本読みホームページ








こぶとり疑惑
【こぶとりじいさん】






「こぶとりじいさんに出てくる悪いおじいさんは、本当に悪いやつだったのか」
というと、
「ばかめばかめ、当たり前ではないか。悪いやつに決まっているではないか。その悪行の報いによって、最後にこぶ2つの憂き目にあったのだ」
と反論なさるかたが多かろうが、しかしちょっと待ってほしい。ちょっと立ち止まってほしい。
子どものころに聞いたこの物語の筋を思い浮かべながら、少しだけ考えてみてもらいたい。
悪いおじいさんは、いったいどのような悪行をなしたのか、と。

これがたとえば花咲かじいさんの悪いおじいさんであれば、話は早い。
ポチ殺害のうえに死体遺棄という、動物愛護的見地からしても仏教的見地からしても、また当然、常識的見地からしても、まったく残虐きわまりない、弁明の余地のない悪行をなしたわけであり、その存在はどれほど割り引いたところで、
「悪いおじいさん」
というしかない。

しかるに、こぶとりじいさんの悪いおじいさんはどうか。そんな明らかな悪事に手を染めたことがあるのか。
動物を虐待したか? 否。
盗みを働いたか? 否。
嘘をついたか? 否。
浮気をしたか? 否。
亀をいじめたか? 否。
ただ、テキスト中に「悪い」と記されているのみではないのか。いや、最初から本当に「悪い」などと明記されていたかどうかすら、定かではない。
「こんな目に遭うなんて、どうせ悪いやつにちがいない」
そんな先入観から、帰納的に彼の人物像が造形されたとのではないとは言い切れまい。

さて、どうであろう。
ここにいたって、冒頭の問いに戻ろうではないか。
「こぶとりじいさんに出てくる悪いおじいさんは、本当に悪いやつだったのか」
賢明なる諸君は、
「そう言われてみれば、たしかに‥‥」
と、先ほどは早まった判断を下してしまったことを素直に認めることであろう。

さて、こうなってくると今度は、よいおじいさんのことが気になってくる。彼は一体、何を根拠として「よいおじいさん」と呼ばれているのか。
そこで公正な視点から、すべての先入観、既存のイメージを捨象して、あらためて彼の人物像を洗い直してみると、ああ、なんということだ。にわかに黒い疑惑が浮上してくるのを禁じえない。われわれはこれまで、とんでもない思い違いをしていたのかもしれぬのだ。

一般に、昔話における「よいおじいさん」とは、いかなる存在だろう。
勤勉、真面目、正直、親切、敬虔‥‥。
こうした徳目が、すぐに思い浮かぶであろう。
あるいはまた、「笠地蔵」のおじいさんのような、自らを犠牲にしてまで、他人やお地蔵様に尽くす、過剰なまでの思いやり。
「花咲かじいさん」のおじいさんのような、裏切られても裏切られても、信じ続ける愚直さ。
さらには、「舌切り雀」のおじいさんのような、すべてを許し、受け入れる、このうえない寛容さ。
こうした美点の一部を、いや、往々にしてすべてを併せ持つ存在、それが「よいおじいさん」であると定義できるのではないか。

しかるに、このこぶとりじいさんのよいおじいさんときたらどうだ。
たしかに、テキスト中には「よい」と明記されているかもしれない。
しかし、上に列挙した「よいおじいさん」が定義上備えるべき徳目を果たして具備しているかというと、必ずしもその証拠が明白に存在するわけではない。いや、さらに、行為として実際に善行をなしたのかといえば、その痕跡はまったくない、と断言してもよい。

徳行、善行をなさなかったばかりではない。
この「よいおじいさん」のテキスト中における行動とは何か。鬼のたまり場に行って、宴会に参加、ついつい浮かれ踊ってしまう、それだけではないか。
もし彼が、平均的なよいおじいさんのように、常日頃から野良仕事に打ち込み勤勉に働いているとしたら、この行動は腑に落ちない。正しく真面目で信仰心篤い人間が、鬼と一緒になって踊り狂う、そんなことがあっていいはずがないのだ。
いや、それ以前に、鬼のたまり場に足を踏み入れる、そのこと自体がおかしいではないか。君子危うきに近寄らず。瓜田に履(くつ)を納れず、李下に冠を正さず。よからぬ場所に近づかないことこそが、正しいよいおじいさんの選択すべき態度ではないのか。
また、たとえそんな場所に居合わせてしまったとしても、学級委員長のごとく品行方正なキャラクターの持ち主は、一般に踊りも歌も不得手ででなくてはならないはずだ。60年間わき目もふらずに汗水たらして勤労してきた正しいおじいさんが、どうして歌や踊りを知っていようか。
まだある。この「よいおじいさん」は、鬼には「明日もまた来るから」などと調子のいいことを言っておきながら、かたとしてこぶを取られたのをいいことに、その約束をあっさり反故にしてしまうのだ。これが正しい心の持ち主の行いといえようか。たとえ相手が鬼であろうと、仁義を貫き通すのが、正しいおじいさんなのではないか。
これらの事実はすべて、次の一点を指し示すものであることに、異論を挟む者はないであろう。すなわち、こぶとりじいさんの中で通例「よいおじいさん」と呼び慣わされているおじいさんは、実は、
「どうしようもない遊び人であった」
ということである。歌って踊って遊びまくり、60年間、舌先三寸で世渡りしてきた、そんな道楽爺だったのである。

それに比べると、われらが「悪いおじいさん」の不器用な生き方こそ、真に愛すべきものであろう。
鬼もあきれ果てるほどに、下手だった歌と踊り。それは彼、悪いおじいさんが、日頃そんな歌舞音曲とは、まるで縁がなかったことの証左である。60年間わき目もふらず、遊びらしい遊びもしないまま、片頬のこぶを恥じつつも愚直に地道に働き続けてきたのは、この「悪いおじいさん」の方であったのだ。
それを、ああ、なんたること。
魔が差した、とはまさにこのことだ。
汗水たらして働き続けて、ふと気が抜けてしまったのか。
60年目のあの日、あのとき。
遊びほうけて暮らしている隣の道楽爺が、鬼にこぶをとられて帰ってきたというのを聞いて、ついつい、
「ワタクシも‥‥」
と思ってしまったのだ。
欲深だ、軽率だ、などと、後世のわれわれが、どうして罵ることができようか。
何も、金銀財宝を手に入れようというわけではない。ただ、片頬のこぶを除いてもらえるかもしれない、そんな切ない、いじらしい思いを、胸に抱いただけなのだ。どんな人格者であろうと、突き詰めれば人の子、こんな思いが一生に一度くらい、胸をかすめることがあるはずだ。

しかし、世の中にはありがちなこととして、そんな人格者がふとした出来心で犯してしまった小さな罪は、結局はとりかえしのつかない報いとして、その身にはね返ってくる。
片頬のこぶを取り除けなかったばかりか、反対側の頬にさらにひとつのこぶ(こともあろうに、それは隣の道楽爺のこぶなのだ!)を付着させて、打ちひしがれて帰ってきた「悪いおじいさん」。
この物語から、われわれはいかなる教訓を受け取るべきなのだろうか。
世の中、必ずしも善が栄えて悪が懲らしめられるわけではない、という、そんな厳しい現実を胸に刻むべきなのか。

しかしまあ、考えてみれば、こうして鬼にこぶをとられて大喜びの遊び人じいさんではあるが、余命わずかなこの年になって今さらこぶがなくなったところで、村の娘っこに騒がれるわけでもなく、たいしたメリットがあるとは思われない。
一方の「悪いおじいさん」にしても、両の頬からこぶが垂れ下がったところで、たった一度の過ちを悔いつつ再び勤労と信心の人生へと帰っていくばかりなのであるから、ことさらひどいことになったとも思えない。
つまり、裏を返せば、このように悪が栄え善が報いられないケースがあるとしても、悪側にはこぶをなくす程度の利益しかなく、善側にはこぶを増やす程度の損失しかない、ということでもある。善側が往々にして金銀財宝を手に入れ、悪側が往々にしてギャフンという目に遭うことを考えると、統計的には、やはり常日頃から善をなしておいて間違いはない、ということなのかもしれない。



トビラページに戻る 読みもの目次ページに戻る
top back