[実践4]現代社会について述べる |
吾輩という主体 |
『吾輩は猫である』夏目漱石 中学の英語教師苦沙弥先生の家に集まる太平の文化人たち、またその身辺に起きるさまざまな小事件を猫の眼を通して痛烈かつユーモラスに描き、漱石の名を一躍世に知らしめた快作。 (岩波文庫ほか) |
上の[実践3]では、最初の一行という数十字の文字の内へ内へと話をつきつめていったわけですが、逆にこの数十字を足がかりに、外へ外へと広げていくこともできます。「現代社会」「戦争と平和」「愛」「倫理」など、思い切って大風呂敷を広げて、大文字のお題目へと強引に話を持っていくのもおすすめです。途端に感想文が、何やらもっともらしいものになることでしょう。 |
日本人には主体性がない、とよくいわれる。何事につけても、 「自分は○○である」 と、はっきり表明することがない。 「ボク的には、○○っていうかあ」 「えーっ、あたし、もしかして、○○かも?って感じ?」 などと、いったいあなたは○○なのか、そうではなくて××なのか、はっきりしないこと甚だしい。 『吾輩は猫である』を読んで(注1)、私はそんな現代社会のありようを思わずにはいられなかった。なにしろ、この小説、冒頭の一文からして、いや、それ以前にタイトルからして、 「吾輩は猫である」 なのだ。 「ボクって、どっちかっていうと、猫っていうかあ」 「あたしってえ、なんかあ、猫かも?」 などという、あいまい極まる言い方ではない。 ズバリ、 「吾輩」 は、 「猫である」 なのだ。断言、断定、決めつけなのだ。カラリサッパリ、まことに潔いではないか。 ここに私は、漱石の深い意図、鋭い洞察を見るのであるが、いかがだろうか。 明治という近代。欧米列強へ追いつけ追い越せと、国民が一丸となって燃えていた時代。 だが彼我のあいだには、富国強兵、殖産興業だけでは埋めることのできない大きな溝があった。英語やフランス語を見ればわかるとおり、彼ら列強の礎は、 「I」 であったのだ。近代市民社会を支えていたのは、主体としての個人、確固とした私、すなわち「I」に他ならなかった。 英文学を学び、英国留学を経験した漱石には、それが痛いほどよくわかっていたはずだ。列強と並び立つためには、我が国においても「I」、すなわち「吾輩」の確立が必要なのではないか、そんな差し迫った思いが、 「吾輩は猫である」 という言葉となって表れ出たのではないか、私にはそう思えてならないのだ。 だが、ここにはひとつの留保が存在する。この冒頭の一文に続く次の文章が、 「名前はまだ無い」 なのである。そうなのだ。これがたとえば、 「吾輩は猫である。名前はトラである」 というのであれば、これはもう、紛うかたなき立派な主体独立宣言といえるのだが、残念ながら、まだ名前がない。これは何ゆえなのだろう。 思うに、ここにこそ漱石の迷いや苦悩が、あるいは苦闘があったのではなかろうか。 欧米と肩を並べるには、「I」が必要であることはわかっている。「I」がなくてはならない。「I」が日本を救うのだ。しかしその一方で、英国でノイローゼにかかったりしてつらい思いを味わった彼としては、全面的に欧米と同化することに躊躇を、また一抹の不安を感じざるを得ない。本当にそれが唯ひとつの正しい道なのか、それを素直に信じられないでいる。そんな煮え切らない思いが、 「名前はまだ無い」 ということなのではなかろうか。 この作品が近代日本においてのそうした主体の確立をめぐるものであるとすると、漱石は最後まで満足な回答を得られなかったようだ。作品の末尾、この問題に決着をつけぬまま、猫は溺死する(注2)。 そして今、 「ぼく的には、○○みたいなあ」 という現代社会の中で、われわれはまだ漱石が遺した問題に対して、確固とした答えを提示できないでいるのではないか。その意味で、漱石の苦悩はまた、われわれの苦悩でもある。 われわれは未だ、漱石を超えられないでいるのだ。(注3) |
(注1)もちろん読んでいません。最初の一行だけです。ちなみに今回は私も未読です。『猫』くらい、やっぱり読まないとねえ。 (注2)読んでいなくてもこれくらいのことは常識として知っていましょう。 (注3)自分ではよくわかっていなくても、このように、ちょっと意味が不明確でかっこよさそうな言葉で締めくくると、それなりに結論が出たような印象を与えることができます。 ちなみに、この文章は、20字×20行の400字詰め原稿用紙4枚分に相当します。 |