本読みホームページ その7
[実践7]言葉遊びを使う






藤村の真実の歴史




『夜明け前』島崎藤村
舞台は木曾馬籠。旧家の後継ぎ息子・青山半蔵は、明治維新に新しい民の世の到来を夢見るが…。明治維新から近代日本へと向かう激動の時代の中で翻弄され、苦悩し挫折していった庶民の姿を壮大なスケールで描いた大作。
新潮文庫『夜明け前』全4巻、岩波文庫『夜明け前』全4巻
最初の一行に含まれているのはわずか数十字ですが、その数十字をもとにして、もじったり、駄洒落をつくったりして、新しい一行をつくってみてください。おそらくそれは、最初の一行とは、まったく関係のない一文になることでしょう。お互い関係のない2つの文章を無理やりつなげて作文にすると、あら不思議、なぜか話に奥行きが出てきます。うまい駄洒落を思いつけば、原稿用紙の4枚や5枚、あっという間に埋まります。




こういう個人的なことをここで書くのはどうかとも思うのだが、私には年の離れた姉がひとりいる(注1)。先日、その姉の誕生日に、父と母と四人でちょっとしたお祝いをした。まあ、ささやかなものである。近所のレストランに食事に行くだけの、恒例の家族行事だ。

ずいぶんと年の離れた姉で、実は今年で三十である。三十路(みそじ)だ。三十路さんだ。三十になって誕生日の夜に家族と一緒というのはどうしたわけか、そういえば去年は確か誕生日の当日は外泊していたではないか、と妹としてはいささか思うところがなきにしもあらず、なのであるが、まあ深く詮索するのは野暮というものか。親達も「結婚」なんて言葉を口にしなくなって久しいわけだし。国文学を専攻して大学に残っている姉に対して、すっかりあきらめているだけなのかもしれないが。

ともかく、ちょっとしたプレゼントを渡してお祝いの言葉を申し述べたところ、それに対して、陰鬱な吐息とともに姉がもらしたひと言がこうである。
「三十路はすべて闇の中である、だわ」
私がぽかんとしていると、
「バカね、藤村よ。読んだことないの?」
うちに帰って、姉から渡された黄ばんだ文庫本を見て、はじめて合点がいった。島崎藤村の『夜明け前』である。その冒頭に、こうあったのだ。
「木曽路はすべて山の中である」

なるほど、それのもじりか。まったく、インテリの言うことは、いちいち気障ったらしくて困る。だから男にも、逃げられるんだわ。姉のような女にだけは、なりたくない。と思ったものの、悔しいので思いきって、『夜明け前』全四冊を、読破してみた。
というか、息絶え絶えになって、何とか最後までたどりついたのだけなのだが…。正直言って、この作品、今の私には、大作すぎる。もてあます。読み終わって、わかったことといえば、「藤村の『夜明け前』が…」などと食事中に言い出すような女は、やっぱり男に嫌われるに違いない、ということくらいである。

何しろ、歴史なのである。明治維新なのである。なのに「山の中」なのである。江戸でも京都でも土佐でもない、木曽路なのである。主人公は、藤村の父親がモデルというが(注2)、無論、無名の人物だ。これがたとえば「土佐はすべて海の前である」などと坂本龍馬が主人公の話であれば取っつきやすいのであろうが、藤村の父親ではねえ。作家の父親として有名なのは、吉本ばななの父くらいではないか(注3)。そんな無名の父親がどうなろうが、運命の玩ぶがままに翻弄されようが、どうだっていいではないか。私のような一介の女子高生には、関係ない。別に額に特別な星を受けて生まれてきたのでも何でもない、ただの日本人の男に、興味を抱けというほうが、無理というものだ。

とはいうものの、しかし、そこが藤村の狙い目なのかもしれなくて、そういうものこそが、もしかしたら藤村にとっての「歴史」だったのかもしれない。
私が学校で勉強しているような歴史とは異なる歴史、聖徳太子がいて中臣鎌足がいて桓武天皇はナクヨウグスイス平安京で源頼朝はイイクニツクロウ鎌倉幕府、というような歴史とは対極にある歴史。教科書に名前が載る人物が力ずくで切り開いてきた歴史ではなく、誰に記憶されることもなく過去の闇へと消えていった民草が自分ではそれと意識せぬまま静かに地道に積み上げてきた歴史…。

無名の人がつくりあげてきたそんな歴史の中に、自然主義作家である藤村は、彼にとっての「本当の歴史」を見出したのかもしれない。実際、これまで歴史の中で生を享け死んでいった人たちのほとんどは後世に名を残さなかったのであるし、そんな人たちのほとんどは、土佐や薩摩、江戸や会津といった歴史の表舞台となった土地ではなく、すべてが山の中にある木曽路のような、別に注目されることのない土地で一生を過ごしたのだから。
藤村の観点からすれば、土佐や坂本龍馬には、本当の歴史は宿らないのだ。土佐でも坂本龍馬でもない、木曽路に生まれた自分の親父のような人間、山の中の無名の人にあってこそ、はじめてそこに、本当の歴史、真実の歴史のありようが、凝縮し、析出するのである。自分の父親という私的な個人をモデルとしながらも、この小説は「自分の親父の物語」ではなく、そこに体現された「日本の歴史の物語」、江戸から明治へという激動の時代とは本当のところどうであったのか、について、藤村なりの手法で語った物語なのだ。

冒頭、何気なく置かれた、
「木曽路はすべて山の中である」
の一文には、藤村のそんな深い意図が託されているようにも思える。木曽路はすべて山の中にある。だからこそ、そこに真実が宿るのだ。真実の光が輝くのだ。

となると、
「三十路はすべて闇の中である」
とつぶやいた姉にも、ひとこと言いたくなる。木曽路と同じように、三十路にこそ、もしかしたら人生の中でもっとも大切なもの、もっとも凝縮したものが、秘められているかもしれないではないか。
三十路が闇の中にあるとしても、それは、闇の中にあって輝く光芒なのである。
これをもってあらためて、三十路を迎えた姉へのお祝いの言葉としたい。お姉ちゃん、誕生日おめでとう。(注4)




(注1)「こういう個人的なことをここで書くのはどうかとも思うのだが」などといいつつ、もちろんこれは確信犯です。家族のことを書くと、いかにも「自分の身に引き付けて、読んだ本について考えている」っぽい雰囲気になります。読書感想文のテクニックのひとつとして、覚えておきましょう。ちなみに、実際に年の離れた姉なんかいなくても、かまいません。国語の教師があなたの家族構成を知っているわけがありません。話の展開に都合がいいように、てきとうに家族をつくりましょう。
(注2)このくらいのことは、常識として知っておきましょう。常識として知っているだけのことを、なるべく小出しにチラチラと言及することによって、なんとなく本を読んだ人のような印象を与えられます。ただし、知っていることをいきなり滔々と述べ立てては、「何かを引き写しただけだな」と思われて、かえってマイナスです。
(注3)知らない人がいるかもしれませんが、吉本隆明です。吉本ばななも、デビュー当時は「あの吉本隆明の娘」でしたが、いつの間にかその立場が逆転しました。
(注4)こういう、いかにもつくったようなわざとらしい気恥ずかしい結びも、なぜか読書感想文に限っては許されることになっています。ぜひとも活用しましょう。
ちなみに、この文章は、20字×20行の400字詰め原稿用紙5枚分に相当します。





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