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[実践10]俳句で書いてみる






十七文字の中に広がる世界




『蕪村俳句集』
「春の海終日のたりのたり哉」「さみだれや大河を前に家二軒」などの句でお馴染みの与謝蕪村(1716-83)。自選句集は未完のままだったが、本書には1055句を集め、さらに「春風馬堤曲」など俳詩3編も加えた。
(岩波文庫)
1行だけ読んで、全体のことについて読書感想文を書くなんてできない! というかたには、1行だけに全体が詰まっている作品をお勧めします。1行だけに全体が詰まっている作品、つまり、俳句(あるいは短歌)です。ただし、俳句ひとつだけを読んで感想文を書きました、では「読書」と認めてもらえません。俳句が集められた「句集」を読んだことにして、その句集のうちの1句だけについて感想文を書いてみましょう。






祖父が、俳句をやっている(注1)。新聞や雑誌に投稿したり、月に一度か二度、年寄り仲間と集まっては、俳句をつくっているらしい。
日曜日には、朝刊の俳句コーナーを真っ先に開いて、しきりに唸っている。
「この句、おもしろいぞ、俺もこんな句をつくりたいもんだなあ」
などと解説されるのだが、どこがどうおもしろいんだか、さっぱりわからない(注2)
そんな僕に業を煮やしたのか、夏休みになって、祖父は本棚から一冊の本を取り出してきた。
「休みなんだから、ヒマだろ。これ読んでみなさい。俳句のおもしろさがわかるから」
そんな言葉とともに渡されたのが、これ。岩波文庫の『蕪村俳句集』だ。
ぱらぱらとめくってみたら、中身は、すべて俳句。「俳句集」がタイトルなんだから、当たり前といえば当たり前だが、それにしても、解説もほとんどない。俳句しか載ってない。意味のよくわからない俳句も多い。というか、意味のわかる句のほうが少ないくらいだ。
それでも、しかたがないので最初から一句一句眺めていると、意外にも、
「これ、いいな」
と思うような句がいくつも見つかった。
「二人してむすべば濁る清水哉」
「夏山や通ひなれたる若狭人」
「目前をむかしに見する時雨哉」
「闇の夜に頭巾を落とすうき身哉」
「朝顔や一輪深き渕のいろ」(注3)
これらのどこがどのようにいいのか、というと自分でもよくわからないのだが(注4)、でもなんだか、心に染み入るような気がする。
中でも、気に入ったのが、この句だ。
「夏河を越すうれしさよ手に草履」
意味は、平易だろう。
夏。晴れ渡った青空に、真っ白な入道雲がもくもくと湧き立っている。強い日差しの下、さらさらと流れる小川を歩いて渡る。草履を脱いで手に持って、裸足で水の中におそるおそる……、冷たいっ、でも、気持ちいい……。そんな夏らしい、爽やかな情景だ。
この句を見て、ある光景を思い出した。昨年の初夏のことだ。九州に、家族旅行に行った(注5)。長崎でのこと。一人で川沿いを歩いていると、石造りの小さな橋が見えてきた。有名な、眼鏡橋だ。
その橋の下のあたりの対岸で、地元の小学生らしい女の子が三人、遊んでいた。なにやら楽しそうに、おしゃべりをしている。
五月の連休で、ぽかぽかの陽気だ。見ていると、その子たちはサンダルを脱いで、裸足で水の中に入ってはしゃぎはじめた。「つめたーい!」という歓声が、こちらまで聞こえる。スカートから突き出た細い脚を大胆にはねあげて、飛沫をとばしている。
その清純で無垢な風景に心打たれた僕は、急いでデジカメを取り出し、めいっぱいズームにすると、飽きることなくシャッターを切ったのだった……。
「夏河を越すうれしさよ手に草履」
という俳句には、そんな純粋な少女たちの姿を思い起こさせるものがある。つくったのは与謝蕪村という、たぶんオッサンだろう。そのオッサンが自分のことを描いた句なのかもしれないが、この句には、間違いなく、少女が、それも穢れなき美少女の魂が、宿っている。
この世界で最も美しいもの、少女。その天真爛漫で、澄みきった美のありさまが、たった十七文字の中に凝縮されているのだ。
なるほど、たしかに俳句って、おもしろいかもしれない。

……と、そこまで思って、僕はふと、重大なことに気づいてしまった。
この句を、もう一度読み直してみる。
「夏河を越すうれしさよ手に草履」(注6)
前述のような光景を思い浮かべるにあたり、僕はてっきり「夏の小川」だと思っていたのだが、あらためてこの句を見ると、「川」ではない。「河」だ。
江戸時代には今と漢字のニュアンスが違っていたのかもしれないが、ふつう「河」といえば、少なくとも小川ではないだろう。利根川や木曽川や信濃川、人が簡単には越えられないような大きな川だ。
この字義どおり、「夏河」が夏の大河を意味しているのだとしたら、どうか。僕は、ひらめいてしまった。実は、この句の舞台は、少女がはしゃぐ小川ではなく、ゆったりと流れる大きな河ではないのか。そして、この句が描いているのは、無垢な少女なのではない。そう、無垢どころか百戦錬磨、酸いも甘いもかみ分けた三十路も近いおねえさんではないか……(注7)
江戸時代、橋のない大河はいくつもあった。幕府の政策上、なかなか架橋が許されなかったからだ。橋の代わりに、人が人を運んだ。渡し舟や輿で運んだり、川の中で手を引いたり、あるいは人足が直接肩車やおんぶをして運んだり。
そんな時代、ある夏の日、照りつける日差しの下、旅姿のおねえさんがひとり。目の前には滔々と流れる大河。向こう岸へ渡してくれるのは、真っ黒に焼けた人足たちだ。そんな人足のひとりに、おねえさんが目をつける。若くて精悍な、でもうぶな感じの、ちょっといい男。おねえさんが、声をかける。
「そこのおにいさん、あたしを運んでくれなぁい?」
青年のたくましい背中に、しがみつくおねえさん。川の真ん中で、きゃあ、こわぁい、なんて嬌声をあげ、ぎゅっとしがみつく。うふふ、おにいさんったら、日焼けした耳たぶが、真っ赤になってる。ちょっと、いたずらしちゃおうかしら、と衿元から右手をすべりこませて、胸板をまさぐっちゃたりなんかして。ふふ、なんだか息が荒くなってきたわよ。かわいいわあ、もう、おっぱい押し付けちゃうから! ぎゅうっ。手にした草履を、ぷらぷら。ああ、夏の河を越すのって、いいわあ……。
と、こういう情景なのではないか。
そうなのだ、無垢な少女を描いた俳句という僕の解釈は、根底から誤っていたのだ。この句は、濃厚な色香漂う、大人の女を描いていたのだ。ああ、なんということだ……。
だが、そんな結論に至りながらも、僕の心は、あの夏空のように晴れ渡っていた。莞爾とした笑みが、思わず、こぼれていた。
そうだ、少女もいいが、おねえさんもいいではないか。僕は今まで、あまりに狭い世界に、とらわれ過ぎていた。穢れのない少女ばかりが、美しいのではない。穢れてはいるけれど、それでも世界は美しさにあふれているのだ……。
そんな世界の深遠な理が、このわずか十七文字の中に込められているのかもしれない。だとしたら、俳句とは、何と奥深く、そして、おもしろいものなのだろう。
『蕪村俳句集』、この一冊のおかげで、祖父の言ったとおり、僕は俳句のおもしろさを知った。そして、
「夏河を越すうれしさよ手に草履」
この一句によって、僕はこの夏、少し大人になった気がする(注8)




(注1)作文には、バカ正直に本当のことを書かないといけない、と思ってはいませんか? そんなことはありません。所詮、作文です。原稿用紙のマス目を埋めるために、どんどんウソをつきましょう。おじいさんが俳句をやってなくても、いや、おじいさんがいなくても、平気な顔をして、こう書いてみましょう。
(注2)繰り返しますが、こういうエピソードは、すべてでっちあげです。こんな祖父と孫、いまどきいません。でも、読書感想文では、こんな家族の交流エピソードが推奨されているのです。
(注3)ランダムで選びました。1句引用すると1行かせげるので、どんどん書きたくなるところですが、ほどほどのところでやめておきましょう。
(注4)ランダムに選んだのだから、当たり前です。私にもわかりません。
(注5)何度も言いますが、作文はフィクションでいいのです。ちなみに、家族の思い出エピソードは、読書感想文の素材の定番です。死んだおじいちゃんやおばあちゃんも総動員して、素敵なエピソードをでっちあげましょう。
(注6)何度も引用を繰り返すのは、行数をかせぐテクニックのひとつです。
(注7)二十代で酸いも甘いもかみ分けたはないでしょ、女の魅力は三十を越してからよ! という意見も多々あるかと思いますが、あくまで中高生の男子が考えることですから、このくらいが限界です。
(注8)もちろん、こんなことを読書感想文で書いたら、怒られます。番外編なので、ふざけてみました。ちなみに、原稿用紙8枚分になります。多すぎです。
[2011.8.30]





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