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北にあるロマン






「東と西、どっちにロマンがありますか」
と、街角でいきなりマイクを突きつけられたとしたら、どうだろう。
「東にロマンがあります!
「ロマンは西に決まってんじゃない!」
などと、一瞬の躊躇もなく即答できる人は、まずいないだろう。
たいていの人は、今これを読んでいるあなたを含めて、
「は? 何? 何のこと?」
と、そもそも何を問われているのかすら理解できぬであろうし、しばらく間をおいて、ようやくたずねられたことの意味を理解したとしても、
「えーと、東のほうが、マルコ・ポーロの東方見聞録とかあるし、なんかロマンチックかなあ。あ、でも西は西で西方浄土でこの世の果ての極楽のある場所だったりするから、そっちのほうがロマンといえばロマンかなあ」
などと、考え込んでしまうに違いない。

だが、この問いが「北と南」であったら、どうだろうか。
「北と南、どっちにロマンがありますか」
そうたずねられたら、誰しも反射的に、もしかしたら問いの意味を理解するよりも早く、
「ロマンは北にある!」
と断言するはずである。ここで、
「北はロマンというが、しかし南も“南洋”ということになるとそちらもなかなかのロマンがあるぞ」
などと面倒なことをぬかす人はバッサリ叩き斬られるわけで、とにかく昔から、ロマンというものは東西南北でいえば北にあるもの、と決まっているのである。それはもう当然の自明の理の常識であって、ものごころついたときから、われわれはロマンといわれればなんとなく雪に囲まれた北国の美しくも荒々しいイメージを想起せずにはいられないのである。

現代、北海道までパッと飛行機で行けちゃう時代においてすらそうなのであるから、かつて、北国にたどり着くまで何日もの汽車旅船旅が必要であった時代においては、ロマンの在りどころとしての北の地位たるや、まさに光彩陸離たるものがあったろう。
そういえば東北の仙台だって、昔は「杜の都」などとハイカラな名で呼ばれていたのである。今は中途半端に都会になっちゃったおかげで、弘前や角館のような風情もなく、おもしろみのない都市として知られる仙台なのだけれど、戦前の可憐な乙女たちは、
「ああ、杜の都…」
などと、よくわからぬがピヨピヨと小鳥が飛び交う優雅な町並を思い浮かべて、ポーッとなっていたのではあるまいか。(注1)
この仙台からほど近い松島も、日本三景といわれるにしては実際にはどうもパッとしないのであるが、これなんかもたぶん、北にあるというただそれだけの理由で、
「ロマン点、プラス30点」
などというボーナスが加算されたのではないかと思われる。
松尾芭蕉も、北がロマンの地でなかったら、奥の細道など企画しなかったに違いない。
北がロマンであるからこそ、
「蚤虱 馬の尿(しと)する 枕もと」
などとうそぶいて平気でいられたのだ。
ここに一片のロマンの香りが漂ってなければ、この俳句は単に哀れでみすぼらしいだけである。

仙台あたりでこうなのだから、これが北海道になると、そのロマン度はさらにさらにアップする。
小説などを読んでいると、それがよくわかるわけで、たとえば国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」(明治34年)(注2)で語られる北海道のイメージは、まさに輝きにあふれる希望の大地といっていい。男一人、裸一貫、一から事業を興すならここをおいてほかにない、「そこに行けば、何かが開ける!」そんな男の夢を刺激してやまない土地だったようである。
《「学校にいる時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほどほれていたもんで、清教徒をもって任じていたのだからたまらない!」》
などというセリフもあったりして、16世紀のイギリスにおける新大陸のようなイメージを、そこに重ね合わせていた人も多かったらしい。

岩野泡鳴(注3)の『放浪』(明治43年)では、さらに荒っぽいイメージだ。
《淫逸、放縦、開放的で、計画をめぐらすにも、放浪をするにも、最も自由な天地らしい。金もたやすく儲かれば、女もすぐに得られるように思う。》
などと勇ましいことが書いてあり、はみ出し者の荒くれ男たちが金と女を求めて陸続と群れ集う、今にも西部劇の舞台にもなってしまいそうなイメージでとらえられている。ここにあるのは、ロマンはロマンでも「最果ての…」なんていう哀愁漂うロマンとも、「北の港の…」なんていう乙女の夢のロマンとも異なる。汗と血の匂いが染みこんだ、ギラギラとした男のロマンだ。
ともあれ、まあようするに、ロマンと名のつくものは何でも来い!なんである。昔から、北に行けば、何かしらのロマンが手に入るものだったのだ。

それにしても、北というのはいつの間にこんなにロマンあふれる大地となってしまったのだろう。本来ならばロマンなんて、東西南北を問わず、どこにでも転がっていそうなものではないか。それがかくも北ばかりが独占する寡占市場となってしまったのは何ゆえなのか。
奈良平安のころまでは、関東でさえどうしようもない田舎っぺえのむくつけき野蛮の地だったのだ。さらにその先の北方なんて、考えただけで怖気をふるうような、およそロマンなんていう響きとはかけ離れたものだったはずだ。京の貴族たちにとってはロマンの在りどころはむしろ、中国とインドと極楽浄土のある西方だったわけで、日本開闢以来、ロマンに関しては北の出る幕など、とんとなかったのである。

そうやってつらつらと考えてみると、ロマンの地としての北の成功の原点は、奥州藤原氏あたりにあるような気がする。
人間とは現金なもので、とかく黄金の産地というものに、金と同時にロマンの輝きをも見出しやすい。ジパングしかり、インカやアステカしかり、カリフォルニアしかりである。
同じことが奥州藤原氏のころの奥州にもいえるわけで、
「北の方では黄金がガポガポ獲れるらしいわよ」
「ぐふっ、黄金かあ、いいなあ…」
と、当時すでに以前の華やぎを失いつつあった京の貴族たちは、それまでとは違った目で北へと思いを馳せるようになったのではなかろうか。

そうした傾向を決定づけたのが、源義経である。
なにしろ、北へ北への逃避行の果てに、大陸に渡ってジンギスカンになっちゃったのだ。
「北へ行って、ドカンと一発当ててやろう」
といった荒々しい男のロマンは、ここに端を発すると言っていい。
だがそれ以上に、このときの逃避行が女連れだったことが大きい。
ウブな女学生の中には、
「最愛の静御前と別れた後なのに、どうしてここでほかの女が一緒なのよ」
と、義経の不実をなじる潔癖なかたもいるであろうが、しかし北のためにはこれがよかった。
おかげで、
「駆け落ちするなら、北へ行こう」
という、哀愁に満ちた常識ができあがったのだ。この逃避行の同行者が、弁慶や狐忠信だけだったとしたら、北という響きの中に、静かな哀感が漂うことはついぞなかったはずである。

後年、遅蒔きながら自らの無策を覚った南が、北に対抗心を燃やし、シャムのリゴール国王として山田長政を誘致し、
「南にもロマンがある! 南に行って国王になろう!」
と一大キャンペーンを企画した。しかし、若干の野心過剰な漁民あたりを呼び寄せたばかりで、義経と違って全国的にはほとんど話題にすらならなかったことは、歴史が示すとおりである。
やはりいつの世も、流行は女性を取り込まないと成功しないものなのだ。


(注1)その一方で、昔から仙台のことをこてんぱんに言ってる人もいる。たとえば、魯迅の仙台留学時代のことを描いた太宰治『惜別』(昭和20年)では、
《意味もなく都会風に気取っているまち》
《自信も無いくせに東北地方第一という沽券にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われた》
などと、もう散々である。
しかしまあこの意見の妥当性については、太宰自身が東北のさらに果ての津軽出身であることを考慮に入れなければならないだろう。

(注2)国木田独歩『牛肉と馬鈴薯 他三篇』(岩波文庫、¥250)などに収録。文学史では必ず出てきて名前くらいは知ってるけれど実際には読まれることのない作品のひとつ、として知られている。

(注3)
嵐山光三郎『追悼の達人』や『明治文学遊学案内』(筑摩書房)などによると、岩野泡鳴という男は人間としてたいへんに厭なやつで卑怯で臆病で、女は裏切るし権力の犬に成り下がるし、もう最悪の最低男だったそうであるが、この泡鳴五部作は、そのメチャンコぶりが実におもしろい作品である。
しかし、そうやって嫌われ者として一世を風靡した泡鳴が、まあ一応名前くらいは忘れ去られていなくても、今ではまったくと言っていいほど読まれてはいない、というのは、ようするに、嫌われ者というのは嫌われてもらっているうちが華ということのようである。
その点、同じ嫌われ者として知られている島崎藤村が、現在もじゅうぶんに人気を博していることを考えると、なんとなく悲しいような気分にもなる。

この前は漱石の『わがネコ』を読んだばかりの吉野マキ18歳。

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