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よみがえる姥捨山
【姥捨山】






児童の読解力が低下している、そうである。
経済協力開発機構(OECD)が2004年、世界41カ国の15歳少年少女を対象に実施した国際的な学習到達度調査の結果、日本は前回(2000年)8位だった「読解力」が14位に低下。点数にして24点のマイナスで、これは参加国の中では最悪の下落だったのだとか。一時期、新聞や雑誌、ワイドショーなどを賑わせたことを覚えている人も多いだろう。(注)
このニュース自体は、
「やっぱり、ゆとり教育なんて言い出したのが、ダメだったんだ」
などと、初等教育における方針転換の言い訳として都合よく使われたような気もするけど、本稿は、その是非を論じるものではない。ここで問題として提起したいのは、ニュースに接した多くの人たちの反応、ひと言でまとめれば、
「昔に比べて、子どもの読解力が下がった。嘆かわしい」
という意見、そこにこそ、問うべき課題がひそんでいるのかではないか、ということである。

当たり前のことを言うと、この言葉には次の2つのことが前提されている。
(1)以前の児童(つまり今の大人)は、今の児童よりも読解力があった。
(2)読解力は、ないよりも、あるほうがいい。
つまり、大人たちは、子どもの読解力を云々しながらも、
「オレたちは読解力があるんだけどなあ、今のガキはダメだ」
などと、暗に言っているわけである。
が、しかし、それって、どうなのか。あ、いや、子どもに対して自分たちの能力を誇るなんて大人げないとか、いやらしいとか、そういう倫理的なことではなくて、それ以前の話である。
今の大人、たとえば、ズバリ、これを読んでいる読者のあなたには、
「今のガキはダメだ」
と批判できるほどに、はたして読解力があるのか、どうなのか。
などというと、
「ななな、何をいうんだね、じょじょ冗談もほどほどにしなさい、キミはぼぼぼぼ僕を侮辱する気かね!」
と憤るかたがいるやもしれぬが、まあ、待ちなさい。落ち着いて、次の文章を読んで、問いに答えてみなさい。

      *      *      *      

ある国に、「親は六十歳になったら山に捨てるべし」という掟があった。しかし、ひとりの孝行息子が、老いた母親をどうしても山に捨てることができず、ひそかに家の裏の納屋にかくまっていた。
そんな国にあるとき、隣国から使者が来て、以下のような三つの難題を課した。
 一、七曲がりの竹に、糸を通せ。
 二、一本の棒の根元と先端は、どうやって知るか。
 三、灰で縄をなえ。
これらが解けねば攻め込む、というのだ。文字通り、無理難題である。領主以下、家来も領民も、誰もわからなかったのだが、ただひとり、ひそかにかくまわれていた先の老母にだけ、答えることができた。
「一つ目は、アリを捕まえてきて糸をくくりつけ、七曲がりの竹の一方の端に蜂蜜を塗って、もう片方の穴からアリを入れてやればいい。いくら曲がりくねっていようと、アリはちゃんとこっちの穴へ出てくる。これで、糸は七曲りの穴を通る。
二つ目の、根元と先端の分からない棒は、タライに水を汲んで、浮かしてみろ。ちょっとでも沈んだ方が根元、浮いた方が先端だ。
三つ目は、まずワラでしっかり縄をなって、それを塩水につけ、よく乾かしてから燃やせば、形がくずれない。灰で縄をなったように見える」
というものである。隣国の使者は「この国には、すごい知恵者がいるに相違ない」と引き下がり、国は危難を逃れた。これをきっかけに、老親を山に捨てるべしという掟は廃され、くだんの老母は息子や孫たちと末長く安楽に暮らしたという。

      *      *      *      

いわゆる「姥捨山伝説」であるのだが、さて、それではここで、あなたの読解力を試してみましょう。
【設問】この物語の要点をひとつだけあげるとすれば何か。次のうち、近いものを選べ。
(A)お年寄りは大切である。
(B)別にお年寄りは大切ではない。
ブハッ、ガハハ、そんなの問題にするまでもないでしょ、当たり前でしょ、何この設問、チャンチャラおかしい、(A)に決まってる、と思った人は、はい、ブブー、不正解です。
正解は(B)。
(A)だと思っちゃった人、素直に手をあげてくださーい。はーい、あなたたちには、読解力がありません。今の子どもを笑えませんよー。

などというと、
「ななな、何をいうんだね、じょじょ冗談もほどほどにしなさい、キミはぼぼぼぼ僕を侮辱する気かね!」
と、またしても憤るかたがいるやもしれぬが、実際そうなのだから、しかたがない。(B)が正解、(A)は間違いなのだ。設問ではちょっと意地悪く「近いものを選べ」としたのだけれど、より正確に論旨をまとめれば、こうである。
「大切なのはお年寄りではなく、情報である」

そうなのだ。この姥捨山の物語において、孝行息子の母親であるお婆さんは、たしかに重要な役割を担っている。とはいえ、だからといって要点を見誤ってはならない。人間としての彼女自身は、ここでは必ずしも必要とされていないのだ。本質的に求められているのは、お婆さんではなく、「隣国から出された難題に対する解答」という情報なのである。
くだんのお婆さんは、その必要な情報を頭脳あるいは身体に記録・保存し、運んでいた、というだけなのであり、要するに、メディア(媒体)の役割を果たしていたに過ぎない。フロッピーディスクやノートと、何ら変わらないのである。昔である、という状況設定上、必要な情報のメディアがフロッピーディスクやノートではなくお年寄りであった、というだけなのだ。

たとえば、この国の領主が、もしインターネットにアクセスできる環境にいたとしたら、どうであったろう。何もわざわざ領内の民草に頭を下げるまでもない。隣国から難問を突きつけられた時点で、とりあえず「おしえてgoo」などのサイトで、
「隣の国から無理難題を突きつけられて困ってるんですぅ。解けなきゃ攻め込む、とか言うんですよ! ひどくないですか? 以下のような3つの問題なんですが、どなたか答えを教えてくださーい」
などと書き込めばいいのだ(女の子言葉なのは、その方が解答が多く寄せられそうだからである)。ほどなく、どこかの博識な篤志家が、正しい答えを示してくれるに相違ない。山に捨てられそうになった年寄りなどに、出る幕はないのだ。

と、ここまで読んで、
「それって、ちょっと、うがち過ぎじゃないの」
と思うかたがいるかもしれない。
「そんな意地悪な読み方、しなくてもいいのに」
だが、思い返してほしい。本稿がテーマとしているのは、「読解力」なのである。
読解力とは、その言葉通り、「読み解く」力である。「読む」だけではない、「解く」ことも必要だ。
姥捨山の物語を「読む」だけであれば、「お年寄りは大切だ」という結論を得たとしても、あるいはしかたがないかもしれない。だが、「読解」という以上は、そこから、せめてもう一歩、踏み込まねばならないのだ。
たとえていえば、
「あーん、ごめんなさーい、今夜はちょっと用があるんですぅ。また今度、誘ってくださーい」
という女子の言葉に対して、
「そうかそうか、今夜は用があるのか、残念だ、また今度誘おう」
と言葉通り正直に受け止めるか、あるいは、
「はー、社交辞令ですか」
と思うか、の違いといえば、わかってもらえるであろうか。
先の設問に「答えは(A)に決まってる!」などと自信満々で答えた人は、社交辞令とわからずに、また翌日に誘ったりして顰蹙を買うクチなのである。大いに反省してもらいたい。

それはさておき、姥捨山物語の要点が「お年寄りは大切ではない」ということであると正しく読解したところで、ひるがえって今度は現実の社会に目を向けてみよう。
上で「物語中の領主が、もしインターネットにアクセスできる環境にいたとしたら」と仮定してみたのだが、今現在、われわれは実際にインターネットを使える環境にいるわけである。「おしえてgoo」にアクセスできるのである。いや、インターネットを持ち出すまでもなく、情報を運ぶメディアはいくらでもある。仮に現代のわれわれが、物語中に出てきたような難題を提示されたとしても、その解決のために「お年寄りに尋ねる」という手段を選ぶことは、まずないであろう。
思えば姥捨山物語において、本質的ではないにせよ、情報の担い手としての二次的な意味で、お年寄りは必要な存在であった。だが今や、そのようなメディアとしてのお年寄りの役割は、失われたといってもいい。
「お婆さんの知恵袋」
などともいうけれど、ほとんどの人々が参照するのは生身のお年寄りの言葉ではなく、本の中やネット上に蓄積された「お婆さんの知恵」なのである。
物語が発するメッセージが必ずしも現実社会とリンクしているというわけではないが、姥捨山物語を正しく読解したうえで、ふと現実を振り返ると、なんだか寒々しいものが胸中を通り過ぎる。倫理的なことは脇に置いて、単純に、必要か必要でないかを問うならば、明らかに、お年寄りは必要ないのである。そう、今度こそ本当に、山に捨ててもいい‥‥。

さて、ここで本稿のはじめのほうに立ち返ってみたいのだが、そこでわれわれは、
「昔に比べて、子どもの読解力が下がった。嘆かわしい」
という意見に内在する2つの前提に疑義を呈した。そのうちの、
(1)以前の児童(つまり今の大人)は、今の児童よりも読解力があった。
というほうは、姥捨山物語の例題を通して、単なる思い込みに過ぎないことが明らかになったわけであるが、もう一方、
(2)読解力は、ないよりも、あるほうがいい。
という点については、まだ検討していなかった。読解力は、本当に、ないよりもあるほうがいいのか。

(1)と同様、この(2)についても、姥捨山の物語が手がかりを示しているように思える。
姥捨山物語に対する正しい読解は、何をもたらしたか。以上のように、現代のお年寄りをめぐる荒涼たる状況へと、われわれの思いを導いただけである。
それで、本当によかったのか。
むしろ、物語の要旨を誤解して、
「お年寄りはやっぱり大切だよねえ」
とホンワカしているほうが、よほど幸せではなかったか。
そう考えると、読解力があることは、必ずしもいいことではないような気もするのだが、どうだろうか。
少なくとも、これから大人になる児童には、素朴に、
「お年寄りは大切だねえ」
と思わせておいたほうが、これからお年寄りになるわれわれ大人にとっては、都合がいいと思うのだが‥‥。





(注)このネタ、本当は2004年の末にアップして、ちょっとタイムリーな感じにしたかったのですが、あんまりおもしろくならないなあ、とぐずぐずしているうちに半年経ってしまいました。

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