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ビッグツヅラ、プリーズ
【舌切り雀】






 昔話の世界、というと、
「むかーしむかし、あるところに…」
なんていうぽわぽわとした雰囲気を想像しがちだが、いやいや、このごろはそんなに悠長に構えてはいられない。

 なにしろ昔話というものはおしなべて、差別的な女性観を前提にしているのだ。「舌切り雀」や「若返りの泉」の欲張り婆、「手なし娘」「中将姫」「紅皿欠皿」のいじわる継母など、昔話に出てくる女といえば、大概が悪玉に決まっている。
「あからさまな女性蔑視、男性中心主義である!」
と、このフェミニズム全盛の時代にあっては、いささか旗色が悪い。いや、このままでは遠からぬ将来、一部の女性団体から昔話反対の声があがり、有識者を集めた諮問機関における討議の末、一部の昔話を発禁のうえ、残りは男女の悪玉比率が50%ずつになるよう改訂、ということにもなりかねない。目下、昔話は存亡の危機に曝されているのである。

 とはいうものの、だからといって今さら昔話の内容を変更するわけにもいかないので、はたと困ってしまうのだが、まあそこはそれ、舌先三寸で何とでもなる世の中であるから、うまい解決法がないでもない。自衛隊は合憲である、の伝で、つまり解釈を操作してしまえばいいのである。

 たとえば、「舌切り雀」を例にとろう。
 従来の見方からすれば、この昔話はとてつもなく女性差別的である。雀の舌を鋏でチョン切ったうえに臆面もなく大きなつづらを選んでしまうおばあさんは、まさに残酷、貪婪(どんらん)、膚浅、姑息。純粋で慈悲深いおじいさんに比べ、女とはなんとまあ罪深い存在だ、という解釈は一見覆りそうにない。

 だが、こう考えてはどうだろうか。おじいさんおばあさんのこの違いは、男女間の性差ではなく、双方がそれぞれ拠って立つところの文化的な差異の反映である、すなわち、
「おばあさんは実は日本人ではない。アメリカ人なのだ!」
と。突飛な考えのように見えるかもしれないが、これで物語の女性差別的側面がすべてきれいに解消されるのだ。以下がそのまったく新しい「舌切り雀」の世界である。

 まず、そもそもアメリカ人たるおばあさんは、残忍でもなければ偏屈でも狭量でもない。むしろひとりの敬虔なクリスチャンとして、神の御心にかなう正しい生活を心がけている。
 雀を可愛がるおじいさんのほうが、間違いなのだ。厳格なキリスト教的価値観のもとで人格を培ってきたおばあさんにとって、雀なんぞ、所詮天国に入れぬ畜生にすぎない。
 その雀にむかって、
「おお、よちよち、かわいいでちゅねー」
などとメロメロになっているおじいさんを、彼女は苦々しく思わずにはいられなかったことだろう。
「雀なんかじゃなく、人間であるあたしのほうを見て!」
そう心のなかで叫んでいたはずだ。
 そうなのだ。年齢を言い訳にして、もう何年もあたしに触れようともしない彼。それっておかしいんじゃないか。夫婦っていうのは、死が二人を別つまで精神的にも肉体的にも愛し合うものなのではないか。
 そう、それに「おばあさん」なんて、イヤ。昔みたいに、「ジェニファー」って、あたしのこと呼んでほしい…。

 雀の舌を切ったのも、そんな愛に飢えた彼女であってみれば、ことさら非難するにはあたらない。なにしろ、横合いから愛しい彼を奪ったのみならず、大切な糊をそっくり食べてしまった雀なのだ。一説にはさらに「糊を食べたのは隣の猫だ」と虚偽の申し立てをしたともいう。八つ当りまじりに塩焼きにして晩のおかずにしてしまってもよかったのだ。(注)
 そこをぐっとこらえて私的感情を抑え、制裁として舌を切るだけで放免したのだから、これぞまさにアメリカ的フェアマインド。その克己の意志、遵法の態度は称賛に値しよう。雀は逆恨みしたかもしれないが、おばあさんとしては、
「あら、保険に入ってなかったの? 不満があるんなら、弁護士呼びなさいよ。堂々、相手になるわよ」
と、身に一塵たりとも疚しさはない。

 むしろ厳しく弾劾すべきは、おじいさんの方であろう。その日本的温情主義、悪く言えばうやむやのまま済し崩しにしてしまう馴合い主義は、真の正義にもとること甚だしい。
 しかのみならず彼は、そのあと妻を放り出して、日夜雀の探索に明け暮れるのである。なんたる没義道な夫!
 そうしてまんまと雀のお宿に行き当たって、歓待を受け、金銀財宝の詰まった小さなつづらをプレゼントとしてもらってきてすました顔をしているのだから、妻にとってこんなにひどい仕打ちはない。

 なのに彼女は、そんな夫に何ひとつ口答えせず、弁護士も雇わず、ここは当事者間で内々のうちに事を収めようと単身雀のお宿に乗りこんでいくのだから、そのあたり、立派を通り越して健気でさえある。アメリカ的、キリスト教的価値観を持ちながらも、こと夫に関してとなるとあくまで伝統日本的な態度を貫徹しようとするその努力、そこには夫に嫌われまいとする彼女のいじらしいまでに一途な愛情を感じないではいられない。

 さて無事に話をつけて、和解のしるしのプレゼントとして提示された大小二つのつづら。ここで大きなつづらを選んだのは、もちろん彼女が強欲だったからではない。彼女はアメリカ人なのだ。でかい家に住み、でかい車を乗り回し、ガツガツモリモリごはんを食べるアメリカ人なのである。
 小さきものこそ美しきとか、収納場所があるかしらとか、そんなことは毫も考えない。何の底意も雑念もなく、虚心坦懐、当然のように、さらりと言ったに違いない。
「ビッグツヅラ、プリーズ」

 そしてその中身はといえば、周知のようにお化けの詰め合せだったわけだが、これがどうしておじいさんの得た金銀財宝に劣ろうか。金銀財宝など、つまるところ金銭的価値しかないではないか。日本的拝金趣味が露骨にあらわれており、
「ハッ、エコノミックアニマルめが」
と唾棄すべきものだ。

 それに引き替え大きなつづらに入っていたのは、ろくろ首、ひとつ目小僧、大入道、から傘お化け…、
「OH! ファンタジック! ミステーリアス!」
ディズニーも真っ青、夢と冒険にあふれたすばらしいプレゼントではないか!
「エキゾチックジャパーン、バンザーイ!」
彼女はさぞかし目を輝かせて歓喜したことであろう。アメリカ人の心の琴線に触れる素敵なプレゼントを前に、雀に対するわだかまりも、いつしか氷解したに相違ない。

 ただ、そんなプレゼントも、彼女にとっては一時の気休めにしかすぎなかったのではあるまいか。夫に対する報われない愛がその後どうなったかは、今に伝わっていない。


(注)太宰治によると、大寒のころの雀の肉は、こってりと脂がのっていてたいへんおいしいそうである。津軽の童子は雀を捕まえては、塩焼きにして骨ごと、《ラムネの玉くらいのちいさな頭も全部ばりばり噛みくだいて》食べたそうである。くわしくは太宰治「チャンス」(新潮文庫『津軽通信』収録)をご覧ください。
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