本読みホームページ その7
[実践8]悪口を書く






癒しとしてのわかりやすさ




『世界の中心で、愛をさけぶ』片山恭一
中学から高校へ、ゆっくりと愛を育みながら成長していくぼく・朔太郎とアキ。しかし、幸せは束の間にすぎなかった。無人島の一夜を経験した夏がすぎると、アキは白血病に倒れて‥‥。300万部を突破した大ベストセラー。
(小学館)
一般的に言って、ほめ言葉よりも悪口の方が、次から次へとポンポン出てくるものです。「おもしろかった」「感動した」という感想を原稿用紙数枚分にふくらませるのが難しいときには、見方を変えて、悪口を書いてみてはどうでしょう。最後まで読み通せないようなおもしろくない本なら、なおさらです。そうして悪口を書いた上で、後ろの方でちょっとほめてみましょう。感想文全体に奥行きが生まれます。ふだんは不良っぽい人が電車の中でたまにおばあさんに席を譲ったりすると、たいへんいい人のように思える、というのと同じテクニックです。




タイトルからして噴飯物である。
「世界の中心で、愛をさけぶ」。
なんと大仰、なんとあからさまであることか。恥ずかしくないのか。
「世界」の「中心」で「愛」を「さけぶ」。これでもか、これでもか、という畳みかけんばかりの仰々しさである。
しかも、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」のあからさまなパクリ(あるいはオマージュというのだろうか)。かつてエヴァンゲリオンのときにも話題になった、いわば手垢のついた言い回しである。
そもそも、世界の中心って、どこだよ。何が愛をさけぶだよ。世界の中心で愛を叫んでいるものが現実にあるとしたら、ニューヨークで公演中のスティービー・ワンダーくらいではないのか。

そして、頁を開くと最初の一行が、
「朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。」
ああ、なんと。驚きあきれるではないか。
冒頭一行目から、いきなり、赤裸々に、何のてらいもなく、実にわかりやすく、メロドラマなのである。アクション映画のオープニングで、いきなりバスが爆発炎上するのと同じようなものだ。

ああ、日本人の繊細な感性は、露骨さを忌避する美学は、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(注1)という美意識は、どこにいってしまったのだろう。
川端康成の「雪国」は、芸者駒子と島村の関係(それも「愛」なんて言葉で一刀両断するにはあまりにもとらえどころのない関係)を描きながらも、タイトルは「雪国」とそっけなく、鉄道小説でもないのに冒頭は「国境の長いトンネルを抜けると‥‥」であった。だがわれわれはそこに、行間、字間に、文字としては書かれていない何ものかを味わうことができた。
長谷川等伯の「松林図」に描かれた松林は、霧の中になかば隠されて、実際には数えるほどの木しか描かれていない。しかし、だからこそ、われわれはそこに無限の風景をイメージしてきたのではないのか(注2)
「世界の中心で、愛をさけぶ」のあからさまにわかりやすいタイトル、あからさまにわかりやすい内容(注3)は、たとえていうならば、林の中の一本一本の松がすべて丹念に描かれた松林図のようなものではないか。わかりやすいけれど、そこには、描かれている以上のものは、何もない。(注4)

だが、そんな徹頭徹尾、あからさま尽くし、わかりやすさ尽くしの恋愛小説が売れに売れたのである。映画にもなりドラマにもなり、みんなが読んで、感動して泣いた。これはいったい、どういうことなのか。

思えば、「冬ソナ」ブームでもある。昔のドラマのような、あからさまにわかりやすい純愛ドラマが人気を呼んでいる。そう、いまどき、「純愛」なのである。中学生だってつきあっていればエッチなんてしちゃって当たり前の現代日本にあって、いつまでも清い関係の純愛なのである。
まさに絵空事。昔は肉体関係を結ぶ方が物語になったものだが、今は結ばない方が物語になるらしい。むしろ、エッチありの恋愛関係が当然であるという現実の中だからこそ、エッチなしの恋愛が現実から差別化されて、フィクションとしてドラマになっている、といってもいいだろう。

おそらく、「世界の中心で、愛をさけぶ」がこんなに読まれているのも、それと似た構図で理解されるのではあるまいか。ただし、この作品で最大のキーワードとなっているのは、「純愛」よりも「わかりやすさ」である(注5)。なにしろ、曲がりなりにも連続ドラマとして山あり谷ありのストーリー展開を備えた「冬のソナタ」に対して、「世界の中心で、愛をさけぶ」というこの短い小説は、ただもうひたすらにストレートであるからだ。(注6)

そして、「世界の中心で、愛をさけぶ」のストレートなわかりやすさに比べ、現実世界は、あまりにも複雑である。わかりにくい、いや、わからない。
この世に生起する物事に、「世界の中心で、愛をさけぶ」のようなわかりやすいタイトルがついていることは、滅多にない。「イラク戦争」「佐世保小六女児殺害事件」という表題は、それらがどうして、何のために起きたのかについて何も語るところはないし、実際のところわれわれのほとんどは、それらの事実について、理解しているわけではない。イラク戦争は何のためなのか、人は何のために生きているのかといった大きなことから、日常の、たとえば電車の中で隣に座ったお姉さんの胸はどこまでが自前でどこまでが補正された結果なのか、といったことまで、世界はあまりにも、わからない。
そんな現実世界を覆い尽くす不可解さの中にあって、人々は無意識のうちに、わかりやすさを求めているのではないか。純愛不在の時代にあって、フィクションの中に純愛を求めるように、この不可解な世の中にあって、せめてフィクションの中にでもわかりやすさを見いだしたい、そうわれわれの精神が欲しているのではないだろうか。

いわばわれわれは、不可解さという大海の中で今にも溺れそうになりながら、わかりやすさという空気を必死で求めているのである。「世界の中心で、愛をさけぶ」は、その得難い「空気」だったのだ。この作品に没頭することで、われわれの精神は、世界の不可解さがもたらす絶え間ないストレスから、たとえ一瞬であっても解放されるのである。これを「癒し」といわずして何といおう。その意味で、この作品はすぐれて現代日本にふさわしい小説なのであり、読まれるべくして読まれているというべきなのではあるまいか。

「世界の中心で、愛をさけぶ」を読んで、多くの人、それこそ何万、何十万という人が涙を流した。読んだ本人は、純粋な愛の物語に感動して涙が出たのだと思っているかもしれないが、しかし、そうではないのだ。彼らの流したその涙は、この不可解な世の中で、あからさまなわかりやすさにめぐりあえたということに対する感動の涙、わかりやすさという名の「癒し」がもたらした、意識よりもはるかに深い身体の奥底から湧き出た涙であるに違いないのだ。(注7)




(注1)注記するまでもないでしょうが、徒然草です。第137段。桜は満開ばかりを、月は冴え渡っているばかりがいいってもんじゃないよ、ということです。
(注2)何かについて悪口を書くときは、単に悪罵雑言を並べ立ててばかりだと、頭悪そうに見えます。それを補うために、このように教養のあるところを示すなどのテクニックを駆使しましょう。
(注3)一行読んだだけですが、こうしてさりげなく「内容」という言葉を入れることにより、なんとなく全部を読んだようなことをほのめかすのがミソです。
(注4)ここまでが「悪口」の部分です。このままでは悪口の垂れ流しになってしまって締まりがないので、この後ろに少しでも、何かほめることを付け足しましょう。ちなみに、この文章は、あくまで「世界の中心で、愛をさけぶ」について「悪口を書く」という視点で書いてみよう、というだけのものですから、「何よ、何てこと言うのよ。ひどい。あたし、これ読んで感動してわんわん泣いたんだから。もう10回くらい読み返したんだから」と、思わないようにしてください。
(注5)「冬のソナタ」と同じく「純愛」をキーワードにまとめてもいいのですが、それだとあまりにも通俗的な解釈になってしまってつまらないので、少しひねりを加えてみます。ちなみに、実際に「世界の中心で、愛をさけぶ」を読んでみると、無人島の一夜(ああ、なんというわかりやすさ!)に何があったかについて、微妙にほのめかされているので、エッチなしという文字通りの「純愛」をそのまま当てはめるわけにはいかないかもしれません。
(注6)こんなにベストセラーになった本なのですから、読んでいなくても、その内容がストレートな恋愛ものであることくらいは、知っておきましょう。
(注7)「そして、そうとでも考えなければ、このあまりにもあからさまにわかりやすい物語に対して、中高生はもとより、大の大人も流したという涙が、あまりにも安っぽいものになってしまうではないか。」などといった一文を最後に付け加えるととてもイヤミで、国語の先生がこの作品を読んで泣いていたとしたら、たいへんよくない印象を与えることになるので、やめましょう。
ちなみに、この文章は、20字×20行の400字詰め原稿用紙6枚半に相当します。あちゃー、ちょっと長すぎです。





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