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妖怪人間桃太郎
【桃太郎】






「みなしごハッチ」
「フランダースの犬」
「妖怪人間ベム」
「母をたずねて三千里」
思い返してみると、昔の子ども向けテレビアニメって、けっこう哀しい主題を持つものが多かったような気がする。
今のアニメに関しては不勉強でよく知らないのであるが、オトナのファンも多いわりには、そんな人生の深いところを感じさせる妙味に欠けるのではないか。
まあもちろん、だからといって、昔の子どもが感受性豊かで今の子どもはパッパラパーだ、などというわけではないが、それにしても、本当にこれでいいのか、という気がしないでもない。
子どもだって子どもなりに、目に触れ耳に聞こえる身の周りの物語を通じて、まだ知らぬ人生のつらさ哀しさを感じようとしている‥‥。そうした当たり前のことが、おろそかにされているのではないか。
あるいは単に、すべての作り手が打ち揃って、
「そういう方面は、宮崎駿にまかせておけばいいや」
と考えているだけなのかもしれないけれど。

とはいえ、こうした傾向は、何もテレビアニメが普及してこのかたの話なのではなくて、実はもっと昔からのものでもある。戦前、戦後を比べてみると、かなり大きな隔たりを感じないではいられない。
たとえば、「桃太郎」。
誰もが知っているこの物語が、かつて物狂おしいほどに哀しい物語であったことを覚えている者は少ない。
ストーリー自体は、今も昔も変わらない。やっぱりおじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に出かけ、大きな桃から桃太郎が生まれ、犬猿雉をお供にして、あっぱれ見事に鬼退治、おしまいおしまい、である。しかし昔の「桃太郎」の背後には、深く切ない哀調が静かに流れていた。

明治大正期の桃太郎の絵本を見る機会があったら、一度開いてみるといい。びっくりすることだろう。
なにしろ、犬猿雉が怖い。
犬は尻尾を振っていないし、猿のお尻は赤くない。雉はバタバタ羽ばたいていない。というのも、犬も猿も雉も、身体は隆々たる侍(というより足軽)姿、首から上だけが、それぞれ犬であり、猿であり、雉なのである。人身獣頭、文字通り異形の出で立ちなのだ。これは怖い。
かつて彼らは、犬さん、猿さん、雉さん、などと気軽に声をかけられるような存在ではなかったのだ。獣、というよりむしろ、
「怪物」
というべきものであった。

これに桃から生まれた男・桃太郎が加わって鬼退治をするというのであるから、そうなってくると事態は、
「妖怪大戦争」
「幻魔大戦」
といった様相を呈してくる。
考えてみると、桃太郎自身も、人間というよりはむしろ怪物、妖怪だ。人身獣頭の犬猿雉たちと同様、異形の存在にほかならない。なにしろ彼は、
「桃から生まれた」
のである。なぜかよくわからぬ理由から見過ごされがちなことであるが、このことは明らかに次のことを示している。
「桃太郎は植物である」
しかも、
「バラ科の植物である」
ということを。
当然の帰結として、彼の姿は明らかに人間とは異なっていたはずである。赤い血潮は流れていなかっただろう。葉緑素のおかげで、身体は緑色だったと考えていい。手足の節々から、葉っぱや芽が吹き出ていた、なんてこともありうる。そもそも、植物のくせに人間の格好をしているのだ。いってみればマタンゴのようなものではないか。

村の子どもたちには、さぞかしいじめられたであろう。
「やーい、植物植物」
「ミドリ男ー」
「植物のくせに、ごはんなんか食べるな、光合成でもしてろ」
「除草剤撒くぞ」
こうしたつらい日々が続いたであろうことは、想像に難くない。桃栗三年、と俗に言われるような成長の早さを頼みに、すみやかに大きくなって外の世界へと飛び出すことだけを心の支えにしていたはずだ。
そんな桃太郎にとって、
「都で鬼が狼藉」
の風評は、天が与えたまたとないチャンスだったに相違ない。彼を鬼退治へと駆り立てたのは、正義感でも、功名心でもなかった。彼にとっての鬼退治とは、村人たちからのひどい仕打ち、いじめから逃れるための手段だったのであり、また老いたおじいさんおばあさんを残して外界に出るための大義名分だったのである。

そんなわけであるから、その鬼退治の戦いにしたところで、「これから鬼を征伐に〜♪」などと揚々として遂行できたはずがなかろう。彼の行く手には、つねに哀しみの影がつきまとっているのだ。
たしかに、鬼は悪である。殺人、強盗、放火、誘拐、どれをとっても許されるべきことではない。討伐せねばならないし、また討伐することこそが正義である。
しかし、桃太郎たちにとって鬼退治とは、正義の旗印をかかげての正々堂々たる聖戦であると割り切れるものではなかった。討伐する彼ら自身も、植物妖怪であり、また獣妖怪であるという、人間よりはむしろ鬼に近い存在だったのだから。
「人間のために戦っているけど、でもオレたち、所詮は異形の者なのさ‥‥」
まさに妖怪人間ベムに相通ずるような、哀しい宿命を彼らは背負っていたのである。

鬼退治の旅で出会うまでは、まったくの赤の他人同士であった桃太郎、犬猿雉たちが、あのように一致団結できたのも、それゆえであったろう。同じ宿命を持つ者同士、心の深いところでわかりあうものがあったに違いない。あるいはまた、
「見事、鬼を退治したあかつきには、オレたち、本当の人間になれるかもしれない‥‥」
そんな夢のような淡い希望を胸に抱いてなかったとも言い切れまい。

考えてみれば、そもそも桃太郎たちが人間の側に立ったこと自体が、むしろ不思議であるといっていい。彼らは人間ではない。異形である。怪物なのである。鬼に近い存在なのだ。本来であれば、鬼の仲間に身を投じて、一緒になって都を襲撃、乱暴狼藉の限りを尽くして、これまでの仕打ちに対して復讐してもおかしくはない。
そこをあえて踏みとどまり、人間の側に与し、苦難の道を選んだこと、そこにこそ彼らの拠って立つところがあったのではないか。それは同時に、同じ異形の者である鬼たちに対する、屈折した憎悪と矜持を意味するものでもあったことだろう。
いや、もしかするとその当の鬼というのは、実は、彼ら桃太郎たちがそうなっていたかもしれない存在だったのではあるまいか。すなわち鬼とは、人間側に踏みとどまれなかった桃太郎、村人のいじめに耐えきれなかった犬猿雉、だったのかもしれない。討伐する桃太郎、討伐される鬼、その差は、まさに紙一重だったのかもしれないのだ。何が正義なのか、何が悪なのか、人間とは何か、人間でないとはどういうことなのか。そんな世界の深いところへとわれわれを誘ってくれる物語、それがかつての「桃太郎」だったのである。

それにひきかえ、戦後、今にいたるまでの「桃太郎」ときたらどうだ。桃太郎は完全に人間であるし、犬猿雉も単なるイヌ、サル、キジでしかない。かつての「桃太郎」が秘めていた一抹の哀しさ、世界への懐疑、愛憎の微妙な部分といったものは、微塵も残されていない。薄っぺらな勧善懲悪の物語に成り下がっているのだ。
なーにが、「もーもたろさん、ももたろさん」だ。なーにが「あーげましょう、あげましょう」だ。未来の大人たる子どもたちに対して、今の「桃太郎」は、語るべき何を持ち合わせているというのだろう。

物語の結末、鬼を討ち滅ぼした桃太郎一行は、金銀財宝を大八車に山積みして鬼ヶ島を後にする。
「ソシテ、シアワセニクラシマシタトサ。オシマイ」
だが、昔の桃太郎が、故郷に凱旋して村人の歓待を受けたとは思えない。
「ヘッ、どうせなら、化け物同士で相打ちになればよかったのに」
そんな憎まれ口を叩かれるばかりであったろう。おじいさんおばあさんというよき理解者はいるにせよ、桃太郎たちにとって真に帰るべき居場所はどこにもないのだ。
彼らはたぶん、おじいさんおばあさんを連れて、どこか山奥あるいは海の彼方、人間の目が届かないところへと旅立っていったのではなかろうか。そうして、もう誰にもいじめられることなく、石を投げられることも蔑まれることもなく、ひっそりと暮らしていったことだろう。
それが彼らの幸せ、自らを犠牲にして人のために尽くし、功なり名遂げ巨富を得た彼らが最後につかんだ小さな幸せだったといえる。

「本当の幸せって、何?」
物語の最後にそんな切実な問いを投げかけて終わった「桃太郎」は、今はもうない。





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