本読みホームページ その9
[実践9]旅に出てみる






芭蕉の旅、僕の旅




『おくのほそ道』松尾芭蕉
元禄2(1689)年、46歳の芭蕉は弟子の曾良とともに奥州への長旅へと出発する。仙台、酒田から新潟、金沢を回って大垣に至る約半年の旅。それはまた、独自の俳風を確立するための魂の旅でもあった。その成果を凝縮した本書は、紀行文である以上に芭蕉の芸術の到達点のひとつともいえる。
(岩波文庫ほか)
本についての感想文を書くのが難しければ、本じゃないことについての感想文を書いてみてはどうでしょう。「それでは読書感想文にならないのでは」と思うかもしれませんが、だいじょうぶ。本の話をてきとうに織り込んでおけば、なんとなく読書感想文っぽい体裁になります。では、本じゃないとすれば、何についての感想文を書けばいいのか。当たり前の日常では、なかなか話になりにくいでしょうから、ここはひとつ、旅に出てみましょう。旅先での出来事や、旅行中に思ったことを連ねて、そこに本のことをくっつけるのです。ちなみに、本当に旅に出なくても、かまいませんよ。





「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
「おくのほそ道」の冒頭である。月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなもの、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人だ‥‥。古文の授業(注1)で出てきたときには、「百代の過客は“はくたいのかかく”と読むのか、要チェック」と思っただけで通り過ぎてしまったのだけれど、しかしあらためて読み返してみると、なんとも味わいのある言葉である。百代の過客。永遠の旅人、なのである。ロマンチックではないか。
ただ、あわただしい現代にあっては、「月日」や「年」では、やや悠長に過ぎる気がする。むしろ「秒」や「分」の方が、しっくりくるのではないだろうか。それに、イメージとして思い描くと、「秒」や「分」が旅人だ、という方が、なんだかちっちゃな子どもが行列をつくって、キャッキャッと騒ぎながら行進しているみたいで、ほほえましい。
古文の授業では、面倒な例文のひとつでしかなかった「おくのほそ道」であるが、こうしてひとり静かに読んでみると、そんなふうにいろいろと発見がある。もちろん注釈を参照しながらの拙い読み方で、実際には理解できていない箇所も多いのだろうが、それでも思っていた以上に、おもしろい作品だった。
だが、しかし。
本書を読み終えて(注2)、こうして読書感想文を書いている今、僕は、読了直後の充実感からは遠く離れた、絶望、無明の中にいる。この作品を読み通したことで、図らずも僕は、自分自身と深く向かいあうことになってしまったのだ。そして今、そのことをひどく後悔している。

順を追って書こう。授業で馴染みがあるとはいえ、読書感想文の題材としてこんな古典を選んだのには、理由がある。
この夏、僕は、一人旅をしたのだ。初めての一人旅だ。行き先は、東北。もちろん、初めての東北だ。青春18きっぷを10枚持って(注3)、バックパックを担いで、宿も決めずに、気の向くままにあちこちへ。ユースホステルが空いていれば泊まり、適当な宿泊場所がなければ公園にテントを張って眠り‥‥。青森でねぶたを見物したり、仙台で笹かまぼこを食べたり、会津で白虎隊に思いを馳せたり。公衆浴場に初めて一人で入ったり、初めて出会ったオジサンに食事をおごってもらったり。はたから見れば別に大したことではないかもしれないが、一瞬一瞬が、僕にとっては初めての体験だった。それこそ「月日」や「年」ではなく、「秒」や「分」の単位で、旅人としての醍醐味を味わった、といってもいい。
思いもかけぬハプニングもあった。電車のボックス席でお弁当を食べていたら、女の子のグループがワーッと乗り込んできてしまってドギマギしたし、お祭りの縁日では迷子になった小さな子をおんぶして、一緒にお母さんを探す羽目になった。
芭蕉が訪れた立石寺にも行った。いや、別に芭蕉に興味があったからではなく、あの風景に惹かれたからなのだが。長い長い石段を、おばあさんに手を引かれて一生懸命のぼっている5、6歳くらいの女の子の後に続きながら、ゆっくりと辿っていった。途中、「閑さや」の石碑を見つけて初めて、ここがあの芭蕉の句の舞台であることを知ったのだった。

そんなこともあって、いざ読書感想文を書こうというときになって、ふと「おくのほそ道」が思い浮かんだ、というわけだ。僕が10日間で体験してきた東北を、芭蕉はどのように旅したんだろう、何を思い、何を感じたのだろう‥‥、と。
書店に文庫本を買いに行って、驚いたのは、その薄さだ(注4)。古文の授業では、たしか最初の1ページを2時間かけてやった気がするのだが、こんな薄い本だったとは。10日間の僕の東北旅行に比べればはるかに長い、そしてハプニングに富んだ旅だったはずなのに。
そんな疑問を抱きながら読み始めたのだが、頁を繰っているうちに、だんだんとわかってきた。俳句とは五七五だけの世界かと思っていたけれど、どうやらこの「おくのほそ道」という本も、いわばひとつの俳句、いや俳文というのだろうか、そういうものなのだろう。長い東北旅行の中で目にした風景、起こった出来事、出会った人たち、食べたもの、交わした会話、それらを削りに削って、最後に残った本当に大切なものだけを、さりげなく綴り合わせていく。広い世界の中からわずかひとつかみのキラキラ光るものだけを取り出して、俳句という十七文字の中に凝縮するのと同じように、長い旅路の中から、大切なエッセンスだけを抽出する‥‥。
「おくのほそ道」という表題には、単に東北、みちのくの田舎の旅、というだけではなく、その経験を通して自分の中に降り積もったものたちの記録、自分の内奥に刻み込まれたひと筋の道、という意味合いもあるのではないか。東北旅行という現実の旅を終えた後、あらためて心の中で再構成した、いわば「心の旅」である。

それが芭蕉の「おくのほそ道」だとしたら、僕にも、僕だけの「おくのほそ道」があるはずだ。僕の心の中にのびている「おくのほそ道」は、どのようなものなんだろう。この10日間の東北旅行を、削りに削っていったら、最後に残る本当に大切なものとは何なのか、僕の心の奥底には、いったい何が刻み込まれたのか‥‥。
読了後、そう思ったのも、自然な成り行きであろう。だが、ああ、今にして思えば、そんなことを考えるのではなかった。芭蕉の真似なんて大それたことを、すべきではなかったのだ。そんなことを思いつきさえしなければ、こんな無明の闇へと突き落とされることはなかったのだ‥‥。
ああ。
告白しよう。
僕にとって大切なこととは、青森のねぶたでも、仙台の笹かまぼこでも、会津の白虎隊でもなかった。立石寺の風景でもなかった。ごはんをおごってくれたオジサンの笑顔でも、半分は意味がわからなかった東北弁でも、早朝に公園から眺めた日の出の美しさでもなかった。「おくのほそ道」を読み終えた後の目で、あらためて振り返ってみた僕の東北旅行。その10日間という時間の中にあって、僕の心に残る、いちばん深いところでキラキラと輝いているもの、それは‥‥。

たとえば、立石寺で僕の前を歩いていた女の子の白いうなじ、つぶつぶと光る汗。迷子になった女の子をおぶった背中から伝わってくる、しびれるような温もり、首筋に垂れた涙のしずく。お弁当を食べている僕の周りに乗ってきた、小学2、3年生の女の子たちのさんざめく声。2人掛けのシートに3人も詰めて座って、おしゃべりに夢中になって。ドギマギしたあまり、お弁当を食べるどころではなかった。
会津若松では、御薬園へ向かう道の途中にすれ違った小学校低学年の女の子が、見ず知らずの僕に向かって「こんにちは」とはずかしそうに挨拶してくれた。プール帰りだったらしくて、濡れた髪からカルキの匂いがぷんと漂った。浅虫温泉の公衆浴場では、のんびりと湯に浸かっていると、おじいさんに連れられて小さな女の子が入ってきた。湯煙の向こうに輝く、その汚れのない白い裸身の、何と美しかったことか! その子がまたおじいさんに連れられて浴室から出ていくまで、僕は息をするのも忘れて、じっと見つめていた‥‥。
ああ、ああ! なんということだろう。東北という雄大な土地を旅していながら、僕の目はまったく違ったものを見ていたのだ。僕の心はまったく異なるものを求めていたのだ。
よく言えばそれは、芭蕉が同じく東北を旅しながら、もっと深遠な次元の何ものかを見据えていたのに、似ていなくもない。だが、芭蕉が俳人として後世に名を残したのに対し、僕の行く末に待っているのは、俳人ならぬ廃人の道なのだろうか。絶望、無明、暗黒。僕の未来に、光はないのか。求めてはならぬものを求めて、永遠の漂泊者となるしかないのか‥‥。
ああ‥‥。

いや、くよくよしてもしかたがない。これが、僕なのだ。知らなかった方がよかったけど、これが本当の僕なのだ。
芭蕉が俳諧の真髄を求めて人生を旅したように、僕も、この僕の人生を旅していこう。キャッキャッと騒ぎながら行進している「秒」や「分」という名の小さな女の子たちとともに、人生という短い永遠を生きていこう‥‥。(注5)



(注1)このように、古文の授業で習った古典を題材にするのもひとつの手です。授業で読んでいるのだから、あらためて読む必要もありません。1行も読まなくても、記憶を頼りに読書感想文が書けるのではないでしょうか。
また一般に古文に関しては、文法や語句の意味を問われることはあっても、「ここで芭蕉はどう思ったのか」などという現代文なら当たり前のことがあまり問われません。あらためて読書感想文に仕立ててみると、意外に新鮮です。
(注2)文中にさりげなく「読み終えた」「読了した」「読み通した」といった言葉を入れて、「ちゃんと最後まで読んだことをアピールするのも、テクニックのひとつです。
(注3)青春18きっぷというのは、春・夏・冬のお休みシーズンに発売される、全国のJRの普通列車に乗り放題できる切符です。新幹線とか特急とかには乗れませんが、学生さんの鉄道旅行、あるいはJR乗りつぶし旅行などによく利用されています。
(注4)岩波文庫版で約290ページですが、「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」も含まれているので、「おくのほそ道」だけだと70ページ弱しかありません。
(注5)そんなわけで、この文章の内容は、読書感想文としてふさわしくありません。分量も、原稿用紙9枚くらいになっちゃってます。それ以前の問題として、こういう内面を吐露するようなことを書いても、国語の教師は認めてくれないので、やめましょう。
提出できるような読書感想文にするには、最初のブロックの冒頭から「それでも思っていた以上に、おもしろい作品だった。」まで、次のブロックの「授業で馴染みがあるとはいえ、」から4番目のブロックの「僕の心の奥底には、いったい何が刻み込まれたのか‥‥。」をつなげて、最後に「それを芭蕉にならって、俳句にして表現してみたい。と、一句ひねってみると、うまくおさまります。分量も原稿用紙5枚分ちょうどくらいになります。
[2005.08.20]





トビラページに戻る 読書感想文は1行読めば書ける!目次ページへ戻る
top back