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立てば芍薬でいいのか
2001/04/16










《立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹、歩く姿は百合の花》
ということになっている。
すでに江戸時代、天明年間に編まれた『譬喩尽(ひゆづくし)』に記載があるというから、美人の形容の定番として、もう二百年以上の伝統を誇っている計算になる。
しかしながら伝統とは、長ければ長いほど内部に矛盾を抱え込むものだ。21世紀を迎えた現在、この表現の形骸化は、看過できぬまでに進捗しているのではないか。

たとえば、芍薬。
かつて牡丹と並び花界の花形をうたわれた彼女の立ち姿には、誰もが目を奪われたものだ。だが今や、その知名度は新参のコスモスにも及ばない。
世間を見回しても、
「芍薬? 誰それ?」
などという声が聞こえてくるばかりではないか。
「あたしだって、若い頃は、スゴかったんだから‥‥」
などと過去の栄光を誇示したところで、結局のところ、この世界でものを言うのは現在の実力なのだ。

芍薬の凋落は、牡丹にも深刻な影響を与えざるをえない。
芍薬ほどには落ちぶれていないとはいえ、しかし葉の上にぽってり座るように咲く牡丹は、あくまで長い花茎を伸ばす芍薬との対比を前提として、その《座れば牡丹》の地位を確保してきたのである。芍薬が低迷している今、高さ百数十センチにもなる牡丹が《座る》ではおかしいではないか、
「座高が高いのか」
と、あらぬ誤解を招くにいたっているという。

こうしたことから、花々のあいだでは、現状の《立てば芍薬》体制に対する不満の声が高まっているという。また、それと相俟って、何ゆえ芍薬と牡丹と百合なのか、これら三者がいかなるいきさつを経て選出されたのか、といった従来明らかにされてこなかった件に関する情報公開を求める動きも活発化していると聞く。
とくにその選出過程に疑惑をもたれているのが百合である。《歩く姿は○○○○○》と、リズム上、2文字の百合には本来ならその資格すら与えられなかったはずだからだ。
「〈の花〉を付け足すなんて、ズルイわ。反則よ」
と、ひそかにこのポストを狙っていたホウセンカやヒガンバナなどは裁判に訴えるのも辞さない構えである。

ただ実際は、百合は《歩く姿》なんかになりたいわけではなかった。
「あたしって《片想いのセンパイを物陰からそっと見つめる女子高生姿》って感じよね」
と思っていたのだ。だから《立つ》《座る》《歩く》の三役選出会議の場では、
「えーっ、あたし、そんなの、わかんなーい」
と、なよなよ逃げ回っていたのだが、その逃げ回る姿が《歩く姿》にふさわしい、と皮肉にも評価されてしまった、というのが真相なのである。いわば、保健係を望んでいたら学級委員長に指名されてしまったようなものだ。社会的には恵まれているように見えながらも、彼女の内面は幸せには程遠かったといえよう。

これらを見るにつけても、やはり《立てば芍薬…》の表現は、そろそろ見直しの時機にあるのだろう。過去の陋習を後生大事に祭り上げるばかりが伝統ではない。未来へ向けて新たな伝統を創出してもいいのではないか。

となると、今まで不遇をかこっていた花々が、
「新しい時代のヒロインはあたしよ!」
とばかりに続々と名乗りをあげることになろう。が、それはそれでたいへんだ。
たとえば《座る》のポストには梔子(くちなし)とパンジーが、
「やっぱり、触れなば落ちん、この濃厚なお色気で、この梔子さまに決まりよね、ウフン」
「やだ、この色年増が、何言ってんの? だいたい、あんた、体臭強すぎるのよね」
「まっ、パンジーこそ、ひとりじゃ何もできないくせに」
「きーっ、何よっ、このアバズレ!」
と掴み合いの喧嘩になってしまうのではないか。
そうして梔子とパンジーが共倒れになるだけならまだしも、これが引き金となって、それぞれの花々が自己主張を繰り返し、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、熾烈な抗争、暗殺が横行し、群雄割拠の戦国時代に突入してしまったらたいへんだ。200年のあいだ保たれてきた花界の平穏が、一夜にして瓦解しかねないのだ。

そこでわれわれとしては穏当な解決策として、ポストの拡充を検討したい。《立つ》《座る》《歩く》以外にさまざまな役職を新設するのである。そのほうが、価値観の多様化という現代のニーズにも対応でき、一石二鳥ではないか。
パンジーとの血で血を洗う抗争に明け暮れていた梔子も、新たに設けられた《寝乱れ姿》に選ばれれば、
「まあ、素敵。あたし、思いっきり、寝乱れちゃうから!」
と大満足、ぽってりとした肉厚の花びらをはらりと舞わせては、ますますそのしどけない姿態に磨きをかけることになるだろう。
同様にして、《湯上がり姿》には桔梗、《ほろ酔い姿》にはシクラメンあたりが適任であろう。《片想いのセンパイを物陰からそっと見つめる女子高生姿》を希望していた百合には、望みどおりのポストを与えてやればよい。

ほかにも、サクラソウは《ロリロリ小学生のブルマ姿》、スズランは《初々しい新任看護婦さん姿》、トサカケイトウは《昼間はつんとすましているけど夜は思いきり乱れてしまう女教師姿》など、適材適所、すべての花がそれぞれふさわしいポストに就任し、万事がまるく収まるように思える。

しかしながら、物事は細部にこだわればこだわるほど本来の意図を見失うものである。
そういえばわれわれが追求していたのは、《立てば芍薬…》に代わる新たな美人の形容表現なのであった。ここでふとわれにかえって、セーラー服もブルマも看護婦さん姿も女教師姿もことごとく花のように似合ってしまう美人って、いったい…!?と思うと、…私などは興奮して夜も眠れない。



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