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異形の愛
【喰わず女房】






「あたしの、もうひとつの口で、パックン、飲み込んじゃったんです」
などというと何やらいやらしいのであるが、これは別にいやらしくも何ともないのであって、それというのも「喰わず女房」の話だからである。喰わず女房は頭頂部に、ものを食べるため専用の大きな口を持っているのだ。

 昔話「喰わず女房(飯食わぬ女房)」の梗概は、次のようなものである。
 昔、ある男が「飯を食わぬ女房がほしい」と思っていた。あるとき、美しい娘がやってきて「私は飯を食わぬから女房にしてくれ」と言う。喜んだ男、さっそく彼女を嫁に迎えたが、実はこの女房、髪を解くと頭のうえに大きな口があって、男の留守に握り飯を作ってはその口で食べていた。それを知った男、恐ろしくなって女房に暇を出したが、彼女は男を桶に押し込め山へ連れ去ろうとする。途中、なんとか脱出した男が菖蒲と蓬の草叢に隠れると、追ってきた女房は「菖蒲と蓬に触れると、体が腐ってしまうのだ」と退散する。以来、五月の節句には菖蒲と蓬を軒下にさすようになった。

 結局何が主題なのかよくわからない物語なのであるが、従来の民俗学的理解では、結末の「菖蒲と蓬を魔除けとする習俗の由来」に重点を置いている。
 たとえば小澤俊夫(注)は、この菖蒲と蓬を「化けものの再来襲を防ぐ安全装置」と位置づけている。
 「鶴の恩返し」や「猿婿入り」といったこの手の物語(異類婚姻譚)が前提とするのは、人間と異類(動物や妖怪)は本質的に相容れるものではない、という観念である。異類が棲む自然界と人間の文化の世界は結局のところ対立するものでしかない。人間が生活していくためには、自然界との間に境界をつくらねばならないのだ。その境界は、異類を殺す、というビビッドな攻めの形で表れることもあれば、この「喰わず女房」のように防御機構を設置するという守りの形で示されることもあるわけである。

 こうした議論は、たしかになるほど納得と思わせるものがある。しかしながら、これでは喰わず女房がちょっと可哀相ではないか、という気がする。彼女はホントに、人間に敵対する徹頭徹尾邪悪な存在なのだろうか。

 考えてみれば、この話、そもそも悪いのは人間の男なのである。「飯を食わぬ女房がほしい」などというのは、間違っているに決まっているではないか。理想のお嫁さんといったら、
「美人で、やさしくて、貞淑で、あどけなくて、昼は聖母のようで、夜は娼婦のような…」
などと考えるのがふつうである。「飯を食わぬ女房を」なんて、はなから人間ではない嫁さんを求めているとしか思えない。

 そんな男のところに嫁にきてやった喰わず女房を「異界からの化けものの来襲」などと見るのは、甚だしく失礼なんではないか。むしろわれわれは彼女を、
「あっぱれ、なんたる慈悲、慈善!」
と、その精神を誉め讃えるべきなのである。彼女がいなければ、この男は死ぬまで、
「うふふ、あ・な・た…、はい、アーンして…」
なんていうラブラブな新婚生活を味わえなかったはずなのだ。異界の化けものどころか、モテない男の救いの女神さまとして、崇め奉るべきなのである。

「でも、頭の上にも口があるんだぜ。化けものじゃん」
などとほざく輩がいるやも知れぬが、ええい、黙れ黙れ! そんな細かいことを気にしてばかりいるから、おまえはいつまでたってもカノジョができんのだ。
 顔じゃない部分に口がついていたところで、あるいはひとつや二つ余計に口があったところで、どうでもいいではないか。人間にこだわるから奇怪に思えるのであって、広く動物全般を視野に入れれば、さしておかしなことではないのである。

 たとえば、昆虫の口は専ら食餌のためのものである。呼吸は体の側面にある5対の気門を通じておこなっているのだから、いわば10個の余分な口を持っていることになる。
 タコやイカが墨を吹き出すのは口ではなく漏斗で、ここから排泄物や呼吸に使ったあとの水や生殖物質を出す。食餌のためのホントの口は別にある(俗にいう「からすとんび」である)。
 ヒトデやウニは体の下に口がある。
「あたしの、貪欲な下の口が、おいしそうなアレに、ゆっくりと、挑みかかっていったんです」
などと言いながら、ふつうに食事してるのである。

 こうして動物全体を見渡すと頭の上に口をもつ食わず女房は、さして特異な存在ではないことがわかる。ここはむしろ、どーんと構えて、
「こんなところに口があるなんて、こいつう、お・ちゃ・め・さ・ん」
と対応すべきだったのだ。
「もうひとつ口があるってことは…、ぐふふ、夜の生活に、いろいろとバリエーションが出るかも…」
などと鼻の下を長くしていれば良かったのだ。
 青くなって三行半(みくだりはん)を突き付けるなんて、男として見下げ果てた振る舞いだ。ここでも男のほうが断然、悪いのである。

「でも、男を桶に押し込んで、山に連れ去ろうとしたんだぜ。あとでバリバリ食べちゃうつもりだったんだろ」
と食い下がる輩がいるやも知れぬが、ええい、黙れ黙れ! ロマンのわからんやつめ! そんなことだから、おまえはいつまでたってもカノジョができんのだ。
 連れ去ってもいいではないか。バリバリ食べちゃってもいいではないか。自分にとって唯ひとりの夫と決めて、二世を誓った相手なのだ。その愛しい相手と別れるくらいなら、
「連れ去って、食べちゃって、あたしだけのものにしちゃいたい!」
と思うのが当然なのだ。それが愛というものだ。昔話「喰わず女房」は、ここにいたって急展開、いきなり究極の愛の物語へと昇華してしまうのである。

 そう考えると、最後、逃亡して隠れ潜む夫に残す彼女のひと言は、また違った趣を帯びることになる。「菖蒲と蓬に触れると、体が腐ってしまうのだ」。この言葉が意味するのは、
「ああ、愛しいあなた…。あなたを追っていきたい…。でも、あなたの前に、あたしの醜い姿をさらすわけにはいかないわ…」
と報われぬ愛に苦悩する複雑な乙女心以外の何物でもない。ああ、思わず涙を誘うではないか。
 「喰わず女房」、それは、愛に生き、愛に傷つくひとりの孤独な女の哀しい物語なのである。


(注)小澤俊夫『昔話のコスモロジー』(講談社学術文庫、¥780)
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