのではないか。
『墓地やん』は、たしかに血みどろのおぞましい小説だ。残酷、鬼畜、悪逆、無道、そんな言葉がふさわしい凄まじい内容である。しかし、それだけなら単なるホラー小説、スプラッタ小説でしかない。『墓地やん』には、それ以上の何かがあるはずだ。残酷鬼畜なだけではない、奥深い何かを秘めているのだ。だからこそ、ホラーというジャンルの枠を超えて、今なお多くの若者の心をとらえてやまないのではないか。
そう思って、もう一度、冒頭の一文に立ち返ってみたい。

「親譲りの鉄砲で小供の時から産婆狩りして居る。」

どうであろう。
あらためて驚かされるのは、末尾が「居る」になっていることだ。「居た」ではない。「居る」なのだ。現在形なのだ。
「小供の時から」という言葉に惑わされてしまいがちだが、語り手たる主人公「墓地やん」は今も、今でも現役で産婆狩りしているのだ。
このことから、何がわかるのか。
小供の時からというからには、もう余程長く産婆狩りを続けているに違いない。主人公は、粘着質というか、執念深いというか、一度やり始めたら飽くことを知らずどこまでもつきつめていく、そう、言ってみれば、
「地道な性格である」
ということが、ここで暗に言明されているのではなかろうか。
しかも、「親譲りの鉄砲」である。小供の時に親から譲られた鉄砲を、今も変わらず使っているのだ。それが意味するところは何か。もちろん、
「物持ちがいい人である」
ということにほかならない。産婆を追って路地裏を駆けめぐり、何人もの産婆を仕留めたその夜には、油をさしたり磨いたり、ランプの下で丹念に鉄砲の手入れをしている、そんな心温まる情景が思い浮かぶ。
「小供の時から産婆狩り」
などという、一見して派手な装いをまといながら、この一文は裏では、
「地道で物持ちがいい」
という、主人公のそんな地味で質実な、ある意味『路傍の石』などに通じる真面目な性格を言い表しているのだ、と言ってもよい。

この作品が、ホラーでありながらも純文学であるのも、むべなるかな、であろう。
主人公「墓地やん」は、殺人鬼である。鬼畜である。われわれとはまったく異なる世界の存在だ、と一見、考えられる。しかし彼はその一方で、地味で質素な、愛すべき性格の持ち主なのだ。だからこそ、はじめは興味本位で、あるいは嫌悪感を持ちつつ読み始めたとしても、いつの間にか彼の中に、等身大の自分を重ねずにはいられなくなってしまうのだ。家族や友達、先生の前では不良っぽく振る舞っているけど、本当のところは地味で真面目で、たとえば横断歩道を渡るときは白いところだけを踏んで歩いてしまうような、あるいは知り合いが見ている前でなければお年寄りに席をちゃんと譲ってしまうような、そんな自分を見出してしまうのだ。

そう思うと、この作品は、よく言われるように「誰のうちにも潜む殺人鬼としての衝動や欲望を暴き出した」ものではないような気がする。逆に「殺人鬼のうちにも潜む生活者としての常識を克明に描き出した」ものなのかもしれない。
もちろん、こう考えるのは私だけかもしれないが、だとしても、そうした多義的な解釈を許容するところが、やはり『墓地やん』の奥深さ、懐の深さであり、文豪・夏目漱石のうまさ、というものなのであろう。



(注)たぶんこんなことを書くのは蛇足なのだろうけど、この文章は当然のことながら夏目漱石「坊っちゃん」を使ったパロディです。「坊っちゃん」の最初の1行は、
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。」
です。

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