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ユビキタス社会への道程
2001/05/12










いつの間にか、
「ユビキタス社会」
が合言葉になっている。
1年くらい前に仕事の関係で「ubiquitous」などという小難しい単語が出てきたときには、
「わっ、なんじゃこりゃ」
と慌てて辞書を繰り、
「遍在する、いたるところにある」
などと書いてあるのを見て、どう日本語にしたらいいのか困ったものであるが、そうやって困っているうちに、なんだか知らぬがふと気がつくと、
「ユビキタス」
というカタカナ語が定着してしまっているのだった。

まあ定着といっても、そこはそれ、ネットワークやらITやらの方面の用語なのであって、
「えっ、何それ? 食べられるもの?」
などという人も多かろうから一応説明しておくと、ユビキタス社会とは、
「身の回りのいたるところにコンピュータが埋め込まれており、それらを意識することなく、すべての人が情報を享受できる社会」
「多様な端末を使って、いつでもどこでもストレスなく気軽にネットワークにアクセスできる環境」
というようなものだと思ってもらえばいい。

しかしなあ、納得いかぬではないか。
ラテン語起源の「ubiquitous」を「ユビキタス」と言ってしまうのは、カタカナ表記としておかしいのではないか。
正確には、
「ユビクィタス」
とすべきではないのか。
だったら、トマス=アクィナスは、
「トマス=アキナス」
でいいのか。
中世最大の碩学が、こともあろうに、アキナスだぞ。秋茄子。嫁に食わせちゃいかんのか、
「サトコさんっ、あんた、今読んでるそれ、『神学大全』じゃないのっ」
「ご、ごめんなさい、お義母さま…」
「まったく、ちょっと目を離すと、すぐこれなんだから。油断も隙もありゃしない」
ということなのか。エッ、どうなんだ!

ということではなくて(それもあるが)、私が納得いかぬのは、ユビキタスという語自体には「コンピューティング」は含意されていないわけだから(「ユビキタス・コンピューティング」という正しい名称がちゃんとある)、「ユビキタス社会」というのは、その語本来の意味からすれば、
「遍在する社会」
という意味ではないのか、ということだ。
今でこそ、「ユビキタス」などという言葉はまだまだ耳新しくて馴染みがなくて難解で(アメリカ人も、この言葉の意味をちゃんとわかって使っているのだろうか。日本で言えば「剔抉」「瑕疵」「毀誉褒貶」(注)と同じくらいの難易度ではないのか)、ゆえに世間の人々もなんとなく、
「ITとかインターネットとか、そっちの仲間でしょ」
と思っているからいいようなものの、何年かしてこの言葉が人口に膾炙してきて、
「いやあ、今日もまったくユビキタスですなあ」
「そうですなあ」
などと、日常会話で使われるようになってくると、どうか。いかな愚かな人民とはいえ、そこに隠された欺瞞に気づくようになるのではないか。
「ユビキタス社会って、よく考えたら、単なる“遍在する社会”じゃん」
「あれ? ホントだ」
「うそー、やだー」
「騙されてた」
「ってことは、社会が遍在してるのか」
「平行宇宙か」
「泡宇宙論か」
と、もうなんだかわけのわからないことになる。

よしんば、
「〜が遍在する社会」
と、良心的に解釈するとしても、
「じゃあその“〜”っていうのは、何だ」
と物議を醸すことになるのは当然だろう。
だがそのころにはすでに、身の回りのさまざまなコンピュータが意識されることはなくなっているわけだから、誰もその“〜”がコンピュータだとは思いもしない。
「えーと、何だっけ」
「何がユビキタスなんだっけ」
「えーと、なんかわりと大事なものだったような」
「えーと」
「えーと」
ということになりはしないか。

みんながひたいを集めて話し合い、討論し、
「今さら神がユビキタス、なんていうのもアレだしなあ」
「月影がユビキタスってのも、古いし」
「何かいいユビキタスはないものか」
「ないかなあ」
「ないかなあ」
ということになり、そのうち、もうなんだかどうでもよくなって、
「オレ、どうせなら、ピチピチギャルがユビキタスだといいな」
「あ、オレも」
「オレも」
「オレも」
ということになり、そうなると世界中がいたるところピチピチギャルだらけ、そこらじゅうにピチピチギャルが氾濫することになるわけで、たとえば冷蔵庫を開けるとピチピチギャル、電話をかけるとピチピチギャル、カレーを注文したらピチピチギャル、雨かと思ったらピチピチギャル、ということになる。

しかしそうなってくると、多くの女性が黙ってはいない。
「なんでピチピチギャルばかりがユビキタスなのよ。美少年もユビキタスにしてよ!」
ということになり、
「まあそれもそうだわな」
「男女平等だし」
「ジェンダーだし」
ということで、ピチピチギャルと同時に美少年も世界にくまなく遍在するようになり、窓を開ければピチピチギャルと美少年がにっこり微笑んで立っており、テレビをつけたらピチピチギャルと美少年が「こんにちは」と挨拶し、くしゃみが出るかと思ったらピチピチギャルと美少年がボヨヨ〜ンと飛び出し、写真を撮ったらピチピチギャルと美少年が一緒にわらわらと写っている、ということになる。

しかしそうなってくると、政治と人権の観点からいっても多文化主義の観点からいっても、
「マッチョなアニキもユビキタスにしてほしいっス」
という意見も尊重せざるをえないことになるのであり、朝目覚めると傍らにはピチピチギャルと美少年とマッチョなアニキ、寝るときもベッドの中にピチピチギャルと美少年とマッチョなアニキ、「生まれたのは男の子?女の子?」と思ったらピチピチギャルと美少年とマッチョなアニキ、死ぬ直前に目の前を走馬燈のように過ぎていくのはピチピチギャルと美少年とマッチョなアニキ、ということになり、このあたりでそろそろ、
「あー、もう、鬱陶しい!」
ということになり、事態はいきなり急転直下、
「ユビキタスなんて、やってらんねーよ!」
と、ユビキタスは急速に廃れていくことになる。

こうしてピチピチギャルと美少年とマッチョなアニキのユビキタス状態は一時の栄華の果てに崩壊するわけだが、よく考えてみれば、それでもコンピュータがユビキタスであることには変わりはない。
となると、ここにいたって、「ユビキタス社会」という言葉が忘れ去られたその社会において、実際にはユビキタス・コンピューティングが実現しているということになるのではないか。
「無為の為」というか何というか、とにかくそれがそこにあることを意識しないままに、その恩恵を受けているという、つまり言葉の正しい意味での完全な「ユビキタス」が達成されたことになるのであり、そうなると、経過はどうあれ結果的には哲学的に真に正しい結論に達したような気がしないでもない。

ということで、以上の論考により、真のユビキタス社会へ向けた波瀾万丈なる道程が論理的に明らかにされたわけであるが、私としてはその前段階の「ピチピチギャルユビキタス状態」あたりで社会が停滞してくれても別にかまわない気がする。



(注)念のために言っておきますと、順に「てっけつ」「かし」「きよほうへん」です。
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