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今こそ『大暴れ快男児』を読まねばならぬのだ!






 などといういきなり大仰なタイトルを見て、
「わっ、なんだなんだ!」
と慌てふためき焦ってしまったり、あるいは、
「あわわあわわ、どうしましょう」
と狼狽え怯え怖気づいてしまったかたがたもおられるでしょうが、ええと、まあそんなにたいしたもんではないのです。
 ただまあ、この『大暴れ快男児』をはじめとする一連の小説群を、不肖わたくしかなり気に入っておりまして、ことあるごとに周囲の人々に対して、
「これぞ天下無双の愉快痛快おもしろ本である!」
と執拗に喧伝しているのですけれども、どうせだからここらでひとつちゃんとした文章にまとめて、もっと公式に大々的に世間さまに認めてもらいたいものであるなあ、なんておそれながら考えたまででありまして…。別にこれといって切羽詰まった抜き差しならぬ事情があったりするわけではないんですけど…。

 と、いきなり弱腰低姿勢で始まってしまったのだが、実際はそんな外見とは裏腹に、私の『大暴れ快男児』にかける情熱は強く激しく狂おしく煮えたぎり燃えさかっているのである。
 なにしろ、「快男児」なのだ。
 「快男児」!
 いまどきこんな言葉使わないよ。使わないし、使えない。
 友人をひとわたり見渡しても、この形容がぴったり当て嵌まる男はいそうにないし、誰かが、
「いやあ、あいつはまったく快男児だ」
などと評しているのを聞いたこともない。
 このごろはどちらかというと、そんな豪放磊落すっぱりさっぱり力強く逞しく頭カラッポ、というような人間よりも、心の奥底に「襞」やら「陰」やらがさりげなく配置されてる人間のほうが流行っているのである。文字どおり「快男児」そのもののキャラクターなんて、もう「児」ではないけれども長嶋茂雄くらいしか思い当たらないし、たぶん世代的にも真に「快男児」を生み出し育て愛し受け入れていたのは、あのあたりの年代の人々までなんじゃないか、とも思える。

 そうしたノスタルジックな含みを持ちつつ、なおかつふるいつきたくなるような強健さ勇猛さに満ちあふれた言葉を、臆面もなく小説のタイトルにくっつけて毫末も恥じるところのない『大暴れ快男児』。しかしながら、30代以下でこれを読んだことのある人は、いや、それどころかこのタイトルを聞いたことがある人ですら、ほとんど皆無と言っていいに違いない。
 なんでそんなに誰も知らないのかというと、実はこの『大暴れ快男児』を筆頭とする一群の青春小説ってのは、今から30年ほど前に流行った、といっても一世を風靡したというわけではなく小説の1ジャンルとしてわりとメジャーだったという程度なのだが、まあそうしたものであるからだ。流行った、というだけで、そこはそれ、由緒正しい純文学ではもちろんなく、さりとて山本周五郎のような花も実もある立派な大衆小説でもなく、要するにズバリ、
「カス小説」
といった類のものであったから、時の移ろいともに、きれいさっぱり廃れてしまった。現代の若者が知るべくもないのだ。

 じゃあなんでお前はそんな昔の小説を知っており、さらにそれほど入れ揚げているのだ、というと、実は私は当年とって47歳なのです、というわけではなくて、これにはなかなかにして侮れぬ深遠かつ玄妙なる事情がある。
 そのへんの事情のことをつらつらと語り、『大暴れ快男児』を中心としたあのあたりの今はなきカス青春小説の、まさに人類が産んだ至宝といっては過言だけれどまあそこそこにめくるめく素敵な魅力を白日のもとに明らかにしようではないか、というのがこの文章の主題なのである。
 であるから、この文章を最後まで読めば、いかに頑迷固陋な猜疑心の持ち主も、
「そうかそうか、『快男児』の虜になるのももっとも至極、なっとくなっとく」
と素直に頷くであろうし、またさらにはいかに巌のごとく無情にして不感症なるかたも、
「なんだか『快男児』を読みたくてウズウズしてきちゃったわ」
と思わずポッと上気しつつ身悶えしてしまうこと請け合いだ。

 さて、前置きはそれくらいにして、まずはこれらの小説と私との運命的な出会いから物語りたい。
 あれはたしか、平成4年の秋のことだった…。
 わっ、ちょっと待った!
 さっきからおとなしく聞いておれば、「快男児」「快男児」と名のみ連発するばかりで、一向にその中身の説明が出てこないではないか!
 われわれを愚弄する気か!
 エッ、どうなんだどうなんだ!
 あわわあわわ、そんなに憤らないでくださいよ。
 物事には順序というものがあるのです。
 このことを最初に語るのが、いちばん手っ取りばやいんですから。中身なんて直に明らかになりますから。ね。ね。

 で、その秋。
 ところははるか会津若松。
 私は駅前商店街の一角にある古本屋「平和堂」の中にいるのだった。旅行先での古本屋めぐりは私の趣味。そのときは電車の待ち時間がかなりあったんで、待合室で読むのにちょうどよさそうな本はないものか、と軽い気持ちで何気なく書棚を見ていたわけである。
 と、あったんですねえ。
 見つけてしまったんですねえ。
 ふと背表紙に焦点を合わせたとたん、私の目はビシリと釘づけになってしまったのです。
 『台風お嬢さん』に。
 わっ、ちょっと待った!
 なにぃ、『台風お嬢さん』だとぉ。
 『大暴れ快男児』とはぜーんぜん違うではないか。
 貴様やっぱりわれわれを愚弄する気だな!
 エッ、どうなんだどうなんだ!
 あわわあわわ、だから物事には順序があるんですってば。もうしばらく黙って聞いてください。

 で、とにかく私は「台風お嬢さん」という言葉を眼にした瞬間、稲妻に貫かれるがごとき衝撃を受けてしまった。なにしろ、
「台風」
で、なおかつ、
「お嬢さん」
なのだ。
 ああもう眼をそむけたくなるほど恥ずかしいセンスのなさ、とも言えるし、また狙ってもなかなかこうはいかない恐るべき精妙な組合せ、とも言えるではないか。
 この豪快至極なフレーズを前にして、私の胸には激情の炎がかけめぐった。ああこんな言葉の存在は人として許すわけにはいかぬ! だがしかし、もしかしたら、このような言葉こそ、停滞爛熟した世紀末に対して活を入れるに相応しいのではないか!?
 ああ、私はどうしたらよいのだろう。
 背表紙下端についてる定価を見るとたった160円。文庫本1冊がこんな値段で買えた時代の小説のようである。
 とりあえず、少なくともこのまま立ち去ってしまっては一生後悔するであろう、と思い(注1)恐る恐る棚から引き出してみると、おお、神よ、これがもうオイオイ男泣きに泣きたくなるような情けないダサダサな表紙。思わず目まいを感じてしまった。
台風お嬢さん表紙 が、それを見て私の心は決まった。
 タイトルにせよ表紙にせよ、これはセンスがないのではない!
 カッコイイとかみっともないとか、思わずひきつけられるとか目をそむけたくなるとか、そんな世俗的なレベルを完全に突き抜けたところに、この『台風お嬢さん』は達しているに相違ない! これはもう、万難排してでも即刻購入せねばならぬ!
 そしてさらに!
 念のため表紙カバーの返しにある「あらすじ」を読んで、ああ、なんと! まさにズズーンと地響きをたてて大地に倒れ伏してしまいそうな烈々たる衝撃が私を打ちのめしたのであった。
 ここにその全文を引用するので、読者諸君も同様な衝撃に身を委ねてもらいたい。

「かっぷくがよくてユーモアを解しおまけに酒豪である花見圭次郎は、丸亀物産の独身サラリーマンである。ある日、仲良しの同僚香戸昌吾から重大な相談を受けた…。
 香戸は、家の近くに越してきた美人姉妹の姉に一目ぼれのあげく、その橋わたしをしてくれと圭次郎に頼んできたのだ。そこで圭次郎は、出勤の朝、彼女たちのあとをつけていった!
 圭次郎は妹のほうの宮葉美紀に会うことができた。美紀は丸ノ内の北野工業につとめている。そこでは社長のむすこ北野誠也が、美人の美紀にことごとに言い寄っていた。…
 母の美乃さんに美和・美紀姉妹のしずかな三人暮らしの宮葉家に、若い男性たちのプロポーズ合戦が始まった! さてその結末は? 快調路線を走る“お嬢さんシリーズ”最近作!」

 ああ、どこが「重大な相談」なのだ、何が「つけていった!」だ。
 「さてその結末は?」なんて、さも秘密めかした口調のくせに、既にもうラストまで展開が見え見えではないか。
 「お嬢さんシリーズ」などと好評のシリーズものになっているのも侮れぬ!
 もう矢も盾もたまらぬ、一刻たりとも我慢できぬ!
 即座にレジに駆けよった私はバンッと勢い込んで購入すると(ちなみに古本屋がこれにつけた値段は70円。半額でもなく、さりとてきりがよくもない70円という価格、どういった基準によるものかは謎である)、春陽文庫、著者若山三郎、第1刷発行昭和46年のこの『台風お嬢さん』を会津若松駅の待合室で、むさぼり読んだのだった。

 ストーリーは単純明快。
 たぶん社長のむすこ北野誠也はギャフンという目にあい、主人公花見圭次郎は妹のほうの美紀と何だかんだあった挙げ句うまくいくだろうなあ、と思っていたら、ズバリその通りであった。
 北野誠也はさまざまな奸策を弄して美紀といい仲になろうとするが、結局は「圭次郎の鉄拳が、誠也のあごへ」とんで一件落着。最後は誠也も心をいれかえ、「花見君、これを縁に、ぼくを教育してくれないか」などと言いだす始末なのである。ああ、やっぱり。
 しかし姉のほうの美和に惚れていた友人香戸昌吾のほうは失恋し、しかも美和の交際相手であらすじには出てこなかった瀬永英司は悪い奴で、村岡桃子と「キッス」しているところを目撃されて二股をかけていたことが暴かれ、美和は自殺未遂、というなんだかとって付けたような展開があったりもして、ストーリーに厚みを持たせようとしているのだなあ、と苦心のあとがありありと見て取れ、でもやっぱり厚くなってるわけではないところがまた好感を与えるではないか。

 それに主人公花見圭次郎の設定が、なんとも古きよき時代のいい男、という感じで、ああもう堪えられない。
 プロレスラーのように大柄で頑健、おっとりとした顔つきで肉付きのよい顎を持ち、女や金よりも「どうせ持つなら、ビールの入ったジョッキーがいいな」、給料日の前には財布の中には「ビールを一口しか飲めない」25円しか入ってないし、そのかわり「どぶに捨てるほど」友情にあふれている。
 さらにその「ユーモアのセンス」がすばらしい。社員寮の寮母の一人娘羽越杉子が「わたしのこの燃える胸を、どうしてくれるのよ」と言い寄るのに対して「胸が火事なら、消防車を呼ばなくちゃならんな」などと鋭く切り返したりするのは序の口なのである。ううむううむ、こうした「ユーモアにあふれた」青年が20年後には「欝陶しいオヤジギャク」として虐げられてしまうのだなあ、と思うとまことに感慨深いではないか。

 そしてそして、巻末についてる目録を見るに至って、私の感激と興奮は、おおまさに天国的な高みまで一気に昇りつめたのだった。
 そこに綺羅星のごとく並んでいる小説のタイトルは、どれもこれもが「台風お嬢さん」に優るとも劣らぬ気迫に満ち満ちている。
『お嬢さんとちゃめ紳士』!
『ドカンと一発!!』!
『おこりんぼ大将』!
『人生だなあ』!
『青春バンザーイ!』!
『はりきりスピード娘』!
『恋愛百メートル自由形』!
『花婿三段跳び』!
 ああもう、思わず失神寸前、気が遠くなってしまいそうだ。

 そして中でも数十冊にも及ぶ大シリーズとして、若山三郎「お嬢さんシリーズ」と双璧をなしている城戸禮(きど・れい)の「三四郎シリーズ」に私の眼はひきつけられたのだった。
『よしきた三四郎』
『ぶっ飛ばし三四郎』
『つむじ風鉄腕三四郎』
『無敵男性三四郎』
などと、これまた目の眩むような言葉のオンパレード。たぶん内容は『台風お嬢さん』と大同小異で、三四郎なる腕っ節の強い主人公が恋敵をぶちのめしてハッピーエンド、なんてのに違いない。
 ともあれ、このうえない感銘を受けた私の心のなかには、
「なんとしてもこれらの作品を読んでみたいものだ!」
と、堅く強い願いの灯がともったのであった。

 しかし、これが実になかなか難しいのである。
 今となっては何の価値もない本だけに古本屋のほうでもなかなか扱ってくれないようで、全然見つからない(注2)
 「三四郎」に対する憧憬は日々いたずらに募るばかりであった。
 が、その後しばらくして、神保町の古本屋で、私はついについに、待ちに待っていた邂逅を成し遂げたのであった。
 入手したのは城戸禮『大暴れ快男児』(第1刷発行昭和42年)をはじめ数冊。
 おお、ここに及んで、やっとこの文章の主題である『大暴れ快男児』が登場したのだった。やれやれ、よかった。

 それにしても、『大暴れ快男児』!
 いやあ、なんとも率直素朴、けれん味のない一本気なタイトルであることよ。
 まさに晴雲秋月、心洗われる爽やかさではないか。『台風お嬢さん』が「台風」と「お嬢さん」という一見ミスマッチな言葉をつなげた些か技巧派のタイトルだったのに比べると、こちらは真実一路、王者のごとき風格さえ感じさせる。さらにその響きが内包するガッシリとした力強さ頼もしさは天下一品。
「えゝモウ、どうじゃどうじゃ、これでもかこれでもか!」
とばかりにドコンドコンと胸に迫ってくるではないか。
 そしてこの「大暴れ快男児」という6文字に凝縮された宇宙の闊大さはどうだ!
 たった6文字だけで、たぶんストーリーは快男児の主人公が大暴れして悪いヤツをやっつけ好きな女の子とちゃーんと幸せに結ばれるんだなあ、と手に取るごとく鮮やかにわかってしまうではないか。『ねじまき鳥クロニクル』だの『マディソン郡の橋』(注3)だの、ちょっとカッコイイけど何がいいたいのかよくわからぬ小賢しくあざといタイトルをつけた昨今の小説よ、これを見習え!
 そしてそして、おお、やっぱり表紙は相も変わらずダサダサの極致、思わず割腹したくなるほどの恥ずかしさだ!
大暴れ快男児表紙 購買意欲をまったくそそられないことは言を待たない。書棚におさまっているならともかく、平積みになっていたら絶対手に取りたくない!と明言できよう。
 しかしそこのところが「男は外見ではない、中身で勝負だ!」と全身で猛々しく主張しているようで、かえって潔いではないか。(でもホントに中身で勝負したら、どう考えてもそこらへんのちゃんとした小説には負けるんだよね、というところも、またお茶目さんではないか。)

 で、この小説、タイトルには「三四郎」の名が冠されているわけではないのだけれど、実は主人公の名が竜崎三四郎であり、立派に「三四郎シリーズ」の一翼を担うものであった。
 ちなみにこの「三四郎シリーズ」、主人公の名前こそどれも竜崎三四郎なのだが、すべて同姓同名の別人なのだ。まあ外見や性格の設定も似たようなもんなんだけどね。作者が単に「竜崎三四郎」という名前が好きで好きでたまらぬというだけのようなのだ。
 えーっ、なんかそんなのズルイじゃん、などというヤツ、エエイ、黙れ黙れ!
 これぞ「男のこだわり」というものなのであろう。細かいことに難癖をつけるんじゃない!

 それはともかくとして、ドキドキワクワク、いざ期待に胸を躍らせて『大暴れ快男児』を読んでみると…。ああ、まさに期待どおり! っていうか、予想したまんま。主人公三四郎が悪者をぶちのめし、見事ヒロインをわがものとする、という、ただただそれだけのストーリーであった。
 見事に単純、見事に明快な展開である。現代の裏も表もある世知辛い世の中において、生一本に貫徹された至誠廉直なその姿には、徳のようなものすら感じられるではないか。言わば小説界随一の好漢、唐国に『水滸伝』あらばわが日の本には『大暴れ快男児』あり!という感じなのだ。
 こ、これだ、私はこれを望んでいたのだ!
 やはり、期待していただけの、いやそれ以上に価値のある小説であった!
 あまりの感動と喜悦に、私は思わず感涙にむせぶのだった。

 あ、忘れぬうちに書いておかねばならぬ。ここで、是非とも述べておかねばならぬ魅力的な点を挙げておこう。
 「目次」のところにはずらりと小見出しが並んでいるのだけれども、これがまたタイトルと同じ鮮烈さ剛毅さ実直さに漲っているんである。
「げんこつ流の血統」
「鉄拳台風の予報」
「おっぽれいなか娘」
「町じゅうは大騒ぎ」
などなど、おお、この目次を見ているだけでもカーッと興奮してしまう。気の弱い人は鼻血キャップが必須だ。
 実際に読みすすめると、それら小見出しの的確さには甚だ舌を巻くばかり。
「サメをなぐり殺す」
という見出しを見て、ああなんとなんと、三四郎はいきなり人喰い鮫と血で血を洗う死闘を繰り広げてしまうのか!と手に汗握り息を潜めていると、悪者のセイウチこと荒川熊蔵が「なにしろ、海ん中でサメと格闘して、なぐり殺したこともある」というほど強いそうで、
「フヘッ、サメをなぐり殺した?そ、そいつはすげえや」
と、ただそれだけなのであった。たったこれだけのことを見出しにしてしまう度胸、なんとも男らしいではないか!
 また、
「女体の魅力」
なんてところでは、ああこの純情な快男児小説のなかでどんな淫らに妖しくあられもない場面が展開されてしまうのか、とドキドキしていると、狂言回し役の万座三助がヒロイン藤江春美に自転車の後ろに乗せてもらって、「前の春美がペダルを踏むごとに、三助の鼻にいいにおいがする。つまり、これ、女体のかおりっていうものだろうが、そういうにおいには敏感なだけに、三助は、その強烈さに目がまわりかけた」と、やっぱりたったそれだけなのであった。いやあ、もうホントに参りました。青春小説たるもの、こうでなくてはならん!
 と、まあ万事が万事こんな感じで終始して、私は「快男児」の世界に陶然と酔い痴れてしまうのであった。

 さて、どうであろう。
 ここに至って、もう一度問おう。
 諸君は、『大暴れ快男児』をどう思うかね?
 はじめは『大暴れ快男児』などときいて、
「なーに言ってんだ、くだんねえ、バッカじゃねーの」
などと冷ややかな眼を向けていた読者のかたがたも、いつの間にやら思わず知らず身も心もカッと火照り、膝はガクガク、息遣い荒く、鼻の穴広がり、
「ああん、『大暴れ快男児』って、すごすぎ…もうダメ…」
という腰砕けのまま再起不能な状況になっているのではなかろうか。
 私がこれほどまでに打ち込み入れ込んでいるのも、骨の髄までわかってもらえたであろう。

 ところで先にも述べたように、この『大暴れ快男児』は『台風お嬢さん』と内容的にはほとんど同じである。いや、この2冊はおろかどの『三四郎』もどの『お嬢さん』も、さらに中野実『青春オリンピック』、竹森一男『敢闘賞社員』といった夥しい数にのぼる一連の春陽文庫カス青春小説どれもが、すべて似たような内容なのだ。根本的なところで、どの小説も共通の構造を備えているのである。すなわち、ストーリー展開が共通であり、登場人物および登場人物間関係の設定が共通なのだ。
 ってことは、タイトルと名前以外はすべて一緒なんじゃないか、エッ、どうなんだどうなんだ、ということになるのだが、いやいや、そこのところがファンにとっては魅力なのだよ。
 どの作品も同じということは、すなわちすべての作品が『大暴れ快男児』や『台風お嬢さん』に等しい、快刀乱麻を断つがごとき単純明快さと疾風迅雷のごとき力強さ荒々しさを秘めているということにほかならない。たとえていえばピッチャーの投げてくる球1球1球がすべてキレのある160km/hのストレートであるようなものだ。似たような内容の1冊1冊ことごとくが、いちいちズドーンと魂に突きささり、読むたびに、
「ふうふう、むうむう、ソレもう、えゝ、こりゃたまらぬ」
と日本国がひとつになって身うちが解けて煮凝りになるような法悦に身を震わせずにはいられないのだ。

 なんてことはさておき、その「共通のストーリー展開」について、もう少し詳しく掘り下げてみよう。まあどちらかというと「展開」などというような二次元三次元のものというよりも、ほとんど直線のようなものなのだが、要約すれば、
「主人公が悪者をぶちのめしてヒロインをわがものにする」
という、それだけのストーリーである。
 脇役陣の行く末にはいくつかヴァリエーションがあって、『台風お嬢さん』のように失恋しちゃったり、女の子には縁がないままトリックスターに徹したり、『無鉄砲三四郎』のように主人公のお相伴に与って巧くたちまわったりするけれども、主人公・ヒロイン・悪者という3者の関係にはまったく変化がない。
 ヒロインが「悪の魅力」に惹かれて悪者のもとに走ってしまったり、ダメな悪役に母性本能を刺激されて、
「あなたには私がついてなくっちゃいけないのね」
などとしずかちゃんのようなことを口走ったり、あるいは主人公のあまりの快男児さについていけず、
「あなたには私なんか必要ないんだわっ」
と泣きながら去っていってしまったりなんてことは絶対にないのだ。
 読者は主人公とヒロインと悪者がわかったら、あとは何の心配もなく最後まで一直線に読みすすむことができる。おお、すばらしき安心設計、なんとも細やかな配慮ではないか。

 もう1点、「共通の登場人物および登場人物間関係の設定」についてだが、これはもうあたかももとになるベーシックな図式があってそれにほんの少し手を加えただけ、という感じなのだ。一般化して図式化するとこのようになる。

     快男児人物相関構造図

 それぞれのキャラクターの性格づけは、ほぼ察しがつくであろう。
 〈主人公〉はどれも三四郎や『台風お嬢さん』の花見圭次郎みたいなもの。大柄で腕っ節が強くて純情で、女の子より酒や食い物、でもなぜかモテる。
 〈ヒロイン〉のほうは、これはきわめて興味深いのだが、「女性の社会進出」に迎合しているのか何なのか、みんなやたらと活発でボーイッシュで積極的な美人ばかり。
 若山三郎『けんか青春記』の畑野伸代は「タバコをくわえての運転ぶりは颯爽としたもの」だし、『それゆけ青春』のお嬢さん社長深町則子は「むかしの女性なら夢のなかでしか口に出せない質問である」という「きみ、なんのためにわたしに恋をしたいの」なんてことを放言して憚らない。小泉譲『女生徒男生徒』の中河和緒にいたっては「ゾウキン・ダンスなんて、みめうるわしい年ごろの娘がやるスポーツじゃないわ」と心密かに思ってはいながらも柔道の遣い手でさえあるのだ。
 そしてこうした彼女たちに対する形容の代表が、
「とれたての若アユのようにピチピチ」
なんである。池波正太郎が好みそうな「肩から腰にかけての凝脂ののった肉置きがえもいわれぬ…」といった表現が似合う女はヒロインになれない。

 この健康的な〈ヒロイン〉に横恋慕を仕掛けるのが〈悪役〉。最後には主人公にぶん殴られぶちのめされてしまう役どころである。『大暴れ快男児』のセイウチこと荒川熊蔵のように面構えからして凶悪なこともあれば、『台風お嬢さん』の北野誠也のようにどうしようもないバカ男の場合もある。でもなんだかみんなどこか抜けていて憎めないところがあるんだよねえ。そのあたりがいかにも「正しい悪役」という感じで、いいんではなかろうか。
 一方、主人公には必ず〈親友〉がいて、これには「B級型」と「狂言回し型」の2種類がある。
 「B級型」は主人公のキャラクターを薄めたようなタイプ。『大暴れ三四郎』の兄・竜崎二郎(このように主人公の兄弟であることも多い)や『無鉄砲三四郎』の伴大六がこれにあたる。その彼が想いをかけるのが、ヒロインほどパッとしない〈女A〉である。〈女A〉はヒロインの友人か姉妹であることが多い。そしてほとんどの場合〈親友〉と〈女A〉は、〈主人公〉と〈ヒロイン〉の対になるかのように結ばれるのであるが、薄めすぎてあまりに風采のあがらなくなった『台風お嬢さん』の香戸昌吾のような男はふられてしまうことになる。稀にこの〈親友〉が実は悪いヤツであった、ということもあり(たとえば『けとばした青春』)、その場合にはもちろん、主人公にぶちのめされることになる。
 「狂言回し型」の典型は、『大暴れ三四郎』の万座三郎。この作品は「B級型」と「狂言回し型」が別個のキャラクターとして登場している珍しい例であるが、一般にはどちらか一方のみの登場であり、「狂言回し型」はふつう最後まで女の子に縁はなく主人公の引き立て役に徹する。そのため〈親友〉がこのタイプである場合、〈女A〉〈男〉は登場せず、ストーリーがさらにさらに単純素朴になったりする。城戸禮『大学の快男児』がその好例だ。

 さて、そんなわけであるから、この図式をもとにどのキャラクターを登場させるかを決定し、適当に名前をつけるだけで、「三四郎」や「お嬢さん」のような豪快きわまりないすばらしい小説ができあがってしまうに相違ない。一度も若山三郎や城戸禮を読んでいない諸君ですら、上の図式を参考にしさえすれば、自分だけの「三四郎」を創作することが思いのままなのだ!
 ということで、以上ここまで読んでくれた諸君の中に、パソコンのプログラムについて腕に覚えがあるかたがいたら、ぜひとも、名前とパターンを入力すれば勝手にこうした小説ができてしまうという、
「快男児小説自動生成ツール」
をつくってもらえないだろうか。
 そうして、新たに創造された快男児たちを次々と世に送り出すことで、人々に活を入れ、士気を煽り、夢を与え、長引く不況に活路を見出そうではないか。



(注1)善光寺の門前にあった古本屋で見かけた文庫判の『四畳半襖の下張』を買わなかったことを、今でもけっこう後悔しているのだ。
(注2)若山三郎のその後は杳として知れないけれど、城戸禮の方は実は現役である。『大暴れアウトロー刑事三四郎』『大反撃ショットガン刑事』など、時代に迎合することなく、快男児が縦横無尽に大活躍する小説を書きつづっているが、残念ながらそのエネルギーとパワーは過去の作品には及ばない。
城戸禮については、もうたまらなく笑えて笑えて仕方がない敬愛するホームページ「それだけは聞かんとってくれ」の「番外篇 城戸禮」に詳しい。あわせてご覧いただきたくと、さらにさらに『大暴れ快男児』を読みたくなるであろう。
(注3)おお、これらが流行っていたのはそんなに昔のことだったのか。月日が経つのは早いなあ。


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